淡々と言葉を並べながら僕は前へ出た。少女は一歩後ろに下がる。その顔には
彼女は直感的に悟ってしまったのだろう。僕の言葉が全部本当にあったことなのだと。僕は少女の目を見つめた。そのまま僕は、特別感情を込めることなく問いかけを続ける。
「自分から、自分の肉を食わせたことは? 人に殺されかけたことは? 人を殺したことは? それくらい全部を体験すれば、まぁ退屈なんて感じなくなるんじゃないか?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。まさか、そんな全部を体験したとか言うわけじゃないですよね? 呆れた。わかりやすい
「自慢するわけじゃない。むしろ、全部
「は、ぁ?」
僕は自分のシャツに手を掛けた。一つずつボタンを開いていく。少女は変質者を見る顔をした。だが、その表情は一瞬で切り替わる。彼女の顔が強張った。それは怖いものを見た時のそれとは、また違っている。もっと生理的な嫌悪と拒否反応に満ちた表情だ。
僕の隣に並んだ白雪は、怪訝に眉を寄せた。僕の腹は、普段は僅かに裂けている程度で人目につく異変などない。一体どうしたのかという顔で、彼女は僕の腹を覗き込んだ。
その目が、信じられないものを見たというように固まる。彼女は、
僕は再び少女に向き直る。そして心からの言葉を告げた。
「退屈、なんてな。日常を失っていない人間の言うことだ」
僕の訴えに少女は答えなかった。彼女は目を見開いたまま一歩後ろに下がる。その目は、僕の腹部にしっかりと注がれたままだ。僕も自身の腹を見る。そこには
それは、外から見えている。僕の
薄くなった腹の皮膚は、ゼラチン質の
あさとが読んでいた本の一節を、僕は思い返した。僕に雨香を傷つけるつもりはない。だが、まるで怯えているかのように雨香は蠢き続けた。僕の腹の肉を、苦悩する小さな手が撫でる。その
僕は腹の中に、地獄を
「………………………ぐっ、ひぅっ」
少女は口元を押さえ、呻いた。無理もない反応だ。男よりも女の方が、この情景にはおぞましさを覚えるだろう。男の腹に、赤子が埋まっている様はひどく
「アンタが興味を持ったのは、こういう境地だ。忘れるな。深淵を覗いた者は、向こうからも覗き返されることになる。怪異に興味を持って、自分の目的のために、平気で人を傷つけて、それで自分だけは楽しく生きられるなんて、都合よく考えない方がいい」
「……………わ、私は、ちょっ、待って、やだ、こっち来ないでよ」
「僕は壊れたくないのに、壊れた人間を多く知っている。この世界には君が思っている以上に、大量の落とし穴が開いているんだ。不用意に覗きこめば、君もこうなるぞ。半端な気持ちで踏み出してはいけない場所に、踏み出そうとするな。二度とおぞましい行為はやるな。動物や人を傷つけた時、必ず君は、自分の体にも同じ傷を刻むことになる」
人を呪わば穴二つ。逃れられると思うんじゃない。
狐に
繭墨が依頼された事件の被害者や加害者の
ブレーキが壊れていたとしても、二度とアクセルを踏まないことならばできるはずだ。
今まで僕が直面した、戻れなくなった人間達の代わりに、彼女には戻って欲しかった。
最後に、こうして、出会ったのだから。
「君はこれから先、まともに生きていけ」
次の瞬間、少女はコートを
人が誰かにできることは、あまりにも少ない。だが、確かに人との出会いは何かを変えることがあるのだ。人一人の運命を狂わせることも、誰かを救うこともある。今僕は崖を覗いていた子供の肩を、逆方向に押した。その行動が、何かを変えればいいと思う。
小田桐勤が、最後に何かを変えられたのなら、いいと思う。
きっと、僕はその結果を知ることなどないだろうけれども。
「…………………ッ!」
「………………………」
次の瞬間、
彼女はただ真剣な顔をしている。僕は彼女に、事態の深刻さがほぼ正確に伝わっていることを確信した。今の白雪は異能者としての顔をしている。彼女は事実確認と自白を、無言で僕に要求していた。僕は小さく頷いた。僕は彼女に、語らなければならなかった。
その先を告げる為にも、彼女に選んでもらう為にも全てを話さなくてはならない。
「さっき、言いましたよね、白雪さん。僕は貴方に、言わなくてはならないことと」
言いたいことが、あるんです。
そして、僕は口を開き。
短い話を、語り出した。
* * *
小田桐勤の話をしたいと思う。
僕の知る、愚かな男について。
ふっと僕は頭の中に浮かんだ、その言葉を転がした。かつて僕は繭墨あざかについて、何度も何度も考えた。もしも繭墨あざかが、僕について語るのならば、それは一体どんな話になるのだろうか。きっとそれは文句の
そう、小田桐勤の人生は。
「なんとか、着けましたね」
「……………………………」
そう言い、僕は顔をあげた。冷たい風が顔を撫でる。目の前には光の川が流れていた。僕達は繭墨の事務所近くの歩道橋に来ていた。もう夜も遅いが、眼下には途切れることなく車の列が続いている。紅や金の光の海は、まるで暗闇を泳ぐ熱帯魚だ。僕は遠い昔に見た、空を泳ぐ金魚を思い出した。温かな空気には確かに水のような柔らかさがある。
「覚えてますか、白雪さん……ここは、あの時の場所です。白峰さんと貴方が戦った」
『覚えております。忘れるはずもありません。私はここで
「貴方はあの時、死のうとしていましたよね。でも、貴方は生きることを選んでくれた。そのことが僕には何よりも嬉しかった。ねぇ、白雪さん、僕はね下らないこの人生で」
僕が、水無瀬白雪という人物を救えたというのならば、それは。
僕が人生で
僕は自分の人生を思い返した。様々なことがあった。どうしようもなく下らない最悪な日々があった。だが、そこには確かに輝くこともあったのだ。救えなかった人がいる、殺した人もいる。逆に、その手を取れた人もいる。生き残ってくれた人々は、僕から見て誰も彼もが尊い人達ばかりだった。生き残って欲しいと願った人が生きてくれている。
それは、僕にとって、何よりも嬉しいことだった。
自身の周囲の
それは、最も難しいことだ。そのために、僕は
「僕は、僕にこの人生を与えてくれた繭墨あざかを迎えに行きます。僕は異界に降ります……さっきの話と合わせて、この意味はわかりますよね? 僕は一人で異界に行く」
「……………………」
「それでも、聞いてくれるというのならば、この先を聞いてください。これは、僕の
僕の話を、聞いてはもらえませんか?
白雪は、目を
僕もそう思う。だが、それでも僕は彼女に選んで欲しかった。この言葉を聞くのも聞かないのも自由だ。彼女は強く僕を睨んだ。そして勢いよく扇子を開き、返事を綴った。
『さっさと言ってください。いつまで、待たせるのですか?』
「そうですね………もう一体、何日、待たせたんでしょうね」
彼女は僕が何を言いたいのかを知っていた。
僕は彼女に、何を告げるのかを決めていた。
その心は、いつの日か、僕の中でしっかりと形になっていた。だが、以前断って以来、僕はその言葉を隠していた。ずっと、自分の中で抱えたまま、彼女に告げはしなかった。人の想いの重さを、僕はよく知っている。これは容易く吐いていい言葉では決してなかった。だから、かつての僕には言うことができなかった。だからこそ今僕は口を開いた。
そして、僕は彼女に、自分の想いを告白した。
「僕は貴方を愛しています。世界中で、貴方こそを、最も
その言葉を白雪は予想していたはずだ。それなのに彼女は動きを止めた。その数秒を、僕は永遠のように感じた。彼女は赤くはならなかった。ただ白雪は静かに僕のことを見上げた。まるで何を言われたのか、理解できていないような顔をしている。だが、彼女に、ちゃんと言葉が届いていることを、僕は知っていた。その証拠のように、小さな手は震えている。緊張で、痛みさえ覚える呼吸を、僕は必死に繰り返した。再び口を開く。
「大好きですよ、白雪さん。貴方に会えただけで、僕の人生はとんでもなく幸福だった」
白雪の目から、一筋の涙が零れ落ちた。彼女は無言で、腕を伸ばす。僕は背を
僕なんて、選びさえしなければ、彼女もずっと楽だっただろう。
きっと他の誰かなら、笑顔で告白を受け取ってくれたのだろう。
「愛しています。愛していますよ、白雪さん。大好きです。貴方のことが好きなんです」
僕が不器用に繰り返す度、白雪は僕を殴った。だが、彼女は不意に、その腕を止めた。彼女は僕の胸を押し、一歩離れると顔をあげた。その目には涙が溢れている。彼女は扇子を開いた。涙を浮かべた目で僕を睨み、彼女は
『私も愛しています。そして、後悔しませんよ。貴方を愛したことを。想ったことを』
心からの怒りを込め、彼女は僕を睨んだ。その言葉はまさしく宣戦布告だった。彼女は諦めている僕に、これからのことを全てわかっている僕に、堂々と迷いもなく告げる。
ひどく
『忘れてなど、やるものですか。墓場まで、貴方一人を愛しぬいてやる』
僕は頷いた。彼女は僕を睨んだままだ。その頰に掛かった黒髪を、僕はそっと白い耳に掛けた。目の前の彼女は、
愛しいという想いが何かと聞かれれば、僕は彼女の名前を答えるだろう。
水無瀬白雪。僕が心から愛した人の名前を。彼女は
僕の覚悟は、あまりに遅かった。同時に、僕が告げられるのもこの時しかなかった。
ずっと、こうしたかった。その想いを胸に、僕は背を屈める。彼女は背伸びをする。
そして、僕達は、口づけを交わした。
告白の日から遠い遠い、今になって。