繭墨あざかは、どんな時でも、気儘に生きてきた。
ボクは如何なる時も人の言うことを聞きはしない。
ボクは孤独で我が儘な猫のように生きてきた。ボクは自分の嫌なことなどしなかった。
食事はまともに取らず、自力では走らず、退屈になれば、好きに凄惨な事件を求めた。
小田桐君は、ボクとの日々を思い返す度、げんなりすることだろう。
ボクは彼を盾にしたし、腹を刺したし、怒りを利用したこともある。
ボクは彼を駒のように扱った。それでも、彼は仕方ないと言いた気にボクの傍にいた。
今までずっとそうだった。けれども、その日々は永遠でないとボクだけは知っていた。
いつか目覚めた時、ボクが彼の傍に、それどころかどこにもいない日がくるのだろう。
夜が来て、朝が来るのが自然なことのように、ボクはそうずっと前から確信していた。
繭墨あざかと小田桐勤は、必ず別れる日が来るのだと。
彼はボクのことを理解しない。ボクは彼の言葉を聞かない。
だが、彼は彼で大概ボクの言うことを聞いてはいなかった。
ボク達はいつまで経っても平行線で、決して交わることなどない。
それでも、ボク達は何故か少し離れたところに並んで立っていた。
小田桐勤は、繭墨あざかを理解しない。繭墨あざかは、小田桐勤の言葉を聞かない。
繭墨あざかは、小田桐勤を理解しない。小田桐勤は、繭墨あざかの言葉を聞かない。
ボクは、そんな彼を、心の底から馬鹿にしていて。
けれども、その愚かさが貴重なことも知っていた。
「完了したよ、小田桐。まぁ、しばらくの間は、彼女も落ち着いていることだろうさ」
そう言い、あさとは僕と繋いだ手を離した。僕は自分の腹を見降ろす。醜く盛り上がった傷の下では雨香が元通りに眠っていた。急に覚醒させてしまったので心配したが、どうやら彼女は、無事落ち着いてくれたらしい。安堵の息を吐き、僕は辺りを見回した。
周囲には荒れ果てた景色が広がっている。僕達はまだ瓦礫の山の上に立っていた。
部屋が一つ全壊するほどの騒ぎがあったと言うのに、辺りの家々は無言のままだ。
家並みは固く窓を閉じ、沈黙を守っている。一種、異様な反応だったが今は助かった。
あれから後、僕達はすぐに瓦礫の山を下りようとした。だが、数歩進んだところで失血から僕はその場に倒れてしまったのだ。あさとは呆れた顔で僕と再び手を繋ぎ、腹を塞いでくれた。もしも彼に腹を塞いでもらえなければ、僕は失血死していたことだろう。今思えば雨香を出したのは、あまりに軽率な行動だった。あの時のあさとは、僕を平気で見殺しにする程度には気分を害していた。だが、リスクを考えることなく僕は反射的に部屋を壊すことを選んでしまった。以前白雪に頼み、嵯峨邸の松を倒した時と同じだ。
こんな物、この世界から消えろと、僕は心の底から思った。
繭墨あざかは生きている。彼女の葬式は必要ない。空の棺桶などいらなかった。だが、狐はその中で一人生きるつもりだったという。それならば尚更、壊すしか道はなかった。
結果、何が決め手になったのかは不明だが、あさとは、僕への協力を決意してくれたらしい。自分から持ちかけておいて何だが、僕は彼の返答を未だ信じきれていなかった。だが、あさとは協力を宣言した上で、僕の腹を塞いでくれた。彼は本気で僕を助けてくれるつもりのようだ。これで繭墨を迎えに行く為の希望が見えた。僕は強く右手を握る。
それは細い蜘蛛の糸だが紛れもない地獄への助けだった。だが、僕が手に入れたのは地の底から逃れる方法ではなく、降りていく術だ。糸を伝って戻ることは難しいだろう。
今まさに、僕は地獄へ直進しているのかもしれない。だが、迷えば足が止まるだろう。
首を横に振り、僕は先程服を詰めた鞄を摑んだ。瓦礫の山から下りる為、歩を進める。だが、再び立ち止まった。周囲から無数の視線が突き刺さる。沈黙を保ったまま、家々は僕達の動向を観察していた。僕はふと気がついた。邸宅に籠もった人々は繭墨あさとの異能を知っている。彼は己の意志と人の願い次第で何でもできた。恐らく外の連中は、この部屋と同様に自分達も吹き飛ばされることを恐れているのだろう。だが、僕達は繭墨本家の連中など眼中になかった。彼らは好きに閉じ籠もり、人生を腐敗させればいい。鋭い視線を振り切るように、僕は足を前に出した。だが、背後のあさとは動かない。
「どうした、あさと。いつまでも、ここに残っていても仕方がない。さっさと離れるぞ」
「離れるのは、別に構わないけれどね、小田桐。で、俺達はどこに行く予定なんだい?」
「…………………………………へっ?」
彼の問いに僕は思わず言葉を失った。そう言えば、具体的にどこに行くのかを考えていなかった。あさとは呆れたという顔をする。だが、彼は意外と辛抱強く言葉を続けた。
「俺は異界の表層を歩ける。だが、最初は罅が必要だ。あの時はどうだったかな。君達があの街を異界化した直後、元から異界と繋がりやすかった場所には、一時的に罅割れが生じていたんだよ。確か、うら寂しい神社の一角から、俺は異界に潜りこんだのさ。だが、今は話が別だ。空間は完全に安定している。繭墨本家は封鎖済みだ。妹君の事務所周辺、君のアパート近くにはまだ紅い花が舞っているだろう。だが、もう薄いはずだ。罅を探そうにも、その多くが既に癒着しているだろうね。どうするんだい、小田桐?」
君は、俺を連れていく場所に、当てなんかあるのかい?
「せっかくの協力関係だ。俺に願うのも、まぁ今ならばありだろうさ。だが、俺の異能は紅い女からの借り物だ。俺を介して異界を開くのはお勧めしないよ。敵にこちらの行動が筒抜けになってもいいのなら、話は別だけどね。その結果は、考えなくても明白さ」
繭墨あさとは狐の目で僕を見た。僕は思わず息を飲む。そうだった。僕はあさとに異界の表層への案内を頼むつもりでいた。だが、そこまでに必要な手順を考えたことはなかった。今更、僕は考えを巡らせる。まずは、使用可能な罅を見つけなければならない。
繭墨と別れた、ビルの狭間はどうだろうか。あそこには、未だ紅い花弁が詰まっているはずだ。多少薄くなっているだろうが、罅の一つや二つ余裕で保全されているだろう。だが、と僕は眉を顰めた。異界の奥底、僕の生んだ逃避場所で、聞いた言葉が耳を打つ。
『異界の支配者とて自分自身の胎内を隅から隅まで監視しているわけではありません』
異界には監視の薄い場所と濃い場所があった。あのビルの狭間は、既に異界開きに使用してしまっている。再び通るのは危険だろう。同じ扉の使用は避けるべきだ。考えるのを一時止め、僕は顔をあげた。今はどこかに落ち着いて、心当たりを出し合う他ない。
「とりあえず、僕のアパートに」
─────────ガララッ
その時、間近で瓦礫が崩れた。僕は慌てて顔をあげる。見ると転んだらしい女中が折れた机にしがみついていた。案内時、人間みのなさすら感じさせた姿は見事埃だらけになっている。ぷるぷると震える肩を僕は思わず見つめてしまった。次の瞬間、前触れなく彼女は顔をあげた。僕達の目が合ってしまう。次の瞬間、女中は般若の形相になった。違います馬鹿にしたわけではと叫ぶ暇もない。彼女は何かを握り、手を前へ突き出した。反射的に、僕は頭を庇った。だが、何も飛んでこないので瞼を開く。不機嫌極まりない顔で、彼女は僕に携帯電話を差し出していた。慌てて受け取り、僕はそれを耳に当てた。
『お久しぶりです、小田桐勤殿』
同時に、低い声が耳を打った。
『その、こちらも突然の連絡で、正確に現状を把握できていないのですが……あなたが繭墨あさと様を訪れた直後、何やら部屋が吹っ飛んだとかで……何があったのですか?』
「あぁ悪い、吹っ飛んだと言うか吹っ飛ばしたと言うか。その前に……お前は定下か?」
『ええ、御明察です。先程まで会議中だったのですが、緊急通報を受けまして。ですが女中の説明が、どうにも要領を得なかったものですから、こうして、直接、御電話を』
「……すまない、確かに、邸宅は吹き飛ばした」
『本当ですか? 被害規模は如何ほどですか?』
「さっきまで、屋根だったところに青空が見える。壁もない。つまり全壊だな」
『……それは被害甚大ですね。困りました。保険は適用されると思いますか?』
「……多分、無理だと思う。これはちょっと、人間の仕業じゃ説明できないな」
僕の説明に定下は溜息を吐いた。それを聞きながら、僕は彼の言葉について思案した。
もしかして賠償金を請求されるだろうか。生憎僕の貯金は車さえ買えない額だ。売れる物は内臓くらいだがどうするべきか。そう僕が悩んでいると定下は声の調子を変えた。
『─────────────鬼を、使いましたね?』
その囁きは針のような響きを持っていた。彼の声の調子で僕は理解する。定下にとっては部屋の損害額などさほど重要ではないのだろう。彼が問題にしていることは別にあった。定下は分家だが、繭墨の一員だ。鬼と狐の異能について、彼は人一倍理解が深い。
「………………あぁ、その通りだ。僕は腹の鬼に……僕の子に頼んで、部屋を破壊した」
『異界から戻って以来、胎内の鬼は一時沈静化していたと聞いています。あさと様の下を訪れ、それを再び目覚めさせたと言うことは───────行く気、なのですか?』
「……………………お前は、僕達がどこに行くと思うんだ?」
『繭墨様を迎えに』
的確な指摘に、僕は思わず呻き声を漏らした。参った。定下には全てお見通しらしい。適切な言い訳など思いつかなかった。背後のあさとに一瞬視線を投げ、僕は口を開いた。
「あぁ、行く気だ。僕は、僕達は繭墨あざかを迎えに行く」
『やはりそうですか。女の死に耐えきれず、黄泉の国へ迎えに行くのは伊弉諾の時代からの慣例ですかね。率直に申しあげましょう。私共は彼女を連れ帰られては困ります』
定下はそう断言した。強い語調に、僕は頷く。彼に反対されることは、予想していた。
僕は辺りを見回した。静まり返った家々の中では魑魅魍魎が眠っている。改革派である定下が、繭墨の帰還に伴う彼らの活性化を恐れるのは当然のことだろう。だが、繭墨は己が神であることを否定していた。老人達が彼女を御旗に掲げようとしても、繭墨自身がそれを拒むだろう。彼女の帰還に関わりなく弱体化した本家に成す術はないはずだ。
「繭墨の帰還に伴う、本家の活性化ならば、心配する必要なんてない。それは繭墨自身が拒絶するはずだ。今更、分家の優位は揺るがない。僕達は、繭墨家の生き神ではなく、一人の少女を連れて帰るだけだ。お前達の改革に、歯止めをかけるつもりは……………」
『申し訳ありませんが、私もその点については、特に危惧しておりません。私共が恐れているのは、紅い女のことです。彼女が帰れば、紅い女は再び贄を求めて動き出すでしょう。その被害が及ぶのは、我々です。それに……こう言えば、貴方は怒るでしょうが』
突然定下は語るのを止めた。彼は踏ん切りがつかないかのように、長い沈黙を続ける。耳を澄ませて、僕は待ち続けた。やがて彼は口を開いた。掠れた息が最初に鼓膜を叩く。
『私共は今代の繭墨あざかこそ、繭墨家の呪いを永遠に解く、最後の贄にならないかと考えています。繭墨家の安穏の為、彼女には未来永劫異界にいて頂かなくてはならない』
瞬間、僕は頭を横殴りにされた錯覚を覚えた。電撃的に、僕は定下の考えを理解する。紅い女は己の慰撫に使用する為、歴代の繭墨あざかを死に追いやり、異界へ攫った。紅い女に弄ばれた魂は、直ぐに壊れてしまう。故に、彼女の渇望は終わらない。紅い女は己と同じ鬼を、永遠の時を紅い肉を眺めながら、飽きもせず嗤える存在を切望していた。
繭墨あざかが、それにならないかと、定下は期待している。
繭墨の精神性は人を凌駕していた。彼女は他の娘と違い、幾ら弄ばれようが壊れない可能性がある。彼女が紅い女の虜囚でいる限り、繭墨家は新たな贄を出さずに済むのだ。
つまり定下は、繭墨あざかに狂わず壊れず、永遠に紅い女の玩具でいろと言っていた。
目の前が霞む。腹の子が蠢いた。携帯電話が軋む。僕は怒りで震える声を絞り出した。
「お前らは………………お前は、どれだけ外道なんだ。よく僕にそんな言葉が吐けるな」
『御言葉ですが、一の犠牲と、これから先に続く百の犠牲ならば、私は前者を取ります。娘を取られるのは、我らが一族。非道と罵られようと、部外者に外道呼ばわりされる筋合いはありません。そう、生け贄を育成する者の気持ちを、あなたも考えてみればいい』
生き神の存在に縛られていた方がマシだった。哀れな娘を、誰が育てたいと思うんだ。
彼は敬語を崩し、吐き捨てた。その言葉の中には、狂おしいまでの怒りが覗いている。
それに僕は反論できなかった。僕は繭墨あざかを取り戻したい。彼は後に続く犠牲を二度と出したくない。僕達は平行線だ。それに、理屈だけを見るのならば、彼の方が圧倒的に正しい。紅い女が繭墨に満足している限り、二度と犠牲は出ないのだ。一人の犠牲で後の災厄を防げるのならば、私情は飲み込むべきだろう。だが、と僕は口を開いた。
「残念だが定下。それは無理だ。繭さんだってやがて壊される。永遠には耐えられない」
『何故貴方にそう断言できるのですか? 今代の繭墨あざかは人と呼ぶにはあまりに歪な存在でした。彼女は人より鬼に近い。彼女以上に、適切な玩具などいないはずです』
「それならば、聞き返すぞ、定下。なんで、初代の繭墨あざかは壊されたんだ?」
繭墨は初代によく似ていた。お前の理屈ならば、繭墨家は既に解放されているはずだ。
僕の問いに定下は息を飲んだ。本来ならば、彼にも容易く気づけたはずだ。繭墨の死に、定下も僕達とは別方向に混乱している。紅い女が贄を求め続けている以上、初代の魂は壊されていた。今代の繭墨あざかは初代と瓜二つだ。彼女も同様の末路は免れないだろう。繭墨は鬼に近いが、ただの人間に過ぎない。彼女は不死に近い体を捨て、あえて人でなしな少女として生きてきた。異界の底で、彼女は女と笑い合いはしないはずだ。
気に入らない存在に繭墨は決して迎合しない。それが僕の知る彼女だった。やがて繭墨は飽きられるか、壊されるかするだろう。僕は紅い女が、傲慢に笑う様を思い出した。いずれ彼女は無慈悲に繭墨を壊すはずだ。だが、僕はその行動に疑問を覚えた。かつて異界で考えたことを、僕は再び思い返す。何故女は永遠に嗤い合える存在を求めるのか。
『僕の求める慰撫は、僕と同じ鬼』
『永遠の時を、紅い肉を眺めながら、飽きもせず、嗤える存在さ』
彼女は本当に、壊すためだけの玩具を求めているのだろうか。
異界は一人きりで生き続けるには、あまりにも寂しい場所だ。
─────かつて、私の産み落とした娘すら、息もせずに死んだというのに。
─────君は、君ならば、壊れも狂いもしないだろう。なぁ、君は。
─────私と、一緒に来る気はないか?
『貴方の御話も最もです。ですが、やはり繭墨あざかを連れ戻して頂くわけには参りません。本家のような犠牲が、また出ないとも限らない。しかし、お二人は我々が止めたところで、異界に向かわれるつもりでしょう? あさと様相手では、こちらも分が悪い』
いいでしょう、これは賭けです。一つ、条件をつけましょう。
思わぬ言葉に、僕は意識を引き戻された。紅い女の縋るような声を払い、僕は彼の声だけに集中する。しばらく、沈黙が続いた。やがて定下は短く息を吐き、言葉を続けた。
『問題を先延ばしにしているだけだとはわかっています。ですが、連れ帰るのはそれ以上の愚行だ。再び繭墨あざかは異界に攫われるでしょう。新たな被害が出る可能性すらある。無理に繭墨あざかを連れ帰るつもりなら、せめて代償をお支払いください。そうすれば、私共は異界と繋がった場所も提供しましょう……御二人には必要でしょう?』
「なっ、それは本当なのか? 本気なのか?」
『…………………ええ、構いませんよ。そう』
もしも、私の頼む一件を解決して頂けるのならば、私共は御二人を送り出してもいい。
定下は真剣な声で断言した。だが、愚行と言い切った口で何故そう提案するのか、僕には理解できない。困惑し、僕は言葉を飲んだ。だが、彼は僕の返事を待たずに続けた。
『向かうべき場所は、あさと様がご存じです。できるものならば』
繭墨家の新たな、世にもおぞましき呪いを、解決して頂きたい。
──────────────────────────ブツッ
そこで通話は切れた。僕は呆然と手の中の携帯電話を眺める。最早これ以上の会話は無用と突き放された気がした。目を閉じ、僕は提案の内容を思い返した。条件としては破格だろう。だが、彼の言葉からは拭い難く不吉で、陰惨な気配も漂っている。乗るべきか、乗らざるべきか。僕は瞼を開き、あさとを振り返った。だが、相談する間もなく、サイレンの音が響いた。街の住人は、丘の上を不可侵な領域として認識しているはずだ。だが、先程の破壊音は、流石に通報対象だったらしい。まずは門番が対応するはずだが時間はなかった。なるべく早く、この場を離れなければならない。話は後にして、僕は歩き出した。今度はあさとも隣に並ぶ。彼は僕と携帯電話を眺め、意味深に唇を歪めた。
「定下からの依頼かい?」
「…………わかるのか?」
「わかるさ、分家は他でもない。アレに今、一番悩まされているからね。なるほど……禁じられたあの場所に入れるのならば都合がいい。だが、なかなかに大変な事態だよ」
何を知っているのか、あさとはくつくつと笑った。僕は眉を顰める。言葉こそ多少深刻ぶってはいるものの、彼は愉快そうだ。あさとは芝居がかった仕草で、両腕を広げた。
「行くべき場所を俺は確かに知っているよ。そこはあるおぞましい怪異の渦巻く場所さ。彼はそれの解決を望んだんだろう? いいじゃないか。面白いよ。俺と君が依頼を受けることになるとはね。馬鹿馬鹿しい日も来るものだ。せいぜい死なないように努力しようじゃないか。そして妹君の如く、君の言った通りに、精一杯楽しんでみるとするよ」
「拡大解釈をするな。こんなことを楽しめとは、僕は言ってないぞ」
「そう、このある意味異常事態はね、小田桐。言うなればアレだよ」
あさとは、僕の言葉を完全に無視した。彼は顔をあげ、青空を眺める。
やはり、その顔はどこか愉快そうだ。そして、彼は上機嫌に宣言した。
「繭墨あさとと小田桐勤の」
最初で、最後の事件だよ。
繭墨本家を訪れ、僕は愕然とした。目の前には高く長い土塀が聳えている。
塀は左右に長く続き、視界の端で鉤型に折れていた。高さも成人男性二人分はあるだろう。その上には、鼠返しを思わせる急勾配の屋根が設えられ、鋲を打った門は固く閉ざされていた。どこにもインターフォンや呼び鈴は見当たらない。その様子は城塞どころか刑務所を連想させた。一見しただけではわかり辛いが、異常な光景が広がっている。
目の前に聳え立つ塀は、日本建築の通常の規格を逸脱していた。
何よりも繭墨家の外装は、一度完璧なまでに破壊されたはずだ。
だが、目の前にはまるで何事もなかったかのように、塀が立っている。僕は塀に指を掛けた。拳を固め、表面を叩く。見た目は塗料で古く装ってあるが、造り自体は新しい。土塀に見えるが、中身はコンクリートだろう。僕は嫌な気分になった。これは目隠しだ。
繭墨本家は中に何かを隠している。そして、その惨状を僕はかつて見たことがあった。
まるで花瓶のように、貫かれた人の体から、頭蓋を押し上げて、花が溢れ出していたのだ。小鳥の紅い花は屋敷と人を食い散らかし、本家を壊滅させた。あれから随分時間は経っている。流石に被害者の回収は済んでいるだろうが、布を掛けられた死骸を眺めているような気分になった。これを作る為、一体定下はどれほどの人材を派遣したのだろうか。尋常な労力の掛け方ではない。眉を顰めながらも、僕はあることに気がついた。
繭墨家の敷地は広い。塞ぐことのできない頭上は、がら空きだ。飛行機からは、敷地内が容易く覗けるだろう。こんな高い塀を作って、果たして意味はあるのか。僕がそう考えた時、あさとが隣に並んだ。彼は壁を拳で軽く叩き、応えるように僕の方を向いた。
「頭上からの視線を気にする必要はないよ、小田桐。ここは主な飛行経路からは外れているし、目にしたところで、人は本能的にこの場を忌避するさ。それこそ、脳内で差しさわりない光景と、記憶の入れ替えが行われるだろう。ただ、迷い込んだ人間はその限りではないんだよ。自分の周囲の光景から、目の前の怪異から、視線を逸らすことは不可能だからね。この地を本能的に嫌悪しながらも、それ故に覗く人間がいては困るのさ」
塀はそのための処置だよ。地獄の門など、塞いでしまうに限る。
僕は更に眉間の皺を深めた。各地に咲いた紅い花は大分枯れたはずだ。この場所の上空には、確かに他よりも遙かに濃い紅が広がっている。だが、小鳥の本家襲撃から時は経ったのだ。繭墨家が始末を行うには十分な時間が過ぎたはずだ。今更地獄と呼ばれるほどのものが中に残されているとは、僕には思えない。だが、定下の言葉が耳を叩いた。
できるものならば。繭墨家の新たな、世にもおぞましき呪いを、解決して頂きたい。
その言葉の意味を考えながら、僕は鞄を下に置き、門に手をかけた。この場所に、僕達以外の人間はいない。止める声はなかった。僕達はあれからタクシーに乗り、繭墨本家を目指したが、普段は乗り入れ可能な私道の始点で、車を止められたのだ。立ち入り禁止を告げた作業員風の姿をした男の手配で、僕達は新たなハイヤーに乗り、本家に着いた。男は門の鍵を開けた後、車に乗り、既に立ち去っている。鋲の打たれた扉には、よく見れば掠れた文字がびっしりと描かれていた。木目にも見えるそれは、念仏に似た細かな文字の連なりだ。効果の程はわからないが、不吉なものが仕舞われているのは間違いないだろう。あさとは場を譲るように、一歩後ろに下がった。彼は笑いながら囁く。
「そうだね、小田桐。この中には、世にもおぞましき物が仕舞われているよ」
繭墨家の地獄は、一体どこかと問われれば、俺はここがそうだと応えるね。
恐怖を煽るような言葉を聞きながら、僕は唾を飲んだ。覚悟を決め、掌に力を込める。
ギッ、いいいいいいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ
重い軋みをあげて、扉は開いた。その瞬間、異質な空気が僕の下へどっと押し寄せた。
中から生臭く重く、甘い空気の層が溢れ出る。それは人の呼気のように、僕の全身を生温かく包み込んだ。そして、目の前の光景に驚愕すると同時に、僕は思い知った。定下はこれを賭けと呼んだ。つまり、僕達が死に全てに片がつく可能性も、彼は当然のように想定している。それ故の協力だった。そして、もう一つ、僕はあることを確信した。
急造された塀と門は目隠しではない。
あれは棺桶の壁であり蓋だったのだ。
紅い花の中に、乾いた髑髏が並んでいる。
それは美しいが理解の範疇を超える光景だった。地下墓地かと僕は思わず呟いた。骨が当然のように場に残された光景は、昔外国の写真で見た、遺骸の規則正しく並べられた暗い部屋を連想させる。だが、その割には、ここはあまりにも荒涼と開けすぎていた。
辺りには、砕かれた瓦礫が散っている。天上には、巨大な紅い花が、咲き誇っていた。
それは、庭の桜の樹々を取り込んでいた。その幹に絡みつき、芯にすることで紅い花は体を支えている。大樹の一部と化した根や茎には人骨が絡め取られていた。無数の髑髏が植物に覆われている様は、世界の終わりが来たかのようだ。華やかで退廃的でいっそ滑稽で恐ろしい。よく外から中が見えなかったものだと、僕はずれた感心すら覚えた。
肉厚な花弁をした巨大な花は、元の桜の大きさを越えている。
言葉をなくし、僕はその場に立ち竦んだ。その間にも、僕の鼻先にはハラハラと紅い花弁が舞い落ちていく。桜吹雪にも似ているが、その花弁の一枚一枚は、子供の掌くらいの大きさだった。地面を這う根はまるで大蛇か、人間には及びもつかない巨大な生き物の一部のようにも見える。とても有機的で、生命に溢れた光景だが、この場所は静謐な死に包まれていた。肉片一つついていない骨は、奇妙なほどに乾いている。だが、地面は血濡れていた。そこには紅く染まった空と、ゆっくりと動く雲の群れが映っている。
恐怖は、驚愕に飲み込まれた。考えが追いつかない。僕は呆然と目の前の濡れた、それでいて乾ききった光景を眺めた。何もかもがちぐはぐで不気味で曖昧だ。こんな場所を、僕はここ以外にも知っていた。そこでは、生と死は渾然と一体化している。そして、何もかもが狂い果てているのだ。今もそうだった。鉄臭く、生温かい風が頰を撫でるが、それは夏の風のように乾いていた。僕は不意に、前触れなく、懐かしい気分に襲われた。
そうだった。ここは、異界にとてもよく似ている。
腹の中で興奮した雨香が蠢いた。同時にあさとが僕の肩を叩いた。僕は自分でも大げさなほど飛び上がり、慌てて後ろを振り向いた。意外にもあさとは真剣な顔をしている。
「呆けているところ、すまないけれどね、小田桐。君も少しは、警戒をした方がいいよ」
彼は頭上を仰いだ。紅い大樹を見上げ、あさとは目を細める。繭墨あさとはその幼少期を、本家で過ごしたはずだ。死骸の中には、多くの知り合いがいることだろう。だが、彼は特に哀れむ様子は見せなかった。口笛でも吹き出しそうな仕草で、彼はスニーカーの底を持ち上げる。ぬちゃりと紅い糸が線を引いた。それは途中でふつりと断ち切れる。
「なるほどね……流石だよ。ここは『開きっ放し』だ。罅どころの話じゃない。あの育った紅い花が、この地を半ば異界化させているのさ。君と妹君は、以前三地点に撒かれた花の開花を防ぐ為、小鳥を食い殺しただろう? 種を蒔く少女がいなくなれば、花は自然と枯れ落ち、土地の異界化は防げるはずだった。だが、この場所だけは違ったんだ」
あさとの言葉を聞き、僕はあの時の状況を思い返した。確かに、僕達は紅い花を枯らすため奔走した。左腕を強く抱きながら、僕は記憶を探る。紅い花が育った場合、起こるはずだった悲劇について回想した。革張りのソファーに座り、繭墨はこう語ったのだ。
天秤が傾くどころの騒ぎじゃないのさ。元々異界と現世の境界が曖昧になっているところに花を一斉に開花させ、人を大量虐殺してみたまえ。現世と異界が完全に繋がるよ。
これ以上、花が増えれば大変な事態になるよ。何せ、あの花は人を喰える。
異界と現の狭間に、贄を大量に捧ぐようなものさ。怪異の原因となる異物が、移動させられる程度では済まない。該当地域に存在する物は、全て異界に取り込まれるだろう。
境界線が割れれば、花が咲いた地域は、完全に飲み込まれるんだ。
つまり、異界開きだよ。巻き込まれた人間はただでは済まないね。
「この花は種を蒔く少女が殺された後も、残された死体を養分にして、更なる成長を遂げたのさ。花達は絡み合い、一つの巨大花を形成したが、種を蒔く少女が死んだ以上、その総数は増えない。境界線は更に曖昧になったが、異界は完全には開かなかった。また、その頃には、定下は遺体の回収を諦め、本家を塀で覆い、避難を終えていたのさ」
あの男、そういう判断は早いよ。恐怖に敏感な人間は、生き残りやすい。
故に、半ば異界開きは起こったものの、巻き込まれた人間はいなかった。
「俺にはどうでもいいことだが、君のような人間からすると不幸中の幸いと言ったところかな。肉を食われ、血を吸われた死体は、もう髑髏しか残っていない。遺体はしゃぶり尽くされたのさ。花は新たな餌を求めている。だが、君の腹には鬼がいて、俺は異能持ちだ。せっかく、今は栄華を誇っているんだ。肉食の獣程度の勘が向こうにあれば、手を出しては来ないだろう。それでも油断すれば、俺達の末路はあの中の一つだろうね」
そう言い、あさとは肩を竦めた。僕は辺りを見回す。一面に咲いた紅い花弁は、肉厚な女の唇に似ていた。僕達を嘲笑うかのように、それは髑髏を抱えながら一斉に揺れる。
恐怖よりも、未だ死体を閉じ込めている姿に、嫌悪と怒りが湧いた。僕は歯を強く嚙み締める。同時に、あさとはきびすを返した。彼は元の繭墨家の敷地とは変わり果てた光景の中を進んで行く。広大な空間には、建物の代わりのように花や蔦が繁殖している。
異界には距離の概念などない。この場所にも、果たして常識が通じるかどうかはわからなかった。不用意に歩き回っては、自分達の位置すら見失うことになるだろう。だが、あさとの足取りは確かだ。どうやら彼には目的地があるらしい。慌てて、僕はその後を追いかけた。周りの光景は見ないよう、なるべく彼の背中へ目を凝らす。紅に塗り潰された世界を見ていると、深刻な眩暈に襲われた。僕は異界の光景に慣れてはいる。だが、この場所は中途半端だ。喉に刺さった小骨のように、半端な現実の名残が、神経に触る。
しばらく行くと、比較的形状を保った家屋の残骸が見えた。斜めに重なり合った屋根の間に、小花の付いた蔦がカーテン状に垂れ下がっている。あさとはそこを潜り抜けた。
僕も後を追う。だが、カーテンを払うと、指先に痛みが走った。慌てて僕は腕を抱き寄せた。見ると指には小さな歯形が付いている。周囲の花が僕を嗤うかのように、一斉に震えた。だが、腹がぼこりと蠢くと、それはただの静物へ戻った。腹を撫で、僕は雨香に感謝を伝える。そして慎重に頭を屈め、カーテンを潜り抜けた。同時に目を見開く。
カーテンの向こう側には、胃の中じみた光景が広がっていた。
瓦礫が取りこまれてしまったのだろう。地面に突き立った無数の木片が、繊毛のように肉化していた。肉襞の草原を進む度、足裏に不快な感触が走る。全身に鳥肌が立った。
先程から、人には辛い空間が続いている。だが、雨香にはこの空気が心地いいらしい。
彼女は腹の中で無邪気に喜んだ。それに応え、僕は腹を撫でる。その時ふっと、背後に気配を感じた。慌てて後ろを振り向くが、そこには誰もいない。だが、首筋にはひりつくような、視線の感覚が残っていた。勘違いだとは思えない。誰かが僕達を見ていた。
だが、ここには人間などいない。
「────────なぁ、あさと」
前を行く背中に、僕は声をかけた。鈍い僕ですら気がついたのだ。彼が視線を感じていないとは思えない。だが、あさとは無言のまま歩き続けている。その背中を見ているうちに、僕はあることが気になりだした。あさとは、ここを地獄と呼んだ。確かに、あさとには、体感で百年近くの時を異界で過ごした経験がある。だが、彼は異界を地獄と呼びはしないだろう。彼はもっと壮絶なものを、人を、場所を見ていた。地獄に近い惨劇を、自分の手で産み出したことすらある。それに先程聞いた言葉のニュアンスは、もっと違ったものだった気がした。脅すような彼の言葉を、僕は正確に思い返そうとする。
そうだった。確か、彼はこの場所を、繭墨家の地獄と呼んだのだ。
気がつけば、僕の足は完全に止まっていた。だが、あさとは止まることなく、前に進んでいく。僕は慌てて、足を動かした。瞬間、ふっと背後の視線が復活した。首筋に焼けた針のような、鋭い視線が突き刺さる。僕は後ろを向いた。だが、やはり誰もいない。
僕は再び歩き出した。背を向けても、気配は戻ってこない。今振り向いても、荒れた空間が広がっているだけだろう。視線の主を確かめることを諦め、僕は足を前へ出した。
紅い水溜まりに、革靴の底が沈む。
────────────ぱちゃっ
─────────────だぁっ
同時に、赤子が泣いた。僕は素早く、後ろを振り向いた。視界の端に、白い姿が過る。
サッと、それは瓦礫の海に一瞬で身を沈めた。薄汚れた白の残像が、網膜に焼きつく。
それの全身は、斑に汚れていた。大きさは猫の子にしては大きく、成犬と比べれば小さい。人だと考えるには、地を這う動きがあまりにも早すぎた。僕は目を細めた。今のは一体何なのか。だが、何故か、それには見覚えがある気もした。確かに、僕は今の得体の知れない影の正体を知っている。だが、それが何なのかまでは、思い出せなかった。
不吉な予感と共に、腹の中で雨香が蠢いた。僕が悩む間も、あさとは歩き続けている。仕方なく僕は後を追った。目の前には人の舌にも似た滑らかな紅い丘が聳えている。こんな隆起した土地が、繭墨家にあった覚えはない。異界特有の壁や床の滑らかな起伏は、主に地面に再現されているらしかった。丘を越えると、その先は擂鉢状にくぼんでいる。
そして、平らになった擂鉢の底には、異様な物が建っていた。
「…………………………………………………………………家?」
正確には、それは家ではなかった。平屋の建物の一部が切り取られている。擂鉢の底に、それは脈絡なくぽつんと佇んでいた。まるで誰かが屋敷の中からその部分だけを持ち上げ、置き直したかのような不自然さだ。あさとは迷いなく擂鉢の底へ降りていく。
不安定な足元を気にしながら、僕も後を追った。近づけば近づくほど、建物の異様さが露になる。周囲の建物が、全て瓦礫と化している中、この部屋だけは傷一つなかった。
縁側に面した障子の向こう側は見えない。僕は念の為、建物の左右を確かめた。そこは、のっぺりとした白い壁と化している。塗料ではない、材質不明の壁に塞がれていた。
まるで、長方形のケーキを切り取った跡のようだ。ナイフで切り取る際に、クリームが崩れてしまったのだろう。馬鹿げたことを考えながら、僕は警戒する犬のように建物の周囲を回り、正面に戻った。障子を見つめながら、何かを考えているあさとに尋ねる。
「なあ、あさと、ここは一体何なんだ?」
僕の言葉に応えることなく、あさとは軽やかな動作で縁側に飛び乗った。
止める暇もない。そのまま、彼は障子に手を掛け、無造作に横に引いた。
──────────────スパンッ
中から、むっとする臭気が押し寄せた。外よりも甘く、鉄臭く、生々しい匂いが溢れ出す。その匂いは、外気と質が違った。血の匂いの中に、傷んだ肉と脂の匂いが混ざっている。自然と、僕は血塗れの肉と内臓を思い浮かべた。恐る恐る僕は縁側に這い昇り、座敷を覗き込んだ。中は暗い。だが、辛うじて、座敷の中に四角い影が並んでいるのが見て取れた。障子を開いたというのに、あさとは一歩も前に進もうとはしない。やがて目が慣れてきた。そして僕は彼が前に進まないのではなく、進めないのだと気がついた。
畳の上には微塵の隙間もなく、びっしりと葛籠が置かれていた。
表面に漆の塗られた葛籠は、外からの光で妖しくぬめっている。
柔らかな丸みを帯びた蓋が並んだ様は、足を抱え、体を丸めた人の背中を連想させた。悪臭は葛籠の中から漂っている。この部屋の中には、それ以外に何もなかった。他には何もないし、誰もいないのだ。僕は困惑した。僕達の前にはみっしりと葛籠が並んでいる。だが、それだけだ。まるで意味ある物はそれだけだと言うかのように、葛籠は座敷を埋め尽くしていた。あさとは動かない。だが、このまま立ち尽くしていても仕方がなかった。僕は覚悟を決め、ゆっくりと手を伸ばした。指先が葛籠の端に触れる。ぬめっと何とも言えない感触がした。凝固しかけの血に葛籠は覆われている。僕はそのまま手を持ち上げた。蓋はあっさりと開いた。それは隣の箱の上に垂直に立ち、後ろに倒れる。
─────────────────────────────パタンッ
音を合図に、僕は葛籠を覗き込んだ。白と紅の斑が、視界を埋め尽くす。
すぐさま僕は顔をあげた。それは見覚えのある部位だった。だが、それが一列に並んだ様子は、実に奇妙なものだった。網膜に焼きついた光景を、僕は目を閉じ、瞼の裏に押し込めた。次に止めていた息を再開する。腐敗しかけの甘い肉の匂いが肺を満たした。確かに衝撃は覚えた。だが、こんなものかと安堵もする。目を閉じたまま、僕は考えた。
何故、こんな物がここには大量にあるのだろう?
葛籠の中には、まるで捕り立ての魚のように。
みっちりと、生白い女の足が詰められていた。
足は全て、膝下で切断されていた。
その断面は汚い。質の悪い刃物で、何度も前後に引きながら、苦心して切ったかのようだ。硬直した指先は丸まっている。だが、その皮膚は、先程まで生きていたかのように瑞々しかった。産毛の一本一本すら、美しいままだ。それなのに、肉からは腐敗した匂いがする。様々な点が矛盾していた。この足は実に異界らしい産物だ。僕がそう考える間、あさとは何故か腕組みをしていた。彼は足ではなく僕の顔を眺め、徐に口を開く。
「小田桐……君、また摩耗しただろう? 俺が言うことじゃない気もするけれどね、今の自分の行動を、昔の自分が見た時、どう思うか。たまには考えてみたらどうだい? これは俺ですら、思わず物申したくなる光景だよ。君はどうしたんだい、小田桐勤?」
「えっ、そうか? だって、これはどうせ、異界の産物だろう? それなら手を合わせたって仕方がない……まぁ、確かに気味は悪いし、長く見ているものでもないけどな」
そう答え、僕は摑んでいた足を葛籠の中に戻した。同様に隣の足を摑む。やはり、それも同じ個所で切られていた。僕は更に隣の足を摑み、見比べた。断面は同じに見える。爪の形も一致していた。恐らく、間違いないだろう。葛籠の中に入っているのは、全て同じ足だ。通常、人間に左足は一本しかない。これは本物の足ではなかった。異界が産み出した偽物にすぎない。だが、これが何を参考に作られたものなのかは、問題だった。
異界は飲み込んだものの影響で形を変える。これは恐らく誰かの一部が複製されたものだ。そこまで考え、僕は眉を顰めた。足を摑むことには特に何も感じない。だが、その事実には、流石に嫌悪を覚えた。あさとが言うほどには、僕の精神は摩耗していない。
元の持ち主の左足は、無残に切断されているはずだ。
「なぁ、あさと。お前はなんでここに来たんだ? ここに、建物があると、お前は最初から知っていたのか? この左足の持ち主が、一体誰なのか、お前にはわかるのか?」
僕の問いに、あさとは応えなかった。彼は開いたままの葛籠に手を伸ばす。足を一つ摑み出し、彼は辺りを見回した。僕の鞄を見つけ、拾い上げる。鞄のチャックを開き、あさとはあろうことか、中に腕を入れようとしてきた。慌てて、僕は鞄を引っ手繰った。
中身に血の染みを付けられてはたまらない。すると、あさとは露骨に眉を顰めた。その顔に、僕は意外な印象を覚えた。さっきから、彼は不快な感情を隠すことなく、表に出している。まるで、狐面が割れたかのような変化だ。不機嫌な表情のまま彼は言った。
「いいじゃないか、小田桐。まさか、君は俺にこれを持ち運べって言うのかい? 足をぶら下げたまま歩けと? 人の左足から下は、それなりに重いんだけれどね。それを素手で持ち運ぶ労力と、光景の馬鹿馬鹿しさについて、君は考えたことがあるのかい?」
「そんなこと考えたことがあるかッ! それに、なんで僕に持たせようって発想になるんだよ。何故これを運ぶ必要があるのか、まずは説明しろ。一体なんのための協力関係だ。何でもかんでも黙って、勿体ぶって行動するのは止めてくれ。お前は繭さんかッ!」
「……小田桐、君、妹君が説明を面倒くさがることを、一応不満に思ってはいたんだね」
「そりゃ不満に思わないわけがあるかッ! 何度も死にかけたわッ! で、だ、あさと。お前は何で、これが必要なんだ? なるべく簡潔に話してくれ。繰り返すぞ、簡潔にだ」
僕は、葛籠の中の足を指差した。あさとは何かを悩んだ末に、重い溜息を吐き出した。
彼は片手に足を摑んだまま、くるりと後ろを振り向いた。両足の爪先で、軽く縁側を蹴り、あさとは地面に飛び降りる。パシャリッと濡れた音が鳴った。外の光景には、いつの間にか、微細な変化が生じていた。擂鉢の底の地面にも紅い水が溜まっている。朱塗りの板にも似た、平坦な紅い地面の上にハラハラと花弁が舞い落ちた。それは巨大な花と周囲を覆う小花から、飛ばされてきたものらしい。半ば以上空間が異界化している為、花弁も実態化していた。紅く薄い水溜まりに花弁が落ちる度、金色の波紋が浮かぶ。
まるで、かつての桜吹雪のように紅い花弁は舞い続けた。
その中心で、僕に背中を向けたまま、あさとは低く囁く。
「定下は、繭墨家の新たな呪いを解くように、君に告げた。そうだろう?」
「あぁ、そうだ……繭墨家の新たな、世にもおぞましき呪いを、解決して頂きたい。そう、定下は僕に告げたんだ。依頼を果たすことができれば、異界と繋がった場所も提供してくれると、聞かされはしたが……提供するも何もあったもんじゃないよな。ここは異界と繋がりっぱなしだ。罅どころの騒ぎじゃない。この場所を教えること、案内することそのものが、ある意味、報酬みたいなものなんだろうな……正直嫌すぎる話だが」
「その呪いとは、一体何だろうね? この紅い花のことかい? 花は俺に頼めばどうにかできないこともない。だが、定下はそれを俺に望まなかった。花の食う餌はもうないんだ。今は栄華を誇っていても、いつかは枯れ落ちるだろう。彼は狐に頼らず、自然消滅を待つことにした。ここで下手に異能を利用しては、本家への示しもつかないしね。だが、花が枯れても、場に居着く可能性が高い者達がいる。それこそが新たな呪いさ」
不意に、あさとは腕を上げた。左足を摑んでいない、空の左腕が、水平に伸ばされる。
痩せた手首を、彼はかくんと空中で曲げた。まるで操り糸で吊られているかのような動きで、それは左右に揺れ動く。骨の目立つ手首の上を、一枚の紅い花弁が撫で落ちた。
「ここは扉が開いたままになっている。本家が花に食われた直後、繭墨家と、あるいは繭墨家の人員と縁を持った者達が、そこから這い出して来たのさ。君は異界を長く彷徨ったはずだ。だが、そこまで遠くない昔に異界に飲まれたというのに、中で会わなかった者もいただろう? それが呪いだよ。それこそが呪いさ。ここに巣食った者達は、祓わない限り、己の怨念を餌に場に残り続けるだろう。繭墨家は、それを一番恐れている」
自分達の暗部が、今更、自分達に歯を立てて、食らってくることをね。
それを防いだとしても、現世に恥部が残り続けるのは恐ろしいことだ。
「気をつけなよ、小田桐……ここは、既に彼らの地だ。俺達も、容易く食われかねない」
滑らかな動きで、あさとは持ち上げたままの手を動かした。彼は指で狐を形作る。指遊びの狐は、忙しなく左右を見回した。次の瞬間、それは口を開け、空中から何かを食べた。徐に指を解き、あさとは腕を戻した。飽きたと言うかのように、彼は肩を竦める。
「もう場所は提供されたも同然だ。定下の依頼を無視して異界に行くこともできるけれどね。オススメしないよ。追いかけられては敵わない。この場所を使うには、依頼通りに片をつけた方がよさそうだ。けれども、俺と君で果たしてできるものかは知らないよ」
ここに、妹君はいないんだ。唐傘を回せば、それで、都合よく片がつくわけじゃない。
真似事でどうにかできるかは、未経験さ。まぁ仕方ない。当たって砕けるしかないね。
再び、あさとは肩を竦めた。白いシャツに包まれた、何も乗っていない肩が上下する。
僕はふと心細さに襲われた。思わず、無意味に辺りを見回してしまう。この場所は紅色だらけだった。だが、どこにも見慣れた色合いはない。紅い唐傘はここにはなかった。
怪異の現場にいるというのに、繭墨あざかの姿はどこにもないのだ。
僕の隣にはあさとがいる。そして、いつも隣にいた人がいなかった。
彼女の気紛れのせいで、僕は今まで何度死にかけたことだろう。繭墨のせいで、僕は繰り返し、陰惨な事件に直面した。だが、隣に彼女がいることに、僕は何だかんだで安心していたのだ。どんなことがあろうと、繭墨あざかは変わらない。どろどろとした人間の感情の坩堝の中で、彼女の存在は決して流されることのない柱のようだった。彼女は人々の結末を嘲笑ったが、自分が誰かの感情に、引きずられることは一度もなかった。
濃厚な鉄錆の匂いの中、僕はふと気がついた。そう言えばここには慣れ親しんだ匂いもない。チョコレートの甘い匂いは、空になった事務所の中にしか残されていなかった。
それも、やがて、消えてしまうことだろう。
────────────────パシンッ
聞き覚えのある音に、僕は意識を引き戻された。ふと気がつけば、あさとの背中には、鮮やかな紺色が咲いていた。僕は目を見開く。それには見覚えがあった。その紺色の唐傘は、彼が狐を名乗っていた頃に掲げていたものだ。一体、何故そんな物がここにあるのか。僕が尋ねる前に、彼は振り向いた。首を傾け、あさとは意外と穏やかな声で囁く。
「そんなに驚くことじゃないよ。ほら、これを見てみるといい」
彼は唐傘の柄を示すように持ち上げた。それに素直に目を向け、僕は思わず絶句した。
竹で造られた柄は、一部肉化している。無機物と有機物の融合は、自然の摂理に反した光景だ。僕の強張った顔を見て、あさとは肩を竦めた。彼はひょいっと、空を指差す。