小田桐勤の話をしたいと思う。
ボクの知る愚かな男について。
頑固で軟弱で自覚ある偽善者。常に地味なスーツを着ていて口うるさい。人の死から都合よく目を逸らすくせに、時に真っ向から批判を行う。そしてよく煙草を吸っている。
一度も断言したことはないが、ボクは繰り返し思っていた。
彼は度し難い人間だ。何度でも彼は同じ間違いを繰り返す。
卑怯な自分を取り繕いながら、実際に血も流す。
そんな矛盾した彼とボクは一緒に過ごしてきた。
それは、素晴らしいとは、到底、言い難い日々だった。
毒を舐めるように、退屈な日々だったと言ってもいい。
彼にとっては退屈どころか、実に最悪な時間だったことだろう。ボクが惨劇を望む度、彼は陰惨な事件に直面してきた。ボクの下を離れたいと、彼は真剣に願っていたはずだ。
繭墨あざかは、醜悪な生き物だ。最低の人でなしだ。ボクはそれを否定しない。だが、小田桐勤は離れることなくボクの傍にいた。ボクが彼の手を、あの時取って以来ずっと。
遠い春の日に、無数の桜の花弁が舞い散る、坂の上で。
そういえば一つだけ、まだ、語っていない事実がある。
小田桐勤は、何があっても変わらない。彼はこれから先も、愚かなままだろう。
ボクがいてもいなくても、彼は相変わらず、無駄に走り回っているに違いない。
今更、小田桐勤の話をしたいと思う。
ボクが共に時を過ごした彼について。
冷たい水を頰に叩きつける。顔全体が痺れたところで、漸く頭がはっきりした。
手探りで壁際を漁り、僕は乾いたタオルをひっ摑んだ。洗面所に長く掛けっぱなしにしていた布は、黴臭い。ひりつくほど乱暴に肌を擦り、僕は顔をあげた。罅割れ、くすんだ鏡の中から、くたびれた男が僕を見返す。顎髭は伸びっぱなしで、目の下には濃い隈が浮かんでいた。今にも野たれ死にしそうなほど、ひどい有様だ。繭墨の事務所から、再び、メゾンド・ナナセに移動するまでの間に、よく職質されずにすんだものだと思う。
血走った目を見つめながら、僕は思わず、呆然と呟いた。
「…………なるほど、これは白雪さんが心配をするわけだ」
何故、今までこの姿を異常と思わなかったのか、自分でも不思議で仕方がない。
首を傾げながら、僕は洗面台横の収納棚を開いた。剃刀とクリームを取り出し、髭を剃る。顔を洗い直し、濡れたシャツを脱ぐと脱衣籠に放り込んだ。押入れまで取って返し、新しい服を引っ張り出す。着替えながら台所に向かい、冷蔵庫の扉を開けた。中は空だ。紅い女と繭墨あざかの事件が始まって以来、腐敗防止に食材を買わないようにしていたせいだった。僕は冷蔵庫横のステンレス製の米櫃を開く。米だけは十分にあった。
それならば、今やるべきことは一つだけだ。炊飯器の内釜に米を入れ、僕は徐に研ぎ始めた。優しく洗い、濁りが薄くなるまで水を切ることを繰り返す。準備を整え、内釜を炊飯器に戻したところで、僕はしばし悩んだ。コンセントを引っこ抜き、炊飯器を小脇に抱える。実に狂気的な絵面が完成した。そう自覚しながらも僕は大股で歩き出した。
扉を開くと、冷たさの緩み始めた春を感じさせる空気に包まれる。まだ花弁の舞っている薄紅い空の下、僕は金属製の階段を駆け下りた。カンカンと足音を響かせ、一階に降りる。そのまま七海の部屋の扉を引いた。幸いにも鍵はかかっていない。玄関には大小の靴が二足仲良く並んでいた。歩を進めると、扉越しにくぐもった声が聞こえてくる。
「どうなんでしょうね。前から色々全力でどーしようもなく危なっかしかったですけど、今度こそ心配ですよ。繭墨さんがいなくなっちまって、あの人、立ち直れますかね?」
「それは七海もそう思います。だから、これから、あの馬鹿な人をどうするかって話を」
僕は迷うことなく、ガラス戸を引き開けた。ふわふわのツインテールと、軽薄な金髪が振り向く。雄介はまだ、七海の下に残っていたらしい。卓袱台を囲んでいた二人は僕を見上げ、ぴたりと動きを止めた。彼らは目を丸くして、僕を、正確には、僕が小脇に抱えた炊飯器を見ている。呆れられるかもしれない。そう思いながらも僕は口を開いた。
「七海さん、雄介」
彼らは揃った動きで顔を見合わせ、再び僕を見た。そして同時に頷く。僕もこくりと頷き返した。息を吸い込み、僕はどうやら言葉を待ってくれているらしい二人に告げた。
「─────────飯にしましょう」
炊飯器を持ち上げ、そう訴えてみる。
七海と雄介は、再び顔を見合わせた。
真剣な面持ちを向け合い、彼らは頷き合った。二人は同時に立ち上がる。立ったはいいものの、雄介はどうしたものかといった様子で腕を組んだ。一方の七海は拳を握り締め、ずんずんと歩き出した。すれ違い様、彼女は僕の腕から炊飯器をひったくった。ぎろりと僕を見上げ、七海は拳を固める。親指を立て、彼女はクイッと廊下を指し示した。
「ついて来なさい」
その言葉と仕草には、有無を言わせぬ迫力があった。僕と雄介は、大人しく小さな背中を追いかける。台所に入ると、七海は炊飯器をコンセントから引っこ抜き、僕の持ってきた物と入れ替えた。次に、彼女はツインテールを揺らし、勢いよく冷蔵庫を開いた。
─────────────────────バンッ!
大根人参かぼちゃ葱白菜きゅうりトマトナスもやし椎茸。
野菜が次々と、食卓の上に積み上げられていく。その隣にチーズ牛乳豆腐わかめ、豚肉鶏肉牛肉、鱈鮭烏賊海老と、多種多様な食材が並べられた。バンッと扉を閉じ、七海は僕を振り返った。これでもかというほどの食材を前にして、彼女は腕を組み合わせる。
兎型のスリッパを履いた足で、七海はバスバスと不機嫌に床を踏んだ。
「綾さんがね、よく食べたんですよ」
「…………………………………はい」
「あなたが帰ってきたら、豪勢に鍋にでもしようかと思ってたんですよ」
「……………………………………………………………………………はい」
「と言うわけで、許可します。今日で、こいつらを全部使いきりますよ」
「………………………………………………………………………はいッ!」
「残したら、死ぬと思いなさい」
「えっ死ぬのマジで」
七海の断言に雄介は顔を青褪めさせた。それを無視して、七海は人参を摑んだ。次に彼女は足で、器用に流しの下を開いた。そこには七海愛用の包丁がずらりと並んでいる。
───────────ザッ、バサッ
次に、七海は椅子に掛けられた何かをひっ摑み、僕に投げた。柔らかなエプロンの中心で、兎のアップリケが号泣している。これには見覚えがあった。生前、綾が使っていた代物だ。左手で、ゆっくりと僕はアップリケを撫でた。それからエプロンを翻し、装着すると、背中で強く紐を結んだ。そして、棚から、一本の輝く万能包丁を引き抜いた。
そこから先は、まるで戦場のような有様だった。
僕と七海は、何かに追い立てられるかのように、次々と食材を捌いた。
問答無用で材料をぶった切っては、七瀬家で一番でかい鍋の中に放り込んでいく。なみなみと注いだ昆布と鰹の出汁が揺れ、温かく、いい匂いが漂った。鍋に入れると他の食材と致命的な喧嘩をしそうな物は横に避け、酢漬けにしたり、煮物にしたりしていく。
僕が調味料を手に忙しく働く間、雄介は闇鍋化させそうな食材を運んできては、七海に撃退された。今は、いじけながら皿を並べ、無駄にジャガイモを剝き、何故か林檎の兎を量産している。彼なりに考えて動いているようだが、ちょっとよくわからない。やがて、米が炊きあがった。蓋を閉じきれない鍋の中では、海鮮と肉と野菜が煮えている。
両手に、虎の手型の鍋摑みをはめ、僕は恐る恐るそれを摑んだ。慎重に鍋を運ぶ僕の後ろから、大量の取り皿と薬缶を手にした雄介が続く。その更に後ろに、作った小鉢の数々を、盆に載せた七海が続いた。卓袱台の上に、僕達は作った料理を全て並べていく。
美味そうな湯気が漂った。置ききれない皿を畳に置き、卓袱台を睨み、僕は静かに悟った。今卓袱台は第二の戦場と化した。すうっと深く息を吸い込み、僕は覚悟を決めた。
座布団に座り、胡坐をかく。その隣に、正座した雄介が並んだ。ツインテールを揺らし、七海も腰を下ろす。全員が、一時停止した。次の瞬間、僕達は一斉に、箸を摑んだ。
「「「いただきますッ!」」」
やけくそのような大声で、僕達は宣言した。
その声は、合図の銃声のようにも聞こえた。
僕達は一斉に飯を掻き込んだ。休む暇なく、炊き立ての甘い白米を口に押し込み、胡麻を振りかけた香ばしいきんぴらを齧る。鍋にお玉を突っ込み、湯気を立てる中身を器に移した。零れかけた出汁を啜り、海老の殻を剝く。震えるその身を一気に齧り、豚肉と白菜を口に押し込んだ。全てを飲み干し、お代わりを注ぐ。その隣では、雄介が白滝を啜りあげ、七海が豆腐をツルリと飲み込んでいた。次々と僕達は料理を片づけていく。
甘い物、こってりした物、爽やかな物、酸っぱい物、香ばしい物、肉野菜魚米。尽きそうにない料理を押し込み、誰かの淹れた熱い茶を慎重に啜り、僕達は箸を動かし続けた。細胞が端から全て生まれ変わっていくような食事だった。細胞分裂の速度が食事内容で変化するはずがない。だが、食べた物が端から血となり、肉となるような気がした。
やがて、最後の料理が消えた。ナスの煮物を一個ずつ食べ、僕達は箸から手を離した。
──────────カランッ
机の上を三対の箸が叩いた。僕達は同時に、畳の上に寝転がる。誰も何も言わなかった。苦しくて声など出せそうにない。だが、不意に、震える声で雄介がぼそりと呟いた。
「よ、よく食べきれましたね、この量………正直信じられねぇ」
「同感だ……だって、これ人の腹に納まる量じゃなかっただろ」
「七海も実は驚きました……人間、やればできるもんですねぇ」
壮絶な戦いを終えた気分だった。過酷な戦場を乗り越え、僕達は畳の上に大の字になる。天井をぼんやりと見つめていると、首筋の汗がひいていくのを覚えた。暖房もつけていないのに、いつのまにか全身に汗をかいている。僕は深呼吸し、ゆっくりと目を閉じた。不意に、暗闇の中で、雄介の声が響いた。どこか寂しげに乾いた声で、彼は呟く。
「あの時もこうして、ヤケクソになって、飯でも食べればよかったかもしれないっすね」
「………あの時って、いつだ、雄介。悪いが、正直、喋るのも辛くてな、ちょっと息が」
「ほら、ヒルガオが………ヒルガオと、二度と、会えなくなって、俺が色々小田桐さんに迷惑かけた時です。あの時も食って食って、食って、動けなくなればよかったって」
「…………あの時は、無理だったろうな。そうできれば、きっと、よかったと思うが」
「…………そういうもん、かな…………うん、そういうもんなのかもしれないっすね」
「…………そういうもんだな。今更、仕方がない。どうしようもない時だって、ある」
「あなた達…………よく、呑気に、喋れます、ねぇ。苦しくないんですか、苦しくは」
「頑張れば意外といけるって。幼女にもやれるって、不屈でチャレンジの精神だって」
「うっさいですよ。静かにしてください……ちっくしょう。明日の体重が怖いですね」
「えっ幼女、体重とか気にするの? その歳で? やだ、女子怖い」
「フナムシ、ゴーホーム。今すぐ懐かしの海に帰ったらどうですか」
「なんで、ゴーホームで海になるんだよ。俺は海産物かよ。で、ですね。小田桐さん」
突然、雄介は真剣な声を出した。流れるように続いていた馬鹿な会話は、そこでふっと止まる。重い沈黙が広がった。天井を仰ぎ、僕達は口を閉じる。このまま黙ってさえいれば、いつまでも魚のように、寝転がっていられる気がした。だが、僕は口を開いた。
再び、固く目を閉じ、僕は雄介に問いかける。
「…………………………………………なんだ?」
「これから、アンタはどうする気なんですか?」
七海は何も言わない。だが、彼女も答えを待っている気配がした。僕は深く息を吸い、吐き出した。その度、胃が重く上下する。僕は右手を強く握り締めた。そこには引き攣った火傷痕が残っている。それは繭墨の事務所で、煙草を握り潰した際に負ったものだ。
まだ生々しい痛みを感じながら、僕はそっと瞼を開いた。目の前にはどこか懐かしい薄汚れた天井が広がっている。温かな蛍光灯の光を睨みつけるようにして、僕は続けた。
「繭さんを、迎えに行く」
それこそが、僕にとって正真正銘の。
銃声にも似た、戦闘開始の合図だった。
「理屈としては可能なはずなんだ。説明を聞いてくれ」
少なくとも、エウリュディケを迎えに行ったオルフェウスよりは、望みがあるはずだ。
自分でも、だからどうしたという言葉が飛び出した。そもそも比較対象に神話をあげるような事態は人の手に負える域を超えている。七海と雄介は返事をしなかった。だが、二人はごろりと体を動かし、僕の方を向いてくれた。一斉に、二人は左右から口を開く。
「「続きをどうぞ」」
「ありがとう。説明を続ける。繭さんは、異界に消えた」
だが、彼女は死んではいないんだ。
歴代の繭墨あざか達と違い、彼女は紅い女との対決のため、自ら異界を開いた。
そのまま繭墨あざかは、体ごと異界に取り込まれたのだ。あの場所では人の肉体は如何様にも変化する。だが、損なわれることはない。あそこでは、人の肉も粘土と同じだ。
長い時を異界で過ごし、僕は実感していた。異界はある意味、最も死から遠い場所だ。
生きたまま異界に辿り着いた者は、自然の摂理に従い、死ぬことすら許されない。
かつて、御影粒良は繭墨の死を予言した。だが、それは間違っていたことになる。
彼女自身すら縛っていた、予言視は外れたのだ。いや、そうではない。僕は目を閉じ、御影の予言内容を反芻した。御影は白い指で、机にカードを滑らせる。カードに描かれた絵の中では、黒いドレス姿の少女が曖昧な微笑みを浮かべていた。少女の左腕はない。
桜の花弁に変わる繭墨の姿が、思い浮かんだ。儚く美しい記憶に、御影の声が重なる。
こちらが君さ、繭墨あざか。どうやらこのイメージの直後、君の肉体は現世から消滅するらしい。人間にとって、死と呼んで差し支えない状況だろう。
現世からの消滅は、人間にとっての死と等しい。彼女はそう予言したにすぎなかった。
その言葉通り、繭墨は実際に死んだわけではないのだ。彼女は此岸と彼岸の絶対的な境を超えていない。まだ間に合う。肉体がある限り、連れ戻すことはできるはずだった。
「だが、異界と現世では時間の感覚が異なる。肉体は死なないだろうが、精神はわからない。繭さんの精神性は、人を凌駕していたが……それでも、永遠には耐えられないだろう。彼女は完全な鬼ではないんだ。できるだけ早く、迎えに行かなくちゃならない」
繭墨あざかが精神的に、完全に死亡する前に、連れ戻さなくてはならなかった。
七海と雄介はもぞもぞと動き、再び天井を仰いだ。七海は無言で畳を探る。雄介は腕を伸ばし、僕の体越しに、彼女に座布団を手渡した。七海はぎゅっとそれをぬいぐるみのように抱き締める。不意に雄介はゲップをした。七海の拳が飛ぶ。奇妙なほど穏やかな時間が過ぎた。自分が訴えたことを夢だったのかと僕が思い始めた頃、雄介は呟いた。
「…………どうやって、異界に行くんですか?」
「………………えっ?」
「今はもう、繭墨さんはいませんよね? 異界を開く方法が、他にもあることは聞いてます。でも、大量虐殺も贄を殺すことも、アンタにはできやしないでしょう? 大量の異物を呼び出して、開きますか? 御当主の協力を仰げればできるかもしれませんけど、人の血を使うのはヤバイんじゃないですかね。幸仁の『神』は……できんのかなー、総数が増えても総量は変わらないって繭墨さんも言ってましたし、無理っぽいですよ。どうする気ですか。それに……それだけじゃありませんよね。やっぱり、きついですよ」
雄介の流れるような言葉はそこで止まった。僕は彼の横顔を窺う。雄介は瞼を開いていた。ガラスのように澄んだ目の中心に蛍光灯の光が映っている。彼は再び口を開いた。
「あの紅い女の下から、宝物を持ち逃げしようだなんて、正気の沙汰じゃない」
僕は紅い女の姿を思い返した。あの女は、自らの敵に対してすら、堂々と礼を示した。
女は道路に手をつき、僕達に深々とお辞儀をしたのだ。無残に食われた体を晒しながら、女は上品な笑みを僕達に向けた。唇を吊り上げ、女は慈悲深く笑い、哂い、嗤った。
アレを見て、確かに、僕は思い知らされたのだ。鬼とは、微笑む生き物だ。
多大な慈愛を持って、人を見下すような生き物に、人間が敵うはずもない。
「小田桐さん、もう、随分ひどい目にあったでしょう。今度は、一体どうするんですか」
「…………………」
「また、いい方法も思いつかないのに突っ走って。それで、戻って来られるんですか?」
雄介の言葉には突き放すような冷たさがあった。同時に、手を摑み、引き止めようとするかのような切実な響きもある。僕は異界の光景を思い返した。血腥く、人の臓器に似たあの場所には、二度と戻りたくない。だが、繭墨の最後の笑顔が、瞼の裏に浮かぶのだ。大嫌いなあの顔が、僕に囁く。繭墨あざかは消えた。物語はこれでおしまいだと。
そんな馬鹿げた結論を認めるわけにはいかない。僕は衝動的に目を開き、宙を睨んだ。だが、雄介の言葉が正しいこともわかってはいた。不意に、僕はあることが気になった。
僕は自身の衝動にばかり気を取られ、考えたこともなかったが。
一体、嵯峨雄介は、繭墨あざかのことを、どう思っているのか。
「…………雄介、お前は、繭さんのことをどう思ってるんだ?」
「あの人ね。あの人のことは、実は俺、こうなっても、正直、よくわかんないんですよ」
雄介はぼそりと呟いた。彼は本気で困ったように首を捻る。嵯峨雄介と繭墨あざかの因縁は決して浅くはない。彼の父親からの依頼で、雄介と出会って以来、僕達は共に多くの事件に関わってきた。雄介は狐に手を貸し、繭墨を攫う手助けすらしたこともある。
雄介は、遠い目で天井を仰いだ。考えに考えた末、彼はたどたどしい言葉を絞り出す。
「あの人はひどい人ですよ。傍から見てたって、あの人の異常性はわかります。目の前で人間が死んでも顔色一つ変えやしない。何があったってあの人は変わらないし、心一つ動かさない。そんな人間がまともであるはずがないでしょう。あの人は人でなしだ」
雄介は低く吐き捨てた。僕も、その言葉には賛同する。彼女自身もそう肯定していた。
繭墨あざかは己の望み通りに生きてきた。人の死を嗤い、不幸を悦び、惨劇を望んだ。
繭墨あざかは外道であり、正しいことを一度もした覚えはないと。だが、それでも尚。
「それでもね。俺は思うんですよ。あの人は最悪ですが、畜生ではなかったって…………なんて、言えばいいんでしょうね。おかしな話かもしれませんけど、あの人は、人間っていうよりも、俺達全員の運命みたいなもんだったって、俺にはそう思えるんですよ」
「…………運命? 随分とおかしなことを言うんだな? 繭さんが、か?」
「そうです。俺達全員を、死んでしまった奴も、何もかもを引き合わせたのはあの人の存在でした。そして繭墨さんは面倒くさがりで、誰も救う気なんてないくせに、アンタが動くのは止めませんでしたよね? 脅してでも怒ってでも、止めさせることはできたはずなのに。あの人はどんな時も、なんだかんだで巻き込まれることを拒まなかった」
そして、あの人は、いつも何か事が起こる時、そこにいました。
時には嗤って、時には肩を竦めて、何もかもを、ただ見ていた。
「だから、俺は世界がひっくり返ったって、あの人だけは変わらないんだろうって思ってました。あの事務所に行けば、繭墨さんはいつでも寝転がって、チョコレートを食べてるんだろうって。でも、あの人は今はもういないんですよね………そ、うか。もう」
いないんだ。あの人は。
呆然と雄介は呟いた。僕は彼の横顔を眺める。まるで、初めて繭墨が消えた事実を理解したかのように、雄介は大きく目を開いていた。七海は無言で雄介に座布団を手渡す。
雄介は乱暴にそれを抱き潰した。彼は眉間に深く皺を寄せ、探るような言葉を続ける。
「繭墨あざかは最悪な人間だ。けれども、彼女は美しかった。彼女は決して畜生じゃありませんでした。あの人はいつでもそこにいて。俺は、あの人には変わらずいて欲しかった。だって怖いじゃないですか。あの人がいないとかもう死んだんだとか、そんな」
そこで雄介は口を閉じた。彼はぼんやりと視線を彷徨わせる。緩やかに重い沈黙が積み重なった。その間に僕と雄介は理解していく。こうして温かな部屋に寝転がっていると忘れてしまいそうになる。だが、この世界のどこを探しても、もう繭墨はいないのだ。
「ああ………………なんだ、俺、小田桐さん以上に、わかってなかったみたいっすね」
繭墨さんが、死ぬってことを。俺達が失敗して、あの人が帰って来ないってことを。
雄介の呟きはゆっくりと拡散して消えた。食べ物の残り香に満ちた温かな空気が、まるで湿った毛布のように重く感じられる。それを振り払うように、突然、七海はバタバタと手足を動かし始めた。彼女は体を大きく左右に捻り、どんっと畳に腕を叩きつけた。
唖然とする僕達の前で、七海は駄々っ子のように暴れる。そして、彼女は吐き捨てた。
「…………七海はですね、あの人のことなんて、大ッッッッッッッッ嫌いでしたよッ!」
実に力強い宣言が鼓膜を震わせた。腹に力を入れ過ぎたのか、七海はうぷっと口元を覆う。だが、持ち直し、彼女は再び手を振り回した。七海は大声で苛立ちをぶちまける。
「あの人はですね、デリカシーがないってどころの話じゃないんですよッ! いっつも人のことをにやにやにやにやうんボクはわかってるよーって目で見てきて、あのゴスロリ女! せっかく人が日々猫被って隠してる本性を、何の権利があって暴きますか!」
「えっそれ、今、ここで言っちゃうの? ねぇ幼女、それって公開していい情報なの?」
「それにですよッ! 何やってんだか知りませんけど、あっちで騒ぎになって、こっちでまた何かあって、毎回毎回、人の日常を否応なく掻き回してくんじゃないですよッ! 小田桐さんはよくボロボロになるし、家に人は増えるし、綾さんは、綾さんは………」
七海の声は徐々に尻すぼみになり、消えた。手を振り回すのを止め、彼女は再び大の字になった。心なしかそのツインテールは畳にぺたりと張りついて見える。いるかと問うように、雄介は彼女に座布団を差し出した。七海は首を横に振り、きつく目を閉じる。
「いなくなったとか、消えたとか、死んだとか、わけがわからないんですよ。そんなのもうごめんなんですよ。なんなんですか、あの人は。にやにや笑ってたくせに消えて、運命だとか何とか、フナムシ伝手にしか聞いてませんけど、そんなのおかしいでしょう」
フーッと毛を逆立てた猫のように、七海は訴えた。だが、次の瞬間、彼女は疲れきったかのように顔を覆い、体から力を抜いた。その姿は、いつもより一回り小さく見える。
七海は、ただの小学生の女の子だ。近しい人の死になど、本当は慣れていない。
綾の死に、彼女が泣いていた時から、僕は久しぶりに、その事実を思い出した。
「……………………なぁ、幼女、お前大丈夫か? なぁ?」
「………………………」
「…………なぁってば」
雄介の言葉にも、七海は返事をしない。両手で顔を覆ったまま、彼女は動かなかった。僕と雄介は体を起こし、七海の顔を覗き込んだ。心配の言葉をかけようとする。その瞬間だった。顔を覆ったまま、七海は口を開いた。砲撃のような大声がそこから飛び出す。
「復唱ッ! 小田桐勤ッ!」
「はいいッ?」
「方法はあるんですか、この馬鹿ッ!」
「は、はい? ………えっと、あの?」
「連れ戻すだのなんだの簡単に言ったんだから、方法はあるんでしょうッ! オルフェウスの神話よりは可能性があるんでしょうッ! さっさと言ってみてくださいよッ!」
「あの、幼女…………ってか、七海サン。それ復唱違う」
「いいから、答えなさいッ!」
どんっと七海は拳で畳を叩いた。その目を隠していた掌が外れる。僕と雄介は飛び退きながら彼女の顔を窺った。怒りに満ちた声は、泣いているかのように掠れてもいたが。
七海は、泣いてなどいなかった。蛍光灯の光を映した目は、きらきらと輝いている。
まるで、星でも宿しているかのようだ。その目の中では、様々な感情が揺れている。
怒りと期待と、それを否定されて尚、決して折れないでいようという意地が。改めて、僕はその事実を実感した。七瀬七海は強い。彼女は誰よりも強くあろうと、生きている。