* * *
「それはどうしたんだ、あさと? それにこの部屋は……ここにある物達は何なんだ?」
「何を言うんだい、小田桐。君の頭がどんなに鈍くても流石にわかるだろう? まさか忘れたわけじゃないはずさ。犬は飼い主の持ち物を、そう
ここにある物は、全て死者の持ち物さ。繭墨あざか、妹君の遺品だよ。
さらりと、あさとはそう応えた。確かにそのことは見ればわかった。この部屋は
ガラクタに
『何を突っ立っているんだい、小田桐君? この部屋の
いつか聞いた幻聴が、耳を打った。次の瞬間、彼女の姿は溶け消えた。後には
「まるで、
「………………………………………えっ」
「棺桶のようだと、君が思ったのならば、それは実に正しい認識さ」
勝手に人の考えを読み、あさとは首を傾げた。彼は窓の外へ視線を送る。レースに覆われた分厚いガラスの向こうには、更に高所に
それはどんな表情を浮かべるべきか、他に思いつかなかったと言いたげな笑みだった。
「ここに並ぶ家々を君も見ただろう?
諦めと
いや、その表現も正しくはない。繭墨あざかは、まだ死んではいなかった。
だが、繭墨あさとは、彼女の私物で占められたこの場所を、棺桶と呼んだ。
───────────────パンッ
不意に彼は腕の中の唐傘を開いた。全体的にくすんだ色の室内に、鮮やかな
あさとはぐるりと唐傘を回した。意味もなく顔を隠しながら、彼は言葉を続けていく。
「外の家々には魍魎が閉じ込められている。扉が封じるのは何も人ばかりじゃないのさ。繭墨あざかに対する醜い
───────────ぐるり、ぐるり
唐傘が回り、紅色が
『その代のあざかが死ぬ度にね、一族の女子を全て集めて、新しいあざかを選出するんだ。それは、
次の繭墨あざかに選ばれた女子は、本家に引き取られ、養育される。それは次代の化け物に選ばれた子供を、二度と人間には戻れないよう変化させる作業だ。だが、繭墨家の
「繭墨家は、生き神である繭墨あざかを、もう選んでいないっていうのか?」
「あぁ、そうだよ、小田桐。最もそれは
君も知っているだろう?
「そろそろ繭墨家にも時期が来ていたんだよ。そして古い
無数の
生け贄には恐らく何の権利もない。だが、紅い女に求められるまでは、責も追わずに済むはずだ。生き神の養育を行うことと生け贄を選ぶこと。どちらが健全なのだろうか。
答えは簡単だ。両方狂っている。贄や神を定めること自体、正気の沙汰ではなかった。
────────────────────ぐるり、ぐるり、ぐるり
「それに、良くも悪くも、今代の繭墨あざかは、あまりにも強烈過ぎた」
更に唐傘を回し、あさとは呟いた。僕もそれに頷く。惨劇を
「あの少女の毒のようなカリスマ性は、生き神を
信仰の対象は必要だ。それは骨でも、血の染み込んだ布でもいい。
──────────────────────────パシッ
前触れなくあさとは唐傘を閉じた。彼は再びそれを腕に抱く。紅色が視界から消えた。唐傘が開かれる前より、何故か室内は
「神は死んだ………………だが、ここには神の骨すらない」
繭墨あざかは異界に飲まれた。彼女の体はここにはない。
生者の
この部屋には、繭墨の生前の記録が詰められていた。僕はあさとの言葉を漸く理解する。確かにここは繭墨あざかの棺桶なのだ。空の箱に、彼女の遺物を詰めた場所だった。
「やっとわかったようだね。そうだよ。
「それで、なんで………」
「何だい、小田桐? 一体何が疑問なんだい?」
「それでなんで、お前が棺桶の中にいるんだ?」
ここは繭墨あざかの棺桶だ。空の棺に詰め込んだ物達を皆が遺体の代わりにしている。
だが、何故、その中に狐が棲んでいるのか。彼の存在はこの場所の異物ではないのか。
「簡単だよ。俺も繭墨あざかの、生前の記録の一つだからさ」
「──────────はぁ?」
「血の繋がりこそないが俺は繭墨あざかの兄だ。そして
これは仕事だ。何も辛いことはないよ。こうして、人はあるべき場所に納まるのさ。
「見せてやりたいよ、君に。彼女の死と共に、どれだけ本家の人間が腑抜けたかをね」
僕は小鳥によって
繭墨あさとにとって過去の時間とは何だったのか。彼の一生とは、一体何だったのか。
繭墨あさとは、結局、何になりたいのか。
だが、それは、今聞くべきことではなかった。棺桶に似た部屋に気を取られ無駄な、時間を過ごしてしまったが、僕は雑談をしに来たわけではない。息を吸い、一度止めた。
そして、部屋を訪れた肝心の理由を吐き出す。
「あさと、お前は異界に行くことができるな?」
空気が凍りついた気がした。あさとは僕を見上げる。彼は口元に薄く笑みを掃いた。
それは時間をかけ、徐々に歪んでいく。やがて狐は息を吐くように、唇を動かした。
「─────だから、どうだって言うんだい?」
* * *
僕がその可能性に思い
異界を彷徨っていた時に見た、ある光景がヒントになったのだ。
異界の肉壁には、定期的に、人の頭ほどの
それは狐と共に、僕が異界に落ちた後の光景だった。
僕と狐は紅い世界で
二人の間の地面には、拳銃が落ちている。傍では白い子供が
『あぁ、君はまだわかっていなかったんだね、兄上? ボクは繭墨あざかだ。繭墨あざかは、異界に通じる化け物だよ。そこは、ボクの空間だ。兄上にも、異界の表層を歩く事はできるだろうさ──────────だが、深くまで
異界を長く彷徨い歩く間に、僕は何度も何度も、泡に映った光景に遭遇した。
繰り返し聞くうちに、他の泡内の音と
あの時、繭墨あさとは、白い子供を連れていた。あの子供の正体は、今になっても
狐は、異界の表層を歩けると言う。繭墨あさとは、あの子供をどこで手に入れたのか。
「あさと、お前の連れていた白い子供は、結局、何だったんだ? 少しだが、僕にも察しはついている………アレは異界に
「あぁ、アレね……随分と懐かしいな。まぁ、別に今更隠すことじゃない。アレは白峰の『神』から分離したものさ。都合よく利用させてもらったが、アレは実に便利だった。生きていて、
人間の情念から生まれた生き物は全て『鬼』さ。アレは白峰の想いから、動いた肉だ。
やはり、そうだったのか。僕は
つまり、繭墨あさとは何らかの方法で、『神』を拾うため、異界を訪れたことになる。
「お前はアレを異界の表層で拾った。つまり、お前は異界に行くことができる。そうだな? それは、贄を使用したり、現世を異界側に傾けなくても、可能なことなのか?」
「まぁね、妹君のように俺は異界を開けない。だが、罅をすり抜けることくらいは可能だよ。
繭墨あざかの物語は、何一つとして
「犠牲は繭墨あざか一人で終わった。それは君にとっても、実に理想的な結末だろう?」
繭墨あさとは
「めでたし、めでたし。物語は、これでおしまいです」
これを読んだ貴方は─────どう思いましたか?
あさとは挑発的な
いっそ
「あさと、違う。お前は間違っている。僕は偽善で彼女のことを助けたいわけじゃない」
「それじゃあ、何なんだい。小田桐勤。君は何故あの最悪な少女を助けるんだ。這い出した地獄の底に、どんな強烈な理由があって、わざわざ舞い戻るなんて言うんだい?」
「僕は、もう一度繭さんに会いたい。彼女を諦められない。それにな、それに、僕は」
そこで僕は言葉を止めた。強く右手を握り締める。引き攣った火傷が痛んだ。それは雄介達と話をするうちに、自覚したことだった。胸を突く想いは徐々に強くなっている。気づいていなかっただけで、その激情は最初から、僕の胸底にくすぶっていたのだろう。
そんなことを、認めてたまるか。
そう声もなく叫んだ、瞬間から。
「僕はな、腹を立ててるんだ」
「………………………はぁ?」
「そうだ、僕は怒っている。何がめでたしめでたしだ。何が当然の
ドンッと僕は床を踏み鳴らした。近くに落ちていた玩具のラッパが跳ねる。水玉模様のそれは、遠くに転がって行った。暴れていた七海の姿を思い出す。彼女の行動が今更理解できた。あまりの理不尽に遭遇した時、人は駄々っ子のように暴れたくなる。更に強く僕は右手を握り締めた。骨が音を立てて
「僕はな、あの人の笑顔なんて、大ッッッッッッッッッッッッッ嫌いだったんだよッ!」
窓ガラスが音を立てて震えた。ガラクタの山から、パラパラと粉が落ちる。あさとは顔を
満開の桜の下で、僕に語りかけてきた時と同じように、少女とは思えない表情で、僕を見ることがあった。彼女のそんな綺麗な笑みが、僕は心の底から、大嫌いだったのだ。
「何で勝手に笑って消えるんだ? それで、残された人間が納得できると思ったのか?」
「小田桐、それは、結局子供が駄々を
「いや、どうせ、僕が納得するかしないかなんて、どうだってよかったんだろうな、あの人は。何が、何が、いい人生だった、だ………たった一人で、満足して
「ねぇ、小田桐? 自分に酔うのは止めにしたらどうなんだい。少しは、人の話を聞い」
「うるさい、あさと、さっきから聞こえてるッ! そんなことより、お前はどう思う?」
「はぁ?」
「身勝手だろう? なぁ、そうだろう? 身勝手だよな? それで納得ができるかッ!」
納得などできない。認めるわけにはいかなかった。繭墨がめでたしめでたしと語ろうが終わらせるわけにはいかない。彼女がどれほど綺麗に締めくくろうが、繭墨一人が犠牲になる結末が正しく、美しいものであろうが、それを
「なるほどね。何とも心の底から下らないが」
どうやら、それは本心からの望みのようだ。
次の瞬間、その顔から表情が消えた。周囲の空気が一変する。
あさとは徐に顔をあげた。その口元には見慣れた狐の笑みが刻まれている。だが、それはいつもの笑みとは質が違っていた。より
そして、狐は
「いいだろう、小田桐勤。君は諦めないと言う。それならば、好きにすればいい。どうせ何も得られないだろうが、
「わかっているだろう、あさと。僕一人では異界に行けない。罅を通ることさえ無理だ」
「だから、どうだっていうんだい? 君は本気で俺が君に協力をすると考えているのか。それこそ正気の沙汰じゃない。君も俺と妹君の因縁を、俺が彼女に向けた殺意を、知っているだろう? 君はアレが死んで、俺がせいせいしていないとでも思っているのか」
狐は冷たく吐き捨てた。心臓に
「………………なぁ、あさと」
「何だい小田桐。君はまたうるさく、
「それなら、一体、何でお前は紅い唐傘なんて持っているんだ?」
僕の簡単な問いに、狐は即座に答えを返さなかった。その表情も変わらない。もしも彼に本物の獣の尾があれば、そこから感情を読み取れただろうか。僕がそんな馬鹿げたことを考え始めた頃、狐は漸く肩を竦めた。彼は唇を
「単なる気紛れさ。意味はないよ」
噓だと
僕は知っていた。狐の言うことは、
僕は部屋に入った時に感じた印象を思い返した。繭墨あさとは紅い唐傘を抱いている。
一体、それは、どんな種類の感傷なのだろうか。
「あさと………………お前も、もしかしてそうじゃないのか?」
「何がだい、小田桐。わかったような顔で、人のことを無茶苦茶に語るのはよしてくれ」
「お前は、本当に納得しているのか? 繭墨あざかが綺麗に消えて、それでいいのか?」
めでたし、めでたしと、彼女が幕を閉じれば、それで満足できるのか。
僕は雄介から、聞いた言葉を思い返した。繭墨あざかは、確かに、僕達の運命だった。
彼女の存在が僕達の全てを変えたのだ。だが、彼女は勝手に去ってしまった。残された人間達は、未だ彼女の死の衝撃と喪失感に
どちらにしろ、忘れられないから、彼も未だ墓守として生きていた。
「あの人がいなくなったことに、お前は怒りを覚えないのか? 納得できないとは思わないのか? 僕は自分が歩き出すために、繭さんを取り戻す。お前も力を貸してくれ」
「言っておくよ、小田桐。俺は君の戯言に興味はない。君には耳がないようだが、繰り返そう。人の心を決めつけるのは、よしてくれ。俺は彼女に二度と会いたくない。それに、君はわかっていないようだけれどね。君は妹君に依存しているだけじゃないか?」
狐は嫌な笑みを浮かべ、そう囁いた。僕は
「何が、自分が歩き出す為だい。馬鹿馬鹿しい。君は長く繭墨あざかと共に歩いて来た。だから、歩き方を忘れてしまっただけだよ。結局、君は繭墨あざかという
馬鹿馬鹿しい。後追い自殺ならば、一人でやるべきだ。
僕は繭墨に依存しているのだろうか。違う。そうではない。僕は彼女の言葉に逆らった選択をしようとしている。そう訴えたかった。だが、狐は僕の言い分を認めないだろう。それに人の本心は時に本人にすら不明だ。僕の根底にあるのが繭墨への依存心だと、僕には全否定することはできなかった。それに、狐の言葉は一部において確かに正しい。
後追い自殺は、一人でやるべきだった。勝算のない戦いに人を巻き込むべきではない。
だが、と僕は唇を嚙んだ。協力を得る以外の方法はない。その時、狐は言葉を続けた。
「だが、どんなに愚かしく下らなくても、それは君にとって、本心からの望みのようだ」
人の望みは常に
あさとは片手を挙げた。彼は徐に僕に手を差し出す。何度も見た光景が繰り返された。
今までと同様に、あさとは僕に願いを言えと告げ、僕は呆然とその手を眺める。だが、今度の言葉に込められた力は、今までの比ではなかった。狐はひどく真剣に僕に告げる。
「叶える価値などない、愚かしくも自己中心的で下らなく、腐敗した望みを持つのが人間だ。君はそれを
俺に死ぬなと言った君が、幕を引くのならば頃合いだ。
これでとある狐の物語も、今度こそ本当に終わりだよ。
「君は俺に何も願わなかった。だが、
後は君の願いの
「誰のためでもない、自分のための願いで、無意味だった狐の物語に幕を下ろせばいい」
狐は淡々と語った。その唇には、相変わらず獣の笑みが刻まれている。僕は彼の手に視線を落とした。僕は知っていた。狐の言うことは、滅多にその言葉通りに受け止めてはならない。彼は常に、本心を煙に巻く。あの学校での夜と同様に、僕は必死に考えた。
手を繋ぐことは、一体狐にとってどういう意味があったのか。
今まで狐は、何を望んでいたのか。今は何を望んでいるのか。
わかるわけがない。それでも僕は手を伸ばした。いつかのように、彼の手を強く握る。
やはり何も起こらない。あさとは苛立たしげに目を細めた。僕は息を吸い込む。もう何度、同じ答えを彼に告げたことだろう。だが、今回、僕はそれに新しい言葉を加えた。
「お前に何かを願う気はない。後、今から僕は無茶なことを言う。どうか聞いてくれ」
「何だい、小田桐。最初から、君は無茶なことしか、言っていない気がするけれどね」
狐は苛立たしげに吐き捨てた。もう茶番は十分とでも言いたげだ。だが、宣言した以上、聞いてもらわなくてはならない。僕は彼の手を握り締め、一気に言葉を吐き出した。
「僕は、お前に何も願わない。あくまでも、お前は自分の意志で、僕に協力してくれ」
「……………………はっ、あ?」
「お前の言葉通りだ。後追い自殺は、一人でやるべきだろう。案内を頼むのは、異界の表層までのつもりだが、それでも、紅い女に何かをされないとは限らない。願われたからって、やすやす動くと死ぬぞ。どうか、お前は自分で決めてくれ。お前が僕に力を貸す理由はないが、死んだように生きるという人生を、僕に預けてくれ。代わりに、僕は」
僕は目を閉じた。脳裏に浮かんだ言葉は、あまりにも無茶苦茶だ。だが、僕にはこれしかなかった。僕に差し出せるものなど、他には何もない。繭墨あさとの
「代わりに僕は一生かけてでも、お前に生きていてよかったと、一度でも思わせてやる」
僕とあさとは手を繋いでいる。この手にできることは、閉じられた部屋から一人の人間を引きずり出すことくらいだ。人の手にできることなど本当はそれだけで十分なはずだった。僕の言葉にあさとは呆然と口を開いた。彼は心から
長い沈黙の果てに、狐はどこか不思議そうな口調で、ぽつりと呟いた。
「…………………………………………………………………………できると思うのかい?」
「できるさ」
「何故? その
「お前も人間だからだ。外に出てみろ。飯を食え。綾から学べ。七海さんの所に行け。誰かに本気で何度も
そうすれば心を
「お前は外に出ろ。死んだように生きることなんて認めない。生きていてよかったと思え。それで人の命の大切さを理解しろ。自分のしてきたことを
犬や猫や小鳥と同様にあさとは狐ではなかった。人である限り、心を凍結はできない。
彼は綾の言葉に揺らいだ。そこには人に戻り、人生を送ることのできる
不意に、僕は閉じられたアパートにて、かつて、彼と交わしたある会話を思い出した。
………………僕がお前を殺しても、意味がない。
………………果たして、そうかな。
………………お前が、自分で悔いなければ、無意味なんだよぉ。
狐を痛めつけても何の意味もない。彼は自分で悔いるべきだった。人生を一度でも楽しいと思ったうえで、罪の重さを自覚し、恐ろしく長い人生を足掻き続けるべきだった。
棺桶の中で生きることなど、決して許さない。だからこそ、僕は彼に、訴えを続ける。
「お前は、ただの繭墨あさとだ。僕はお前を絶対に許さない。だが、僕と一緒に行こう」
あさとは無言だ。彼は仮面に似た顔をしたまま何も言わない。だが、突然彼は呟いた。
「────────それなら、俺をここから出してみせろよ」
「はぁ?」
「手始めだ。そう言うのならば、やってみせろよ。小田桐勤」
狐の眼は凍っていた。彼は椅子から立ち上がろうとしない。冷たい目の中では、激情が静かに燃えていた。その炎が示す感情は、憎悪に近い。彼は本気で僕に要求していた。
「やってみせろよ、小田桐勤」
凍った声が言う。やれるものならやってみせろと彼は僕に訴えた。その瞬間、僕は悟った。選択を誤れば、僕は死ぬことになるのだろう。目を閉じ、僕は必死に息を整えた。
あさとの手を握ったままの掌が湿る。緊張をほぐそうと、僕は逆の手で腹を撫でた。紅い女に
………………………ううん、なぁにぃ、ぱぱぁ。
「何でもないよ、雨香。何でもないんだ……ただ」
僕は小さく呟き、繭墨の遺物の並んだ部屋を見回した。ここはまるで繭墨の私室そのものだった。並んだ物達の間から今にも繭墨が顔を出す気がする。僕は目を閉じ、チョコレートの香りを吸い込んだ。突然、もうどこにもいない繭墨の声が聞こえた気がした。
『そこにいるのかい、小田桐君? 全く呼んだら、すぐ来てくれないと困るじゃないか』
彼女は
僕はゆっくりと目を開いた。多くの感傷を集めている、繭墨あざかの棺桶を見回す。
あぁ、なんと馬鹿らしく、忌々しいのか。
彼女の私物は、全てこの場所にある。
だが、繭墨あざかはここにはいない。
何が骨の代わりだ。何が棺桶だ。そもそも、前提からして
そんな、わけのわからない、怖い人間ではなかった。
「ただ、この部屋がくそったれだって考えてただけだ」
僕は、強くあさとの手を握った。彼は目を見開いて僕を見る。あさとは何かを言おうとした。だが、その前に、濁った雨香の声が響いた。彼女は迷いながらも、僕に
──────────────────────────────うーん、ぱぁぱ?
「なんだ、雨香?」
───────────────────────────────あのね、壊す?
彼女は素直にそう聞いてくれた。あさとはますます大きく目を見開く。今の僕はさぞかし恐ろしい表情をしていることだろう。そう知りながら僕は笑った。もうやけくそだ。
同時にとても晴れやかな気分だった。顔を大きく歪め、僕は満面の笑みで言い放った。
「あぁ、存分に壊してくれッ!」
は──────────────────────────────────いッ!
一瞬で激痛が駆け抜けた。目覚めた雨香は
「いいのねっ、ぱぱっ、壊してもいいのね、いいのね? 雨香、壊しちゃうよ、いい?」
「あぁ、いいぞ。好きなように、存分に壊しつくしてくれ。ただ人を食べるのは駄目だ。絶対に駄目だ。あと、僕とこの人を、潰さないように。雨香、できるか? 大丈夫か?」
「がんば────────────────────────────────るッ!」
白い暴風が、部屋を
舞い散る
家々から、軋みが聞こえ始める。あさとの頰が切れ、僕の耳の一部が裂けた。
それでも僕達は動かない。馬鹿みたいに、僕達は睨み合い続ける。
やがて、間抜けな音を立て、壁はばたりと外側へ向かって倒れた。
頭上に、澄みきった青い空が見えた。冷たい風が全身に吹きつける。僕は後ろを振り向いた。残された扉が土煙をあげて内側に倒れる。ぽっかりと開いた廊下には、いつからいたのか、埃に塗れた女中が立っていた。先程の静かな
庭師の老人は
喜び勇んで、彼女は僕に勢いよく抱きつく。
───────────────ゴキンッ!
「ぱぱっ! 雨香ね、できたよ! できた! …………う、ううん? できた、よね?」
「あっ、あぁ、流石だ、雨香……流石僕の子だ。ありがとうな。難しいのによくできた」
もう少し首の骨がズレたら、死ぬところだった。僕はあさとから手を放し、痛みに震えながら、彼女を抱き返した。
まだ生きている人の、棺桶じみた部屋は、どこにもなかった。
「…………………………………………………………ありがとう」
心から呟き、僕は瓦礫の間から、破れたドレスを引っ張り出した。血濡れた彼女の体を
僕とあさとは、視線を彷徨わせた。そして、僕達は、同時にある一点で視線を止めた。
「「あっ」」
紅い唐傘は瓦礫の山に突き刺さっていた。どうやら雨香の移動する風圧に巻き込まれたらしい。それは先程までの神秘性を失い、単なるゴミと化していた。
「…………………………………………………………………………………………………ふっ」
その唇から細い息が漏れた。次の瞬間あさとは笑い出した。
「ははっ、はははははっ、あははははっ、ははははははっ、あははははははははははっ、あははははははははははははははははっ、あはははははははははははははははははっ!」
僕は呆然とその姿を眺めた。学生の頃からの付き合いだが、笑うあさとの姿など初めて見た気がする。遂に気が狂ったのかと僕は心配になった。あさとは苦しそうに腹を
まるで、疲れ果てたかのように、彼は青い空を眺めた。その唇が微かに動く。
あさとは、何かを呟いた。だが、その声は聞こえない。彼は短く息を吐いた。
「…………………………………………………………、は」
次の瞬間、彼は唇を引き結び、バネ
両腕を開き、あさとは大きく息を吸い込んだ。その口から、
「俺には望みなど生まれた時よりありはしなかった。俺は今の今までひたすらに人の欲の為に生きてきた。何とも愚かしく何とも下らなく何とも馬鹿馬鹿しい。繭墨家と紅い女と人に、振り回され続けた人生だ。そう、それが狐の物語。今尚続く下らない話だ」
突然、あさとは
「狐の話は終わりました。彼はこれから先死んだように棺桶の中で生き続けます。めでたし、めでたし、そう、それで、それで終わりなはずだったんだ。実に、実に下らない」
その声には、その口調には、言葉には、どこか。
まるで、やけくそだと言うような響きがあった。
「だが、いいだろう、新たなページを刻んでやる。死に続けるのとどちらがマシかはわからない。いいだろう。小田桐勤。君はせいぜい、せいぜい選択を、後悔すればいいさ」
本気で望むと言うのならば、ありえない話の続きをくれてやる。
まるで演説をするかのように、あさとは声を響かせた。そこで彼は再び口を閉じる。
鋭い眼差しが、僕を
「……………………………………いいだろう、小田桐勤」
もう一度、嚙み締めるように言い、彼は手を伸ばした。
あさとは、何の意味も理由もなく、僕の手を握る。
そして、口を開き、繭墨あさとは堂々と宣言した。
「───────────────狐は、君につく」