何故、紅い女は、永遠に嗤い合える存在を求めるのか。


『僕の求めるは、僕と同じ鬼』

『永遠の時を、紅い肉を眺めながら、飽きもせず、嗤える存在さ』


 彼女は本当に、こわすためだけの玩具おもちやを求めているのだろうか。

 異界は一人きりで生き続けるには、あまりにも寂しい場所だ。


 ─────かつて、私の産み落とした娘すら、息もせずに死んだというのに。

 ─────君は、君ならば、壊れも狂いもしないだろう。なぁ、君は。

 ─────私と、一緒に来る気はないか?


 鬼の慰撫は、鬼にしかできない。繭墨あざかは人間だ。

 そして、雨香はこの世にたった一人の純粋な鬼だった。


「あぁ、いいとも…………一緒に行こう」

 永遠に、これからは私と一緒にいよう。


 紅い女は両腕を広げた。彼女はそっと雨香を抱き寄せる。水色のドレスを着た背中を、紅い着物に包まれた腕が、ひどく柔らかなぐさで包んだ。雨香は、一瞬僕を振り向いた。

 彼女は静かに片手をげる。雨香は躊躇ためらったようだった。それでも、彼女は微笑んだ。


 そして、雨香は、そっと口を開いて、僕に告げた。

 まるで、本当に大事なことを、教えるかのように。



「ぱぱ、雨香ね、だいすきよ」

…………………雨、香ッ!」



 僕は手を伸ばした。だが、それは届かない。彼女も手を伸ばさなかった。雨香は、紅い女の胸の中に顔をうずめる。瞬間、全てのものが、僕と繭墨から遠ざかり始めた。僕は直感的に察した。女の意志にしたがって、世界が変質を始めている。まるで抱き締めた雨香以外、必要なものはないと言うかのように、紅い女は何もかもを拒絶した。抱き合った二人の姿は、遠く、遠くに離れていく。紅い世界は溶け落ちた。それはいつせいに流れ出す。


 僕達はきりみ状に揉まれ、上下に振られ、吐き出された。

 どこに着いたのかを見る前に、僕の視界は暗闇に落ちた。


    * * *


 気がつけば、僕は暗い空間にたたずんでいた。

 深い黒色に包まれた場所には覚えがある。


 いつか羊水に濡れた雨香の手に導かれて、静香と会った空間だ。

 かつて見た夢と同じ、真っ暗な場所で、雨香は一人座っていた。


 彼女は僕の足元にいる。その小さな頭を僕は撫でた。彼女は僕を見上げる。そして満面の笑みを浮かべた。憎んだこともあった。その存在を呪ったこともあった。だが、彼女は僕を好いてくれた。親と呼んでくれた。僕は両腕を差し伸べた。だが、重くてその体は持ち上げられそうにない。二度と僕には彼女を抱き上げることはできないのだろう。

 いつの間にか彼女は育っていた。水色のドレスを着た娘に、僕は必死に呼びかける。


 これで、いいのかと。いいはずがないと。

 何でお前が犠牲になるんだ。何でだよと。


 だが、彼女は首を横に振った。当然のように彼女は微笑む。見ればその姿は徐々に薄れ始めていた。彼女はもう僕の腹の中にはいないのだ。僕と彼女の繋がりはれていく。もう夢の共有をすることもできない。少しずつ消えながら、彼女は僕に笑いかけた。


 いいの、私はぱぱをたべたくなかったから。だから、いいのよ。

 うかねうかね、ぱぱだいすきよ。ぱぱもねうかをだいすきなの。


 それで、いいの、ずっとそれでいいの。

 ぜったいにね、ぜったいわすれないよ。


 なにがあったって。どうなったって。うかは、うかで。

 ぱぱは、これでずっと、ずっと、うかの、ぱぱだから。


 彼女は手を振った。薄れゆく姿で彼女は手を振り続ける。彼女は僕に別れを告げていた。都合のいい夢の中、けれども、夢ではないかもしれない世界で、彼女は明るく言う。


 ほら、よんでるよ。


 おだぎりくん、おだぎりくんっ! きこえているのかいっ! おだぎりくんっ!


 暗闇に、白い手が見えた。らしくもなく必死に、誰かが僕の名前を呼んでいる。僕は呆然と、その手を見た。懐かしいその手を取れば、また、僕の運命は変わるのだろうか。だが、僕には決断することができなかった。僕は、ここに残るべきではないのか。消えゆく娘の後を追い、暗闇を彷徨さまようべきではないのか。そう思い、僕は後ろを振り返った。


 薄れてゆく僕の娘の顔を見る。彼女は首を横に振った。駄目だと言うように、彼女は何度も何度も首を横に振る。僕は拳を握り締めた。愛しい娘の顔を、正面から見つめる。


 彼女はこんな僕を忘れないという。ずっとずっと覚えていてくれるという。僕も彼女を忘れないだろう。けれども、このままここにいては、僕は自分に娘がいたことすら忘れてしまうのだ。暗闇は何も与えてはくれない。本当に覚えておきたいのなら行かなくてはならなかった。だから、彼女の姿を目に焼きつけながら、僕はその言葉を口にした。



 さよなら、うか

 さよなら、ぱぱ



 彼女に背を向ける。そして僕は白い手を握る。

 いつかのように、柔らかく、温かなその手を。



 もう二度と、取ることはないと思っていた、その手を。


    * * *


───────────────────ッ、ハッ!」

「あぁ、息をしたね。全く、死んだと思ったじゃないか」


 不機嫌な声を聞き、僕は目を見開いた。僕の隣には懐かしい姿が座っている。

 繭墨あざかが、僕を覗き込んでいた。彼女はひどく、不機嫌な顔をしている。


 気がつけば、僕はその手を握り締めていた。柔らかく温かな手は僕の汗で湿っている。

 まるで縋るかのように、僕は彼女の手を骨が浮き出すほど強くつかんでいた。痛みを感じているだろうに、彼女は何も言わない。僕はその顔を見つめ、恐る恐る名前を呼んだ。


…………………………………………………繭、さん?」

「そうだよ、ボクだよ。それ以外の何に見えるんだい?」


 繭墨は呆れたように言った。繭墨あざかは、異界に消えた人は、今僕の目の前にいる。

 やっとそのことを実感し、僕は顔をあげた。僕達はどこに出たのか、辺りを確認する。


 荒廃した地面の上に、僕達は横たわっていた。入ったところを考えると、恐らくここは繭墨家の敷地なのだろう。だが、気がつけば紅色は消えていた。骨もなくなっている。

 異界と現世の時間の関係は定かではない。繭墨家は、既に紅い花から解放されていた。

 僕は、空を見上げた。頭上には、晴れやかな青色が広がっている。空気からは温かな匂いがした。何もかもが柔らかく緩んでいる。この季節は知っていた。僕は心から思う。


 ────────────あぁ、春だ。

 ほがらかな季節が、ようやくやって来たのだ。


「動くんじゃないよ。今君の腹を塞ぐからね。全く、けいな手間をかけさせてくれるよ」

…………相変わらず、で、すね……繭さん………人が、死にかけてるって、いうのに」

「当然さ。それがボクというものだよ。他でもない君自身が、ボクのことを非道だととうしただろう? 全くもってその通りさ。ボクにとって君の傷など面倒事でしかないね」


 繭墨はさらりとそう言った。こんな時でも彼女の態度は変わらない。僕が異界から連れ帰ったことが、うそのように思えた。繭墨は肩を竦める。だが、彼女は、不意に真剣な顔をした。繭墨は、再び少女らしくない顔を見せる。そして、とても真摯な声で囁いた。


「礼を言おう、小田桐勤。君はどうやら、本当に」

 ─────繭墨あざかの運命を、打ち壊したよ。


 その時、ひらりと何かが目の前を横切った。僕は目を見開く。それは紅い花弁かと思ったが違った。白色の花弁が緩やかに宙を舞っている。柔らかな色と形は、桜のものだ。

 僕は思わず体を僅かに起こした。辺りを見回す。そしてそれを見つけ、目を見開いた。


 繭墨家の生き残った桜が再び咲いている。


 はらはらと空から白い花弁が舞い落ちた。

 その時、遠くから、足音が聞こえてきた。


 ──────────────────ザリッ

…………………………………………………えっ」


 僕と繭墨は、二人揃って音の方に顔を向ける。

 そして、そこには懐かしい面々が立っていた。