繭墨あざかは、自分の死を嘆くことはしない。
所詮、それは退屈な見世物にすぎないからだ。
ボクは拍手せよ、喝采せよと言い、この死を笑える者は、笑えばいいと放り出す。命を惜しいとは思わなかった。ボクは酷薄な人間だ。己の死にも泣く価値など見出せない。
繭墨あざかは、誰の死も嘆かない。それは自分についても、例外ではなかった。
だが、小田桐君はボクの死に泣き喚いたし。
ボクはそれを、特に愚かとは思わなかった。
彼は奇特な人間だ。だが、ボクがそう肩を竦めれば、彼はあなたが非道なだけだと言うだろう。ボクは他人の涙を嘲笑いはしなかった。だが、泣く意味を理解する気もない。
ボクは、自分自身の醜悪さを知っていたし。
彼はずっと、それに文句を言い続けてきた。
それなのに彼は泣いた。実に悲しげに、ひどくうるさく。
まるで、とても大事なものを、失いでもしたかのように。
そう、ボクを嫌悪し、怒りを見せ、よく嘆きながら。
何だかんだで、彼はボクを信頼していたらしかった。
あの満開の桜の下で、ボクを見上げた時と同じように。
彼は何かを信じるような目でボクを見ることがあった。
その目自体は、心底どうでもよかった。だが、彼に心から拒絶されていたのなら、ボクは彼を迎えに行きはしなかっただろう。何だかんだでボクは微笑み、彼の手を取った。
けれども、その笑みを、彼はね────────。
別に、何でもないさ。ちょっと理不尽に思ってね。
ピリリリリッ、ピリリリリッ、ピリリリリッ、ピリリリリッ、ピリリリッ、プツッ
「───────定下、か?」
『連絡は既に受けています。生きて帰られたんですね。流石です』
携帯電話の向こう側で定下は滑らかな声で応えた。革張りのシートに背中を預け、僕は頷いた。彼の声の抑揚は、僕達の生還を苛立たしく思っているようにも素直に感心しているようにも聞こえる。その真意は測れそうになかった。即答せずに僕は無言で隣に顔を向けた。僕達の会話に興味はないのか、繭墨あさとは遠ざかる紅い空を眺めている。
僕達は、繭墨家の迎えの車の後部座席に乗っていた。運転席では、相変わらず表情に乏しい男が、ハンドルを握っている。僕達が屋敷から出た数分後、車は連絡もなく迎えに来たのだ。姿は確認しなかったが、門の周囲には監視カメラが仕込まれていたらしい。
僕達が生還した段階で、定下は依頼達成を知ったのだろう。血塗れのシャツも、映像で確認したのだろうか。車内には着替えと、あさとの右手用の包帯まで準備されていた。
色々と用意のよすぎる相手は、腹立たしいほどに、落ち着いた声音で話し続けている。
『呪いを祓われたのなら、そのまま進まれてもよろしかったのでは? 我々は異能者ではありません。ご存じですか? ただの人間ほど、時に形振りを構わないものなのですよ? 車が暴走、崖から転落し、運悪く、お二人だけ逃げ遅れる可能性もあるのでは?』
定下は、ちょっとした冗談だと言うように、喉奥で笑った。口調こそ軽いが、その内容は恐ろしく悪趣味だ。僕は運転手の後頭部に、視線を走らせた。彼は見事に無反応だ。
僕は溜息を吐いた。通話口越しの会話では、仕草は見えないと知りながら肩を竦める。
「それは、考えもしなかったな。親切にどうも。だが、それはないだろう。あさとも、僕も上手く即死させなきゃ、地獄を見るのはそっちだ。母体を失った鬼の暴走についても、孤島で散々、他でもない僕に怒鳴られただろう? そんな危ない橋をお前は渡らないさ……だからこそ、お前は僕達を、あの場所に送り出したんだろう? 化け物の相手は、化け物にさせた方がいい。迷路の攻略に送り出すには、僕達は最高の相手だった」
『……やはり、そこまでお気づきでしたか。恥ずべき指示だったとは、わかっています。ですが、謝罪をする気はございません。こちらも、必死なのですから。我々はただの一般人です。人間の恐怖を理解してくれとは、申しませんよ。何より、貴方がたは我々の思惑を上回り、戻られた。呪いを解いて頂けたことには礼を。素直に賞賛いたします』
「お前は、僕達が戻ることに期待していたのか、そのまま帰らないことを願っていたのか、一体どっちなんだろうな……どっちでもいいよ。お前が本当のことを答えるとは思えない。ただ、お前はあの繭墨家の中にあって、人間の恐怖でルールを変えようとした。それだけでも、相当に強い人間なのはわかる……そうだな。お前は凄いと僕は思うよ」
『はっ? 意味がわかりませんが? 何故、そこで、急に、私を褒めだすのですか?』
定下は困惑したように言った。僕は再び肩を竦める。実際、彼を褒めているつもりなどなかった。どんなに彼が凄い人間だろうとろくでなしなのは変わらない。体制の刷新の為、新たな世代の為、彼があえて非情な判断を繰り返しているのだとしても、人を利用して殺そうとする奴は皆クズだ。だが、僕はそんな人間に対し、あることを伝えなくてはと思った。我ながらお人よしだが、孤島にて繭墨が目覚めた際、定下は錯乱していた。あの時、彼女が囁いた生き神としての言葉を、彼ははっきりと聞いていないだろう。
彼女の遺した言葉を伝えるのが居合わせた僕の義務だと思った。
最も、どうせ繭墨は、それを余計なお世話だと言うのだろうが。
「覚えておくといい。その考えこそ、次代に必要なものだ……きっと、繭さんは、そう言って、再びお前を称賛するよ。あの孤島でのことだ。お前は、覚えてないと思うが」
『誰に否定されようと、神など必要ないという心を、君は忘れないでいることだ、ですか? まさか、また聞くことになるとは……懐かしいですね。ありがたい言葉ですよ』
定下はそう僕の語りを遮った。孤島での繭墨の言葉を、彼は一字一句漏らさず聞いていたらしい。ありがたいと言いながらも、その声には苦々しさが滲んでいた。思わず僕は眉を顰めた。これでは、わざわざ告げた僕が馬鹿みたいではないか。やり取りが聞こえたのか、隣であさとが鼻で笑った。気まずい思いを咳払いで隠して、僕は口を開いた。
「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃないか? お前は聞き逃していると、思ってたんだが」
『それは生き神の言葉です。良くも悪くも、繭墨あざかの呪縛は強い。先代の言葉を、私は聞き漏らすことなどありえませんでしたし、未だ一字一句逃さず、覚えていますよ』
「なんだ、それ。お前ちょっと、気持ちが悪いな。適当に忘れた方がいい気がするぞ?」
『………貴方、なんだか性格が変わりませんか? 歯に衣を着せなくなっていますよ?』
「僕の相手にする面々を考えると、着せてもロクなことがないって、思い知ったからな」
適当に答え、僕は腹を撫でた。余計な考えや遠慮に囚われて、言いたいことを飲み込む気は、今の僕には特になかった。言葉を飲み込み、後で後悔したくない。しばらく沈黙が続いた。やがて、定下は短い溜息を吐いた。彼は観念したような、疲れた声で言う。
『そうですね、私も一つ本音を漏らしましょうか。私は先代を迎えに行って欲しくはありません。彼女は恐ろしい人でした。紅い女の災厄も恐れずにはいられません……ですが、私の背中を押してくれたのは、今考えれば確かに彼女でした。本家に対する無礼の数々を、揺らぐこともなく遂行し終えたのも、生き神の言葉があってこそでしょう。私は彼女が戻ってくることを、歓迎などしませんが……貴方の言葉は、わかる気もします』
「僕の言葉って………なんだ? 僕はお前に賛同してもらえるようなことを言ったか?」
『……お忘れですか。まぁ、いいでしょう。先程の礼に、今度は、私がお教えしますよ』
そこで定下は言葉を切った。彼は深く息を吸い込む。大げさな態度だ。だが、それだけ彼は真剣なのだろう。やがて彼はゆっくりと、喉奥から押し出すように言葉を吐いた。
『繭さんは、そんなに怖い人じゃありませんでしたよ』
記憶が急速に蘇った。ついこの前、事務所で、僕は渡された札束を定下に叩きつけた。そして拳を握り締め、そう訴えたのだ。僕の知る彼女は、そんなわけのわからない怖い存在ではなかったと。定下は小さく笑った。彼は思いがけず、穏やかな声で繭墨を語る。
『彼女は怖い人でした…………ですが、真に恐ろしい人では、なかったかもしれません』
繭墨あざかは人でなしだった。だが、彼女は神として高みから人を縛りはしなかった。
僕は口元に笑みを浮かべ、頷いた。返事もせずに笑う僕を見て、あさとは眉を顰めた。
咳払いをして、僕は前を向いた。繭墨家の敷地は出たが、どこに行く気なのか車は進み続けている。そこで僕はあることを思いついた。運転手にも届く声で、定下に訴える。
「繭さんは、早く迎えに行かなければならない。だが、その前に、どうしても会っておきたい人達がいるんだ。もしも頼めるなら、そこまで僕達を送り届けてくれないか?」
『会いたい、人間ですか。まぁ、構いませんが。特急の駅までで、よろしいですか?』
「いや違う。別の場所がいい。繭墨家とそこは最近になって交流が生まれたはずだ。あの事件後には、運転手もそこまでの道は把握したはずだろう? このまま送ってくれ」
アパートに帰るよりも、そっちに行った方が会いたい人がいる可能性が高い。そこで、一応僕はあさとを窺った。彼は再び窓の外を見ている。賛成する気も、反対する気もないらしい。定下は僕の言葉の続きを待っていた。外を流れる木々を眺め、僕は口を開く。
「唐繰邸に、向かってくれ」
水無瀬家と唐繰家には親交がある。それは水無瀬白峰が、生き人形に興味を持ったが故の縁だ。以来、両家は連絡を取り合える立場にあった。実際水無瀬家の説得に、唐繰舞姫が赴いたこともある。だが、水無瀬家当主と唐繰家当主は、共に浮世離れしていた。
水無瀬白雪は、最近になって携帯電話も持ち始めた。だが、新規の番号の登録は自発的には思いつかないだろう。舞姫もわざわざ尋ねはしない。故に、両者に緊急時の連絡先は存在しなかった。そして白雪の帰還を待たず、僕は唐繰邸を突発的に出てしまった。
水無瀬家に戻っていた白雪に、それを知る術はない。一族の者達を安心させた後、彼女は再び、唐繰邸に戻るはずだ。舞姫も水無瀬家に赴き、騒ぎを起こすよりはと再訪を待つだろう。それならばと、僕は唐繰邸に直に向かおうと考えた。運が良ければ、白雪の再訪を迎えられるかもしれない。そう期待し、僕は定下に送り届けてもらったのだが。
どうやら僕の帰還は、ぎりぎり、間に合わなかったらしい。
「だーかーらー、小田桐さんは行っちゃったんですってばッ! なんで止めなかったって言われたって、今更じゃありませんかッ! 七海の知ったことじゃありませんよッ!」
「御当主ごとーしゅ落ち着いてくださいって慌てても今更ですって、ごとぉおしゅッ!」
その証拠に、扉の向こうではわかりやすい騒動が起こっていた。どうやら僕の不在を知り、パニック状態の白雪を他の人間がなだめているらしい。行き違いになるよりはよかったが、もう少し早く着きたかった。しかもその騒ぎには、何故かここにいるはずのない二人の声が混ざっている。と、言うかほぼ二人の大声しか聞こえない。何がなんだかわからなかった。僕は唐繰邸の古風なドアノブから手を離した。状況を把握せず突入するのは危険だろう。扉にぴたりと張りつき、僕は他の声も聞きとるべく耳を澄ませた。
「だって、仕方がないじゃないですか! 今考えれば何で止めなかったんだって思いますけど、その場の流れと言いますか、何と言いますか……はい、そこのフナムシ説明!」
「俺ェ? えっーと……なんでしょうね。小田桐さんの覚悟っていうか、そこまで思うならって言うか、止めるのも必ずしも正解じゃないって言う気がしたんですよね。でも、それが駄目だって言われれば本当その通りです、うん、だから俺が悪かったですって……御当主ッ! 落ち着いてください、狭い日本をそんなに急いでどこ行くんですか?」
「小田桐殿とて馬鹿ではありませんよ。落ち着かれたのなら、きっとここに来るでしょう。行き違いになるより、待つべきと思いますが……まぁ、あの人は死にやすい向こう見ずですが、大丈夫ではないかと私は思います。私はそれなりに、楽観的な人間ですし」
「そこぉっ、火に油注いでるッ! 落ち着いてください、ってか、御当主、力強ぉッ!」
何故ここに七海と雄介がいるのか。そう思った瞬間だった。バンッと勢いよく扉が開いた。ここで悲劇が起こった。まず、僕は扉に張りついていた。一歩後ろに下がる余裕はなかった。そして白雪は怪力だった。単純な結果として、僕は扉と壁の間に挟まれた。僕は見事に潰れる。そして僕を挟んだままの扉越しに、玄関先から乾いた声が聞こえた。
「────────────やぁ、久しぶりだね御当主」
そう言えば、そこにはあさとがいた。白雪は彼に言葉を返したのだろうか。追って来たらしい雄介が、あーっと何とも言えない声を出した。恐らく玄関先では、白雪とあさとが対峙していることだろう。繭墨あさとは(恐らく肩を竦めながら)淡々と断言した。
「残念だがね、小田桐勤なら、『たった今』死亡したよ」
何をぬかしてくれるのだろうか。あさとの言葉に殺気が爆発する。だが、それは明確な形になる前に、しゅぽんと萎んだ。あさとの『たった今』という言葉に違和感を覚えたのか、あるいは扉越しの変な感触に気づいたのだろう。どちらにしろ、ギイッと軋んだ音を立て、僕の体から扉はめでたく剝がれてくれた。まず雄介が素早く移動し、僕の前に立った。彼は大げさに天を仰ぎ、何故カタコトかと問いたくなる口調で嘆き出した。
「アー、オダギリサンー、ナゼコンナコトニー」
「まぁ、これも運命さ。安らかに眠るがいいよ」
どうやら、僕は勝手に死んだことにされかかっている。
「…………………………………………………………ッ!」
続けて白雪が視界に飛び込んできた。白い着物に包まれた立ち姿は、相変わらず清楚で美しい。その顔はすっかり困惑しきっていた。彼女は大きな目に涙を湛え、僕を見る。
僕は何とか立ち上がり、彼女に挨拶しようとした。だが、体が上手く動かない。どうやら疲労と体の損傷が、限界値を突破したらしかった。そう言えば、空間が半ば異界化していたとはいえ、僕は長く腹に穴が開いたまま動き回っていたのだ。今でも腹は不吉に蠢いているどころの話ではない。それでも僕は全身を叱咤し、半ば無理やり前に出た。
彼女の名前を呼ぼうと口を開く。そこで、視界がぐらりと暗く染まった。
「……………………しらゆき、さ」
「………………………………ッ!」
気絶するならと、僕は意地で、彼女の胸に倒れ込む。
そして、柔らかな腕に抱かれながら僕は気を失った。
目覚めると、僕は羽毛布団の中に埋まっていた。
白雪の腕に倒れ込んだはずだが、現実は非情だ。
くすんだ緑色の天蓋で辺りは囲まれていた。以前と全く同じ目覚めだ。だが、一部違う点もあった。誰の悪ふざけか、僕の両手は胸元で組み合わされている。恐らく雄介だろう。今そう決めた。外からは賑やかな声が聞こえてくる。僕は起き上がると、柔らかな布団の上に膝を突いた。雲のような感触に苦労して這い進み、天蓋から顔を突き出す。
誰が運んで来たのか、部屋には数脚の椅子が置かれていた。そのうちの一つに白雪が座っている。彼女はさめざめと泣いていた。その周りを囲み、幸仁、舞姫、七海、雄介の四人が何かを言っている。あさとはわざわざ遠く離れた椅子に座っていた。久々津は舞姫の隣に立ち、時折、あさとに鋭い視線を投げている。突然、雄介が熱く拳を固めた。
「大丈夫ですって、他でもない御当主に殺されたなら、小田桐さんも本望ですってッ!」
「し、死んでは、いないんじゃないかなぁって………あの………それじゃあ余計不安に」
「ふなむし、シャラップ。女を不安がらせるようなことを言うのは止めなさい。確かに、見事な一撃だったようですが大丈夫です。小田桐さんは日頃からぼっろぼろですし、多少ぺらっぺらになったところで、辛うじて生きてるはずです。まぁそういう運命ですよ」
「そういう運命だよね。小田桐は女に振り回された俺から見てすら、女運が悪すぎるよ」
「ホシミドロ目ホシミドロ科アオミドロ属の藻類は何も言わずに、速やかにゴーホームしなさい。川の安らかなせせらぎが、貴方を待っていますよ」
「まーた、人をそうやって水産物扱いするこの幼女」
「俺如きが口を挟むのは大変申し訳ないとは思うのですがね。アオミドロならば、川ではなく、池の方が適切ではないかと」
「久々津」
「はい、姫様なんでしょうか?」
「お前はなんてかしこいのだろうと、私は思いました」
「お褒めに預かり、身に余る光栄です」
今気づいたが、このメンバーの中には、ツッコミがいない。
僕は全身から汗が吹き出すのを覚えた。取り留めもない会話は延々と続く。さて、どこで遮るべきかと思った時、白雪が顔をあげた。僕と彼女の目が合う。彼女はきらきらと涙の輝く瞳に僕を映した。だが、それ以上反応がない。僕は恐る恐る、片手を挙げた。
「お久しぶりです、白雪さん」
「…………………………ッ!」
白雪は椅子を倒し、立ち上がった。次の瞬間、彼女は見事なロケットスタートを切った。砲弾じみた勢いで、彼女は僕の下へと飛び込む。そして、僕は全力でそれを避けた。
「あぶなっ!」
ボスンッ!
軽い音を立て、白雪は顔面からベッドに突っ込んだ。可哀相なことになってしまったが、今腹に一撃を喰らっては洒落にならないのだ。死因・白雪だけは避けたい。天蓋の支柱に張りつき、僕は荒い息を吐いた。布団に埋まった白雪は動かない。部屋も静まり返っていた。僕は恐る恐る天蓋の外を見る。すると男連中の冷たくも鋭い視線が返った。
舞姫は、あらあらと言うように、掌で口元を押さえている。七海は両腕を組み、仁王立ちしていた。その額には、何故か、青筋が浮かんでいる。まず、男連中が口を開いた。
「あのね小田桐。君が何を間違えようがどうでもいいけれども、一応言っておくよ。その選択は果たして正しいのかい? どう控えめに見ても間違っている気しかしないよ?」
「ないですわー、今のはないですわー。零点ですわー。今までに、小田桐さんから受けた恩とか、色々放り出して言っちゃいますけど、男気ゼロすぎる反応ですわー、ひでー」
「あのですね……あのですね、旦那。俺が申しあげることではないと重々承知の上ですが、貴方にとっての御当主が、私にとっての姫様に当たると思うと、そこで受け止めない男など、潔く死んだ方がマシですよ? 介錯が必要でしたら、お手伝いしますが?」
「お前ら、散々な言いようだな……いや、そこまで言わなくてもぉッ!」
そこで、僕は思わぬ衝撃を食らった。顔面に食い込むこの感触は、クッションだろう。
潰れた鼻が盛大に痛い。塞がれた視界の中、僕はじわじわと現状を把握した。誰かが僕の顔にクッションを叩きつけ、ぐりぐりと押しているのだ。容赦ない。ここまで容赦のない行動をする人間を、僕は一人しか知らなかった。彼女は優しいが何というか怖い。
「ななみふぁん?」
「はぁい、その通りですよ?」
「なぜ、ふぉんなごむたいを」
「ふふふふふっ、七海はですねー、別に彼女の肩を持つつもりも必要もありませんよ? でもですね、そこで抱きついて来た女を受け止めないって、どんだけ唐変木なんですか、この間抜けッ! クッションに包まれて、柔らかく圧死しますか? どうなんですか?」
「どうどうどう、幼女落ち着いて。流石に、殺人事件は見逃せないから。俺とかここにいる連中、結構、嫌な感じに血塗れだから。お前は、心はド真っ黒でも、その手はクリーンでいてください。俺のささやかな夢を壊さないで。お願いだから。なっ、なっ?」
雄介の懇願と共に、僕の顔からクッションが離れた。見れば、クッションを構えた七海の肩を雄介ががっちりとホールドし、僕から離してくれている。フーフーと七海は荒い息を吐いた。見れば事態に飽きたのか、舞姫は優雅に紅茶を飲んでいる。その傍らで久々津も給仕に専念していた。僕は顔をさすり、ベッドの上を見た。気がつけば、白雪は更に背中を丸めている。まるで、ふてくされた猫のようだ。恐る恐る僕はその背中を撫でた。白雪はぴくりと震える。だが、顔をあげてはくれない。僕は慌てて語りかけた。
「白雪さん、すみませんでした。お願いですから、顔をあげてください」
「…………………………………………………………………………………」
「白雪さん、あの、避けたのには事情が」
「ちぇすとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
「幸仁ォッ!」
突然僕は新たな暴力に襲われた。クッションを構えた幸仁に、横っ面を殴られる。慌てて逃げる僕に、幸仁はぶんぶんとクッションを振り回し、追撃を加えた。えげつない。えげつないほどに、容赦がない。何でかはわからないが、幸仁は無茶苦茶に怒っていた。
「白雪、様に、好かれて、おいて、それは、それは、許されざる悪ッ!」
「落ち着け幸仁、お前、なんだか変な方向に行ってないかッ! ブッ!」
「許し難き極悪な所業には、いつか運命から、ふさわしき天誅が下ると」
「はいはい、幸仁も落ち着けって。お前が殴ったってしょうがないって」
再び寄って来た雄介がひょいっと幸仁を確保してくれた。彼は幸仁を引きずり、僕から距離を取る。僕は顔をさすり、改めて辺りを見回した。あさとは氷点下を下回った冷たい目で、僕を見ている。七海は椅子にどっかりと座り、幸仁はじたばたと暴れていた。雄介は溜息を吐いている。舞姫は紅茶のカップを優雅に傾け、僕に片目を瞑った。その隣で、久々津は澄ました顔をしている。表情を翻訳するなら、『自業自得ですので、俺は知りません』と言ったところだろう。僕はゆっくりと左腕を撫でた。丸まった白雪の背中をぽんぽんと触る。それから、全員の顔を再び見回した。思わず発作的に口を開く。
「───────────────ただいま」
「「「「それより、その人を何とかしなさい」」」」
最もな答えが返ってきた。僕は頷き、改めて白雪に向き直った。困ってしまった。彼女には話したいことがたくさんある。だが、鉄壁の防御姿勢は崩れそうにない。こうしていられる時間はあまりなかった。僕は早く、繭墨を迎えに行かなければならないのだ。
この中で現状を正しく知っているのは、あさとだけだ。彼は、これからどうする気だと問うように、僕を見た。僕は困って腕を組んだ。そこで雄介がひょいと片手を挙げた。
「えーっとですね、小田桐さん。結局繭墨さんを迎えに行くのはどうなったんですか?」
「そのことだが行き方と……後これは偶然だったんが、方法の確保もできた。が、その前に、な……お前達にも会えてよかったが、何で七海さんと雄介は、ここにいるんだ?」
「いやー、小田桐さん止めそびれちゃいましたけど、心配になりまして。あと、御当主にも伝えたいけど、電話じゃ向こうが惨劇になるだろうし、暴走しがちな御当主には、止める人間がいないとまずいだろうしで、こっちに。えーっと、この幼女はですけど」
「見てないところで、また誰かがいなくなるのはごめんなんですよッ! いい加減、首ツッコみますよッ! 人の日常を粉々にしやがって、絶対に、許しませんからねッ!」
七海は大声で叫んだ。そのツインテールは、やはり心なしか浮き上がって見える。彼女は本気で怒っていた。だが、その言葉の中には優しさも溢れている。僕は目を閉じた。
ここに集まってくれた人達は、皆、僕にとって大事な人々だ。そして別れがたい面々だった。だが、もう時間はない。僕は拳を握り締めた。諦めて言葉を飲み込み、後で後悔したくはなかった。他でもない丸まった人に、伝えなければならないことがあった。だが、彼女は頑固だ。仕方がない。僕は自分の体調を確かめた。さっき倒れたのが逆によかったのだろう。なんとか、体には力が入りそうだ。これなら、強引な手段も取れる。
僕は立ち上がった。白雪の腰に手を当て、そのまま力を込める。
「白雪さん…………失礼しますッ!」
「─────────────ッ!」
僕はひょいっと彼女を抱え起こした。びっくりして固まった体をひっくり返し、ベッドに降ろす。そのまま足の下に腕を差し入れると、姫抱きにした。彼女を抱え、僕はベッドから降りた。想像よりも重量がある。崩れ落ちかけたが何とか耐えた。僕は廃ビルにて彼女を運んだこともある。だが、その時は無我夢中だった。今の方が重く感じられる。だが、倒れるわけにはいかなかった。内心の焦りを飲み込み、僕は皆を振り返った。
目を丸くした顔達が、僕を見ている。その中で、久々津だけが、穏やかに笑っていた。
「────────パーフェクトですよ、旦那」
お前に何がわかるのかと、ちょっと言いたい。
僕は白雪の顔を見た。彼女は全身を強張らせ、目を見開いている。次の瞬間、その頰が真っ赤に染まった。ぷしゅーっと湯気でも吹き出しかねない様子で、白雪は慌て出す。彼女はあわあわと僕を殴った。正直かなり痛い。僕は猛攻に耐えながら息を吸い込んだ。
余計な考えや遠慮に囚われて、言いたいことを飲み込む気は、今の僕にはなかった。
だから、僕は大声で、今までならば、決して口にしなかったようなことを宣言した。
「僕達は、今から、デートに行ってきますッ!」
沈黙が広がる。それからワッと声が爆発した。幸仁の目から、大粒の涙が零れ落ちた。七海が拳で机を殴る。雄介がわーおと手を叩いた。舞姫はくすくすと笑いながら久々津の腕を抱き寄せた。あさとは呆れたように溜息を吐き、天井を仰いだ。白雪は動かない。
彼女は拳すら止めて、固まってしまっていた。彼女を腕に抱えたまま、僕は走り出す。
後ろから次々と声が追いかけてきた。賑やかなそれを聞きながら、僕は速度をあげる。
「ばっかじゃないですか、ばっかじゃないですか、死んじまいなさいこの野郎ッ、行ってきなさいよバカーッ!」「幼女、お前、なんかいい奴」「うっ、ううっ、うううっ、白雪様が、白雪様が、幸せならそれで……お幸せに」「幸仁、お前多分それちょっと早い」「いいですね。久々津。こういうのはとてもいいと、私は思います」「えぇ、姫様、私もです」「なぁ、その……アンタはなんか言わねぇの?」「別に言うことなんてあるものか」
そのまま、僕は勢いよく外に飛び出した。戻るまで待機していてくれた繭墨家の車に飛び乗り、行き先を告げる。運転手は無言のまま、了解したというように車を走らせた。
僕の頼んだ通りに、車は駅で止まった。僕達は降りる。
そして、次の瞬間、僕は白雪に見事な巴投げをされた。
何故、公衆の面前で投げられたのかと問いたい。
ざわざわと騒ぐ人々の中で、僕は大の字になっていた。後ろでは、僕を投げた姿勢のまま、白雪が荒い息を吐いている。その更に後ろで、何もかも察したというかのように、車のドアが閉まった。澱みない動きで、車は発進し、場を後にする。実に正しい選択だ。
僕はよろよろと立ち上がった。真っ赤な顔で、僕を睨みつけている白雪に問いかける。
「し、白雪さん、何故、投げるんですか」
「………………ッ! ………………ッ!」
「す、すみません。何を訴えられているのかわかりません」
無茶苦茶に口を動かしていた白雪は、喋るのを止めた。彼女は懐を探る。白雪は扇子を取り出し、矢立から筆を抜いた。素早く文字を綴り、彼女は扇子を、僕に突きつけた。
『何故、こっそり誘わないのですかッ!』
「あっ……デート自体が嫌なわけじゃないんですね。よかったです」
僕がそう胸を撫で下ろすと、白雪はぼんっと真っ赤になった。よろよろと、彼女は膝を折る。その背中がくるりと丸くなった。思わず見守ってしまったが、そんな場合ではない。僕は彼女に駆け寄った。再び鉄壁の防御姿勢になってしまった彼女に話しかける。
「あの、白雪さん、顔をあげてください」
「……………………………………………」
「恥ずかしがらせてしまったのは悪かったです。強引なことをしてしまい、本当にすみません。ですが、僕はどうしても貴方と、白雪さんと二人きりになりたかったんです。そして……貴方に、僕は言わなくてはならないことと、言いたいことが、あるんです」
『もうやめてください、はずかしい。だめです。しんでしまいます』
「すみません……あの時間がなくてですね。特急の時間が微妙なところで、その貴方と奈午市に行きたくて……このままだと、さっきの運び方で運ばせてもらうしか、がッ!」
ゴンッと僕の顎に白雪の頭が当たった。突然、立ち上がった白雪は、扇子を引っ込め、下から僕を睨みあげる。その頰は赤く染まったままだが、眼光はブチ切れていた。彼女の中で、何かが臨界点を超えたらしい。異様な気迫を感じる。僕は恐る恐る問いかけた。
「あの、白雪さん」
「フッ!」
裂帛の気合いと共に、彼女は短く息を吐き出した。次の瞬間、視界がひっくり返った。
白雪に足を払われたのだと、僕は遅れて気がついた。その時には、既に僕は彼女の腕に抱き上げられていた。水無瀬家の当主は、体術、武術共に優れている。時に巨大な筆を操る彼女の筋力は、常人の比ではない。確かに、本気を出せば、僕を運べる疑惑は抱いていた。だが、実践して欲しくはない。僕を抱えあげ、白雪は得意げな顔をしている。
「なんで、僕がお姫様抱っこされるんですかあああああああああああああああああッ!」
「……………んっ!」
僕の訴えに、彼女は実に得意げな顔のまま走り出した。その腕は微妙に震えているが、しばらくの間、僕を落としそうにはない。周囲の視線が物凄く痛かった。中には写真を撮っている人までいる。ネットに流すのだけは、勘弁して欲しい。だが、白雪は止まってはくれなかった。僕はヤケクソで、彼女に発券所の場所を告げる。思わず顔を覆った。
僕の予定は狂いまくっていた。格好がつかないにも程がある。何もかもが無茶苦茶だ。
それでも、そんな無茶苦茶さも、僕達らしいと。
彼女に運ばれながらこっそりと僕は思っていた。
列車の中で確認したが、携帯電話には、からかいや罵倒のメールが大量に届いていた。
主に、雄介と幸仁と、七海からだ。頼むから、応援するか、そっとしておいて欲しい。
隣の席では、白雪がすっかり小さくなってしまっていた。自分のしたことが、突然恥ずかしくなったらしい。そこまで照れられては、僕まで真っ赤になってしまう。僕達は移動している間中、目が合っては逸らし、指先が触れ合ったら離しと、実に忙しく時間を過ごした。やがて僕達は奈午市に辿り着いた。カッチカチに固まっている白雪の手を取り、駅に降りる。随分時間が経っていた。空は暗く染まり始めている。握り締めた白雪の手は、汗ばんでいた。僕は彼女を連れ、駅を急いだ。前を向いたまま早口に尋ねる。
「あの白雪さん、僕には行きたいところがあるんです。面白い場所ではありません。デートとは、とても言えないかもしれません。それでも、一緒に来てもらえませんか?」
僕の言葉に白雪は頷いてくれた。彼女を連れ、僕は地下鉄の入り口に向かう。確かにそこは愉快な場所ではなかった。だが、僕はどうしても、再びそこに行きたかったのだ。
地下鉄とバスを駆使し、僕達は移動した。幸いにも、白雪はそれだけで興味深そうな顔をしてくれた。地下鉄を、利用した経験はないらしい。券売機のボタンを押すだけでも、喜んでくれたのはありがたかった。そして、僕達は夜道を歩き、そこに辿り着いた。
記憶の中の場所は、変わらずにそこにあった。
桜並木の先に、一軒のマンションが聳えていた。坂の両脇に並んだ桜は、たくさんの蕾をつけている。もうすぐ白い花が狂い咲くことだろう。春には見事な景色が広がるはずだ。その華やかな光景を僕は未だ覚えていた。何があっても忘れることはないだろう。
僕と繭墨は、遠い春の日にこの坂の上で出会った。
満開の桜が並ぶ坂で、彼女は僕の手を取ったのだ。
ぐらりと視界が揺れた気がした。白雪に支えられながら、僕はマンションの前に立つ。
あの時、このマンションに人がいた記憶はなかった。だが、今は普通に入居者がいるらしい。桜並木の先のエントランスにはオートロックが掛けられていた。入居者がパネルに数字を打ち込むと中に入れる仕組みのようだ。インターフォンはついているが、通してくれる知り合いなどいない。外観は同じに見えるが、マンションは改装されていた。
立派な造りのエントランスから、僕は一歩後ろに下がった。白雪は不思議そうに、建物を見上げている。彼女の背後に、僕は視線を移した。乾いた道路を見て、目を細める。
静香の飛び降り死体は、確かその辺りに、落ちていたはずだ。その亡骸は闇に消えた。ここであったことを、入居者は知らない。そして、これから先も知ることはないだろう。
もう二度と、誰かが屋上から落ちることなどないのだ。
「地下鉄でお話しした通りです、白雪さん。ここで、僕は狐に子宮を押し込まれました」
「………………………………」
「ここが始まりでした……正確にはもっと前です。でも、ここが全ての転機でした。ここで僕は子宮を腹に入れられました。そして、繭さんに、繭墨あざかに出会ったんです」
真剣な顔で白雪は頷いた。惨劇の痕跡を探してか、彼女は辺りを見回す。だが、ここには何もなかった。一人が死に、一人の人生が狂ったというのに、ここには何も残っていない。入居者だろうか、書類鞄を持ったスーツ姿の男性が、怪訝な顔で僕達の傍を通り過ぎた。彼はエントランスの中へ消える。そろそろここを立ち去った方がいいだろう。
僕は坂に向き直った。再び、あの日のことを思い出す。
満開の桜が咲いた道で、僕は繭墨に出会った。
その少女は、まるで悪魔のように美しかった。
ここから全ては始まったのだ。僕は強く白雪の手を握った。彼女からすれば、何故ここに連れて来られたのか、よくわからないだろう。だが、彼女は当然のように僕の手を握り返してくれた。久々津ならば、このデートコースを何と言うだろうか。零点だと冷たく言い放つに違いない。だが、これから先の場所を僕はどうしても見ておきたかった。
本当は、他の選択肢もあるのだろう。過去などどうでもいいと、残りの時間を楽しむこともできる。白雪と素敵な思い出を作るのもいい。だが、僕にはそれを選べなかった。
僕はどうしても、小田桐勤の歪んだ人生を、もう一度振り返っておきたかったのだ。
できれば一人ではなく、大切な誰かと一緒に。
「白雪さん、僕は僕の彷徨った場所を、見ておきたいんです。今までの日々を振り返って心の整理をしておきたい。これから行く場所にも、ついて来てはもらえませんか?」
貴方がいてくれて初めて、僕は止まらずに、歩くことができると思うんです。
白雪は大きな目で、僕を見上げた。何故振り返りたいのかと、計るような目が僕を映す。だが、彼女は何も言わなかった。数秒後、僕の下らない提案に彼女は頷いてくれた。
『………あなたの行きたいところが、私の行きたいところです』
白雪はそう口を動かす。そして、僕の手を強く握ってくれた。
次に僕達は猫と狐が事件を起こした、廃ビルに向かった。
場所はうろ覚えだったが、よく辿り着けたものだと思う。
確かこの辺りだと僕が場所を告げた時、タクシーの運転手は実に怪訝そうな顔をした。心中でもするつもりかと、疑われたのかもしれない。廃ビルは、厳重に封鎖されていた。だが、窓は割れている。ガラス窓の跡から、僕達は中に入った。ビル内部に人気はない。
狐の事件と猫の事件を経て、廃ビルは再び空になっていた。以前は警備員を入れていたはずだが姿はない。タクシーの運転手の話では、このビルは四月に解体され、跡地には新たなビルが建設予定だという。猫の事件の際、ビルの持ち主である女性信者の親族と繭墨家の間で交渉は難航していたはずだ。だが、分家が実権を握ったことにより、交渉内容も変化したのだろう。今やビルの中には、解体を待つ虚ろな灰色が広がっていた。
狐が入れた設備どころか、事務机や椅子の類いもない。防火扉すら、撤去されていた。床には空き缶や煙草が散らばっている。廃棄された建物の定めか誰かが侵入しているらしい。だが、侵入者はかつてここに生き人形がひしめき、一部が異界化し、花が飾られ、死体が落ちていたとは、想像もしないだろう。僕達は空き部屋を巡り、上階へ向かった。
志月が落下した階段で、僕は立ち止まった。今、そこで、僕は白雪と手を繋いでいる。志月の指が切れる感触が掌に蘇った。白雪を先に行かせ、僕は階段を見降ろした。指を切断した彼女は今どうしているのだろうか。僕は少女達の事件を思い返した。人への執着が歪な想いが、人を壊した事件だ。志月と共に生き残った小鳥も最後には人を捨てた。
皆死んじまえと、彼女は悲痛に叫んだ。猫の甘い声が、狐の嗤い声が、それに重なる。
そして、この場所には、もう何も残っていない。
「──────────行きましょう、白雪さん」
猫が自殺した階には、辿り着けなかった。上階への階段は、丁寧に破壊されている。狐と猫が使用していた六、七階は、触るべきでない忌み場所と繭墨家は判断したらしい。
僕は白雪を連れて外に出た。行きたい場所は他にもある。日傘と灯の家を思い出した。だが、あそこには車がなければ行けない。あの家は、今も静かに佇んでいるのだろうか。
誰も帰って来なくなっても、あの場所は、明るく飾りつけられたままなのだろうか。
僕は首を横に振った。それから、静かに目を閉じる。しばらくして、僕はふっとある場所を思い出した。じわりと掌に汗が滲んだ。それでも、僕は決意を固め、歩き出した。
その場所には、辿り着くことなど絶対にできない気がした。
だが、あっさりと、当然のように、僕達はそこに到着した。
タクシーを降り、僕は呆然と、目の前の光景を見つめた。
辺りには何の変哲もない、寂れた住宅地が広がっている。
運転手に覚えている住所を告げるだけでも、体が震え出したのだ。さっきから全身の震えが止まらない。励ますように白雪は僕の手を握ってくれた。それに縋り、僕は何とか目の前の光景を睨んだ。そこに佇む家を、網膜に焼きつけようとするかのように、強く見つめる。赤い瓦屋根の家は、記憶の中の物より小さく見えた。まだよく覚えている。
塀の内側には、狭い庭があり、その向こうには、建てつけの悪いガラス窓があるのだ。
玄関は狭く、廊下は古く、台所は薄汚れていて、家族仲はいいとも悪いともいえない。
二階には漫画本が散らばり、服が適当に掛けられた一般的な子供部屋がある。そこを使っていた一人息子は、何と高校の後輩と駆け落ちしたらしい。彼は一切の連絡を絶ち、家には戻っていなかった。父親と母親は怒り狂ったことだろう。特に父親は、世間様に顔向けができないと、僕のことを勘当状態にしたはずだ。疲れた背中を、僕は思い出す。母はきっと僕を想って泣くこともあるだろう。父は時折深い溜息を吐いているのだろうか。あの二人は僕の不在を、今はもう当然のものとして日々を過ごしていることだろう。
この場所に、気安く戻ることなどできなかった。
二人を食い殺してしまう可能性があったからだ。
腹に鬼を入れられ、僕は過去の絆を断った。以来、僕はこの場所を思い返すことを意図的に避けてきた。そのせいもあり、昔の知人の顔や友人のことは既に朧にしか思い出せない。この場所のことも、遠い夢のように感じていた。だが、実際に来てみると、この家は何も変わらず、現実に存在していた。握った手が更に震える。喉奥が熱く燃えた。
僕は唇を強く嚙み締めた。漏れかけた呻き声を殺す。そして、僕は小さく吐き捨てた。
「─────────僕の、家です」
白雪は息を飲んだ。彼女はそっと僕の腕に手を添える。どうするのかと問いかけるように、彼女は僕を見上げた。温かな光の漏れる玄関に、白雪は視線を移す。僕は首を横に振った。中に入る気はない。僕がどんな時間を送って来たのか、彼らには到底話せなかった。それに、どうせ戻れはしないのだ。このまま僕のことは忘れてくれた方がいい。
それに、今の僕にとって、ここはもう帰る場所ではなかった。
かつての僕が住んでいた場所に、懐かしい人達に、僕は呟く。
「さようなら………………どうか元気で。せめて、ずっと元気で」
僕は、首を横に振った。そして、白雪の手を取って歩き出した。
頭上には夜空が広がっている。白い月を仰ぎ、僕は涙を拭った。
そのまま、僕は、ある場所に向かうことにした。
かつての通学路を通り、僕は、そこに辿り着いた。
そこは少し前にも、訪れたことのある場所だった。
校門を乗り越え、僕達は砂漠のような校庭に立った。薄汚れた校舎は、濡れたような灰色の影を纏っている。やはり、その外観からは古い水槽めいた印象を受けた。あさとに連れられ、以前僕はこの校舎を巡った。結局、あの時、彼が何故僕を此処に呼んだのかはわからないままだ。彼は少女の起こした怪異に便乗し、人の悪意を再び僕に示した。
そして書庫にて、僕と決着を着けようとしたのだ。それが、どんな感傷から生じた行動だったのか、僕には未だにわからない。推測はできる。だが、恐らく一生理解することはできないのだろう。僕はそう諦めていた。人と人とはそういうものだ。わかって欲しいと願いながら、あるいはわかってもらうつもりはないと諦めながら、人は時に無茶苦茶な行動を取る。それに直面した時は、相手の考えを計り、想いを組み取るしかない。
そういう意味では、狐の行動は、常に十分すぎるほど、人間らしかった。
考えるのを止め、僕は後ろを振り向いた。白雪は、興味深そうに、鉄棒を撫でている。鉄棒を授業で使用した覚えはなかった。昔は使用競技があったのだろうが、僕の代には消えていたのだ。白雪は、これは何かと問うように僕を見た。僕は鉄棒に飛びつく。腹につかないよう注意して、前に回った。僕が下りると白雪は頷き、鉄棒を摑んだ。着物のまま彼女は器用に前回りをする。着地し、彼女は得意げに僕を見た。僕は頷き、その頭を撫でた。彼女は嬉しそうに笑う。再び鉄棒を回り、降りると、白雪は扇子を開いた。
『こうして、小田桐殿の過ごした場所を見られて、私も嬉しいです。それに、私は学校というものに、行ったことがありません。驚きました。とても、広い場所なのですね』
「ここで過ごしている時には、不思議なものですが狭いとすら感じていましたよ。僕はここで静香とあさとと過ごしました……何でしょうね。今思い返しても、やっぱりあの時間は楽しいものでした。僕には今でもわかりません。あの時間が、一体何だったのか」
狐は何を考えていたのか。僕達は何故友人でいられなかったのか。
アイツが狐を辞め、僕を助けてくれるようになった、今でさえも。
僕の言葉に、白雪は何も言わなかった。ただ、彼女は前に出ると、ぎゅっと僕の手を握ってくれた。僕は彼女に頷き、校舎へ向かった。今日は案内人の少女もいない。扉や窓には、鍵が掛かっているだろう。守衛に出くわす可能性もある。中には入れないだろうが、窓から教室を覗けないだろうか。そう考えながら、校舎の傍に来た時だった。突然、白雪は僕の上着の袖を引いた。僕は立ち止まる。同時に、巨大な何かが風を切った。
─────────ドサリッ
目の前に、何かが落下した。
脳裏に鮮烈な映像が閃いた。静香の白い体が落下する。呆気なく、それは地面に叩きつけられた。体から様々な物をぶちまけ、彼女は死ぬ。その死は闇に葬られ、なかったことになるのだ。腹が大きく蠢いた。白雪と繋いだ手に冷や汗が滲む。吐き気に耐えながら僕は落下物に駆け寄った。必死に心を落ち着かせ、それを覗き込む。考えてみれば、それは僕とは、無関係な代物だった。だが、事件に慣れた頭は、勝手に分析を開始する。
それは歪で、巨大な白い人形だった。僕は深く眉根を寄せる。
人間ではない。それどころか、これは生き物でさえなかった。
それは文字通りの人形だった。シーツを縫い合わせたのだろう。白く厚い布の中には、赤黒い何かが詰められている。端的に言えば、それは腸の代わりに布を使用したソーセージだった。太い手足の先には、何故か電極が取りつけられている。腹には無数の足形がついていた。粗い縫製の隙間から、血肉が食み出している。誰かに腹を踏みにじられたかのようだ。これと似た物を、僕はかつて見たことがあった。僕は顔を上に向ける。
そこには誰もいないように思えた。だが、そんなはずがない。
これを投げ落とした人間が、屋上には立っているはずだった。
先程訪れたマンションを、僕は思い返した。同時に過去に関わった事件が頭を過った。
自殺した静香が、海に飛び込んだ男が、窓から落ちた猫が、袋を被され、投げ落とされた職員が、次々と思い浮かぶ。気がつけば、僕は走り出していた。屋上に誰かがいる以上、どこかの鍵は開いているはずだ。だが、主な経路を調べる前に、渡り廊下から校舎に繋がる扉が開け放たれているのに気がついた。僕はそこに飛び込む。背後から白雪の足音が続いた。彼女は僕を止めなかった。白雪もあの人形に異様なものを覚えたのだろう。僕達は屋上を目指した。一心に階段を駆け昇っていると、妙な既視感に襲われる。
いつも、こればかりだ。昇るか下るか、僕の人生にはそれしかなかった。
何かを追いかけて、上へ、上へ。そして、何かから逃れて、下へ、下へ。
屋上で僕は静香が飛び降りるのを見た。そして腹に鬼を入れられ、運命を変えられた。
今、人の世よりも更に深い場所へ、異界へと降りる前に、僕は再び上へ向かっている。
重い金属製の扉に飛びつき、僕は押し開いた。冷たく、分厚い風の塊が、全身を叩く。
屋上には濁った夜が広がっていた。重量すら感じさせる、黒い空が間近にある。かなりの速度で、そこには雲が流れていた。白い月が、小さな星が、雲に隠されては現れる。
切れ切れの月光に照らされた床の上には、赤いチョークで魔法陣じみた模様が描かれていた。素人目にもわかるが、それは複雑に見えて何の意味もない、でたらめな代物だ。その傍には金属製の箱も落ちている。化学室から持ち出した電源装置だろう。魔法陣の端には、見覚えのある姿が立っていた。レンズが厚手の眼鏡をかけ、灰色のロングコートを着た地味な印象の娘が、黒髪を風に遊ばせている。彼女は溜息を吐き、顔をあげた。
「あれ? お久しぶりですね………なんで、ここに貴方達がいるんですか?」
狐に頼み、降霊会を開いた少女は、驚いた顔で言う。
その靴は何かを踏んだかのように、赤く濡れていた。
「君は…………あの時の」
「そうですよ。あの時の、です。今日は、お狐様は一緒じゃないんですね? 寂しいな」
少女は残念そうに呟いた。彼女は、数日前にこの高校で開かれた、降霊会の主催者だ。
血肉を詰めたおぞましいぬいぐるみの中に、彼女は死んだ友人の魂を降ろそうとした。
ローファーを履いたその足は、真っ赤に血濡れている。僕は魔法陣に残る血痕に、視線を移した。それは、屋上を囲むフェンスの下部の隙間を通過した直後、途切れている。
フェンスには、かなりの量の糸と血肉が、引っかかっていた。少女は狭い隙間から無理やり人形を押し出したらしい。屋上には異様な光景が展開されていた。だが、校舎は平然と静まり返っている。僕は歯を嚙み締めた。かつてこれと似て非なるものと僕は過ごしたことがある。狐と静香との一見優しく、爆弾を孕んだやり取りが、脳裏に蘇った。
腹部が震える。僕には、断言することができた。
この少女は日常の中に、突然生じた異常だった。
その姿に、別の姿が重なった。鬱屈とした学生寮から脱出しようとした少女達を、僕は思い出した。その憎悪と愛情は最悪の結末を招いた。先程まで、過去を振り返っていたせいだろうか。少女の平然とした顔に、様々な姿が重なっていく。繭墨の事件の、加害者や被害者が、壊れた人間や、望んで獣になろうとした人々の顔が、目の前を過った。
彼女は掌を組み合わせ、困ったように僕達を見ている。僕達がここにいては、扉から外に出られないからだろう。僕は口を開いた。答えを予測しながら、彼女に問いかける。
「君は、何をしてるんだ……いや、何であんなものを作ったんだ?」
「あんな物って心外ですね。一生懸命詰めたのに。急に来て、馬鹿にしないで下さいよ」
「中身は何だ……前の兎のぬいぐるみよりも、肉の量が増えていたが、人間、なのか?」
「失礼なことを言わないでくださいよ。それはあまりに急すぎます。物事は段階を踏まないと。とりあえず、試してみたのは犬の肉ですよ。最近は野良犬もいないんで、仕入れに苦労しました。お風呂場も大変なことになっちゃったし、包丁だって高いのに。で、他には何か聞きたいことってありますか? 私そろそろ帰ろうと思ってたんですけど」
「アレには電極がついていたが何をしていたんだ。いや、言わなくてもいい大体わかる」
そこで僕達は、澱みなく続けていた会話を止めた。僕は大きな溜息を吐く。少女は馬鹿にするように肩を竦めた。隣からは、白雪の困惑した気配が伝わってくる。それも当然だろう。彼女はこの少女と会ったことがない。また、僕と少女の会話は、ある了解の下に進んでいた。今。少女は日常から逸脱した何かを行っていた。彼女はそれを悪い行為と考えていない。僕はそれを悪い行為と考えている。少女もそのことを了承していた。だが、説教を聞く気はない。それを承知の上で、僕は扉を背中で塞いだまま少女と話し続けていた。互いにわかり合えないことを前提に、僕と彼女は茶番じみた会話を交わす。
「あの降霊会の夜、君は動き出したはいいが、意に反して君に襲い掛かった肉に対して、『面白くない』と感じただろう? だから、君はやり直そうとした……死肉を詰めた袋と通電の為の装置と魔法陣、か。大体想像はつくよ。降霊でも、化学でもフランケンシュタインでも何でもいいらしい。君は適当な知識を繋ぎ合わせて、自分の思い通りに動く肉を作ろうとしたんだろう? 君は、先日、狐が起こした怪異の再現を目論んだんだ」
そのくらいのことは僕にも判断がついた。目の前の光景と、先程落下してきた肉袋は、如実に彼女の目的を語っている。また、その結末がどうだったかも簡単に予測ができた。
「だが、それは失敗した。苦労して準備し、運んだ肉袋は動かなかった。それで、君はそれを踏みにじり、屋上から投げ捨てた………直ぐに、癇癪を起すのは止めた方がいい」
そうしないと、僕達みたいのが来るからな。
僕の言葉に、少女は再び肩を竦めた。失敗は当然の結果だ。アレは狐だからできる芸当だった。一般人に再現はできない。だが、少女の目を見て、僕は思わず寒気を覚えた。
失敗したにも拘わらず、その目は爛々と輝いている。未知の領域への興味で、彼女の頭は満たされていた。僕は知っている。時に、こうして、人は人の道を逸れて行くのだ。それが当然であるかのように、簡単な切っ掛けで、人は人を傷つける側に立とうとする。
「まぁそうですね。でも、それが貴方に関係あるとも思えないんですけど……えっと、理由とか聞かないんですか? お約束の質問が来ないって、何だかざわざわしますから」
「理由なら、大体予想はついている。君がそう言うなら、言ってもいいがな」
「へー、そうですか、どうぞ言ってみてください。隣のお姉さんもご一緒に」
彼女は元気よく言った。僕は僅かに隣を見る。少女の理由など思いつかないのか、白雪は更に困り顔になっていた。僕はそれでいいと思った。彼女には、少女が何故こんなことをしたのか、わからないままでいて欲しい。だが、僕には容易くわかってしまった。
それこそ、吐き気がするほど、簡単に。
いっ、せー、の
「「退屈だったから」」
彼女の合図と共に、僕は答えた。それに、少女の声が重なる。僕は重い溜息を吐いた。
それはわかりきった答えだった。少女はこの日常に退屈している。以前、あさとが言った通りだ。彼女には重大な欠落が存在していた。人としての倫理観が欠け落ちている。
以前、少女は嬉々として、おぞましい肉人形の中に、友人の魂を降ろそうとした。彼女は興味を持った対象へのブレーキが壊れているのだ。それこそ、自分が楽しければ何でもやるだろう。僕はじっと彼女を見た。眼鏡の向こう側の目は嗤ったままだ。動物を殺し、人形を落としたことは犯罪に該当する。降霊会のことで、彼女は教師から既に指導も受けただろう。だが、今僕達に目撃されたことを彼女は何とも思っていないらしい。
足元の魔法陣を、靴底で踏み消しながら、彼女は歌うように囁いた。
「家でやってみたら、動かなかったんですよね。だから、前に動いた学校に来たんですけど。教室の合鍵は取られちゃったんで。月が近いし、他に鍵を持ってる中じゃ、屋上がいいかなって。でも、人が来る前に逃げなきゃいけないのは、変わらないんですよね。どいてもらえませんか? 私、そろそろ帰りたいんですよ。やっぱり、夜はまだ寒いし」
「僕達に見つかったことは、何とも思わないのか?」
「だから? そうですね。前の人形のこともありますから、これが発見されたら私だって即バレですよね。その前に、コイツは裏の側溝に押し込んでおくつもりです。見つかるのは数日後、いい感じに崩れて、腐敗してるでしょう。ちょっと状況が異常ですから、学校は不審者の仕業ってことで、片づけると思います。私、成績いいんです。学校も薄々疑ってても、進学率はあげたいし、親とぶつかりたくないし、疑っているからこそ、適当に済ませますよ。都合よく目を逸らせる状況にしてやれば、向こうはそう動きます」
いいですか、コツがあるんです。
「上手いこと逃げ道を作ってやればいい。そうすれば彼らはそっちを見ます。貴方達は見たところ不法侵入ですし、学校に連絡して、無理にその顔を動かそうとしたって、人は見たくないものは見ませんよ。それに信じさせたところで、何の得があるんですか?」
私と貴方達は、無関係でしょう? 正義感なんて、それこそ犬に食わせてくださいよ。
紅い唇をちろりと舐め、少女はそう語った。確かに、彼女の言う通りだ。少女を告発したところで、僕には何の得もない。彼女が罪に問われ、進路に影響が生じても、僕には無関係だ。周囲の大人が、少女に適切な対処をできるとも思えない。僕達はこの場所に、懐かしい記憶を辿りに来ただけだった。目を背ければ、それで終わるだろう。だが、と僕は内心深い溜息を吐いた。何故、こんなタイミングでこんなものに会うのだろうか。
何故、一度の邂逅では収まらず、こうして、二度目が存在してしまうのか。
僕はあさとの言葉を思い出した。この少女はどう育つのだろう。今少女は目を輝かせて、深淵を覗き込んでいた。退屈だというそれだけの理由で、彼女はいつの日かそこに飛び込むことだろう。動物の肉を使っていた実験は、当然のようにエスカレートしていくに違いない。なるほどと、僕は溜息を吐いた。こういう人間が、繭墨好みの事件を生み出すのだ。この少女のような望んで陰惨な事件を引き起こした人間を、僕は今まで何度も見てきた。こうして再会したことも運命かもしれないなと、僕は諦めと共に考える。
今だからこそ意味があるのだろう。僕は彼女を変えなければならなかった。彼女が将来起こす事件は今止めるべきだ。先程あさとが言っていたことに、僕は心から賛同した。
確かに、僕は女運が悪すぎる。
「あぁ、何の得もないな。だが、僕には君を放っておくことはできない。僕は君によく似た、だが、全く似ていない人間を、何人も見たことがある……彼らは全員、ロクな結末を迎えることはできなかった……このままだと、君も遠からず、そうなるだろうな」
「なんですかそれ。わけわかんないんですけど。似てるのに似てないって、おかしな話」
「色々な理由があって、獣になることを選んだ人間だって、僕は知っている。でも、君には、全く理由がない。理由がないから戻れるし、理由がないから、凄く下らないんだ」
「…………くだ、らない?」
少女は眉を跳ねあげた。やはり彼女はプライドが高い。僕は先日の降霊会を思い返した。彼女の異常な行動に僕は気圧された。だが、今考えれば怯える必要はなかったのだ。
少女の行動には、意味も理由もない。僕は息を吸い込んだ。放っておけるならそれでもよかった。そっちの方が面倒もないだろう。だが、僕の頭の中で様々な存在が笑った。
人に肉を食われた娘。最後に、猫になることを選んだ少女。箱庭の中で壊れた少女達。退屈だという程度の理由で、何の痛みも知らないくせに、普通に生きてきた人々を踏みにじられてなるものか。僕は息を吸い込み、吐き出した。そして学校の屋上を見回した。
僕は口を開いた。今の僕だからこそ、ぶつけられる問いを吐き出す。
「なぁ、君は腹に人の内臓を埋め込まれたことはあるか?」
「………………………………………………………は、ぁ?」
「定期的に腹が裂けることは? 腹から赤子がでてきて、人を食うことは? 左手が満足に動かなくなったことは? 左手を切り落とされたことは? 人を殺す人間を見たことは? 人の死を見て、何も感じなかったことを、面と向かって責められたことは?」
「はぁ、ちょっ、何言って?」