十月末に向けて、各クラスの準備や展示は完成間近を迎えている。
二年一組もまた、教室で廃病院のセットを組んでいた。一部分だけ試すことはあったものの、すべてを本番通りに組み立ててみるのは初めてだ。
久しぶりに太陽が顔を見せた今日は、教師や生徒会を含んだ実行委員たちにより、各自の出し物が視察される。おばけ屋敷の場合、暗すぎないか、客が怪我をするような危険な脅かし行為がないかなど、入念に審査されるそうだ。
昼間の煌々とした光に照らされる明るいおばけ屋敷は、ちょっと滑稽ですらある。
配置についた脅かし役たちは、本番と同様に仮装やメイクを済ませていた。
「にしても来ないわねー、監察団ご一行」
佐藤さんたちが後ろのドアから顔だけ出して、廊下の先を睨んでいる。
二組や三組のほうにもまだ来ていないようだ。五限中には視察に来るということだったが、そろそろ休み時間に入ってしまう。どこかのクラスで手間取っているのだろうか。
みんなそわそわするばかりで時間が流れていく。一組の実行委員も不在なので確認が取れない。このままではじり貧だ。
手持ち無沙汰な私はひとつ、提案してみることにした。
「生徒会室、ちょっと見てくるよ」
「ほんと? 助かる」
望月先輩たちと繫がりができたことで、ちょこちょこ生徒会室に行く機会は増えていた。他の生徒より、私のほうが少しだけ気軽だ。
ひとりで階段を上っていく。三階にもちらっと顔を出してみたが、人の行き交う廊下に監察団の姿は見当たらない。
そのとき上の階から、誰かの声が聞こえてきた。
聞き耳を立てるまでもなく、生徒会室のドアは開きっぱなしになっている。
「なんだよ、この点数」
「やっぱり、答案用紙なんてこんなところに隠しちゃだめか」
それは、知っている二人の声だった。
演劇の練習で何度も聞いている。聞き間違えるはずはなかったが、呆気に取られたような望月先輩の声音と、張り詰めた森先輩の声は、私の四肢を強張らせるにはじゅうぶんだった。
「お前、共通テストに向けてがんばってるんだよな。前にそう言ったよな?」
「言ったかもね」
「まさかとは思うけど、勉強そっちのけでどっか遊び歩いてたりしてねぇよな」
「……そんなこと、するわけないでしょ」
まずい、と反射的に思う。
会話の内容から察するに、どうやら森先輩が隠していた試験の答案用紙か何かを、望月先輩が発見したらしい。その点数が冴えないため、一方的に因縁をつけているようだ。
でも、森先輩の声は震えている。放っておいたら、取り返しがつかなくなるかもしれない。
私は、生徒会室に入ろうとした。喧嘩を仲裁するか、それが無謀ならば何も聞いていない振りをして、監査について確認すればいい。そうすれば一時的にでもうやむやにできる。
しかし意思とは裏腹に、両足は床に張りついて動いてくれなかった。
他人が無造作に割って入れるほど、室内の空気は生ぬるいものではなかったのだ。
「だったらおかしいだろ。なんで森のくせにこんな、馬鹿みたいな点数取って」
「うるさいなぁ、もう!」
一気に爆発した。
望月先輩の言をきっかけに、森先輩が怒鳴り散らす。室内の温度はヒートアップして、誰にも制御できなくなっていく。もちろん、当事者である二人にも。
「関係ないでしょ、そんなの。わたしが五点だか十点だか取ったからって、なんでそんな小言みたいなこと言われなくちゃいけないの!」
「五点だか十点だかがあり得ないからだろ。寝てても取れねえよ、こんな点!」
「うっさいうっさい、勝手にかぐや姫なんか押しつけておいて、偉そうに説教しないで!」
望月先輩が、ひゅっと息を吞んだのが分かった。
「じゃあ、じゃあそんなの、断れば良かっただろ。僕となんかやりたくないって!」
「勝手な言い分やめてよ、なんにも知らないくせに!」
相手を傷つけるためだけの暴言が頭上を飛び交って、お互いに血が噴き出る。
闇雲に飛びだしてきたのは、血だらけの森先輩だった。
私と、森先輩の目が合う。大きく見開いた目は潤んでいる。今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳を乱暴に拭うと、先輩は廊下を走って行ってしまった。
私は、立ち尽くしていた。少しでも気を抜いたら泣いてしまいそうだった。
手に持つナイフよりも、口から出てくる言霊のほうがよっぽど人を殺すのだと、私たちは物心つく前から知っている。だからこそ扱いには慎重にならないといけないのに、どうしようもなく、衝動的に引き金を引いてしまう瞬間がある。
放てば、取り返しがつかないのに。肌の奥に埋まったそれは、どんな名医が手術してもうまく取りだせないのに。
何もできなかった無力な私は、それでも、見て見ぬ振りをしなかった。
「愛川か」
開いたドアからおそるおそる顔を出した私を見て、望月先輩が溜め息を吐く。
「はぁ」
窓際に立っていた彼は、壁にお尻をつけてずるずると滑っていく。そのまま床に座り込むと、膝を抱えて項垂れてしまった。
やはり、見なかったことにしたほうがいいのかもしれない。望月先輩だって、大して仲良くもない後輩に見られたい場面ではなかっただろう。
この場を静かに立ち去って、明日は何事もなかったような顔をするのが賢明なのかも。
でも、どうしても伝えたいことがあった。たとえ、傷に塩を塗るような真似だとしても。
「先輩、ひとつだけいいですか」
「なんだよ」
攻撃的な口調。怖くなかったのは、言うべきことが先に定まっていたからだ。
「あんな言い方されたら、誰だって傷つきます」
森先輩は泣きそうだった。望月先輩の言葉に追い詰められていた。
でも、それだけではない。森先輩は悔やんでいたのだ。売り言葉に買い言葉で、言うべきでないことをぶつけてしまったから。
「……そっか。そうだよな」
意気消沈した望月先輩の声は、空気に溶けていってしまいそうに弱々しい。
膝を抱える先輩から少しだけ距離を取って、私は壁際に座り込んだ。スカートの折り目が変にならないよう、注意しながら体育座りしていると、探るような口調で問われる。
「愛川って、口堅い?」
「堅いときも、柔らかいときもあります」
望月先輩の丸まった背中が揺れる。くぐもった笑い声が漏れ聞こえた。
「真面目か。でも、そうだな。それくらいのほうが信用できる」
それから、膝の間から顔を上げて静かに語りだした。
「夏休み、森と一緒に安倍川の花火大会行ったんだ。で、告白したんだけど、未だに返事を保留にされてる」
思いがけない告白だった。
今年の花火大会は、七月二十四日に開催された。終業式をサボった私は素直に消されて、知らないままの一日だけれど、目立つところに貼られていたポスターの日付は覚えている。
訊きたいことはたくさんある。でも口は挟まなかった。この人は今、私を石の壁だと思っているから、臆せず唇を動かせるのだ。
「森は頭も良くてな。学年で三本指に入るくらい。勉強がんばって、東京の大学に行きたいらしい。将来はメディア関連の仕事に就きたいんだってさ。だから、保留なんだろうな」
数秒間の沈黙があった。
「それなのに、あいつすごいよ。夏休みの間、なーんも連絡してこないで、明けてからも顔色ひとつ変えず僕に話しかけてくるんだから。こっちは毎日、心の中でのたうち回って、死にかけてるっていうのに」
頭を搔きむしっている。望月先輩は心底、参っているようだった。
私は想像を巡らせてみる。もしも私がアキくんに告白して、返事はしばらく待ってと言われたあとも、当たり前のように毎日、顔を合わせていたら。
「それは、悶々としますね」
「そうだろ。するだろ、悶々と」
だはぁ、と顔を両手で覆って、重たげな息を吐く望月先輩。
いつ返事をくれるのか。今なのか、明日なのか、それとも一秒後か。
もはや一世一代の告白はなかったことにされたのか。他に好きな人がいるならば、とっとと引導を渡してくれないか。もう、楽にしてくれないだろうか。
そんなことを毎分毎秒のように考えて、気が気でなくなって、正気を保てなくなっていく。
自覚的なのか無自覚的なのか。森先輩は、望月先輩に対してひどく無神経で、残酷なことをしている。
「もうじゅうぶん忙しいけど、もっと多忙になりたいくらいだ。目回してわけわかんなくなってれば、なるべく余計なこと考えずに済む」
初めて、望月先輩のことが身近に感じられた。
制御できない感情に振り回されるのは、先輩も同じなのだ。
私が、レプリカだからじゃない。たぶんみんな、おんなじだ。言葉にしたら終わってしまうような、変わってしまうような何かをお腹に抱えていて、苦しくて、じたばたもがいている。
でも私は、お腹を軽くする魔法だって知っている。二週間前に習得したのだ。
「望月先輩、鼻から息を吸ってください」
「は? なんだよ急に」
「いいから、はい、吸って」
条件反射なのか、望月先輩が大きく息を吸う。鼻の穴が膨らむ。
「吐いてー。……一、二、三、四、五」
「ぶはぁっ」
膝を抱えた無理な姿勢だったからか、最後はやや苦しげだ。
「腹式呼吸ですよ、先輩」
今は苦しそうな人から教わった、大切な呼吸法。その助けが得られれば、森先輩を前にしたときの心と身体の緊張だって、ちょっとは解れるはずだ。
無責任な励ましも、その場しのぎの慰めもできないから、その代わりだった。
第一、もしそんなものを求めているのなら、私以外にもっと適任がいるだろう。望月先輩にはたくさんの、素敵な友人がいるのだから。
だから私は、何も言わないことにした。なんの役にも立たない私なりの応援だった。
お腹から声を出す。言葉にできない応援だって、お腹の底から。
少しだけ気持ちにゆとりができたのか、望月先輩が曲げていた膝を伸ばす。
「ちなみにそっちは、真田とは付き合ってんの」
出し抜けの問いに、私は言葉に詰まった。
みんな、満を持したようにそういうことを訊いてくる。青陵祭が近いからだろうか。
「付き合ってません」
私は、眉のあたりにぐっと力を込めた。望月先輩は喉の奥で笑っている。
「そうだよな。保留にされてる奴の目の前で、認められないか」
そういうわけではないのだが、そう受け取ってもらえれば都合がいいのかもしれない。
「愛川って、思ってたのとちょっと違う」
ひっそりと、私は目を瞠る。
どういう意味だろう。注視していると、望月先輩は気まずそうに目を逸らした。
「三年の間じゃ、孤高の姫君とかクール美人とか、そんな風に言われてっから」
いまいち褒めているのか不明瞭なあだ名は、素直を称したものだろう。
私は、ちょっとだけ白状することにした。
「私がこんななのは、文芸部のみんなといるときだけです」
「そうなん?」
「はい。普段は、孤高でクールですけど」
他のクラスの友達と一緒にいるとき、素直がどんな顔をしているのか、私は知らない。
素直はいつでも手鏡を見ているわけじゃないからだ。オリジナルの見たものや聞いたものをあとから知るだけの私は、素直自身に詳しいわけじゃない。
でも、あんまり楽しくないのかもしれない。そう感じるのは、彼女たちと過ごす時間の記録は、どれもぼんやりと霞んでいるからだ。
「自分で言うのかよ、それ」
「失礼な先輩に、せっかく言ってもらったので?」
つんと澄ました顔を作ってから、にやっと笑ってみせる。
「うわ、今のはちょっと怖かった。びびった」
先輩はわざとらしく肩のあたりを擦っている。私は得意になった。
「演技力ありました?」
「おう。それが少しも演劇に活かされないのが不思議だ」
私の胸は容赦なく抉られていたのだが、望月先輩には毒舌の自覚がないようだった。
「そっか。でも、それだけ文芸部は大事な場所なんだな。三人とも必死になるわけだ」
何かに納得したように、深く頷いている。
演劇もおばけ屋敷も楽しい。楽しくて、初めてで、ぜんぶ特別だ。
でもやっぱり私は、文芸部の、あの狭い部室でのんびりしている時間がいっとう好き。ひなたぼっこしているように安らぐ時間が、大好きなのだ。
失いたくないから必死になれる。
最初から、私のものじゃなくても。
「望月先輩は、どうして演劇部に入ったんですか」
ごまかすように早口で問いかければ、そうとは知らない望月先輩は応じてくれた。
「僕、口が悪いだろ?」
「はい」
「噓でも否定しろよ、そこは」
呆れたような溜め息に、ふてくされた響きはない。
「小学生のとき、クラス全員で『スイミー』の劇をやることになったんだ」
告げられたのはみんなと違う色を持つ、一匹の黒くて小さなお魚の名前だ。
「といっても僕は最初にマグロに食われる、端役も端役だったけど。でも、あの劇がきっかけだった」
その目は遠く、ライトに照らされた舞台を見つめている。
「舞台に立つときって不思議なんだ。僕が僕じゃなくなる、っていうのかな。たくさんの人の前で別人として喋ってると、予定外の失言は出ようがないし、まったく違う人生をずっと前から歩んでいるような感覚が芽生えてくることがある。それがけっこう、おもしろい」
独白を聞いていて、ふっと思う。
森先輩も似たような気持ちで、演じているのだろうか。別人になりきるから、その演技は特別に輝いて見えるのだろうか。
なんとなく、そうじゃない気がする。練習中の森先輩はどこまでも自然体なのだ。
かぐや姫として振る舞っているわけではない。むしろ逆だ。かぐや姫が彼女に近い。だから、その演技とも呼べない真実が、見る人の胸を打つ。
黙り込む私の隣で、望月先輩が努めて明るい声で言い放つ。
「本番、もう来週末か。がんばろうな」
足音がした。
森先輩が戻ってきたのかと思った。隣の望月先輩も同じように考えたのだろう。床に投げだした膝がぴくりとして、動揺が手に取るように伝わってきた。
でも、ドアの近くに立っていたのはアキくんだった。しゃがみ込んだ私たちは、机の脚の間から顔を出すように上半身を傾けてみて、それを知った。
「おー、真田じゃん」
望月先輩が珍しく愛想良く呼んだのは、気恥ずかしさのせいだったのかもしれない。
「どうも」
アキくんは短く返したが、そのまま立ち尽くしている。
視線が合っているようで合わない。なんだか様子がおかしい。どうしたのかと声をかけようとするものの、それより早く望月先輩が膝を使って立ち上がっていた。
凝った筋肉を動かすように天井に向かって伸びをしてから、私のほうを振り向く。
「ありがとな、愛川」
返事を聞くこともなく、望月先輩はアキくんと入れ違いで去って行った。
きっと森先輩を捜しに行ったに違いない。どうか二人が仲直りできますように、と私は心の中で願った。
「監査、来たよ。問題なく進んでる」
「そうだったんだ。良かった」
近づいてきたアキくんが手を貸してくれる。
私はその手を摑んで立ち上がった。スカートを軽く払って、お礼を言うために見上げたところで、目の前の彼が思い詰めたような顔をしていたから驚いた。
「望月先輩と、なに話してたの」
答えようとして、とっさに唇を引き結ぶ。
望月先輩は、私の口の堅さについて気にしていた。それは振るわなかった試験の点数とか、返事を保留にされた告白の話を、誰かに不用意に話さないかどうか見極めるためだ。
先ほどの会話はすべて、私を信頼して打ち明けてくれたことなのだ。アキくんが相手といえども、正直に話すわけにはいかない。
「な、内緒の話」
アキくんならば、これで察してくれると思っていた。
「俺には言えないようなことか」
ぴりり、とうなじのあたりにしびれが走る。
アキくんの声にも表情にも、隠しきれない不機嫌がにじんでいる。
大いなる誤解をされている。しかも、禍根を残すタイプの誤解である。放置したら先ほどの二人のようになる可能性が、なきにしもあらず。
「言えるようなことだよ。望月先輩の恋愛相談に乗ってたの」
これくらいなら許してもらえるはず。そう判断して、少しだけ内容を明かすことにした。
アキくんのまとう空気が、少しだけ緩む。
「恋愛相談?」
「そう。的確なアドバイスをしたから、お礼を言われただけ」
実際は、望月先輩のあれは独り言で、相談ではない。そして私は腹式呼吸を提案しただけで、有効なアドバイスなんてひとつもしていないのだが。
アキくんが不安がるようなことは何もない。それだけは伝われと念じる。
「ふぅん」
工夫の甲斐あってか、浮気者のそしりは免れたらしい。
安心の吐息をこぼしていたら、思いがけない申し出をされた。
「なら、俺の相談にも乗ってほしい」
聞き逃せない発言だ。なんせ、彼と付き合っているのは私である。
相談したいことがあるということは、何か、恋人である私に不満があるのでは。
おそろしく思いながら、おずおずと促した。
「困ってること、あるの?」
「ある。恋人が他の男と話してるだけで、もやもやしちゃったんだけど」
どうすればいい、とこちらの顔を窺ってくる。わざわざちょっと屈んでいる不遜な男の子の額を、ぺちりと弾く。
ツッコミ待ちをしていたアキくんが、ようやく笑った。
「重傷なので、それは一生治らないです」
「治らないか」
困ったな、と大して困っていない顔で、アキくんが呟く。頰をかいていないからバレバレだ。
私は下唇を嚙む。言おうかな、と悩んだのはきっかり二秒半。
その間に、森先輩や佐藤さん、クラスの女の子と話す広い背中が、まざまざと思いだせていたから。
「でも、恋人も同じ症状に悩んでいるみたいなので、大丈夫だと思います」
決意したまでは良かったものの、あんまり恥ずかしくて、語尾が尻窄みになってしまった。
そうして消えかけた言霊を、アキくんの鼓膜はきちんと拾い上げている。アキくんは私よりも恥ずかしそうに、太い眉を寄せて笑った。
「それは朗報」
私はどうしたって、この笑顔に弱い。
おばけ屋敷の監査は、段ボールが一箇所だけ倒れやすいと注意があったくらいで、滞りなく済んだらしい。
てきぱきと解体をして、また空き教室に押し込んでおく。毎日の授業は免除にならないから、教室をいつまでもでろでろの廃病院にしてはおけないのだ。
次に組み立てるのは二十九日になるだろう。青陵祭の前日となるその日は一日中、準備のための時間に割り当てられている。
迫る青陵祭本番に向けて、校舎全体に漂う高揚感は日に日に増していくようだった。
「みなさん、赤井先生からの差し入れでーす」
多目的ホールでの発声練習が終わったところで、スーパーの袋片手にりっちゃんが現れた。数日ぶりのランニング時から不在だったのだが、それを受け取りに行っていたらしい。
差し入れを前にしたら、練習は中断するものだと相場は決まっている。袋の中身に、私は歓声を上げた。
「うなぎパイだ!」
しかも、ただのうなぎパイではない。
「ナッツ入りだ!」
アーモンドのさくさく食感が楽しめる、特別なやつ。通常のうなぎパイよりお高いうなぎパイである。さっそくそれぞれ座り込んで、おやつタイムを楽しむことになった。
今日は助っ人軍団が来ていないので、多目的ホールが広く感じられる。彼らの分のうなぎパイは別にしておいた。
「個人的にはしらすパイもラブです」
「分かる。しらすのほうもおいしいよねぇ」
どちらも浜松の春華堂で作られている。うなぎの味も、しらすの味もしないのはお約束だ。
地元のお菓子って、自分で手に取って買うことはない分、人にもらうととっても嬉しくなる。こっことか、安倍川もちとか、8の字とか、ハートの形の源氏パイとかとか。
うなぎパイの先っぽを食む。繊細なパイ生地には秘伝のタレが塗られているそうで、歯に力を入れていないのに、とたんに口の中が甘くなっていく。
うーん、幸せ。
「それと、小説も完成しました!」
じゃじゃーん、とりっちゃんがホッチキス留めの用紙を取りだせば、ぱちぱちと拍手の音が響く。私ももちろん、ぱちぱちしている。
りっちゃんが書いたのは、おばあさん目線の竹取物語だ。
おばあさんとおじいさんにとって、どれほどかぐや姫がかわいくて、宝物のように大切だったのか。血が繫がっていなくても、愛おしい子どもだったのか。
物語上ではほとんど語られることのない、三人で過ごした日々について、おばあさんが訥々と語っていく形式の小説である。
四十ページ程度で読みやすい。私は途中で何度か感想を伝えたのもあって、すでに最後まで読み終えていた。
「わたし、読んでみていい?」
「もちろんです。どうぞどうぞ」
りっちゃんは膝を進めて森先輩に近づいた。うなぎパイを片手に持ったまま、先輩はコピー用紙の束を受け取る。
ちなみに、台本のほうも新しいものに替わっている。仮が取れた『新訳竹取物語』だ。
A4サイズの台本は、右側はホッチキスで三箇所留めて、その上から深緑色の製本テープを貼って固定してある。片手で持ちやすくなり、文字も大きくて読みやすくなった。水色の蛍光ペンも忘れずに引き直してある。
「僕の目から見ても、いい小説だったぞ」
「そう」
果敢に話しかける望月先輩に対し、森先輩の返答は冷たかった。
望月先輩が怯んで黙り込む。二人の間には気まずさが色濃く漂っている。
だが、それも致し方ないことだろう。つい数時間前、声を荒らげて大喧嘩したばかりなのだ。
森先輩がホールに顔を見せてくれただけでも奇跡に近い。望月先輩と仲直りするためというより、決まったことはちゃんとやるという彼女の気質が、そうさせたのかもしれなかった。
私はなんともいえない気持ちで、うなぎパイをさくさく頰張る。長細くて味わい深いパイももうすぐ食べ終わってしまうと思うと、切ない気持ちにさせられる。
そのとき、視界のはしっこを光るものが過ぎったような気がして、首を動かす。
最後の一欠片の味を感じ取れないくらい、私は驚いた。
森先輩が泣いていた。
手にしたうなぎパイの存在を忘れたように、先輩はただ夢中になって小説を読んでいた。開かれた両の目が、絶え間なく涙を流していた。
薄水色のタイルカーペットに、黒い点が落ちていく。
それでも顎先から滴り落ちる涙の感触すら、確かではなかったのだろう。泣き続けていた先輩を感づかせたのは、私たちの視線だった。
森先輩はきょとんとしてから、とめどなく流れる液体を手の甲でごしごしと拭った。
「ごめん、急に泣いたりして。なんか、うまく言えないけど、すごく良くて」
顔を上げた先輩は微笑んでいた。心配になるくらい強く拭ったせいで、目が赤くなっている。
「このお話、わたし、竹取物語の本編より好きかも」
「おおう、それは褒めすぎですね」
りっちゃんがおどけたように笑う。空気が暗くならないように、わざと笑ってみせたのだと分かった。
森先輩は、首だけで私を振り返る。
「絵のほうも、もうすぐ完成すると思うから。待っててね」
そろそろポスターを校内に掲示する必要があった。来場者の目につく位置にある掲示板や壁は、激しい取り合いになっている。
りっちゃんの小説を読んで泣いた森先輩は、いったいどんな絵を描いているのだろう。私は期待と不安とを半々に込めて、顎を引いた。
青陵祭まで、とうとう一週間を切った。
最低限の連絡だけのホームルームが終わり、放課後になる。掃除当番以外にも、部活動のある一部の生徒は早足で教室を出て行く。
おばけ屋敷もいよいよ大詰めだが、小道具班の仕事は数日前に完了している。今日は他の班を手伝うか、手が足りているようなら、部室で台本を読むのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、教室の外で華麗に回転する白い手ぬぐいを見つけた。
私は音楽番組で見かけるライブ会場を想起した。ぶんぶんと振り回される手ぬぐいの柄に見覚えがあったので、すぐに立ち上がって廊下に出る。
「りっちゃんどうしたの。今日、火曜なのに」
着替えて校門前に集合するのは、月水金曜日と決まっている。
「違うんです。ナオ先輩に用事がありまして」
りっちゃんが折りたたむ手ぬぐいは、水族館のお土産に買ってきたものだ。
柄はお寿司のネタ。アキくんの意見を取り入れ、迷った末に選んだ贈り物がその手に握られているのを見ると、なんだか胸が温かくなる。
演劇部へのお土産としては、水族館限定だというえびマヨ味のハッピーターンを選んだ。そちらもみんな喜んでくれたようだ。
「私に用事?」
「はい。例の件でご報告があるんです」
私は目を見開いた。
教室にはアキくんや他の生徒がいる。私たちは連れ立って、こっそりと廊下を移動する。
人気のないところまでやって来ると、りっちゃんが話の続きを口にする。
「ビラがどの階から撒かれたか、特定できました」
「本当に?」
私もあの場にいた。ビラが落とされる瞬間そのものは見ていないが、風に流されているところは目撃している。
ビラは教室棟から降ってきていた。高さからして、まず一階と二階は候補から除外できる。
「でもさ、三階には三年生の教室があるでしょ? あの日、けっこうな人数が窓から外を見てたんだよね。四階も、生徒会室前の廊下に人がいて」
どちらの階にも、不特定多数の人の目があったということだ。あの状況で、他人に悟られずにビラを撒くなんて真似ができるだろうか。
私の反論など分かりきっていたのだろう、りっちゃんは動じない。
「なので、こうなったら消去法です。ビラは屋上から撒かれたものだと思います」
「屋上?」
屋上に続く鉄扉は、普段から施錠されているはずだが。
「実は十月一日に限って、朝から給水塔設備の点検作業があり、屋上に業者が入っていたそうなんです。その点検は昼休みに行われていました」
今さら言うまでもなく、一日はビラが撒かれた日だ。
「そのとき誰かがこっそりと屋上に入って、放課後になってからビラを撒いた、ってこと?」
「自分も最初はそう思いましたが、違いますね。それだとビラ撒きを終えたあと、屋上から脱出できなくなっちゃいます」
「あっ、ほんとだ」
侵入したあと鍵を閉められたら、屋上でミイラになってしまう。
「おそらくそのとき、点検に立ち会った教師が鍵を閉め忘れた。犯人はそれを目撃して、突発的にビラ撒きを思いついた。はたまた教師自身がビラ撒きの犯人だった……あたりが濃厚な線だと思います」
「なるほど。ちなみに立ち会った先生って誰だったの?」
「それが分からないんです」
りっちゃんが嘆息する。
「職員室に行って何度か探ったんですが、分からずじまいです。これは推測ですけど、職員の間でもビラの件が取り沙汰されたはずです。担当した誰かは自分の責任にされるのをおそれて、口を噤んだのではないでしょうか」
そういえば、図書室前でりっちゃんを見かけたことがあった。あれは職員室で調査をしてきた直後だったのだろう。
しかし、これでは犯人の正体までは辿り着けない。
「そこで不肖、広中律子、新たな策を思いつきました」
「なになに」
りっちゃんは、次から次へと何かを思いつく。私が目を輝かせると、りっちゃんはずれた眼鏡をくいっと直した。
「屋上近くに行ってみましょう。犯人は現場に戻るって言いますからね」
「えっと、打つ手なしってこと?」
「そうとも言います!」
どんなときもりっちゃんは自信満々だ。
立ち話を続けるのもなんなので、私たちはとりあえず屋上に向かうことにした。といっても鍵はとっくに閉められているから、屋上に出入りすることはできないが。
「あんぱんと牛乳、買ってこようか」
「長い張り込みになりそうですね」
冗談めかしながら、三階の途中まで上ったときだった。
頭上から、何かを叩くような物音がした。それに数人の明るい笑い声も。
私たちはとっさに、その場に素早くしゃがみ込んだ。
声の主がいるのは屋上ではない。たぶん、屋上前の踊り場だ。
「なんかさ、りっちゃん。不謹慎かもしれないんだけど」
私は、吐息のような声で囁く。
「こういうの、ちょっと楽しいね」
にやりとした笑みが返ってきた。
「ナオ先輩。実は自分も、同じこと思ってました」
四つん這いに近い姿勢で、一段ずつ階段を上っていく。膝小僧が汚れるのは、この際お構いなしだ。
青ライン入りの上靴のつま先が見えたとき、勢いよく立ち上がったりっちゃんが言い放った。
「動くな! 警察だ!」
「サツだ、お前ら逃げろ!」
あまりに堂々とした名乗りだったからか、反応は迅速だった。
二人の男子が階段の手すりを飛び越えて、一目散に下の階へと散っていく。
そんな中、ひとりだけ逃げ遅れた人物がいた。りっちゃんはすかさず指さす。
「ナオ先輩、確保!」
「う、うんっ」
言われるがまま私は飛びだした。しかしどうやって取り押さえればいいのか。
私はおろおろし、相手もおろおろしていた。広い踊り場のスペースで、私たちは膠着状態へと陥った。
そこでよくよく見て、向かい合うのが見知った人だと気がつく。
「あれ、吉井くん?」
「およっ、愛川さん?」
惚けた顔をしているのは、クラスメイトの吉井くんだった。
「ここで何やってるの?」
「え、なんだろう。なんだったかなー」
半笑いの吉井くんの目が、背後に向かって泳いでいる。
その視線の先を、私は辿った。廊下にべちゃっと落ちた濡れぞうきん。吉井くんが後ろ手に持った逆さまの箒。それに。
「あ! ちりとり!」
私が叫べば、吉井くんがびくりと肩を揺らす。
プラスチック製のちりとりを手に取る。その裏側には正面玄関前と黒いマーカーで書かれていた。長い年月が経ち、文字は掠れているけれど間違いない。
それは、正面玄関前から失われて久しいちりとりだったのだ。お散歩中かと思われたが、吉井くんたちによって誘拐されていたらしい。
丸めたぞうきんはボール。逆さまの箒はバット。ちりとりはピッチャーが持つミット。
ここまで証拠が出揃えば、名探偵でなくても答えは導きだせる。私はちりとりを握るなり、びしっと吉井くんを指した。
「吉井くん、さては掃除サボって野球やってたね?」
「うわーっ、バレた」
頭を抱える吉井くん。
「頼む、先公にはチクらないで。おれたちは純粋に野球をやってただけなんだ。甲子園目指して特訓してんだ」
「そんなアホなこと言ってると本物の野球部に怒られますよ」
「えっ、誰?」
今になって吉井くんはりっちゃんに気がついたらしい。
「文芸部所属の広中律子です。初めまして」
りっちゃんは簡単に自己紹介を済ませると、すぐに本題へと移った。
「それで吉井さん、伺いたいことがあるんです。十月一日の金曜日も、あなたがたはここで掃除をサボってましたか?」
探偵からの詰問に、吉井くんはたじたじになっている。
「えー。日付言われても、そんな昔のこと思いだせない。昨日の朝食すら覚えてないし」
それはちょっぴり心配だ。
「十月一日は、中間試験が終わった次の日だよ。クラスでおばけ屋敷をやるって決まって、放課後にビラが撒かれた日」
「あー、あの日か。分かった分かった」
何かと印象的な日だったのだ。そこまで言えば、さすがに吉井くんも思いだせたようだった。
「その日、ここで見かけた人はいませんでした?」
「見かけた人?」
いない、と言いさした吉井くんの口の動きが止まる。
記憶を探るように、黒い眼球がさまよっている。
「そういえば……いた。ひとりだけ。他の奴らは一目散に逃げたけど、おれはぞうきん落として逃げ遅れたから」
「その人の名前、分かります?」
少し躊躇ってから、吉井くんが頷いた。
「分かる。有名人だから、二人も知ってんじゃねーかな」
私とりっちゃんは目を見交わす。とうとう私たちは、答えに辿り着いたようだった。
「でもさ、その、サボりの件はさぁ」
「教えてくれるなら、秘密は墓場まで持っていきます」
りっちゃんがそう遮れば、もじもじしていた吉井くんは胸を撫で下ろしている。
取引はこれにて成立だ。吉井くんは咳払いをしてから、すぅと息を吸った。
「じゃあ、言っちゃう。その人の名前は……」
今日もこの部屋には、静謐な空気が流れている。
広い美術室には、制服姿の森先輩の姿があった。腕を組んで、いろんな角度から画用紙を眺めている。
白いパレットには、役目を終えた水彩筆と、水で溶かした絵の具が広がっていた。あまりに鮮やかで、そこには黒以外のすべての色が乗っているように錯覚する。
「先輩」
「あ、愛川さん。ポスターちょうど完成したとこだよ。待たせてごめんね」
おいでおいで、と手招きされる。森先輩の隣から、私はその絵を見た。
「どんな場面を描こうか、かなり悩んだんだけどね。登場人物みんなを分かりやすく配置してもいいし、恋愛面か、広中さんこだわりの異能力バトルに寄せてもいいし」
でも、と続けながら、森先輩は紙を手に取った。画用紙は乾ききっていた。
「わたしはやっぱり、『竹取物語』は家族のお話だと思う。だから、この絵にしたの」
薄暗い竹藪が、まばゆいほどに光っている。
中心に描かれているのは、光る竹の筒で眠る、小さな小さな女の子だ。膨らんだ赤いほっぺはかわいらしく、幸せそうに口元をもにゅもにゅしている。
そして画面の右端と左端から、その子に向かって手が伸びている。
しわくちゃの手だ。翁と媼の手だった。
物語の冒頭の場面。本来そこには翁しかいない。けれど森先輩は、まだ名前のないその子を見つけて抱き寄せる手の持ち主は、二人いると考えたのだ。
淡い水彩で描かれた絵には、優しさが満ちている。これから家族になっていく三人の、未来の予感がいっぱいに溢れている。
自然と、私の頰は笑みの形に緩んでいた。
「すごく、素敵だと思います」
「ありがと。広中さんの小説を読んで、自分でも正解かなと思ったの」
派手さはないかもしれない。でも人の目を惹きつける魅力がある。ポスターとしても、それに部誌の表紙としても、これ以上の絵はないだろう。
「誰かに頼まれて絵を描くなんて、初めてだったからね。あー、ドキドキした」
胸に手をやって脱力する森先輩に、私は微笑みかけた。
「お疲れ様でした。りっちゃんたちもきっと喜びます」
「それなら良かった。明日の部活でお披露目しようか」
「はい」
美術室に、静寂が満ちていく。
「森先輩は、朝読書の時間はなにを読んでますか?」
「愛川さんは、なに読んでるの?」
不意を打ったはずだったのに、森先輩はまるでその問いかけを予期していたように、同じ質問を返してきた。
「今は、『走れメロス』です」
私は正直に答えた。美術室でセリヌンティウスを見かけて、佐藤さんと話をしていたら、久々に読み返したくなったのだ。
その答えに、森先輩は目を細めて笑う。
「おんなじだ。太宰治」
「え?」
「わたしは『人間失格』を読んでるから」
ほら、と森先輩が椅子に置いたバッグから取りだしたのは、一冊の文庫本だった。あの日、佐藤さんが探していた本だった。
「このタイトル、なんか怖いよね。みんな、自分の悪口が書かれてるか不安になって手を出すんじゃないかな」
「私は、読んだことないです」
「へぇ。でもどうして? 読書好きの文芸部員だもの。『走れメロス』を読んでるなら、『人間失格』だって自然と手に取りそうなものなのに」
じっとりと、背中にいやな汗をかく。
「たくさん、他にも本があるから」
別に、おかしなことではない。
太宰治を好きな人が、必ず『富嶽百景』を読んでいるわけじゃない。坂口安吾の『桜の森の満開の下』を愛する人が、『堕落論』を読み耽るとは限らない。
私は、間違ったことは言っていない。そう訴えたつもりだけれど、のれんに腕押しだった。
「じゃあ、読んでみたら?」
糠に打ち込んだ釘によく似た私に、はい、と森先輩が差しだしてくる。
本の表紙を、私は直視できなかった。
乾燥した喉を、冷たいものが通り抜けていったような気がする。底冷えのする日に口に含んだ、氷の塊のような不快感がある。
「『人間失格』、私も怖いんです」
「どこが怖いの?」
「……こっちを、笑いながら指さしてるような気がするから」
漢字にすればたった四文字の羅列に、私は怯えている。
お前は人間の振りをしているだけだと、突きつけられているようで。
「ビラを撒いたのは、森先輩なんですね」
私は、森先輩の表情を見ていた。
彼女は驚いていた。そして喜んでもいた。持ち上がった口角が、歓喜をにじませていた。
ようやく分かった。この人は最初から、逃げも隠れもせずに、こうして誰かに問い詰められるのを待っていたのだ。
「すごい。正解。どうして分かったの?」
「目撃者がいました」
もりりんだよ、と吉井くんは言った。あの日、屋上に現れたのは、全校集会で登場した森の妖精もりりんだったよ、と。
十月一日の放課後。森先輩は、スクールバッグを肩にかけて階段を上ってきたらしい。
バッグは重そうに膨らんでいた。その中に、ビラを入れていたのだろう。
吉井くんは、森先輩を屋上近くで見かけたことを誰かに話したりはしなかったそうだ。それも当たり前である。吉井くんは友人と共に掃除当番をサボって遊んでいた。犯人を見たと言えば、彼らのサボりもまた明らかになってしまうのだ。
森先輩が椅子に座る。視線で隣に座るよう促されるが、私は動かなかった。
肩を竦めて、彼女は種明かしをする。
「あの日は生徒会室に行って、ひとりでお弁当食べてたんだ。そこに点検作業に付き合ってた先生がやって来て、手洗いに行きたいから屋上の施錠だけ頼む、って鍵を渡されたの。しっかり者の生徒会長は、先生たちからも信頼されてたからね」
元だけど、と付け加える。未だに校内では森先輩を会長と呼ぶ生徒が多い。それだけの信頼を勝ち取っている。
「すぐに作業は終わった。業者を見送って鍵を閉めようとしたとき、思いついた。この見晴らしのいい屋上から、ビラを撒いてみたらどうだろうって」
私はただ、その告白を聞いていた。
「思いついたからにはすぐに行動したよ。パソコン室に忍び込んで、ワードで適当に作ったプリントを百枚刷って、放課後にばらまいた。すぐに鍵は職員室に返しておいたから、誰もわたしの仕業とは気がつかなかっただろうね。……まぁ、そんなことは、もうどうでもいいけど」
虚空を見ていた瞳が、立ちすくむ私を捉える。
本当は、犯人が森先輩だろうと指摘する必要はなかった。
素直は、森先輩と個人的に話したこともない。先輩が、素直にレプリカがいるなどと気がつけるはずもない。アキくんの考えは当たっていたのだ。
私は先輩に対して、そうと悟られない程度の用心をしておくだけで良かった。そうすれば今まで通りの安寧を享受することができた。何事もなく演劇を終えて、何事もなく先輩は学校を卒業していっただろう。
でも私は、そうしなかった。
「わざわざ名乗り出てくれて、ありがとうね」
慇懃にお礼を言う先輩は、理解していた。この忙しい時期にわざわざ犯人捜しをするのは、ビラの内容に危機感を覚えた人物に限られると。
「本当にありがとう。愛川素直さんじゃなくて、愛川さんのドッペルちゃん」
私は正面から先輩を見つめた。
「私に、なんの用ですか」
「そんなに警戒しないで。変な研究機関に送って、解剖してもらったりしないから」
くすくすと森先輩は笑う。笑っているのに、少しも楽しくなさそうだった。
「それに調べなくても、わたしはあなたのことをよく知ってる。ふつうの人間となんにも変わらないもの。酸素を吸ったら、二酸化炭素を吐くでしょ。ごはんを食べたらトイレに行きたくなるし、疲れたら眠くなるよね。髪も爪も伸びるし、にきびだってできる。そうだよね」
先輩はどこまでも穏やかに続ける。
「知ってるよ。ドッペルゲンガーは、わたしでもあるから」
まさかと思う気持ちと、やっぱり、と納得する気持ちがあった。
「森先輩も」言いかけて、いったん唇の動きを止める。
「あなたも、レプリカなんですね」
「レプリカ?」
「素直は……オリジナルは、私のことをそう呼んだから」
ほんものとおんなじに見えるのに、ほんものじゃないもの。
私のことを素直は、レプリカと呼んだ。セカンドと名づけた。私が人間ではないことを、ニセモノに過ぎないということを、いろんな言葉によって頭ごなしに刻みつけていった。
「レプリカに、オリジナルか。なるほど。あなたたちはそういう呼び方をしてるんだ」
先輩は感心したように息を吐きながら、机に手をやって立ち上がった。
私に向かって手を伸ばしてくる。反射的に私は身体を硬くした。
でも、おそれていたような衝撃はなかった。
私は、抱きしめられていた。それはかけがえのない友人と数十年ぶりの再会を果たしたような、劇的なまでに力強い抱擁だった。
「先、輩?」
戸惑う私に構わず、言う。
「あなたに会いたかった。会えて良かった」
声が湿っているから、泣いているのかと思った。
けれど、私の認識はどこまでも甘かった。それを数秒後に思い知らされた。
「ねぇ、こうしてせっかく会えたんだもの。お願いだから教えてくれない?」
身体を離したとき、先輩はいたく真面目な顔をしていた。冷徹な顔つきだった。まだ身体に残る彼女の温度が、性質の悪い噓のように思えた。
「怪我をしたオリジナルを治す方法は、ある?」
「……え?」
「もしくはオリジナルの傷を、レプリカに移す方法はある? それに近い方法を知ってたりする?」
私は呆然としていた。
唐突に、なんの話が始まったのだろう。先輩は何を言っているのだろうか。
私はよっぽど、間の抜けた顔をしていたのだと思う。先輩は苛立ったように舌打ちすると、力任せに私の肩を揺さぶった。
「教えてよレプリカさん。あなたが代わりに死ねば、オリジナルを助けられたりする?」
彼女の言葉によって、私は思いだした。そもそも忘れたことが一度もないので、思いだしたというのは正しくなかった。
私は目を背けていたあの日に向かい合わされた。
駅のホームに突き落とされて死んだ。電車に轢かれて死んだ。ミンチにされて死んだ。私は、私がそうやって死んだことを、知っている私だった。
命はひとつだけのはずだった。それが正しい人間のあり方だった。ひとつしかないから大切にするのだ。
私はあの瞬間。
泣いている素直と向かい合った瞬間、本当に、自分が人ではなかったのだと思い知らされた。
「私、が、……知ってるのは」
声帯がたわむ。うまく息が吸えない。目蓋の裏が、ちかちかと明滅している。
両肩を押さえられているから、逃げられない。
「レプリカは、死んでも、蘇ります」
先輩が身を乗りだす。
「どういうこと?」
「レプリカは」息が荒くなる。目のはしに涙がにじんだ。身を捩るようにしないと、言葉が出てこなかった。
「死んでも、オリジナルがもう一回呼べば、蘇ります。オリジナルが無傷であれば……」
何度も呼吸を継ぎながら、なんとかそう伝える。
「へぇ、すごい。そうなんだ。そういうことになってるんだ、わたしたちって」
それなのに森先輩の手は、尖った爪は、より強く私の肩に食い込んでいる。
「それって、逆はだめなの? オリジナル自身は死んじゃったら、それまでってこと?」
不気味な眼光は、黙り込む私を解放してくれない。
「例えばさ、身代わりになったりはできる? 愛川素直さんが死ぬとき、レプリカのあなたが代わりに死ぬことはできる?」
どうしてそんなことを、言うのだろう。
私はそれほどまでに森先輩に、ひどいことをしただろうか。何かの罪を、犯しただろうか。
「ねぇ。ほんものの愛川さんは今、どうしてる? どこにいて、何をしてるの? できれば、もっと詳しく話を聞きたいんだけど」
顔を顰めても、森先輩の勢いは止まらない。何かに取り憑かれたかのように繰り返して、私の身体を揺さぶる。
「どうしても知りたいの。だめかな。ねぇ」
「ナオを離してください」
痛みが和らいだのは、聞き慣れた声がしたからだ。
アキくんが、森先輩の手から私を引き剝がして後ろに庇う。
呆然と見上げる。がっちりとした肩は揺れていて、頰には汗が流れていた。
どうしてここに。疑問を投げかけようとして、すぐに答えが頭に浮かぶ。
りっちゃんが知らせたのだ。聡明な後輩は、ビラ撒きの犯人が判明したとき、私が起こしかねない行動を予測していたのかもしれない。
「俺もレプリカです。訊きたいことがあるなら、俺に訊いてください」
息が詰まる。私を守るために、アキくんは自身の秘密をも明かしてしまっていた。
上下に動く肩の向こうで、森先輩は訝しげに首を捻っている。
「じゃあ、もしかして広中さんも? 文芸部はレプリカの集まりだったりする?」
「違います。りっちゃんは」
ふつうの、ちゃんとした人間だ、と私は言おうとした。言えるわけがなかった。
少し勢いを失った森先輩は、同じような質問をいくつか繰り返した。
アキくんはそれを、厳しい表情で聞き終えてから口を開いた。
でも答えは同じだ。アキくんの知識も、ほとんど私と変わらない。
私たちは、私たちをよく知らない。でもそれは当たり前のことだ。
人間って羨ましいと思う。いちいち調べなくたって、保健体育の教科書に詳しい解説が載っている。身体が有する機能。平均寿命。年齢別の死亡率。罹りやすい病気。
でも私は、愛川素直の顔をして生まれてきた模造品だ。
人間の振りをして生きることを義務づけられながら、人間とは異なる点を探す作業に没頭できたなら、めざましい発見だらけで、ノーベル賞だってもらえたのかもしれない。鏡を覗き込んで、お前は誰だと何百回も問えるような強さがあるならば、怪物にだってなれるだろう。
私には、できない。
「そっか。そうなんだ」
思考がぐるぐると空転する間に、森先輩は落胆の溜め息を吐いていた。
大きな期待が裏切られたような、疲れた眼差し。ぐしゃぐしゃと髪を乱す手にも力が入っていない。この数分間で、何十年分も年を取ってしまったような変貌ぶりだった。
「分かった。ならもう、いいや」
冷たく言い放つと、踵を返す。
美術室から彼女が出て行ったとたん、私はぷつりと糸が切れたようにくずおれていた。
膝が椅子に当たる。倒れ込む私の肩をアキくんが支えた。
優しい手だった。私の空洞を埋めてくれた唯一の人の手だった。
アキくんの手は私に安らぎを与えてくれる。ときどきその優しさが、痛みよりも深い場所に突き刺さる。
「ナオ、大丈夫か」
「ごめん」
それ以上、言葉が出なかった。
「歩ける?」
ぜったい無理、の意味で首を振る。私は傍目にも、青白い顔をしていたのかもしれない。
「気持ち悪いなら、俺の肩に吐いていいよ」
できるわけがない、と思う。その代わりに、アキくんの肩に額を押しつけた。
せっけんじゃない、しょっぱい汗のにおいがする。夏に戻った気がする。
バスケの試合のあと、バスの中で嗅いだにおいだった。やりきれなくて目を閉じた。少しだけ呼吸の仕方を思いだした。
「ばか」
罵る声さえ労りに満ちている。それが切なくて、怒鳴られるよりも私には辛かった。
「なんでこんな危険な真似したんだ。俺、やめろって言ったのに」
「ごめんなさい」
アキくんの言う通りの結果になってしまった。
「でも会って、話してみたかったの。もし、私たち以外にもレプリカがいるなら」
背中を、とんとん、と一定のリズムで叩かれる。子どもにするような愛撫が心地いい。私はますます強く額を押しつけた。
膝の裏側。くぼんだ池に、腿から垂れてきた汗が溜まっている気がする。
アキくんが、深く息を吐く。
「ずっと、訊こうと思ってたんだ。こんなときに訊くの、間違ってるかもしれないけど」
それでも、今しかないと彼は感じたのだろう。
「早瀬先輩に、何かされた?」
した、じゃなく、された、とアキくんは言う。
あれから早瀬先輩は一度も登校していない。風の噂で、転校の手続きをしているらしいと耳にした。このまま登校しなければ出席日数が足りず、留年する羽目に陥るからだ。
薄々アキくんは、気がついていたのかもしれない。自分を駅のホームに突き落とそうとした人物が誰なのか。疑わしい人物が、どうして学校に来なくなったのか。
でも私の答えは最初から決まっている。
「なんにも」
「話す気は、ないんだな?」
「ごめんね」
こんなの、単なるエゴでしかない。
私は私だって、アキくんが教えてくれた。その言葉がいちど千切れた私を、ここに繫ぎ止めている。
だから味わった痛みの半分だって、彼の心に触れてほしくはなかった。