淡々と言葉を並べながら僕は前へ出た。少女は一歩後ろに下がる。その顔にはさげすみの笑みが浮かんでいた。だが、じよじよにその表情は強張り始めた。この少女は獣じみてさとい。

 彼女は直感的に悟ってしまったのだろう。僕の言葉が全部本当にあったことなのだと。僕は少女の目を見つめた。そのまま僕は、特別感情を込めることなく問いかけを続ける。


「自分から、自分の肉を食わせたことは? 人に殺されかけたことは? 人を殺したことは? それくらい全部を体験すれば、まぁ退屈なんて感じなくなるんじゃないか?」

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。まさか、そんな全部を体験したとか言うわけじゃないですよね? 呆れた。わかりやすいうそすぎますよ。お狐様ならまだわかりますけど、貴方みたいな平凡な人間がそんなこと味わってるわけないじゃないですか。腹の中に内臓とか、子供とかわけわかんないですし。本当でも、まんされたって困りますし」

「自慢するわけじゃない。むしろ、全部はじだ。それに、噓ではないさ……見てみるか?」

「は、ぁ?」


 僕は自分のシャツに手を掛けた。一つずつボタンを開いていく。少女は変質者を見る顔をした。だが、その表情は一瞬で切り替わる。彼女の顔が強張った。それは怖いものを見た時のそれとは、また違っている。もっと生理的な嫌悪と拒否反応に満ちた表情だ。


 僕の隣に並んだ白雪は、怪訝に眉を寄せた。僕の腹は、普段は僅かに裂けている程度で人目につく異変などない。一体どうしたのかという顔で、彼女は僕の腹を覗き込んだ。

 その目が、信じられないものを見たというように固まる。彼女は、はじかれたように僕の顔を見た。もう少しだけ隠しておきたかったなと、僕は思った。彼女と共に、様々な場所を巡りながら、僕はこれについては黙っていた。だが、いつかは必ず言わなければならないことも知っていた。事実を知った上でも、ある話を聞いてくれるかどうか、僕は白雪に尋ねなければならないのだ。だが、今はそれについて考えるべき場面ではない。


 僕は再び少女に向き直る。そして心からの言葉を告げた。

「退屈、なんてな。日常を失っていない人間の言うことだ」


 僕の訴えに少女は答えなかった。彼女は目を見開いたまま一歩後ろに下がる。その目は、僕の腹部にしっかりと注がれたままだ。僕も自身の腹を見る。そこにはがいた。


 それは、外から見えている。僕のは、一部が透明化していた。


 薄くなった腹の皮膚は、ゼラチン質のまくと化している。柔らかな水槽のように、外側から僕の内臓はけていた。多くの人間は幼虫を植えつけられ、肉を溶かされたいもむしを連想するだろう。歪な繭と化した腹の中では、雨香が眠っていた。彼女は激しく蠢いている。脈動する内臓の中で、生まれる前から苦悩しているかのように赤子は暴れていた。


 たいよ胎児よ何故おどる。母親の心がわかって恐ろしいのか。


 あさとが読んでいた本の一節を、僕は思い返した。僕に雨香を傷つけるつもりはない。だが、まるで怯えているかのように雨香は蠢き続けた。僕の腹の肉を、苦悩する小さな手が撫でる。そのさまはただおぞましかった。人には到底、受け入れられない光景だろう。雨香が完全に鬼化し、あさとに収められてから傷口はこう変化した。紅いねんえきの詰まった腹は、この世のものではなくなっている。こうなったのは僕のせいだった。雨香を責める気はない。それでも僕はしゆうあくたとえを使わざるをえなかった。誰が見ても明らかだ。


 僕は腹の中に、地獄をっている。

………………………ぐっ、ひぅっ」


 少女は口元を押さえ、呻いた。無理もない反応だ。男よりも女の方が、この情景にはおぞましさを覚えるだろう。男の腹に、赤子が埋まっている様はひどくぼうとくてきだ。少女は僕の腹をじっと見た。暗く濡れた目の中に、狐の怪異を見た時の輝きはない。あの怪異は娯楽的だった。にくかいが動いたところで、彼女には特に害がないからだ。だが、僕の腹に生じた怪異は所有者を食い尽くす類いのものだ。少女の顔は固まっている。彼女は今、戻れない一線を越えた者を始めて見たのだ。僕は一歩前に出る。そして言い放った。


「アンタが興味を持ったのは、こういう境地だ。忘れるな。深淵を覗いた者は、向こうからも覗き返されることになる。怪異に興味を持って、自分の目的のために、平気で人を傷つけて、それで自分だけは楽しく生きられるなんて、都合よく考えない方がいい」

……………わ、私は、ちょっ、待って、やだ、こっち来ないでよ」

「僕は壊れたくないのに、壊れた人間を多く知っている。この世界には君が思っている以上に、大量の落とし穴が開いているんだ。不用意に覗きこめば、君もこうなるぞ。半端な気持ちで踏み出してはいけない場所に、踏み出そうとするな。二度とおぞましい行為はやるな。動物や人を傷つけた時、必ず君は、自分の体にも同じ傷を刻むことになる」


 人を呪わば穴二つ。逃れられると思うんじゃない。


 狐にそそのかされた人間達の顔を、自分から、深淵に落下した人々の顔を、僕は思い返した。

 繭墨が依頼された事件の被害者や加害者のまつは、全てあわれなものだった。だが、そこから逃げおおせる者も、世の中にはいるのだろう。人を傷つけてなお、平気で高笑いをする人間もいるはずだ。だが、あえて、僕はその事実は伏せた。人の道を逸れた者の末路など、ロクなものではない。人を呪わば穴二つ。普通に生きろと、僕は脅迫を続ける


 ブレーキが壊れていたとしても、二度とアクセルを踏まないことならばできるはずだ。

 今まで僕が直面した、戻れなくなった人間達の代わりに、彼女には戻って欲しかった。


 最後に、こうして、出会ったのだから。

「君はこれから先、まともに生きていけ」


 次の瞬間、少女はコートをひるがえし、駆け出した。僕の隣を強引にすり抜け、彼女は転がるように逃げ出す。最後、少女がどんな顔をしていたのか、僕には見えなかった。目を細め、僕はその背中を見送る。これで彼女がどう変化するのかはわからなかった。いつか、彼女はこの高校の第二の狐になるかもしれない。だが、この出会いが、少女自身の運命や巻きこまれかねなかった誰かの日々を変えたのかもしれなかった。そう願いたい。


 人が誰かにできることは、あまりにも少ない。だが、確かに人との出会いは何かを変えることがあるのだ。人一人の運命を狂わせることも、誰かを救うこともある。今僕は崖を覗いていた子供の肩を、逆方向に押した。その行動が、何かを変えればいいと思う。


 小田桐勤が、最後に何かを変えられたのなら、いいと思う。

 きっと、僕はその結果を知ることなどないだろうけれども。


…………………ッ!」

………………………


 次の瞬間、もうれつな勢いで僕は肩をつかまれた。後ろを振り向かされる。目の前には白雪が立っていた。彼女は乾いた目で僕を見上げる。その目には、悲しみも怒りもなかった。

 彼女はただ真剣な顔をしている。僕は彼女に、事態の深刻さがほぼ正確に伝わっていることを確信した。今の白雪は異能者としての顔をしている。彼女は事実確認と自白を、無言で僕に要求していた。僕は小さく頷いた。僕は彼女に、語らなければならなかった。


 その先を告げる為にも、彼女に選んでもらう為にも全てを話さなくてはならない。

「さっき、言いましたよね、白雪さん。僕は貴方に、言わなくてはならないことと」



 言いたいことが、あるんです。



 そして、僕は口を開き。

 短い話を、語り出した。


    * * *


 小田桐勤の話をしたいと思う。

 僕の知る、愚かな男について。


 ふっと僕は頭の中に浮かんだ、その言葉を転がした。かつて僕は繭墨あざかについて、何度も何度も考えた。もしも繭墨あざかが、僕について語るのならば、それは一体どんな話になるのだろうか。きっとそれは文句のれつだ。僕が繭墨あざかについて考えた時と同様に、彼女には僕についての文句が山程あるだろう。だが、僕が僕の言葉で語るのならば、それはとても短い話になった。それは、ひどく下らない、失敗だらけの物語だ。



 そう、小田桐勤の人生は。



「なんとか、着けましたね」

……………………………


 そう言い、僕は顔をあげた。冷たい風が顔を撫でる。目の前には光の川が流れていた。僕達は繭墨の事務所近くの歩道橋に来ていた。もう夜も遅いが、眼下には途切れることなく車の列が続いている。紅や金の光の海は、まるで暗闇を泳ぐ熱帯魚だ。僕は遠い昔に見た、空を泳ぐ金魚を思い出した。温かな空気には確かに水のような柔らかさがある。


「覚えてますか、白雪さん……ここは、あの時の場所です。白峰さんと貴方が戦った」

『覚えております。忘れるはずもありません。私はここでやぶれかけ、貴方に救われた』

「貴方はあの時、死のうとしていましたよね。でも、貴方は生きることを選んでくれた。そのことが僕には何よりも嬉しかった。ねぇ、白雪さん、僕はね下らないこの人生で」


 僕が、水無瀬白雪という人物を救えたというのならば、それは。

 僕が人生でせた中で、最もとうといことの一つだったと思います。


 僕は自分の人生を思い返した。様々なことがあった。どうしようもなく下らない最悪な日々があった。だが、そこには確かに輝くこともあったのだ。救えなかった人がいる、殺した人もいる。逆に、その手を取れた人もいる。生き残ってくれた人々は、僕から見て誰も彼もが尊い人達ばかりだった。生き残って欲しいと願った人が生きてくれている。


 それは、僕にとって、何よりも嬉しいことだった。


 自身の周囲のへいおんを願う。せめて、知る人間は幸せであれと望む。

 それは、最も難しいことだ。そのために、僕はき続けてきた。


「僕は、僕にこの人生を与えてくれた繭墨あざかを迎えに行きます。僕は異界に降ります……さっきの話と合わせて、この意味はわかりますよね? 僕は一人で異界に行く」

……………………

「それでも、聞いてくれるというのならば、この先を聞いてください。これは、僕のままです。今まで黙っていたのに、今更言うなんて、本当にひどすぎる話だと思います。それでもあいまいなままで、僕は貴方を置いて行きたくはない。どうですか、白雪さん?」


 僕の話を、聞いてはもらえませんか?


 白雪は、目をげた。彼女はギッと僕を睨む。恐らくきようだと言いたいのだろう。

 僕もそう思う。だが、それでも僕は彼女に選んで欲しかった。この言葉を聞くのも聞かないのも自由だ。彼女は強く僕を睨んだ。そして勢いよく扇子を開き、返事を綴った。


『さっさと言ってください。いつまで、待たせるのですか?』

「そうですね………もう一体、何日、待たせたんでしょうね」


 彼女は僕が何を言いたいのかを知っていた。

 僕は彼女に、何を告げるのかを決めていた。


 その心は、いつの日か、僕の中でしっかりと形になっていた。だが、以前断って以来、僕はその言葉を隠していた。ずっと、自分の中で抱えたまま、彼女に告げはしなかった。人の想いの重さを、僕はよく知っている。これは容易く吐いていい言葉では決してなかった。だから、かつての僕には言うことができなかった。だからこそ今僕は口を開いた。


 そして、僕は彼女に、自分の想いを告白した。


「僕は貴方を愛しています。世界中で、貴方こそを、最もいとしい女性だと思っています」


 その言葉を白雪は予想していたはずだ。それなのに彼女は動きを止めた。その数秒を、僕は永遠のように感じた。彼女は赤くはならなかった。ただ白雪は静かに僕のことを見上げた。まるで何を言われたのか、理解できていないような顔をしている。だが、彼女に、ちゃんと言葉が届いていることを、僕は知っていた。その証拠のように、小さな手は震えている。緊張で、痛みさえ覚える呼吸を、僕は必死に繰り返した。再び口を開く。


「大好きですよ、白雪さん。貴方に会えただけで、僕の人生はとんでもなく幸福だった」


 白雪の目から、一筋の涙が零れ落ちた。彼女は無言で、腕を伸ばす。僕は背をかがめ、そっと彼女の体に腕を回した。ぎゅっと白雪を抱き締める。それは恋人同士のほうようとはとても呼べなかった。まるで二匹の動物が寒くて仕方がないと寄り添い合うかのようだ。白雪は小さな呻きを漏らした。彼女は声を出して泣く。僕の背中を白雪は叩いた。僕は頷いた。彼女の反応は当然だ。その小さな拳が僕には悲しくつらく苦しく、愛おしかった。


 僕なんて、選びさえしなければ、彼女もずっと楽だっただろう。

 きっと他の誰かなら、笑顔で告白を受け取ってくれたのだろう。


「愛しています。愛していますよ、白雪さん。大好きです。貴方のことが好きなんです」


 僕が不器用に繰り返す度、白雪は僕を殴った。だが、彼女は不意に、その腕を止めた。彼女は僕の胸を押し、一歩離れると顔をあげた。その目には涙が溢れている。彼女は扇子を開いた。涙を浮かべた目で僕を睨み、彼女はせんせんこくじみた勢いで、筆を走らせた。


『私も愛しています。そして、後悔しませんよ。貴方を愛したことを。想ったことを』


 心からの怒りを込め、彼女は僕を睨んだ。その言葉はまさしく宣戦布告だった。彼女は諦めている僕に、これからのことを全てわかっている僕に、堂々と迷いもなく告げる。


 ひどくざんこくで、あまりにも優しいことを。


『忘れてなど、やるものですか。墓場まで、貴方一人を愛しぬいてやる』


 僕は頷いた。彼女は僕を睨んだままだ。その頰に掛かった黒髪を、僕はそっと白い耳に掛けた。目の前の彼女は、がらな人だった。そして優しい人だった。誰よりも強く僕を想ってくれた人だった。僕が救い、僕を救ってくれた人だった。様々な人が歪な想いで壊れていく中、彼女はらくに滑り落ちそうな僕の手を、ひたむきに握り続けてくれた。


 愛しいという想いが何かと聞かれれば、僕は彼女の名前を答えるだろう。

 水無瀬白雪。僕が心から愛した人の名前を。彼女はゆるやかに手を伸ばす。


 僕の覚悟は、あまりに遅かった。同時に、僕が告げられるのもこの時しかなかった。

 ずっと、こうしたかった。その想いを胸に、僕は背を屈める。彼女は背伸びをする。


 そして、僕達は、口づけを交わした。

 告白の日から遠い遠い、今になって。