十月最後の日にして、最後の日曜日。いよいよ私の青陵祭が始まった。
昨日は素直が参加した。午前中はおばけ屋敷の受付を手伝って、午後は他のクラスの友達と出店を回ったようだ。
驚くべきは、素直が初めて文芸部室に顔を出したことだろうか。大歓迎するりっちゃんと共に、しばらく売り子を担当していた。
私は自転車に跨がり、意気揚々と出発した。二日間とも澄んだ秋晴れの日となり、客足にも期待できそうである。
素直の昨日の記憶を辿ったところ、部誌は十九冊を売り上げたらしい。
一冊二百円で、十九冊。すごい数字だと私は驚いたけれど、それは昨年と比較しての話だ。今日、残りの八十一冊を売らねばならないのだと考えれば、いっそう気が引き締まった。
午前中はおばけ屋敷の手伝い。午後は文芸部室で部誌の販売。午後三時からは、体育館ステージで演劇『新訳竹取物語』が上演される。
お母さんは昨日、学内に掲示されたポスターを見て愕然としたらしい。そこに自身の娘の名前を発見したからだ。
劇に出るならなんで教えてくれなかったの、とぷりぷりするお母さんの話を素直は聞き流していた。今日はどうしても外せない用事があるらしく、泣く泣く出かけていった。
ここだけは変わらず薄暗い、洞穴みたいな駐輪場に自転車を置いてから、私は校門のほうに回ってみる。一般来場者の入場が始まるのは午前十時からなので、まだ外に人影はない。
きれいに掃かれた正面玄関前では、ポップに彩色された大きな看板が来場者を出迎える。ぼわんと膨らんだエアーアーチには、ウェルカムの気持ちが詰まっている。
グラウンドにも足を延ばすと、外側の白線に沿うようにして飲食の屋台が出ている。いくつか生徒の姿があるだけで煙は上っていないものの、絵面だけで強烈な誘引力を感じる。真ん中の休憩所に流れ着いたら、四面楚歌だ。脱出は難しいだろう。
振り返り、青空に包まれた校舎を見上げる。
この二日間、学校は学校ではなくなる。
四角い箱の中は、よそからテーマパークを運び込んできたみたいな大騒ぎになって、人と音楽と、改めて言葉にすると照れてしまうような夢と希望とでいっぱいになる。
今日だけは一日中、上下ジャージでいいし、クラスTシャツでいいし、仮装してたっていいし、着ぐるみだっていい。土足以外はだいたいのことが許されちゃう、無礼講の日。
ようやく校舎に入った私は、上靴に履き替えて空き教室に向かう。二年生は、隣り合う二教室を男女別に休憩室として使っているのだ。ここに荷物もまとめるのだが、ロッカーや金庫はないので、貴重品は個人で管理を徹底する決まりである。
上だけクラTに着替える。クリームに近い黄色のクラスTシャツは、胸元に星のロゴが入っていて、裏面に全員のあだ名がプリントされている。
素直は、「すなお」。ひらがなだと、甘えん坊な子猫の鳴き声みたい。
着替えを終えた私は財布とスマホを左右のポケットに入れて、足早に教室に向かう。
二年一組の教室に入るとき、私は必ずおはようを言う。今日は男子も女子もこちらを見て、笑顔で同じ四文字を返してくれた。いいムードだな、と思った。
たくさんの人が学校に集まる今日、おんなじ色のTシャツを着ているというだけで、私たちには強い仲間意識が芽生えている気がする。
「愛川さん、おはよ。今日は列整備よろしくね」
すれちがいざま佐藤さんに肩を叩かれた。
剣道部の出し物。道着に身を包み、立ち合いを演ずる佐藤さんは凜々しくて、かっこよかった。私は眠たげな素直の目を通して、その勇姿を垣間見ることができた。
全員登校してきたところで、佐藤さんが中心となりミーティングを行う。セットに触らないよう、みんな気をつけて教室中に散らばっている。真剣に話を聞いているおばけたちの佇まいがおもしろい。
それぞれ手元には短冊状のプリントを持っている。私ももちろん握っている。ひとりずつ、二日間の当番時間や休憩時間が印字されているそれは、大塚くんが用意して配ってくれたものだ。忘れっぽい生徒にとっては命綱も同然で、吉井くんなんかはセロハンテープで手首に巻いている。アキくんにもやってやるよと絡んで、いやがられていた。
昨日、アキくんは午後のおばけ屋敷当番だった。今日は私と同じ、午前中に二時間だけシフトが入っている。
話の締めくくりに、佐藤さんが拳を突き上げる。
「それじゃ、二日目もがんばってこうぜ! 目指せ最優秀賞!」
約一月前は拍手していただけの私たちは、おー、と勢いよく拳を上げる。
午前十時になり、来場者の入場が開始された。スピーカーから明るいBGMが流れてくると同時に、おばけ屋敷の営業もスタートする。というのも他クラスの生徒が、すでに列を形成していたのだ。
おばけ屋敷自体、集客力が高い企画であるのは間違いないのだが、一組では美術部の大塚くんが臨場感あるポスターを手がけたことによって、話題が話題を呼び、昨日も午前中から大盛況を博したのだという。
今日の出足もかなり好調だ。それは何よりだが、列が伸びすぎると実行委員から指導が入ってしまう。なるべくひとりずつ詰めて並んでもらうようお願いするのが、今日の私の仕事だ。
来年の新入生になるのかもしれない、中学生の集団。はしゃぐ親子連れ。老夫婦に、大学生くらいのカップル。目の前をいろんなグループが横切っていく。
「うわっ。今、中から悲鳴聞こえてきた」
「ぜったい怖いって、やめとこうよ」
「ママ、おしっこー」
「あと何分くらいかな」
「ポップコーン仕舞っとくか」
「がぜん楽しみだわ」
あちこちから聞こえてくる。切れ切れの会話に耳の先端をかじられながら、声を張り上げて一歩ずつ前のグループとの距離を詰めてもらう。その繰り返しなので、難しくはない。
「愛川さん、お疲れ。交代するよ」
他校の制服を着た女子のグループを列に導いた私は、声をかけてきたクラスメイトに最後尾札を手渡した。もう一時間が経っていたらしい。十分の休憩時間だ。
空き教室からは、小道具班の女子が出てきた。ちょうど休憩終わりだったようだ。お疲れ、と挨拶してすれ違う。
置いたときより二倍程度に膨らんだスクールバッグの群れに目を凝らして、素直のそれを見つける。
私は水筒からぐびぐびとお茶を飲んだ。冷たくも熱くもないほうじ茶が、からからの喉を清涼に洗い流していく。勢い余って濡れた口元は、ハンドタオルで拭う。
アキくんの姿は一度も見かけなかった。大道具班のうち数人は、おばけ屋敷内で演出を手伝いつつ、壊れた道具があればすぐ補修できるよう控えている。アキくんもそのひとりだった。
五日前、美術室での出来事があってから、私もアキくんも森先輩も、表面上は変わらなかった。演劇の練習では至近距離で見つめ合ったし、台詞を交わした。何も変化しないよう注意深く過ごしていることこそ、何かが大きく変わってしまった証でもあった。
舞台を終えたら自然と繫がりは消える。来年になれば、森先輩たちは舞い散る桜と共に卒業していき、二度とお互いの人生が交わることはないだろう。
なんとなく気分が重くなる。だから今は、考えるべきじゃないのだとも思う。
「あ、いたいた。愛川さーん」
部屋を出たところで、受付をやっていたはずの佐藤さんに声をかけられた。両手に布の塊を抱えている。
「どうしたの?」
何か不測の事態だろうか。でも、そういう感じでもない。
「おばけ屋敷のほうは人が足りてるから、チラシ配りをお願いしたくてさ。配り終わったらそのまま文芸部行って大丈夫だから、頼めるかな?」
「そうなんだ。分か」
「助かる! じゃあこれチラシ配り用の衣装ね、五分経ったらメイク係も来るから」
返事をし終わる前に、抱えていたそれを押しつけられる。
けっこう強引な佐藤さんは、満足したように去っていった。取り残された私は、とりあえず空き教室に引き返す。
休憩用に並ぶ椅子の座面に広げたところで、それが特徴的なコスチュームらしいことに気がついた。
基調となるのは白と黒。リボンにフリル、それにミニ丈のスカート……。
「メイド服?」
どの角度から見てもメイド服である。
スカートの裾からひらりとメモの切れ端が落ちる。そこには乱雑な字でこう書いてあった。
ドンキにて調達。メイドの土産といえば、これっしょ! 吉井くんより
意味、ぜんぜん違う。あと達の横線が一本多いよと伝えたいが、吉井くんはこの場にいない。
そういえば彼は最初の話し合いのとき、メイド喫茶がやりたいと積極的にアピールしていた。今も未練があるのだろうか。
戸惑ったが、こと青陵祭に関してリーダー佐藤さんの言うことは絶対だ。私は背後のカーテンが閉まっているのを確認してから、そろそろとスカートを脱いだ。
黒のワンピースを着て、フリルつきの純白のエプロンを上から重ねる。腰の白いリボンは外せるようになっていたので、シュシュ代わりにして髪をまとめた。
そこで一息吐こうとしたら、軽くドアが叩かれた。
「愛川さん、着替え終わった?」
「う、うん」
視線を向けると、入ってきたのはメイクボックスを抱えた二人のクラスメイトだ。
「うはっ、やば。かわいい」
「このメイドさんを今から穢していいんだと思うとぞくぞくするね」
「えっと」
発言が不穏すぎて、背中に冷や汗をかく。
おばけ屋敷では、言うまでもなく脅かし役のメイクは重要である。本物の傷や血に見えるようなメイクを施すことによって、おばけ屋敷のクオリティは何倍にも跳ね上がるのだ。噂に聞く戦慄迷宮しかり。
そういうわけで、メイク班は一か月かけて腕を磨いていた。昼休みのたび暇な男子を捕まえ、傷メイクで保健室に駆け込ませたりしていた。先生にこっぴどく𠮟られていたけれど、それはメイクがリアルだったゆえだろう。
笑顔の彼女たちは私の肩をがっしりと摑み、椅子に座らせた。後ろから運ばれてきた机には所狭しとメイク道具が広げられていく。
「あの、これは」
「静かに!」
鬼気迫った眼差しで告げられる。私が反射的に黙ると、彼女たちは一斉に動きだした。
「愛川さん肌きれー」
「どうやって手入れしてるの?」
「唇ぷるぷる」
「ニキビ跡すらない。すごーっ」
目閉じて、鼻の下伸ばして、唇突きだして、右向いて、と指示されるままに従う。隙あらば世間話を挟んではいるが、二人の連携は洗練されていて見事なものだった。
嵐と呼ぶべき猛攻を喰らった私は鏡を見せられてから、ふらふらと教室を出た。
廊下には、アキくんと佐藤さんが立っていた。
「えっ」
私は口を半開きにして、彼の上から下までを見つめた。
白いシャツ。裏地が赤い黒のマント。いろんなところに血糊が散っている。
口の間からは鋭く尖った牙が覗く。そこにいたのは、変わり果てたドラキュラアキくんだった。
「どう、愛川さん」
「あははは」
私はお腹を抱えて笑ってしまった。
安っぽいドラキュラは、かっこいいのか、おもしろいのか、絶妙なラインだったのだ。冷静になるとかっこいい気はするのだが、冷静になるには、文化祭という場はお祭りすぎた。
「笑いすぎだろ」
そう言いながら、アキくんだって笑っている。
さっきまで真面目に列の整理とか、大道具の補修をしていたはずなのに、どうして私たちはメイドとドラキュラになっているのだろう。奇想天外すぎて、もう笑うしかない。
ちなみに私はといえば、額の真ん中にぱっくりと大きな傷ができて、勢いよく噴き出た真っ赤な血で頰や顎も汚れている。
白いエプロンドレスにも鮮血が飛び散っている。全体的にだいぶでろでろとしていて、グロテスクな様相だ。
だが無論のこと、私たちの傷は本物ではなかった。メイク班による、渾身の傷メイクである。
「みんなすごいね。メイク、本当に上手」
メイク班の面々は誇らしげだ。実際、彼女たちの技術はすこぶる高い。遠目か、あるいは暗い場所でなら、実際に傷を負っているように勘違いしてしまうだろう。
完璧に仕事を終えた彼女たちが、風のように去っていく。残った佐藤さんは満足そうに顎に手をやっていた。
「ドラキュラ伯爵に仕えるメイド、っていう設定ね。世界観がいい感じにまとまって良かったよ。これもドンキのおかげだ」
果たしてこれは、まとまっているのだろうか。
「そもそも病院に、ドラキュラとメイドっているのかな」
ナースなら良かったけれど、メイドとナースではぜんぜん違う。トムとジェリーくらい違う。
佐藤さんはあっけらかんと言う。
「海外の病院だから、いるでしょ」
「いないだろ」
「ドラキュラは献血とかしに来るだろうし」
「せめて輸血だろ」
「細かいことは気にしないの」
この一月で薄々察してはいたが、佐藤さんは大雑把な性格だった。
「では二人に特別任務を与えます。これから看板持って、チラシ配ってきてよ。その格好ならいい広報活動になると思うのよね」
そう改めて告げられて、はっとする。
男女が二人きりで文化祭を回っていたら、否応なしに目立つし、噂になってしまう。
でも仮装という盾があれば、格好自体には注目されても、周囲の人はおばけ屋敷の宣伝活動だと認識してくれる。仮装する二人の関係性なんて、誰も気にしなくなるのだ。
あるいは佐藤さんのお節介だったのかもしれないが、乗ることにした。だって私はなんとしてでも、アキくんと二人で初めての青陵祭を楽しみたいと思っていたのだ。
スカートの裾をつまみ、小首を傾げてみせる。
「血だらけメイドと文化祭回るの、いや?」
向かい合うアキくんは、軽く会釈をする。
「そっちは、ドラキュラと文化祭回るのは?」
「大歓迎」
私は思いきりのいい笑顔で答えた。ドラキュラでも、フランケンシュタインでも、包帯男でも、中身がアキくんならいい。なんだってサイコーだ。
そこで佐藤さんが、名案とばかりに人差し指を立てる。
「そうだ。せっかくだしお二人さん、最初に呪われた廃病院決めちゃってよ」
「えっ」
私はぎょっとしたが、無理やり背中を押されて廊下を進む。
目的地は明らかに二年一組の教室だ。仮装、というより迫力満点のメイクに気を取られて、道行く人の視線が集まっているのはいいとして。
「私、暗いのはあんまり得意じゃないから」
「得意じゃないだけで、苦手じゃないんだよね?」
「えっと、本当に大丈夫」
「大丈夫なら、良かった」
「違うの。へーきだから」
「へーきなら、良かった」
ああ、日本語ってなんて難しいんだろう。
「あの、へーきとか大丈夫っていうのは、参加しなくていいって意味で、というか参加したくないっていうか」
「特別優待券お持ちの二名様、ごあんなーい」
のれん代わりに垂れ下がる黒のビニールテープに顔を撫でられて、気がつけば私はアキくんと共におばけ屋敷、ならぬ呪われた廃病院に入っていた。
暗幕カーテンに覆われた教室内は、かなり暗い。ところどころに光源とも呼べない豆電球の明かりこそあるものの、手元すらよく見えないくらいだ。
……なぜこんなことに。
立ち尽くして考えるものの、答えはおばけ屋敷の中には落ちていなそうだ。
どこからか、ひょおお、と薄ら寒くなるような風の音がする。隙間風だろうか。病院なのに。
焦りながら目をやれば、受付に置かれたパソコンが光っている。そこからノイズ混じりの、地を這うような音声が流れてきていた。
『呪われし廃病院に足を踏み入れてしまった、者たちよ。ここから生きて戻るには、この先にあるお前たちのカルテを回収しなければならない。さもなく、ば、永遠に、この病院に……』
ぶちっ、と音声が途切れたかと思えば、ばさばさばさっ、と激しい鳥の羽ばたきの音がする。病院なのに。
そこで画面は、任務を終えたように暗くなってしまう。
アキくんが感心したように顎を引く。だんだんと暗がりに目が慣れてきたのか、その様子は浮かび上がるようにして見えていた。
「今の、大塚なんだけどわりとうまいよな。あいつにも演劇、手伝ってもらえば良かったかも」
「そ、そうだね」
引きつりながら頷く私に、彼は軽い口調で言う。
「じゃあ、とりあえず折り返し地点にあるカルテ取りに行くか。それがないとクリア扱いにならないってルールだし」
「それは、む、無理かな」
アキくんが首を捻っている。
「なんで」
「む、む、むり、無理なの」
「なにが」
「怖いの!」
とうとう私は叫んだ。
アキくんは呆気に取られている。口を開けているから、尖っていない下の歯がよく見える。闇の中では、その白さが際立っていた。
鳥肌が出ている二の腕をメイド服の上から擦って、私は泣きそうになりながら主張する。
「怖くてだめなの。もうこれ以上進めない。リタイアします!」
「もうってか、まだ一歩も進んでないけど」
「リタイア!」
叫んで入り口に引き返そうとする私の肩を、アキくんが叩く。
その感触にもびくつきながら、彼が指し示す壁を見てみると、そこには血文字で「リタイアできないタイプの廃病院です。がんばってください」と丁寧に書いてあった。
私の顔は、蒼白を通り越して土気色になっていたことだろう。ここにお医者さんがいたならドクターストップを告げていてくれたはずなのに、無念極まりないことに、呪われた廃病院には生きているお医者さんがいないのだ。
「とにかく、行こう。歩いてればいつか終わるって」
アキくんは、このおどろおどろしい空間に恐怖を感じていないようだった。その力強さは頼もしいけれど、今は正直、アキくんよりもカルテがほしい。
「手、繫ぐ?」
「お願いします」
やっぱり頼れるのは、カルテより隣のアキくん。
間髪容れず彼の手を引き寄せて、ぎゅうっと握る。大きくて温かい。
気配がかすかに身動いだけれど、アキくんは私の右手を振り払ったりはしなかった。
「じゃ、行こう」
「う……ん」
震え声でなんとか返事はしたけれど、そこからが大変だった。
だって、もう、ずっと怖い。
クラスのみんなで協力して仕上げた、私にとっても思い出深い内装ではある。
だからといって、机を寄せ集めて作ったベッドの血まみれ具合に笑顔になったり、怪しげな瓶が並ぶ薬品棚を見て「あの左から二つ目の瓶、私がラベルを剝がしたの」なんて得意げになれるはずがない。
直視しないよう、私は俯いて歩くしかないのだが、そうすると視界が鎖されるという根源的な恐怖が押し寄せてきて、うまく両足が動かせなくなる。
「ナオ、大丈夫?」
「ぜんぜん、だいじょうぶじゃ、ないい」
ほとんど泣きながら返事をした。
生まれたての子鹿は、私よりもちゃんと歩けて立派だ。生まれたばかりなのに、どうしてそんなに偉いんだろう。
でも子鹿だって廃病院に放り込まれたら、ふくらはぎがぷるぷる震えるのではないだろうか。
「う、うう、ア、アキくん、いる?」
「いるよ」
「いるよね?」
「いるって。手、繫いでんじゃん」

子どものように、揺らされる。右に左に、ぶんぶんぶんする。
分かりやすく宥められている。安堵するのはアキくんの余裕ぶりが伝わってくるからだ。前に引っ張ってくれるアキくんがいる限り、私はひとりにはならない。それなら、なんとかなる。そのはずだ。
亀よりものろのろと、すり足で進んでいく。その途中、耳元でアキくんが囁いた。
「ナオ。角を曲がった先の区画なんだけど、ベッドに入院患者役の吉井が横たわってる。目の前まで行くと脅かしてくるから気をつけて。接敵まであと五秒」
ルール違反ではあるけれど、事前に演出について教えてくれるアキくんはなんて優しいのだろう。すばらしい彼氏に感激して、私は久方ぶりに顔を上げた。
「わ、分かった。ありが」
「ウガアアアッ」
「うひいいいいっ」
うっかり気絶するかと思った。それくらい怖かった。
血まみれの入院着姿の患者が、突如としてベッドの上で跳ねたのだ。苦しげに手足をばたつかせて痙攣し、やがてお腹に刺さったメスを思いだしたかのように静かになっていく。
などと、冷静さを気取れるのはそこまでだった。
「はええよ吉井」
「いやー、真田の声が聞こえて気張っちゃって。どうよ、おれの類い稀なる演技力は」
「まぁまぁだった」
「辛辣だな、おい。つかメイドとドラキュラ、いいじゃん。やっぱメイドさんはロマンだわ!」
二人が何か話しているけれど、その内容も頭に入ってこない。
私はアキくんの背中に隠れていた。ドラキュラのマントにしがみついて、硬直しきっていた。
衣装に皺ができることなんて構っていられない。ぎゅっと握るだけだ。どうか蜘蛛の糸じゃないようにと祈りながら。
そんな私の仕草に気がついたのか、吉井くんが目をぱちくりしている。
「愛川さんって、こういうの苦手なんだな。意外だわ」
「言いふらすなよ」
「分かってるって。イメージ崩れるもんな」
私の額を冷たい汗が流れ落ちていく。信じられない事態に、身体が震えている。
「愛川、そろそろ進もう。愛川?」
「し、しん」
「しん?」
「……心臓止まっちゃった。どうしよう」
ばくばく鳴り騒いでいた心臓の音が、先ほどからうまく聞こえないのだ。
アキくんが、ぱちぱちと瞬きをする。
「止まってないよ。動いてるって」
「じゃあ触って確認してよ!」
パニックのあまり、自分がなんて叫んだのかもうまく理解できない。
でもその瞬間アキくんの表情が、固まったように見えた。
まさか私に続いて、アキくんの心臓まで。慌てふためく私より、なぜか吉井くんのほうが慌てている。
「真田、大丈夫だ。おれはなにも見てないぞ。さっ、続けてくれ」
「……今の愛川は、混乱してるだけだから」
アキくんの声までも張り詰めている。どうしよう、本当に心臓が。
「つまりエスコート役はおれでもオーケーてこと?」
血まみれの入院患者が、何かを期待するようにこちらを見る。
私はぎこちなく首を横に振った。
「勘弁してください」
「がーん!」
叫んだ吉井くんが大人しくベッドに戻っていく。次の獲物を待つのだろう。
私が何か言う前に、ぐいっと手を引っ張られて歩きだす。つい先ほどよりも力が強い。でもその力強さは、病院内では輝いている。
「ナオ。カルテ取った」
「ちゃんと、二枚?」
「うん。見てみ」
うろうろと目を開けて確認する。大量に刷っただけのカルテには、もちろん私たちの名前は書いていないけれど、薄っぺらい紙が心強いお守りのように感じられる。
しかしようやくカルテを入手したのだから、ここは折り返し地点ということになる。
信じられない。恐怖の時間は、あと半分も残っているのだ……。
「アキくん。もしかして私がいないときに、みんなで教室の壁を叩き壊したりした?」
「二年二組なら、隣でたい焼き売ってるよ」
疑わしいが、違法改築は行われていないらしい。
「あともうちょっとだから、がんばろう」
闇の中、アキくんの声と手の感触が私を元気づける。話し続けることで、私の気を紛らわせてくれている。
「ここ出たら、たい焼きも食おう」
「うん。かわいそうだけど、頭から食べちゃう」
「その意気」
そのときだった。
なけなしのやる気を奪うように、メイド服と背中の間に冷たい風が吹いた。
「うひゃあっ」
後ろからくすくす、と誰かの笑う声がする。子どもの声のようだ。
ばっと振り向くと、垂れ下がる白いカーテンがゆらゆらと揺れている。声の主はあそこに逃げたらしい。縋りつくように握った手を引き寄せた。
「おばっ、おばけ倒して! 早く!」
「無茶言うなって」
「おばひっ」
次はぶおんと生ぬるい風が、額を撫でてくる。
視界が乱れた髪の毛に覆われる。柳の木に取り憑かれたのではなかろうか。病院なのに。
「もうやだー」
縋りついていた手すら離して、私はその場に蹲った。
情けなくて、怖くて、みっともなくて、怖すぎて、涙か鼻水が止まらない。
いやだって言ったのに。へーきじゃないのに。ぜんぜん大丈夫じゃないのに。
「ほら、立って。大丈夫だって」
膝を抱えて、ぐすぐす、ずびずび言う私に、アキくんが手を差し伸べてくる。
私は気力を振り絞って、その手を摑もうとした。この暗闇に置き去りにされたら終わりだ。私はもう、二度と外の世界には戻れなくなる。
一蓮托生。運命共同体。それほどの切なる気持ちで見上げた先で、信じられないことに、アキくんは肩を震わせていた。
なんと、笑っていたのだ。
「なんで笑ってるの!」
私はこんなにも辛い思いをしているのに、いったいどういう了見なのか。
肩を怒らせて震える私をちらっと見て、口元を覆ったアキくんがくぐもった声で言う。
「かわいくて、つい」
なんのフォローにもなっていない。
「ごめん。今まで我慢してたけど、本格的にだめだ」
ついにアキくんは身を折るようにして笑いだす。あははははとか聞こえる。身も蓋もない爆笑である。
「ひどい! 最低! すかぽんたーん!」
私は膝を抱えたまま、さんざん罵倒したが、ますます彼はウケていた。ひーひー言っている。
そんなあほなやり取りの末に、私は自力で立ち上がろうとした。とにかく、早く外に出たい。裏切りのアキくんを置いて、私だけでもおそろしい廃病院を抜けだすのだ。
しかしそこで気がついた。だらりと汗が頰を伝う。
「どうした?」
「あの、なんか立てなく、なっちゃったかも」
腰が抜けたようだった。
じわりと、乾く前の目尻に涙がにじむ。感情に任せ、アキくんを言葉の限り罵ってしまった。こんな自分勝手で愚かな私を、彼はきっと。
「置いてく?」
「なわけないだろ」
涙声で問いかければ、被せるように答えがあった。
アキくんは背中を見せると、マントをなびかせてその場に片膝をついた。唐突な行動の意味が分からず、「どうしたの」と訊ねる。
「おんぶする」
腰抜けな私を、出口まで連れて行ってくれるとアキくんは言う。
「でも、足」
「最近は、大して痛くないから」
尻込みしつつ、私は彼に甘えることにした。
肩に手をかけて、背中にもたれるようにしながら身体を前に出す。
アキくんは立ち上がりながら、両手を私の膝裏へと回した。スカートの裾がずり上がっているが、そんな細かなことに文句をつけられるはずもない。
コアラの赤ちゃんになった気持ち。しがみついたアキくんの身体は、がっちりとしている。筋肉が密集していて、鍛えられていて、スポーツをしていた人の身体つきだと分かる。
逞しい背中に、私は頭を預ける。短い黒髪が頰をつんつんしてくる。アキくんのうなじは、しょっぱいにおいがする。
「重い?」
「まぁ」
ぽか、と軽く頭を叩く。
「訂正する。羽根のように軽いよ」
「噓くさいなぁ」
笑っていたら、あっという間に怖さが薄れていく。
残り半分だったのが噓のように、急に視界が開けた。
まぶしい。目の奥がじんと痛んで、数秒間はぎゅっと目をつぶっていた。
「二人とも、おっかえりー」
外の喧噪と共に、佐藤さんの出迎えの声が響く。
私は目を開けた。不気味な風や、囁く声なんて、日の光に照らされた世界には敵わないのだと悟っていた。
「カルテ、記念に持って帰る?」
「けっこうです」
「あら残念」
握り潰してぐしゃぐしゃになったカルテが回収されていく。
「どうよ、楽しかったでしょ」
それまで笑っていた佐藤さんだったが、べしょべしょになった私を見るなり表情を変えた。
「なんかごめんね」
真顔で謝られてしまった。
清潔そうなハンカチを差しだされる。ばつ丸くんのアップリケがついたハンカチだ。
メイクがついたら取れなくなりそうなので、首を横に振る。でも心遣いはありがたかった。
おんぶされたまま空き教室へと逃げていく。今の私にとっては、ドラキュラのマントがライナスの毛布だ。
ちょうど休憩時間を外れたようで人気はない。アキくんは私を床に下ろした。
私はバッグからポケットティッシュを出して、まず緩い鼻をちーんとかむ。そのあとは、濡れた頰をとんとんと、コットンを当てるようにして拭う。
「少しは落ち着いた?」
「んん、ちょっとは」
廃病院から生還できた今となっては、泣き顔を一部のクラスメイトに見られたのがとにかく恥ずかしいくらいで、怖いのはどうでも良くなってしまった。
しばらく休んでいると、佐藤さんが訪ねてきた。片手でチラシの束を持ち、もう片方の手に看板を握っている。
「じゃあこれ、よろしく。舞台もがんばってね」
『新訳竹取物語』に私たちが出演することは、ポスターで掲示されているので多くの人が知っている。文芸部と演劇部の両部が廃部の危機にあることも噂になっていたそうで、佐藤さんを始めとして、部誌を買って応援してくれる子たちもいてありがたい。
「他は、何か手伝わなくて大丈夫?」
「大丈夫。ていうか、見てよ」
佐藤さんが教室の外に親指を向ける。
同じように外を見てすぐ、言葉の意味が分かった。廊下には長蛇の列ができていたのだ。
列整備の係が必死になって呼びかけているが、階段のほうまで列が続いているのが見て取れる。まもなく実行委員が駆けつけてきそうだ。
「愛川さんの悲鳴がすさまじかったおかげで、怖い物見たさの列が伸びた。これ、マジで最優秀賞狙えるかも」
そのせいで佐藤さんは上機嫌だったらしい。初めてクラスに大きく貢献できて喜ぶべきなのかは、だいぶ微妙なところだった。
彼女が去ってから、私は、胸に手を当てて唱えてみる。
「あめんぼあかいな、あいうえお。うきもにこえびもおよいでる」
望月先輩からは、時間があれば発声練習に取り組むようにと言いつけられている。
アキくんも付き合ってくれた。顎を大きく動かしてはきはきと発音する私たちの声は、騒がしい校舎のどこにも届かない。だからこそ、真剣に歌っていられる。
「ナオ、偉いな」
五十音の歌が終わるなり、アキくんに褒められた。
「あんなに叫んだのに喉が嗄れてない。練習の成果が出てる」
うーん、と私は濁った返事をした。喉じゃなくてお腹でびっくりして偉い、なんて称えられてもぜんぜん喜べない。
「おばけ屋敷、俺もほんとはびびってたんだけど」
「そうなのっ?」
突然の告白に、私は目を白黒とさせた。
とてもじゃないが、信じられない。アキくんは部室で本を読んでいるときとほとんど同じテンションだった。終始、私にはそう見えていたのだ。
するとアキくんが頭をかく。
「自分より怖がってる人がいると、へーきになるんだなって。つまり、ナオのおかげ」
ふん、と私は湿った鼻を鳴らす。それはそれは、結構なことだ。
「悪かったですねぇ、びびりで」
「どうしたら機嫌なおる?」
方法はひとつしかない。
「……ここからは、怖くないデートしたい」
「オーケー」
チラシを半分、手渡される。
アキくんは手持ち看板を掲げて、空き教室のドアを開けた。
窓から射し込む日が、廊下にぬくぬくとした光の道を作っている。私はデートの言い訳を大切に胸に抱えて、彼に続いて教室を出たのだった。
「りっちゃん、お疲れ様」
「お疲れ様で、ってすごい格好!」
時刻は十二時五分。部室に現れた血だらけの私を前にして、りっちゃんはけらけら笑った。
売り子のりっちゃんは愛用のパイプ椅子に腰を下ろしていた。長机は横並びにして、部誌をどっさりと積み上げている。
狭い部室の壁には、舞台のポスターが二枚貼られている。『新訳竹取物語』の公演日に、キャストやスタッフの名前などがレイアウトされたポスターだ。
そこに書かれた公演日が今日で、公演時間が約三時間後に迫っているというのに、まだ現実味が湧かない。何度も稽古を重ねて、体育館でのリハーサルだって終えたのに。
ふと、気がつく。私はいつまでも、青陵祭の準備期間が続くように思っていたのだ。永遠におばけ屋敷の小道具を用意して、多目的ホールで声を張っていられると、錯覚していたのだ。
十月の私は、誰と並んでも遜色ない、どこにでもいるようなフツーの高校生でいられた。
十一月の私は、どうなるのだろう。
「メイドじゃないですか。血まみれだけど。もしかして、アキ先輩のために?」
りっちゃんに見上げられれば、私は笑顔で答えられた。
「ううん。吉井くんからのプレゼント」
「あー、あのあほの先輩ですか」
ひどい呼び方だったが、否定できる材料がない。
「ちなみにアキくんはドラキュラに変身してる」
「ふは」想像だけでおもしろかったようで、りっちゃんが噴きだしている。
「もうちょっとしたら来ると思うよ」
脱出ゲームをやって、輪投げをして、たい焼きや肉巻きおにぎりを食べて、氷水に浸されたペットボトルを捕まえて、ついでにチラシを配り終えた私たちはいったん解散した。アキくんは看板を返すため、教室に寄っているところだ。
私が先行したのは、午前中の売り子を担当したりっちゃんに差し入れを届けるためである。
「それとこれ、どうぞ」
「わ、ありがとうございます」
嬉しげにスーパーの袋を覗き込んだりっちゃんが、くわっと目を見開く。
「まさかの自分とこのクレープ!」
「おいしかったよ」
りっちゃんが焼いているときに寄りたかったけれど、店番を交互にやる関係で難しかった。
いちごジャムで生クリームなクレープを堪能した私の機嫌はすっかり良くなっている。一口あげたら、アキくんには甘すぎたようで目をまんまるにしていた。
「やった! バナナチョコホイップ!」
りっちゃんはクレープの中身に気がついたようだ。歌いだしそうな顔で、包み紙をぺりぺりとリズミカルに裂いている。
「うは、クレープあまー。唐揚げおいしい。たこ焼きんまんま。暴力的なまでにカロリーの味しかしない、最高!」
がつがつがつと勢いよく平らげて、仕上げにポカリを流し込むりっちゃん。よっぽどお腹が空いていたようだ。
午前中の店番をひとりで担当してくれた後輩を労ろうと、後ろに立って肩を揉んであげる。りっちゃんの肩はいつだってわりと凝っている。作家志望の彼女の全身は、これからもっと凝り固まっていきそうで心配だ。
「それで、調子はどう?」
「んー。今のところの売れ行きは微妙、でもないです」
「ほんと?」
聞き返しつつ、気づいてはいた。部誌を詰めた段ボール箱の数が減っていることに。
にんまりとりっちゃんが笑う。
「思ったより好調です。昨日の売り上げ分と合わせて三十三冊ですね。森先輩が描いてくれたポスター効果が大きいのと、先輩方の知り合いだって方がけっこう来てくれました。あと両親に冷やかされました」
りっちゃんは森先輩のことを、もりりん先輩とは呼ばなくなった。彼女との間にあった出来事は、簡単にだが伝えてある。
わたしは心の中で、すずみ先輩、森先輩、と呼び分けている。りっちゃんと同じで、森先輩、のほうが、かぐや姫をやる先輩だ。
「すごい。いい感じだね」
「まだまだここからですけどね。問題は演劇のあとです」
最初にして最後の、一気に売り上げが伸びる機会だ。約三時間後に開演する演劇に、すべてが懸っているといっても過言ではない。
「ナオ先輩。その、もしもの話なんですけど」
いつも歯切れのいいりっちゃんが、珍しく何かを言い淀んでいる。
「もし文芸部がなくなっちゃっても、えと、これからも」
「りっちゃん、弱気な発言禁止だよ」
「う……そうですよね、ごめんなさい」
自信満々にがんばっていたりっちゃんだけれど、胸の奥には不安を抱えていたのだろう。
私はちょっとだけ柔らかくなった肩を、勇気づけるようにぽんぽんと叩いた。
「文芸部はなくならないし、これからも私はりっちゃんの友達だもん」
「はいっ」
りっちゃんが歯を見せて笑ってくれる。
「もしなくなったら、空き教室でも探そうよ」
「どっちですか!」
なんの確証もない私たちは笑い合った。笑えるのなら、なんにも怖くないと思った。だいたいのことは、おばけ屋敷より怖くなんてないのだ。
笑いの余韻に浸っていたら、りっちゃんがぽつりと呟いた。
「にしても、さっきから客足が途絶えてます。これはピンチかもしれません」
確かに、と私はちょっとばかり焦った。
そもそも立地からして不利な文芸部室だ。教室棟と異なり、特別棟の一階はこの部屋しか出し物がないので、来場者の目に触れにくいし、偶然近くを通る人が少ない。
オレンジと白。先ほどまで唐揚げが詰まっていたストライプ柄の紙コップを握ったまま、りっちゃんが立ち上がる。どこに行くのかと思いきや、窓から外を熱心に眺めている。
「ナオ先輩、こっち来てください」
「うん?」
部室の窓から見えるグラウンド。その外れで、ペットボトルや串を手にして屯する人の姿がちらほら見えた。
青陵祭でもディズニーランドでも、休憩所やトイレが最大の人気スポットだったりする。椅子が空いていないので、飲み食いの場所に困って移動してきたのだろう。
「ほら、あそこに初心そうな男子中学生のグループがいるじゃないですか。あっちの方向に手振ってみてくれません?」
「う、うーん」
血まみれメイドが遠くから手を振ってきたら、驚いて逃げてしまうのでは。
不安になりつつ、私は精いっぱい愛想のいい笑顔を浮かべた。距離があるので、船の上から港に向かってそうするように、大きく手を振ってみる。
三冊売れた。吉井くんとドンキ、ありがとう。
りっちゃんから仕事を引き継いだ私とアキくんは、しばらく売り子を担当した。ドラキュラとメイドという奇抜な組み合わせに惑いつつも、何人かが部誌を手に取ってくれた。
午後二時の十分手前になると、赤井先生が姿を見せた。文芸部全員が不在の間、部誌の販売を引き受けてくれたのだ。剣道部の演舞が終わった今日は、全面的に協力してもらえて心強い。
私たちはポカリ片手に近くの水道に寄り、血糊をメイク落としシートで拭った。落ちきらない分は洗顔で洗い流し、お手洗いを済ませてから体育館へと移動する。
衣装を着替えるに当たっては、体育館前の更衣室が解放されている。演劇やミュージカル、演奏などのパフォーマンスを行う団体は、みんなここで一張羅をまとうのだ。
左隅のロッカーを開けると、記憶通りのへにゃっとした紙袋が待ち構えていた。演劇部、ナオ、と私の字で書いてある。便宜上とはいえ、演劇部を名乗る私はちょっと新鮮だ。
下着姿で足袋を穿いてから、服を手に取る。翁と媼は、袢纏を改造した衣装を着る。私は藤色、アキくんは柳色と、衣装はそれぞれ地味めな色合いだ。
白いリボンを外して、呼吸させるように髪を持ち上げると、閉じ込められていた屋台の煙がぶわっと出てきた。天窓からおいしそうな煙が逃げていくのを見送りながら、ほっかむりで髪をまとめ直す。長い髪の毛は、そろそろシュシュを恋しがっているかもしれない。
草履を履けば、準備万端だ。
軽く手足をぷらぷら、にぎにぎさせる。動きに支障はない。眼球を限界まで動かして、茶色い前髪のあたりから、指先、足先まで眺めてみる。
全体的に、農作業をするおばあちゃんっぽい。素直はぜったい着ないような衣装だけれど、私は気に入っている。
鍵を開けて更衣室を出ると、すぐ近くの壁際でアキくんが待っていた。
「行ける?」
「えっとね」胸元に手を添えて、はにかんでしまう。
「すっごく、キンチョーしてきた」
衣装を着用したら、自覚した。間延びしたのは、舞台上でそうするみたいにはきはき発音したら、心臓のポンプ機能が壊れちゃいそうだったからだ。
それを聞いたアキくんが、明快に笑う。
「俺も」
おばけ屋敷が怖かったと告白した声色より、真実味が強い。
私は飲みかけのペットボトルを開ける。数分ぶりのポカリの味は、やたら濃くて胸焼けしそうになった。
アキくんも水分補給することにしたのか、キャップを開けている。
直後、がっ、と聞いたことのないような音がした。
勢い余ってアキくんが飲み口に前歯をぶつけたようだった。親の敵を見るような目でペットボトルを睨んでいるが、透明なボトルにいきなり鋭い牙が生えてきたわけはない。
「血、出てるかも」
しきりに歯のあたりを気にしている。
「出てないよ」
ふふって笑ってしまう。
「ほんとに?」
心細そうな太い眉毛と目が合って、ちょっと笑えた。元気になってきた。自分より狼狽えている人がいると、わりとへーきになるっていうのは、どうやら本当だったみたいだ。
「行こう、アキくん」
顎を擦りながら、アキくんが頷く。
体育館に入ったら、ステージ横にある控え室へと向かう。休まず人の出入りがあるので、移動する人影はそこまで目立たない。
体育館ではバンド演奏の真っ最中だった。見覚えのない男子たちが壇上に上がっている。堂々としていて、三年生っぽいなと思う。
鼓膜を貫くハイトーンボイス。ジャカジャカジャカ、と搔き鳴らされるギターの音。激しいドラム音に、会場の前半分くらいが大きく盛り上がっている。
慣れない草履で進みながら、私は見上げた。天井に嵌まるバレーボールまで舞台に引っ張り上げるように、カラフルな照明の光が飛んでいる。
モスグリーンのシートが敷き詰められ、びっしりとパイプ椅子が整列したその場所は、シャトルランを走る体育館とはまったく別の施設に見えた。
「お、来たな」
控え室には、すでに望月先輩や森先輩の姿があった。りっちゃんも。
何人か姿が見えない裏方の先輩たちは、音響や照明室に入って待機しているらしい。舞台の横手にある控え室は、演劇部&文芸部&演劇部助っ人が全員入るには少し手狭だった。
「さっそくだけど、メイクやるぞ」
メイクセットを持つ望月先輩は、どこかメイク班の二人を思い起こさせる。
舞台では、演者は顔や手足に特殊なメイクを施す。演劇にはカメラがないためだ。舞台と観客には距離があるので、すっぴん、あるいは日常的な化粧では、全体的に平たく見えて、顔の印象がぼんやりとしてしまうらしい。
そこで仕草や表情を印象づけるために、ドーランと呼ばれる濃いファンデーションを塗って強調する。役柄によって眉や目元、鼻筋にもくっきりとしたメイクをするので、舞台ではない場所で眺めると顔の印象が強すぎて、化粧を失敗した人のように見える。
私の化粧は森先輩が、アキくんの化粧は望月先輩が担当してくれた。老人を演じるときは、顔に皺を描くのが一般的だそうだが、今回は省かれた。スプレーで髪を白く染めるのも、なし。個人的には、どちらも挑戦してみたかった。
メイクが終わったら、あとは待機時間。前のグループの発表後、十分間の休憩を挟んで演劇部の舞台の幕が上がる。
それまでは、ジャカジャカババーンを聞いて、ドキドキしながら控え室の隅っこで待ち続ける。
廃病院でいちど止まった心臓は、躍るように脈打っている。
りっちゃんたち五人の求婚者は最後の打ち合わせ中だ。望月先輩はたまに立ち上がって屈伸したり、舞台袖から観客席を眺めたりと落ち着かない。先輩のそれは私とは異なり、興奮というか、武者震いの感覚に近いのかもしれない。
なんとはなしに見ていたら、スキップに似た忍び足で戻ってきた。悪戯好きな小学生のような笑みを浮かべながら、声を潜めて森先輩に話しかけている。
「森、母さんたち一緒に来てるぞ」
幼なじみだというから、望月先輩は森先輩のお母さんの顔を知っているのだろう。その言葉に、森先輩の肩がはっきりと震えたのが分かった。
暗がりだからか、望月先輩は気づかなかったようだ。というより、舞台を前にした高揚感か、告白を保留にされている状況が、本来は鋭い彼の目を塞いでいたのかもしれない。
でも、後ろに座る私には見えていた。森先輩の呼吸は、数秒ごとに荒くなっている。
主演を務める彼女が緊張しているのだとしたら、まずい気がした。
控え室にある壁時計を確認する。実行委員の努力により、タイムテーブルはほとんど誤差なく回っている。前のグループの持ち時間はあと十分近くある、はずだ。
それなら、休憩を含めて十五分以上の猶予がある。私はそっと声をかけた。
「森先輩、ちょっと外に出ませんか」
控え室の空気は籠もっている。ここにいては気が滅入るだけだろう。
そう提案すると森先輩は驚いたようだったが、青白い顔で頷いた。項垂れるような首肯だった。
やり取りに気がついたアキくんは、怖い顔をしてこちらに歩み寄ってきた。
ぼんやりしている先輩を一瞥してから、私の耳元で言う。
「二人じゃ行かせられない」
「心配性だ」
「ナオ」
茶化すなよ、と軽く睨まれる。迫力はなくて、ただ心配しているのが伝わってくる。
「何かあったら、すぐスマホに連絡するから」
それでもアキくんは渋い顔をしていたが、私が譲らないのを見て取ると嘆息した。
了承の合図と受け取って、さりげなく先輩の手に触れた。そうしてびっくりしたのは、その手が死人のそれのように冷えきっていたからだ。私の手も冷たいが、比べものにならない。
戸惑いを隠しながら、肩を支えて控え室を出る。望月先輩には、アキくんから説明してくれるはずだ。
体育館の隅っこを歩きながら、視線をやった。私には、パイプ椅子に座る誰が森先輩の母親なのかは分からなかった。
みんな笑顔でステージを見やっている。ときどき手を叩いたり、サビを一緒に歌ったりする。それは文化祭の一幕らしい、なんの欠点も見いだせない、輝かしい光景だった。
体育館から一歩、外に出ただけで、ライブ会場が少し遠くなったみたい。私は、どうしようか悩んでから更衣室を覗いた。
演劇部の次のグループはまだ来ていない。無人の更衣室に、私は先に入った。
森先輩は鮮やかな赤い裾を気にしたのか、立ったまま引き戸に背中を預けるようにする。
正面に立ち尽くす私は、外に出るべきか迷った。
「ごめんね。もうすぐ本番なのに」
私が何か言う前に、先輩が謝罪の言葉を口にする。
「……どうしてお母さん、こんなところに来たんだろう。すずみの傍についてあげててほしいのに。望月くんのお母さん、相変わらず押し強いのかな」
続きは愚痴に近かったが、その内容に私は引っ掛かった。
すずみの傍に、と先輩ははっきり言ったのだ。
「すずみ先輩のお母さんは、あなたのことを知ってるんですか?」
こちらを向いた先輩は不思議そうな顔をする。
「最初から知ってるよ。わたしをすずみから引き離したのは、あの人だし」
今さら実感した。私は、目の前の人のことを何も知らない。
同じレプリカであっても、置かれた状況はそれぞれ違う。アキくんと出会って百も承知していたはずなのに、先輩の胸中を推量していなかった。今まで考えようともしていなかった。
思いだしてみると、あの日の彼女は切羽詰まっていた。なりふり構わない一生懸命さは得体が知れなくて、私には怖かったけれど、そこには何か理由があったはずなのだ。
「教えてくれませんか、あなたのこと」
そう口にすると、珍妙なものを見るような目つきで眺められる。
「物好き、ってよく言われない?」
どうだっただろう。小首を傾げていると、気が抜けたように森先輩が笑みを漏らした。
「いい、話すよ。おもしろい話じゃないけど、それでも良かったら」
先輩は遠くを見て、語りだした。
「わたしが生まれたのは五歳のとき。幼稚園でやる演劇発表会の直前に生みだされて、意地悪な継母役をやってほしいって、すずみに頼まれたの。わたしはそれに従って、母と一緒に幼稚園に向かった」
それは、森すずみのレプリカである彼女の身の上話だ。
「でもすずみは、あとを追いかけてきた。あの人は……母はわたしたちを見て、パニックになっちゃった。そりゃそうよね。手を繫いでる自分の子どもと、まったく同じ顔の子どもが、目の前にもうひとりいるんだもの。お腹を痛めて産んだのは、ひとりだけなのに」
自嘲気味な微笑みは、耳を傾ける私にも突き刺さる。
お母さんは、愛娘の素直が演劇に出るから観たがったのだ。だからあんなに残念がっていた。決して、そっくりさんの舞台を観たいわけじゃない。
「母は体調を崩した。父も混乱してたけど、生まれた命をなかったことにはできないって。わたしはすずみとは引き離されて、富士宮の祖父母の家に送られることになった。父方の両親ね」
祖父母。それは、水彩画に描かれていた二人だろう。
「今からもう、十三年も前のこと。わたしはそれから一度も、すずみには会ってなかった」
「一度も、ですか?」
にわかには信じがたいことだった。思わず口を挟めば、「そっちは?」と問われる。
「私は必要な日だけ、素直に呼びだされるんです。十月はずっと、私が代わりに登校してて……でも、昨日は素直が」
そうなんだ、と森先輩は掠れた声音で呟いた。
体育館から歓声が聞こえてくる。もうあまり時間がない。
「知ってた? 日本だと戸籍がなくても、義務教育の範囲なら学校に通えるの。わたし、小学校にも中学校にも行ったんだ。高校は無理だったけど、家にはおばあちゃんたちがいるし、ひとりでも勉強はできるから、それでじゅうぶんだった」
特に自慢げでもなく、先輩は単なる事実として語る。
私たちはしばし、無言のまま見つめ合った。
私やアキくんとは何もかも違う。目の前のレプリカは、オリジナルとは顔を合わせることもなく、まったく別の環境で、人間として生活してきた人なのだ。
それだけならば、羨ましいと思っただろう。私が喉から手が出るほど欲するものを、目の前で暗い顔をした人はとっくに獲得しているのだから。
だが、それなら、おかしいことがある。十三年間も別人として生きてきたのに、どうして彼女は今になって、森すずみとして学校に通っているのだろうか。
当然、向けるべき問いだった。でも私は躊躇いを覚えた。
美術室でぶつけられた質問の数々に、私は自分の経験を重ねたけれど。
もしかしたら、あれは。
「すずみはね、植物になっちゃったの」
最初、溜め息と共に告げられた言葉の意味が分からなかった。
「夏休みに事故で頭を打って、次の日から眠り続けてる。最初は入院してたけど、八月の終わりに自宅療養に移った。あの人が……お母さんが富士宮に来たのも八月の終わりだった。視界に入れるのもいやがって、バケモノ扱いしたはずのわたしを見て、言うの」
お願い、すずみの振りをして学校に通って。このままじゃあの子、出席日数が足りなくなっちゃう。現役合格目指してがんばってたのに、あの子の努力が水の泡になっちゃう。
あの子を、助けてあげて。
あなたは、そのためにあの日、何もないところから生まれてきたのかもしれない。
「事故が夏休み中に起きたのは、不幸中の幸いだったのかもね。連絡を一度も返さなくても、受験勉強に集中してたって謝ればいいし、髪はうざくて切ったって言えばどうにかなる。今のすずみをちっとも知らないわたしでも、いろんなことが無理やり、ごまかせる」
幸福のかけらすら浮かばない顔で、うっそりと先輩が笑う。
「頭の出来はどうにもならないけど。生徒会室での話、聞いてたでしょ? わたし、すずみと違って馬鹿だから。中卒が高三のテストで五点も取れたら、褒めてほしいけどね」
先輩は笑っていたけれど、私は笑えなかった。
光る双眸からとうとう涙がこぼれて、着物の襟に染みを作るのを、黙って見ていた。
「森すずみとして連れ戻されてから、それなりにがんばったの。すずみになって、もりりんになって、生徒会長になって、かぐや姫になって……がんばった、つもりだったの」
力任せに頭をかく。セットされた髪が乱れる。それでも舞台用の濃いメイクは少しも崩れなくて、それが私にはひどく残酷なことに思えてならなかった。
かぐや姫役に決まったと伝えたときの、先輩の様子が眼裏に浮かんだ。望月先輩に怒鳴る声も。テストの点数も。生徒会室でひとりきりで食べたという、お弁当の味も。
それはきっと、彼女にとって信じられないほど過酷な日々だったろう。五歳までの記憶でしか知らないオリジナルを、目の前の人は大勢の前で演じなければならなかった。
誰も味方はいなかった。心がすり切れるだけでは、済まなかったはずだ。
でも、私は見誤っていた。
先輩は身代わりを演じる苦しさだけに、喘いでいたわけではなかったのだ。
「だけどわたしは、不格好な時間稼ぎをしただけ。こんなんじゃ、本当の意味ですずみの役には立ててない。あなたに会って、一縷の希望があるかもしれないって思ったけど……だめだった。レプリカの命じゃ、オリジナルは救えないんだね」
身につまされる思いがして、歯を食いしばる。
どうして、そんな風に自分を犠牲にできるのだろう。必死になって、オリジナルのために身を粉にするのだろう。
私はどこか、彼女を哀れむような、同情するような眼差しを向けていたのかもしれない。
でも、森先輩はまったく同じ目で私を見つめていた。鏡を覗き込むように、その瞳には私と同様の感情が浮かんでいた。
私は不意を打たれて、きょとんとした。
どうして私は哀れまれ、同情されているのだろう。
「ねぇ、おかしいよね。なんでわたしたちって、こんなにばかなのかなぁ?」
「……え?」
同意を求める笑みに、うまく返事ができない。
「愛川さんのドッペルちゃん。本当はあなたも自覚があるんでしょ。オリジナルのために、なんて平気で考えられる時点で、歪まされてるって」
すべてはオリジナルのために。
素直のために山登りをして、マラソンをして、シャトルランだって走ってきた。彼女のいやがること、面倒くさがることを、なんでも引き受けてきた。
「すずみは継母の役をやりたくなくて、わたしを作った。でも変だよね。どうしてすずみから生まれたわたしは、継母をやるために家を出られたんだろう。任せて、なんて胸を張って言えたんだろう」
先輩は繰り返す。おかしいよね。わたしたちって、おかしいよね。
目蓋がぴくりと痙攣する。背中がざわつく。
これ以上は聞きたくないのに、お構いなしに先輩は唇を開く。丸まった背中が出入り口をきれいに塞いでいるから、私の逃げ場所はない。
「本当なら、わたしだっていやがったはずだよね。継母なんてやだ、同じ顔をしたあなたがやればいいでしょって撥ねつけたはず。でも、わたしにとっては当たり前だったの。わたしがやらなくちゃと心から信じきってたの。……あなたにも、心当たりがあるんじゃないの」
涙に濡れた視線が、私を射貫く。
たわいのない喧嘩だった、と思う。理由はなんだったか、今になって思いだそうとしても頭を捻ってしまうような、仕様もない口喧嘩だったのだ。
でも素直は、りっちゃんに謝れなかった。謝れない素直は私を生んで、願われた私は、当然のように公民館に向かった。そこで年下の友人に、謝れない振りをしながら謝った。
愛川素直がやりたくないこと。愛川素直にはできないこと。私にはできること。
少しずつ、何かがずれて、変わっていったわけじゃない。
この世界に生まれ落ちた瞬間から、素直と私には決定的な違いがあった。
アキくんだってそうだ。真田くんは五月以降、一度も登校していない。それは彼に、依然として学校に行くことへの恐怖心があるからだろう。
でも、アキくんはオリジナルの願いを聞き、怯まずに登校した。心の底には臆する気持ちがあったのかもしれないけれど、今まで一日たりとも休んでいない。
私たちは、最初から。
「今もそう。最後にすずみに会ったの、十三年も前なのよ? それなのにわたし、ぜんぶ、すずみのためよ。すずみを生き返らせるためよ。すずみのためなら、なんだってできちゃうの」
いっそ酷薄な笑みを浮かべて、先輩は血を吐くように言う。
「ほら、おかしいよね。わたしたちは姿形だけ、ほんものによく似せて精巧に作られて……でも、心は奇妙な形に歪んでる。こんなの、意思のない操り人形と一緒だよ」
一際大きな歓声と拍手が、体育館から聞こえてきた。
あんまりにも明るい音声だから、まるで別世界の出来事が紛れ込んできたみたいに、へんてこな響きだった。
「そろそろ戻ろうか。演劇、始まっちゃう」
照れくさそうに頰を赤くする彼女は、まさに千両役者だった。
引き戸をがらりと開けて、私を手招く。その姿を見て、私には奇妙な確信が芽生えた。
まだ幕は上がっていない『竹取物語』。
森すずみが演じられない劇を、このレプリカはきっと、誰よりも完璧に演じきってみせる。