* * *


 空には、大輪のあかい花が、ほこっていた。

 無数の花弁が、さくら吹雪ふぶきのように舞っている。


 繭墨本家の敷地は、いまだ紅色に染まっていた。だが、その色はわずかだがうすまっている。

 この場を支配していたおんねんおのれの姿を思い出し、消えた。花の生育環境を強固なものにしていた呪いはなくなったのだ。新しい栄養源もない。やがて紅い花はれ、ここはさらに戻るだろう。そしてさだした達はもくもくと骨を拾うのだ。それでやっと全てに片が付く。


 ここ数日のことを、僕は思い返した。様々な事件や、話をした大事な人々のことを。

 最後に、僕はある少女のことを思い出した。黒いドレス姿の、ごうまんな少女のことを。


 きっと彼女の言う通りにすべきだったのだ。彼女を忘れさえすれば、僕は何事もなく日常に戻れたことだろう。彼女を見捨てれば、今も僕はおだやかな日々の中にいたはずだ。

 ななゆうすけや、何よりもしらゆきと一緒にいられただろう。だが、僕は繭墨あざかを追い求めた。彼女を迎えに行くと決め、行動してしまった。他でもない、繭墨あざか自身が、だれよりも、それをおろかだと笑うことだろう。僕もそう思う。だが、僕はに走り回り。


 そうして、戻れなくなってしまった。


「君は、こうかいしているかい、小田桐?」

…………………………………えっ?」


 僕の心を読んだかのように、あさとはそうつぶやいた。僕の目の前で彼は足を止めている。

 僕達はしんえんへ、深淵へと進んでいた。僕達は空間に発生したひびれを、あさとの案内で順調にくぐけている。歩を進める度、周囲の紅色はくなった。空から降り落ちていた花弁も、いつの間にかんでいる。代わりのように周りはにくへきまりつつあった。

 花弁の降るはざの土地から、僕達はにくかいに囲まれた異界へと下り続けている。新たな罅を通る度、僕達は現界からじよじよに遠ざかった。振り向かずに、あさとは言葉を続ける。


「後悔は、しているのかい? 自分の選択を、明らかに間違えたことにさ」


 あさとはそう僕に問いかけた。言葉と違い、その声にするひびきはない。僕はぼうぜんと、今までのことを考えた。繭墨を連れ戻すと決めなければ、僕は生きていけただろう。ぬぐがたい後悔をかかえたまま、腹が開くたび死にかけながらもさいな幸福を拾っていけたに違いない。それこそ僕は白雪と暮らせたかもしれなかった。それなのに僕は掛け替えのない日常を捨てこんな場所に立っていた。だが、そんな自分を心から残念だとは思うが。


「後悔は、していないな。繭墨あざかは、僕の運命だった」


 いとしい人と別れても、日常を捨てても、遠い場所に来ても、それでも。

 あの時、絶望のふちで救ってくれた手を、救う価値があると思ったのだ。


 彼女が僕の運命を変えてくれたように。

「後悔だけは、絶対に、したりしないさ」


 僕はそう断言した。あさとは首を横に振った。同時に、腹が激しくうごめいた。だが、痛みはない。もう痛みを感じる神経が、腹の肉には残されていなかった。繭が破れるような音が響く。僕はその割れ目をでた。得体の知れない汁と血液が生温かく手をらす。


「あぁ、だが………白雪さんと、この子には、悪いことをしたな」

 ───────────────────────ぱぁ、ぱぁ?


 次の瞬間、僕の腹からこぼちた。僕の腹にはぽっかりと穴が開く。だが、もう異界に入っているため、死ぬことはない。彼女は床の上で、まわりながら大きくなった。ようすいに濡れた顔が僕を見る。彼女は娘の姿に戻っていた。だが、そのりんかくは定期的にぶれ続ける。二重写しの姿で、彼女は僕を見上げた。そのあごから大量のよだれあふれる。


 ─────────ぱぁぱ、ぱっ、ばっ

「あとちょっとだ。雨香、まんしてくれ」


 それと、な。お前にプレゼントがあるんだ。


 僕はかばんを開いた。今までずっと運んできた中身を取り出す。僕を見下ろすあさとのまなしは冷たい。この行動は、彼から見ればまさしく茶番だろう。それを知りながら、僕は中身を広げた。レースが愛らしい、水色のドレスが揺れる。柔らかな色合いの布地は、繭墨の私服の中でも飛びぬけて異色な品だ。きっと店員をあしらうのが面倒になり、買った物だろう。そして、そのまま私室に仕舞いこんだのだ。僕は雨香に、それを着せた。

 エプロンドレスのリボンを結び、れいちようちよう型にする。雨香は不思議そうに僕を見た。


 これでよかった。僕はいつも彼女がはだかなのが気になっていたのだ。

 僕のエゴで構わない。彼女に娘らしいかつこうをさせてあげたかった。


 雨香はどう反応していいのかわからないという顔をしている。僕は手を伸ばし、安心させるようにほおに触れた。乱れた黒髪をていねいに整える。それからゆっくりと頭を撫でた。


「よく似合ってる。雨香、わいいよ」

「かわいい? 本当、ぱぱ? 雨香かわいい? かわいいの? かわいいってなに?」

「うーん、かわいいは、ますます好きになるってことかな?」

「ぱぱ? ぱぱ、雨香好き?」

「あぁ、好きだよ」

「ぱぱっ、雨香もぱぱすきっ!」


 異界にいる影響だろうか。雨香は今までになく、めいりような口調でしやべった。満面の笑みを浮かべ、彼女は僕の腕にぶら下がる。骨がごぎりと鳴り、激痛が走った。だが、今更だ。あさとは首を横に振り、歩き出した。僕も雨香と腕を組み、その後を追う。だが、僕にすがる彼女の腕は変化を始めた。伸びたつめが肉に食い込む。筋肉量が増加し、広がったてのひらが僕のひじを包み込んだ。雨香は甘えるように、僕に顔をこすりつける。だが、その口からは、なく涎が溢れていた。粘つくそれは服にみ、僕の腕を濡らしていく。


「ねぇ、小田桐」

「ん、なんだ?」

「知っているよね? 俺が彼女の手を握った時、彼女がひとがたに戻ったのは、彼女がそう望んだからさ。その子は、人間の姿でいることを望んだ。鬼にはちず、父親を食わず、共にありたいと願った。だが、俺の異能は紅い女の力をりしたものだ。紅い女と同等の存在をおさえることはできない………ねぇ、小田桐。君は気づいているんだろう?」

「何をだ?」


 そこであさとは言葉を切った。問いの内容とその答えを、たがいに知りながら僕達は無言で歩き続ける。雨香は楽しそうに、僕と腕を組んでいた。だが、その涎は止まらない。爪が僕の肌を深くいた。突然あさとは足を止めた。僕はその背中から前方をのぞむ。


 目の前には、らくが口を開けていた。


 紅い大地に巨大な切れ目が走っている。そのさまは地球の内臓に深く切れ込みを入れたかのようだ。同時に僕は直感的にさとった。異界は飲み込んだものに反応して形を変える。


 これは、今まで僕には見えなかった罅が、具現化したものだろう。

 僕が堕ちたがっている奈落まで、この罅は深く届いているはずだ。


 ここは、深淵への入り口だった。開きっ放しになった、地獄への門だ。

 あさとは、僕を振り向く。そしてきつねだった人間は、たんたんと口を開いた。



「君、自分が死ぬことを知っているんだろう?」



 そう、あまりにも間違え続けた、この僕には。

 今はもう、その結末しか残されていなかった。


    * * *


 いつの間にか、雨香は、僕の腕にみついていた。右腕からは、血が流れ続けている。

 彼女に抱きつかれたのが右腕でよかった。左腕はあやの忘れ形見だ。できれば、最後まで失いたくない。雨香はこうこつとした顔で、血をめている。彼女の理性は食欲に飲まれかけていた。そして、その対象である僕には、どういても今更のがれるすべはなかった。


「君の腹に、鬼を戻すことはもうできない。肉のおりに戻れなくなった鬼は、ぐにでも母体を食い尽くすだろう。現世に戻ったところで、君の死は確定している。確かに、異界に来るしか選択肢はなかっただろうさ。その腹の子は、現世にいていい存在じゃない。もう、強力な異能者も必要ないんだ。その子と君にかなう人間など、この世にはいないよ」


 腹に鬼をはらみながら、ここまで鬼と共に生き抜いたことが異常なんだ。

 それほどに育ちきった子を、止められる者なんて、もういないだろう。


 僕は無言で頷いた。そんなことはわかっている。だからこそ僕は全てに別れを告げたのだ。残り少ない時間で、白雪と共になつかしい場所をめぐりながら、僕は考え続けていた。

 果たして、小田桐勤の人生とは何だったのか。だが、答えが出ようが出まいが、いやおうなく終わりは来る。雨香がえられるのは後少しだけだ。そして僕は食われる。死ねればまだいいだろう。成長しきった鬼の胃がどんなものかは不明だ。ただ消化されるだけならばぎようこうだった。彼女の中に、僕のたましいが生きたまま保存されないことを祈るしかない。

 あさとは強くこぶしを固めた。彼はおおまたに僕の前に歩いて来る。そのまま彼は僕の横をすり抜けた。となりに並んだところで、彼は足を止めた。前を向いたまま、あさとは口を開く。


「……君、あっさりと約束をやぶったね。あまりにも早いよ」

「あぁ、それもすまなかった。一生をかけてでも、お前には楽しい想いをさせてやるって、約束したのにな。わりじゃないが、これをやるよ……手を出してくれないか?」


 僕はスーツのポケットを探った。固いソレをつまみ、腕をかかげる。数秒後応えるようにあげられたあさとの手に、僕はそれを落とした。掌を見て、あさとはげんな顔をする。

 アパートのかぎが、彼の手の中で光った。それは七海が、僕の背中に投げてくれた物だ。


「僕の部屋をやるよ……と、言っても、借りているだけの部屋だけどな。お前なら書類は何とでもできるだろう? 中にあるこつつぼは、まいひめさんが取りに来るから、渡して欲しい。お前が死体を消したしずも、どうか一緒に、ようしてやってくれ。それで、七海さんの所に行けよ……さっきお前の首をめていた女の子だ。あの子なら何だかんだで、お前の世話を焼いてくれると思う。あの人は誰より強い人だ。そうすればいつかきっと」


 僕なんかといるよりも、楽しいって思いがわかるよ。


 あさとは掌をにぎめた。彼は深いためいきき、目を閉じる。彼はそのまま何かを考えているような顔をした。長い時間がけいする。やがて目を開き、あさとは肩をすくめた。


「嫌だね。あの少女の所に行くなんてぞっとしないよ。だが、いいさ。今更文句を言おうが無意味だ。それに、あの時君が鬼を使ったのは、馬鹿げたことに俺を助けるためだった。約束のこうなげいても仕方がない。それは、死者に金を返せと言うようなものさ」


 いいだろう。小田桐勤。どうやら、これが下らない君の物語の結末だ。

 泣いて後悔しろと言いたいが、君はそれだけは死んでもしないらしい。


「君はちやちやだったよ、小田桐勤。君は繭墨あざかを運命だと語ったが、あそこに集まった人間には、ある意味において、君こそが運命のようなものだった。俺達は、君に振り回され、望んでいないのに助けられ、ここまで引きずってこられた。君は、本当に」


 無茶苦茶だったよ、小田桐勤。


 あさとはそう繰り返した。彼は再び歩き出す。僕の前に立つと彼は振り返った。僕達は向かい合う。彼は戻れる道に立っていた。僕は罅に向かう為の道に立っている。彼は何かを言いかけた。だが、言葉にならない。あきらめたかのように彼が口を閉じた時だった。


 ───────────なぁん


 高い、声が聞こえた。気がつけば、あさとの足元には、一匹のしなやかな黒猫がいた。

 その首は、切れ目なく体とつながっている。黒猫は懐っこく、あさとに体をすり寄せた。

 あさとは不思議そうな顔をした。だが、彼は手を伸ばし、まぐれに彼女を抱き上げた。その腕の中に猫はどこか得意げに収まった。彼女はえへんと鼻を鳴らし、僕を見上げる。


 じんぐうゆうりは、上機嫌に尻尾しつぽを振っている。僕は思わず笑ってしまった。

 僕とキスまでしておいて、本当に、お前はあさとのことが好きなんだな。


 あさとは黒猫をめた。しなやかな背を彼はゆっくりと撫でる。指のふるえが止まった。そこで、猫の温かさに縋るようにして、やっと彼は言葉を吐き出すことができた。


─────────────さようなら、小田桐勤」

 君のことなんて、俺はきっと直ぐに忘れるだろうさ。


 ─────────────────────────ドンッ

 次の瞬間、あさとは僕の肩を押した。僕の体は、後ろにかしぐ。


 僕は抵抗しなかった。代わりのように片腕で雨香を抱き寄せる。僕は彼女と一緒に後ろへ倒れた。背後にはうつろな空間が広がっている。僕はそのまま深淵へと落ちていった。

 あさとは直ぐにきびすを返すかと思った。だが、彼は僕の肩を押した手を、かそのまま前に伸ばした。まるで何かを訴えるかのように、言葉もないまま、右の掌が動く。


 この手を取れと言うように。僕を引きずり上げようとするかのように。


 意味も理由もなく、彼は僕の手を取ろうとした。だが、僕は彼の手を握らなかった。

 その姿が遠ざかる。一瞬見えた彼の表情が遠くに消えた。思わず僕は小さく呟いた。


──────────────────……………………らしくない顔、しやがって」


 その手はもう見えない。かつて僕を絶望の底に突き落とし、今引き上げようとしてくれた手はどこにもなかった。僕は雨香と一緒にもう戻れないくらやみゆるやかに落ちていく。

 大粒の涙が、宙を舞った。きらきらと星のように輝きながら、それは頰を撫でていく。


─────────────────────あぁ、そうだな」

 僕は思わず呟いた。のうに、自然と一つの言葉が浮かびあがる。


 小田桐勤の話をしたいと思う。

 僕の知る、愚かな男について。


 果たして小田桐勤の人生とは何だったのか。答えが出ようが出まいが、否応なく終わりは来た。だが、運のいいことに僕はすでにその答えを見つけていた。僕が僕の言葉で語るのならば、それはとても短い話になる。それはひどく下らない、失敗だらけの物語だ。


 そう、小田桐勤の、人生は。

「本当に、無茶苦茶だったが」


 僕にはもつたいないくらい、いい人生だった。

 やがて、辺りは光を失い、暗く染まった。


 何故か、抱き寄せた雨香の姿だけは見えた。彼女はせわしなく辺りを見回している。水色のドレスがなびき、黒髪が宙を舞った。ゆっくりと落ちる姿はうさぎの穴に飛び込んだアリスのようだ。そのたとえもあながち間違ってはいないのだろう。僕達は現世と異なる場所へ行こうとしていた。その体に僕は両腕を回した。自分の娘を強く抱き締め、僕はささやく。


「雨香、聞いて欲しいことがあるんだ?」

 ──────────────うっ?


 瞬間僕は地面にたたきつけられた。衝撃が伝わる。全身がしびれた。周囲は急速にれいたんな空気を帯びていく。とうとつな変化だった。気づかれたのかと僕は目を見開いた。紅い女の妨害が入れば辿たどくことはできないだろう。それでも前に進むしかない。僕は雨香と共に歩を進めた。深淵の道は子宮の内壁の色をしている。歩きながら僕は話を再開した。


「……もう少しだけ、耐えてくれ。でも、父さんがいいと言ったら、お前は僕を食べてもいい……でもな、お願いがあるんだ。どうか、聞いてくれ。それから先、お前はいつ終わるかもわからない一生を、ずっと一人ぼっちで、生きていかないといけないから」


 雨香の返事はなかった。理解してくれたかどうかもわからない。まだかろうじて美しい姿をした僕の娘は、僕の血に濡れながら首を傾げていた。彼女と二人、僕は歩き続ける。どうやら落ちた時、足首を痛めたらしい。痛む足を引きずって、僕はねばつく道を進んだ。


「お前は、ここで生きることになる。でも、いつか外に出られる日が来るかもしれない。でも人を食べちゃ駄目だ。誰かを傷つけても駄目だ。お前は優しい子だから、どうか優しいままで生きてくれ。あぁ、でもそれはあまりに寂しいから、いっそお前が食べた後、僕がお前のそばにいられた方が、いいのかもしれないな。それが、人間にはつらいことでも」


 お前がそっちの方が、幸せでいられるって言うのなら。


 僕はぼそりと呟いた。完全な鬼に変わった彼女の胃が人と同じとは思えない。果たして鬼に食われた肉が、どうなるかは不明だ。そのまま消化されるのか。魂は残ってしまうのか。だが、それが雨香にとっていいことなら、耐えるしかないのかもしれなかった。

 僕は雨香の方を見る。彼女は今までになく穏やかに息をしていた。肌色もいい。雨香にとっては異界の方が、居心地がいい場所らしかった。だが、いずれは辛くなるだろう。


 この場所は、一人で生きるには、あまりに寂しすぎる。


 雨香は何も言わなかった。僕は彼女を連れて歩き続ける。その足の爪が、かすめた僕のももを裂いた。腕は既に長い爪にかんつうされている。歩く度僕は傷ついた。雨香はまだ正気をたもっているのだろうか、わからない。それでも僕は言葉を残さなくてはならなかった。


 僕は彼女に言い聞かせなくてはならなかった。

 それが、子供を置いて行く、親の義務だろう。


「お前は、僕と静香の子だ。お前は鬼だが、人の子だ。どうか、それを忘れないでくれ。どうか、誰かにうとまれることなく、化け物にならずに、生きてくれ。お前を愛した人間がいたことを、どうか忘れないでくれ。寂しいと思った時も、どうかくじけることなく、生きてくれ。忘れないでくれ。思い出してくれ、僕は、僕は君を怖かったが……………


 僕は腕を伸ばした。彼女の顔を見ないまま、細い体を抱き寄せる。触れた足のすねを、爪が裂いた。ドレス越しの雨香の肩は、固い。それは既に、人の肉の感触ではなかった。


 きっと、僕の体を食べた時、彼女は完全に、人の体を失うのだろう。


「愛していたのも本当だ。君は、僕の子だ。そのことを、どうか忘れないでくれ」

 ───────────────────────────────ぱぁ、ぱ


 僕はそう言った。雨香は泣いている。その目からは大粒の涙が落ちていた。食い込んだ爪が僕の腕の一部をなかばまでにぎつぶす。血を流しながら、僕は目の前を呆然とながめた。

 紅い道は永遠と続いている。雨香はそろそろ耐えられなくなるだろう。ふと、弱音が頭をよぎった。このまま辿り着けないかもしれない。繭墨の運命に、僕は何もできないのかもしれなかった。それでも、僕達は歩を進めた。雨香の爪が深く足を裂く。前のめりに僕は地面へ転んだ。掌に力を込めるが、く立ち上がれそうにない。その時だった。


『なにやってんの、小田桐。アンタなら立てるってば。何で泣いてんのよ、キモッ!』


 声が、聞こえた気がした。僕は思わず目を見開く。辺りを見回すが、周りには誰もいなかった。だが、幻聴だとは思えない。確かに、僕には懐かしい声が聞こえたのだ。異界は人の感情や欲求に合わせて姿を変える。それは以前の逃避場所と同様に、異界が僕の願望を反映し、その声を再現しただけかもしれなかった。それでも、僕は立ち上がる。


 僕は強く左腕を抱いた。そして、いつかのように呟く。

……………………………いや、キモイは、ないだろう」


 僕は再び歩き出した。ぶつけられた言葉に、悲しみは拭い去られていた。腹の底から怒りがいてくる。まだ食べられるわけにはいかなかった。全てを諦めるには早すぎる。

 僕は大事なことを果たしていなかった。繭墨あざかの運命を、僕はまだ変えていない。


「聞こえているか、紅い女ッ!」


 唐突に、僕は叫んだ。無視しようと思えば、容易たやすいだろう。彼女にはその権利がある。

 僕は異界の王に会いに来た、いつかいの来訪者に過ぎない。無視しようと思えば、彼女にはできるはずだ。それでも僕は言葉を続けた。異界には他の人間はいない。彼女は繭墨と似た性質だ。繭墨あざかを手に入れたとはいえ、紅い女も常に、娯楽にはえている。


「聞け、僕はここに来たッ! もう一度、繭さんに会いに来たんだッ!」


 その点に期待するしかなかった。それに小田桐勤は、長く繭墨あざかのもとにいた男だ。

 何だかんだで、彼女はざまに足掻く僕の隣でいつも薄笑いを浮かべていた。その無茶苦茶な行動を彼女は退屈な時の暇潰しにしていた節がある。紅い女の興味もけることを、期待するしかなかった。ふと僕は疑問に思った。常に、繭墨は僕を馬鹿にしていた。だが、繭墨あざかは、自分から僕を捨てはしなかった。僕達はどんな時も、並んでいた。


 繭墨あざかは、僕を嫌うことはなかったのだろうか。


 一瞬意識がれかけた。だが、僕は再び息を吸い込んだ。紅い女は散々僕をいたぶった。それでも僕はりることなく再訪した。このこうは変わらぬ異界には思わぬ刺激だろう。僕はここに来た。紅い女には断る権利がある。だが、僕にも求める権利はあった。


 固めた拳で、閉ざされたとびらなぐるように、僕は叫ぶ。


「姿を見せろ、をくれとは言わないッ! 僕はここに来たんだ、お前が異界で過ごした百年を千年を無限を、僕程度にどうにかできるはずがないと思うなら現れろッ!」


 声が空間を揺らした。こんなどうでもいいちようはつははっきり言って無意味だ。だが、僕は知っていた。あさとといい、紅い女といい、彼らは芝居じみた演出を好むのだ。これは役者を呼ぶ為の口上だった。僕は短い舞台の開演を叫ぶ。これに紅い女は乗るだろう。

 舞台を用意すれば、彼らは踊らずにはいられない。僕は祈るように、そう信じるだけだ。小田桐勤は諦めない。それだけがゆいいつだ。だから、僕は必死に叫び続ける。


「姿を見せろ、繭墨あざかを連れて来いッ!」

 ─────────僕は、ここにいるッ!


 瞬間、紅い膜が裂けた。目の前に続いていた長い道が、くしゃくしゃにたたまれ、すとんっとその場に落ちる。道が消えた空間には、肉壁が広がっていた。それが左右に開く


 そして、音を立てて、紅いカーテンが開くかのように、最後の舞台が幕を開けた。


 勝てるかどうかはわからない。それでも、僕は精一杯踊るしかなかった。

 それが、この小田桐勤に、誰よりも愚かな男に、唯一できることだった。



 そして、その観客であり、ただ一人の共演者は最期の最後まで。

 繭墨あざか、今は紅い女のひざにいる、その人に他ならなかった。


    * * *


「「君は本当に諦めが悪いね、小田桐君?」」


 先に耳を打った言葉は、どちらのものだったのだろうか。

 紅い女と繭墨あざかは、ほぼ同時に、その言葉を吐いた。


 紅い女は悪性のしゆようじみたいびつに腰かけていた。彼女を中心に、周囲にはの巣のように微細な血管が広がっている。その様子は、まさしく玉座に座る女帝のようだ。

 お気に入りの人形のように、彼女はその膝上に繭墨あざかをはべらせていた。繭墨あざかは両足をそろえ、上品に座っている。その姿を見て、僕はとりあえず胸を撫で下ろした。


 繭墨は、紅いからかさを差し、黒いゴシックロリータをまとい、チョコレートをかじっている。

 何も変わらない。いつも通りだ。僕は口を開いた。だが、名前を呼びかけ、息を飲む。


 彼女は変わっていないようで、一部が変わり果てていた。


「繭、さっ」

「おや、どうしたんだい、小田桐君? まめでつぽうを食らったはとのような顔をして?」


 他の繭墨あざかのまつは知っているだろう? これくらい、別に驚くことじゃないよ。


 繭墨はそう言い、肩を竦めた。その右手には、骨しかない。黒いドレスの中から、すらりとした骨が伸びていた。彼女は平然と、骨の指でチョコレートの包みを握っている。


 その光景は、特別いんさんではなかった。だが、僕は吐き気を覚えた。他でもない繭墨あざかの肉体がそこなわれていると言う事実が、恐ろしくて仕方がない。紅い女は僕の視線を追い、あぁとうなずいた。彼女は指を鳴らす。桜の花弁が宙を舞った。それは繭墨の手に纏わりつく。花弁が消えた後、繭墨の指には肉が戻っていた。手首を回し、彼女は笑う。


「おや、珍しい慈悲じゃないか。まぁ、確かにこっちの方が食べやすいね」

 ─────────────────────────────パキンッ


 すずやかに言い、彼女はチョコレートを齧った。懐かしい、甘い匂いが漂う。だが、僕は不意に生理的な嫌悪を覚えた。それは、本当に菓子なのだろうか。異界にチョコレートなどない。彼女が何を食べているのか、僕にはよくわからなかった。頭にイザナミの神話が過る。の食物を食べた者は、現世には戻れない。だが、僕は首を横に振った。


 それは、しよせん、伝説にすぎない。そのはずだ。


「「それで、君は何で来たんだい、小田桐君?」」

─────────────────えっ?」


 再び、二人の声が重なった。紅い女と繭墨あざかは、よく似た顔で、僕を見る。それは愚者を眺める目だった。その顔を見て、僕は理解する。二人は僕のことを愚かだと考えていた。同時に、二人は不思議がってもいる。一体、この男は何故ここへ来たのかと。


 それは、招かれざる客を見る目だった。

 ──────────────パキンッ


 繭墨は、再びチョコレートを嚙み割った。彼女は深い溜息を吐く。繭墨は紅い唐傘を回し、足を振った。過去の事務所での一幕のように、彼女はしんな表情で言葉をつむいだ。


「あのねぇ小田桐君。ボクはこの末路を運命だと言っただろう? まぁここは快適な空間ではないし、望んだ結末とも言い兼ねるさ。だが、運命ならば仕方がない。繭墨あざかは、己のさだめをまつとうし、とうな結末を迎えた。それなのに、何故君はここに来たんだい? 雨香君も人を失いかけているし、愚かにもほどがあるよ? 全く理解しかねるね」

「全く、わけのわからない訪れだが、君にとって幸運なことに、僕は今、上機嫌なんだ。別にとって食う気もないよ。いい子だから、戻りたまえ、と言ってあげたいがねぇ……驚いた。君は食われる定めまで、ってきてしまったのか。だが、まだ手はあるよ


 紅い女は本当に上機嫌らしい。まるで救い主じみた優しい声で囁き、彼女は掌を開いた。彼女はそこにふっと息を吐きかける。桜の花弁が宙を舞った。以前、僕が異界に持ち込んだイメージが気に入ったのか、紅い女は好んで桜を使用しているらしい。女の吐いた息が、僕の体に纏わりついた。傷の痛みがなくなる。彼女はせんたくじみた声を出した。


「僕は、小田桐勤について、彼女に話を聞いたんだ。彼女が嫌いではなかったという君に少しは慈悲をあげようじゃないか? 走りたまえ。走って走って、逃げるんだ。君の子を置いて、この繭墨あざかを置いて、現世に駆け戻ればいい。からになった腹の穴くらい、あの狐にもふさげるだろうさ。その子は、僕をきよぜつした。悲しいかな、僕の傍にはいてくれないという。その子は君を探して、永遠にさ迷い歩くだろうが……君は助かるよ」


 さて、これが最後のチャンスさ、小田桐勤。


 女は僕に甘く囁きかけた。その後を、繭墨がぐ。

 彼女は怖いほどにんだ、優しい声で僕に語りかけた。


「君は何もかもから逃げればいい。そうすれば、戻れるだろう。さぁ、行くんだ」

 ───────────今度こそ、走って、走って、何もかもから逃げたまえ。


 繭墨は実に穏やかな口調で、僕に告げた。彼女は一度まぶたを閉じる。そしておもむろに開いた。

 澄んだひとみが僕を映す。それは、まるで人でない者が、人をあわれむかのような目だった。


 あぁ、またこの顔だと僕は思う。また、彼女はそんな顔をする。

 繭墨あざかはとても静かな、少女とは思えない表情で僕を見た。


「ここで小田桐勤と、繭墨あざかは別れるよ」

 ───────それが、ボクと君の運命さ。



 めでたし、めでたし。



 きっぱりと、繭墨あざかは断言した。僕は呆然とその顔を見上げる。彼女は美しい笑みを浮かべていた。いつかのように、彼女はあいに満ちた微笑ほほえみをたたえ、僕を見つめる。だが、僕はその顔に違和感を覚えた。僕達は言葉にしないまま、互いにそれを理解する。


 そう、彼女は止めたまえと真摯に忠告をしながらも。

 僕が、止まらないことなど、当の昔に、知っていた。


「繭さん………僕は、」


 僕はこわる口を開いた。紅い女はほおづえを突き、僕を眺めている。見上げるだけで心が折れそうになる、絶望的に甘い笑みだ。だが、その隣で繭墨あざかは僕を見つめていた。

 一体君は何をやらかすつもりなんだと、問いたげな顔で。だから、僕は全力で叫んだ


「僕はその顔が、大ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ嫌いだったんですよっ!」

……………………………………………………………………………………………はぁ?」

「やっぱりそうだったのか。全くじんな話だよ。人がせっかく、笑ってみせたのにね」


 僕の言葉に繭墨は肩を竦めた。どうやら僕がその笑みを嫌いなことを、彼女は薄々知っていたらしい。気づいていたなら、笑うなと言いたかった。紅い女はめずらしく驚いたような顔をしている。僕は荒く息を吐いた。ここまで来たのなら今更だ。逃げる気はない

 言いたいことは全部言ってやる。そう決めて、僕は全力で、無茶苦茶な叫びを続けた。


「いつもいつも好き勝手しやがって、現世にいる時から、何度も言ってただろうがッ! 掃除をしろ、甘いもんばっかり食うな、趣味の悪い娯楽を止めろッ! その果てに何を異界に堕ちてんだッ! 好き放題やったくせに、最後だけは訳知り顔で人に別れを告げやがって、それでちようしになると思うなよ、どんな身勝手だッ! どんだけアンタは人のことを考えないんだ。アンタがそんなだから僕はここまで来ちまったんだろうがッ!」

「いや、普通は、来ないと思うんだけれどね。見事なまでのごうとくだよ」

「自業自得なのは知ってるッ! 今更言うなッ! なぁ、繭墨あざかッ!」


 ───────────運命って、なんなんだ?


 僕が吐き出した言葉に、繭墨は目を細めた。紅い女は不機嫌な顔をしている。彼女は深くまゆを寄せた。それも無理はないだろう。僕と繭墨あざかは、僕達の会話を続けていた。そこに他人が入り込むはない。そう、僕達は事務所と同じ調子で、この異界の底で喋っていた。僕は話を続ける。めこんだ想いと考えと理不尽への怒りを込めて。


 僕の知る、繭墨あざかという人間に。


「何が運命だ。何が定めだッ! アンタはそんな運命論から、一番遠い人間だったはずだろう? アンタは、僕達の運命そのものだった。僕が誰かの運命を変えられたように、アンタはありとあらゆることに人を巻き込みながら生きてきた。涼しい顔をして、何も知らないって顔をして、平気で他人をほんろうした。アンタはそんな、身勝手な人間だ。それを今更、運命だぁ? 運命だから仕方がないって、どうしてだよッ、繭墨あざかッ!」


 何でアンタみたいな最低最悪でままな人間が、運命なんてあっさり認めるんだッ!


 僕の絶叫に繭墨あざかはくちびるゆがめた。彼女はまるで愉快な者を見るように僕を眺める。

 そうだった。僕はずっと猛烈に腹を立てていたのだ。僕の知る繭墨あざかに。僕の知る繭墨あざかとは、違う行動をした彼女に。運命に屈することを、選びやがった彼女に。


 何もかも諦めたかのように、微笑んだ彼女に。


「アンタは運命なんて認めないはずだッ! そうだろうッ! そうじゃないのかッ! 僕の知っている繭墨あざかは、運命なんて鼻でわらう、自分勝手で最悪でごうがんそんな女だった。それなのに、何でアンタはそんなやつの言うことを聞いてるんだ。あらがえよ抗ってみせろよ、もう一度外に出ろよ。何度でもソイツの裏をいて逃げ出して、そして下らない、何て退屈だと嗤って見せろッ! 失望したぞ、アンタに、僕は初めて失望したッ!」


 腹の底から次々と怒りが湧いた。僕の知る繭墨あざかは、傲岸不遜で誰もかえりみない女だった。それが何故、紅い女に頭をれているのか。運命なんてものに屈しているのか

 僕は彼女をにらみつけた。繭墨あざかは笑っている。先を言えというように、彼女は軽く顎を振った。僕はそれに応える。呆れながら面白がっている表情に、僕は問いかけた。


「何が降りかかろうと、アンタは平然と、本物のチョコレートを食べている」

 それが、アンタじゃないのか───────────────繭墨あざか。


 彼女は無言のままだ。紅い女は口を半ば開き、暴論を言い終えた僕を見つめている。彼女は心底あきれ返っていた。気分を害した紅い女は冷たい言葉を吐こうとする。その言葉は、文字通りはりのように僕の体に刺さるだろう。これで僕もおしまいだ。だが、その直前、繭墨あざかはチョコレートの端を嚙んだ。彼女は勢いよく、それを歯でへし折る。


 ──────────────パキンッ、ぷっ

 そして、彼女は、床の上へ、それを吐き捨てた。


……………………………………えっ」

「なるほど。確かに、これはまずいね


 全く、思うさま、よくも人をコケにしてくれるよ。

 大人おとなしくいなくなったのに文句を言われるとはね。


 繭墨は肩を竦め、僕を見た。その唇には、実に嫌な笑みが浮かんでいる。僕が好きでも嫌いでもない、不吉なあの表情だ。彼女はチョコレートから、手を離した。金色の包みが落下する。それは床にぶつかり、紅く溶けた。チョコレートは肉片に戻る。繭墨は堂々と足を組んだ。彼女は僕をへいげいする。何一つ変わっていない状況で、彼女は僕を見下ろした。その目だけが、変わっている。それは事務所で、僕がよく見たあの目だった。


 事務所にいる時の、己の運命を悟る前の、繭墨あざかの目だ。


「君がそう言うのならいいだろう。小田桐君。全くもって下らない。ボクは生まれながらの繭墨あざかであり、繭墨あざかは死ぬ運命にある。そう思っていたが、君から見たボクはソレか。なかなかに愉快だよ。いいじゃないか。それなら抗ってみせるとしよう」


 確かに、ここのチョコレートは、食べ飽きたしね。


 そう囁き、繭墨は、くるりと唐傘を回した。紅色がまわる。瞬間、紅い女の腕が歪んだ。

 彼女は目を見開く。だが、それは一瞬で修復された。紅い女は手を伸ばす。それは飼い猫に手を嚙まれたかのような反応だ。だが、その時既に、繭墨は女の膝をっていた。


 僕の知る我が儘な少女は、まるで誇り高い黒猫のように、女の腕から抜け出す。

 そして、繭墨あざかは、黒くごうしやなレースを揺らして、僕の前へと舞い降りた。



 まるで、それが当然というように、彼女は白い手を伸ばす。

 そして、僕はそれが当然だと腕を伸ばし、細い指を取った。



 久しぶりに握った、彼女の手は。

 普通に、柔らかく、温かかった。



「本当に………君は馬鹿だね、小田桐君?」

「ええ…………ですが、もう今更でしょう」



 彼女は微笑み、僕は頷く。

 そして僕達は逃げ出した。


    * * *


「なるほど、馬鹿げた鬼ごっこをするつもりらしいね」

 人とは、本当に、想像をはるかに超えて愚かなようだ。


 低い囁きが、響いた。それは、地鳴りのように大地を揺らし、らいめいのごとく天を裂く。

 背後の紅い女の気配が、形を変えるのがわかった。恐ろしい重圧が僕達に迫ってくる。


 紅い女が本気になれば、ここからは逃げられない。そんなことはわかっていた。それでも僕達は走り続ける。僕の右手は雨香が、左手は繭墨が握っていた。二人を連れ、僕は闇雲に走る。僕は黄泉の国から女を連れて逃げようとしていた。まるで神話の終わりにも似た図だ。繭墨は紅い唐傘を回す。その度、彼女に纏わりつこうとした肉達が桜の花弁になって消えていった。だが、彼女の力は紅い女の影響で使えるものだ。女に敵いはしないだろう。それでも、繭墨あざかが、繭墨あざかでいるために、彼女は抵抗を続ける。走りながら、僕は強く繭墨の手と、雨香の手を握った。雨香の爪が僕の掌を裂く。


 僕は知っていた。紅い女も完全に異界をしようあくしているわけではない。彼女にすきが生じれば、異界を裂いて繭墨あざかは異界から出られるだろう。そこから先は、僕の知ったことではなかった。繭墨あざかは存分に足掻き、嗤い、逃げればいい。無責任と言われれば、それまでだった。それでも僕は僕の運命の人を、せめて外へと送り出したかった。


 後は、繭墨あざかの物語だ。そして、小田桐勤が一緒に行けるのはここまでだった。


 僕達は、いつまでっても平行線で、決してまじわることはない。

 それでも、僕達は常に、少し離れたところに並んで立っていた。


 時たま、手を繋いで、僕達はここまで来た。

 そしてこれが最後だ。全てに終わりは来る。


 僕はゆっくりと、繭墨と繋いだ手をほどいた。

 二度と、彼女と手を繋ぐことはないだろう。


「……さよならかい、小田桐君?」

「ええ、さよならですよ、繭さん」


 繭墨も、そのことを了承していた。彼女はそれ以上、何も言わない。ただ、繭墨あざかは、僕の馬鹿げた決断に、肩を竦めた。僕は僅かに後ろを見た。紅い女は、人間を失っている。鬼に変わり、両手を広げて迫る姿を見ながら僕は思った。長い年月はさぞかし辛かったことだろう。ひどく恐ろしいものだっただろう。僕は彼女を哀れにすら思った。


 少なくとも腹に鬼を孕みながらも、僕は人間でいられた。

 僕は繭墨に背を向けた。左手には、まだ雨香の手がある。


 僕は雨香の方を見た。雨香もじっと僕を見つめ返す。瞼のなくなった目から涙が溢れた。大粒の涙がはらはらと落ちる。僕は完全に繭墨に背を向けた。彼女と小田桐勤はここで別れる。そして僕は雨香に向き直った。両腕を伸ばし、僕は彼女を強く抱き締めた。


「食べていいぞ、雨香」


 そして、少しの間だけでいい。この人を、繭墨あざかを、助けてあげてくれ。

 この人を逃がしてあげてくれ。それが僕の、父さんの、人生最後のお願いだ。


 雨香はぎゅっと僕に抱きついた。甘えるように、彼女は僕の顔に頰を寄せる。涙が僕の頰を濡らした。ぱぁぱと甘く掠れた声が耳を打つ。僕は頷いた。雨香の口が大きく裂けていく。今の今までよく耐えてくれたと、僕は思った。大量の涎が、シャツを濡らす。


 僕の首筋で、彼女は唇を開いた。雨香は僕の喉元に、鋭い歯を近づける。

 だが、彼女は静かに口を戻した。ぎゅっと強く、強く、雨香は僕に縋る。


──────────────────ぱぁ、ぱ。わたし、ね」

 ──────────────ぱぱをたべたくなんて、ないよ


 そして、雨香は、僕を抱き締めていた腕を解いた。

───────────────────雨香?」


 白い手が解ける。雨香は振り向き走り出した。黒髪が靡く。水色のドレスが揺れた。

 まるで白兎を追いかける娘のように、彼女は駆けて行く。僕から遠ざかる足取りには、あまりにも迷いがない。不意にあさとの言葉が耳を打った。彼は静かな声で僕に告げる。


 その子は、人間の姿でいることを望んだ。

 鬼には堕ちず、父親を食わず、共にありたいと願った。


 雨香は振り向かない。僕の伸ばした手を、彼女は見ることすらしなかった。雨香は強く、何かを振り切るように地面を蹴る。彼女は両腕を広げた。雨香は、僕の娘は、迫りくる紅い女と向き合う。彼女は一瞬、体を震わせた。それでも、彼女は息を吸い込んだ。


 そして、確かな意志のもった声で、雨香は紅い女に告げた。


「一緒に、行きます」

……………………………なんだって?」

「私が、私は、あなたと一緒に行きます」


 その瞬間、紅い女の姿がブレた。鬼と化していた顔が人に戻る。彼女は目を開き、雨香を見た。信じられないと言うように、彼女は雨香の姿を瞳に映す。やがて、その顔全体が笑みの形に歪んだ。紅い女は疲れ果てたかのような、くたびれた微笑みを浮かべる。彼女らしくない、異界の王とは思えない表情だ。僕は長く感じていた疑問を思い出した。