実に結構なことだが掃除をして欲しいという思いは変わらない。これから先が心配だった。溜息を吐き、僕は包装紙をたたんだ。再び彼女をながめ、僕は思わず首を横に振った。


「いいですか、繭さん。僕がいなくなった後も、どうか、ちゃんとしてくださいね?」

「やれやれ、掃除をする人間がいなくなるのは不便だね。家政婦でも募集しようかな」

「ここに、居着いてくれる家政婦がいるとは、僕には到底、思えないんですけれどね」

「確かに、そこは不安だね。まぁ、運を天に任せるしかないさ」

「果たして何とかなりますかね」

「なるようにしか、ならないよ」


 繭墨はのんなものだ。今後を思って、僕は再び溜息を吐いた。

 そう、僕は繭墨霊能探偵事務所を、今日、ついにめるのだ。


 僕は自分の腹をでた。そこには、もう何もいない。ただいびつきずあとだけが残っていた。

 もう、はここにはいなかった。二度と腹が開くことはない。繭墨に腹をふさいでもらう必要はもうないのだ。つまり、今の僕には、繭墨あざかのそばにいる理由はなかった。

 かつて、繭墨あさとは僕が彼女にぞんしていると言った。確かにそうだったのだろう。僕は彼女にすがっていた。だれかに頼るのはもうめにしなければならない。それに僕は彼女を連れ戻したが、そのあくしゆを認めてはいなかった。そして繭墨あざかは変わらない。


 僕は彼女のことを理解しない。彼女は僕の言葉を聞かない。

 彼女はそれでいいと言う。僕は、それは止めてくれと思う。


 僕達は、いつまでっても平行線で、決してまじわることはない。

 それでも、僕達は常に、少し離れたところに並んで立っていた。


 けれども、それもおしまいだった。僕は一人で歩き出さなくてはならない。

 腹を塞ぐ必要のなくなった今、僕には、彼女の部下でいる理由はなかった。


 小田桐勤は、繭墨あざかのもとを出て行く。それが、僕のくだした決断だった。

 ずっと、彼女の傍にいて、彼女の下を離れたがっていた、僕の選んだ道だ。


 ピリリリ、ピリリリッ!

……………………っ、と」


 その時、けいたい電話が鳴った。僕はあわててポケットからそれを取り出し、通話ボタンを押した。耳に押し当てるとにぎやかなさわぎが聞こえてくる。何が起こっているのか、金属がぶつかり合う音がひびいていた。それを背景に、れた声が僕に呼びかける。


『えーっと、小田桐さん? 聞こえてます?』

「雄介か? そっちはすごい騒ぎになってるな」

『こっちにはいつ着きそうですか? 今、とうしゆテンション高いんですよ。もう幼女じゃなくなった幼女も一緒に、えらいことになってます。早く来てくれると、助かります』

「わかった、ぐに行く。もう少しだけ、待っててくれ。現場は任せた」

『らじゃーっす。うぃ、うぃ』


 プツッと通話は切れた。背後から聞こえた七海の声に、僕は微笑ほほえんだ。僕のアパートにて、しらゆきは七海と料理を作って待ってくれているらしい。僕が異界を彷徨さまよっている間に、僕と白雪は同い年になってしまった。以前、頼まれていたのに七海の卒業式に出られなかったことも残念だった。だが、こうしてまた一緒に過ごせるだけでも十分だろう。


 今思い返せば、戻ってきた後の騒ぎは恐ろしいものだった。それこそ、今でも赤くなったり、青くなったりするほどだ。その騒ぎの間に、あさとはか旅に出た。黒猫を連れ、彼は出て行ったきりだ。だが、いつか戻ってくるだろうとは思う。何せ繭墨あさとは僕のアパートのかぎを持ったままなのだ。彼はある日突然部屋に帰ってくる気がした。その頃には、彼にも楽しいとは何なのか、自分が一体何をしたのかが、わかっているのだろうか。一生わからないのかもしれない。だが、それでもきっと何かが変わるだろう。


 春は、あらゆることが変わっていく季節だ。

 僕の周りでは色々なことが動き続けていた。


 白雪はから、たびたび遊びに来てくれていた。だが、僕達のぜんは、まだけわしい。

 しばらくしたら、僕は彼女と共に、水無瀬家にあいさつに行かなくてはならなかった。みやびこぶしを鳴らし、ゆきひとも修行を積んで待っているという。何故ラスボス化するのか、意味がわからない。たして僕は二人を説得できるのか。考えれば考えるほど、僕達の前途はなんだ。それでもここにはないと思っていた未来がある。僕は頷き、辺りを見回した。


 突然、あざやかな色が視界に入った。僕は思わず目を細める。

 部屋のすみに置かれたあかからかさは、単なる飾りと化していた。


 繭墨が唐傘を回しても、もう異界に行くことはできない。紅い女が全てをきよぜつした影響か、繭墨は異界がらみの異能を失った。雨香を得た紅い女は、全ての来訪者に対し、固く門を閉ざしたらしい。もうひびくぐることもできなかった。もう一度、あの場所に行くには、彼女が異界を閉じる前にこちらへ来た、異界へのしんとなるものが必要だという。


 異界が閉じた今、それでも現世に残っているものを見つけるのは不可能に近かった。

 それでも、僕は納得することができなかった。拳を強くにぎめ、僕は低くつぶやいた。


「繭さん、僕は絶対に、あきらめませんからね」

うつとうしいね……………しつこいな、君も」


 雨香が今幸せなのか。本当に悔いはないのか。せめて、もう一度だけ会って、僕は確かめなければならなかった。僕はこれからも、あの場所に行く方法をさくするつもりだ。

 固く拳を握った僕の姿を見て、繭墨は肩をすくめた。だが、彼女はおだやかに口を開いた。


「まぁいいさ。君は救ってはならない者を救い、抱き締めてはならない者を抱き締めた。それはあまりにも、おろかな行為だ。君は本来、死ねればマシなほどの最悪な運命を辿たどるはずだった。だが、間違え続けた果てに、変わったものがあり、変えられたものもある」


 良くも悪くも、小田桐勤は決して諦めない。君はそういうがたい人間だ。


「どうせ、君は人が何を言おうが、折れはしないんだろう? 好きにけばいいさ」

 そうすれば、いつかまた、強固にしばられた運命ですらも、変えられるかもしれない。


…………………………えぇ、そうですね。僕は好きに、足掻きますよ」

「そこに、人を巻き込まないで欲しいものだけれどね。勝手にしたまえ」


 その言葉に、僕は頷いた。繭墨は再び肩を竦める。彼女は横になり、退屈そうにチョコレートの箱を開けた。だが、彼女も寝てばかりはいられないだろう。繭墨はさだしたと共に本家の後片付けをしている最中だ。何のかんのと相談にくる彼にへきえきしながらも彼女は相手をせざるをえなかった。悪趣味にひたる間もない様子はいい気味だとしか言えない。

 僕の視線に不快なものを感じたのだろう。繭墨はまゆを寄せ、チョコレートを齧った。


 ─────────────パキンッ

 なつかしい音と共に、甘い匂いが漂う。



 そして、その音を合図に、僕は歩き出した。



 僕は廊下に出る。今まで何度も通った薄暗い廊下を、僕は逆に辿った。歩いていると、まるで自分が夢の中にいるようなさつかくおちいる。空調の効いた室内は、やはり現実みに欠けていた。ほぼ毎日通ったというのに、僕は最後まで、未知の場所を訪れている気分をぬぐえなかった。繭墨の部屋が後ろに離れていく。そのことを、僕は痛いほどに意識した。


 玄関に辿り着き、僕はくついた。とびらの前で、一度足を止める。胸が派手に高鳴った。

 来ようと思えば僕はいつでもここに来ることができるだろう。それを知っていながら、僕は思わず後ろを振り向いた。照明が目を焼く。僕は遠くにいる姿を見て、目を細めた。


 繭墨あざかは、退屈そうに、革張りのソファーに横たわっている。

 彼女の姿は、いつまでもどこまでも、まるで悪魔のように美しい。


 僕はきっとまた彼女に会うだろう。だが、自分から望んでここを訪れることは二度とない。何故か、そんなこんきよのない予感に襲われた。それでも僕はドアノブを握り締める。

 ぐっと、てのひらに力を込めた。もう、振り向くことはない。そして、僕は声を張り上げた。



「では、さようなら、繭さん」

「あぁさようなら、小田桐君」



 僕は大きく扉を開く。そして、そのまま扉を潜り、廊下に出た。

 僕は外に行く。繭墨は中に残る。僕達は別々の人生を歩み出す。




 そして、小田桐勤と繭墨あざかは。

 とてもあっさりと、別れを告げた。


    * * *


 自動扉が背後で閉まる。繭墨のマンションから、僕は外に出た。

 顔をあげ、僕はんだ青空をあおいだ。そして、笑みを浮かべる。


 そこには、満開の桜が咲いていた。風にあおられた白い花弁が、雨のように顔を叩く。



 外は春だった。満開の春だ。



 桜の下に立ちながら、僕は今までのことを思い返した。あらゆることに絶望していた日々を、僕が失ってきた者を、僕が得た者を、僕が再び、出会わなくてはならない者を。


 僕を助けてくれた、あらゆる人々を。そして、これからの日々を思う。

 新たな道に進み出す今、僕は始まりの季節と同じ春の中に立っていた。



 まだ満開に近い桜が、花びらを落とし始めている。

 美しい花の下に立ちながら、僕は息を吸い込んだ。



 今までの全てを思い返しながら、僕は一人、歩き出す。

 そして記憶の中の春は、ゆるやかに今、終わりを告げた。