* * *
空には、大輪の
無数の花弁が、
繭墨本家の敷地は、
この場を支配していた
ここ数日のことを、僕は思い返した。様々な事件や、話をした大事な人々のことを。
最後に、僕はある少女のことを思い出した。黒いドレス姿の、
きっと彼女の言う通りにすべきだったのだ。彼女を忘れさえすれば、僕は何事もなく日常に戻れたことだろう。彼女を見捨てれば、今も僕は
そうして、戻れなくなってしまった。
「君は、
「…………………………………えっ?」
僕の心を読んだかのように、あさとはそう
僕達は
花弁の降る
「後悔は、しているのかい? 自分の選択を、明らかに間違えたことにさ」
あさとはそう僕に問いかけた。言葉と違い、その声に
「後悔は、していないな。繭墨あざかは、僕の運命だった」
あの時、絶望の
彼女が僕の運命を変えてくれたように。
「後悔だけは、絶対に、したりしないさ」
僕はそう断言した。あさとは首を横に振った。同時に、腹が激しく
「あぁ、だが………白雪さんと、この子には、悪いことをしたな」
───────────────────────ぱぁ、ぱぁ?
次の瞬間、僕の腹から
─────────ぱぁぱ、ぱっ、ばっ
「あとちょっとだ。雨香、
それと、な。お前にプレゼントがあるんだ。
僕は
エプロンドレスのリボンを結び、
これでよかった。僕はいつも彼女が
僕のエゴで構わない。彼女に娘らしい
雨香はどう反応していいのかわからないという顔をしている。僕は手を伸ばし、安心させるように
「よく似合ってる。雨香、
「かわいい? 本当、ぱぱ? 雨香かわいい? かわいいの? かわいいってなに?」
「うーん、かわいいは、ますます好きになるってことかな?」
「ぱぱ? ぱぱ、雨香好き?」
「あぁ、好きだよ」
「ぱぱっ、雨香もぱぱすきっ!」
異界にいる影響だろうか。雨香は今までになく、
「ねぇ、小田桐」
「ん、なんだ?」
「知っているよね? 俺が彼女の手を握った時、彼女が
「何をだ?」
そこであさとは言葉を切った。問いの内容とその答えを、
目の前には、
紅い大地に巨大な切れ目が走っている。その
これは、今まで僕には見えなかった罅が、具現化したものだろう。
僕が堕ちたがっている奈落まで、この罅は深く届いているはずだ。
ここは、深淵への入り口だった。開きっ放しになった、地獄への門だ。
あさとは、僕を振り向く。そして
「君、自分が死ぬことを知っているんだろう?」
そう、あまりにも間違え続けた、この僕には。
今はもう、その結末しか残されていなかった。
* * *
いつの間にか、雨香は、僕の腕に
彼女に抱きつかれたのが右腕でよかった。左腕は
「君の腹に、鬼を戻すことはもうできない。肉の
腹に鬼を
それほどに育ちきった子を、止められる者なんて、もういないだろう。
僕は無言で頷いた。そんなことはわかっている。だからこそ僕は全てに別れを告げたのだ。残り少ない時間で、白雪と共に
果たして、小田桐勤の人生とは何だったのか。だが、答えが出ようが出まいが、
あさとは強く
「……君、あっさりと約束を
「あぁ、それもすまなかった。一生をかけてでも、お前には楽しい想いをさせてやるって、約束したのにな。
僕はスーツのポケットを探った。固いソレをつまみ、腕を
アパートの
「僕の部屋をやるよ……と、言っても、借りているだけの部屋だけどな。お前なら書類は何とでもできるだろう? 中にある
僕なんかといるよりも、楽しいって思いがわかるよ。
あさとは掌を
「嫌だね。あの少女の所に行くなんてぞっとしないよ。だが、いいさ。今更文句を言おうが無意味だ。それに、あの時君が鬼を使ったのは、馬鹿げたことに俺を助ける
いいだろう。小田桐勤。どうやら、これが下らない君の物語の結末だ。
泣いて後悔しろと言いたいが、君はそれだけは死んでもしないらしい。
「君は
無茶苦茶だったよ、小田桐勤。
あさとはそう繰り返した。彼は再び歩き出す。僕の前に立つと彼は振り返った。僕達は向かい合う。彼は戻れる道に立っていた。僕は罅に向かう為の道に立っている。彼は何かを言いかけた。だが、言葉にならない。
───────────なぁん
高い、声が聞こえた。気がつけば、あさとの足元には、一匹のしなやかな黒猫がいた。
その首は、切れ目なく体と
あさとは不思議そうな顔をした。だが、彼は手を伸ばし、
僕とキスまでしておいて、本当に、お前はあさとのことが好きなんだな。
あさとは黒猫を
「─────────────さようなら、小田桐勤」
君のことなんて、俺はきっと直ぐに忘れるだろうさ。
─────────────────────────ドンッ
次の瞬間、あさとは僕の肩を押した。僕の体は、後ろに
僕は抵抗しなかった。代わりのように片腕で雨香を抱き寄せる。僕は彼女と一緒に後ろへ倒れた。背後には
あさとは直ぐにきびすを返すかと思った。だが、彼は僕の肩を押した手を、
この手を取れと言うように。僕を引きずり上げようとするかのように。
意味も理由もなく、彼は僕の手を取ろうとした。だが、僕は彼の手を握らなかった。
その姿が遠ざかる。一瞬見えた彼の表情が遠くに消えた。思わず僕は小さく呟いた。
「──────────────────……………………らしくない顔、しやがって」
その手はもう見えない。かつて僕を絶望の底に突き落とし、今引き上げようとしてくれた手はどこにもなかった。僕は雨香と一緒にもう戻れない
大粒の涙が、宙を舞った。きらきらと星のように輝きながら、それは頰を撫でていく。
「─────────────────────あぁ、そうだな」
僕は思わず呟いた。
小田桐勤の話をしたいと思う。
僕の知る、愚かな男について。
果たして小田桐勤の人生とは何だったのか。答えが出ようが出まいが、否応なく終わりは来た。だが、運のいいことに僕は
そう、小田桐勤の、人生は。
「本当に、無茶苦茶だったが」
僕には
やがて、辺りは光を失い、暗く染まった。
何故か、抱き寄せた雨香の姿だけは見えた。彼女は
「雨香、聞いて欲しいことがあるんだ?」
──────────────うっ?
瞬間僕は地面に
「……もう少しだけ、耐えてくれ。でも、父さんがいいと言ったら、お前は僕を食べてもいい……でもな、お願いがあるんだ。どうか、聞いてくれ。それから先、お前はいつ終わるかもわからない一生を、ずっと一人ぼっちで、生きていかないといけないから」
雨香の返事はなかった。理解してくれたかどうかもわからない。まだ
「お前は、ここで生きることになる。でも、いつか外に出られる日が来るかもしれない。でも人を食べちゃ駄目だ。誰かを傷つけても駄目だ。お前は優しい子だから、どうか優しいままで生きてくれ。あぁ、でもそれはあまりに寂しいから、いっそお前が食べた後、僕がお前の
お前がそっちの方が、幸せでいられるって言うのなら。
僕はぼそりと呟いた。完全な鬼に変わった彼女の胃が人と同じとは思えない。果たして鬼に食われた肉が、どうなるかは不明だ。そのまま消化されるのか。魂は残ってしまうのか。だが、それが雨香にとっていいことなら、耐えるしかないのかもしれなかった。
僕は雨香の方を見る。彼女は今までになく穏やかに息をしていた。肌色もいい。雨香にとっては異界の方が、居心地がいい場所らしかった。だが、いずれは辛くなるだろう。
この場所は、一人で生きるには、あまりに寂しすぎる。
雨香は何も言わなかった。僕は彼女を連れて歩き続ける。その足の爪が、
僕は彼女に言い聞かせなくてはならなかった。
それが、子供を置いて行く、親の義務だろう。
「お前は、僕と静香の子だ。お前は鬼だが、人の子だ。どうか、それを忘れないでくれ。どうか、誰かに
僕は腕を伸ばした。彼女の顔を見ないまま、細い体を抱き寄せる。触れた足の
きっと、僕の体を食べた時、彼女は完全に、人の体を失うのだろう。
「愛していたのも本当だ。君は、僕の子だ。そのことを、どうか忘れないでくれ」
───────────────────────────────ぱぁ、ぱ
僕はそう言った。雨香は泣いている。その目からは大粒の涙が落ちていた。食い込んだ爪が僕の腕の一部を
紅い道は永遠と続いている。雨香はそろそろ耐えられなくなるだろう。ふと、弱音が頭を
『なにやってんの、小田桐。アンタなら立てるってば。何で泣いてんのよ、キモッ!』
声が、聞こえた気がした。僕は思わず目を見開く。辺りを見回すが、周りには誰もいなかった。だが、幻聴だとは思えない。確かに、僕には懐かしい声が聞こえたのだ。異界は人の感情や欲求に合わせて姿を変える。それは以前の逃避場所と同様に、異界が僕の願望を反映し、その声を再現しただけかもしれなかった。それでも、僕は立ち上がる。
僕は強く左腕を抱いた。そして、いつかのように呟く。
「……………………………いや、キモイは、ないだろう」
僕は再び歩き出した。ぶつけられた言葉に、悲しみは拭い去られていた。腹の底から怒りが
僕は大事なことを果たしていなかった。繭墨あざかの運命を、僕はまだ変えていない。
「聞こえているか、紅い女ッ!」
唐突に、僕は叫んだ。無視しようと思えば、
僕は異界の王に会いに来た、
「聞け、僕はここに来たッ! もう一度、繭さんに会いに来たんだッ!」
その点に期待するしかなかった。それに小田桐勤は、長く繭墨あざかの
何だかんだで、彼女は
繭墨あざかは、僕を嫌うことはなかったのだろうか。
一瞬意識が
固めた拳で、閉ざされた
「姿を見せろ、
声が空間を揺らした。こんなどうでもいい
舞台を用意すれば、彼らは踊らずにはいられない。僕は祈るように、そう信じるだけだ。小田桐勤は諦めない。それだけが
「姿を見せろ、繭墨あざかを連れて来いッ!」
─────────僕は、ここにいるッ!
瞬間、紅い膜が裂けた。目の前に続いていた長い道が、くしゃくしゃに
そして、音を立てて、紅いカーテンが開くかのように、最後の舞台が幕を開けた。
勝てるかどうかはわからない。それでも、僕は精一杯踊るしかなかった。
それが、この小田桐勤に、誰よりも愚かな男に、唯一できることだった。
そして、その観客であり、ただ一人の共演者は最期の最後まで。
繭墨あざか、今は紅い女の
* * *
「「君は本当に諦めが悪いね、小田桐君?」」
先に耳を打った言葉は、どちらのものだったのだろうか。
紅い女と繭墨あざかは、ほぼ同時に、その言葉を吐いた。
紅い女は悪性の
お気に入りの人形のように、彼女はその膝上に繭墨あざかを
繭墨は、紅い
何も変わらない。いつも通りだ。僕は口を開いた。だが、名前を呼びかけ、息を飲む。
彼女は変わっていないようで、一部が変わり果てていた。
「繭、さっ」
「おや、どうしたんだい、小田桐君?
他の繭墨あざかの
繭墨はそう言い、肩を竦めた。その右手には、骨しかない。黒いドレスの中から、すらりとした骨が伸びていた。彼女は平然と、骨の指でチョコレートの包みを握っている。
その光景は、特別
「おや、珍しい慈悲じゃないか。まぁ、確かにこっちの方が食べやすいね」
─────────────────────────────パキンッ
それは、
「「それで、君は何で来たんだい、小田桐君?」」
「─────────────────えっ?」
再び、二人の声が重なった。紅い女と繭墨あざかは、よく似た顔で、僕を見る。それは愚者を眺める目だった。その顔を見て、僕は理解する。二人は僕のことを愚かだと考えていた。同時に、二人は不思議がってもいる。一体、この男は何故ここへ来たのかと。
それは、招かれざる客を見る目だった。
──────────────パキンッ
繭墨は、再びチョコレートを嚙み割った。彼女は深い溜息を吐く。繭墨は紅い唐傘を回し、足を振った。過去の事務所での一幕のように、彼女は
「あのねぇ小田桐君。ボクはこの末路を運命だと言っただろう? まぁここは快適な空間ではないし、望んだ結末とも言い兼ねるさ。だが、運命ならば仕方がない。繭墨あざかは、己の
「全く、わけのわからない訪れだが、君にとって幸運なことに、僕は今、上機嫌なんだ。別にとって食う気もないよ。いい子だから、戻りたまえ、と言ってあげたいがねぇ……驚いた。君は食われる定めまで、
紅い女は本当に上機嫌らしい。まるで救い主じみた優しい声で囁き、彼女は掌を開いた。彼女はそこにふっと息を吐きかける。桜の花弁が宙を舞った。以前、僕が異界に持ち込んだイメージが気に入ったのか、紅い女は好んで桜を使用しているらしい。女の吐いた息が、僕の体に纏わりついた。傷の痛みがなくなる。彼女は
「僕は、小田桐勤について、彼女に話を聞いたんだ。彼女が嫌いではなかったという君に少しは慈悲をあげようじゃないか? 走りたまえ。走って走って、逃げるんだ。君の子を置いて、この繭墨あざかを置いて、現世に駆け戻ればいい。
さて、これが最後のチャンスさ、小田桐勤。
女は僕に甘く囁きかけた。その後を、繭墨が
彼女は怖いほどに
「君は何もかもから逃げればいい。そうすれば、戻れるだろう。さぁ、行くんだ」
───────────今度こそ、走って、走って、何もかもから逃げたまえ。
繭墨は実に穏やかな口調で、僕に告げた。彼女は一度
澄んだ
あぁ、またこの顔だと僕は思う。また、彼女はそんな顔をする。
繭墨あざかはとても静かな、少女とは思えない表情で僕を見た。
「ここで小田桐勤と、繭墨あざかは別れるよ」
───────それが、ボクと君の運命さ。
めでたし、めでたし。
きっぱりと、繭墨あざかは断言した。僕は呆然とその顔を見上げる。彼女は美しい笑みを浮かべていた。いつかのように、彼女は
そう、彼女は止めたまえと真摯に忠告をしながらも。
僕が、止まらないことなど、当の昔に、知っていた。
「繭さん………僕は、」
僕は
一体君は何をやらかすつもりなんだと、問いたげな顔で。だから、僕は全力で叫んだ。
「僕はその顔が、大ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ嫌いだったんですよっ!」
「……………………………………………………………………………………………はぁ?」
「やっぱりそうだったのか。全く
僕の言葉に繭墨は肩を竦めた。どうやら僕がその笑みを嫌いなことを、彼女は薄々知っていたらしい。気づいていたなら、笑うなと言いたかった。紅い女は
言いたいことは全部言ってやる。そう決めて、僕は全力で、無茶苦茶な叫びを続けた。
「いつもいつも好き勝手しやがって、現世にいる時から、何度も言ってただろうがッ! 掃除をしろ、甘いもんばっかり食うな、趣味の悪い娯楽を止めろッ! その果てに何を異界に堕ちてんだッ! 好き放題やったくせに、最後だけは訳知り顔で人に別れを告げやがって、それで
「いや、普通は、来ないと思うんだけれどね。見事なまでの
「自業自得なのは知ってるッ! 今更言うなッ! なぁ、繭墨あざかッ!」
───────────運命って、なんなんだ?
僕が吐き出した言葉に、繭墨は目を細めた。紅い女は不機嫌な顔をしている。彼女は深く
僕の知る、繭墨あざかという人間に。
「何が運命だ。何が定めだッ! アンタはそんな運命論から、一番遠い人間だったはずだろう? アンタは、僕達の運命そのものだった。僕が誰かの運命を変えられたように、アンタはありとあらゆることに人を巻き込みながら生きてきた。涼しい顔をして、何も知らないって顔をして、平気で他人を
何でアンタみたいな最低最悪で
僕の絶叫に繭墨あざかは
そうだった。僕はずっと猛烈に腹を立てていたのだ。僕の知る繭墨あざかに。僕の知る繭墨あざかとは、違う行動をした彼女に。運命に屈することを、選びやがった彼女に。
何もかも諦めたかのように、微笑んだ彼女に。
「アンタは運命なんて認めないはずだッ! そうだろうッ! そうじゃないのかッ! 僕の知っている繭墨あざかは、運命なんて鼻で
腹の底から次々と怒りが湧いた。僕の知る繭墨あざかは、傲岸不遜で誰も
僕は彼女を
「何が降りかかろうと、アンタは平然と、本物のチョコレートを食べている」
それが、アンタじゃないのか───────────────繭墨あざか。
彼女は無言のままだ。紅い女は口を半ば開き、暴論を言い終えた僕を見つめている。彼女は心底
──────────────パキンッ、ぷっ
そして、彼女は、床の上へ、それを吐き捨てた。
「……………………………………えっ」
「なるほど。確かに、これはまずいね」
全く、思うさま、よくも人をコケにしてくれるよ。
繭墨は肩を竦め、僕を見た。その唇には、実に嫌な笑みが浮かんでいる。僕が好きでも嫌いでもない、不吉なあの表情だ。彼女はチョコレートから、手を離した。金色の包みが落下する。それは床にぶつかり、紅く溶けた。チョコレートは肉片に戻る。繭墨は堂々と足を組んだ。彼女は僕を
事務所にいる時の、己の運命を悟る前の、繭墨あざかの目だ。
「君がそう言うのならいいだろう。小田桐君。全くもって下らない。ボクは生まれながらの繭墨あざかであり、繭墨あざかは死ぬ運命にある。そう思っていたが、君から見たボクはソレか。なかなかに愉快だよ。いいじゃないか。それなら抗ってみせるとしよう」
確かに、ここのチョコレートは、食べ飽きたしね。
そう囁き、繭墨は、くるりと唐傘を回した。紅色が
彼女は目を見開く。だが、それは一瞬で修復された。紅い女は手を伸ばす。それは飼い猫に手を嚙まれたかのような反応だ。だが、その時既に、繭墨は女の膝を
僕の知る我が儘な少女は、まるで誇り高い黒猫のように、女の腕から抜け出す。
そして、繭墨あざかは、黒く
まるで、それが当然というように、彼女は白い手を伸ばす。
そして、僕はそれが当然だと腕を伸ばし、細い指を取った。
久しぶりに握った、彼女の手は。
普通に、柔らかく、温かかった。
「本当に………君は馬鹿だね、小田桐君?」
「ええ…………ですが、もう今更でしょう」
彼女は微笑み、僕は頷く。
そして僕達は逃げ出した。
* * *
「なるほど、馬鹿げた鬼ごっこをするつもりらしいね」
人とは、本当に、想像を
低い囁きが、響いた。それは、地鳴りのように大地を揺らし、
背後の紅い女の気配が、形を変えるのがわかった。恐ろしい重圧が僕達に迫ってくる。
紅い女が本気になれば、ここからは逃げられない。そんなことはわかっていた。それでも僕達は走り続ける。僕の右手は雨香が、左手は繭墨が握っていた。二人を連れ、僕は闇雲に走る。僕は黄泉の国から女を連れて逃げようとしていた。まるで神話の終わりにも似た図だ。繭墨は紅い唐傘を回す。その度、彼女に纏わりつこうとした肉達が桜の花弁になって消えていった。だが、彼女の力は紅い女の影響で使えるものだ。女に敵いはしないだろう。それでも、繭墨あざかが、繭墨あざかでいるために、彼女は抵抗を続ける。走りながら、僕は強く繭墨の手と、雨香の手を握った。雨香の爪が僕の掌を裂く。
僕は知っていた。紅い女も完全に異界を
後は、繭墨あざかの物語だ。そして、小田桐勤が一緒に行けるのはここまでだった。
僕達は、いつまで
それでも、僕達は常に、少し離れたところに並んで立っていた。
時たま、手を繋いで、僕達はここまで来た。
そしてこれが最後だ。全てに終わりは来る。
僕はゆっくりと、繭墨と繋いだ手を
二度と、彼女と手を繋ぐことはないだろう。
「……さよならかい、小田桐君?」
「ええ、さよならですよ、繭さん」
繭墨も、そのことを了承していた。彼女はそれ以上、何も言わない。ただ、繭墨あざかは、僕の馬鹿げた決断に、肩を竦めた。僕は僅かに後ろを見た。紅い女は、人間を失っている。鬼に変わり、両手を広げて迫る姿を見ながら僕は思った。長い年月はさぞかし辛かったことだろう。
少なくとも腹に鬼を孕みながらも、僕は人間でいられた。
僕は繭墨に背を向けた。左手には、まだ雨香の手がある。
僕は雨香の方を見た。雨香もじっと僕を見つめ返す。瞼のなくなった目から涙が溢れた。大粒の涙がはらはらと落ちる。僕は完全に繭墨に背を向けた。彼女と小田桐勤はここで別れる。そして僕は雨香に向き直った。両腕を伸ばし、僕は彼女を強く抱き締めた。
「食べていいぞ、雨香」
そして、少しの間だけでいい。この人を、繭墨あざかを、助けてあげてくれ。
この人を逃がしてあげてくれ。それが僕の、父さんの、人生最後のお願いだ。
雨香はぎゅっと僕に抱きついた。甘えるように、彼女は僕の顔に頰を寄せる。涙が僕の頰を濡らした。ぱぁぱと甘く掠れた声が耳を打つ。僕は頷いた。雨香の口が大きく裂けていく。今の今までよく耐えてくれたと、僕は思った。大量の涎が、シャツを濡らす。
僕の首筋で、彼女は唇を開いた。雨香は僕の喉元に、鋭い歯を近づける。
だが、彼女は静かに口を戻した。ぎゅっと強く、強く、雨香は僕に縋る。
「──────────────────ぱぁ、ぱ。わたし、ね」
──────────────ぱぱをたべたくなんて、ないよ
そして、雨香は、僕を抱き締めていた腕を解いた。
「───────────────────雨香?」
白い手が解ける。雨香は振り向き走り出した。黒髪が靡く。水色のドレスが揺れた。
まるで白兎を追いかける娘のように、彼女は駆けて行く。僕から遠ざかる足取りには、あまりにも迷いがない。不意にあさとの言葉が耳を打った。彼は静かな声で僕に告げる。
その子は、人間の姿でいることを望んだ。
鬼には堕ちず、父親を食わず、共にありたいと願った。
雨香は振り向かない。僕の伸ばした手を、彼女は見ることすらしなかった。雨香は強く、何かを振り切るように地面を蹴る。彼女は両腕を広げた。雨香は、僕の娘は、迫りくる紅い女と向き合う。彼女は一瞬、体を震わせた。それでも、彼女は息を吸い込んだ。
そして、確かな意志の
「一緒に、行きます」
「……………………………なんだって?」
「私が、私は、あなたと一緒に行きます」
その瞬間、紅い女の姿がブレた。鬼と化していた顔が人に戻る。彼女は目を開き、雨香を見た。信じられないと言うように、彼女は雨香の姿を瞳に映す。やがて、その顔全体が笑みの形に歪んだ。紅い女は疲れ果てたかのような、くたびれた微笑みを浮かべる。彼女らしくない、異界の王とは思えない表情だ。僕は長く感じていた疑問を思い出した。