人形じみたそれが何なのか、僕達はよく知っていた。かつて、あさとに拾われた彼女は、白いヒトガタを生み出し、
それはスカートから手を離した。はらりと布が落ちると同時に、子供は顔をあげる。
かつて、白峰の情念が生み出した鬼は、異界に飲まれた白い子供はにやりと笑った。
──────────────────────────────いひっ
「走るよ、小田桐。先に言っておこう。何があろうが、止まるんじゃない」
次の瞬間、あさとは駆け出した。僕もその背を追う。後ろで花畑の揺れる音が響いた。
僕は思わず振り向く。子供は僕達を追って来ていた。その速度は風のように速い。子供はあさとに
僕は
────────────────ザァッ
同時に、音を立てて、あさとの体は崩れた。彼の体は
何があろうが、止まるんじゃない。
前につんのめりながらも、僕は足を動かした。本当のあさとは、気がつけば僕の遙か前を走っていた。どうやら僕に声をかける前に、駆け出していたらしい。さり気なく僕を置き去りにしているところが、繭墨の
────────あーんっ
────────バリリッ
無心に子供は唐傘を食べた。
犬は
いつか聞いた言葉が頭を過った。僕は唾を飲み込む。飢えた獣は危険だろう。腹の中で、雨香が警戒するように鳴いた。葛籠を抱えたまま、僕は必死に足を動かした。見ればあさとは、既に縁側に辿り着いている。彼は振り返り、僕の背後を眺め、目を細めた。
─────────────うぅっ?
後ろで、子供が動き出す気配がした。走る度、僕の足元で花が潰れる。だが、踏み潰されても、直ぐに花は咲いた。花は死を忘れている。この場所で食われれば、まともに死ぬことさえできないだろう。腹の痛みに耐えながら、僕は永遠にも似た距離を急いだ。
あさとは障子を開いた状態で、僕を待っている。何をしているんだと言いたげな顔に腹が立った。早く走れないのはコイツのせいだ。僕は葛籠を掲げた。そのまま上に乗った髪ごと、葛籠を座敷の中へぶん投げる。あさとを掠め、それは猛烈な勢いで宙を舞った。一拍遅れて彼は後ろを振り向く。内臓は畳の上に散らばっていた。だが、途中で落とすよりはマシなはずだ。肘にかけていた鞄も投げ込み、僕も頭から座敷に飛び込んだ。
畳の上を転がり、後ろを振り向く。僕を追いかけて、白い子供も飛んでいた。粘つく大量の涎が、糸を引きながらキラキラと宙を舞っている。理性を失ったその
────────────────スパァンッ
瞬間、子供の鼻先で、あさとは障子を閉じた。
白い子供は思いっきり障子にぶつかった。潰れた花の汁だろうか、障子紙に顔と手の跡が紅く残る。ずるずると滑り、子供は縁側に落ちた。続けて、障子を破ろうとする音が激しく響いた。だが、障子は微塵も動かない。音と反して、それは静まり返っていた。
まるで、障子の内側と外側では、空間が違うとでも言うかのようだ。
「ここは別の呪いの
あさとはそう囁いた。僕は辺りを見回す。そしてあることに気がついた。座敷には今までと違い、葛籠は一つも置かれていなかった。畳の上には、僕の投げた内臓と髪が無残にぶちまけられている。その傍に落ちていた鞄を、僕は慌てて拾った。見れば内臓の上には、先程までなかった丸い影が落ちている。恐る恐る顔をあげ、僕は目を見開いた。
いつの間にか、一本の紺色の唐傘が開かれた状態で置かれていた。
その内側には、汚れ一つない。あさとの落とした物ではなかった。
紺色の唐傘は、突然出現した。それに動じることなく、あさとは胸ポケットから眼球を取り出した。
「ソレはバラバラにされ、間違えて
朗々とあさとの声が響いた。それ以外には物音一つしない。障子に子供がぶつかる音も気がつけばふつりと途切れていた。重苦しい沈黙の中、紺色の唐傘が鈍く光っている。
「それは自分が死んだことすら忘れている。それどころか、自分の体の形もわからなくなっているのさ。それは隠れ場所にと、自室を再現したが、バラバラにされた身体部位の分だけ、何個も造ってしまった。自室以外の場所は思い出せず、光景の中から
俺達がしてきた堂々巡りはね。そのまま、コレの困惑を表しているんだよ。
あさとはどこか馬鹿にするように、紺色の唐傘を
「ご希望通りに、自分がどんな形をしていたのか、思い出させてやろうじゃないか」
思い出しなよ。運び出された時、貴方の体は下半身と上半身で別れていたはずだ。
歌うように囁き、あさとは口を閉じた。沈黙が広がる。直後内臓は激しく蠢き出した。熱した鉄板に置かれたかのように、肉が
「おい、あさとッ!
「うるさいよ、小田桐。君の考えは大体わかるけれどね。彼女を殺したのは、誰だと思っているんだ。人に
その無残な
────────そろそろ、目を醒ますんだ。
僕の制止を聞かず、あさとは甘い声で囁いた。その目の前で、内臓達は震えながら癒着を始めた。肉達は醜く
今度は、胃が畳を吸い込み始めた。畳は食道の端から取り込まれ、柔らかく波打ちながら、胃の中に消えていく。そして、吐き出された時、それは別の臓器に変わっていた。
内臓達は
たらりと、そこから
「……お、まえ?」
「そうさ、俺だよ」
お久しぶりですね、母上?
繭墨あさとは、美しい微笑みと共に、自分が殺した女性を見降ろす。
鋭い視線の先で、先代の繭墨あざか、あさとの母親は肩を震わせた。
* * *
「そうだよ。そうだとも母上。俺だよ。貴方が繭墨あざかの夢を押しつけた、母殺しさ」
堂々と、あさとは何ら恥じることなどないと言うかのように、そう名乗った。聞いているのか、いないのか。先代の繭墨あざかは震えるばかりだ。彼女は痩せた
「おお、おおおおおきく、なりました、ね? ん? でもあの、お前、本当にあのお前なの、かしら? あの? 繭墨あざあざか、かかは、かは、紅い女、嫌だと言っ、繭墨あざかは、生け贄、イケニエ? 私は、こんなことに、こんななななるものだと、は私、
「安心しなよ、母上。混乱の必要はないさ。貴方はもう死んでいる。紅い女も、あなたを
「お役ごめ、ごめん? どう? 私逃げ? えっえっいいの? えっ? お前? ん?」
「そうさ、今貴方がこの世から消えても、誰も
あさとの語りを聞き、ふつりと女は
その鼻筋に、はらりと一筋の黒髪が落ちた。彼女は濁った目であさとを見上げる。あさとは肩を竦めた。呆けている彼女を見て、彼は困りながら嗤っているような声で語る。
「弱ったね。妹君のように強制的に消す術はないんだ。このまま、彼女がここで呆け続けたなら、俺達はどうすればいいんだろうね? 君が消すよう願ってくれれば手っ取り早いが、わかっているよ。偽善者な君のことだ。どうせ、俺が言うだけ無駄なんだろ?」
「…………あさと、お前は何も思わないのか?」
「うん、何をだい?」
あさとは首を傾げた。僕はあることを思い出した。以前、孤島にて、先代の悲惨な末路を聞いた時も、彼は反応しなかった。だが、僕達は、先程生きた内臓も目撃している。
彼女がどんな目にあったのかは、あの時よりも容易く想像がつくだろう。それなのにあさとは笑みを崩さなかった。弱り果てている人を見ても、彼は
僕は狐の過去を一部知っている。だが、それでも胸に氷の刃を刺された気分になった。
目の前の光景は、それほどに気分が悪く、あまりに痛々しい。
「その人は………………その人は、な、お前の母親なんだぞ?」
「そして俺が殺した女さ。俺が最初に、この手を汚した相手だ」
俺に繭墨あざかへの
あっさりと応え、あさとは手を伸ばした。彼は先代の肩に乗った、紺色の唐傘を摑む。
彼女は動かない。彼はそれを持ち上げ、自分の肩に移動させた。
「小田桐、君に一体、何がわかるんだい?」
何もわからない。それだけは知っていた。
繭墨あさとは、先代の繭墨あざかを指差した。恐らく彼女の本当の名前は、あさとすら知らないだろう。今は、名前のない女を示して、あさとは
「君の腹に生まれた妄念も、元はと言えば、この女から生まれたようなものさ。全ては俺がやったことだが、何もかもが自然に生じたわけじゃない。それに君は、俺に俺の殺した者を哀れめと? 馬鹿を言うなよ。それこそお笑い草だ。彼女にとっても何になる」
何の
君は狐だった俺に、いつまでも、何を期待しているんだい?
あさとはくるりと唐傘を回した。僕は唇を嚙み締める。確かに彼の辛さも苦しみも母への怨みも、僕にはわからなかった。逆に彼女の無念も、本当の意味では理解できないだろう。わかったと言ったところで、それは
かつて、狐に告げた言葉を僕は思い返した。狐が
人は人を殺してはならない。
何があろうと、それだけは。
狐はまだ、そのことを理解していなかった。
僕は口を開いた。だが、僕が何かを言う前に、狐はきびすを返した。彼は僕に背中を向け、先代を見降ろす。あさとの母親は、再び震え出していた。その哀れな姿を前に、狐は嫌な笑みを浮かべた。彼は紺色の唐傘を当てつけのように回す。そして低く囁いた。
「紺色の唐傘ねぇ。母上。俺はあなたに二度と会うことはないと思っていたよ。貴重な機会だ、戯言を聞いておくのも悪くないだろう。貴方が
その無残な末路の果てに、俺に言いたいことがあるのならば、言ってみればいい。
そう煽りながらも、何も期待などしていないかのように狐は嗤った。彼は天井を仰ぎ、笑い、嗤い、
混乱しているのは、彼女だけではない。狐自身、繭墨あさと自身、精神の
彼は他人のためにあった人生を、無意味で無価値だったと断じた。そして、最初に彼に欲望をぶつけたのが、先代だった。死んだ彼女には、二度と会えないはずだった。だが、今になって彼女は現れたのだ。繭墨あさとは、繭墨あざかに対する執念の崩壊以来、自身の生き方を決めあぐねている。だからこそ彼は繰り返しているのではないだろうか。
せめて、何か言ってくれと。何でもいいから、言ってみせろよと。
僕はその肩に手を伸ばした。謝罪でも新たな指針でも
彼女は辺りを見回し、自分の掌を眺めた。彼女は何かを理解したらしい。今までと違った顔で先代はあさとを見上げた。空っぽの目が彼を撫でる。そして彼女は吐き捨てた。
「特にありません」
吐かれた言葉がぶらりと宙に浮いた。あさとは嗤うのを止める。彼はまるで、頰を張られた子供のような顔で母親を見た。彼女はじっとあさとを見つめる。それから彼女は虚ろな目で、辺りを見回した。
「……………………わたしは、もう去ります」
そして、ふつりと、呆気なく彼女は消えた。
────────────────ザアッ
気がつけば、僕達は、紅い花畑の中に立っていた。生温かい風が、花の海を撫でる。
他の建物達と同様に、座敷は残骸と化していた。まるで、先程まで佇んでいた屋敷は、一幕の夢だったかのようだ。
その背中は細かく震えている。澄んだ目からは、強い感情が
彼は怒っていた。繭墨あさとは、今まで見せたことがないほどの怒りの中にいる。
「………………………………………………………………………………あぁ、なるほどね」
あさとは低く囁いた。そうして彼は納得しようとする。自身の感じている失望と怒りを、彼は何事もなく飲み込もうとした。だが、意志に反してだろう、高く持ち上げられた足が紅い花を踏みつけた。踏みにじられた花は即座に咲く。あさとは機械的に地面を踏んだ。潰される度、花は緩やかに開く。無意味な行為を繰り返しながら、彼は囁いた。
「結局それか。何も言うことはない、ね。繭墨あざかに
それほどの怒りを、彼は発していた。僕は無言で立ち尽くす。だが、その時、耳が異音を
それは、かつての飼い主を狙っている。
「貴方に言葉を求めた俺が馬鹿だったよ」
彼は低く囁いた。同時に、その近くの花が揺れた。白い子供が、獣のように飛び出す。
白髪を
そして流れるような動きで、彼は顔を傾けた。ひどく醒めた目で、あさとは僕を見る。
馬鹿にするような、どこか煽るような
彼は僕を、僕というよりも人間自体を試していた。同時に、僕はあることを確信する。
それは、今までにも何度か感じたことのある確信だった。人間は
この瞬間に、もしも裏切れば、相手は壊れてしまうだろう。そして、自分は一生、それを引きずることになるのだ。今までにも、僕は
僕は足を前に出した。迷いはなかった。躊躇いもない。ここで僕が裏切ればそのせいで彼は死ぬのだ。ひどく理不尽な選択を、僕は強制的に背負わされた。だが、それを拒む気持ちはなかった。彼が自然に僕を見たように、僕も当然のように走り出す道を選ぶ。
ここで僕が動かなければ、繭墨あさとは全てに絶望したまま死ぬだろう。皆死ねとあらゆるものを呪いながらいなくなるのだ。そして彼は自分のしたことの意味も、
僕と白い子供の間に、勢いよく何かが飛び出す。
────────────────ぱぁっぱっ!
紅い血の線を引き、雨香が空中に
あっさりと、子供は空中に吊り上げられた。理性を
一方の子供は、成長していないどころか、縮んでいる。雨香は軽く、掌に力を込める。
──────────────────ゴキンッ
たったそれだけで、子供の首は呆気なく折れた。
ぶらんと重い頭がぶら下がる。子供の体はびくびくと
僕は見誤った。完全に、間違えた。
白い子供は飢えていた。だが、それは雨香も同じだ。これ程に二人の戦力差があるのならば、雨香が飛びかかった段階で、僕は殺さないよう指示を出さなくてはならなかった。だが、もう間に合わない。雨香は肉を得てしまった。そう知りながら、僕は叫んだ。
「雨香ッ! 止まれッ!」
──────バクンッ
同時に、雨香は口を閉じた。白い子供の姿は、その中に消える。歪に膨らんだ顎の中で、何かが
彼女は僕の子だが鬼だ。僕は先程自分が考えたことを思い返した。飢えた獣は危険だろう。口の中に
そして、雨香は鬼を飲み込んでしまった。
この世には滅多にない、貴重で歪な肉を。
次の瞬間、波打つように雨香の体が震えた。彼女は目を見開く。雨香は困惑したように僕を見た。僕にはそれに、応えることができなかった。ただ彼女に情けない顔を返す。
僕には、わかっていた。今、彼女は食べてはいけないものを食べたのだ。
雨香は不安げな顔をしている。その瞼が縦に裂けた。びしっと岩が砕けるような音と共に、中から眼球が飛び出す。その肌に無数の赤い手形が生まれた。内側から掌に押されたかのように、彼女の肌は伸びていく。怯えたように、雨香は両膝を突いた。重い膝頭が地面を叩き割る。何かを叫ぼうとした頰が膨らんだ。それはつき立ての
──────────────ばぁ、ばぁ
野太い、潰れた声が響いた。彼女は、僕に手を伸ばす。その指は、
彼女は何かに変わりつつあった。だが、それが何かは誰にもわからない。その変化は、何かの形を目指している法則性があるものにも、単なる無秩序な
どちらにしろ、僕はかつて聞かされた繭墨の言葉を、まざまざと実感していた。
育ちきったものが、人間の形をしたままでいるとは、ボクには思えないからね。
成長しきった鬼が人の姿になることはありえない。化け物は、子供でありながら化け物でしかなかった。僕の子は、縋るように僕を見る。だが、その目の中には、明確な食欲も宿っていた。巨大な足が、地面を踏む。足が持ち上げられた跡は、黒く
彼女は僕の下へ、巨体を揺らしながら歩いて来た。
瞼のない、
全身が総毛立った。彼女の目の中には、現世の生き物全てを、怯えさせる何かがある。
気がつけば僕は叫んでいた。僕の声を聞き、雨香は大きな眼球を震わせた。伏せられた顔の上を、ぼたぼたと巨大な
彼女は、泣いていた。異形に変わりながら、雨香は涙を落とす。
──────────────────ばぁ、ばぁ。ばぁばぁ
──────ばぁ、ばぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんばさいいいいいいっ
雨香は謝っていた。僕の指示を無視したから、何かに変わりつつあるから、彼女は僕に嫌われたと思い、必死に謝っている。だが、彼女は何も悪いことなどしていなかった。彼女は僕を助けてくれただけだ。彼女を止めるのは僕の義務だった。間違えたのは僕の方だ。それなのに彼女は泣き続ける。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、雨香は訴えた。
────ごめ、ごめんばさい、ごめんばさいきらわないで、ぱば、ぱば、すき、すきよ、きらわな、ごめ、ごめんばさい、ごめんばさい、ごめんばさいいいいいい、ばばぁ
涎を流しながら、僕を食べたいと訴えながら、彼女は泣いて謝る。その目からぼたぼたと涙が零れ落ちた。粘性のあるそれは、地面の上で丸く固まる。僕のせいで彼女はこんな醜い姿になってしまった。僕が都合よく使い続けたせいで、雨香は化け物になってしまったのだ。目を閉じ、僕は息を吐いた。本能は早く逃げろと叫んでいる。だが、僕はそれを無視した。瞼の裏にある笑顔が浮かぶ。それに向けて、僕は掠れた声で呟いた。
「……………………………………………………………………………ごめんなさい、繭さん」
僕は雨香に向かって一歩を踏み出した。震える足を
だから、僕は精一杯強く、彼女を抱き締めた。生臭く濡れた頰に顔を埋める。
泣く子供を抱き締めるのは親の義務だろう。そして、僕はゆっくりと告げた。
「─────────────嫌わないよ。お前を嫌ったりはしない」
それは噓だった。こんな醜いものを、こんな恐ろしいものを、人間である限りは嫌悪せずにはいられない。だが、それは心の底からの言葉でもあった。僕は偽善に塗れた噓と心からの本音を吐き出す。僕は彼女が怖かった。彼女を嫌悪していた。だが、同時に。
「───────────お前は、僕の子だ」
我が子を、嫌うことなどできはしなかった。
雨香は、そっと僕に頰をすり寄せた。巨大な顔が、ゆっくりと僕の体を
────────────────ばぁば
「うん、雨香」
──────ばぁば、うかね、だいすきよ
「あぁ、父さんも、雨香のことが好きだぞ?」
雨香は低く、喉を鳴らした。彼女は甘える猫のように、僕に体を寄せてくる。異形に変わり果てても、その仕草は変わらない。だが、彼女の口からは、涎が溢れ続けていた。生温かな粘性の液体が僕の肩を揺らす。とめどもなく涎を垂らしながら、彼女は呟いた。
─────────────いやだよぉ
嫌だと言いながら彼女は大きく口を開いた。生臭い息が僕を撫でる。間近で分厚い舌が躍った。食欲に狂った目を僕に向けながら、彼女は
─────────────ごんなの、いやだよぉ
嫌だ嫌だと泣きながら、彼女は僕の頭に口を被せた。それが閉じかけた瞬間、誰かが僕の手を引いた。後ろに倒れ、僕は顔をあげる。目を見開いて、僕はその名前を呼んだ。
「───────あ、さと?」
僕の前には細い背中が立っていた。先程、僕が自然と彼の前に立ったように、今度は彼が僕の前に出ている。彼は一瞬僕を見下ろした。その目に、何とも言い難い感情が過る。後悔と怒りを見せながらも、やけくそだと言うかのように、彼は雨香に向き直った。
「聞こえるなら、聞きなよ。君は、何を願う?」
そう早口に囁き、あさとは手を伸ばした。膨張した雨香の指先を、彼の右の掌が包む。雨香は動きを止めた。その目に再び確かな理性が戻る。彼女は祈るように何かを囁いた。
その瞬間、あさとの
「──────────────────────ッ、ぐっ、う」
今まで見せたことがないほどに、あさとは苦しげな表情を浮かべた。だが、それでも尚、彼は雨香の手を離そうとはしない。歯を食いしばり、あさとは鬼と手を繋ぎ続けた。
やがて、雨香の体に変化が生じた。どろりとその肌の表面が溶けだす。泥に変わった肉が、地面の上に流れ落ちた。黒いタールをぶちまけたような跡が、辺りに丸く広がる。
異臭を放つ泥の中から、人の姿に戻った雨香が現れた。その変化は止まらない。彼女は赤子へ戻っていく。へその
慌てて僕は土を
「あさ………とっ、あさ、と、返事しろッ! 無事、か、大丈夫か? 生きてる、か?」
「……君……それで俺が死ん……で……たら、どうするん、だい? 覚悟もせずに、声をかけ……る……のは止めた方がいい……右手はひどい有様さ……こんなこと始めてだ」
彼はひらりと右手を挙げた。それを見て、僕は言葉をなくした。彼の掌は無残に焼けていた。その表皮は、まるで肌自体が
「大丈夫か? それ、痛くはないのか?」
「痛いは、痛いけれどね、どうしようもないだろう……変な抵抗があったが、君の鬼は」
尋ねながら、彼は僕の腹を見た。その目が大きく見開かれる。珍しく顔を強張らせながら、あさとは視線をあげた。僕達の目が合う。彼は口を開いた。だが、何も言うことなく、彼は無事な左手で自分の顔を覆った。そのまま、動かなくなる。あさとは無言で、何かを嘆いた。僕も何も言わなかった。言葉にしなくても、その事実は、僕自身が一番よくわかっていた。腹を撫で、僕は体から力を抜いた。紅い花畑に、背中から倒れ込む。
花々は、柔らかく固く、僕の背中を受け止めた。しばらくすると、間近でバサリと音がした。どうやらあさとも、花の上に寝転がったらしい。紅い空を見上げ、彼は呟いた。
「どうする、小田桐? もう、異界に行こうと思えば、君はいつだって行けるよ」
「…………………………………………………………………………あぁ、そうだな」
繭墨あざかを迎えに行くことは愚行だ、紅い女に
「………………………………………………………………………………一度、家に帰るか」
実際に口にしてみると、その言葉は思ったよりも強く、胸を叩いた。繭墨は早く迎えに行かなければならない。それでも、僕は一度帰りたかった。目から自然に涙が流れる。
帰りたい場所があるのは、幸せなことだった。
そのことを、今、僕はしみじみと思い知った。
血塗れの手で頰を擦り、僕は立ち上がった。あさとに左手を差し出す。彼は無事な手で僕の手を摑み返した。僕は彼を引っ張り上げ、立たせた。二人で向き合い、空を仰ぐ。
煙草を吸いたいなと、ふと思った。だが、ライターのオイルは既に空だ。震える声を誤魔化すために使えるものは何もない。それでも無理やり、僕は明るい声を張りあげた。
「別れを告げなくちゃ、いけない人もいるしな」
「……………………………君は、そうだろうね」
あさとの乾いた言葉に、僕は頷いた。会いたい人達がいた。異界に向かう前に、顔を見たい面々が。懐かしいメンバーを僕は思い返す。彼らは、僕にとって、とても大切で。
そして、