人形じみたそれが何なのか、僕達はよく知っていた。かつて、あさとに拾われた彼女は、白いヒトガタを生み出し、りようけんじみた役割を果たした。紅い腕に押さえつけられ、彼女は異界の底に沈んだはずだ。以来、彼女は異界を彷徨ったのだろう。それが楽しい日々だったとは思えない。本家が花に食われた直後、繭墨あさとと縁を持つ彼女は、彼のこんせきを追い、ここに這い出したのだ。放置された犬は、高確率で飼い主のことをにくむ。


 それはスカートから手を離した。はらりと布が落ちると同時に、子供は顔をあげる。

 かつて、白峰の情念が生み出した鬼は、異界に飲まれた白い子供はにやりと笑った。


 ──────────────────────────────いひっ

「走るよ、小田桐。先に言っておこう。何があろうが、止まるんじゃない」


 次の瞬間、あさとは駆け出した。僕もその背を追う。後ろで花畑の揺れる音が響いた。

 僕は思わず振り向く。子供は僕達を追って来ていた。その速度は風のように速い。子供はあさとにへいそうした。驚くほど柔らかく膝を曲げ、彼女は地面を蹴る。とらのように彼女はあさとに襲いかかった。その口が、人の頭すら飲み込めるほどの大きさに変形する。


 僕はとつに、腹から雨香を出そうとした。

 ────────────────ザァッ


 同時に、音を立てて、あさとの体は崩れた。彼の体はきりのように溶け消える。紺色の唐傘だけが、ことりと花畑に落ちた。僕は目を見開いた。よく見ると、傘の内側には何かが書かれている。いつの間に、んでおいたのだろうか。った煙草の灰で、複雑な文字がきざまれていた。驚きのあまり足を止めかけ、僕は先程の彼の言葉を思い出した。


 何があろうが止まるんじゃない


 前につんのめりながらも、僕は足を動かした。本当のあさとは、気がつけば僕の遙か前を走っていた。どうやら僕に声をかける前に、駆け出していたらしい。さり気なく僕を置き去りにしているところが、繭墨のだ。白い子供は唐傘を手に首を傾げている。どうやら状況に、頭が追いつかないらしい。何度も首をひねり、彼女は大きく口を開いた。


 ────────あーんっ

 ────────バリリッ


 よだれまみれの口が、唐傘を嚙み破った。折れた骨が、千切れた紙が、子供の口内に消える。

 無心に子供は唐傘を食べた。とろけた紅い目の中に理性はない。僕はあることを思い知った。子供は恐ろしいほどに飢えている。その姿は、まるで飢え死に寸前の獣のようだ。


 犬はんでいるの? お母さん。いいえ、子供、犬は飢えているのですよ。


 いつか聞いた言葉が頭を過った。僕は唾を飲み込む。飢えた獣は危険だろう。腹の中で、雨香が警戒するように鳴いた。葛籠を抱えたまま、僕は必死に足を動かした。見ればあさとは、既に縁側に辿り着いている。彼は振り返り、僕の背後を眺め、目を細めた。


 ─────────────うぅっ?


 後ろで、子供が動き出す気配がした。走る度、僕の足元で花が潰れる。だが、踏み潰されても、直ぐに花は咲いた。花は死を忘れている。この場所で食われれば、まともに死ぬことさえできないだろう。腹の痛みに耐えながら、僕は永遠にも似た距離を急いだ。

 あさとは障子を開いた状態で、僕を待っている。何をしているんだと言いたげな顔に腹が立った。早く走れないのはコイツのせいだ。僕は葛籠を掲げた。そのまま上に乗った髪ごと、葛籠を座敷の中へぶん投げる。あさとを掠め、それは猛烈な勢いで宙を舞った。一拍遅れて彼は後ろを振り向く。内臓は畳の上に散らばっていた。だが、途中で落とすよりはマシなはずだ。肘にかけていた鞄も投げ込み、僕も頭から座敷に飛び込んだ。


 畳の上を転がり、後ろを振り向く。僕を追いかけて、白い子供も飛んでいた。粘つく大量の涎が、糸を引きながらキラキラと宙を舞っている。理性を失ったそのぎようそうは、人間には見えなかった。僕達の目が合う。飢えにぎらついた目が、嬉しそうに僕を映した。


 ────────────────スパァンッ

 瞬間、子供の鼻先で、あさとは障子を閉じた。


 白い子供は思いっきり障子にぶつかった。潰れた花の汁だろうか、障子紙に顔と手の跡が紅く残る。ずるずると滑り、子供は縁側に落ちた。続けて、障子を破ろうとする音が激しく響いた。だが、障子は微塵も動かない。音と反して、それは静まり返っていた。


 まるで、障子の内側と外側では、空間が違うとでも言うかのようだ。

「ここは別の呪いのだからね。他人の体内に、入ることは難しいよ」


 あさとはそう囁いた。僕は辺りを見回す。そしてあることに気がついた。座敷には今までと違い、葛籠は一つも置かれていなかった。畳の上には、僕の投げた内臓と髪が無残にぶちまけられている。その傍に落ちていた鞄を、僕は慌てて拾った。見れば内臓の上には、先程までなかった丸い影が落ちている。恐る恐る顔をあげ、僕は目を見開いた。


 いつの間にか、一本の紺色の唐傘が開かれた状態で置かれていた。

 その内側には、汚れ一つない。あさとの落とした物ではなかった。


 紺色の唐傘は、突然出現した。それに動じることなく、あさとは胸ポケットから眼球を取り出した。まりを投げるように、彼はそれを転がす。眼球は内臓にぶつかり、止まった。続けて、彼は唇をつまみ出し、投げた。ちようのように羽ばたきながら、それは胃酸の海にかる。最後に、彼は左足を投げた。それはくるりと回り、器用に畳の上に立った。


「ソレはバラバラにされ、間違えてぎ、正しく直されて、裏返され、崩れ果てた。だが、まだ異界に招かれてから、それほど長い時は経っていない。異界では時間の概念など無意味だけれどね。先々代よりは形を、保っていたんだろう。ソレは開きっ放しの扉を見つけ、これ幸いと地獄から逃げ出した。そして、そこに無茶苦茶な巣を作ったのさ」


 朗々とあさとの声が響いた。それ以外には物音一つしない。障子に子供がぶつかる音も気がつけばふつりと途切れていた。重苦しい沈黙の中、紺色の唐傘が鈍く光っている。


「それは自分が死んだことすら忘れている。それどころか、自分の体の形もわからなくなっているのさ。それは隠れ場所にと、自室を再現したが、バラバラにされた身体部位の分だけ、何個も造ってしまった。自室以外の場所は思い出せず、光景の中からえぐった。何もかもがちやちやでいい加減さ。それに花が便びんじようし、地獄めいた世界ができた」


 俺達がしてきた堂々巡りはね。そのまま、コレの困惑を表しているんだよ。


 あさとはどこか馬鹿にするように、紺色の唐傘をつまさきで突いた。その下には、内臓が、眼球が唇が髪が、人の身体部位が一通り揃っている。人間一人分にはとうていりない。だが、一応足先から頭までの部位があった。どうやら場を生み出した呪いのみなもとは、自分の身体部位の正確な数すらわからなくなっているらしい。あさとはこくはくな笑みを浮かべた。


「ご希望通りに、自分がどんな形をしていたのか、思い出させてやろうじゃないか」

 思い出しなよ。運び出された時、貴方の体は下半身と上半身で別れていたはずだ


 歌うように囁き、あさとは口を閉じた。沈黙が広がる。直後内臓は激しく蠢き出した。熱した鉄板に置かれたかのように、肉がちぢんでいく。だが、次の瞬間、それは柔らかくかんした。興奮を訴えるかのように、心臓が血を吹き出す。髪が捕食をするかのように、唇に絡みついた。人体の狂騒を眺めるうちに僕はあることを思い出した。全身を弄ばれ、異界のくずと消えた存在を僕も知っている。確かに、彼女は繭墨家の関係者だ。そして。


「おい、あさとッ! われ、僕がやるッ! お前は隅に座って、目でも塞いでろッ!」

「うるさいよ、小田桐。君の考えは大体わかるけれどね。彼女を殺したのは誰だと思っているんだ。人にかんしようを押しつけるのはしてくれ。君の偽善にはりだよ。せっかくの機会だ。俺は彼女に、どうでもいいが、それなりに聞いておきたいこともある」


 その無残なまつの果てに、語りたいことがあるのなら口にすればいい。場にしがみついた貴方は『繭墨あざかになれ』と願い続けてきた俺に、何か言うことはあるのかい?


 ────────そろそろ、目を醒ますんだ。


 僕の制止を聞かず、あさとは甘い声で囁いた。その目の前で、内臓達は震えながら癒着を始めた。肉達は醜くたがいをむさぼい、融合していく。眼球が心臓に埋まり、左足から胃袋が生え、唇が腸壁に取りついた。だが、不意に、それらは間違った融合を止めた。

 今度は、胃が畳を吸い込み始めた。畳は食道の端から取り込まれ、柔らかく波打ちながら、胃の中に消えていく。そして、吐き出された時、それは別の臓器に変わっていた。

 内臓達はがんさいぼうのように無茶苦茶な分裂を繰り返し、いらない部分を切り捨て始めた。心臓が二つに増え、消滅し、えらが生え、溶け落ちる。人類の進化のパロディじみたあくしゆな繰り返しの果てに、灰色の脳細胞が、がいこつの中に仕舞われた。別々に造られていた、上半身と下半身が動き出す。絡み合った腸が、互いを引き寄せた。傷口が癒着する。


 きようそうの終わった後には、一人の女性が倒れていた。おびえた獣のように、彼女は体を起こす。紺色の唐傘が肩に乗った。きつい印象の顔が緩やかに傾く。長い黒髪が、白くやつれた頰にぞろりとかかった。彼女は呆然とうつろな目であさとを見る。薄い唇が開いた。


 たらりと、そこからひとすじの涎と共に、短い言葉が零れ落ちる。


「……お、まえ?」

「そうさ、俺だよ」


 お久しぶりですね、母上


 繭墨あさとは、美しい微笑みと共に、自分が殺した女性を見降ろす

 鋭い視線の先で、先代の繭墨あざか、あさとの母親は肩を震わせた。


    * * *


「そうだよ。そうだとも母上。俺だよ。貴方が繭墨あざかの夢を押しつけた母殺しさ


 堂々と、あさとは何ら恥じることなどないと言うかのように、そう名乗った。聞いているのか、いないのか。先代の繭墨あざかは震えるばかりだ。彼女は痩せたぶさを押し潰すように、自分の体を抱き締めた。寒くて仕方がないと言うように背を丸め、彼女はあさとをうかがった。怯えた表情で首を振り、先代はれつの回っていない言葉を並べていく。


「おお、おおおおおきく、なりました、ね? ん? でもあの、お前、本当にあのお前なの、かしら? あの? 繭墨あざあざか、かかは、かは、紅い女、嫌だと言っ、繭墨あざかは、生け贄、イケニエ? 私は、こんなことに、こんななななるものだと、は私、玩具おもちやでは、おぉやめてやめてください殺してころして私を殺しておくれよ、どうか殺し」

「安心しなよ、母上。混乱の必要はないさ。貴方はもう死んでいる。紅い女も、あなたをほうした。彼女は貴方より出来のいい、新しい玩具に夢中だよ。貴方は、おやくめんだ」

「お役ごめ、ごめん? どう? 私逃げ? えっえっいいの? えっ? お前? ん?」

「そうさ、今貴方がこの世から消えても、誰もとがめる者などいないよ。相変わらずだね。貴方はそうやって自分の重要さをあやまり、どうのように踊って、一人苦しむ羽目になる」


 あさとの語りを聞き、ふつりと女はたわごとめいた言葉を止めた。彼女はさかんに首を捻る。

 その鼻筋に、はらりと一筋の黒髪が落ちた。彼女は濁った目であさとを見上げる。あさとは肩を竦めた。呆けている彼女を見て、彼は困りながら嗤っているような声で語る。


「弱ったね。妹君のように強制的に消す術はないんだ。このまま、彼女がここで呆け続けたなら、俺達はどうすればいいんだろうね? 君が消すよう願ってくれれば手っ取り早いが、わかっているよ。偽善者な君のことだ。どうせ、俺が言うだけ無駄なんだろ?」

…………あさと、お前は何も思わないのか?」

「うん、何をだい?」


 あさとは首を傾げた。僕はあることを思い出した。以前、孤島にて、先代の悲惨な末路を聞いた時も、彼は反応しなかった。だが、僕達は、先程生きた内臓も目撃している。

 彼女がどんな目にあったのかは、あの時よりも容易く想像がつくだろう。それなのにあさとは笑みを崩さなかった。弱り果てている人を見ても、彼はちようしようを浮かべたままだ。

 僕は狐の過去を一部知っている。だが、それでも胸に氷の刃を刺された気分になった。


 目の前の光景は、それほどに気分が悪く、あまりに痛々しい


「その人は………………その人は、な、お前の母親なんだぞ?」

「そして俺が殺した女さ。俺が最初に、この手を汚した相手だ」


 俺に繭墨あざかへのもうねんと願望を押しつけ、人生を狂わせたちくしようでもあるよ。


 あっさりと応え、あさとは手を伸ばした。彼は先代の肩に乗った、紺色の唐傘を摑む。

 彼女は動かない。彼はそれを持ち上げ、自分の肩に移動させた。しよせん、紺色の唐傘は偽物だ。それを掲げるのは、本当の繭墨あざかのほうに過ぎない。無意味な行動を取り、繭墨あさとは、僕を振り返った。かくりと首を傾げ、彼は心底、不思議そうに口を開く。


「小田桐、君に一体、何がわかるんだい?」

 何もわからない。それだけは知っていた。


 繭墨あさとは、先代の繭墨あざかを指差した。恐らく彼女の本当の名前は、あさとすら知らないだろう。今は、名前のない女を示して、あさとはたんたんと事実を重ねていった。


「君の腹に生まれた妄念も、元はと言えば、この女から生まれたようなものさ。全ては俺がやったことだが、何もかもが自然に生じたわけじゃない。それに君は、俺に俺の殺した者を哀れめと? 馬鹿を言うなよ。それこそお笑い草だ。彼女にとっても何になる」


 何のなぐさめにもならないね。それに、さんざん繰り返しただろう?

 君は狐だった俺に、いつまでも、何を期待しているんだい?


 あさとはくるりと唐傘を回した。僕は唇を嚙み締める。確かに彼の辛さも苦しみも母への怨みも、僕にはわからなかった。逆に彼女の無念も、本当の意味では理解できないだろう。わかったと言ったところで、それはうそだ。僕は雄介の件で思い知っていた。人の悲しみや辛さを完全に理解することなど、僕には絶対にできない。それに殺した相手を哀れんでやれなどと、茶番もいいところだった。それは、観客が満足したいがための要求に過ぎない。それでもと僕は拳を握り締めた。それでも僕は間違ってはいなかった


 かつて、狐に告げた言葉を僕は思い返した。狐がみずかいなければ無意味だ。僕はそう、彼にうつたえた。彼が母親にした仕打ちが、どんな感情にもとづいた行動だったとしても、そこに正当性はない。いや、正しいか否かなど本当はどうでもいいのだ。僕は問答無用に思う。それは決して正しくなどない言葉だろう。それでも僕は繰り返し考えた。人を殺したことのある僕だからこそ、盲目的に疑うことなく、それを信じなければならない。


 人は人を殺してはならない。

 何があろうと、それだけは。


 狐はまだ、そのことを理解していなかった。


 僕は口を開いた。だが、僕が何かを言う前に、狐はきびすを返した。彼は僕に背中を向け、先代を見降ろす。あさとの母親は、再び震え出していた。その哀れな姿を前に、狐は嫌な笑みを浮かべた。彼は紺色の唐傘を当てつけのように回す。そして低く囁いた。


「紺色の唐傘ねぇ。母上。俺はあなたに二度と会うことはないと思っていたよ。貴重な機会だ、戯言を聞いておくのも悪くないだろう。貴方がきたなく、ここに残り続ける限り、どうせ俺達も留まらざるをえないんだ。貴方が消えなければ、帰り道はどこにもない。困惑を表した迷路に、俺達は閉じ込められたままさ。ねぇ、もう一度聞くよ、母上」


 その無残な末路の果てに、俺に言いたいことがあるのならば、言ってみればいい。


 そう煽りながらも、何も期待などしていないかのように狐は嗤った。彼は天井を仰ぎ、笑い、嗤い、わらう。その横顔を見て、僕は目を細めた。彼の反応は、今までの狐の嘲笑とは微妙に違っていた。表情がいつわりのものではなくなっている。そこで僕は気がついた。


 混乱しているのは、彼女だけではない。狐自身、繭墨あさと自身、精神のきんこうを崩していた。彼は何かを言えと何度も女を煽る。それは何かを言ってくれと、繰り返しているも同然だった。もちろん、それは僕の勝手な印象にすぎない。だが、僕には、その考えを馬鹿げていると、いつしゆうすることはできなかった。繭墨あさとは、人の欲望に形作られた生き物だ。少なくとも、彼自身は己の欲望と選択を認めず、そうかたくなに信じ続けている。


 彼は他人のためにあった人生を、無意味で無価値だったと断じた。そして、最初に彼に欲望をぶつけたのが、先代だった。死んだ彼女には、二度と会えないはずだった。だが、今になって彼女は現れたのだ。繭墨あさとは、繭墨あざかに対する執念の崩壊以来、自身の生き方を決めあぐねている。だからこそ彼は繰り返しているのではないだろうか。


 せめて、何か言ってくれと。何でもいいから、言ってみせろよと。


 僕はその肩に手を伸ばした。謝罪でも新たな指針でもうらごとでも同じだ。母親から何らかの言葉を得たところで、あさとは納得などしないだろう。新たな怒りか拭い難いむなしさを覚えるだけだ。僕はもう止めろと訴えようとした。その時だった。不意に先代は震えるのを止めた。彼女は頷き、顔をあげた。急速に、その顔から一切の混乱が晴れる。

 彼女は辺りを見回し、自分の掌を眺めた。彼女は何かを理解したらしい。今までと違った顔で先代はあさとを見上げた。空っぽの目が彼を撫でる。そして彼女は吐き捨てた。


特にありません


 吐かれた言葉がぶらりと宙に浮いた。あさとは嗤うのを止める。彼はまるで、頰を張られた子供のような顔で母親を見た。彼女はじっとあさとを見つめる。それから彼女は虚ろな目で、辺りを見回した。ちゆうるいじみた感情のない顔で、彼女は頷き、言い切った。


……………………わたしは、もう去ります」

 そして、ふつりと、呆気なく彼女は消えた。


 ────────────────ザアッ


 気がつけば、僕達は、紅い花畑の中に立っていた。生温かい風が、花の海を撫でる。

 他の建物達と同様に、座敷は残骸と化していた。まるで、先程まで佇んでいた屋敷は、一幕の夢だったかのようだ。あさ宿やどで、目を醒ました気分だった。あさとは紺色の唐傘を差し、紅い花畑の上に立ち尽くしている。目を見開いて、彼は虚空を見つめていた。


 その背中は細かく震えている。澄んだ目からは、強い感情がによじつに伝わってきた。

 彼は怒っていた。繭墨あさとは、今まで見せたことがないほどの怒りの中にいる。


………………………………………………………………………………あぁ、なるほどね


 あさとは低く囁いた。そうして彼は納得しようとする。自身の感じている失望と怒りを、彼は何事もなく飲み込もうとした。だが、意志に反してだろう、高く持ち上げられた足が紅い花を踏みつけた。踏みにじられた花は即座に咲く。あさとは機械的に地面を踏んだ。潰される度、花は緩やかに開く。無意味な行為を繰り返しながら、彼は囁いた。


「結局それか。何も言うことはない、ね。繭墨あざかにがれたことが、失敗だったとわかった今ですら、何もなしか。なるほど、それらしい。あぁ当然だ。それが最もだよ」


 かれたように、彼は呟いた。その顔は、壮絶に歪んでいる。言葉をかけることもできないまま、僕はその背中を見つめ続けた。もしも言葉を誤れば、僕は殺されるだろう。

 それほどの怒りを、彼は発していた。僕は無言で立ち尽くす。だが、その時、耳が異音をとらえた。花の海の中を、白い影がさめのように旋回している。今度こそ逃がさないと言うように、それは慎重に輪をせばめ、僕達に迫ってきていた。僕は息を飲んだ。繭墨家の呪いは二つある。先代は、自身の死を理解し、消えた。だが、白い子供はそのままだ。


 それは、かつての飼い主を狙っている。

「貴方に言葉を求めた俺が馬鹿だったよ」


 彼は低く囁いた。同時に、その近くの花が揺れた。白い子供が、獣のように飛び出す。

 白髪をたてがみのようになびかせ、それは紅い花の上を跳んだ。彼女は佇んだままのあさとに襲い掛かる。あさとは白い子供を見た。だが、彼は状況とずれた、薄い笑みを浮かべる。

 そして流れるような動きで、彼は顔を傾けた。ひどく醒めた目で、あさとは僕を見る。

 馬鹿にするような、どこか煽るようなまなしが僕に突き刺さった。その視線の意味を、僕は電撃的に悟った。彼には自分で動く気がない。そして僕がどうするかを待っていた。


 彼は僕を、僕というよりも人間自体を試していた。同時に、僕はあることを確信する。


 それは、今までにも何度か感じたことのある確信だった。人間はまれに、今だけは絶対に、人を裏切ることができないという瞬間に出くわすことがある。この時がそうだった。


 この瞬間に、もしも裏切れば、相手は壊れてしまうだろう。そして、自分は一生、それを引きずることになるのだ。今までにも、僕はゆうすけ相手に、その瞬間を感じたことがあった。だが、まさか、それを狐相手に覚える時が来るとは思いもしなかった。

 僕は足を前に出した。迷いはなかった。躊躇いもない。ここで僕が裏切ればそのせいで彼は死ぬのだ。ひどく理不尽な選択を、僕は強制的に背負わされた。だが、それを拒む気持ちはなかった。彼が自然に僕を見たように、僕も当然のように走り出す道を選ぶ。


 ここで僕が動かなければ、繭墨あさとは全てに絶望したまま死ぬだろう。皆死ねとあらゆるものを呪いながらいなくなるのだ。そして彼は自分のしたことの意味も、ないがしろにしてきたものの貴重さも知らないまま終わる。そうさせてなるものか。だから、僕はあさとの腕を摑み、引きずり倒した。瞬間、子供は僕に標的を変えた。紅く輝く目が僕を映す。口を大きく変形させ、子供は僕を飲み込もうとした。同時に、腹に激痛が走った。


 僕と白い子供の間に、勢いよく何かが飛び出す。

 ────────────────ぱぁっぱっ!


 紅い血の線を引き、雨香が空中におどりあがった。その黒髪が瞬時に伸びる。美しくしなやかな髪が、僕の視界を覆った。黒髪のカーテンの向こう側で、雨香は成長を終える。育った体が花畑に着地した。彼女は即座に地を蹴り、跳ね上がった。紅い花達をあらしのように根元から掘り起こしながら、彼女は子供へ飛びかかった。細い腕がその首に掛かる。

 あっさりと、子供は空中に吊り上げられた。理性をそうしつしていた目に、初めて感情が過る。雨香を映した紅い目が、恐怖に揺れた。彼女は白峰の情念から生まれた鬼だ。かつて白い子供は雨香を完全に下したこともある。だが、今の雨香は以前より育っていた。


 一方の子供は、成長していないどころか、縮んでいる。雨香は軽く、掌に力を込める。


 ──────────────────ゴキンッ

 たったそれだけで、子供の首は呆気なく折れた。


 ぶらんと重い頭がぶら下がる。子供の体はびくびくとけいれんし、弛緩した。あまりの光景に僕は目を見開いた。予想外の状況に理解が追いつかない。僕が立ち尽くす間に、雨香は口を開いた。その唇の間から緩やかに涎が溢れ出す。それを見て僕は失敗を悟った。


 僕は見誤った。完全に、間違えた。


 白い子供は飢えていた。だが、それは雨香も同じだ。これ程に二人の戦力差があるのならば、雨香が飛びかかった段階で、僕は殺さないよう指示を出さなくてはならなかった。だが、もう間に合わない。雨香は肉を得てしまった。そう知りながら、僕は叫んだ。


「雨香ッ! 止まれッ!」

 ──────バクンッ


 同時に、雨香は口を閉じた。白い子供の姿は、その中に消える。歪に膨らんだ顎の中で、何かがあつさくされる音が響いた。分厚く膨れた唇の隙間から、一筋の血が零れ落ちる。バキンッバキンッと嫌な音を立てて、何かが潰れた。唇から食み出した白い髪を、彼女はずるずると吸い上げる。僕は彼女に吐き出せと叫んだ。だが、雨香は指示を無視する。

 彼女は僕の子だが鬼だ。僕は先程自分が考えたことを思い返した。飢えた獣は危険だろう。口の中にそうが入った状態で、吐き出せと言っても、聞いてくれるわけがない。


 そして、雨香は鬼を飲み込んでしまった。

 この世には滅多にない、貴重で歪な肉を。


 次の瞬間、波打つように雨香の体が震えた。彼女は目を見開く。雨香は困惑したように僕を見た。僕にはそれに、応えることができなかった。ただ彼女に情けない顔を返す。


 僕には、わかっていた。今、彼女は食べてはいけないものを食べたのだ。


 雨香は不安げな顔をしている。その瞼が縦に裂けた。びしっと岩が砕けるような音と共に、中から眼球が飛び出す。その肌に無数の赤い手形が生まれた。内側から掌に押されたかのように、彼女の肌は伸びていく。怯えたように、雨香は両膝を突いた。重い膝頭が地面を叩き割る。何かを叫ぼうとした頰が膨らんだ。それはつき立てのもちのように、柔らかく地面に伸びる。開いた口から恐ろしい量の涎が零れた。彼女は必死に僕を呼ぶ。


 ──────────────ばぁ、ばぁ


 野太い、潰れた声が響いた。彼女は、僕に手を伸ばす。その指は、いもむしのように太い。

 彼女は何かに変わりつつあった。だが、それが何かは誰にもわからない。その変化は、何かの形を目指している法則性があるものにも、単なる無秩序なぼうちようのようにも見えた。


 どちらにしろ、僕はかつて聞かされた繭墨の言葉を、まざまざと実感していた。

 育ちきったものが、人間の形をしたままでいるとは、ボクには思えないからね。


 成長しきった鬼が人の姿になることはありえない。化け物は、子供でありながら化け物でしかなかった。僕の子は、縋るように僕を見る。だが、その目の中には、明確な食欲も宿っていた。巨大な足が、地面を踏む。足が持ち上げられた跡は、黒くげていた。


 彼女は僕の下へ、巨体を揺らしながら歩いて来た。

 瞼のない、しの眼球が、ぎろりと僕を見る。


 全身が総毛立った。彼女の目の中には、現世の生き物全てを、怯えさせる何かがある。

 気がつけば僕は叫んでいた。僕の声を聞き、雨香は大きな眼球を震わせた。伏せられた顔の上を、ぼたぼたと巨大なしずくが滑り落ちる。数秒後、僕はそれが涙だと気がついた。


 彼女は、泣いていた。異形に変わりながら、雨香は涙を落とす。

 ──────────────────ばぁ、ばぁ。ばぁばぁ


 ねるように彼女は手足を動かした。じたばたと雨香が暴れる度、地面がけずれ、花が潰れる。踏まれた花は二度と咲かない。死なないはずの花達を殺しながら、彼女は涎と涙を流し続けた。彼女が僕を呼ぶのは食欲故か愛情故か、僕には断言できなかった。きっと彼女自身にも、二つの区別はついていないだろう。濁った野太い声が響く。何度も彼女は同じ言葉を繰り返した。聞き取りにくい言葉の意味に、不意に僕は気がついた。


 ──────ばぁ、ばぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんばさいいいいいい


 雨香は謝っていた。僕の指示を無視したから、何かに変わりつつあるから、彼女は僕に嫌われたと思い、必死に謝っている。だが、彼女は何も悪いことなどしていなかった。彼女は僕を助けてくれただけだ。彼女を止めるのは僕の義務だった。間違えたのは僕の方だ。それなのに彼女は泣き続ける。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、雨香は訴えた。


 ────ごめ、ごめんばさい、ごめんばさいきらわないで、ぱば、ぱば、すき、すきよ、きらわな、ごめ、ごめんばさい、ごめんばさい、ごめんばさいいいいいい、ばばぁ


 涎を流しながら、僕を食べたいと訴えながら、彼女は泣いて謝る。その目からぼたぼたと涙が零れ落ちた。粘性のあるそれは、地面の上で丸く固まる。僕のせいで彼女はこんな醜い姿になってしまった。僕が都合よく使い続けたせいで、雨香は化け物になってしまったのだ。目を閉じ、僕は息を吐いた。本能は早く逃げろと叫んでいる。だが、僕はそれを無視した。瞼の裏にある笑顔が浮かぶ。それに向けて、僕は掠れた声で呟いた。


……………………………………………………………………………ごめんなさい、繭さん」


 僕は雨香に向かって一歩を踏み出した。震える足をしつし、彼女へ近づいていく。いしうすのように巨大な歯が、目の前に迫った。雨香の顔は、今や僕の身長ほどに膨れている。雨香は不自然に細い首を傾げた。自分で呼んでおきながら何で来るのと問いたげな顔だ。震えながら、僕は彼女の前に立った。生臭い息が全身を叩く。心の底から逃げ出したくて仕方がない。それでも僕は腕を伸ばした。所詮、僕にできるのはこんなことくらいだ。


 だから、僕は精一杯強く、彼女を抱き締めた。生臭く濡れた頰に顔を埋める。

 泣く子供を抱き締めるのは親の義務だろう。そして、僕はゆっくりと告げた。


─────────────嫌わないよ。お前を嫌ったりはしない」


 それは噓だった。こんな醜いものを、こんな恐ろしいものを、人間である限りは嫌悪せずにはいられない。だが、それは心の底からの言葉でもあった。僕は偽善に塗れた噓と心からの本音を吐き出す。僕は彼女が怖かった。彼女を嫌悪していた。だが、同時に。


───────────お前は、僕の子だ」

 我が子を、嫌うことなどできはしなかった。


 雨香は、そっと僕に頰をすり寄せた。巨大な顔が、ゆっくりと僕の体をこする。彼女は顔を伏せた。一瞬、その眼球の中に理性が過った。彼女は何度も何度も不器用に、僕を潰さないように、慎重に頰を寄せた。彼女は口を開いた。野太い声が、鼓膜を強く叩く。


 ────────────────ばぁば

「うん、雨香」

 ──────ばぁば、うかね、だいすきよ

「あぁ、父さんも、雨香のことが好きだぞ?」


 雨香は低く、喉を鳴らした。彼女は甘える猫のように、僕に体を寄せてくる。異形に変わり果てても、その仕草は変わらない。だが、彼女の口からは、涎が溢れ続けていた。生温かな粘性の液体が僕の肩を揺らす。とめどもなく涎を垂らしながら、彼女は呟いた。


 ─────────────いやだよぉ


 嫌だと言いながら彼女は大きく口を開いた。生臭い息が僕を撫でる。間近で分厚い舌が躍った。食欲に狂った目を僕に向けながら、彼女はなく泣いた。低い声が叫ぶ。


 ─────────────ごんなの、いやだよぉ


 嫌だ嫌だと泣きながら、彼女は僕の頭に口を被せた。それが閉じかけた瞬間、誰かが僕の手を引いた。後ろに倒れ、僕は顔をあげる。目を見開いて、僕はその名前を呼んだ。


───────あ、さと?」


 僕の前には細い背中が立っていた。先程、僕が自然と彼の前に立ったように、今度は彼が僕の前に出ている。彼は一瞬僕を見下ろした。その目に、何とも言い難い感情が過る。後悔と怒りを見せながらも、やけくそだと言うかのように、彼は雨香に向き直った。


「聞こえるなら、聞きなよ。君は、何を願う?」


 そう早口に囁き、あさとは手を伸ばした。膨張した雨香の指先を、彼の右の掌が包む。雨香は動きを止めた。その目に再び確かな理性が戻る。彼女は祈るように何かを囁いた。


 その瞬間、あさとのひたいに、玉のような汗が大量に湧きあがった。

──────────────────────ッ、ぐっ、う」


 今まで見せたことがないほどに、あさとは苦しげな表情を浮かべた。だが、それでも尚、彼は雨香の手を離そうとはしない。歯を食いしばり、あさとは鬼と手を繋ぎ続けた。

 やがて、雨香の体に変化が生じた。どろりとその肌の表面が溶けだす。泥に変わった肉が、地面の上に流れ落ちた。黒いタールをぶちまけたような跡が、辺りに丸く広がる。


 異臭を放つ泥の中から、人の姿に戻った雨香が現れた。その変化は止まらない。彼女は赤子へ戻っていく。へそのに引かれたかのように、彼女は宙を舞い、僕の腹へ納まった。同時に、爆弾を収められたかのような異物感が、僕を襲った。あまりの重量に僕は倒れ伏す。遅れてあさとも崩れ落ちた。彼は受け身すらとることなく、花畑に倒れる。

 慌てて僕は土をき、花を削って、這い進んだ。倒れたあさとに近寄り、声をかける。


「あさ………とっ、あさ、と、返事しろッ! 無事、か、大丈夫か? 生きてる、か?」

「……君……それで俺が死ん……で……たら、どうするん、だい? 覚悟もせずに、声をかけ……る……のは止めた方がいい……右手はひどい有様さ……こんなこと始めてだ」


 彼はひらりと右手を挙げた。それを見て、僕は言葉をなくした。彼の掌は無残に焼けていた。その表皮は、まるで肌自体がふつとうしたかのように、無数のすいほうに覆われている。


「大丈夫か? それ、痛くはないのか?」

「痛いは、痛いけれどね、どうしようもないだろう……変な抵抗があったが、君の鬼は」


 尋ねながら、彼は僕の腹を見た。その目が大きく見開かれる。珍しく顔を強張らせながら、あさとは視線をあげた。僕達の目が合う。彼は口を開いた。だが、何も言うことなく、彼は無事な左手で自分の顔を覆った。そのまま、動かなくなる。あさとは無言で、何かを嘆いた。僕も何も言わなかった。言葉にしなくても、その事実は、僕自身が一番よくわかっていた。腹を撫で、僕は体から力を抜いた。紅い花畑に、背中から倒れ込む。

 花々は、柔らかく固く、僕の背中を受け止めた。しばらくすると、間近でバサリと音がした。どうやらあさとも、花の上に寝転がったらしい。紅い空を見上げ、彼は呟いた。


「どうする、小田桐? もう、異界に行こうと思えば、君はいつだって行けるよ」

…………………………………………………………………………あぁ、そうだな」


 繭墨あざかを迎えに行くことは愚行だ、紅い女にあらがう術などないとは、彼はもう言わなかった。問いかけに、僕は小さく頷いた。何とか呪いは祓い終えた。出ようと思えば、屋敷からは出られるし、繭墨を迎えに行くこともできるだろう。体を起こし、僕は辺りを見回した。いつの間にか取り落としていた鞄を拾う。しばらく考え、僕は口を開いた。


………………………………………………………………………………一度、家に帰るか」


 実際に口にしてみると、その言葉は思ったよりも強く、胸を叩いた。繭墨は早く迎えに行かなければならない。それでも、僕は一度帰りたかった。目から自然に涙が流れる。


 帰りたい場所があるのは、幸せなことだった。

 そのことを、今、僕はしみじみと思い知った。


 血塗れの手で頰を擦り、僕は立ち上がった。あさとに左手を差し出す。彼は無事な手で僕の手を摑み返した。僕は彼を引っ張り上げ、立たせた。二人で向き合い、空を仰ぐ。

 煙草を吸いたいなと、ふと思った。だが、ライターのオイルは既に空だ。震える声を誤魔化すために使えるものは何もない。それでも無理やり、僕は明るい声を張りあげた。


「別れを告げなくちゃ、いけない人もいるしな」

……………………………君は、そうだろうね」


 あさとの乾いた言葉に、僕は頷いた。会いたい人達がいた。異界に向かう前に、顔を見たい面々が。懐かしいメンバーを僕は思い返す。彼らは、僕にとって、とても大切で。



 そして、いとしい、人達だった。