ブザーが鳴る。
舞台の幕が上がる。臙脂色のカーテンが開いていけば、手を叩く音がまばらに響く。
マイクを通したナレーターの声が体育館に響く。
『昔々、あるところに、竹取の翁と呼ばれる老人が住んでいました。彼は竹を切って持ち帰ると、かごやざるを器用に作り、それを売って生活していました。彼の名前は、讃岐造といいます』
滑りだしは練習より早口だったが、すぐに落ち着きを取り戻す。
朗々と語られる舞台に登場するのは、アキくん演じる翁だ。下手から出てきた彼は、段ボールで作られた鉈を手に、気負わない足取りで進み出ていく。
絵に描かれた竹藪の中に、一本だけ光る竹がある。最初に見つかったときの姫は三寸、現在でいう九センチほどの大きさだったというから、この場面では望月先輩が手作りした人形が活躍する。
かぐや姫人形には、ちゃんとかわいらしい寝顔がある。のっぺらぼうだったのを、森先輩がかわいそうだと言ったので、あとから目や鼻を望月先輩が刺繡したのだ。
「うわぁっ、びっくりした。まさか光る竹から、こんなにかわいい赤ん坊が出てくるなんて」
アキくんは練習通りに台詞を口にしている。最初の読み合わせのときより、だいぶ自然な演技だ。とてもペットボトルに前歯をぶつけた人と同一人物とは思えない。
そんな彼の声を、私はといえば舞台のほぼ真ん中で洗濯物を畳みながら聞いていた。
『新訳竹取物語』に場面転換はない。客席から見て左側、つまり下手側に、繫ぎ合わせたスチロールに描かれた竹藪が広がり、中央の翁の家は平台によって表現されている。その位置関係を分かりやすく観客に伝えるため、私は最初から登場していたのだった。
望月先輩に指示された当初は、いやがらせかと疑ってしまった。いざ本番を迎えると、場ミリをチェックするゆとりもなかっただろうから、これが正解だった気もする。
場ミリ用の蓄光テープは、主に暗転時、予定通りの位置にセットを置く目印に使う。今回は場面転換がないので、役者の立ち位置や移動先を教えてくれるアイテムとして機能していた。リハーサル時、そこ場みって、次ここ場みって、と言いながら望月先輩が歩き回っていたので、私も覚えてしまった。
やや現実逃避していても、舞台は進行中。
洗濯物をせっせと畳む手が小刻みに震えている。がんばれ私。
「さて、この子を連れて家に帰ろう。ばあさんは驚くに違いない」
お人形のかぐや姫を大事そうに抱いて、翁が家に戻ってくる。私はそれを出迎える。
最初の台詞は肝心だ。この一言で、すべてが決まると言っても過言ではない。がんばれ私!
舞台上で向かい合うアキくんは、陰影が濃くて鼻が高い。舞台メイクの効果が出ている。
「ただいま。ところでばあさん見てくれ。竹からこの子が出てきたんだ」
「まぁおじいさん。なんでしゅ、このかわいい女の子は」
うわああ!
さっそく嚙んじゃった私に、客席で小さな笑いが起きる。好意的な笑いではあったが、そういう問題ではない。羞恥にやられ、一瞬で身体が茹で上がってしまった。
それまではあまり観客の目を意識せずに済んでいたけれど、当たり前ながら私は大勢の人に見られているのだ。みんな息を潜めて、じっと舞台を見守っていたのだ。
もしかしたら佐藤さんや吉井くんが、それに素直の友達が、そして名前も知らない人たちだって席に並んでいる。遅すぎる実感を覚えるにつれ、指先がぴりぴりする。
あんなに練習を重ねたのに、そのあとの台詞も会心の出来とは言いがたく、私は内心とぼとぼと、表面上は予定通りに舞台の袖に下がった。
袖裏では、仁王立ちした望月先輩が待ち構えていた。といっても私に説教するためではないだろう。単純に、座長である彼は舞台の様子をここから見ているのだ。
「ごめんなさい望月先輩」
謝ると、帝らしい華美な衣を着た望月先輩が目をしばたたかせる。
それから、ああ、と思いだしたように頷くと「いいんじゃないか。ウケてたし」と評する。
そういうものだろうか。座長が言うなら、そうなのだと信じたい。私はしょんぼりしつつ、次の出番に備えて先輩の後ろから舞台を見つめた。
月日は巡り、かぐや姫は数か月という短い期間で大人の女性へと成長していく。そんなナレーションに応じて舞台に姿を見せるのは、森先輩演じるかぐや姫だ。
彼女が登場したら、そうすると決めていたのだろう。前の席に並んでいた三年の女子が一斉に「もりりーん」と呼びかける。声を合わせるための、せーの、も聞こえていた。
森先輩は返事こそしなかったが、かぐや姫らしい淑やかな微笑みで応じてみせた。客席のあちこちから、きれー、と感嘆の声が上がる。
そんな一幕もあったが、舞台はつつがなく進行していく。
特に盛り上がったのが、りっちゃんこだわりのバトルシーンだ。
「かぐや姫に集る虫けらどもめ。仏の御石の鉢で、お前たちの頭をたたき割ってやる!」
「なんだと。ならばこちらは、蓬萊の玉の枝で目潰しして応戦だ」
「なんて野蛮な者たちだ、全員に火をつけて燃やそう。私は火鼠の皮衣があるから安心だ!」
「お前のほうが野蛮だ。龍の首の玉で首を締めてやる」
「ええと、わしは燕の子安貝で……ど、どうすればいいかのう」
笑いを誘いながら繰り広げられる、五人の求婚者によるバトル。かぐや姫と結婚したい一心の彼らは、せっかくの宝物を使って殴り合うという奇天烈ぶりを見せつける。
派手なスポットライト演出、ノリノリのバトルBGMに盛り立てられ、観客は手拍子をして舞台に見入っている。
そこを一刀両断するのがかぐや姫の言だ。求婚者たちはたった一言で噓を暴かれていき、全員が虚しく散っていく。最後に残るのは、切なそうなかぐや姫ひとりだ。
かぐや姫はどこにも嫁ぎたくないと主張する。そんな彼女に帝が目をつける。第一印象こそ最悪だが、少しずつ惹かれ合い、文を交わすようになる。
それでも変わらず、かぐや姫は翁の屋敷で日々を過ごす。翁と媼は、三人で暮らすことこそいちばんの幸せなのだと感じるようになっていく。だがかぐや姫にはある秘密があった。
「おじいさん、おばあさん。わたくしは月からやって来たのです。わたくしは、ずっと地上にいたい。でも、どうしても、月に帰らなくてはならないのです」
「そんな……」
翁は面食らって、二の句を継げずにいる。媼も困惑を露わに言う。
「まぁ、かぐや姫。どうして急に、月に帰るだなんて言うの」
「わたくしは、月の都の者なのです。満月の夜、月からの使者がわたくしを迎えに来るでしょう。逃れることはできません」
翁が喉を震わせる。
「かぐや姫。お前を光る竹の中に見つけてから、大事に大事に育ててきた。こうして立派に大きくなって、どれほど幸せだったことか。それなのに突然奪われるなんて許せるわけがない。なんとしてもお前を守ってみせるぞ」
「わたくしだって、おじいさんとおばあさんの傍にいたいけれど……、何をしようと、月の住人たちには敵わないのです」
かぐや姫と、目と目が合う。
濡れたその目と見つめ合ったとき、私の胸に、ある種の閃きが宿った。
だが、舞台の上では何も言えない。今の私は媼なのだ。口にできるのは台本にある台詞か、ちょっとしたアドリブだけ。
何もかも諦めたようなかぐや姫の発言だったが、翁の心には火がついた。帝に頼み、かぐや姫をどうか守ってほしいと希う。
帝は軍勢を引き連れて、月からの使者に立ち向かう。望月先輩扮する帝は、客席に向かって勇ましく呼びかける。
「勇敢なる大和の若者たちよ、全員の力を合わせてかぐや姫をお守りするのだ。姫を、月からの使者なぞに渡してはならん! そうであろう!」
なぜ帝はこちらを熱く見つめるのか、と戸惑う観客は、そこで気がつかされる。いつの間にか照明がついていて、観客たち全員の姿が明るく照らされているのだ。体育館全体が決戦の舞台となり、彼らは、帝が用意した一騎当千の兵士へと変貌していた。
帝が煽れば、観客は拳を突き上げて応じる。かぐや姫を守ろうと、全員の意志が結集する。
そうして満月の夜に訪れる月からの使者は、真上からのサススポットによって表現される。
『愚かな人間たちよ。ひれ伏しなさい』
月からの使者の声は、ナレーションが兼ねる。姿はなく、エコーがかった天からの声として演出することで、人間では敵うべくもないものだと痛感させるのだ。
役者不足による苦肉の策だったはずが、その演出はぴったりと嵌まっている。
「くっ、なぜだ。この光を見て、この声を聞くと、全身から力が抜けていくぞ」
帝が力なく倒れる。兵士となった観客たちもまた、へろへろと弱々しく頭を抱えたり、思い切って椅子から落ちてみせる人もいた。
分厚い雲に覆われるようにして、体育館中の照明はひとつずつ消えていく。残るのは真上から射す、まばゆい光だけだ。
「ああ、そんな。このままではかぐや姫が奪われてしまう」
「帝様、いいのです。わたくしは月へと帰ります。どうか、わたくしのことを忘れないでくださいね」
涙ながらに、かぐや姫は地上を去って行く。月の世界に戻っていく。切なくて悲しいが、美しい別れの物語が完結する……。
サススポットにしずしず歩み寄っていく姿を舞台上で見つめながら、私は自問自答していた。
これでいいのだろうか。
このまま森先輩を行かせてしまって、本当にいいのだろうか。
だって森先輩はここに至るまで一度も、演技をしていない。至近距離で目が合ったとき、その目が更衣室で向き合ったのとまったく変わらないことを知って、ようやく思い至った。
彼女にとって、これは『竹取物語』なんかじゃない。最初から最後まで、徹頭徹尾、自分自身のお話だったのだ。
そもそも森先輩がビラを撒いた理由を、私ははき違えていた。
他のレプリカを探して、情報を仕入れるためじゃない。あのビラでは同じ立場の存在なんて見つかるどころか、却って警戒されるだけだ。アキくんがそうだったように。
そうじゃなかった。
彼女は、ずっと。
『さぁ、かぐや姫。天の羽衣を受け取りなさい』
サススポットと重なるように、薄桜色の布がひらひらと下りてくる。
天井からつり下げられる、雪かごと呼ばれる道具がある。引き綱を引くと、中に入れた紙吹雪を舞わせることができるそうだが、今回は紙吹雪だけではなく、その上部に衣を引っかけていた。演劇部が六月の公演で使ったという羽衣だ。
世界文化遺産として登録された三保の松原に伝わる『羽衣伝説』。美しい舞を披露して、天界に帰っていった天女。その伝説は、どこか『竹取物語』に通ずるものがある。
森先輩が、紙吹雪と共に降ってきた羽衣を受け取ろうとする。
「噓つき!」
その手が、びくりと震えた。
先輩は、羽衣を取り損ねた。透き通るような薄桜色の衣が、床に落ちる。
彼女が振り返った。信じられないものを見るような目が、私を捉える。それどころか舞台上にいる演者全員が、一様にぽかんとして私を見つめている。
当たり前だった。ここで媼が声を上げるなど、台本のどこを読んでも書いていないのだ。
でも、みんなびっくりしすぎていて、私を止めるどころじゃない。台本を知らない観客は、固唾を吞んで舞台を見守っている。
それをいいことに、私は続けざまに叫んだ。
「このままじゃ、誰からも忘れられちゃうって分かってるくせに。誰の記憶にも残らないって知ってるくせに。物わかりがいい振りしないで!」
見開かれた目が揺れる。
誰の指示なのか、私にスポットライトが当たる。まぶしくて目がくらむ。
大事な劇の最中に、何をやってるんだと思う。
でも、開き直って踏ん張った。両の足で床を摑んで、息を吸う。肺が膨らんでいく。
腹式呼吸に関しては、私はもはや、プロ並みだと思う。
「あなたの言葉で、教えてください!」
私の全身全霊の声が、びりびりと体育館を震わせる。
気がついたのだ。あのビラに書かれたドッペルゲンガーは、彼女自身を指していたのだと。
森すずみじゃない。わたしはわたしだって。
他の誰でもないわたしは、ここにいるんだって。
「お願い、ですから……」
どこか茫洋とした眼差しのまま硬直した先輩の袖を、私は摑む。
かぐや姫以外の誰も、動いてはいけない。喋っちゃいけない。そんな現実をひっくり返すために、ありったけの声を振り絞る。
全速力で走ったわけじゃないのに、ぜえぜえと息を荒らげながら、私は伝えた。
「あなたが一緒にいたい人が誰なのか、ちゃんと教えて、ください」
目の前の唇がわななく。
アキくんとの出会いが、私にたくさんのことを教えてくれたように。
森先輩がりっちゃんの小説を読んで泣いたのは、両親のことを思いだしたからだ。
森すずみの、ではない。孫娘と同じ顔をした行き場のない女の子を、十三年間も大切に育ててきた両親を。
「……いいの?」
ぽつり、と消え入りそうな声で先輩は言う。その口調も、表情も、かぐや姫とは重ならない。
そこにいたのは確かに人間だった。誰かの笑顔を取り戻すために自分を犠牲にし続ける、優しすぎるひとりぼっちの女の子だった。
意思のない操り人形なんて、どこにもいない。

「本当に、いいと思う? わたし、お母さんとお父さんと一緒にいても……いいのかなぁ」
「いてください」
躊躇せず言葉を返せば、瞬きをした双眸から大粒の涙がこぼれていく。
「いて、ほしいです」
「……うん」
真っ赤に泣き腫らした先輩が、泣き笑いの表情で頷く。
泣き顔を見るのは四度目だ。きっと家では、もっとたくさん。
『……こうして媼が思いのこもった説得をしたことにより、かぐや姫は思い直したようです』
流暢なナレーションの声は、最初と異なっている。アドリブを繰りだすのは頼りの後輩だ。
『一緒に過ごした記憶もない、よく顔を知らない両親よりも、大事に育ててくれた媼と翁こそが、彼女にとって本当の両親と呼ぶべき存在だったのです。そんな三人の絆を描いた中編小説『新訳竹取物語 ~媼の綴る日々~』は、特別棟一階、文芸部室にて絶賛発売中です。価格は一冊二百円です』
りっちゃん、商魂たくましい。
『天の羽衣を受け取らなかったことにより、月からの使者も悔しそうに撤退していきました』
そして、ゆったりとした解説と、スピーカーから流れる感動的なBGMは、ここが体育館のステージで、今が演劇の真っ最中だということを私と森先輩に思いださせるのに、じゅうぶんすぎるほどの効果を発揮した。
我に返った私は真っ赤になったけれど、かぐや姫は天を仰ぎ見て、目を細めている。
「お母様、お父様も。空を見てください、夜明けですね」
「本当だ。今日もよく晴れそうだな」
傍らに来て、アドリブで応じた翁もすごい。媼はもう、無言で頷くしかできないのに。
「わたくし、これからも二人と一緒に暮らします」
そこで、こほん、とかぐや姫は咳払いをする。
「帝とは、結婚しませんけれど」
オチの一言に、観客が大いに笑う。かぐや姫は、お茶目に舌を出してみせた。
こうして『新訳竹取物語』の舞台は、幕を閉じた。
観客の前で一列に並び、役者全員で頭を下げる。
後頭部に大きな拍手を浴びながら、私の手汗は、言うまでもなくものすごかった。
なんせ私はひとりで暴走してしまった。りっちゃんや望月先輩が、たくさんの人が協力して作り上げた舞台を、台無しにしてしまったのだ。
幕が下がりきったのを確認して、観客ではなく役者一同に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい、私」
「今は余計なこと言ってないで、大道具運びだすぞ。次のグループが待ってる」
「あ、はいっ」
ドライな対応をされる。でも望月先輩の言う通りで、のんびり話している暇はない。
「それに愛川。それ、後悔してる顔じゃねぇぞ」
大慌てで、頰に触れる。望月先輩が軽やかに笑った。
「終わりよければすべてよし、だしな」
そう言うなり、先輩は率先して平台を運びに行ってしまった。
素早く解体されていく平台からは魔法が解けて、翁の家には見えなくなった。私は竹藪スチロールを片づけようとするりっちゃんに駆け寄る。
「りっちゃんも、ごめん」
「いえいえ。ライブ感あって、自分的には超楽しかったです」
それに、とりっちゃんが気恥ずかしそうにする。
「これは今だから言えますけど……媼が主人公の小説を書いて、やるせない気持ちになってたんです。好き勝手にバトルさせたくせ、結末を変えられなかったのは自分の力不足かなって」
「そんなわけ、ないよ」
そもそも森先輩の本音に気づけたのは、この舞台と、りっちゃんの小説のおかげなのだ。
「つまりですね、ハッピーエンドの『竹取物語』で大満足ってことです! っと、わわわっ」
親指を立てようとしたりっちゃんが、持ち上げたスチロールを落としかける。
軽いスチロールは二人の手のひらの上で、ぽんぽんと跳ねた。目を見交わして、私たちは笑い合ったのだった。
大道具は、協力して多目的ホールまで運んだ。大した量じゃないので、往復する必要はない。
私はまず空き教室でメイクを取る。今日はメイク落としシートが大活躍の一日だ。取り切れないのは仕方がないので、上下とも制服に着替えて教室を出た。
「タピオカいかがっすかぁ」
看板を掲げた生徒に声をかけられるが、頭を下げてやんわりと断った。今日中に売り切ろうと飲食系の出店は必死だ。
手持ち看板には大きな×印が書かれて、タピオカジュースが値下げされている。
祭の終わりが近いのを、じわじわと肌で感じる。
「いた、愛川さんっ」
その声に振り向くと、制服姿の森先輩だった。ぐいっと腕を摑まれて引っ張られる。
「ちょっとこっち来て」
何が何やら分からないまま、連れて行かれた先は美術室である。
青陵祭の喧噪や香りと無縁の部屋は、今日も埃っぽくて、油絵の具のにおいがした。
入室するなり先輩は立ち止まり、くるりと振り返った。電気をつけるのも忘れて、左手に持っていたそれを差しだしてくる。
「ついさっきね。すずみのお母さんに呼び止められて、これを渡されたの」
見せられたのは、シンプルなピンク色の封筒だ。
切手は貼られていない。宛名には丸い字で「リョウちゃんへ」とだけ書いてある。
「すずみからわたしへの手紙、部屋で見つけたんだって。早く渡すべきだったって……でもひとりじゃ怖くて読めない。なに書いてあるのか、ぜんぜん予想つかないし」
森先輩は、途方に暮れたような表情をして封筒をひっくり返す。
手紙を留める水玉模様のシールには、剝がした形跡があった。すずみ先輩のお母さんが読んだのだろう。その上で、宛先の人物に渡すべきだと判断した。
部外者の顔で観察していたら、ぎろりと睨まれた。
「これ、あなたも一緒に読むべきでしょ」
「えっ」
なにゆえに。
「だってあの人が心変わりしたのは、演劇を観たからなんだし」
断定口調で森先輩が言う。しかしタイミング的には間違いない、のかもしれない。
終盤はアドリブだらけになった演劇が、すずみ先輩のお母さんを変えたのだとしたら。
この手紙にはきっと、森先輩の迷いを消す言葉がある。
「望月先輩に安倍川花火大会で告白された件とかも、書いてあるのかも」
「ちょっと待って、なにそれ。初耳なんだけど」
しまった、声に出ていたらしい。
「……愛川さんのほうが、すずみに詳しそうじゃん。ね、一緒に読んでよ」
「でも私、早く文芸部に戻るべきかなと。あと更衣室にメイド服も取りに行かないと」
「後輩よ、生徒会長に逆らうんじゃない」
「元じゃないですか」
「生意気言わない。ほら、ここ座って」
目線と指先で指示される。横暴な先輩に、私は渋々従った。
今までの、奥歯に物が挟まったようなやり取りではない。素に近いところで話しているのが、とても自然なことのように思える。何百人もの観客に観られながら、剝きだしの言葉で向き合ったからだろうか。
「安倍川の花火って、いつだっけ。七月の終わり?」
「そうです。今年は二十四日」
シールを剝がすつま先の動きが、止まる。
「すずみが眠り始めたの、七月二十五日からなんだよね」
森先輩は何回か深呼吸をしてから、宣言する。
「じゃあ、読むよ」
封筒が開かれる。かわいらしい丸文字で書かれた文面に、私は森先輩の隣から目を落とす。
リョウちゃんへ
お元気ですか。わたしは元気です。
なんて、他人行儀すぎるかな。お久しぶりです。すずみです。
この手紙を書こうと思い立ったのは、さっき、安倍川花火大会で望月くんに告白されたからです。今までは何度書いても、リョウちゃんへのお手紙は捨ててしまっていました。何を書いても、なんだか、噓くさくなっちゃうっていうか……。
でも今なら、伝えたいことをまっすぐ書ける気がしたんだ。
というか、望月隼くんって憶えてるかな。近所に住んでる、正義感が強いくせに口が悪い男の子だよ。彼や花火大会について書くと、便箋が何枚あっても足りないのでそこはまぁ、割愛するとして。
リョウちゃん。ううん、今だけは初めて会ったあの日のように、こう呼ばせてください。
わたしのドッペルちゃん。
あの日、助けてって呼んだわたしの声に、応えてくれてありがとう。
継母がやりたくなくて泣いたわたしの代わりに、幼稚園に行こうとしてくれてありがとう。
私は結局、いやなことを押しつけちゃだめだって、あなたのあとを追いかけた。その結果、こうして離ればなれになって会えなくなっちゃった。
ドッペルちゃんはリョウちゃんになって、わたしのドッペルちゃんじゃなくなった。
だけどきっと、それが正解だったんだね。
わたしね、たまにママに隠れて、じいじとばあばと通話してるんだけど、リョウちゃんすっごく絵が上手なんだってね! 写メで送ってって頼んだけど、じいじたちスマホ持ってなかった(汗)
いつかリョウちゃんの絵を見せてほしいな。わたしは絵なんか描けないけど、リョウちゃんはどんな絵を描くんだろう。
もし会えたときは、わたしの彼氏を紹介するよ。とびきり口は悪いけどねっ(笑)
ということで、明日の朝になったらこの手紙を投函します。一緒に望月くんへの手紙も。
勘の鋭そうなリョウちゃんなら、お察しでしょうか。そうです。あんまり恥ずかしくて答えを保留にした挙げ句、手紙に告白へのお返事を託しちゃいました。
自分の情けなさに幻滅!
でもわたしね、あの日、ちゃんと継母をやったよ。最後までがんばったよ。
そのあと望月くんと、次はお姫様と王子様の役をやろう、なんて約束したんだ。望月くんらしいよね。そっちはまだ果たせてないけど、恥ずかしくてもがんばってみるね。
ちょっと頭が痛くなってきたので、初めてのお手紙はここまで。
花火からの帰り道、すごい混み具合で、他の人とぶつかって階段から落ちちゃったんだ。ほんとわたしって抜けてる。望月くんと別れたあとで良かった。(ぜったい馬鹿にされる!)
花火、リョウちゃんにも見えてたらいいのにな。
もしお返事をくれるなら、リョウちゃんのこと、わたしに教えてください。
五枚綴りの便箋を読み終えてしばらく、私も森先輩も言葉を発さなかった。
隣の人は、今、必死に頭の中を整理しようとしている。それが分かるから口を噤んだ。石膏像も空気を読んで、お喋りを控えているようだった。
黙っていると、静寂がより色濃く感じられる。廊下の光だけが、取り残された美術室の入り口を照らしている。
時計の針を見ていなかったから、一分経ったのか、十分経ったのかは定かではない。
「わたし、恋してたのか」
森先輩はしみじみと納得したように、そう呟いた。
私の脳裏には望月先輩が過ぎる。でも彼に恋をしていたのは、同じ顔の別人なのだ。
手紙に秘められた恋は、眠る彼女だけのものだ。レプリカだって、共有できない。
「誰に、ですか?」
「すずみに」
便箋を、指のはらで撫でている。爪の中はとびとびでオレンジ色になっている。顔に塗ったドーランに触ってしまったのだろう。
「この十三年間、わたしのほうがずっと、すずみに会いたかった。会いたくて、憎らしくて、愛おしくて、切ないの。これって、漫画やドラマに出てくるような恋そのものじゃない? わたしの頭の中、いつだってすずみのことでいっぱいだったんだ。呆れるくらい」
光る瞳から涙が落ちることはない。そのおかげか、先輩はとてつもなく幸せそうに見えた。
すずみ先輩は、森先輩が自身の身代わりになることなんて望んでいなかった。ただ、彼女らしく生きていてほしいと祈っていたのだ。
いつか絵を見せてほしいと願ってもいた。優しい願いだった。
そんなすずみ先輩が好きな人と交わした約束を、森先輩が拾い上げた。帝とかぐや姫として、舞台を見事に演じきったのだ。
「植物状態って、呼吸だけしてるようなイメージあるでしょ?」
無言で、頷く。
「すずみは違うの。たまに笑ってたりする。赤ちゃんみたいにか弱くて、無防備で、それなのにね、空っぽなんだって」
ようやく再会できたすずみ先輩に、きっと何度も森先輩は話しかけたのだろう。
話したいことは、本当にたくさんあったはずだ。すずみ先輩が、そう思っていたように。
「好きな音楽を聴かせて微笑んでも、隙間風が吹いたときに咳をしても、手を差しだしたら握ってくれても、それはね、すずみがそうしたくて、してるわけじゃないんだって。身体が勝手に反応してるだけで、すずみにはなんにも、届いてないんだって」
いつまで待っても、眠り続ける人からの返事はなかったのだろう。
想像する。私だったら。素直が頭を打って目覚めなくなってしまったら、やっぱり同じようにするのかな。何かせずには、いられないのかな。
それはレプリカの本能だろうか。それとも、私自身の意思だろうか。
答えはまだ分かりそうもないけれど、ひとつだけ。
「寂しいですね」
「うん」
嚙み締めるように、森先輩は頷く。
「寂しいよ、すずみ」
薄暗い美術室で、その小さすぎる声は、壁に反響するでもなく消えてしまう。私は、かき集めて、抱きしめてあげたかった。
あの日の美術室で、そうするべきだった。
森先輩は立ち上がるなり、私に向かって頭を下げる。
「ひどいこと、たくさん言ったね。ごめんね、最低な先輩で」
怒る気にはなれなかった。
でも私は遅れて立ち上がると、それっぽく怒っている顔を作ってみる。
「許すには、二つ条件があります」
「は、はい」先輩は直立不動の姿勢を取る。
「では、ひとつ目。『人間失格』の感想を教えてください」
「……そんなんでいいの?」
「私、文芸部長ですから」
威風堂々と胸を張る。
森先輩に脅されたのもあり、廃病院の次くらいに、私は『人間失格』が怖くなってしまった。怖いか、怖くないかだけでも教えてもらえたら、とっても助かる。
堪えきれなかったように先輩が笑う。
「了解しました。でも、まだ読み終わってないの。だいぶ先になってもいい?」
大歓迎の意を込め、私は首肯してみせた。
「じゃあ、二つ目は?」
「あなたの名前を教えてください」
はっきりと、先輩が息を吞む。
手紙に記されていたのが、彼女の名前なのだろう。でも直接教えてもらったわけではない。ちゃんと、目の前の人から聞きたかった。
「私は、愛川ナオっていいます。おじいさんを演じたのは、真田アキくんです」
先輩は隣に移動してきて、手のひらに漢字を書きながら教えてくれる。
「わたしはリョウ。すずみの名前は、漢字で書くと未だに涼しい、って描くの。涼の字を取って、リョウ。お母さんとお父さんがつけてくれた、わたしだけの名前」
さんずいから始まる、冷たくて美しい字。
目の前の人にぴったりの名前を、唇で辿ってみる。
「リョウ先輩、ですね」
呼べば、今まででいちばん柔らかい表情で、リョウ先輩が微笑む。
「ナオちゃん。わたしを見つけてくれて、ありがとう」
窓の閉まった美術室に、生まれたての風を呼び込むような。
その微笑は、美術室で抱きすくめられた感触よりもずっと温かかった。
「あなたに会えて、良かった」
私はその言葉が、大袈裟でなく、涙が出るほどに嬉しかった。
「わたし、富士宮の……わたしの家に帰るよ。すずみの両親ともちゃんと話す。それですずみが目を覚ますまで、辛抱強く待ち続けるんだ。だからいつか、わたしの本当のお母さんとお父さんに会いに来てくれる?」
「富士宮って、どんなものがあるんですか?」
んー、とリョウ先輩が口元に手を当てる。
「そうだなぁ。なんといっても、まかいの牧場があるよ。先輩が連れてってあげよう」
魔界の牧場。なんともおそろしげな響きだが、私は勇気を出して答えた。
「必ず、遊びに行きます」
呪われた廃病院よりも怖い場所なんて、そうそうないはずだから。
微笑めば、リョウ先輩も笑い返してくれたのだったが、私たちはほとんど同時に思いだした。
「部誌!」
時計を確認する。午後四時四十分。青陵祭が終わるまで、あと二十分しかない。
先を争うように美術室を出て、階段を下りていく。開きっぱなしのドアから飛び込むと、部室にはりっちゃんとアキくんがいた。
「ナオ先輩ようやく来たっ。部誌、売れてますよ、けっこう!」
片づけのあと直行したのだろう。まだ阿倍の右大臣様なりっちゃんが声高に言い募る。
「えっと、夢の話?」
「現実です!」
寝言ではなかった。見た目にも分かりやすく、机に並べられた部誌の冊数が減っている。
言っている間にも女の子のグループが入ってきた。私はアキくんと交代し、りっちゃんの隣に立つ。りっちゃんがお金のやり取り、私は主に部誌を渡す係だ。
部室の外まで行列ができる、ということは一度もなかったが、体育館で演劇を鑑賞した生徒や一般来場者が、帰る前に寄ってくれているらしい。
阿倍の右大臣に写真撮っていいですか、と申し出る人もちらほら。りっちゃんは照れくさそうにしながら笑顔で応じている。いちいち派手なポーズを取ってくれるので、子どもたちに大人気だ。メイド服よりも、ずっと効果てきめんである。
一度、背後の壁際から「この前はごめんなさい」というリョウ先輩の声が聞こえてきた。振り返ってみたらアキくんが愁眉を開いていたので、ほっとした。
そうして迎えた、午後四時五十八分。
「残り二冊、ですね」
と、りっちゃんが震え声で言った。
刷ったのは、全体で百五冊。五冊は部員や部室で保管する分なので、別に取ってある。
売り上げ百冊達成まで、あとたった二冊。しかしこの絶体絶命の局面で、完全に客足が途絶えてしまった。校内に残っている来場者自体、ほぼいないだろう。
文芸部三人、顔を見合わせる。
「ここまで売れたら、いいってことにしてもらえますかね」
「誤差の範囲内だな」
「だよね」
それっぽく話すものの、全員の顔色が悪い。
間もなく青陵祭は終わる。終わってしまう。九十八冊は四捨五入すれば百冊だけれど、そんなおまけをしてもらえるのだろうか。
そこに救世主が現れた。
「二百円、だよね?」
ポケットを探ったリョウ先輩が、カウンター代わりの長机の前に立ったのだ!
「はわ」
りっちゃんは、変な返事をして銀色の硬貨を受け取っている。
「ほわ」
手渡す私も同じだった。極限状態すぎて、お礼の言葉がうまく出てこない。
あと一冊。あと一分。ううん、もう二十秒、切ってる。
頭皮から汗が、ぶわぶわ出ている。めまいがしてくる。気を抜いたら倒れちゃいそう。
間もなくスピーカーから、青陵祭終了を告げるアナウンスが……。
「僕も一冊、頼む」
そんな文芸部室に息せき切って駆け込んできた人物がいた。
「望月せんぱぁい!」
三人の声はぴったりと合った。
最後の一冊を渡すのと同時、青陵祭終了のアナウンスが校内に流れだした。本日は第十七回青陵祭にご来場いただき、誠にありがとうございました。お帰りの際は、お忘れ物のございませんよう、足元にお気をつけてお帰りください。生徒の皆さんは、このあと十七時三十分より、体育館にて後夜祭が始まるので……。
とてもじゃないが大人しく、耳を傾けてはいられない。
両手を握り合った私とりっちゃんは、その場にへなへなと座り込んだ。
「う、売れた」
四捨五入する必要はない。これでぴったり、百冊だ。
「文芸部の皆さん、よくがんばりました」
涙目の私たちを見下ろして、リョウ先輩はにこにこしている。
「それじゃあ、廃部の件は」
「しっかり先生たちに話すよ。もう実績のない部なんて言えませんよね、って。ここから先は、生徒会長に任せなさい」
元だけどね、とリョウ先輩が屈託なく笑った。力強い宣言だった。
「わたしは先に体育館向かうね。お疲れ様会の支度しないとだから」
リョウ先輩は時計を確認し、慌ただしく出て行こうとする。
後期生徒会への引き継ぎは済んでいるが、お疲れ様会で前会長が挨拶をして、新会長にマイクを手渡すのは鉄板となっている。
「森、ひとつだけいいか」
そんなリョウ先輩を、望月先輩が呼び止める。
「望月くんごめん、今は時間ないから」
「聞いてくれ。演劇が成功したら、もういちど言おうと思ってたんだ」
思わせぶりな物言いに、リョウ先輩が足を止める。
頰を赤くした望月先輩が、すぅ、と大きく息を吸い、一気に吐きだした。
「前に伝えた通り、僕は森のことが好きだっ。だから、へ、返事を聞かせ」
「ごめんなさい!」
ギャラリーが色めき立つ暇もなく、リョウ先輩は頭を下げていた。
絶句する私たち以上に、度肝を抜かれたのは望月先輩だろう。
「好きな人がいるの。望月くんとは、付き合えません」
望月先輩の顔が、紙のように薄く、白くなっていく。
そんな絶望的な数秒間のあと、リョウ先輩はぺろっと舌を出してみせた。
「……なーんてね。安心して、すずみの答えは違うと思うよ」
「え? は? うん? すずみ?」
「お疲れ様会が終わるまで、待っててよ。望月くんに話したいことあるんだよね」
じゃあね、と駆けだしていく。奔放な背中を、誰も呼び止めることはできなかった。
「いや、わけわからないな、あいつ」
置いて行かれた望月先輩は呆然としている。
「部室でまたラブコメされた、だと……?」
りっちゃんは変なところに衝撃を受けているが、一部始終がラブコメディだったかは微妙だ。
私にだけは分かっている。さっきのは、すずみ先輩が大好きなリョウ先輩からの、望月先輩への意地悪だ。失恋のしっぺ返しとしては、望月先輩には手痛かったかもしれないが。
お疲れ様会が終わったら、すべての事情をリョウ先輩は話すつもりなのだろう。
惚けていた望月先輩だが、ぎりぎりのところで気持ちを立て直したらしい。
「ええとさ。二月にも、如月公演っていうのがあるんだ」
私は小首を傾げた。望月先輩は、今回の青陵祭公演を最後に引退する予定だったはずだ。
「来年は静岡市民文化会館でやるから、移動も楽。僕ひとりなら見送ってたが、後輩が参加するなら別だと思ってな」
こほん、と望月先輩が咳払いをする。
「つまりさ。……お前ら、このまま演劇部入らねえ?」
それは不器用すぎる先輩からの、勧誘だったらしい。
顔を見合わせて会議をすることはなかった。横に並んで、文芸部一同は頭を下げる。
「すみません」
百冊の部誌を売り切って、改めて感じた。この狭くて、大してきれいでもない部室が、どれほど心地いい場所なのか。
出しっぱなしの扇風機。転がっているボールペン。
創刊号から保管された部誌だらけの段ボール箱。赤井先生が窓際に並べていったカエルのフィギュア。あんまり興味の湧かないジャンルの本とか。
そういうものに囲まれて、私はまた、次の一冊を読みたい。隣にはアキくんがいて、向かいにはりっちゃんがいてほしい。
「そっか。残念だけど、仕方ないな」
望月先輩は苦笑しただけだった。問う前から返事は予想していたのだろう。そもそも百冊目を買って文芸部を救ってくれたのは、他でもない彼なのだ。
「でも本当に楽しかったです、演劇」
それは心からの気持ちだった。最初は不安でいっぱいだったのに、今となっては充足感と、まだ続けていたかったという物足りない感じが、胸の中で渦を巻いている。
「自分も、最高に楽しかったですっ」
りっちゃんが満面の笑みを見せれば、「俺も」とアキくんが小声で同意する。
「それなら、僕的には満足だ」
腕を組んだ望月先輩は重々しく頷いてから、朗らかに言う。
「お疲れ様でした」
私もまた、多目的ホールで何度もそうしたように、同じ言葉を口にして頭を下げた。
それが演劇部としての、最後の挨拶だった。
望月先輩はそのまま体育館に向かうそうなので、私たちは部室の前で別れた。
りっちゃんはいったんクラスの様子を見に行くという。私とアキくんもそうすることにしたが、道中の会話はなかった。それくらいお互い疲れていた。
廃病院で、『竹取物語』で、部誌で、てんてこ舞いの一日だったのだ。疲労を認識した身体は現金なことに、とたんにずっしり重くなっていた。
忙しい一日だった。私の人生史上、最も長い一か月でもあった。
人気のない渡り廊下は夕暮れに染まっていて、くるぶしを包む気温は緩やかで、このままここで横になりたい、なんて思ってしまう。
「ナオ」
振り返るのも億劫だったが、響きの切実さが私の首を動かした。
呼び止めてきたアキくんは、難しい顔をしている。見た覚えがある。どこだっけ。つい最近、どこかで。
記憶を漁っているうちに顔が近づいてきて、何かが鼻筋にちょんと触れて、ぱっと離れた。
……ん?
私はしばらくきょとんとしていた。何が起こったのかよく分からなかった。
何事もなかったように、アキくんは歩きだしている。
「クラス、片づけ終わってっかな」
んん?
そのあともアキくんは、頭をかきながらごにょごにょ言っている。聞き取りづらい。発声練習の成果がさっぱり出ていない。
「でさ、クラスの片づけ、そろそろ終わったよな」
壊れたCDみたいに、同じことを繰り返している。
言わないほうがいいだろうか。でも、やっぱり。
「ね、アキくん」
「なに」
「今さ、キス、失敗した?」
ぴたっとアキくんが立ち止まった。一向にこっちを見ない。
「失敗じゃない。狙い通りの位置だった」
「私の鼻にキスしたかったの?」
「理論上はそうなる」
正面に回り込んで、自分の鼻先をちょんとつついてみる。
「鼻、そんなに好き?」
「好きだけどさぁー」
アキくんはとうとう頭を抱えて座り込んでしまった。
廊下に影が伸びる。ぶるぶるしている。男の子のプライドを傷つけてしまったかもしれない。
でも私は、気になることは気になると、声を大にして言いたい派なのだ。
「それと、水族館でもキスしようとしてた?」
悶えるアキくんのうなじが、汗をかいている。
「許してください。ごめんなさい」
ぐすっ、と洟をすする音がした。なんだか私が泣かせたかのようだ。さすがに本気で泣いているわけじゃないだろうけど、アキくんの泣き真似は、かわいそうでかわいい。
おばけ屋敷、暗いからさ。キスとかされちゃうかもよ。
佐藤さんの言葉が、頭の中で再生される。
私が思い当たる以上に、チャンスは何度もあったはずだ。怯えた私を気遣って、アキくんが遠慮していただけで。
挫けずタイミングを見計らってくれたのに、あえなく撃沈しちゃった。
私は両膝を抱えるようにしゃがんで、そんな恋人の耳元にひそひそした。
「じゃあ、もういっかい、して?」
気になることは気になると、声を潜めてでも言いたい派だから。

静かになったアキくんが顔を上げた。目が合うだけで、鎖骨から全身に甘いしびれが走る。
「ちゃんとアキくんと、したい」
ばくばくばく、って大騒ぎ。
心臓の音が激しすぎて、自分の声すらよく聞こえなかったけれど、アキくんには届いたようだった。男らしい喉仏が上がったのが、返事になっている。
「いい?」
「……いいよ」
この期に及んで確認なんてもどかしい。
髪の一房を、アキくんの手が絡め取る。まだ唇じゃないのに、触れられるだけで全身の産毛がぞわぞわする。
頰に当たる吐息の熱っぽさを感じて、私の呼吸は止まった。
重なっていく輪郭は、今度こそ、辿り着くところを間違えたりしない。
「あっ、こんなとこにいた。お二人さん、もうお疲れ様会始まっちゃうぞー」
間違えるより早かった。
私とアキくんは、ばばっとお互いから顔を背けた。
示し合わせたわけでもないのに、どうやらきれいに背中合わせになっていたらしい。
「なにそれ? どゆ遊び?」
能天気に角を曲がってきた吉井くんを、アキくんは一度だけぽかっと殴っていた。
「なんでぇっ」
忘れられない文化祭になった。
そんな感じで、最後まで事件だらけだった青陵祭。
その締めくくりとなるお疲れ様会が、体育館にて始まろうとしていた。
黒いワイヤレスマイクを手に、壇上へと上がるリョウ先輩の表情はどこか晴れ晴れしい。
ステージとして働き通しだった体育館には、演台が戻されていない。そのおかげで、まっすぐ歩く姿が何物にも遮られずによく見える。
他のクラスに倣い、いつも全校集会で並んでいるあたりに一組の面々は固まって座っていた。
まともに整列している人はいない。後片づけが間に合わなかったクラスは、代表者だけ駆けつけたようだ。一年五組のあたりを見たら、友達と話しているりっちゃんの後頭部を発見した。
私の前は小道具班で、後ろには吉井くんたちがいる。そのさらに後ろにアキくんがいる。こんな目立つところで分かりやすく二人でくっつくのは、けっこう難易度が高いのだ。
欠伸を堪えたり、最優秀賞の予想を挙げたりして、誰もが真面目さとはほど遠い。でもみんな意識の半分くらいを傾けて、元生徒会長の声を聞いていたのだと思う。
ちゃんと、聞いていたのだと思う。
「皆さんご存じの通り、青陵祭は、前生徒会と新生徒会が協力して運営する行事です。このイベントを一丸になって乗り越えて、わたしたちはようやく引退のときを迎えます。新生徒会にとっては、小姑みたいな存在だったかもしれませんが」
茶目っ気たっぷりにリョウ先輩が言うと、前方で笑いが起きた。左前方で先生たちと一緒に並ぶ生徒会の面々は、顔の前で手を横に振っている。望月先輩の姿もある。
そのとき、体育館を見回していたリョウ先輩の目が、私を見つけた。
軽くウィンクをしてくる。私はお返しにふざけて肩を竦めてみせた。ほんの一瞬、きっと他の誰にも読み取れない挨拶を交わす。
白い歯をこぼすみたいに破顔して、リョウ先輩は続ける。
「こうして青陵祭を、大きな事故もなく乗り越えることができたのは、先生方、実行委員の皆さん、地元の皆さま、そして何よりも全校生徒の皆さ」
がきぃん!
落下音と混じった強すぎるハウリング音に、鼓膜を殴りつけられた。
とっさに目を閉じて耳を塞いだり、俯いた生徒がいた。私も思わず耳に手をやっていた。
三秒後に片目で壇上を眺めると、マイクが落ちていた。ハウリングの出所はそれだった。小さな赤いランプを灯したまま、体育館の冷たい床に跳ね返って転がったようだ。
その近くに奇妙なオブジェがあった。
それは、制服でできていた。
茎が折れた花のように広がったスカートの上に、折り重なるようにして、ブラジャーが、長袖のシャツが、ワインレッドのリボンが、ブレザーが散らばっている。
するりと縄抜けをしたような。
身にまとっていたすべてを脱いで誰かが消えてしまったような、その不気味さに覚えがある。
素直と行った実験。呼びだされた私が、服を着替えてから消されると、着る人がいなくなった洋服だけがその場に残る。目の前の光景は、それと酷似していた。
でも体育館のどこにも、オリジナルのすずみ先輩はいない。そもそも彼女は眠り続けていて、リョウ先輩を自由に消したり呼んだりできる状態ではない。
その事実が意味するのは。
「もりりん会長?」
奇妙なほど、誰かの呼び声が大きく響く。
混乱は広がっている。生徒の多くは状況を把握できていなかった。マジックか何かかと思った人もいたようで、囃し立てるような手拍子が聞こえたが、それもざわめきの中に溶けていった。数十秒が経過しても、種明かしがないからだ。
何人かが立ち上がり、どこかにリョウ先輩が隠れていないかと辺りを見回す。
生徒会顧問の若い先生が教頭たちと何かを話し、予備のマイクの電源を入れる。また小さなハウリングが起きる。
転がるマイクは電源が入ったまま。誰も、壇上には近づこうとしない。
みんな、とりあえず落ち着いて。一クラスずつ教室に戻って、帰宅の準備をしなさい。表彰については後日発表します。繰り返します。
先生たちに誘導されるまま立ち上がり、生徒は出入り口に向かってぞろぞろと歩きだす。
わざとゆっくりとした速度で歩くアキくんが、距離を置いて隣に並んだ。
「ねぇ、アキくん」
「うん」
「オリジナルの心臓が止まったら、レプリカは」
息が詰まって、それ以上は言葉にできなかった。したくなかった。
「もりりん先輩、マジック失敗して異空間に飛ばされたりしてないよな。大丈夫だよな」
前を歩いている。ちっともふざけていない吉井くんの呟きが、耳にこびりついて離れなかった。