* * *


「それはどうしたんだ、あさと? それにこの部屋は……ここにある物達は何なんだ?」

「何を言うんだい、小田桐。君の頭がどんなに鈍くても流石にわかるだろう? まさか忘れたわけじゃないはずさ。犬は飼い主の持ち物を、そう容易たやすく忘れはしないからね」


 ここにある物は、全て死者の持ち物さ。繭墨あざか、妹君の遺品だよ。


 さらりと、あさとはそう応えた。確かにそのことは見ればわかった。この部屋はすみから隅まで、繭墨あざかの持ち物でめられている。薄く懐かしい香りすらも漂っていた。

 ガラクタにみついた匂いが、空気中に溶けだしたのだろう。部屋は甘いチョコレートの匂いで満たされていた。僕は思わず目を擦った。カーテン越しの鈍い光に照らされた室内に、繭墨あざかが立っているような錯覚を覚えたのだ。彼女はゴシックロリータを揺らし、まぐれに私室を歩いている。ドレスのすそが翻った。床を蹴り、彼女は無意味にその場で回る。ガラクタを眺め、繭墨は肩を竦めた。不意に彼女は僕に気がつく。


『何を突っ立っているんだい、小田桐君? この部屋のそうでも始める気かい? 流石の君でも、ちできない気がするけれどね。それよりホットチョコレートを頼むよ』


 いつか聞いた幻聴が、耳を打った。次の瞬間、彼女の姿は溶け消えた。後にはせいじやくだけが残される。ガラクタだけが置き去りにされた室内は、あまりにも寒々しい。僕は思わず息を飲んだ。繭墨あざかは、死んだわけではない。だが、ぶつまみれたこの場所は。


「まるで、かんおけの中のようだと思うかい。そうだね。あながち間違った連想でもないよ」

………………………………………えっ」

「棺桶のようだと、君が思ったのならば、それは実に正しい認識さ」


 勝手に人の考えを読み、あさとは首を傾げた。彼は窓の外へ視線を送る。レースに覆われた分厚いガラスの向こうには、更に高所にたたずむ家々が幾つか見えた。立派だが画一的な個性に欠けたがわらとうかんかくに並んでいる。視線を僕に戻し、あさとは唇をゆがめた。

 それはどんな表情を浮かべるべきか、他に思いつかなかったと言いたげな笑みだった。


「ここに並ぶ家々を君も見ただろう? ていのいいゆうへいとはまさにこのことさ。だが、俺は別段それに文句をつけるつもりはないよ。死んだように生きると、当の昔に決めていたからね。こうなってははや何かを望むのも馬鹿馬鹿しい。他人の物でも、棺桶は俺にはふさわしい住居だろうさ。君は俺に死ぬなと言ったね。その結果がこのザマだよ。まぁ、傍から見ても、ここはそれなりにいい住処すみかだろうさ。何せ造りだけは一流だからね」


 諦めとうらみの混ざった言葉を、狐はとうとうと吐き出した。その声を適当に聞き流しながら、僕は辺りを見回した。それなりにいい住処という言葉で表現するには、この部屋は異常だ。何も知らない他人から見れば、ここは無秩序に物の置かれた、一風変わった部屋にすぎないだろう。だが、実際には、ここはある個人の生前の記憶に支配されていた。


 いや、その表現も正しくはない。繭墨あざかは、まだ死んではいなかった。

 だが、繭墨あさとは、彼女の私物で占められたこの場所を、棺桶と呼んだ。


 ───────────────パンッ


 不意に彼は腕の中の唐傘を開いた。全体的にくすんだ色の室内に、鮮やかなくれないが咲く。

 あさとはぐるりと唐傘を回した。意味もなく顔を隠しながら、彼は言葉を続けていく。


「外の家々には魍魎が閉じ込められている。扉が封じるのは何も人ばかりじゃないのさ。繭墨あざかに対する醜いどうけいしゆうねんが、それぞれの家には押し込まれているんだよ。それらは二度と晴らせはしない。繭墨あざかに対する欲望の全ては、ここに押し込まれたままちるだろうさ。次代を代わりにでようにも、選出自体が行われていないからね」


 ───────────ぐるり、ぐるり


 唐傘が回り、紅色がまわった。あさとの言葉に、僕はまゆひそめた。かつて繭墨に聞いた話を思い返す。繭墨あざかの死後、繭墨家は必ず次代を選ぶ儀式をおこなうはずだった。


『その代のあざかが死ぬ度にね、一族の女子を全て集めて、新しいあざかを選出するんだ。それは、そうかんな光景だと聞くよ。幼い子供達が、皆、ものぐるいの目をするんだ』


 次の繭墨あざかに選ばれた女子は、本家に引き取られ、養育される。それは次代の化け物に選ばれた子供を、二度と人間には戻れないよう変化させる作業だ。だが、繭墨家のこんかんを成す、その重大な儀式は既に行われていないと言う。予想を上回る変化だった。


「繭墨家は、生き神である繭墨あざかを、もう選んでいないっていうのか?」

「あぁ、そうだよ、小田桐。最もそれはたてまえに過ぎないけれどね。どうせ、ごくに少女の選出は行われているだろうさ。だが、それは紅い女が次代を求めた時の保険、ただの生け贄に過ぎないんだよ。異界に棲む化け物にささげるための肉に、養育なんて必要ないだろう? 最早生き神をあがたてまつる時代は終わったんだ。繭墨家も時代に飲まれたのさ」


 君も知っているだろう? ごしの家と同じさ。あの家は、異能のみに頼り続けた結果、近代化の波に乗れず、ぼつらくしかけた。表世界を生きるには、黒いうわさかせにしかならない。


「そろそろ繭墨家にも時期が来ていたんだよ。そして古いびようそうとりの手によっていつそうされた。繭墨の一族は生来の恐れから繭墨あざかには逆らえない。ならば、次の生き神を作らなければいいのさ。妹君が異界に飲まれたのは、実にぜつみようなタイミングだった」


 無数のからすが棲む家での悲劇を僕は思い返した。鴉越は異能の保全のため、一人の女性を鳥籠に閉じ込めた。そして今、繭墨家は一人の娘を、緊急時の肉として選んだという。

 生け贄には恐らく何の権利もない。だが、紅い女に求められるまでは、責も追わずに済むはずだ。生き神の養育を行うことと生け贄を選ぶこと。どちらが健全なのだろうか。

 答えは簡単だ。両方狂っている。贄や神を定めること自体、正気の沙汰ではなかった。


 ────────────────────ぐるり、ぐるり、ぐるり

「それに、良くも悪くも、今代の繭墨あざかは、あまりにも強烈過ぎた」


 更に唐傘を回し、あさとは呟いた。僕もそれに頷く。惨劇をよろこび、死体を嗤い、誰にも慈悲を向けない。人間としてあまりに歪な今代の繭墨あざかには、毒のようなカリスマ性があった。彼女は生まれながらの繭墨あざかだ。他の繭墨あざかなど適正者が見つからないがゆえに、無理やり定めたまがいものに過ぎない。彼女こそ初代以来の本物だった。


「あの少女の毒のようなカリスマ性は、生き神をしんぽうする人間に対し、強烈な印象を残したのさ。彼女が死んで尚、次の繭墨あざかを、繭墨あざかととうとべる人間は少ないだろう。故に、抵抗の気力さえなく、生き残った老人共は変革を受け入れた…………だが、」


 信仰の対象は必要だ。それは骨でも、血の染み込んだ布でもいい。

 ──────────────────────────パシッ


 前触れなくあさとは唐傘を閉じた。彼は再びそれを腕に抱く。紅色が視界から消えた。唐傘が開かれる前より、何故か室内はいろせて見えた。その中に低いあさとの声が響く。


「神は死んだ………………だが、ここには神の骨すらない」

 繭墨あざかは異界に飲まれた。彼女の体はここにはない。


 生者のとなる遺体の欠片かけらさえ、現世には残されていなかった。に伏した後の骨も灰も遺体をくるんだ布もない。だが、彼女の遺物は幾つか存在した。僕は目を見開く。

 この部屋には、繭墨の生前の記録が詰められていた。僕はあさとの言葉を漸く理解する。確かにここは繭墨あざかの棺桶なのだ。空の箱に、彼女の遺物を詰めた場所だった。


「やっとわかったようだね。そうだよ。めいじつ共に、この部屋は妹君の棺桶なのさ。幽閉された老人達はここに彼女の残像を求め、訪れ、去って行く。おかしな話だね。生前、彼らは妹君から遠ざけられていた。今になってまともに知らない場所を懐かしむなんて」

「それで、なんで………」

「何だい、小田桐? 一体何が疑問なんだい?」

「それでなんで、お前が棺桶の中にいるんだ?」


 ここは繭墨あざかの棺桶だ。空の棺に詰め込んだ物達を皆が遺体の代わりにしている。

 だが、何故、その中に狐が棲んでいるのか。彼の存在はこの場所の異物ではないのか。


「簡単だよ。俺も繭墨あざかの、生前の記録の一つだからさ」

──────────はぁ?」

「血の繋がりこそないが俺は繭墨あざかの兄だ。そして婿むこと目されていた人物でもある。繭墨家で一番彼女と似た存在は、紅い女と繋がっていた俺なんだよ。だからこそ定下は俺にこの場の番人を持ちかけた。本当は記念館でも作るつもりだったらしいがね。大々的にやりすぎては繭墨あざかの神秘性がおとろえ、老人共がめかねない。彼らに永遠にっていてもらう為、彼は俺に協力を頼んだのさ。おや、かんちがいしないでくれよ、小田桐」


 これは仕事だ。何も辛いことはないよ。こうして、人はあるべき場所に納まるのさ。

「見せてやりたいよ、君に。彼女の死と共に、どれだけ本家の人間が腑抜けたかをね」


 僕は小鳥によってまねかれた、孤島での出来事を思い返した。次代の繭墨あざか候補を身代わりとして殺してまで、繭墨家の老人は今代の繭墨あざかを救おうとした。彼女が異界に消えて尚、本家の人間達は執着を続けている。だが、そんなことはどうでもいい。苛立ちがこめかみをひくつかせた。繭墨家のおりが壊れたというのに、狐は自由になろうとしない。僕は彼を睨みつけた。あの夜学校で覚えた疑問の答えは、いまだ出ないままだ。

 繭墨あさとにとって過去の時間とは何だったのか。彼の一生とは、一体何だったのか。


 繭墨あさとは、結局、何になりたいのか。


 だが、それは、今聞くべきことではなかった。棺桶に似た部屋に気を取られ無駄な、時間を過ごしてしまったが、僕は雑談をしに来たわけではない。息を吸い、一度止めた。


 そして、部屋を訪れた肝心の理由を吐き出す。

「あさと、お前は異界に行くことができるな?」


 空気が凍りついた気がした。あさとは僕を見上げる。彼は口元に薄く笑みを掃いた。

 それは時間をかけ、徐々に歪んでいく。やがて狐は息を吐くように、唇を動かした。



─────だから、どうだって言うんだい?」


    * * *


 僕がその可能性に思いいたったのは、ごくごく単純な理由からだった。

 異界を彷徨っていた時に見た、ある光景がヒントになったのだ。


 異界の肉壁には、定期的に、人の頭ほどのあわが無数に浮かびあがった。肉壁は過去、飲み込んだ者の記憶の断片を泡の形で吐き出す。僕がそうぐうする度、泡の中には、様々な光景が映し出された。あさとの母親がまどい、狐面の語り部が両腕を広げ、じんぐうゆうりが宿舎で紅茶を傾け、見知らぬ人間が何かを語った。そして、今まで僕達が異界で繰り広げた幾つかの光景も、時には映し出されたのだ。そのうちの一つを、僕は思い返す。


 それは狐と共に、僕が異界に落ちた後の光景だった。


 僕と狐は紅い世界でたいしている。肩から血を流すあさとの前で僕は座り込んでいた。

 二人の間の地面には、拳銃が落ちている。傍では白い子供がを無理やり押さえつけていた。僕は死んだはずの繭墨に呼びかける。瞬間、空中に紅い金魚がおどりあがった。金魚は溶け落ち、繭墨あざかの姿になる。彼女は捕食者の笑みを浮かべ、唐傘を回した。


『あぁ、君はまだわかっていなかったんだね、兄上? ボクは繭墨あざかだ。繭墨あざかは、異界に通じる化け物だよ。そこは、ボクの空間だ。兄上にも、異界の表層を歩く事はできるだろうさ──────────だが、深くまでおぼれたことはないだろう?』


 異界を長く彷徨い歩く間に、僕は何度も何度も、泡に映った光景に遭遇した。


 繰り返し聞くうちに、他の泡内の音とこんぜんとなりながらも、繭墨の言葉は自然と耳に染みついた。そして繭墨が消滅し、異界から出た後、僕はある引っ掛かりを覚えたのだ。

 あの時、繭墨あさとは、白い子供を連れていた。あの子供の正体は、今になってもなぞのままだ。自在に変形する肉を吐くアレは、しらみねの造りあげた『神』に似ていた。

 狐は、異界の表層を歩けると言う。繭墨あさとは、あの子供をどこで手に入れたのか。


「あさと、お前の連れていた白い子供は、結局、何だったんだ? 少しだが、僕にも察しはついている………アレは異界にしずんだ、『神』のざんがいと関係がある。そうだろう?」

「あぁ、アレね……随分と懐かしいな。まぁ、別に今更隠すことじゃない。アレは白峰の『神』から分離したものさ。都合よく利用させてもらったが、アレは実に便利だった。生きていて、使えきしやのいない『鬼』など、簡単には手に入らない。俺は運が良かったよ」


 人間の情念から生まれた生き物は全て『鬼』さ。アレは白峰の想いから、動いた肉だ。


 やはり、そうだったのか。僕はしんばんしようはらんだ『神』の姿を思い出した。その中に生じたいとしい女の面影を抱き、水無瀬白峰も異界に沈んだ。『神』の残骸も異界に消えたが、一部は生き長らえたのだろう。恐らくあさとはそれを拾ったのだ。その後、彼は廃ビルを異界化させたが、あの時点では、異界に傾いた空間を所有してなどいなかった。

 つまり、繭墨あさとは何らかの方法で、『を拾うため異界を訪れたことになる


「お前はアレを異界の表層で拾った。つまり、お前は異界に行くことができる。そうだな? それは、贄を使用したり、現世を異界側に傾けなくても、可能なことなのか?」

「まぁね、妹君のように俺は異界を開けない。だが、罅をすり抜けることくらいは可能だよ。おおぎような方法を取る必要はないさ。で、それがどうしたと聞きたいが、残念ながら君の考えは大体わかる。相変わらずの偽善ぶりだね、小田桐。それは狂気の沙汰だよ」


 繭墨あざかの物語は、何一つとしてこんを残さず、美しい形で終わったじゃないか。

「犠牲は繭墨あざか一人で終わった。それは君にとっても、実に理想的な結末だろう?」


 繭墨あさとはけものの笑みと共に言い放った。猫を撫でるかのように、彼は閉じた紅い唐傘を撫でる。不意に、あさとは顔を伏せた。彼は目の前に絵本でもあるかのように囁く。


「めでたし、めでたし。物語は、これでおしまいです」

 これを読んだ貴方は─────どう思いましたか?


 あさとは挑発的なまなしを僕に向けた。だが、僕は特に動じなかった。繭墨あざかの死は、確かに僕にとっては理想的な出来事だ。繭墨あざかがいなくなっても、僕の日常は便べんなく続く。が出るほどに完璧な結末だった。だが、今回ばかりは、僕は自分を許せなくなりそうだから動いているわけではなかった。これは偽善とは別種の行動だ。

 いっそてきだと断じてもいい。今の僕は、しよせん僕のためだけにしか動いていなかった。


「あさと、違う。お前は間違っている。僕は偽善で彼女のことを助けたいわけじゃない」

「それじゃあ、何なんだい。小田桐勤。君は何故あの最悪な少女を助けるんだ。這い出した地獄の底に、どんな強烈な理由があって、わざわざ舞い戻るなんて言うんだい?」

「僕は、もう一度繭さんに会いたい。彼女を諦められない。それにな、それに、僕は」


 そこで僕は言葉を止めた。強く右手を握り締める。引き攣った火傷が痛んだ。それは雄介達と話をするうちに、自覚したことだった。胸を突く想いは徐々に強くなっている。気づいていなかっただけで、その激情は最初から、僕の胸底にくすぶっていたのだろう。


 そんなことを、認めてたまるか。

 そう声もなく叫んだ、瞬間から。


「僕はな、腹を立ててるんだ

………………………はぁ?」

「そうだ、僕は怒っている。何がめでたしめでたしだ。何が当然のまつだ。何がなげく必要も悲しむ必要もないだ。何があるべきものはあるべき場所へ帰るだ。何が運命だッ!」


 ドンッと僕は床を踏み鳴らした。近くに落ちていた玩具のラッパが跳ねる。水玉模様のそれは、遠くに転がって行った。暴れていた七海の姿を思い出す。彼女の行動が今更理解できた。あまりの理不尽に遭遇した時、人は駄々っ子のように暴れたくなる。更に強く僕は右手を握り締めた。骨が音を立ててきしむ。息を吸い込み、僕は全力で宣言した。


「僕はな、あの人の笑顔なんて、大ッッッッッッッッッッッッッ嫌いだったんだよッ!」


 窓ガラスが音を立てて震えた。ガラクタの山から、パラパラと粉が落ちる。あさとは顔をこわらせた。息を荒らげながら、僕は繭墨のことを思い返す。そう、死体を嗤い、惨劇を楽しみ、不幸を舐めながら、時たま彼女はとても澄んだ目を見せることがあった。

 満開の桜の下で、僕に語りかけてきた時と同じように、少女とは思えない表情で、僕を見ることがあった。彼女のそんな綺麗な笑みが、僕は心の底から、大嫌いだったのだ。


「何で勝手に笑って消えるんだ? それで、残された人間が納得できると思ったのか?」

「小田桐、それは、結局子供が駄々をねているのと同じだよ。君は、自分の無力さに」

「いや、どうせ、僕が納得するかしないかなんて、どうだってよかったんだろうな、あの人は。何が、何が、いい人生だった、だ………たった一人で、満足してきやがって」

「ねぇ、小田桐? 自分に酔うのは止めにしたらどうなんだい。少しは、人の話を聞い」

「うるさい、あさと、さっきから聞こえてるッ! そんなことより、お前はどう思う?」

「はぁ?」

「身勝手だろう? なぁ、そうだろう? 身勝手だよな? それで納得ができるかッ!」


 納得などできない。認めるわけにはいかなかった。繭墨がめでたしめでたしと語ろうが終わらせるわけにはいかない。彼女がどれほど綺麗に締めくくろうが、繭墨一人が犠牲になる結末が正しく、美しいものであろうが、それをかんじゆするわけにはいかなかった。そんなものクソ食らえだ。僕は歯をめ、荒い息を漏らした。あさとは悩むように言葉を止める。やがて彼は首を横に振った。独り言なのか、彼は確認するように呟いた。


「なるほどね。何とも心の底から下らないが」

 どうやら、それは本心からの望みのようだ。


 次の瞬間、その顔から表情が消えた。周囲の空気が一変する。あつに、空間が軋んだ。

 あさとは徐に顔をあげた。その口元には見慣れた狐の笑みが刻まれている。だが、それはいつもの笑みとは質が違っていた。よりこくはくな表情には覚えがある。それは異界に飲まれる前の彼がよく見せていた笑みだ。彼は堂々と足を組み、ひじかけにほおづえをついた。


 そして、狐はおごそかに口を開く。


「いいだろう、小田桐勤。君は諦めないと言う。それならば、好きにすればいい。どうせ何も得られないだろうが、ざまいて、死ねばいいだろう。それが自己満足の果ての結果ならば、実に愉快なことだろうさ。だが、それが、一体、俺に何の関係がある」

「わかっているだろう、あさと。僕一人では異界に行けない。罅を通ることさえ無理だ」

「だから、どうだっていうんだい? 君は本気で俺が君に協力をすると考えているのか。それこそ正気の沙汰じゃない。君も俺と妹君の因縁を、俺が彼女に向けた殺意を、知っているだろう? 君はアレが死んで、俺がせいせいしていないとでも思っているのか


 狐は冷たく吐き捨てた。心臓にやいばを突き立てられた錯覚を覚え、僕は息を飲んだ。あさとは心底僕をさげすんでいる。確かに僕は長きにわたる彼らの因縁を知っていた。繭墨あさとは繭墨あざかを憎み、彼女に殺意を向けたのだ。だが、と僕は乾いた唇を舌で湿らせた。今はどうなのか。かつて、狐は繭墨あざかと自身の差を思い知り、唐傘を手放した。以来、彼は彼女への執着も憎悪も失ったはずだ。未だ彼は繭墨あざかを憎んでいるのか。


………………なぁ、あさと」

「何だい小田桐。君はまたうるさく、たわごとを並べるつもりかい?」

「それなら、一体、何でお前は紅い唐傘なんて持っているんだ?」


 僕の簡単な問いに、狐は即座に答えを返さなかった。その表情も変わらない。もしも彼に本物の獣の尾があれば、そこから感情を読み取れただろうか。僕がそんな馬鹿げたことを考え始めた頃、狐は漸く肩を竦めた。彼は唇をあざけりに歪め、軽い口調で言い放つ。


「単なる気紛れさ。意味はないよ」

 噓だとかんはつれずに僕は思った。


 僕は知っていた。狐の言うことは、めつにその言葉通りに受け止めてはならない。彼は常に本心をけむに巻く。今の繭墨あさとは紅い唐傘を抱き、棺桶の中で生きていた。部屋の番人を頼まれたとは言え、紅い唐傘を抱いている必要などない。繭墨あざかの死にせいせいしていると語りながら彼の行動はおかしかった。今の彼はまるで繭墨のはかもりだ。

 僕は部屋に入った時に感じた印象を思い返した。繭墨あさとは紅い唐傘を抱いている。


 一体それはどんな種類の感傷なのだろうか


「あさと………………お前も、もしかしてそうじゃないのか?」

「何がだい、小田桐。わかったような顔で、人のことを無茶苦茶に語るのはよしてくれ」

「お前は、本当に納得しているのか? 繭墨あざかが綺麗に消えて、それでいいのか?」


 めでたし、めでたしと、彼女が幕を閉じれば、それで満足できるのか。


 僕は雄介から、聞いた言葉を思い返した。繭墨あざかは、確かに、僕達の運命だった。

 彼女の存在が僕達の全てを変えたのだ。だが、彼女は勝手に去ってしまった。残された人間達は、未だ彼女の死の衝撃と喪失感にとらわれている。それから逃れる為、繭墨本家の人間は棺桶を愛で、僕は彼女を迎えに行くことを決めた。彼らは停滞を選択し、僕はこうせんを選んだ。そして恐らく狐も彼女の死に囚われている。彼を部屋に留めているものは何だろうか。運命じみた女が去ったことに対するぬぐがたい疲労か、あるいは感傷か。


 どちらにしろ、忘れられないから、彼も未だ墓守として生きていた。


「あの人がいなくなったことに、お前は怒りを覚えないのか? 納得できないとは思わないのか? 僕は自分が歩き出すために、繭さんを取り戻す。お前も力を貸してくれ」

「言っておくよ、小田桐。俺は君の戯言に興味はない。君には耳がないようだが、繰り返そう。人の心を決めつけるのは、よしてくれ。俺は彼女に二度と会いたくない。それに、君はわかっていないようだけれどね。君は妹君に依存しているだけじゃないか?」


 狐は嫌な笑みを浮かべ、そう囁いた。僕はおくさず彼を睨む。狐は滔々と言葉をつらねた。


「何が、自分が歩き出す為だい。馬鹿馬鹿しい。君は長く繭墨あざかと共に歩いて来た。だから、歩き方を忘れてしまっただけだよ。結局、君は繭墨あざかというしんがなければ生きてはいけない。繭墨あざかに一番毒されているのが君なんだ、小田桐勤。だから、君は繭墨あざかをうばわれ、だんを踏んでいる。それに、人を巻き込むのは止してくれ」


 馬鹿馬鹿しい。後追い自殺ならば一人でやるべきだ


 僕は繭墨に依存しているのだろうか。違う。そうではない。僕は彼女の言葉に逆らった選択をしようとしている。そう訴えたかった。だが、狐は僕の言い分を認めないだろう。それに人の本心は時に本人にすら不明だ。僕の根底にあるのが繭墨への依存心だと、僕には全否定することはできなかった。それに、狐の言葉は一部において確かに正しい。


 後追い自殺は、一人でやるべきだった。勝算のない戦いに人を巻き込むべきではない。

 だが、と僕は唇を嚙んだ。協力を得る以外の方法はない。その時、狐は言葉を続けた。


「だが、どんなに愚かしく下らなくても、それは君にとって、本心からの望みのようだ」

 人の望みは常にれつかなえる価値もない。だからこそ、俺は狐としての提案をしよう


 あさとは片手を挙げた。彼は徐に僕に手を差し出す。何度も見た光景が繰り返された。

 今までと同様に、あさとは僕に願いを言えと告げ、僕は呆然とその手を眺める。だが、今度の言葉に込められた力は、今までの比ではなかった。狐はひどく真剣に僕に告げる。


「叶える価値などない、愚かしくも自己中心的で下らなく、腐敗した望みを持つのが人間だ。君はそれをとなえるだけでいい。これが最後だ。やっと君は、心からの願いを見つけたんだろう、小田桐勤? それならば、選ぶべきは一つだけだ。この手を取ればいい」


 俺に死ぬなと言った君が、幕を引くのならば頃合いだ。

 これでとある狐の物語も、今度こそ本当に終わりだよ。


「君は俺に何も願わなかった。だが、ついに己の願いを言うらしい。それで俺も幕を閉じられる。最早何も望みはないさ。この部屋を訪れる人間は半分死人のようなものだ。俺の手を取る人間は、二度といないだろう。それでいい。これが狐の最後の生きた行動だ」


 後は君の願いのえとなり紅い女に殺されるか、棺桶の中で体が朽ちるのを待つだけだよ。部屋から出ることなく死んだように俺は生きよう。願えばいいさ、小田桐勤。


「誰のためでもない、自分のための願いで、無意味だった狐の物語に幕を下ろせばいい」


 狐は淡々と語った。その唇には、相変わらず獣の笑みが刻まれている。僕は彼の手に視線を落とした。僕は知っていた。狐の言うことは、滅多にその言葉通りに受け止めてはならない。彼は常に、本心を煙に巻く。あの学校での夜と同様に、僕は必死に考えた。


 手を繋ぐことは、一体狐にとってどういう意味があったのか。

 今まで狐は、何を望んでいたのか。今は何を望んでいるのか。


 わかるわけがない。それでも僕は手を伸ばした。いつかのように、彼の手を強く握る。

 やはり何も起こらない。あさとは苛立たしげに目を細めた。僕は息を吸い込む。もう何度、同じ答えを彼に告げたことだろう。だが、今回、僕はそれに新しい言葉を加えた。


「お前に何かを願う気はない。後、今から僕は無茶なことを言う。どうか聞いてくれ」

「何だい、小田桐。最初から、君は無茶なことしか、言っていない気がするけれどね」


 狐は苛立たしげに吐き捨てた。もう茶番は十分とでも言いたげだ。だが、宣言した以上、聞いてもらわなくてはならない。僕は彼の手を握り締め、一気に言葉を吐き出した。


「僕は、お前に何も願わない。あくまでも、お前は自分の意志で僕に協力してくれ

……………………はっ、あ?」

「お前の言葉通りだ。後追い自殺は、一人でやるべきだろう。案内を頼むのは、異界の表層までのつもりだが、それでも、紅い女に何かをされないとは限らない。願われたからって、やすやす動くと死ぬぞ。どうか、お前は自分で決めてくれ。お前が僕に力を貸す理由はないが、死んだように生きるという人生を、僕に預けてくれ。代わりに、僕は」


 僕は目を閉じた。脳裏に浮かんだ言葉は、あまりにも無茶苦茶だ。だが、僕にはこれしかなかった。僕に差し出せるものなど、他には何もない。繭墨あさとのえきな人生に、犠牲しか生まなかった行動に、綾はほんの少しでも意味をつけた。果たしてそれと同じことが僕にできるのだろうか。わからない。恐らく無理だ。それでも僕は言葉を続ける。


「代わりに僕は一生かけてでも、お前に生きていてよかったと、一度でも思わせてやる」


 僕とあさとは手を繋いでいる。この手にできることは、閉じられた部屋から一人の人間を引きずり出すことくらいだ。人の手にできることなど本当はそれだけで十分なはずだった。僕の言葉にあさとは呆然と口を開いた。彼は心からあつに取られたという顔をする。重い沈黙が落ちた。突然彼はかくりと首を倒した。その顔には奇妙に表情がない。


 長い沈黙の果てに、狐はどこか不思議そうな口調で、ぽつりと呟いた。


…………………………………………………………………………できると思うのかい?」

「できるさ」

「何故? そのこんきよは、一体なんだい? ひどく愚かな君に、一体人の何がわかる?」

「お前も人間だからだ。外に出てみろ。飯を食え。綾から学べ。七海さんの所に行け。誰かに本気で何度もなぐられてみろ。何度も心配されてみろ。そして温かな布団で眠れ」


 そうすれば心をこおらせたままで、ずっといられるわけがない。僕は知っていた。本当に怖いのは人の心だ。だが、同時に、最も尊ぶべきものも、人を救うのも人の心だった。


「お前は外に出ろ。死んだように生きることなんて認めない。生きていてよかったと思え。それで人の命の大切さを理解しろ。自分のしてきたことをやめ。重さに押し潰されろ。人に戻って、そして笑って、泣いて、悲しんで、後悔して、絶望して、自分の人生を振り返って、いつか、誰かにありがとうと言われて、死ねるような生き方をしろよ」


 犬や猫や小鳥と同様にあさとは狐ではなかった。人である限り、心を凍結はできない。

 彼は綾の言葉に揺らいだ。そこには人に戻り、人生を送ることのできるがあるはずだ。人間にあだをなすだけの獣には、ありがとうという言葉など、決して届きはしない。

 不意に、僕は閉じられたアパートにて、かつて、彼と交わしたある会話を思い出した。


 ………………僕がお前を殺しても、意味がない。

 ………………果たして、そうかな。

 ………………お前が、自分で悔いなければ、無意味なんだよぉ。


 狐を痛めつけても何の意味もない。彼は自分で悔いるべきだった。人生を一度でも楽しいと思ったうえで、罪の重さを自覚し、恐ろしく長い人生を足掻き続けるべきだった。

 棺桶の中で生きることなど、決して許さない。だからこそ、僕は彼に、訴えを続ける。


「お前は、ただの繭墨あさとだ。僕はお前を絶対に許さない。だが、僕と一緒に行こう

 あさとは無言だ。彼は仮面に似た顔をしたまま何も言わない。だが、突然彼は呟いた。


────────それなら、俺をここから出してみせろよ」

「はぁ?」

「手始めだ。そう言うのならば、やってみせろよ。小田桐勤」


 狐の眼は凍っていた。彼は椅子から立ち上がろうとしない。冷たい目の中では、激情が静かに燃えていた。その炎が示す感情は、憎悪に近い。彼は本気で僕に要求していた。


やってみせろよ、小田桐勤」


 凍った声が言う。やれるものならやってみせろと彼は僕に訴えた。その瞬間、僕は悟った。選択を誤れば、僕は死ぬことになるのだろう。目を閉じ、僕は必死に息を整えた。

 あさとの手を握ったままの掌が湿る。緊張をほぐそうと、僕は逆の手で腹を撫でた。紅い女にわれた時から、雨香は深い眠りについている。だが、周囲の状況におんなものを覚えたのか、彼女はごろりとうごめいた。腹の底から、久しぶりに聞く幼い声が響く。


 ………………………ううん、なぁにぃ、ぱぱぁ。

「何でもないよ、雨香。何でもないんだ……ただ」


 僕は小さく呟き、繭墨の遺物の並んだ部屋を見回した。ここはまるで繭墨の私室そのものだった。並んだ物達の間から今にも繭墨が顔を出す気がする。僕は目を閉じ、チョコレートの香りを吸い込んだ。突然、もうどこにもいない繭墨の声が聞こえた気がした。


『そこにいるのかい、小田桐君? 全く呼んだら、すぐ来てくれないと困るじゃないか』


 彼女はままに僕を呼ぶ。もう空になったあの部屋の、全てがここには残されていた。

 僕はゆっくりと目を開いた。多くの感傷を集めている、繭墨あざかの棺桶を見回す。


 あぁ、なんと馬鹿らしく忌々しいのか


 彼女の私物は、全てこの場所にある。

 だが、繭墨あざかはここにはいない。


 何が骨の代わりだ。何が棺桶だ。そもそも、前提からしてむなくそ悪い。彼女はまだ死んではいなかった。それに繭墨あざかは、神ではなかった。繭墨あざかは、最悪な彼女は。


 そんな、わけのわからない、怖い人間ではなかった。

「ただ、この部屋がくそったれだって考えてただけだ」


 僕は、強くあさとの手を握った。彼は目を見開いて僕を見る。あさとは何かを言おうとした。だが、その前に、濁った雨香の声が響いた。彼女は迷いながらも、僕にたずねる。


 ──────────────────────────────うーん、ぱぁぱ?

「なんだ、雨香?」

 ───────────────────────────────あのね、壊す


 彼女は素直にそう聞いてくれた。あさとはますます大きく目を見開く。今の僕はさぞかし恐ろしい表情をしていることだろう。そう知りながら僕は笑った。もうやけくそだ。

 同時にとても晴れやかな気分だった。顔を大きく歪め、僕は満面の笑みで言い放った。


「あぁ、存分に壊してくれッ!」

 は──────────────────────────────────いッ!


 一瞬で激痛が駆け抜けた。目覚めた雨香ははじけるように腹から飛び出した。白い体がゴムまりのように跳ね上がる。くるくると回転する度、それは成長をげた。血をらしながら、彼女は伸びやかなを振り回す。その度繭墨の私物が破壊され、木片が散った。久しぶりに起きた僕の子は運動が楽しくて仕方ないらしい。弾んだ声が響いた。


「いいのねっ、ぱぱっ、壊してもいいのね、いいのね? 雨香、壊しちゃうよ、いい?」

「あぁ、いいぞ。好きなように、存分に壊しつくしてくれ。ただ人を食べるのは駄目だ。絶対に駄目だ。あと、僕とこの人を、潰さないように。雨香、できるか? 大丈夫か?」

「がんば────────────────────────────────るッ!」


 白い暴風が、部屋をじゆうりんした。つぼの欠片が飛び、熊の首が真横にすっ飛び、ピアノが高らかな音を立てて割れる。カーテンが切り裂かれ、リボンがふわりと舞い、衣装がらんする。壁に、天井に、大穴が開く。頰を掠めてれきが飛んだ。僕もあさとも動かない。

 舞い散るほこりの中、僕達は睨み合ったままだ。僕の腹からは血があふれ、失血で指が震え始めている。雨香が本当に僕達を潰さないでくれるかも怪しかった。それでも僕達は動かない。互いの手を逃げられないようにがっちりと摑みあったまま、僕達は憎悪に近い視線をわし続けた。雨香は砲弾と化していく。爆発的な音を立てて屋根が吹き飛んだ。


 家々から、軋みが聞こえ始める。あさとの頰が切れ、僕の耳の一部が裂けた。


 それでも僕達は動かない。馬鹿みたいに、僕達は睨み合い続ける。

 やがて、間抜けな音を立て、壁はばたりと外側へ向かって倒れた。


 頭上に、澄みきった青い空が見えた。冷たい風が全身に吹きつける。僕は後ろを振り向いた。残された扉が土煙をあげて内側に倒れる。ぽっかりと開いた廊下には、いつからいたのか、埃に塗れた女中が立っていた。先程の静かなおもちが噓のように、彼女は目を丸くし、ぽかんと口を開けている。動かない彼女から視線を逸らし、僕は庭を見た。

 庭師の老人はていぼくの間から腰をあげ、僕達を見上げていた。一部を破壊された屋敷の惨状を眺め、彼は目を細める。そして何故かこくりと頷いた。何かを察された気がする。僕は慌てて礼を返した。その時、大きくなった雨香が飛び跳ねながら僕に近づいてきた。


 喜び勇んで、彼女は僕に勢いよく抱きつく。

 ───────────────ゴキンッ!


「ぱぱっ! 雨香ね、できたよ! できた! …………う、ううん? できた、よね?」

「あっ、あぁ、流石だ、雨香……流石僕の子だ。ありがとうな。難しいのによくできた」


 もう少し首の骨がズレたら、死ぬところだった。僕はあさとから手を放し、痛みに震えながら、彼女を抱き返した。なめらかな裸の背中を撫でる。雨香は、僕の肩に顔を押しつけた。その頭を撫で、僕は再び空を見た。空気は澄んでいる。もう甘い匂いはしない。


 まだ生きている人の、棺桶じみた部屋は、どこにもなかった。

…………………………………………………………ありがとう」


 心から呟き、僕は瓦礫の間から、破れたドレスを引っ張り出した。血濡れた彼女の体をいてやる。雨香はきゃっきゃと笑って喜んだ。そこでふと思うことがあり、僕はまともなドレスを幾つか拾った。それらを全て、近くに落ちていたかばんに押し込む。腹の苦痛に耐えながら僕は顔をあげた。自分で言い出したことだというのに、何故かあさとは呆然としている。不意に、彼は自分の両腕を見た。その手からは唐傘がなくなっている。

 僕とあさとは、視線を彷徨わせた。そして、僕達は、同時にある一点で視線を止めた。


「「あっ」」


 紅い唐傘は瓦礫の山に突き刺さっていた。どうやら雨香の移動する風圧に巻き込まれたらしい。それは先程までの神秘性を失い、単なるゴミと化していた。かろうじて形を保っていることが、奇跡的なほどボロボロだ。僕は唐傘に近寄った。の先端に指を乗せ、左右に揺らす。次の瞬間、それはばきりと折れた。あっという間に紅い唐傘は崩壊する。

わずかに狐は顔を歪めた。反応はそれだけだ。だが、長い長いちんもくの末、彼は口を開いた。


…………………………………………………………………………………………………ふっ」

 その唇から細い息が漏れた。次の瞬間あさとは笑い出した。ひざを叩き、彼は爆笑する。


「ははっ、はははははっ、あははははっ、ははははははっ、あははははははははははっ、あははははははははははははははははっ、あはははははははははははははははははっ!」


 僕は呆然とその姿を眺めた。学生の頃からの付き合いだが、笑うあさとの姿など初めて見た気がする。遂に気が狂ったのかと僕は心配になった。あさとは苦しそうに腹をよじり続ける。本当に大丈夫なのかと僕が疑い始めた頃、突然彼はぴたりと笑うのを止めた。その顔からは、先程までの笑いのいんは綺麗に消えている。あさとは体から力を抜いた。


 まるで、疲れ果てたかのように、彼は青い空を眺めた。その唇が微かに動く。

 あさとは、何かを呟いた。だが、その声は聞こえない。彼は短く息を吐いた。


…………………………………………………………、は」


 次の瞬間、彼は唇を引き結び、バネけじみた動きで立ち上がった。反動で椅子が勢いよく後ろに倒れる。彼は背筋を伸ばし、瓦礫の中に立った。彼は正面から僕を見る。

 両腕を開き、あさとは大きく息を吸い込んだ。その口から、ろうろうとした声が飛び出す。


「俺には望みなど生まれた時よりありはしなかった。俺は今の今までひたすらに人の欲の為に生きてきた。何とも愚かしく何とも下らなく何とも馬鹿馬鹿しい。繭墨家と紅い女と人に、振り回され続けた人生だ。そう、それが狐の物語。今尚続く下らない話だ」


 突然、あさとはかれたように語り出した。何故、急に狐の話をしだすのか。身構える僕の前で、あさとは言葉を続けていく。その声を聞くうちに、僕は思わず眉を顰めた。彼の話し方は今までとどこか違っていた。それは狐や語り部の気取った調子とは程遠い。


「狐の話は終わりました。彼はこれから先死んだように棺桶の中で生き続けます。めでたし、めでたし、そう、それで、それで終わりなはずだったんだ。実に、実に下らない」


 その声には、その口調には、言葉には、どこか。

 まるで、やけくそだと言うような響きがあった。


「だが、いいだろう、新たなページを刻んでやる。死に続けるのとどちらがマシかはわからない。いいだろう。小田桐勤。君はせいぜい、せいぜい選択を、後悔すればいいさ」


 本気で望むと言うのならば、ありえない話の続きをくれてやる


 まるで演説をするかのように、あさとは声を響かせた。そこで彼は再び口を閉じる。

 鋭い眼差しが、僕をた。彼は狐面とはまるで違う、ひどく苛烈な目で僕を睨む。


……………………………………いいだろう、小田桐勤」

 もう一度、嚙み締めるように言い、彼は手を伸ばした。



 あさとは、何の意味も理由もなく、僕の手を握る。

 そして、口を開き、繭墨あさとは堂々と宣言した。




───────────────狐は、君につく」