ブザーが鳴る。

 たいの幕が上がる。えんいろのカーテンが開いていけば、手をたたく音がまばらにひびく。

 マイクを通したナレーターの声が体育館にひびく。

『昔々、あるところに、竹取のおきなと呼ばれる老人が住んでいました。彼は竹を切って持ち帰ると、かごやざるを器用に作り、それを売って生活していました。彼の名前は、さぬきのみやつこといいます』

 すべりだしは練習より早口だったが、すぐに落ち着きをもどす。

 朗々と語られるたいに登場するのは、アキくん演じるおきなだ。しもから出てきた彼は、段ボールで作られたなたを手に、気負わない足取りで進み出ていく。

 絵にかれたたけやぶの中に、一本だけ光る竹がある。最初に見つかったときのひめは三寸、現在でいう九センチほどの大きさだったというから、この場面ではもちづきせんぱいが手作りした人形がかつやくする。

 かぐやひめにんぎようには、ちゃんとかわいらしいがおがある。のっぺらぼうだったのを、もりせんぱいがかわいそうだと言ったので、あとから目や鼻をもちづきせんぱいしゆうしたのだ。

「うわぁっ、びっくりした。まさか光る竹から、こんなにかわいいあかぼうが出てくるなんて」

 アキくんは練習通りに台詞せりふを口にしている。最初の読み合わせのときより、だいぶ自然な演技だ。とてもペットボトルに前歯をぶつけた人と同一人物とは思えない。

 そんな彼の声を、私はといえばたいのほぼ真ん中でせんたくものたたみながら聞いていた。

『新訳竹取物語』にめんてんかんはない。客席から見て左側、つまりしもがわに、つなわせたスチロールにえがかれたたけやぶが広がり、中央のおきなの家は平台によって表現されている。その位置関係を分かりやすく観客に伝えるため、私は最初から登場していたのだった。

 もちづきせんぱいに指示された当初は、いやがらせかと疑ってしまった。いざ本番をむかえると、ミリをチェックするゆとりもなかっただろうから、これが正解だった気もする。

 ミリ用のちつこうテープは、主に暗転時、予定通りの位置にセットを置く目印に使う。今回はめんてんかんがないので、役者の立ち位置や移動先を教えてくれるアイテムとして機能していた。リハーサル時、そこみって、次ここみって、と言いながらもちづきせんぱいが歩き回っていたので、私も覚えてしまった。

 ややげんじつとうしていても、たいは進行中。

 せんたくものをせっせとたたむ手が小刻みにふるえている。がんばれ私。

「さて、この子を連れて家に帰ろう。ばあさんはおどろくにちがいない」

 お人形のかぐやひめを大事そうにいて、おきなが家にもどってくる。私はそれをむかえる。

 最初の台詞せりふかんじんだ。この一言で、すべてが決まると言っても過言ではない。がんばれ私!

 たいじようで向かい合うアキくんは、いんえいくて鼻が高い。たいメイクの効果が出ている。

「ただいま。ところでばあさん見てくれ。竹からこの子が出てきたんだ」

「まぁおじいさん。なんでしゅ、このかわいい女の子は」

 うわああ!

 さっそくんじゃった私に、客席で小さな笑いが起きる。好意的な笑いではあったが、そういう問題ではない。しゆうにやられ、いつしゆん身体からだがってしまった。

 それまではあまり観客の目を意識せずに済んでいたけれど、当たり前ながら私は大勢の人に見られているのだ。みんな息をひそめて、じっとたいを見守っていたのだ。

 もしかしたらとうさんやよしくんが、それになおの友達が、そして名前も知らない人たちだって席に並んでいる。おそすぎる実感を覚えるにつれ、指先がぴりぴりする。

 あんなに練習を重ねたのに、そのあとの台詞せりふも会心の出来とは言いがたく、私は内心とぼとぼと、表面上は予定通りにたいそでに下がった。

 そでうらでは、おうちしたもちづきせんぱいが待ち構えていた。といっても私に説教するためではないだろう。単純に、座長である彼はたいの様子をここから見ているのだ。

「ごめんなさいもちづきせんぱい

 謝ると、みかどらしいころもを着たもちづきせんぱいが目をしばたたかせる。

 それから、ああ、と思いだしたようにうなずくと「いいんじゃないか。ウケてたし」と評する。

 そういうものだろうか。座長が言うなら、そうなのだと信じたい。私はしょんぼりしつつ、次の出番に備えてせんぱいの後ろからたいを見つめた。

 月日はめぐり、かぐやひめは数か月という短い期間で大人の女性へと成長していく。そんなナレーションに応じてたいに姿を見せるのは、もりせんぱい演じるかぐやひめだ。

 彼女が登場したら、そうすると決めていたのだろう。前の席に並んでいた三年の女子がいつせいに「もりりーん」と呼びかける。声を合わせるための、せーの、も聞こえていた。

 もりせんぱいは返事こそしなかったが、かぐやひめらしいしとやかな微笑ほほえみで応じてみせた。客席のあちこちから、きれー、とかんたんの声が上がる。

 そんな一幕もあったが、たいはつつがなく進行していく。

 特に盛り上がったのが、りっちゃんこだわりのバトルシーンだ。

「かぐやひめたかる虫けらどもめ。仏のいしはちで、お前たちの頭をたたき割ってやる!」

「なんだと。ならばこちらは、ほうらいの玉の枝でつぶしして応戦だ」

「なんてばんな者たちだ、全員に火をつけて燃やそう。私はねずみかわごろもがあるから安心だ!」

「お前のほうがばんだ。りゆうの首の玉で首をめてやる」

「ええと、わしはつばめやすがいで……ど、どうすればいいかのう」

 笑いをさそいながらひろげられる、五人のきゆうこんしやによるバトル。かぐやひめけつこんしたい一心の彼らは、せっかくの宝物を使ってなぐうというれつぶりを見せつける。

 派手なスポットライト演出、ノリノリのバトルBGMに盛り立てられ、観客はびようをしてたいに見入っている。

 そこを一刀両断するのがかぐやひめの言だ。きゆうこんしやたちはたった一言でうそを暴かれていき、全員がむなしく散っていく。最後に残るのは、切なそうなかぐやひめひとりだ。

 かぐやひめはどこにもとつぎたくないと主張する。そんな彼女にみかどが目をつける。第一印象こそ最悪だが、少しずつかれい、文をわすようになる。

 それでも変わらず、かぐやひめおきなしきで日々を過ごす。おきなおうなは、三人で暮らすことこそいちばんの幸せなのだと感じるようになっていく。だがかぐやひめにはある秘密があった。

「おじいさん、おばあさん。わたくしは月からやって来たのです。わたくしは、ずっと地上にいたい。でも、どうしても、月に帰らなくてはならないのです」

「そんな……」

 おきなは面食らって、二の句をげずにいる。おうなこんわくあらわに言う。

「まぁ、かぐやひめ。どうして急に、月に帰るだなんて言うの」

「わたくしは、月の都の者なのです。満月の夜、月からの使者がわたくしをむかえに来るでしょう。のがれることはできません」

 おきなのどふるわせる。

「かぐやひめ。お前を光る竹の中に見つけてから、大事に大事に育ててきた。こうして立派に大きくなって、どれほど幸せだったことか。それなのにとつぜんうばわれるなんて許せるわけがない。なんとしてもお前を守ってみせるぞ」

「わたくしだって、おじいさんとおばあさんのそばにいたいけれど……、何をしようと、月の住人たちにはかなわないのです」

 かぐやひめと、目と目が合う。

 れたその目と見つめ合ったとき、私の胸に、ある種のひらめきが宿った。

 だが、たいの上では何も言えない。今の私はおうななのだ。口にできるのは台本にある台詞せりふか、ちょっとしたアドリブだけ。

 何もかもあきらめたようなかぐやひめの発言だったが、おきなの心には火がついた。みかどたのみ、かぐやひめをどうか守ってほしいとこいねがう。

 みかどは軍勢を引き連れて、月からの使者に立ち向かう。もちづきせんぱいふんするみかどは、客席に向かって勇ましく呼びかける。

ゆうかんなる大和やまとの若者たちよ、全員の力を合わせてかぐやひめをお守りするのだ。ひめを、月からの使者なぞにわたしてはならん! そうであろう!」

 なぜみかどはこちらを熱く見つめるのか、とまどう観客は、そこで気がつかされる。いつの間にか照明がついていて、観客たち全員の姿が明るく照らされているのだ。体育館全体が決戦のたいとなり、彼らは、みかどが用意したいつとうせんの兵士へとへんぼうしていた。

 みかどあおれば、観客はこぶしげて応じる。かぐやひめを守ろうと、全員の意志が結集する。

 そうして満月の夜におとずれる月からの使者は、真上からのサススポットによって表現される。

おろかな人間たちよ。ひれしなさい』

 月からの使者の声は、ナレーションがねる。姿はなく、エコーがかった天からの声として演出することで、人間ではかなうべくもないものだと痛感させるのだ。

 役者不足による苦肉の策だったはずが、その演出はぴったりとまっている。

「くっ、なぜだ。この光を見て、この声を聞くと、全身から力がけていくぞ」

 みかどが力なくたおれる。兵士となった観客たちもまた、へろへろと弱々しく頭をかかえたり、思い切ってから落ちてみせる人もいた。

 分厚い雲におおわれるようにして、体育館中の照明はひとつずつ消えていく。残るのは真上からす、まばゆい光だけだ。

「ああ、そんな。このままではかぐやひめうばわれてしまう」

みかどさま、いいのです。わたくしは月へと帰ります。どうか、わたくしのことを忘れないでくださいね」

 なみだながらに、かぐやひめは地上を去って行く。月の世界にもどっていく。切なくて悲しいが、美しい別れの物語が完結する……。

 サススポットにしずしず歩み寄っていく姿をたいじようで見つめながら、私は自問自答していた。

 これでいいのだろうか。

 このままもりせんぱいを行かせてしまって、本当にいいのだろうか。

 だってもりせんぱいはここに至るまで一度も、演技をしていない。きんきよで目が合ったとき、その目がこうしつで向き合ったのとまったく変わらないことを知って、ようやく思い至った。

 彼女にとって、これは『竹取物語』なんかじゃない。最初から最後まで、てつとうてつ自分自身のお話だったのだ。

 そもそももりせんぱいがビラをいた理由を、私ははきちがえていた。

 他のレプリカを探して、情報を仕入れるためじゃない。あのビラでは同じ立場の存在なんて見つかるどころか、かえってけいかいされるだけだ。アキくんがそうだったように。

 そうじゃなかった。

 彼女は、ずっと。

『さぁ、かぐやひめ。天のごろもを受け取りなさい』

 サススポットと重なるように、うすざくらいろの布がひらひらと下りてくる。

 てんじようからつり下げられる、雪かごと呼ばれる道具がある。づなを引くと、中に入れたかみ吹雪ふぶきわせることができるそうだが、今回はかみ吹雪ふぶきだけではなく、その上部にころもを引っかけていた。演劇部が六月の公演で使ったというごろもだ。

 世界文化遺産として登録されたまつばらに伝わる『ごろも伝説』。美しいまいろうして、天界に帰っていったてんによ。その伝説は、どこか『竹取物語』に通ずるものがある。

 もりせんぱいが、紙吹雪と共に降ってきたごろもを受け取ろうとする。

うそつき!」

 その手が、びくりとふるえた。

 せんぱいは、ごろもそこねた。とおるようなうすざくらいろころもが、ゆかに落ちる。

 彼女がかえった。信じられないものを見るような目が、私をとらえる。それどころかたいじようにいる演者全員が、一様にぽかんとして私を見つめている。

 当たり前だった。ここでおうなが声を上げるなど、台本のどこを読んでも書いていないのだ。

 でも、みんなびっくりしすぎていて、私を止めるどころじゃない。台本を知らない観客は、かたんでたいを見守っている。

 それをいいことに、私は続けざまにさけんだ。

「このままじゃ、だれからも忘れられちゃうって分かってるくせに。だれおくにも残らないって知ってるくせに。物わかりがいいりしないで!」

 見開かれた目がれる。

 だれの指示なのか、私にスポットライトが当たる。まぶしくて目がくらむ。

 大事な劇の最中に、何をやってるんだと思う。

 でも、開き直ってった。両の足でゆかつかんで、息を吸う。肺がふくらんでいく。

 腹式呼吸に関しては、私はもはや、プロ並みだと思う。

「あなたの言葉で、教えてください!」

 私のぜんしんぜんれいの声が、びりびりと体育館をふるわせる。

 気がついたのだ。あのビラに書かれたドッペルゲンガーは、彼女自身を指していたのだと。

 もりすずみじゃない。わたしはわたしだって。

 他のだれでもないわたしは、ここにいるんだって。

「お願い、ですから……」

 どこかぼうようとしたまなしのままこうちよくしたせんぱいそでを、私はつかむ。

 かぐやひめ以外のだれも、動いてはいけない。しやべっちゃいけない。そんな現実をひっくり返すために、ありったけの声をしぼる。

 全速力で走ったわけじゃないのに、ぜえぜえと息をあららげながら、私は伝えた。

「あなたがいつしよにいたい人がだれなのか、ちゃんと教えて、ください」

 目の前のくちびるがわななく。

 アキくんとの出会いが、私にたくさんのことを教えてくれたように。

 もりせんぱいがりっちゃんの小説を読んで泣いたのは、両親のことを思いだしたからだ。

 もりすずみの、ではない。まごむすめと同じ顔をした行き場のない女の子を、十三年間も大切に育ててきた両親を。

「……いいの?」

 ぽつり、と消え入りそうな声でせんぱいは言う。その口調も、表情も、かぐやひめとは重ならない。

 そこにいたのは確かに人間だった。だれかのがおもどすために自分をせいにし続ける、やさしすぎるひとりぼっちの女の子だった。

 意思のないあやつり人形なんて、どこにもいない。

「本当に、いいと思う? わたし、お母さんとお父さんといつしよにいても……いいのかなぁ」

「いてください」

 ちゆうちよせず言葉を返せば、まばたきをしたそうぼうからおおつぶなみだがこぼれていく。

「いて、ほしいです」

「……うん」

 真っ赤にらしたせんぱいが、泣き笑いの表情でうなずく。

 泣き顔を見るのは四度目だ。きっと家では、もっとたくさん。

『……こうしておうなが思いのこもった説得をしたことにより、かぐやひめは思い直したようです』

 りゆうちようなナレーションの声は、最初と異なっている。アドリブをりだすのはたよりのこうはいだ。

いつしよに過ごしたおくもない、よく顔を知らない両親よりも、大事に育ててくれたおうなおきなこそが、彼女にとって本当の両親と呼ぶべき存在だったのです。そんな三人のきずなえがいた中編小説『新訳竹取物語 ~おうなつづる日々~』は、とくべつとう一階、文芸部室にて絶賛発売中です。価格は一冊二百円です』

 りっちゃん、しようこんたくましい。

『天のごろもを受け取らなかったことにより、月からの使者もくやしそうにてつ退たいしていきました』

 そして、ゆったりとした解説と、スピーカーから流れる感動的なBGMは、ここが体育館のステージで、今が演劇の真っ最中だということを私ともりせんぱいに思いださせるのに、じゅうぶんすぎるほどの効果を発揮した。

 我に返った私は真っ赤になったけれど、かぐやひめは天をあおて、目を細めている。

「お母様、お父様も。空を見てください、夜明けですね」

「本当だ。今日もよく晴れそうだな」

 かたわらに来て、アドリブで応じたおきなもすごい。おうなはもう、無言でうなずくしかできないのに。

「わたくし、これからも二人といつしよに暮らします」

 そこで、こほん、とかぐやひめせきばらいをする。

みかどとは、けつこんしませんけれど」

 オチの一言に、観客が大いに笑う。かぐやひめは、お茶目に舌を出してみせた。

 こうして『新訳竹取物語』のたいは、幕を閉じた。

 観客の前で一列に並び、役者全員で頭を下げる。

 後頭部に大きなはくしゆを浴びながら、私のあせは、言うまでもなくものすごかった。

 なんせ私はひとりで暴走してしまった。りっちゃんやもちづきせんぱいが、たくさんの人が協力して作り上げたたいを、台無しにしてしまったのだ。

 幕が下がりきったのをかくにんして、観客ではなく役者一同に向かって頭を下げる。

「ごめんなさい、私」

「今は余計なこと言ってないで、大道具運びだすぞ。次のグループが待ってる」

「あ、はいっ」

 ドライな対応をされる。でももちづきせんぱいの言う通りで、のんびり話しているひまはない。

「それにあいかわ。それ、こうかいしてる顔じゃねぇぞ」

 おおあわてで、ほおれる。もちづきせんぱいかろやかに笑った。

「終わりよければすべてよし、だしな」

 そう言うなり、せんぱいそつせんして平台を運びに行ってしまった。

 ばやく解体されていく平台からはほうが解けて、おきなの家には見えなくなった。私はたけやぶスチロールを片づけようとするりっちゃんにる。

「りっちゃんも、ごめん」

「いえいえ。ライブ感あって、自分的にはちよう楽しかったです」

 それに、とりっちゃんがずかしそうにする。

「これは今だから言えますけど……おうなが主人公の小説を書いて、やるせない気持ちになってたんです。好き勝手にバトルさせたくせ、結末を変えられなかったのは自分の力不足かなって」

「そんなわけ、ないよ」

 そもそももりせんぱいの本音に気づけたのは、このたいと、りっちゃんの小説のおかげなのだ。

「つまりですね、ハッピーエンドの『竹取物語』で大満足ってことです! っと、わわわっ」

 親指を立てようとしたりっちゃんが、持ち上げたスチロールを落としかける。

 軽いスチロールは二人の手のひらの上で、ぽんぽんとねた。目をわして、私たちは笑い合ったのだった。


 大道具は、協力して多目的ホールまで運んだ。大した量じゃないので、往復する必要はない。

 私はまず空き教室でメイクを取る。今日はメイク落としシートがだいかつやくの一日だ。取り切れないのは仕方がないので、上下とも制服にえて教室を出た。

「タピオカいかがっすかぁ」

 看板をかかげた生徒に声をかけられるが、頭を下げてやんわりと断った。今日中に売り切ろうと飲食系の出店は必死だ。

 手持ち看板には大きな×印が書かれて、タピオカジュースが値下げされている。

 祭の終わりが近いのを、じわじわとはだで感じる。

「いた、あいかわさんっ」

 その声にくと、制服姿のもりせんぱいだった。ぐいっとうでつかまれて引っ張られる。

「ちょっとこっち来て」

 何が何やら分からないまま、連れて行かれた先は美術室である。

 せいりようさいけんそうや香りとえんの部屋は、今日もほこりっぽくて、油絵の具のにおいがした。

 入室するなりせんぱいは立ち止まり、くるりとかえった。電気をつけるのも忘れて、左手に持っていたそれを差しだしてくる。

「ついさっきね。すずみのお母さんに呼び止められて、これをわたされたの」

 見せられたのは、シンプルなピンク色のふうとうだ。

 切手はられていない。あてには丸い字で「リョウちゃんへ」とだけ書いてある。

「すずみからわたしへの手紙、部屋で見つけたんだって。早くわたすべきだったって……でもひとりじゃこわくて読めない。なに書いてあるのか、ぜんぜん予想つかないし」

 もりせんぱいは、ほうに暮れたような表情をしてふうとうをひっくり返す。

 手紙をめる水玉模様のシールには、がしたけいせきがあった。すずみせんぱいのお母さんが読んだのだろう。その上で、あてさきの人物にわたすべきだと判断した。

 部外者の顔で観察していたら、ぎろりとにらまれた。

「これ、あなたもいつしよに読むべきでしょ」

「えっ」

 なにゆえに。

「だってあの人が心変わりしたのは、演劇をたからなんだし」

 断定口調でもりせんぱいが言う。しかしタイミング的にはちがいない、のかもしれない。

 しゆうばんはアドリブだらけになった演劇が、すずみせんぱいのお母さんを変えたのだとしたら。

 この手紙にはきっと、もりせんぱいの迷いを消す言葉がある。

もちづきせんぱいかわ花火大会で告白された件とかも、書いてあるのかも」

「ちょっと待って、なにそれ。初耳なんだけど」

 しまった、声に出ていたらしい。

「……あいかわさんのほうが、すずみにくわしそうじゃん。ね、いつしよに読んでよ」

「でも私、早く文芸部にもどるべきかなと。あとこうしつにメイド服も取りに行かないと」

こうはいよ、生徒会長に逆らうんじゃない」

「元じゃないですか」

「生意気言わない。ほら、ここ座って」

 目線と指先で指示される。横暴なせんぱいに、私はしぶしぶ従った。

 今までの、おくに物がはさまったようなやり取りではない。素に近いところで話しているのが、とても自然なことのように思える。何百人もの観客にられながら、きだしの言葉で向き合ったからだろうか。

かわの花火って、いつだっけ。七月の終わり?」

「そうです。今年は二十四日」

 シールをがすつま先の動きが、止まる。

「すずみがねむり始めたの、七月二十五日からなんだよね」

 もりせんぱいは何回か深呼吸をしてから、宣言する。

「じゃあ、読むよ」

 ふうとうが開かれる。かわいらしい丸文字で書かれた文面に、私はもりせんぱいとなりから目を落とす。


 リョウちゃんへ


 お元気ですか。わたしは元気です。

 なんて、にんぎようすぎるかな。お久しぶりです。すずみです。


 この手紙を書こうと思い立ったのは、さっき、かわ花火大会でもちづきくんに告白されたからです。今までは何度書いても、リョウちゃんへのお手紙は捨ててしまっていました。何を書いても、なんだか、うそくさくなっちゃうっていうか……。

 でも今なら、伝えたいことをまっすぐ書ける気がしたんだ。

 というか、もちづきしゆんくんっておぼえてるかな。近所に住んでる、正義感が強いくせに口が悪い男の子だよ。彼や花火大会について書くと、便びんせんが何枚あっても足りないのでそこはまぁ、かつあいするとして。


 リョウちゃん。ううん、今だけは初めて会ったあの日のように、こう呼ばせてください。

 わたしのドッペルちゃん。

 あの日、助けてって呼んだわたしの声に、応えてくれてありがとう。

 ままははがやりたくなくて泣いたわたしの代わりに、ようえんに行こうとしてくれてありがとう。

 私は結局、いやなことを押しつけちゃだめだって、あなたのあとを追いかけた。その結果、こうしてはなればなれになって会えなくなっちゃった。

 ドッペルちゃんはリョウちゃんになって、わたしのドッペルちゃんじゃなくなった。

 だけどきっと、それが正解だったんだね。


 わたしね、たまにママにかくれて、じいじとばあばと通話してるんだけど、リョウちゃんすっごく絵が上手なんだってね! 写メで送ってってたのんだけど、じいじたちスマホ持ってなかった(あせ

 いつかリョウちゃんの絵を見せてほしいな。わたしは絵なんかけないけど、リョウちゃんはどんな絵をくんだろう。

 もし会えたときは、わたしのかれしようかいするよ。とびきり口は悪いけどねっ(笑)


 ということで、明日の朝になったらこの手紙をとうかんします。いつしよもちづきくんへの手紙も。

 かんするどそうなリョウちゃんなら、お察しでしょうか。そうです。あんまりずかしくて答えを保留にした挙げ句、手紙に告白へのお返事をたくしちゃいました。

 自分の情けなさにげんめつ

 でもわたしね、あの日、ちゃんとままははをやったよ。最後までがんばったよ。

 そのあともちづきくんと、次はおひめさまと王子様の役をやろう、なんて約束したんだ。もちづきくんらしいよね。そっちはまだ果たせてないけど、ずかしくてもがんばってみるね。


 ちょっと頭が痛くなってきたので、初めてのお手紙はここまで。

 花火からの帰り道、すごい混み具合で、他の人とぶつかって階段から落ちちゃったんだ。ほんとわたしってけてる。もちづきくんと別れたあとで良かった。(ぜったい馬鹿にされる!)


 花火、リョウちゃんにも見えてたらいいのにな。

 もしお返事をくれるなら、リョウちゃんのこと、わたしに教えてください。


すずみより


 五枚つづりの便びんせんを読み終えてしばらく、私ももりせんぱいも言葉を発さなかった。

 となりの人は、今、必死に頭の中を整理しようとしている。それが分かるから口をつぐんだ。せつこうぞうも空気を読んで、おしやべりをひかえているようだった。

 だまっていると、せいじやくがよりいろく感じられる。ろうの光だけが、取り残された美術室の入り口を照らしている。

 時計の針を見ていなかったから、一分ったのか、十分ったのかはさだかではない。

「わたし、こいしてたのか」

 もりせんぱいはしみじみとなつとくしたように、そうつぶやいた。

 私ののうにはもちづきせんぱいぎる。でも彼にこいをしていたのは、同じ顔の別人なのだ。

 手紙に秘められたこいは、ねむる彼女だけのものだ。レプリカだって、共有できない。

だれに、ですか?」

「すずみに」

 便びんせんを、指のはらででている。つめの中はとびとびでオレンジ色になっている。顔にったドーランにさわってしまったのだろう。

「この十三年間、わたしのほうがずっと、すずみに会いたかった。会いたくて、にくらしくて、いとおしくて、切ないの。これって、まんやドラマに出てくるようなこいそのものじゃない? わたしの頭の中、いつだってすずみのことでいっぱいだったんだ。あきれるくらい」

 光るひとみからなみだが落ちることはない。そのおかげか、せんぱいはとてつもなく幸せそうに見えた。

 すずみせんぱいは、もりせんぱいが自身の身代わりになることなんて望んでいなかった。ただ、彼女らしく生きていてほしいといのっていたのだ。

 いつか絵を見せてほしいと願ってもいた。やさしい願いだった。

 そんなすずみせんぱいが好きな人とわした約束を、もりせんぱいが拾い上げた。みかどとかぐやひめとして、たいを見事に演じきったのだ。

「植物状態って、呼吸だけしてるようなイメージあるでしょ?」

 無言で、うなずく。

「すずみはちがうの。たまに笑ってたりする。赤ちゃんみたいにか弱くて、無防備で、それなのにね、空っぽなんだって」

 ようやく再会できたすずみせんぱいに、きっと何度ももりせんぱいは話しかけたのだろう。

 話したいことは、本当にたくさんあったはずだ。すずみせんぱいが、そう思っていたように。

「好きな音楽をかせて微笑ほほえんでも、すきかぜいたときにせきをしても、手を差しだしたらにぎってくれても、それはね、すずみがそうしたくて、してるわけじゃないんだって。身体からだが勝手に反応してるだけで、すずみにはなんにも、届いてないんだって」

 いつまで待っても、ねむつづける人からの返事はなかったのだろう。

 想像する。私だったら。なおが頭を打って目覚めなくなってしまったら、やっぱり同じようにするのかな。何かせずには、いられないのかな。

 それはレプリカの本能だろうか。それとも、私自身の意思だろうか。

 答えはまだ分かりそうもないけれど、ひとつだけ。

さびしいですね」

「うん」

 めるように、もりせんぱいうなずく。

さびしいよ、すずみ」

 うすぐらい美術室で、その小さすぎる声は、かべはんきようするでもなく消えてしまう。私は、かき集めて、きしめてあげたかった。

 あの日の美術室で、そうするべきだった。

 もりせんぱいは立ち上がるなり、私に向かって頭を下げる。

「ひどいこと、たくさん言ったね。ごめんね、最低なせんぱいで」

 おこる気にはなれなかった。

 でも私はおくれて立ち上がると、それっぽくおこっている顔を作ってみる。

「許すには、二つ条件があります」

「は、はい」せんぱいは直立不動の姿勢を取る。

「では、ひとつ目。『人間失格』の感想を教えてください」

「……そんなんでいいの?」

「私、文芸部長ですから」

 ふうどうどうと胸を張る。

 もりせんぱいおどされたのもあり、はいびよういんの次くらいに、私は『人間失格』がこわくなってしまった。こわいか、こわくないかだけでも教えてもらえたら、とっても助かる。

 こらえきれなかったようにせんぱいが笑う。

りようかいしました。でも、まだ読み終わってないの。だいぶ先になってもいい?」

 だいかんげいの意をめ、私はしゆこうしてみせた。

「じゃあ、二つ目は?」

「あなたの名前を教えてください」

 はっきりと、せんぱいが息をむ。

 手紙に記されていたのが、彼女の名前なのだろう。でも直接教えてもらったわけではない。ちゃんと、目の前の人から聞きたかった。

「私は、あいかわナオっていいます。おじいさんを演じたのは、さなアキくんです」

 せんぱいとなりに移動してきて、手のひらに漢字を書きながら教えてくれる。

「わたしはリョウ。すずみの名前は、漢字で書くといまだにすずしい、ってくの。りようの字を取って、リョウ。お母さんとお父さんがつけてくれた、わたしだけの名前」

 さんずいから始まる、冷たくて美しい字。

 目の前の人にぴったりの名前を、くちびる辿たどってみる。

「リョウせんぱい、ですね」

 呼べば、今まででいちばんやわらかい表情で、リョウせんぱい微笑ほほえむ。

「ナオちゃん。わたしを見つけてくれて、ありがとう」

 窓の閉まった美術室に、生まれたての風を呼び込むような。

 そのしようは、美術室できすくめられたかんしよくよりもずっと温かかった。

「あなたに会えて、良かった」

 私はその言葉が、おおでなく、なみだが出るほどにうれしかった。

「わたし、じのみやの……わたしの家に帰るよ。すずみの両親ともちゃんと話す。それですずみが目を覚ますまで、しんぼうづよく待ち続けるんだ。だからいつか、わたしの本当のお母さんとお父さんに会いに来てくれる?」

じのみやって、どんなものがあるんですか?」

 んー、とリョウせんぱいが口元に手を当てる。

「そうだなぁ。なんといっても、まかいの牧場があるよ。せんぱいが連れてってあげよう」

 かいの牧場。なんともおそろしげなひびきだが、私は勇気を出して答えた。

「必ず、遊びに行きます」

 のろわれたはいびよういんよりもこわい場所なんて、そうそうないはずだから。

 微笑ほほえめば、リョウせんぱいも笑い返してくれたのだったが、私たちはほとんど同時に思いだした。

「部誌!」

 時計をかくにんする。午後四時四十分。せいりようさいが終わるまで、あと二十分しかない。

 先を争うように美術室を出て、階段を下りていく。開きっぱなしのドアから飛び込むと、部室にはりっちゃんとアキくんがいた。

「ナオせんぱいようやく来たっ。部誌、売れてますよ、けっこう!」

 片づけのあと直行したのだろう。まだの右大臣様なりっちゃんがこわだかつのる。

「えっと、夢の話?」

「現実です!」

 ごとではなかった。見た目にも分かりやすく、机に並べられた部誌の冊数が減っている。

 言っている間にも女の子のグループが入ってきた。私はアキくんと交代し、りっちゃんのとなりに立つ。りっちゃんがお金のやり取り、私は主に部誌をわたす係だ。

 部室の外まで行列ができる、ということは一度もなかったが、体育館で演劇をかんしようした生徒やいつぱんらいじようしやが、帰る前に寄ってくれているらしい。

 の右大臣に写真っていいですか、と申し出る人もちらほら。りっちゃんは照れくさそうにしながらがおで応じている。いちいち派手なポーズを取ってくれるので、子どもたちに大人気だ。メイド服よりも、ずっと効果てきめんである。

 一度、背後のかべぎわから「この前はごめんなさい」というリョウせんぱいの声が聞こえてきた。かえってみたらアキくんがしゆうを開いていたので、ほっとした。

 そうしてむかえた、午後四時五十八分。

「残り二冊、ですね」

 と、りっちゃんがふるえ声で言った。

 刷ったのは、全体で百五冊。五冊は部員や部室で保管する分なので、別に取ってある。

 売り上げ百冊達成まで、あとたった二冊。しかしこの絶体絶命の局面で、完全に客足がえてしまった。校内に残っている来場者自体、ほぼいないだろう。

 文芸部三人、顔を見合わせる。

「ここまで売れたら、いいってことにしてもらえますかね」

「誤差のはんないだな」

「だよね」

 それっぽく話すものの、全員の顔色が悪い。

 間もなくせいりようさいは終わる。終わってしまう。九十八冊は四捨五入すれば百冊だけれど、そんなおまけをしてもらえるのだろうか。

 そこに救世主が現れた。

「二百円、だよね?」

 ポケットをさぐったリョウせんぱいが、カウンター代わりの長机の前に立ったのだ!

「はわ」

 りっちゃんは、変な返事をして銀色のこうを受け取っている。

「ほわ」

 わたす私も同じだった。極限状態すぎて、お礼の言葉がうまく出てこない。

 あと一冊。あと一分。ううん、もう二十秒、切ってる。

 頭皮からあせが、ぶわぶわ出ている。めまいがしてくる。気をいたらたおれちゃいそう。

 間もなくスピーカーから、せいりようさいしゆうりようを告げるアナウンスが……。

「僕も一冊、たのむ」

 そんな文芸部室に息せき切ってんできた人物がいた。

もちづきせんぱぁい!」

 三人の声はぴったりと合った。

 最後の一冊をわたすのと同時、せいりようさいしゆうりようのアナウンスが校内に流れだした。本日は第十七回せいりようさいにご来場いただき、まことにありがとうございました。お帰りの際は、お忘れ物のございませんよう、足元にお気をつけてお帰りください。生徒のみなさんは、このあと十七時三十分より、体育館にて後夜祭が始まるので……。

 とてもじゃないが大人しく、耳をかたむけてはいられない。

 両手をにぎった私とりっちゃんは、その場にへなへなと座り込んだ。

「う、売れた」

 四捨五入する必要はない。これでぴったり、百冊だ。

「文芸部のみなさん、よくがんばりました」

 なみだの私たちを見下ろして、リョウせんぱいはにこにこしている。

「それじゃあ、はいの件は」

「しっかり先生たちに話すよ。もう実績のない部なんて言えませんよね、って。ここから先は、生徒会長に任せなさい」

 元だけどね、とリョウせんぱいくつたくなく笑った。力強い宣言だった。

「わたしは先に体育館向かうね。おつかさまかいたくしないとだから」

 リョウせんぱいは時計をかくにんし、あわただしく出て行こうとする。

 後期生徒会へのぎは済んでいるが、おつかさまかいで前会長があいさつをして、新会長にマイクをわたすのは鉄板となっている。

もり、ひとつだけいいか」

 そんなリョウせんぱいを、もちづきせんぱいが呼び止める。

もちづきくんごめん、今は時間ないから」

「聞いてくれ。演劇が成功したら、もういちど言おうと思ってたんだ」

 思わせぶりな物言いに、リョウせんぱいが足を止める。

 ほおを赤くしたもちづきせんぱいが、すぅ、と大きく息を吸い、一気にきだした。

「前に伝えた通り、僕はもりのことが好きだっ。だから、へ、返事を聞かせ」

「ごめんなさい!」

 ギャラリーが色めき立つひまもなく、リョウせんぱいは頭を下げていた。

 絶句する私たち以上に、ぎもかれたのはもちづきせんぱいだろう。

「好きな人がいるの。もちづきくんとは、付き合えません」

 もちづきせんぱいの顔が、紙のようにうすく、白くなっていく。

 そんな絶望的な数秒間のあと、リョウせんぱいはぺろっと舌を出してみせた。

「……なーんてね。安心して、すずみの答えはちがうと思うよ」

「え? は? うん? すずみ?」

「おつかさまかいが終わるまで、待っててよ。もちづきくんに話したいことあるんだよね」

 じゃあね、とけだしていく。ほんぽうな背中を、だれも呼び止めることはできなかった。

「いや、わけわからないな、あいつ」

 置いて行かれたもちづきせんぱいぼうぜんとしている。

「部室でまたラブコメされた、だと……?」

 りっちゃんは変なところにしようげきを受けているが、一部始終がラブコメディだったかはみようだ。

 私にだけは分かっている。さっきのは、すずみせんぱいが大好きなリョウせんぱいからの、もちづきせんぱいへの意地悪だ。しつれんのしっぺ返しとしては、もちづきせんぱいには手痛かったかもしれないが。

 おつかさまかいが終わったら、すべての事情をリョウせんぱいは話すつもりなのだろう。

 ほうけていたもちづきせんぱいだが、ぎりぎりのところで気持ちを立て直したらしい。

「ええとさ。二月にも、きさらぎ公演っていうのがあるんだ」

 私は小首をかしげた。もちづきせんぱいは、今回のせいりようさい公演を最後に引退する予定だったはずだ。

「来年は静岡市民文化会館でやるから、移動も楽。僕ひとりなら見送ってたが、こうはいが参加するなら別だと思ってな」

 こほん、ともちづきせんぱいせきばらいをする。

「つまりさ。……お前ら、このまま演劇部入らねえ?」

 それは不器用すぎるせんぱいからの、かんゆうだったらしい。

 顔を見合わせて会議をすることはなかった。横に並んで、文芸部一同は頭を下げる。

「すみません」

 百冊の部誌を売り切って、改めて感じた。このせまくて、大してきれいでもない部室が、どれほどここいい場所なのか。

 出しっぱなしのせんぷう。転がっているボールペン。

 創刊号から保管された部誌だらけの段ボール箱。あか先生がまどぎわに並べていったカエルのフィギュア。あんまり興味のかないジャンルの本とか。

 そういうものに囲まれて、私はまた、次の一冊を読みたい。となりにはアキくんがいて、向かいにはりっちゃんがいてほしい。

「そっか。残念だけど、仕方ないな」

 もちづきせんぱいしようしただけだった。問う前から返事は予想していたのだろう。そもそも百冊目を買って文芸部を救ってくれたのは、他でもない彼なのだ。

「でも本当に楽しかったです、演劇」

 それは心からの気持ちだった。最初は不安でいっぱいだったのに、今となってはじゆうそくかんと、まだ続けていたかったという物足りない感じが、胸の中でうずを巻いている。

「自分も、最高に楽しかったですっ」

 りっちゃんが満面のみを見せれば、「俺も」とアキくんが小声で同意する。

「それなら、僕的には満足だ」

 うでを組んだもちづきせんぱいは重々しくうなずいてから、ほがらかに言う。

「おつかさまでした」

 私もまた、多目的ホールで何度もそうしたように、同じ言葉を口にして頭を下げた。

 それが演劇部としての、最後のあいさつだった。


 もちづきせんぱいはそのまま体育館に向かうそうなので、私たちは部室の前で別れた。

 りっちゃんはいったんクラスの様子を見に行くという。私とアキくんもそうすることにしたが、道中の会話はなかった。それくらいおたがつかれていた。

 はいびよういんで、『竹取物語』で、部誌で、てんてこいの一日だったのだ。ろうにんしきした身体からだは現金なことに、とたんにずっしり重くなっていた。

 いそがしい一日だった。私の人生史上、最も長い一か月でもあった。

 ひとのないわたろうは夕暮れに染まっていて、くるぶしを包む気温はゆるやかで、このままここで横になりたい、なんて思ってしまう。

「ナオ」

 かえるのもおつくうだったが、ひびきの切実さが私の首を動かした。

 呼び止めてきたアキくんは、難しい顔をしている。見た覚えがある。どこだっけ。つい最近、どこかで。

 おくあさっているうちに顔が近づいてきて、何かが鼻筋にちょんとれて、ぱっとはなれた。

 ……ん?

 私はしばらくきょとんとしていた。何が起こったのかよく分からなかった。

 何事もなかったように、アキくんは歩きだしている。

「クラス、片づけ終わってっかな」

 んん?

 そのあともアキくんは、頭をかきながらごにょごにょ言っている。聞き取りづらい。発声練習の成果がさっぱり出ていない。

「でさ、クラスの片づけ、そろそろ終わったよな」

 こわれたCDみたいに、同じことをかえしている。

 言わないほうがいいだろうか。でも、やっぱり。

「ね、アキくん」

「なに」

「今さ、キス、失敗した?」

 ぴたっとアキくんが立ち止まった。一向にこっちを見ない。

「失敗じゃない。ねらどおりの位置だった」

「私の鼻にキスしたかったの?」

「理論上はそうなる」

 正面に回り込んで、自分の鼻先をちょんとつついてみる。

「鼻、そんなに好き?」

「好きだけどさぁー」

 アキくんはとうとう頭をかかえて座り込んでしまった。

 ろうかげびる。ぶるぶるしている。男の子のプライドを傷つけてしまったかもしれない。

 でも私は、気になることは気になると、声を大にして言いたい派なのだ。

「それと、水族館でもキスしようとしてた?」

 もだえるアキくんのうなじが、あせをかいている。

「許してください。ごめんなさい」

 ぐすっ、とはなをすする音がした。なんだか私が泣かせたかのようだ。さすがに本気で泣いているわけじゃないだろうけど、アキくんのは、かわいそうでかわいい。

 おばけしき、暗いからさ。キスとかされちゃうかもよ。

 とうさんの言葉が、頭の中で再生される。

 私が思い当たる以上に、チャンスは何度もあったはずだ。おびえた私をづかって、アキくんがえんりよしていただけで。

 くじけずタイミングを見計らってくれたのに、あえなくげきちんしちゃった。

 私はりようひざかかえるようにしゃがんで、そんなこいびとの耳元にひそひそした。

「じゃあ、もういっかい、して?」

 気になることは気になると、声をひそめてでも言いたい派だから。

 静かになったアキくんが顔を上げた。目が合うだけで、こつから全身に甘いしびれが走る。

「ちゃんとアキくんと、したい」

 ばくばくばく、っておおさわぎ。

 心臓の音が激しすぎて、自分の声すらよく聞こえなかったけれど、アキくんには届いたようだった。男らしいのどぼとけが上がったのが、返事になっている。

「いい?」

「……いいよ」

 このおよんでかくにんなんてもどかしい。

 かみひとふさを、アキくんの手がからる。まだくちびるじゃないのに、触れられるだけで全身のうぶがぞわぞわする。

 ほおに当たるいきの熱っぽさを感じて、私の呼吸は止まった。

 重なっていくりんかくは、今度こそ、辿たどくところをちがえたりしない。

「あっ、こんなとこにいた。お二人さん、もうおつかさまかい始まっちゃうぞー」

 ちがえるより早かった。

 私とアキくんは、ばばっとおたがいから顔をそむけた。

 示し合わせたわけでもないのに、どうやらきれいに背中合わせになっていたらしい。

「なにそれ? どゆ遊び?」

 能天気に角を曲がってきたよしくんを、アキくんは一度だけぽかっとなぐっていた。

「なんでぇっ」

 忘れられない文化祭になった。


◇◇◇


 そんな感じで、最後まで事件だらけだったせいりようさい

 そのめくくりとなるおつかさまかいが、体育館にて始まろうとしていた。

 黒いワイヤレスマイクを手に、だんじようへと上がるリョウせんぱいの表情はどこか晴れ晴れしい。

 ステージとして働き通しだった体育館には、演台がもどされていない。そのおかげで、まっすぐ歩く姿が何物にもさえぎられずによく見える。

 他のクラスにならい、いつも全校集会で並んでいるあたりに一組の面々は固まって座っていた。

 まともに整列している人はいない。後片づけが間に合わなかったクラスは、代表者だけけつけたようだ。一年五組のあたりを見たら、友達と話しているりっちゃんの後頭部を発見した。

 私の前は小道具班で、後ろにはよしくんたちがいる。そのさらに後ろにアキくんがいる。こんな目立つところで分かりやすく二人でくっつくのは、けっこう難易度が高いのだ。

 欠伸あくびこらえたり、さいゆうしゆうしようの予想を挙げたりして、だれもが真面目さとはほど遠い。でもみんな意識の半分くらいをかたむけて、元生徒会長の声を聞いていたのだと思う。

 ちゃんと、聞いていたのだと思う。

みなさんご存じの通り、せいりようさいは、前生徒会と新生徒会が協力して運営する行事です。このイベントを一丸になってえて、わたしたちはようやく引退のときをむかえます。新生徒会にとっては、じゆうとみたいな存在だったかもしれませんが」

 茶目っ気たっぷりにリョウせんぱいが言うと、前方で笑いが起きた。左前方で先生たちといつしよに並ぶ生徒会の面々は、顔の前で手を横にっている。もちづきせんぱいの姿もある。

 そのとき、体育館を見回していたリョウせんぱいの目が、私を見つけた。

 軽くウィンクをしてくる。私はお返しにふざけてかたすくめてみせた。ほんのいつしゆん、きっと他のだれにも読み取れないあいさつわす。

 白い歯をこぼすみたいに破顔して、リョウせんぱいは続ける。

「こうしてせいりようさいを、大きな事故もなくえることができたのは、先生方、実行委員のみなさん、地元のみなさま、そして何よりも全校生徒のみなさ」

 がきぃん!

 落下音と混じった強すぎるハウリング音に、まくなぐりつけられた。

 とっさに目を閉じて耳をふさいだり、うつむいた生徒がいた。私も思わず耳に手をやっていた。

 三秒後に片目でだんじようながめると、マイクが落ちていた。ハウリングの出所はそれだった。小さな赤いランプをともしたまま、体育館の冷たいゆかかえって転がったようだ。

 その近くにみようなオブジェがあった。

 それは、制服でできていた。

 くきが折れた花のように広がったスカートの上に、折り重なるようにして、ブラジャーが、ながそでのシャツが、ワインレッドのリボンが、ブレザーが散らばっている。

 するりとなわけをしたような。

 身にまとっていたすべてをいでだれかが消えてしまったような、その不気味さに覚えがある。

 なおと行った実験。呼びだされた私が、服をえてから消されると、着る人がいなくなった洋服だけがその場に残る。目の前の光景は、それとこくしていた。

 でも体育館のどこにも、オリジナルのすずみせんぱいはいない。そもそも彼女はねむつづけていて、リョウせんぱいを自由に消したり呼んだりできる状態ではない。

 その事実が意味するのは。

「もりりん会長?」

 みようなほど、だれかの呼び声が大きくひびく。

 混乱は広がっている。生徒の多くはじようきようあくできていなかった。マジックか何かかと思った人もいたようで、はやてるようなびようが聞こえたが、それもざわめきの中にけていった。数十秒が経過しても、種明かしがないからだ。

 何人かが立ち上がり、どこかにリョウせんぱいかくれていないかと辺りを見回す。

 生徒会もんの若い先生が教頭たちと何かを話し、予備のマイクの電源を入れる。また小さなハウリングが起きる。

 転がるマイクは電源が入ったまま。だれも、だんじようには近づこうとしない。

 みんな、とりあえず落ち着いて。一クラスずつ教室にもどって、帰宅の準備をしなさい。ひようしようについては後日発表します。かえします。

 先生たちにゆうどうされるまま立ち上がり、生徒は出入り口に向かってぞろぞろと歩きだす。

 わざとゆっくりとした速度で歩くアキくんが、きよを置いてとなりに並んだ。

「ねぇ、アキくん」

「うん」

「オリジナルの心臓が止まったら、レプリカは」

 息がまって、それ以上は言葉にできなかった。したくなかった。

「もりりんせんぱい、マジック失敗して異空間に飛ばされたりしてないよな。だいじようだよな」

 前を歩いている。ちっともふざけていないよしくんのつぶやきが、耳にこびりついてはなれなかった。