* * *


 部屋の扉を開くと、びんが飛んで来た。


 辛うじてかわせた瓶が壁にぶつかる。振り向くと、落ち着いた色調の壁紙にオレンジジュースが見事な花を咲かせていた。一体どういう事態か。尋ねようにも部屋の中には大声が飛び交っている。目の前の惨状を眺め、僕は何が起こっているのかを大体察した。


「だーかーらー、もういい加減にして欲しいんですよ。小学生だ小学生だって言ったって、こっちにだって色々ななんがありますよ。語るも悲しい、聞くのも悲しい。いいですか、小学生の人間模様のドロドロ具合とか聞いたらそつとうしますよ、そこの高校生が。そこにまた、あーだーこーだ持ち込みやがって、何が彼女ですか。一曲歌いますか?」

「もう演歌でも何でもいいから幼女一発歌って楽になれよ。で、その抱えた狐離してあげて。それは色々駄目で非道な人だったけど、流石に可哀相だから離してあげて。顔青くなってるけど……えー、生きてますかあさとさん? 駄目だコレ辛うじて死んでる」

「恋なんてー、恋なんてー、シャボン玉ーッ!」

「幸仁もさぁ……何でアルコールなしでそこまではっちゃけるんだよ。俺もう疲れたよ」

「七海さん、と言いましたか、貴方の料理はしいですねぇ。ぼくな家庭料理も悪くありませんね。まぁ、このような洋風の見た目で生きてはおりますが、私は意外と肉じゃがが好きな人間です。自分でも驚いていますが……久々津、レシピはわかりますか?」

「抜かりなく、姫様。先程、七海殿から聞いたレシピがここに。今は床と壁の掃除を思って、頭が痛いのですが……この騒ぎは放っておいても、本当によろしいのですか?」

「いいではないですか。久しぶりの客人です。人形だけの家に、このような騒ぎが訪れる日が来るとは。まるで世界の終わりのようですが、私は悪くないと思います。おや」


 お帰りなさいですか、小田桐殿?


 舞姫の言葉に、全員がいつせいに僕達の方を向いた。僕は一度振り返る。僕のコートを肩に乗せた白雪は、背を丸めて部屋を覗き込んでいた。僕と彼女の目が合う。彼女は小さく微笑んだ。僕は頷き、前を向いた。僕は皆を前にして精一杯胸を張り、片手を上げた。


「た、ただい、」

「お帰りなさいこのぶた野郎ッ!」


 固いクッションが飛んで来た。僕はその場に崩れ落ちる。容赦ない。えげつないほど、容赦ない。七海はおおまたに歩いて来ると、ガシッと白雪の手を摑んだ。泣いている幸仁が、ガシッとその逆の手を摑む。止める間もなく、彼女はひゅんっと、室内に連れ去られた。


 そのまま、白雪は部屋の中心に連れて行かれた。七海と幸仁は、アルコールを飲んではいないようだが、何故か酔っているらしい。二人は大量に積み上げられたクッションの上に、白雪を正座で座らせた。舞姫は嬉しそうに、それを眺めている。彼女のことだ。酒とジュースを間違えて、あるいはわざと渡した可能性もがあるが、真相は不明だった。


 どこまでいったんですかこのやろーと七海が大声を出す。扇子と声で、彼女達は話し始めた。七海の声の調子はやけっぱちだが明るい。放っておいても大丈夫だろうと判断し、僕は床の上を見た。あさとは見事に伸びている。よく見れば、その口の周りにはスナック菓子の粉が張りついていた。無理やり詰め込まれたような気が、しないでもない。だが、あさとがこういう賑やかな場で、食べ物を口にしたのは初めて見る図でもあった。


 楽しかったなら、何より。


 そう頷き、僕は彼の足を摑んだ。そのまま彼を引きずり、開きっ放しの扉に向かう。

 あさとを回収し、僕は部屋から出ようとした。その時、背後から舞姫の声が響いた。


─────────────行くのですか?」

…………………………………わかりますか?」


 僕は彼女の方を見た。舞姫はほおづえを突き、気だるげに笑っている。彼女はあいに溢れたまなしを僕に注いだ。彼女はグラスを揺らし、頷く。その隣で、久々津も顔を伏せた。


「えぇ私は大分察しのいい人間です。そうですね。貴方が持ち込まれた鞄は、久々津?」

「はい、姫様、こちらに」


 久々津は頷き、僕に鞄を渡してくれた。それを受け取り、僕は再び、あさとの足首を摑んだ。僕は二人に向き直る。舞姫は何も言わなかった。僕の視線に複雑そうな表情を浮かべ、久々津は顔を背ける。だが、思い直したかのように、彼は怒っているような目で、僕を見た。舞姫は高々とグラスを掲げる。だいだい色の液体が揺れ、氷が澄んだ音を立てた。


─────────────────────────────うんを」

 祈っても無意味でしょうが、祈ることには意味がある。私はそう考えます。


 そう言い、舞姫は高々とグラスをあおった。白く長い髪がヴェールのように美しく光る。僕は彼女に、深く頭を下げた。再びあさとを引きずり、歩き出す。僕は隣の部屋に出た。


 そのまま、後ろ手に、扉を閉めようとした時だった。

────────────────────旦那ッ!」


 久々津が叫んだ。僕はハッとして振り向く。彼は何かを言おうとして止めた。言葉にならないと言うかのように彼は口を閉じた。首を横に振る。そして彼は深く頭を下げた。


…………………………………………………御武運を」

 祈っても無意味だろうが、祈ることには意味がある。


…………あぁ、ありがとう」


 僕は小さく呟いた。そして、あさとを先に外へ押し出した。扉を摑み、閉じきるすんぜん、僕は中を見た。耐えきれず、振り返ってしまった室内には、鮮やかな色が広がっている。


 七海と白雪が話していた。一体どんな化学反応が起こったのか、彼女達は笑っている。

 白雪の右腕には幸仁がしがみついていた。雄介は胡坐あぐらをかき、彼の背中を叩いている。


 七海が投げたクッションが宙を舞い、グラスの中でジュースが揺れた。

 僕はまるで夢のようなその光景の全てを、強く強く、目に焼きつける。


 涙が浮かぶ。色鮮やかな光景が滲む。

 そして、僕はゆっくりと扉を閉じた。


    * * *


 振り向くと、あさとはそこにはいなかった。


 彼の姿はれいに消えていた。だが、僕には彼がどこにいるのかわかっていた。舞姫の家に廊下はない。この部屋は、直に外に通じていた。空の部屋を横切り、僕は外に出た。


 あさとは、前庭に立っていた。朝の近い、薄闇の中に彼は立っている。白髪が、月光の名残なごりに、ぼんやりと照らされていた。首をかしげ、彼は僕を見る。そして、低く囁いた。


「遅いよ、小田桐。いつまで待たせるんだい。行くんだろう?」

「いや……………今更かっこつけても、どうしようもないぞ?」


 僕の言葉に、返事はなかった。彼は無言で、歩き出す。もしかして、機嫌をそこねてしまったのか。僕は慌てて、彼の背中を追った。だが、彼は僕を置いて行きはしなかった。

 舞姫の屋敷の前には、再び繭墨家の車が止まっていた。無表情な運転手は、無言のままドアを引き開けた。あさとは先に乗り込む。僕も後を追った。運転手は、扉を閉じる。


 あさとは、何も言わなかった。僕も無言のままだ。あさとは退屈そうに目を細めている。僕はその横顔に向けて、口を開いた。拳を握り締め、僕は心からの言葉を吐き出す。


「あさと」

「何だい?」

「ありがとうな」

「何のことだい?」


 彼には、それが何のことかわかっていただろう。だが、狐は常に本心をけむに巻く。

 僕は何も言わない。彼も何も言わない。ただ僕達は無言で、夜の中を走り続ける。



 朝が近かった。街はそろそろ光の中へ戻るのだろう。

 そして、僕は朝など来ないところへと向かっていた。