Part 01: 全身に冷え、そして頭に鈍い痛みと怠さを覚えながら……私はぱちり、と目を開ける。 いつの間にか、眠り込んでいたらしい。……いや、この場合気を失っていたと言ったほうが正しいだろうか。 沙都子(私服): …………。 荒れ果てた室内。食卓には汚れた皿やコップが置かれたままで、その下の畳には酒瓶や空き缶が転がっている。 ……ふいに足下から、つんとした刺激臭。目を向けると灰皿が裏返しになって、中にあった煙草が無残にぶちまけられている様子が視界に入ってきた。 沙都子(私服): 掃除……しなくてはいけませんわね。 とりあえず言葉に出してみたものの、面倒くさいという思いがすぐに感情を支配して……能動的になりかけた気持ちをくじいていく。 本当に……何もかもが煩わしくて、厭わしい。いっそこのまま、もう一度眠ってしまうのも悪くないとさえ感じたほどだ。 だけど……それはただの逃避でしかない。私自身のこれからに待ち受ける冷たくて厳しい現実を認めるしかないという、絶望から目を背けるだけだ。 もはや私には、選択の余地などない。自ら動いて、そういう道を選んでしまったのだから……。 沙都子(私服): ……梨花。 ふと、頭に浮かんだその名前を呟いて……私はここにいないあの子について思いを馳せる。 今、彼女はどうしているのだろうか。 そう思った次の瞬間、私はなんとなく視線の先に黒電話があるのを確かめて……のろのろとそこに向かい、歩き出した。 梨花(私服): 沙都子……ボクと一緒に暮らしましょう。もうあなたを、ひとりにはしないのです。 沙都子(私服): えっ……? 初めてその提案を聞いた時、私は自分の耳を疑った。冗談かと思って、笑い飛ばしかけたほどだ。 昨年に#p綿流#sわたなが#rしが行われた直後……私は叔母を喪い、兄の行方もわからなくなった。 前者はともかく、兄が失踪した事実は半身が引きちぎられたような衝撃となって私の心を苛んで……絶望して……。 あの子が手を差し伸べてくれなければ、きっと私は立ち上がるだけの力も意欲も失っていたに違いなかったと思う。 沙都子(私服): (両親に続いて、にーにーまで……つくづく私にとって綿流しは、呪わしき祭事ですわね) 3年前の綿流しの日……あの時も私は家族を喪った。……とはいえ、まだ幼かったこともあってか記憶は曖昧なままで、今ひとつ現実味に欠けている。 ……というより、脳が思い出すことを拒絶しているのでは、と訝しく思うこともある。 いずれにしても、無条件の味方だった兄がいなくなり……あの乱暴者で大嫌いな叔父のもとへ行かなければならないのかと暗澹な思いだったが。 梨花の提案に従えば、私は最悪の展開に陥ることが避けられることになる。それは確かに、喜ばしいことだった……けど……。 沙都子(私服): ですが……大丈夫ですの、梨花?あなたがそう言ってくださっても、町会の方が賛成してくれるとは思えませんけど……。 梨花(私服): かもしれないのです……いえ、きっと強い口調で反対してくると思いますです。 梨花(私服): それでもボクは、沙都子と一緒に暮らせるようどんな手を使ってでも説得してみせるのですよ。 きっぱりとそう言い切る梨花は、すでに心を決めたとばかりに口を引き結び……瞳には力がこもっていた。 梨花(私服): すでに魅ぃには、協力してもらうという約束を取りつけたのです。他に入江と鷹野も、村人たちの説得に回ってくれる予定です。 梨花(私服): 残る心配は、例の叔父ですが……おそらく#p祟#sたた#rりのことを恐れて、この村には近づこうとしないはずなのですよ。 沙都子(私服): なんで、そこまで……?同情してくださるのはありがたいですけど、助けて貰ういわれなど私にはありませんわ。 確かに梨花とは、それなりに仲良くしていたつもりでいたけれど……私はダム戦争以来#p雛見沢#sひなみざわ#rの人々にとって憎しみを向けられる対象、北条家の人間だ。 そんな私を身内に引き入れるメリットなど、何もない。正直言って気まぐれにからかっていると考えたほうがまだ納得できたくらいだ。 沙都子(私服): (いったい、何が目的なの……?) この世の全てが疑わしくて、敵にしか見えなくなっていた私にその梨花の言葉はかえって裏に潜むものを警戒させて……。 そう思って身構え、わきあがった猜疑心から頑なになりかけたところへ……梨花はさらに歩み寄り、両手で私の手を取りながらなお言葉を繋いでいった。 梨花(私服): ……沙都子。ボクは、あなたが悟史と一緒に苦しんで辛い毎日を送っていたのに……子どもの立場では何もできないと思い込んで、ただ見ているだけでした。 梨花(私服): そんな卑怯な態度と怠惰のせいで、悟史は……本当に、申し訳ないと思っているのですよ。 沙都子(私服): …………。 梨花(私服): どれだけ反省して、後悔しても……もう、遅い。 梨花(私服): あなたの心を癒やすなんておこがましいし、まして、救おうと考えるなんて思い上がりも甚だしい……よく、わかっているのです。 梨花(私服): ですが……ボクはもう、これ以上沙都子の悲しい顔を見ないふりをして生きていくことに、耐えられないのです! 嫌なのです……ッ! 沙都子(私服): 梨花……。 梨花(私服): 悟史がいなくなった直後に、こんな話をしても素直に受け取ってもらえないかもしれません……。 梨花(私服): でも……それでも、もう一度……一度だけでいい!ボクたちのこと……私たちのことを、信じてほしい! 梨花(私服): たとえ偽善だって言われても、大事な友だちを喪って後悔するのはもう、一度でたくさん……!だから、お願い……お願いだから……! 沙都子(私服): ……っ……。 梨花の思いを知って、私は……泣き出したくなるのを懸命にこらえて、頭を深々と下げる梨花をまっすぐに見つめる。 ……正直言って、謝る筋合いなんてまったくない。何度か恨み言めいたことを考えたことはあったが、それも結局のところは逆恨みだ。 だって彼女には、どうしようもなかったのだから。子どもであることは紛れもない事実だったのだし、自分が逆の立場だったら……きっと同じ事を……。 沙都子(私服): ありがとうですわ、梨花……。 だから私は、差し伸べられたその手を取った。……いや、「取ってしまった」。 このことで多くの人に迷惑をかけて、さらに自分が惨めになるであろうことも理解しておきながら……。 Part 02: それからは、あっという間の一年だった。 最初は、見慣れぬ部屋に招き入れられた上に梨花との適切な距離感がわからなくて、どう接したものかと気疲れもしたが……。 日を追ううちお互いに慣れてきて、多少の恥くらいは見せても気にならないほど自分のペースで暮らせるようになり……。 今ではすっかり、家族と呼んでも差し支えがないくらいにリラックスした関係になっていた。 沙都子(私服): 梨花ぁ、そっちの食器を取ってくださいまし。あとはご飯の方をよろしくお願いしますわ~。 梨花(私服): みー、了解なのです。お茶は冷蔵庫に入ってある麦茶で構いませんですか? 沙都子(私服): えぇ。ただお昼過ぎに沸かして入れたばかりなので、まだよく冷えていないかもでしてよ。 梨花(私服): 今日はそこまで暑くないので、これで十分なのです。……はい、お箸も並べて準備完了なのですよ。 羽入(私服): あぅあぅ、お腹がぺこぺこなのです。沙都子の料理はまだなのですか~? 沙都子(私服): あと、もう少しでしてよ。あとはこれを綺麗に盛り付けて……っと。 沙都子(私服): できあがりましたわ、羽入さん。こちらを食卓まで持っていって下さいまし。 羽入(私服): わかりましたのですよ。んしょ、んしょ……。 私が作った料理を盛り付けたお皿を両手に持ち、羽入さんに配膳を手伝ってもらう。 最後に私が、自らの分を手づから運び……夕食の準備が整った食卓の前に座った。 沙都子(私服): それでは、お手を合わせて……。 梨花・羽入: いただきます、なのですよ~♪ しっかりと唱和してから、私たちはめいめいに箸を手にとっておかずを分け、反対側に茶碗を持って白米とともに口へと運ぶ。 魚の肉と脂身の旨味、さらにスパイスとバターの香りが絶妙で……おいしさが舌の上で踊るような感覚だった。 梨花(私服): おいしいのですよ、にぱー♪ 羽入(私服): あぅあぅ、普通の焼き魚とは違った深い味わいでご飯がとっても進むのですよ~♪ 梨花と羽入さんは大絶賛しながら、いつも以上の勢いでご飯をかき込んでいる。 つくった本人である私もまた、思っていた以上の会心の出来に舌鼓を打ってご満悦な気分だった。 沙都子(私服): こちら、『ムニエル』と言ってフランスの料理で用いられる手法だそうですけど……驚きましたわ。 沙都子(私服): 焼き魚に軽く手を加えただけなのに、こんなにも食べ応えのある料理になるんですのね。教えてくださった菜央さんには、感謝ですわ。 羽入(私服): あぅあぅあぅ~!本当に菜央は、色んな料理を知っているのです。おかげで今夜の食卓が華やかになったのですよ~♪ 梨花(私服): みー。ボクは明日、洋風トンカツを作るのです。油を少なくして揚げる方法を教わったので、早速試してみるのですよ~♪ …………。 幸せだった。間違いなく私は、幸せだった。 ……だからこそ、思っていた。こんなにも幸せすぎる揺り戻しは、いつかきっとなにかの形で訪れるのかもしれないと。 …………。 そして、その予感は……当たってしまった。しかもよりによって、私にとって忌まわしきあの『#p綿流#sわたなが#rし』が近づいてきた頃に……。 Part 03: 鉄平: 沙都子ぉ! なぁんね放ったらかん!!どご行きよんね!! 沙都子(私服): っ……ここにおりましてよ、叔父さま。 がなり声に心底うんざりした思いを抱きながらも、反発でもすれば面倒になるだけだと考え直して私は小走りで「彼」のもとへと向かう。 そこには、畳の上にあぐらをかきながら酔いつぶれた顔で酒をあおり続ける叔父……北条鉄平の姿があった。 沙都子(私服): どうなさいまして、叔父さま……?お夕食でしたら、すぐにでも準備ができますけど。 鉄平: けっ……飯などいらんわ、それよか酒、酒や!あぁん? もう空ぁ……?知るかいなッ!さっさと買ってこんかい、このダラズッ! 沙都子(私服): ……わかりましたわ。少しだけお待ちになっていてくださいまし。 そう答えて私はすぐさま立ち上がり、自転車の鍵を掴んでカバンを肩にかけるといそいそと玄関から外へと飛び出す。 沙都子(私服): (……お酒の残りからして、10分程度。行って戻るまでで、ぎりぎりのタイミングかしら) 横目で確かめた酒瓶の残り分から逆算して、私はそんな胸算用を立てながら自転車を走らせた。 とにかく急いで戻らないと、あの男はすぐに機嫌を損ねて物を投げてくる。1分1秒が明暗を分けるのだ。 そして、ある程度酒が回れば唐突に腹が減った、と怒鳴り散らし始めるのもすでに決まった流れなので、その準備も当然行う。 こちらの動きが悪かったり、気が利かなかったりするとその怒りはエスカレートして暴力にまで発展するが……大人しく従っていれば、精々怒鳴るくらいでとどまる。 実に単純で、扱いやすい男だ。たとえ内心ではどれだけ見下して嫌おうとも、言う通りにしているだけでいいのだから。 沙都子(私服): …………。 そう……慣れてしまえば今の生活は、私にとってさほど苦しいものではなかった。 確かに叔父の怒鳴り声はうるさいし、機嫌が悪い時は下手にとばっちりを食らうまいと警戒して……息苦しさを感じることも度々ある。 ただ、はっきり言って馬鹿は扱いやすいのだ。適当に気を回したように接するだけで満足してくれるし、従ってさえいれば暴力を振るわれることもない。 とにかく、不自由と思うほどのことも感じないし……身の危険を全く感じていないというのが現状だった。 …………。 にも関わらず、梨花を始めとした部活仲間たちはそう思わなかった。ひどく同情して、哀れんでくれた。 あまつさえ、「優しい」彼らは……およそ子どもとは思えない行動を私のために勇気を出して起こしてくれた……。 圭一: 『大丈夫か、沙都子! あと少しの辛抱だから絶対に諦めるんじゃねぇぞ!』 梨花(私服): 『喜一郎とお魎の協力を取り付けたのです……!もうすぐ自由になれるのですよ、沙都子っ……!』 沙都子(私服): …………。 私を助けようとしてくれている彼らの気持ちは、とても嬉しい。確かに有り難いとは思っている。 でも……失礼だとは重々理解しつつも私としては過剰に波風を立ててもらいたくない、というのが正直な感想だった。 沙都子(私服): 最近は周囲の動きを警戒して、叔父さまもますます不機嫌になることが増えてきましたしね……。 だから……正直言って、放っておいてもらいたかった。彼らが何をしなくても、私は自分の身のほどにあった生活を送ることができているのだから。 人の数だけ正義があり、家庭の分だけ幸せの定義がある。泥の中で普通に過ごしていた魚が、突然綺麗な水場に移されても……居心地が悪くて、死んでしまうように。 何も、変化など加えてほしくなかった。これ以上、私に過ぎた幸せを見せないで……ッ。 …………。 そんな、いびつさに対する不満と憤りが爆発するのに……さほど時間はかからなかった。 沙都子(私服): だから……結局、私自身が手を下さないといけない状況になってしまいましたのよ。 沙都子(私服): 別に、周りには何もしてもらいたくなかった。私がうまくやればよかっただけで、そうできる自信も手応えもあったのに……。 私はそう言って自虐的に笑いながら、足下に転がる叔父さま「だった」ものを見下ろす。 自己防衛によるものだったのか、あるいは苛立ちと激情が攻撃な衝動に昇華したのか……今ではもう、わからない。 ただ、私は生き延びて……相手は、命を落とした。まさか私が反撃してくるとは思っていなかったのだろう、その死に顔は驚きと困惑に引きつっていた……。 梨花(私服): 沙都子っ……。 沙都子(私服): ……梨花。あなたの優しさは、嬉しかった。手を差し伸べてくれた時は、本当に救われたと思ったのも確かなことでしてよ。 沙都子(私服): ですが……私は私なりに、頑張ってみるつもりだった。これ以上梨花たちに余計な面倒や迷惑をかけるわけにはまいりませんでしたし……それに……。 沙都子(私服): 他人からの施しは……ある一定の水準を超えると、自尊心や矜持を奪い取っていくんですのよ……。 沙都子(私服): まるで自分が、無能な物乞いのようで……惨めで、情けなくなって……っ……! 梨花(私服): ……っ……?! 沙都子(私服): だから……梨花。このような状況になったのは、私が至らなかったから。そう思ってくださって、結構ですわ。 沙都子(私服): いえ……むしろ、そう思ってくださいまし。もっと北条沙都子のために動いていれば、なんて自分のことを責めて……苦しまないで。 沙都子(私服): でないと、私……大好きなあなたのことを、本気で憎んで恨んで、呪ってしまいそうになりましてよ……! 梨花(私服): っ……?な、何をするつもりですか、沙都子っ?! 沙都子(私服): ……さようなら、梨花。あなたと過ごした生活は、とても幸せで……。 沙都子(私服): そして、悲しかったですわ。私が普通と思ってきたものとの、あまりの違いを見せつけられているようで……ッ……! 梨花(私服): 沙都子っ?!いや……いやぁあぁぁぁぁああぁぁっっ!!! …………。 幸せを知ったから、不幸になったのだろうか。楽しさを知ったから、苦しさを苦しいと感じるようになってしまったのだろうか……。 その答えは……わからない。たった一度きりの人生では、とても真理になんてたどり着くことはできないから……。