十月四日、月曜日。

 先週末は過ごしやすく快適な気候だったのに、今日は忘れ物をした夏が急ぎ足でもどってきたように暑い日だ。

 予想最高気温は二十八度だという。体感だと、とっくに三十度をえている。こんいろのブレザーはまぼろしのように姿を消して、はんそでながそでシャツ、体操着の白が目立つ日になった。

 せいりようさいの準備に取り組む校舎では、あちこちからだれかの声がする。どこもかしこもさわがしくて、あせだくで、いつしようけんめいで、だれも私のことなんて気にめていない。

 それをいいことに、私はろうの真ん中で足を動かす。目的地もないのに早足で進んでいる。ときどきブルーシートを広げて作業している集団がいると、けるためのジャンプさえいとって別の道を探す。

 浅く息をいて、目を閉じる。三日前のことを思いだしていた。


「捜さなきゃ」

 落としたビラをもういちど拾い上げて、私はそう言ったのだったと思う。

 そのころには、ビラに引き寄せられるように集まった人々は減りつつあった。めいわくそうな顔をした生徒会役員や実行委員が次々と現れて、ビラの回収を始めたからだ。

 そのうちの数十枚は、私のようにだれかが拾っている。個人をこうげきするような内容ではなかったからか、無理にぼつしゆうすべきでないと判断したようで、プリント用紙をにぎっていても注意されることはなかった。

 校舎に残っていた生徒はいまごろ、おもしろおかしく友人にスマホでれんらくしているだろう。なんか変なものばらまかれてたよ、どういう意味だろうね、と。

 でも私は、とてもじゃないがそんな気分にはなれない。

「捜さなきゃ、だよね」

 決意を秘めたものではない。同意してほしいという本音がけるつぶやきに、アキくんは小首をかしげた。

「捜して、どうするつもり?」

「だってだれか、私に……気づいた人がいるのかも」

 つぶやくだけで、額にじっとりとあせがにじむ。

 ビラは告発の形を取っていた。

 駿河するがせいりようこうこうにいるドッペルゲンガーとは、私のことなのではないだろうか。

「ビラをいたのがだれなのか調べないと」

「やめたほうがいい」

 アキくんははっきりと言う。

「そいつがナオに気づいているにしても、そうでないにしても、動くべきじゃない」

「どうして?」

 賛同が得られなかった私は、もしかしたらおこったような顔をしていたかもしれないけれど、アキくんは表情を変えずに続けた。

「答えを教えることになるから」

 その言葉の意味を、私はしんぼうづよく考える。

 そうして手元のビラに視線を落としていたら、気がついた。

「……、あ」

 もしもビラきをした人物が、私の正体をかんっているだけだったら……しんな行動を起こせば、相手の思うつぼなのだ。

 そもそも特定の人物を疑っているなら、こんな回りくどい手段を取る必要はない。本人を直接めるか、ビラに名前を出すかでもしたほうが確実なのだから。

 ビラはに過ぎない。この内容に危機感を覚えて、疑わしい動きを見せるだれか。それをあぶりだすためのわなだと、アキくんは考えているのだった。

「この場合、無視が正解。不安がったりおびえたりしないで、いつも通りに生活すればいい。ビラにまったく興味がないのも不自然だから、そこらへんはふうが必要だけど」

 アキくんは、私より先を見ている。そのれいせいちんちやくさはたのもしいものだ。

 でも私は、そうだよね、と言えずにいた。なつとくを意味する言葉を口にできずにいた。

 うつむいていると、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。

「それにナオじゃなくて、俺のことを言ってる可能性もあるんだし」

 はげますつもりで、アキくんがそう言ったのは明らかだった。それなのに私は、弱いうなずきを返すことしかできなかった。


◇◇◇


 今朝のホームルームでは、ビラの件について担任からちゆうかんがあった。

 あのビラはパソコン室のプリンターを利用して作られたものだったようだ。用紙だって学校の備品なので悪ふざけで使わないように、心当たりのある者はあとで職員室に来るように、という話が短く告げられる。

 ビラの内容についてはれられなかった。生徒の間でも、土日をはさんだえいきようかさして話題になっていないようだった。

 なおもそうだった。私がビラを見せても、あまり気にしていなかった。

 十月に入ってから、ホームルームの直後に朝読書の時間が設けられるようになった。

 三日前のビラそうどうのあと、私は図書室で『竹取物語』を借りてきた。演劇に参加するにあたり、改めて読み返しておこうと思ったのだ。原文と現代語訳が収録されたもので、ときどき美しい見開きのさしはさまれている。

 少なくともせいりようさいが終わるまで、なおの言う「しばらく」は続くと見ていい。それをいいことに、私は部室のたなではなく、スクールバッグに文庫本を入れて持ち歩くようにしていた。教科書とノートといつしよねむる本を見下ろす感覚には、まだ慣れないけれど。

 たった十五分の読書の時間は、今となっては貴重だ。今日からさっそく演劇部の練習が始まるし、おばけしきの準備もある。放課後、のんびりと本を読む時間はなかなか取れそうもない。

 その分、楽しみにしていたはずの時間なのに、目は平然と文字の上をすべっていってしまう。

 なよ竹のかぐやひめと名づけられた、美しいひめぎみの場面を読んでいたと思ったら、かぐやひめにせかわごろもを火にくべているものだから、あわてて前のページにもどる、そのかえしだ。

 集中できていない。

 せっかくの時間なのに。演劇をやるのに。読書の秋、なのに。

 目がしょぼしょぼするのも、その一因かもしれない。今朝呼びだされたときから、目の奥に痛みがあった。なおこく使したなら、レプリカの私の目も同じだけ痛んでいる。

「お前、ドッペルゲンガーだろ」

 ひゅっと、冷たい空気に背中をでられたような感覚。

 私はこうちよくしきっていた。顔を上げられない。前の席のよしくんがかえり、こちらを見下ろしている気がしたからだ。

だまってないで認めろ。お前が、アロイジア・ヤーンなんだろ?」

 えられず、本を持つ手が小刻みにふるえだす。

 アロイジア・ヤーン。『帰ってきたにんぎよひめ』と呼ばれる、現代のドッペルゲンガー伝説。

 彼女の存在に、何度も自分を重ねてきた。最後は海に入っていって、どこかに消えてしまったなぞめいた女性は、レプリカの存在をほう彿ふつとさせるからだ。

 でも、なんで? どうして急に、よしくんはそんなことを。

 そんなに今日の私は、フツーじゃなかった?

 だれが見ても一目で分かるほど、人間らしくなかった?

「いやいや、逆にお前がアロイジア・ヤーンなんじゃね?」

「アロイジア・ヤーン返しすんなや」

「アロイジア、いやーん」

「クソつまんね」

 ……止まっていた呼吸を、ゆっくりと元の調子にもどしていく。

 ちがった。よしくんは私に言ったわけじゃなかった。ビラの内容を友達といつしよにおもしろがっているだけだったんだ。

 言い聞かせるように心の中で唱えても、息が上がっているのをかくせない。私は本を持ち上げて、顔をかくした。

 表情を、だれにも見られたくなかった。安心しているような、しようそうてられているような、おかしな形相をしている自覚があった。アロイジアの顔かもしれないと思った。

よし、ふざけてないで集中しろよ」

「えー、先生。なんでおれだけ注意すんのよ」

「静かに。みんな読書してるんだから」

「へいへーい」

 へらへら笑ったよしくんが、ブックカバーでおめかしした本を机に立てる。

「つうかよし、それまんじゃん。思いっきしワンピースじゃん」

「うげっっ。バラすなよ」

「しかもそらじまへん

「いちばんおもしろいだろー」

 あきれた担任の先生が机の間を歩いてきたので、よしくんたちが軽い悲鳴を上げる。

 私は、目をつぶっている。

 にぶい痛みの向こうで、白いせんこうがぱちぱちはじける。結局『竹取物語』の続きを読めずに、朝読書の時間は終わってしまった。


あいかわさん、だいじよう?」

 だれかに呼ばれたと分かったのに、返事をするのを失念していた。

あいかわさん」

「え? あっ、ごめん。ぼんやりしてて」

 そこで、ようやく声が出る。すぐとなりに立ったとうさんが心配そうな顔をしていた。

 せいりようさいに向けて、十月はほぼ全日の五、六限が準備のために割り当てられる。

 おばけしきの用意もまた、とうさんが中心となりとどこおりなく進んでいた。そうをするときのように机は後ろに集めてしまい、全員でゆかにしゃがんで作業している。

 制服だとよごれるので、みんなジャージや体操着にえている。四限が体育だったので、あせせいかんスプレーのにおいがきつかったが、気のく人が窓を開けてくれたようだ。

 今日はおばけしき内部を仕切るための段ボールに黒い紙をりつけたり、教室前に設置する看板や手持ち看板を作る作業にかっている。

 理科室や音楽室の暗幕を借りるため、職員室にこうしようしに向かった班もあった。予算は限られているので、けずれるところはけずらなければならない。難航したらショートメールでとうさんにSOSを伝えるはずになっていたが、れんらくがないということはうまくいっているようだ。

 小道具班では、クラス全員が提供してくれた道具のかくにんをしていた。

 ひとつずつ、はいびよういんに使えそうなものか確かめているのだ。おもちゃの注射器、うでがもげている赤ちゃんの人形、からになったくすりびん……。

 私はその最中、気もそぞろになってしまっていた。様子を見に来たとうさんは、それで声をかけてくれたのだろう。

 異変を察して、班の全員が手を止めてこちらを見ている。というより、いつもひとりで過ごしているあいかわなおに声がかけづらいから、とうさんに視線で助けを求めたのかもしれない。小道具班には教室では目立たない、物静かな子たちが集まっている。

「ね、もしかして体調悪い?」

「ごめん。ちょっとそくで」

 うそではない。昨夜のなおは深夜まで勉強していたので、目がしょぼしょぼなのだ。

 とうさんがづかわしげに言う。

「そっか。朝から顔色悪かったもんね」

 クラス委員長のとうさんは、ひとりひとりの様子までよく見てくれているようだった。私とアキくんの関係を察したのも、そのどうさつりよくゆえなのだろうか。

 もういちど謝ろうとすると、とうさんが片目をつぶって両手を合わせる。

「そういえばさ、他の班のガムテープが足りてないみたい。あいかわさん、備品倉庫に取りに行ってもらえると助かるかも」

 まだ、ガムテープはじゅうぶん足りているように見える。

 そう返そうとして、口を引き結んだ。そんなことは、とうさんのほうがあくしているだろう。彼女はかたについたほこりはらうようなやんわりとした口調で、戦力外通告をしてくれたのだった。

 私はその言葉に甘えることにした。無理にとどまっても、士気を乱してしまう気がしたのだ。

「分かった、行ってくる」

 よいしょとゆかに手をついて立ち上がり、教室をあとにする。

「ナオ」

 角を曲がったところで呼び止められる。アキくんだった。

 大道具班はろうに出て作業をしていたようだ。私が出てきたので、不思議に思って追いかけてきてくれたのだろう。

 簡単に事情を説明してから、小さな声で付け足す。

「ガムテープ取りに行きつつ、ポスターいてくれそうな人も捜してみるよ」

 サボりの告白だ。がおで言ったけれど、アキくんはまゆを寄せている。ビラの件が頭にあったからかもしれない。

いつしよに行く?」

「ううん。アキくんは、みんなにたよられてるから」

 器用なアキくんは大いに力を発揮している。段ボールをカッターで分断するにも、きっちりと定規を使う男子はアキくんくらいだ。

 周りからきよを置かれていた彼は、最近はクラスメイトとも少しずつ話すようになった。あのバスケの試合をきっかけに、近寄りがたいイメージがなくなったのだろう。

 このせいりようさい準備に関しても、女子に呼ばれる姿を何度か見かけている。

 必要以上に呼ばれているような、気もする。でも仕方のないことだ。アキくんは自分から積極的に異性と話したりはしないが、無愛想ではないし、笑ってじようだんも言う男の子だから。

 なんて考えていると、目の前の口角が上がっている。

「やきもち?」

ちがうってば」

 小さく笑い合って、そのまま別れる。

 でも彼があたえてくれた安らぎは、今日ばかりは長く続かなかった。

 最初はゆるい足取りだったのが、だいに足がもつれそうなほど速くなっていく。意識して息を吸っているつもりなのに、呼吸はだんよりずっと浅いようだった。

 今もだれかが、ものかげからのぞて、私の一挙一動をちくいち、観察しているような気がする。

 だれかに見られている。追われているかもしれない。真冬の日のようにぞくりとはだあわって、ジャージの上からうでさする。

 どんなになだめてもとりはだは引っ込まず、不用意なさつねつだけが生じる。

 どうして?

 だれが、なんのために、あんなビラを?

 ドッペルゲンガーを……レプリカを見つけたとして、その人はどうするつもりなの?

 考えようとしている時点で、だめなのかもしれない。得体の知れないわなまって、ふくろこうめられているのかもしれない。

 アキくんの言ういつも通りって、どんなだっけ。

 ひとつだけ分かるのは、今の私は、そこから遠い場所にいるということだ。

 無意識にひとのないところを求めていたようで、私はしんと静まり返ったとくべつとうに立っていた。背中を向けたきようしつとうからは、りんかくのぼんやりとした笑い声がする。

 火災報知機の赤いランプが、真っ赤にじゆうけつしたひとつだけの目で私をにらんでいる。

 追い立てられるように急いでろうを曲がると、美術室が見えてきた。

 授業でもないのに、足を向けるような場所じゃない。すぐに引き返そうとするが、私にはりっちゃんから任された役目があるのだった。

 ぐうぜんだけれど、美術室に来てみたのは正解かもしれない。なんて思いながら小窓から中をのぞいてみるものの、室内はがらんとしていてひとかげがない。

だれもいない」

 声に出してみると、ますますむなしい。

 ためしにドアに手をかけると、鍵は開いていた。先生が閉め忘れたのかもしれない。

 でも、ちょうど良かったかも。ここでぶんてんかんをしたら、備品倉庫に寄って帰ろうと決める。

 いつ入っても美術室は、鼻の奥まで届くような、つんとした油絵の具のにおいがする。かべゆか、この空間そのものに年月をかけてじっくりとみついたにおいだ。

 ぴったりと閉じられたカーテンの下からは、とおせんぼされた陽光の足だけが生えていた。

 室内には、客人をむかえるように四体のせつこうぞうが置かれている。クラスメイトが指さして、セリヌンティウスと命名したのがどの像だったか、私は覚えていない。

『走れメロス』に登場するセリヌンティウスは、友情に厚い男の人だ。しよけいの身代わりに置いていかれるなんて言われたら、おこるのが当然なのに、彼は無言のほうようでメロスを送りだすのだ。

 静岡は熱海あたみで、『走れメロス』の作者であるざいおさむは、友人であるだんかずと飲み明かした。しかし代金がはらえず、だんひとじちのように残して東京に引き返すのだが、いつまでももどってこない彼はぶせますしようを指していたのだった。あんまりにもあんまりな、『走れメロス』の題材とされるいつである。

 りっちゃんがメロスで、私がセリヌンティウスだったら。

 彼女は私を見捨てたりはしないって、私は信じて、待っていられると思う。でも一回くらい不安になって、なみだに暮れる夜があるのかもしれない。

 りの深いせつこうぞうの真下を、小さなハエトリグモがぴょんぴょんしている。行き先を視線で追っていたら、教室の後ろにちがう景色があることに気づいた。

 どこかのクラスが授業時間にいたものだろうか。十枚ほどの画用紙が、くっつけられた二台の机の上に並べられていた。

 美しいすいさいの数々。風景画が中心で、みあるグラウンドや学校から見えるさん、中にはかわせんしきや、もちむねの港らしいものもある。

 興味深くはしっこからながめているうちに、ひだりすみにある一枚の絵に目がまった。

 それは一面のとうもろこし畑をえがいた、夕景の絵画だった。

 光の帯が重なり合ったようなオレンジ色に包まれて、こちらを見るろうれいの二人はふうだろうか。つちぼこりにまみれた手にはそれぞれ、立派に育ったとうもろこしをつかんでいる。

 夕日がまぶしいのか、深くかぶったぼうに表情がかくれていて、二人がどんな顔をしているのかは分からない。

 でも、きっと笑っている。二人の仕草が、こちらをかえった首の角度が、目には見えないみをやわらかくにじませている。

 くちびるを引き結ぶ。そうしないとただいまの四文字が、勢いよく飛びだしてきそうだった。

 その風景の場所をおとずれたことなんてないはずなのに。二人の名前だって、知らないのに。

 今すぐここに帰りたい、と感じるほどのきようしゆうの念が、胸に満ちていく。それは私自身の感情ではない。き手の切実な思いが、絵を見つめる私ごと巻き込んでさぶっているのだ。

 難しいことは、よく分からない。自分に、芸術をしんがんが備わっているとも思えない。

 それでも私は、心の底から思った。

「すてき」

「ありがとう」

 だれに届くはずもなかったつぶやきに答えがあったものだから、あわててかえる。

 そこに、もりせんぱいが立っていた。ブレザーは、彼女の細いこしゆるきついている。

「ごめんね、おどろかせちゃったかな」

 私は答えられなかった。文芸部室じゃない、ほこりうすぐらい美術室で会うもりせんぱいは、ピントのぼけた古めかしい写真のようなあやうさを秘めていた。

 彼女を最初にようせいに仕立てたのは、だれなのだろう。やっぱりもちづきせんぱいだろうか。こんなせいひつさを知っていたから、そう呼んだのだろうか。

「その絵、わたしがいたの。美術の授業でね」

 もりせんぱいとなりに立つ。水をふくんで、でこぼこしている絵の表面をそっと指のはらででている。

「高校生向きの絵画コンクールがあって、今はそこに送る絵を選んでいる最中なんだって」

 ではここに並ぶのは、どれも候補作なのだろう。力作ぞろいなのもうなずける。

 もりせんぱいは絵から視線を外さないまま、静かに続ける。

じのみやに祖父母の家があるの。この絵にいたのは、家の前にある畑。がおの二人は、わたしの」

 ちゆうはんに止まったくちびるが、小さくふるえていた。

「おばあちゃんとおじいちゃん」

 いつくしむ指先が、二人のりんかくをなぞる。私はようやく、そうか、となぞが解けた気持ちだった。

「だからお二人とも、こんなに楽しそうに笑ってるんですね」

 それは視線の先に、もりせんぱいが立っているからだ。

 これはおかえりなさいを書き留めた絵。おなかすいたでしょ、お夕飯にしようね、とまごむすめに向かって語りかけているから、夕日よりも温かな二人のがおが見えるのだ。

 目が合う。発されたのは、何か大事なことを確かめるようなしんな問いかけだった。

あいかわさんには、そう見える?」

「はい」

 うなずきを返すと、もりせんぱいの口角がやんわりとゆるむ。私も、微笑ほほえんだ。

 心が動かされる絵に出会えることなんて、きっと、そうそうないことだ。

 今、このタイミングでもりせんぱいに会えたのは運命だと思えた。言葉にするとぎようぎようしくて、ちんですらあるけれど。

 このしゆんかんのがしたら、私はいつかこうかいする。そんな気がした。

 それならもとでいいから、いてみよう。断られても仕方ない。ただでさえもりせんぱいいそがしいのは、分かっているのだから。

もりせんぱい、部誌の表紙をいてくれませんか」

 しばらく、答えはなかった。

「え? わたしが? 文芸部の部誌の?」

 もりせんぱいは目を丸くして、自分の顔を指さしてみせる。

「はい」

 私が肯定すれば、せんぱいは困り顔で後頭部に手を当てた。

「んー。おさそいは光栄だけど、美術部とかにたのんだほうがいいんじゃないかな。わたし、専門的なこととか分からないし」

「この絵をいたせんぱいが、いいんです」

 時間がぴたっと止まる。

 ほほう、ともりせんぱいかがんで、私の顔を下からのぞんだ。

「もしかしてわたしのこと、口説いてる?」

「えっと」

 そういうことになるのだろうか。

 なるのかもしれない。まどっていたら、せんぱいきだした。

 かたらして笑っている。とたんに、ぱっと空気がはなやいだようだった。

「せっかくのごらいだもの。前に手伝うって言っちゃったし、ね。とりあえずやってみるよ」

「ありがとうございます!」

 私は勢いよく頭を下げた。うれしかった。もりせんぱいらいに対して前向きな気持ちになってくれたのが、伝わってきたからだ。

「ちなみに、どんな絵をけばいいの?」

「『竹取物語』の絵です」

 だれくべきか、どんなふんの絵が望ましいか、りっちゃんから指定はなかった。お任せでいいのかもかくにんしておかなくちゃ、と頭に刻んでおく。

「へぇ。それが部誌のテーマ?」

 あれ、と思いながら、念のため説明する。

「部誌のテーマというか、演劇で」

「演劇? あれ、文芸部の話だよね。劇もやるの?」

 なんだか、話がっていないような。

 もちづきせんぱいしようさいを話していないのだろうか。疑問に思いながらも、演劇部と文芸部が合同で劇を行うことになったむねを説明すると、もりせんぱいおどろきつつも楽しそうな顔をした。

「へぇ。じゃあ、かぐやひめやくあいかわさん?」

 私は今度こそくちびるの動きを止めた。

 演目すら知らないのだから、配役についてもりせんぱいが知らないのは当然のことだ。

 でも不自然だった。だっていちばん上に、彼女の名前があるのに。

 どうやって伝えたものだろう。そもそももちづきせんぱいじゃなく、私から告げていいのだろうか。何か事情があって、タイミングを見計らっているのかもしれないのに。

 迷ったが、もりせんぱいは私の答えを待っている。

 私は彼女に絵をいてほしいとらいしたのだ。にごすことはできそうもなかった。

「かぐやひめもりせんぱい、です」

 からかうようなみが、いつしゆんさんした。

「……や、ちょっと待って。どういうこと。なんでわたし?」

 ゆるやかな空気が、音を変えて一変したように感じられた。

 もりせんぱいからは明確なきよぜつの気配がただよっていたが、私はえんりよがちに説明することにした。

もちづきせんぱいが、かぐやひめもりせんぱいみかどは自分に任せてほしいって。おひめさまと王子様をやるのは、ようえんころからの約束で、最後の機会だから、って」

 言葉を重ねるたび、もりせんぱいの顔つきはじよじよに険しくなっていった。

 だれかのおこっている顔は、こわい。心臓が身体からだの中を移動してきたみたいに、耳の奥や手首がどくどくとうずく。

 口を開けば開くほど、もりせんぱいを不快にさせている感じがして、一分とたない間に私はだまんでしまっていた。

 はぁ、と美術室の空気をらすのはもりせんぱいのこぼした重いいきだった。

しゆんくんって、なんでこう、余計なこと……」

 したくちびるんだもりせんぱいは、顔を見られるのをきらったのか後ろを向く。

ままははの役だって、無理やりやらされたとかじゃないの。立候補したのは、ぜんぜん人気がなかったから。このままじゃしらゆきひめだらけになって、お話がたんしちゃうと思って」

 彼女がらすいきを集めたら、いわしさばがひしめき合うけんせきうんになってしまいそうだった。

「どんなお話にも、悪いやつって必要だよね。意地悪なままははがいなければ、しらゆきひめは森にまよんでこびとたちに出会わない。どくりんがなければ、こびとたちとの平和な暮らしが続いて王子様だって通りかからない。これじゃあ、物語はいつまでっても始まらない」

 独り言のようだったから、私はあいづちを打つことも、否定することもできなかった。

「どうせならさ。かぐやひめじゃなくて、悪いやつの役をやりたかったな」

 もりせんぱいは明らかに、出演について乗り気ではなかった。

 私はなんとか声をしぼった。

「あの、私からもちづきせんぱいに話してみます」

 そもそも役を決める場に、もりせんぱいは不在だった。約束の話を聞き、勝手に賛成してしまったけれど、いやがっている人に無理やり押しつけるようなことではない。

 私が、とんでもなく不安そうな顔をしていたからだろう。かみらして、うっすらともりせんぱいが笑う。

「安心して、決まったことはちゃんとやる。こう見えて生徒会長ですから」

 元だけどね、と付け足す口調は皮肉めいていた。

「ここ六限になると一年生が使うみたいだよ。今のうちに出て行ってね」

 私は、美術室を去る背中を見送った。やっぱり何も、言葉は出てこなかった。


◇◇◇


 放課後の集合場所は、校門前だ。

 しようめんげんかんを遠目に、私は準備運動にはげんでいた。

 上下ともジャージだ。むなもとには名前と出席番号のゼッケンがついている。グレーの学校ジャージは、ラインの色合いで学年が判別できるようになっている。

 学年色は入学からの三年間、変わらない。今年の三年は赤、二年が青、一年が緑だ。うわぐつうんどうぐつのラインの色にも取り入れられている。

 制服と異なり、ジャージのほうは評判がかんばしくなく、生徒からはダサいという声がよく聞かれる。でも個人的には、ネズミみたいでちょっとかわいいなと思う。ちゅー。

 りっちゃんと並んでかたを回し、くつしんする。横を通る制服姿の生徒の目がずかしいので、とにかく準備運動に気合いを入れて、気がついていないりをする。

 体操着と下ジャージのアキくんは、ウォーキングで参加予定だ。だんの体育の授業も休んでいる。

「そろそろ走れそうなんだけどな」

「アキくん、無理は禁物ですからね」

「分かってるって」

 口うるさいお母さんみたいになる私に、アキくんがひらひらと手をる。

 横目でにらみつつ、手首足首を回す。足元を包むのは体育用のうんどうぐつだ。最近の体育はバレーボールなので、くつばこ欠伸あくびしていたのを、かたたたいて起こしてきたのだった。

「にしてももりせんぱいの絵、楽しみですね。ナオせんぱいんだその実力やいかに」

 アキレスけんばしながら、りっちゃんが言う。私はあいまいみをかべた。

いてもらえるかは、みようだけど」

 ちゆうまでは手応えがあったが、去り際の様子からすると絶対にいてもらえる保証はない。

「そのときはナオはくにお任せしますよ。ぶちかましちゃってください」

「ネズミだらけでもいいなら」

「演目は『おむすびころりん』に変えますか」

「待たせたな、文芸部」

 ふざけているうちにもちづきせんぱいがやって来た。

 体操着のサイズが大きいようで、全体的にぶかっとしている。保護者の想定より身長がびなかったのだろう、とは口がけても言えない。

 近くにもりせんぱいの姿はない。演劇部を手伝ってくれるという知人たちもいなかった。

もりは一時間後くらいに合流予定。他のやつらは、明後日あさつてに顔見せに来る」

 わりと私は、人見知りの部類に入る。見知らぬせんぱいたちとのかいこうを思うときんちようするが、今から二日後をうれえて弱音をいてはいられない。

「で、軽いランニングから始めるんでしたっけ」

「そ。まずは外周を三周だな」

 りっちゃんのがおが固まる。もちづきせんぱいは気にせずくつしんをしている。

 ぐるりと学校の周りを回るコースは、一周が約六百メートルである。

「まったく軽くないじゃないですか。せめて今日は一周だけに」

「何言ってんだ、行くぞ」

 その声に背中を押されるように、私とりっちゃんは校門を飛びだした。

「びええ、つかれた!」

 直後、インドア派のりっちゃんがたおれた。アキくんが引っ張り上げているのが見える。心配だが、アキくんがついているのでだいじようだろう。

 とりあえず三周。二キロ弱のきよを走りきることを考える。

 ったかみが規則的に波打って、私の背中をかすようにたたいてくる。

「あんまり無理すんなよ、初日なんだから」

 と、へいそうしながらもちづきせんぱいが言う。

 でも、持久走はわりと得意なのだ。なおは運動が苦手だが、決して運動能力が低いわけじゃない。ペース配分をちがえなければ、問題なく走り切れるきよだ。

 私の呼吸にゆうがあるのに気がついたのか、もちづきせんぱいは話題を変えた。

「そういえばあいかわもりに話してくれたんだってな。ありがとう」

「え、あ、いいえ」

 お礼を告げる口調は自然で、他意は感じられない。横顔も平静そのものだ。段取りの悪さにちょこっとうらごとこうと思っていただけに、ひようけしてしまう。

 もりせんぱいは、もうおこってはいないのだろうか。

 そもそもあのとき、彼女はおこっていたのだろうか。語気は強く、放つ空気はぴりりとしていたけれど。

 でもあれは、いかりとはちがうのかもしれない。だとしたら。

 考えはまとまらないまま、三周のランニングを終えて、息を整えながらとくべつとうの四階へと向かう。階段を上るにも、りっちゃんはげっそりとしていた。がんばったけれど、一周半でダウンしたのだった。

 たまに学年集会で使われる多目的ホールはけになっており、うすみずいろのタイルカーペットがすきなくめられている。ろうがわから見ると丸見えなのだが、空が近い四階に他の生徒の姿はなかった。

 もちづきせんぱいの号令で、四人で大きな丸をえがくように横たわる。カーテンのれる大窓から日の光がむからか、顔の横にあるカーペットからは、強くのうこうなおひさまの香りを感じた。

 時間を使ってくつしんうんどうをしたあとは、横並びになって発声練習へと移る。とうかんかくで並んでいるので、手を横に広げてもアキくんやりっちゃんに届かない。


 あめんぼあかいなあいうえお うきもにこえびもおよいでる


 わたされたプリントにった五十音の歌を、声を合わせて読み上げる。

 あめんぼって、赤くなるのかな。だんは黒がちに見えるけれど。

 でも夕暮れの時間に川辺をながめたなら、水をはじいてすいすい泳ぐあめんぼはきっと赤色だ。その近くにと小エビがぷかぷかしていたら、小エビもピンクじゃなくて赤く見えたにちがいない。かきのきくりのき、かきくけこ。

 発声練習のあとは、りっちゃんより演劇台本が配られた。あか先生に許可をもらい、昼休みの間に印刷してきたそうだ。

 A3サイズの用紙が全部で四枚。右上がホッチキスでめてあるだけの簡素なものだ。

 一ページ目には、大きめの字で『新訳竹取物語(仮)』、ひろなかりつ作、とある。そのあとに登場人物の名前が列挙してある。しろうとの私が言うのもなんだけれど、しっかりと台本らしいていさいが整えられている感じがして、りっちゃんはやっぱりすごい、と思った。

 物語が始まるのは、一枚目の下のページからだ。一枚の紙にA4用紙二枚分、裏表合わせて四枚分が印刷されている。

 縦書きなのはだんしようせつげん稿こういつしよだけれど、文字は手書きではない。りっちゃんはみんなに読みやすいよう、パソコンで台本を打ってきたようだった。

 適当に座り込み、いったんカーペットに台本を預ける。片手で持ちやすいよう二つ折りにしている最中、もちづきせんぱいから呼びかけがあった。

「まず全員、軽く目を通してみてくれ。二度目は自分の出てくる場面中心に読み返しながら、けいこうペンで自分の役の台詞せりふにマーカー引いとくといいぞ」

 全員が台本に目を落としているので、ホールにはしばらく紙をめくる音だけがひびいた。

 私もまた、夢中になって読んでいった。だん読むようなしようせつてではなく、人物の台詞せりふ以外はト書きになっているので、すらすらと読むことができる。その分、小説よりシンプルだけれど、ひとつひとつの物言いや場面の表現にりっちゃんらしさを感じる。

 もちづきせんぱいがペンセットを持ってきてくれたので、私は水色のペン、アキくんはオレンジのペンで、自分の台詞せりふや動きに線を引く。

 白と黒の世界が、くっきりと色づいていく。

 私の台詞せりふは、ぜんぶ合わせて十五。横を見ると、アキくんは三十近いようだ。

 たいかんとくきやくほんは少しはなれた位置で、早くも打ち合わせを始めていた。

「長さはどうですかね? 一応、家で読みながら計ってみましたけど」

「見たとこ悪くない。明後日あさつての読み合わせのときはストップウォッチ持ってくる」

「あと観客がねむくならないように、あんまり全体的にかたくるしい口調にはしたくなくて」

「だからといって、くだけすぎるのも良くないな。ふざけてると思われると、かんしようたいにもえいきようが出る。そこは調整しよう」

りようかいです」

「それとここ。きゆうこんしやいつせいに登場するシーン。演出意図は分かるが、体育館のスポットライトはひとつしかない」

「そうなんですか? んと、じゃあ、ライトに寄るみたいに役者が入り込んで名乗っていくとかは?」

「動きがあっていいな。前のやつを押しだして名乗らせれば、個性も出せそうだ」

 聞き耳を立てると、演出についても話しているみたい。

 もちづきせんぱいと意見をわしながら、りっちゃんはしんけんおもちで台本に何か書き込んでいる。ランニングでのろうを忘れた熱意に満ちた横顔が、私にはまぶしかった。

 次はいよいよ読み合わせだ。

 四人で円を作るようにして座る。ナレーション部分は、今回は仮ということでみかどやくもちづきせんぱいけんにんする。というか不在の登場人物については、すべてもちづきせんぱいが読むことになった。

「昔々、あるところに、竹取のおきなと呼ばれる老人が住んでいました。彼は竹を切って持ち帰ると、かごやざるを器用に作り、それを売って生活していました。彼の名前は、讃岐さぬきのみやつこといいます」

 私は台本を両手に持ったまま、ちらりともちづきせんぱいの顔を見た。

 だんしやべかたから感じてはいたが、発音が正確でかつぜつもいい。とても聞き取りやすい声だ。

 さすが演劇部、と感心している間に、のどの調子を調整するようにアキくんが軽くむ。

 とたんに、となりの私まできんちようしてくる。『竹取物語』はナレーションの通り、おきなの登場場面から始まる。たいの上で、最初に台詞せりふを発するのはアキくんなのだ。

 彼の実力は、果たして。

「うわー、びっくりしたぞ。まさか光る竹から、こんなにかわいいあかぼうが出てくるなんて」

 たけやぶいちじんの冷風がいた。

 りっちゃんがぼそりとつぶやく。

「大根も、ここまでの大根役者は見たことがないでしょうね」

 やめて。おなかが痛くなっちゃう。

 二人でふふふとしのわらいをしていたら、もちづきせんぱいが台本を軽くたたいた。

あいかわ、もうすぐお前の台詞せりふ

 私はあわてて水色の線を指先で追う。ひとつめの台詞せりふを、上から下まで辿たどる。

 帰ってきたおきなから赤子を見せられておどろく場面。長くもないし、難しい言い回しの台詞せりふでもないのに、ジャージの内側で上半身がこわっている感じがする。

 けれど、アキくんが言っていた。私はだんからなおを演じているのだと。彼の言う通り、私には幼いころからなおとして積み重ねてきた、ゆいいつの時間や経験がある。

 呼吸が落ち着いてくる。たぶん、できる、と思った。

「ただいま。ところでばあさんや、見てくれ。竹からこの子が出てきたんだ」

「ま、まぁおじいさん。なんですっ、このかわいい女の子は」

 が、それはさつかくだった。

「大根二号じゃねぇか」

 もちづきせんぱいからのようしやないてきに、顔からぶわーっと火がきだす。ゆかに分厚いカーペットさえかれていなければ、私はで穴をっていただろう。

 でも、何も言い返せない。私の演技も、アキくんを馬鹿にできるようなしろものではないのだった。むしろ、かちんこちんのおきなより、うわってかみかみのおうなのほうが見ていられない。

「まぁ、高校の文化祭だ。ぶっちゃけ、そこまでのレベルを客は求めてないだろう」

 と私を落とした張本人が、フォローするように言う。

 しかし発言とは裏腹に、もちづきせんぱいの額には分厚いしわができあがっている。

「そこまでのレベルを、客は求めてない。が、時間はあと一月近くある。それなりには仕上げさせてもらうからな、かくしとけ大根ども」

「……はい」

 スパルタ指導を想像すると身体からだふるえが走ったが、耳まで赤くした私はぎこちなくうなずいた。アキくんもしんみようそうに声を合わせている。

 せっかく、りっちゃんが台本を書いた『竹取物語』に出演できるのだ。

 花をえることはできずとも、せめてめいわくはかけないようにしなければ。

「ご指導よろしくお願いします」

「やる気があって結構だ」

 空回るなよ、と言外に告げられているような。深読みのしすぎだろうか。

「ごめんね、おくれちゃった」

 読み合わせのちゆう、制服姿のもりせんぱいも早足でやって来た。

 頭を下げながら、円の中に合流する。もちづきせんぱいいちべつしたっきり、ナレーションを止めない。

 もりせんぱいがりっちゃんから台本を受け取った。ちゃんとがいとうのページが開いてある。そこに目を落としたしゆんかん、彼女はなんの気負いもなく言ってのけた。

「おじいさま、わたくし、けつこんなんてしたくありません。おじいさまとおばあさまと、ずっとこの家でいつしよに暮らしたいのです。それでは、いけないのでしょうか」

 切なげにうつたえる声だけではない。苦しそうにきゅっと寄った躊躇ためらいがちなくちびる。それでもりんとして、自分の思いを伝えようと開かれたそうぼう

 そこには確かに、ゆうちんし、じゆうひとえをまとうかぐやひめがいた。

 れてしまったのは私だけではなかった。もちづきせんぱいおどろいたようで、息をんでいる。

 ナレーションがちんもくしてしまい、読み合わせがれる。私は向かいに座るもりせんぱいに、興奮をかくさずに話しかけた。

もりせんぱい、何か演技の経験とかあるんですか?」

「えっ」

 予想外の質問だったのか、せんぱいは明らかに狼狽うろたえていた。

「そんなのないよ。でも、えっと、いて言うならしらゆきひめままははとか、もりりんとか」

「いや、あれからかなり上達してる」

 もちづきせんぱいが小さくつぶやく。もりせんぱいは、何も言わず微笑ほほえんだだけだった。

 そうしてすぐに再開された読み合わせにて、最も意外な才能を発揮した人物がいた。

 何をかくそう、我らがりっちゃんである。

「このの右大臣にお任せください、かぐやひめ。必ずやねずみかわごろもを手に入れ、このしきへとお届けしてみせましょう。ほのおよりも熱くたぎる私の思いを、あなたにお見せします!」

 否、意外でもないのかもしれない。りっちゃんは日常的にしばがかった台詞せりふや仕草を多用している。自信に満ちたお金持ちの右大臣を、元気いっぱい演じてみせるのだった。

 そう、五人のきゆうこんしやの中から、りっちゃんが選んだのはの右大臣だった。「ねずみかわごろもってなんかかっこいい」というのが理由らしい。

 いしつくりのは、仏のいしはちを。

 くらもちのは、ほうらいの玉の枝を。

 の右大臣は、ねずみかわごろもを。

 おおともだいごんは、りゆうの首の玉を。

 ちゆうごんいそのかみのたりは、つばめやすがいを。

 いずれもおとらぬ伝説級の宝物だが、もしも持参することができるならば、その男の元にとつぐ。かぐやひめきつける無理難題は、ますます彼らの心を熱くさせる。

 だが結局、だれもそれらを手に入れることはできずに、かぐやひめへの思いをあきらめることになる。世にときめく五人の貴公子をいちもうじんにする姿から、かぐやひめかしこさ、したたかさが感じられるエピソードだ。実際のところ、その後にえがかれるみかどとの交流よりも人気が高い場面といえる。

 大根のおきなおうな、愛らしくミステリアスなかぐやひめ、そつなく演じるみかど、バーニングする右大臣の五人組は最後のページまでけていく。

 読み合わせが終わったところで、部活の残り時間もあとわずかとなる。せいりようさいの準備期間中といえども、しんせいしないとおそい時間まで校舎に残れない決まりだ。

 残りの時間は、各自の台詞せりふれんしゆうてられることになった。おうな台詞せりふすう自体が少ないので、頭に入れるのは難しくなさそうだが、問題は演技力のほうだ。

 私は大窓の近くに立ち、台詞せりふを読んでみることにする。視界のすみっこでアキくんがロボットパントマイムをしている。もしかすると、赤子をげる仕草なのかもしれない。

 窓の外に視線を投げる。赤く色づいた空は、地上から見るよりも近い。

 いくにも重なった雲は気持ち良さそうにたないて、さんとたわむれている。私の苦労なんて、それこそどこく風だ。

 息を吸う。とにかく、今は練習をしなければ。

「まぁ、かぐやひめ。どうして急に月に帰るだなんて」

あいかわのどしやべるな」

 背後を通りかかったもちづきせんぱいより、するどく声をかけられる。

 私は口を半開きにしたまま固まった。それだと、二度としやべれなくなってしまうような。

 あせりや疑問はもろもろ、私の顔に丸ごと書いてあったらしい。もちづきせんぱいが自分のおへその下あたりをとんとんとしてみせた。

「腹からだ。役者は腹から声を出す。のどから声を出しても、後ろの席まで届かないんだ。人の身体からだは音を吸収するから、呼吸するにも声を出すにも、大事なのは腹」

 ナレーション役はマイクでしやべる予定だが、私たちはちがう。自分の生の声を、お客さんに届けなくてはならないのだ。

 もちづきせんぱいは散らばっていた三人を見回す。

「そうだな、残り時間もちょうどいいから全員でやろう。その場にそべって、下腹部に手のひらを置いて。手の位置は動かさないまま、上下に腹が動くのを意識しろよ。腹式呼吸、行くぞ」

 私はわたわたと横になる。見慣れないてんじように見下ろされながら、ジャージの上からおなかにそっと手を置いた。

「はい口から、ゆっくりいてー……一、二、三、四、五。大きく鼻から吸ってー……一、二、三、四、五。もういっかーい、一、二、三……」

 メトロノームのように正確に、もちづきせんぱいが手を打つ。

 それを何回も、何回もかえす。

 限界まで吸って、く。ときどき苦しいほどだけれど、だんだんとその呼吸に身体からだが追いついて、んでくる。そうして息をするのが、自然だったように思えてくる。

 息を吸えば、おなかはちみつかかえたようにふくらんで、息をけば、しぼんでいく風船になる。

 波間をただようように、身体からだから力がけていく。

「ほい、ゆっくり立てー」

 もちづきせんぱいの声を合図に、のろのろと立ち上がった。

 ただ呼吸をかえしただけなのに、立ち上がると一気におなかが空いたような感じがした。余計なものを遠くに押しやったように、身体からだがやたら軽いのだ。

「腹式呼吸に慣れると全身のきんちようほぐれるし、声もよく通るようになる。いいことずくめだぞ、だんの生活から意識してみてくれ」

 そこまで言って、もちづきせんぱいがぱんっと手をたたく。

「おつかさま。今日の練習、終わり!」


◇◇◇


 その日を起点とするように、目まぐるしい日々が始まった。

 せいりようさいの準備は大事だが、もちろん授業だって忘れてはならない。中間試験の背後には、いつだって手ぐすね引いた期末試験が待ち受けているのだ。

 試験期間でもないのに、私は毎日のように学校に行く。こんなことは生まれて初めてで、今まではあり得ないことだったが、立ち止まって思考するゆうはなかった。

 連続する時間は流れるのも早いのだ。夜がない私にとっては、特に早いのかもしれない。朝も昼も夕方も、流れ星のような速度で過ぎ去るものだから、何度も目を回しそうになった。

 思っていた以上に、演劇の練習に使える日は限られていた。

 演劇部はせいりようさい二日目に、体育館ステージでの持ち時間をあたえられている。全体練習は月水金のみなので、本来だと十二回。その中には、しようの試着や体育館でのリハーサルの日もふくまれているので、実際はもっと少ない。

 火曜と木曜の放課後は、クラスの手伝いか、部室でりっちゃんの小説を読むか。あるいは、時間が合えばアキくんと読み合わせをしたりする。

 演劇部すけの面々とは、もちづきせんぱいから予告があった通り、最初の水曜日に顔合わせをした。

 きゆうこんしや四人の役者、ナレーション役。おんきようと照明担当。全部で七人という大所帯である。

 ナレーションとおんきよう担当が女子で、他は男子だ。全員が三年生だった。私の想像よりもずっと、ひとつの演劇をえんかつに行うには頭数が必要なのだった。

 軽いしようかいを済ませたあと、彼らはてきぱきと段取りよく、決めるべきことをさつきゆうに決めていった。場面ごとに流すBGMの選定、演出照明など、基本的にはもちづきせんぱいやりっちゃんが提案した内容をぎんし、意見をすり合わせていく。私は音を聞く作業を手伝って、たまに求められると意見らしいものを口にしたりした。

 よくこのメンバーで公演の手伝いをしているそうで、一年生のころから参加しているという人もいる。あいあいとしていて、新参者の文芸部に対しても親切に接してくれた。

 私がたいじようからむのはおきなとかぐやひめくらいだが、りっちゃんはきゆうこんしや同士のバトルシーンもある。短い時間で台詞せりふの間合いやおたがいの動きをかくにんするのは大変そうだったが、ほがらかなりっちゃんは上級生からたいそう気に入られたようだった。練習を重ねるごとに、きゆうこんしや五人のれんけいは息が合うようになっていった。

 せんぱいたちの中にはすいせんや内定をもらって進路を決めている人もいれば、来年の共通テストに向けていそがしかったり、就活の真っ最中だったりとぼうな人もいる。それでも彼らが力を貸すのは、助けたい相手がもちづきせんぱいだからだろう。

 もちづきせんぱいは呼吸法や発声法についてだけでなく、演技指導に関しても上手だった。

 一足飛びにというわけにはいかないが、私とアキくんの演技も日に日に上達していった。大根に毛が生えた程度には、すくすくと成長している。

 他の三年生もそつがない演技をろうしていたが、やはりけているのはもりせんぱいだ。彼女がそこにいると、味気ない多目的ホールを、ぜいたくおきなしきまがうことが何度かあった。

 もりせんぱいは週に一、二回、姿を見せる。あわただしく十分だけ練習に参加していくこともあった。

 ポスターのしんちよく具合についてはかくにんできていない。彼女がどんな絵をいているかも分からない。美術室でのあの出来事から、なんとなく、個人的に話すのははばかられていた。

 そしていつだって頭のかたすみには、ビラの文字がちらついていた。


◇◇◇


 十二日の火曜日。

 放課後になって文芸部に向かうと、部室にはかぎがかかっていた。今日はまだだれも来ていないようだ。

 りっちゃんはクラスのほうだろうか。アキくんは教室に見当たらなかったので、ひとりで来てしまったけれど。

 かぎを取りに職員室に行くべきか。それとも図書室をのぞこうか。

 いろいろ考えて、全部やめた。

「はぁ」

 ドアにもたれかかって息をく。とくべつとうは静かなので、考え事をするのに向いている。

 意識を演劇に向けるよう集中していても、ふとしたとき、ビラのことが頭にかぶ。

 ビラがかれてから二週間近くが経過した。今となってはだれも話題にしていない。こんなじようきようしびれを切らして、第二第三のビラがあるかもとひそかにけいかいしていたのだが、まったくおとはなかった。

 ビラの存在自体が、私のかんちがいだったような気がしてくる。でもバッグの内ポケットには、小さく折りたたんだそれが入っている。開くときは「あ」から「ん」までを書いたこっくりさんの紙を見たときのようなきんちようかんが、私をおそう。

 文面は、最初に見たときと変わらない。

「この学校には、ドッペルゲンガーがいる」

 背後にせまるようなきようしんは、日付が変わるごとにうすらいだ。今は疑問のほうが大きい。

 これをいた人は、だれに、何を伝えたかったのだろう。

「ナオ」

「わわっ」

 きんきよから声が聞こえた。

 あせった私の手から、折り目がついたプリントが落ちる。先に拾い上げたのはアキくんだった。

「あ、ちがうの、それは」

 何がちがうのか、自分でも分からないのに言い訳する私を、かがんだアキくんが見上げてくる。

 真っ黒なひとみ。こんなに近くで見つめ合うのは久しぶりで、どきりとする。

「ナオ、あのさ」

 ごめん、と言うつもりだった。いまだにビラを気にする私を、アキくんはお説教するだろうと思ったのだ。

「デート、しよう」

 ぜんぜんちがった。

「……デート?」

「そ。今から」

 アキくんは折り目に沿って、ていねいにビラを折りたたんでから返してくれる。

 見なかったことにしていない。私はそれが、デートのおさそいと同じくらいうれしかった。受け取ったなんのへんてつもない紙が、熱を持ったとさつかくするくらいに。

「私もデート、したい」

「うし」

 くしゃっとした顔でアキくんが笑う。私もつられて笑った。

 ポケットに手をむ。取りだされたスマホ画面に表示されていたのは、水族館のホームページだった。

 スマートアクアリウム静岡。静岡駅から地下道を歩いていくと、まつざか静岡店に行き着く。その本館七階にある小さな水族館だという。

 そういえばお母さんがもらってきたチラシを、一度だけ見た覚えがあった。

「さっき調べた。町中だから、今からでも行けるかなって」

 水族館に行きたいと言った私の言葉を、アキくんは忘れていなかったのだろう。さいなことに、胸がきゅうとなる。

「きれいなとこだね」

 そう返したところで、図書室のドアが開く。知らない生徒が三人出てきた。

「じゃあ、行こ」

 聞かれていたかも、とまごつく私と裏腹に、アキくんはなんだかのびのびしている。早く、という風に視線で私をかしてくる。遠足が待ちきれない小学生みたいだ。

 残念ながら、自転車はちゆうりんじように置き去りにすることになった。駅までならともかく、静岡駅から家までは長い道のりなのだ。

 明日の朝は、電車とバスで登校だ。ちゃんとなおにも伝えておかないと。

 学校前の停留所から、やって来たバスに乗り込む。

 座席のシートはかたくても、胸はお構いなしにはずむ感じがする。赤い信号機にかったり、交差点で左折するたび、なぜだかにこにこしちゃう。

 なんでかな、の答えは分かりきっている。水族館は初めてで、放課後デートもそうで、それでデート自体が久しぶりだから、今ならはしが転んでも、きっと私は笑っちゃう。

 まんできなくて、スカートからびる足をぷらぷらとらす。

 降車ボタン、なるべく光らないでほしい。

「小学生みてえ」

 笑いながらてきされ、むっとする。それはさっきまでの、アキくんのほうなのに。

「悪かったですね、小学生で」

 私はわざとらしくほおふくらませて、となりの彼から目をらした。ぐうぜん、視線の先に入ったのは、三列前の席に座るつえを持ったおばあさんだ。

 もちづきせんぱいは今まで、たくさんのアドバイスをくれた。その中のひとつが、自分のやくがらに近い年代や職業の人を観察してみる、ということだ。

 それからはぐるまを使うおばあさんを見かけると、変に思われない程度に見つめるようになった。

 ただ、だれもが想像するような老人らしさをちようする必要はないとも言われた。無理にこしを曲げたり、のんびりとしやべると、たいではわざとらしさが出てしまうそうだ。

 いろんなおばあさんがいる。かぐやひめのお世話をしていたおうなは病弱ではないし、じよう身体からだをしていたはずだ。

 私は、たいじようでどんなおばあさんを演じたいのだろう。

 視線の先に気がついたのか、アキくんが口を開く。

「『竹取物語』のおうなってさ」

「うん?」

「おばあさんなわけだけど、若いころはおじいさんとたくさんデートしたと思うんだよな。せんたくと竹取りだけじゃなくてさ」

 私は目をみはった。

「そんなの、考えてもなかった」

 でもアキくんの言う通りだった。

 長い間、二人はって生活を営んできたはずだ。それで当然ながら、何十年も前の二人はおきなおうなではなくて、男性と女性で、男の子と女の子だったのだ。

 ずうっと、竹を取る道具やせんたくものを持っていたわけではない。予定が合った日にはデートをして、空いた手をつないだはずだ。

 子どもにはめぐまれず、ぜいたくができる暮らしぶりでもなかっただろう。でも、いつしよに生きてきた。だから光る竹から赤子が出てきたとき、不気味がったりせず、自分たちへのさずかりものだと思って大切に育てたのだ。

「水族館にも行ったかな」

「それはこれから」

 シートに置いていた手がにぎられる。バスは終点の静岡駅北口に着いていた。


 駅の地下道はいつだって、少し空気がひんやりしている。

 う人々に知っている顔や制服がないか、私はおっかなびっくりかくにんしながら、アキくんに手をにぎられている。

「アキくん、だれかに見られちゃうかも」

 せいりようさいの準備期間中でも、駅近で遊んでいたり、たくちゆうの生徒だっているだろう。

「いいんじゃん。見られても」

 先を歩くアキくんはひようひようと言ってのける。心底、そう思っているみたいだ。りほどけない私も、同罪だったりするけれど。

 地下のJR口からまつざかに入店する。エスカレーターに乗った私は、声をはずませてひとつ前の男の子に話しかける。

「イルカショー楽しみだね」

 アキくんはもう片方の手でほおをかいている。

「イルカ、はいないと思う。まつざかだし」

「アシカショーとか、セイウチショーとか」

「どっちもないと思う」

「ペンギン、ラッコ、カワウソ、オットセイ!」

「わざと言ってるだろ」

 ご名答。にらまれて、あははと声を上げて笑ってしまう。

 たとえ、そこにあるのが空っぽのすいそうばかりが並ぶ水族館だったとしても、その空白をアキくんとめていくのが、私は楽しいことだと思っている。

 でもずかしいから、それはないしよにしておこう。

 話しているうちに、働き者のエスカレーターは私たちを七階まで連れてきてくれた。

「わぁ……」

 ぐんぐん上り続けながら、私は反り返るようにして頭上を見上げた。武骨なてんじようを、青や水色の電球がいろどっている。おどるようなでんしよくは、ホタルイカが泳ぐ海のようだ。

「わっ」

 ほうけるように見つめていたら、エスカレーターの終わりであやうく転びかけた。

 そんな私の手を引き寄せて、アキくんが支えてくれる。おかげでデートが始まって早々、不様に転ばずに済んだ。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 アキくんがふっと、くすぐったそうに笑った。

 係のお姉さんが立つチケットカウンターに向かう。はなれた手が心細いけれど、おさいを取りだすためだからしょうがない、と自分に言い聞かせる。

 入館料、ひとり千四百円。三千円を持ち歩いている私には敵じゃない。

 私の、正しくはなおの部屋のちやぶうとうには、残りの約十九万円だってひかえている。

 最近の私はまた、以前のようにおそうをしてせんたくものたたんでいる。五十円玉貯金は、多いにしたことはないと考えたのだ。

 入館料をはらいがてら、頭の中で計算してみる。残りは十八万九千五百九十円。

 十九万を割ってしまっても、まだまだ、へっちゃら。

「スタンプブックもあるって。買ってみる?」

 カウンターにられた案内を、アキくんが指さしている。

「買う!」

 二人で一冊のスタンプブックをゲット。シックなデザインの表紙には、気取ったポーズをしたキャラクターがいてある。

「赤いトカゲだ、かわいい」

「これ、トカゲか?」

「トカゲだよー」

「イチゴヤドクガエルのオスカルです。水族館のインフォメーションを担当するキャラクターです」

 お姉さんが教えてくれる。私は赤い顔のまま、なるべくげんしゆくそうにうなずいた。

 スタンプブックのおまけにポストカードも二枚もらう。

「どっちがいい?」

 両手にそれぞれ持ってアキくんにたずねると、「こっち」と右のほうを指さす。私は左のコミカルなイラストのカードが気になっていたので、ちょうど良かった。

 荷物をうと、入り口でチケットを切ってもらって入場する。他にお客さんの姿は見当たらなかった。

 館内の空気は地下道よりもすずしくて、湿ている感じがする。プールみたいに塩素のにおいはしない、ぼんやりとした水の気配がかみの間をとおける。

 ウェルカムゾーンのすいそうからは、どどんと立派な松の木が飛びだしていた。世界文化遺産に登録されたまつばらをイメージしているようだ。

「これ、まつだいらけんさんがレイアウトしたすいそうらしい」

「マツケンサンバの?」

「そうそう。サンバの」

 松の木のぼんさいには、馬を連れたマツケンフィギュアの姿がある。ぜんしんぜんれいのウェルカムを感じて、さっそく楽しくなってきた。

 三つ折りのパンフレットを見てみる。館内にはながめる、つながる、見つけるなど、それぞれのテーマに沿った五つのエリアが設けられているそうだ。来場者はそれらを順番にめぐっていくことになる。スタンプの配置場所も、各エリアに対応している。

 最初はながめる、のエリアから。かべに小さなすいそうまれているのと、ゆかに直接、どっしりとした円形のすいそうが置いてある。

 プロジェクターでゆかとうえいされた水中を、私とアキくんはのんびりと泳いでいく。平泳ぎでもクロールでもなく、立ち泳ぎだ。

「あ、ウツボ」

 きようぼうなウナギみたいな顔をしたウツボ発見。私はすいそうの前でまえかがみになった。

 食い入るように見つめる私のことは眼中にないようで、横たわる二ひきのウツボはぽけっとしている。とうめいな水の中、おうかつしよくの姿がくっきりと見える。

 開いたり閉じたり。動き続ける口元が、とってものんだった。

 後ろからすいそうのぞんでいたアキくんが、ぽつりと言う。

「ナオ、ウツボと同じ顔になってる」

「えっ」

 海のギャングと同じ顔って、どういうこと?

 けば、にやけるアキくんが自分の口元に手をやっている。

「ウツボと同じタイミングで口がぱくぱくしてるの、すいそうに映り込んでる」

 えええっ。

 上げかけた悲鳴をなんとか抑える。他に人がいなくても、図書室と同じ。水族館だって、せいじやくが尊ばれる場所である。

「早く言ってよっ」

 立ち上がった私が小声でっても、アキくんはおかしそうに笑うだけだ。ウツボになってしまった私は顔を手でかくして、ぱくぱくしたがる口をもどすのにやつになった。

 気を取り直して、円形のすいそうをしゃがんでのぞいてみる。

 真っ赤な身体からだをしたソメンヤドカリなる生物が、こっちを見ている。ウツボとは正反対、外の世界にきようしんしんのようだ。

 つぶらなひとみが何かをうつたえてくる。なんだろう。じゆんすいでひたむきな願いを感じる。

「ゴハン、クレー」

 どこからかかんだかい声がした。まさか。

「今の、ソメンヤドカリの声?」

 ヤドカリの向こうに何かが見える。目をらすと、くつせつしてぐにゃぐにゃになったアキくんだった。

「アキくん、おなか空いたの?」

「俺じゃなくて、ソメンヤドカリだから」

 白々しく言い張る大根一号の手を、私はにぎる。

 青くて四角い世界が、次々と目の前に姿を見せる。

 びれの黄色いノコギリハギは、シマキンチャクフグという名前の有毒なフグにたいしているらしい。ない毒をあるかのように見せかけて、他の生き物をびっくりさせて、身を守る術にしている。

「魚の世界だったら、レプリカだろうと本物だろうと、関係ないんだろうな」

 すいそうを見つめるアキくんのひとみの中で、一ぴきの魚が泳いでいる。フグかハギか、どっちだろう。

「シマキンチャクフグは、ノコギリハギにおこったりしないわけだろ? 他のだれかも、お前、シマキンチャクフグに似てるけどノコギリハギじゃね、なんていちいちてきしない」

 私となお。アキくんと、さなくん。

「アキくんはさなくんよりも、背やおしりが大きいってこと?」

 背びれとしりびれが小さいのは、シマキンチャクフグ。ノコギリハギはどちらも大きいらしい。

 そこでまじまじと見つめられる。

「じゃあ、ナオもあいかわより大きい?」

 私は彼のおしり、ではなく背中をばしーんとたたいた。

って!」

「よく身がまってるから、いい音が出るね」

 わざとらしく痛がるアキくんを連れて、次のすいそうへ。

「わ、見て。ブラックゴーストだって」

「なんだこれ。初めて見た」

 黒いゆうれいという名の通り、全身が真っ黒くて、びれに白い模様があるお魚だ。

 長細いシルエットはどこか不安定で、黒いヒレがゆらゆらとれる様子は、ダンスをする貴婦人みたい。背景は鹿ろくめいかんではなく流木だけれど。

 ブラックゴーストは目が発達していないので、電気を発することで、周囲の景色をさとるらしい。仲間を見つけたら、電気の周波数を変えるのだという。

 もし私も、身体からだからびびびと電気を出すことができたら、その力で他のレプリカを見つけることができるのだろうか。そしたら私はその人に、なんて話しかけようか。

 なんとなくそんなことを考えながら、順路に従って進む。

 ちょびひげの生えたコリドラス・アエネウス。コリドラス・パレアトゥス。ささは食べないコリドラス・パンダ。海の中を、コリドラスじゃない二人でお散歩する。

 サメやエイがゆうゆうと泳ぐような、視界いっぱいをおおくすようなだいすいそうはひとつもない、こぢんまりとした水族館は、そのときだけ世界の真ん中みたいだった。

 私はこのとうめいな美しいアクアリウムで、水草にからまれて、イソギンチャクとあくしゆをして、かいがらのベッドでねむって暮らしてみたい。

 とおった水からはすべての危険がはいじよされていて、つらいことはなんにもない気がする。

 でも、そんなわけはないのだと知っている。魚たちは生き残るためのふうめぐらせて、すいそうの中でもけんめいにがんばっている。

 一日で泳ぎ切れるような小さな世界なんてうんざりで、海にもどりたいな、家族に会いたいな、って泣く夜だってあるのかもしれない。そうしてこぼれたひとつぶなみだを集めて、すいそうは豊かに水を張っているのかもしれない。

 次のエリアに向かおうとする手を、そっとつかまれた。

 あおぐと、アキくんが立っていた。表情はよく見えない。こんいろのブレザーをまとう私たちは、暗い照明だとおたがいの姿だって見えにくくなってしまう。

「ナオがかぐやひめじゃなくて、良かった」

「大根だから?」

 アキくんが首を横にる。とぼける私に付き合ってくれない。

あわになろうとした次に、月に帰ろうとしたら困る」

「もう、あんなことしないよ」

 私はにんぎよひめじゃない。ましてや、かぐやひめになろうとも思わない。

 安心させたくて笑いながら答えたのに、アキくんの顔が近づいてくる。

 らめくかげかげが重なる。アキくんは気難しい、どこかせつまった顔をしている。

 背中に物言わぬかべが当たる。男の子らしいのどぼとけが、目の前でこくん、と動く。げたつばんだ動き。アキくんは、きんちようしている。

「どうしたの」

 答えてほしかったのに、後ろ手が頭をかいて、アキくんの身体からだはなれていった。

うそついたら、ハリセンボン飲ますからな」

 何事もなかったように、会話の続きにもどっている。私は蹈鞴たたらみつつも、なんとか調子を合わせた。

「針千本じゃなくて?」

「それは痛いだろ。だから、ハリセンボンでいい」

 どちらにせよ痛い。ハリセンボンだって、人間にぱくりとされるのはいやだろう。

「いいよ。指切りしよっか」

 小指と小指をつないで、私たちは約束をわす。

 子どものころ、こんな風にだれかと指切りをしたことがある気がした。

 だれだったか思いだせない。なおがしたのかな。ううん、私だったかも。

 こうして、忘れていくのだと思った。海よりも広い頭の中なら、砂のようにちていくおくがあるのは仕方のないことだった。

 アキくんだけは、片時も忘れたくなかった。

 かいがらは、やっぱりいらない。その代わり照れくさそうに笑う彼の、おかのようなほっぺでねむりにつけたなら、私はどれほど満たされるのだろう。

 時間はどこまでもゆったりと流れているようだったけど、時計を見やると十七時を過ぎている。私たちは一時間以上、水族館をたんのうしていたらしい。

「ショップも行ってみるか」

「そうだった、ミュージアムショップ!」

 今度こそりっちゃんや、それにせんぱいたちへのお土産みやげも買いたい。ほんだいらどうぶつえんのリベンジだ。

 足を向けるアキくんについていこうとして、「あっ」と声を上げる。

「どうした?」

「アキくん大変。スタンプ、ぜんぜん押してないよ!」

 魚を見るのに夢中になって、バッグにったスタンプブックのことをすっかり忘れていた。

 表紙のオスカルがどこか悲しげに見える。早すぎるぼうきやくあきれていたのかもしれない。

 あごに指を当てたアキくんが、ふむ、とつぶやく。

「それは、あれだ」

 差しだされたのは左手だった。

「もう一周するしかない」

「名案だね」

 その手を取って、私はとびきりのがおうなずいた。


◇◇◇


 かぎを開ける。

 ただいまを言いながら、熱のこもったローファーをぐ。お母さんのくつはまだない。ターコイズブルーの自転車も留守にしているげんかんは、物足りなくてさびしかった。

 結局あのあと水族館をもう一周していたら、のんびりお土産みやげを選ぶ時間はなくなっていた。帰りがおそすぎると、なおを不安にさせてしまう。りっちゃんとせんぱいたちへのお土産みやげは買えたけれど、自分たちのは選ぶ時間がなかった。

 お土産みやげぶくろを手に階段を上っていると、なおの部屋から声が聞こえてきた。

 だれかと電話している。なおは、笑っているようだった。話している内容はよく聞き取れなくても、ドアの向こうから楽しそうなふんが伝わってくる。

 なおは私に気がついていない。ろうで待ってもいいけれど、もうすぐお母さんが帰ってきてしまう。

 ひかえめにドアをノックしてみる。くぐもって聞こえていた話し声が、ぴたりとむ。

 足音が近づいてきて、目の前のドアが開いた。

「ただいま」

「知り合いと話してただけだから」

 何もたずねていなかったのに、ぶっきらぼうに言い放って背中を向ける。気持ちが波立っているなおには、「おかえり」を言うゆうがないようだった。

「ごめんね、じやしちゃった」

 に座った口元が、への字に曲がる。かれたじゆうたんは毛足が長くて温かいけれど、足の指先で遊ぶなおはそんなものにはほだされない。

 勉強机には、問題集とノートをまたぐように電話の子機が横たわっていた。一階から持ってきたのだろう。

「もう切るところだったし」

 言葉を重ねると、おそらくなおげんそこねてしまう。私は何も言わなかった。

 でも次に呼ばれたしゆんかん、私の所有するおくは最新までこうしんされる。なおの電話相手や、話していた内容は、私にも分かってしまう。

 それを思いだしたのか、なおは小さく舌打ちをした。

「忘れるようにする。だれと電話してたか」

 うーん、と私はまゆを寄せる。

「それだとむしろ、くなっちゃうかも」

 なおにとって印象的な出来事は、レプリカの私にとっても同じだ。人のおくは複雑で、忘れようとして強く意識したなら、真逆の結果を連れてくる。試験が終わったしゆんかん、脳みそから蒸発していく数式とは違うのだ。

「なんか、ずるい」

「え?」

「……なんでもない」

 息をいて、なおかみをかき上げた。この話は終わり、の合図だと思った。

 言いだすなら今だ。私はショルダーをにぎる手に勇気をかき集めた。

なお。自転車なんだけど、学校に置いてきちゃった。明日は電車とバス使うね」

 理由を問う目が向けられてくる。

「今日、水族館行ったから」

「水族館?」

 ばつな単語でも聞いたように、なおが目を丸くする。

「前みたいに学校サボったわけじゃなくて、ちゃんと放課後に。その、演劇の参考にするみたいな感じ、っていうか」

 ちゆうから完全に失念してデートをまんきつしていたので、我ながら言い訳がましい。思った通り、なおだまされてはくれなかった。

だれと」

「ア、アキくん」

 ふぅん、となおつぶやく。口で言うのではなく、のどの奥を鳴らしている。

 まなしが注がれる先は、私がげたお土産みやげぶくろだ。そうして私とは目を合わせないまま、質問を重ねる。

さな……アキだかと、付き合ってるんだっけ」

「う、ん」

「あんたたちってどこまでいったわけ」

 それならばいつぺんたりとも忘れたことはない。私は、今までの彼との思い出を指折り数えた。

「えっと、ほんだいらどうぶつえんと、お祭りと、セノバの映画館。今日が、まつざかの水族館。あっ、お祭りは、学校の近くにある神社でやっててね。りっちゃんがチラシをくれて、それで学校帰りに寄ったんだ」

 がおで伝えたはずが、なおはなんとも形容しがたい顔をしていた。

 への字がぐにゃぐにゃゆがんでいる。けんしわができて、口元が引きつっている。

なお?」

 名前を呼ぶと、なおは片手で顔をおおってしまう。表情はまったく見えなくなった。

「はぁあ」

 つかれきった大人のようないきまでいている。

なおだいじよう? 調子悪い?」

「いい。なんでもない。……お入ってきて」

「え? でも」

「い、い、か、ら」

 を言わさず告げられれば、うなずくしかない。

 その日の私は、久しぶりにおに入った。にゆうよくざいはマリンブルーのバスボールにした。水族館の色だった。


◇◇◇


 翌々日の昼休みのこと。

 その日は朝から雨が降っていた。冷たいあきさめぜんせんに支配された週間天気予報は、すっかり青々としている。

あいかわさん。お弁当、いつしよに食べない?」

 まどぎわの席できんちやくのリボンを解いた私は、そのまま固まる。とうさんが現れて、そんな風に声をかけてきたからだった。

「えっと」

 よどむ。こんなことは初めてだった。

 こういうときは、どう答えるのが正解だろう。なおの望む答え。クラスメイトとのあつれきを生まない答えは。

「最近ね、小道具班でごはん食べながら会議してるの。昼休みの有効活用」

 周りのわいわいがやがや、お昼の放送に負けないくらいの音量で、とうさんが言う。

 よくよく見ると前方のほうでひっそりと机を動かしている三人は、確かに全員が小道具班だった。といっても、そもそもだんからいつしよに行動している仲のいい子たちだ。

 断ると角が立つかもしれない。それに久しぶりに、だれかとお弁当を食べてみたい気持ちもあった。

「じゃあ、うん」

 私はきんちやくすいとうだけを手に、とうさんのあとに続いた。

 近くの机同士をくっつけて作ったしよくたくは、砂上のろうかくのようだ。空気がちょっときんちようしているのが伝わってくる。原因になっているのは、はみ出したお誕生日席に座る私に他ならない。

 いろんなグループをわたあるとうさんはといえば、かろやかな手つきでお弁当箱を開けている。私と同じ二段重ねだ。運動部だからか、量は私よりずっと多い。

 とうさんにならうように、みんなお弁当箱を取りだしている。私もそうした。リボンを解こうとした指が迷子になってから、きんちやくのきゅっとしたところをつかむ。

 お母さんが用意してくれるお弁当は、毎日の楽しみだ。

 れいとうしよくひんのヒレカツと、ちくわでかくれんぼするチーズやきゅうり。しおこんえた枝豆に、横断バッグの色をした卵焼き。白米にはピンク色のたらこふりかけが、つぶつぶとおどる。

 横断バッグは、静岡県限定で使われているげバッグだ。小学校の六年間、ランドセルに入りきらない荷物を、一心にってくれていた。

 卒業式の翌日、なおは捨ててしまった。私は、使い込むうちに黄色がぼやけていった横断バッグも好きだった。それなりの愛着があった。

あいかわさんのお弁当、おいしそう」

 とうさんが言うと、三人がうんうんと示し合わせたようにうなずく。

「ありがとう。みんなのもおいしそう」

 いろどり豊かなだけではない。枝豆がカラフルなピックで焼き鳥みたいに連なっていたり、うさぎじゃなく木の葉の形のりんごになっていたりと、それぞれのお宅の常識がうかがえておもしろい。

 いただきますをして、はしを手に取る。とうさんは早くも食べ始めて、ほおふくらませている。

 食事中の話題は聞いていた通り、おばけしきの話が中心だった。小道具はそろってきたので、背景に使うちょっとした切り絵を午後に作ろう、という話だ。

 文化祭の話だと割り切ると、会話は油をったようにえんかつになる。お昼の放送では、クラスや部活の出し物についてのしようかいも流れているので、そちらも話題をつなぐのに一役買ってくれた。

 昼休みが始まって五分くらいがつと、こうばいぐみがぞろぞろと教室にもどってきた。

 その中にはアキくんの姿もある。うでには焼きそばパンとメロンパン、ケチャップがかかったウィンナーロールがかかえられている。もう片方の手にははんで買ったのだろう、野菜ジュースの紙パック。

 最近、アキくんからはちゃんと物音がする。ドアを開ける音、を引く音、パンを机にどさっと置く音。ゆうれいになりたがるように、息をひそめて存在していたおもかげはない。

さな、いいもん持ってんじゃん。一個分けてちょ」

「五千万」

「たっけぇー」

 アキくんに話しかけるのはよしくんである。

 男子は女子ほど積極的にろうかくづくりをせず、前後の席に座り合うことが多い。でもよしくんは、わざわざ立ち上がってアキくんの近くに行く。同じ大道具班で仲良くなったようだ。

 男子と話すとき、たまにアキくんはえかねたようにきだすことがある。そのときのがおは、私と話しているときとはなんとなくちがう気がして、ドキドキして、たまらなくなる。

 だから私は、よしくんもっと話しかけちゃって、と心の中でいのっていたりする。

 二人の様子をさりげなくながめていると、私のを秘やかな声が打った。

さなくんってさ、ちょっといいよね」

 えっ。

 あわてて首の角度をもどすと、とうさんの発言が呼び水になったように、みんなが顔を見合わせてこそこそと話している。

「意外とやさしい」

こうな感じ?」

「他の男子とちがうよね」

「うん、よしくんとかとおおちがい」

 空気をさいらす、小さな笑いが生じる。

 アキくんは、ちょっといい、なんて言葉じゃ足りない。

 でも、言えない。このじようきようでそんなこと、言えるわけがない。

 とうさんは目を糸のように細めて私を見ている。気にしていないりで、ステンレスのコップに緑茶を入れようとしたけれど、手がすべって落としてしまった。

 かららん、とこうしつな音がひびいて、教室内が一瞬だけ静かになる。引っ張りだされた天使が、おっちょこちょいの私にあきれているようだった。

あいかわさん、だいじよう?」

「う、うん。ごめん」

せいりようさいさ、新たなカップルとか生まれるのかな」

 コップを拾う前に、そんな話になっている。ぼそっとしたつぶやきにとうさんが乗っかった。

「どうする。うちらのおばけしき、暗いからさ。キスとかされちゃうかもよ」

 きゃーっ、と声が上がる。押し殺した悲鳴だけれど、今度ははっきりと教室のてんじようを伝っていった。

 それからみんなして、はっとして口元を押さえる。周囲から不用意な注目を浴びるのは、だれだっていやなのだ。

 それでもこうしんが上回ったようで、ひだりどなりに座る子がささやいてきた。

「ねぇあいかわさん。キスって、どんな感じなの?」

 どうしてそんなこと、私にくのだろう。

 なおはかわいくて、きれいだ。だから、男の人との交際経験が豊富そうに見えるのかもしれないけれど。

 でも、私は知らない。なおだって。冷え気味の手足が一気にはつかんしちゃうくらい、なんにも知らないのに。

 そう心の中で言い張っていたとき、ふと頭にかんだ。

 おばけしきと同じくらい、水族館だって暗い。暗くて、静かで、人もいなかった。

 もしかしてあのとき、アキくんは私に。

「どうかした? 顔赤いけど」

 ぱたぱた、と私は自分のほおをあおいでみせた。

「ちょっと暑くて。暑いよね、今日」

 そう? むしろ寒くない? とみんなが首をかしげる。

 私はそのすきに、手早くお弁当箱を片づける。せっかくのお弁当だけれど、味はほとんど分からず飲み込んでしまった。

 きんちやくすいとうかかえて立ち上がると、かんはつれずとうさんがたずねてくる。

「どこ行くの?」

「図書室。借りてる本、へんきやくげんだから」

『竹取物語』は二回、読み終えた。返すついでに次の本を調達したい。秋の読書月間はまだ続くのだ。

いつしよに行ってもいい?」

 お弁当以上に断るのは難しくて、私はあいまいうなずいた。

 ついてきたのはとうさんひとりではなかった。四人を引き連れて、私は慣れ親しんだ図書室に入室する。

 室内はかなり混み合っていた。お静かにのルールは、今日ばかりは守られそうもない。

 司書さんが立つカウンターには、二人だけ並んでいる。

 バーコードスキャンの赤いレーザー光が、本の背中についたバーコードを読み込んでいる。ぴっ、とひかえめな音が連続で聞こえた。

 この時期限定の人気ぶりを発揮する図書室では、ベストセラーの本はだいたい借りられているし、新着図書のコーナーはすっからかんになっている。

 でも私は、新しい本がなくてもがっかりしない。近代日本文学ローラーは続いている。何を借りるかは、考え中だ。

「他のみんなは?」

「あそこ。『るろけん』の完全版がある、って盛り上がっちゃって」

 とうさんが指さす先を見ると、入り口近くのソファ席に並んだ三人がかたを寄せ合って、一冊のまんに集中している。

「あたしもあれ読んでけんどう始めたの」

「へぇ」

「先に『ヒカ』読んでたら、作ってたわ」

 いしを打つ仕草をする。けっこうとうさんはまんきのようだ。それで、えいきようを受けやすいらしい。

あいかわさんって文芸部だったっけ」

「うん」

「おすすめの本とかってある? こんな機会でもないと、本なんて読まないからさ」

 かんを覚えたのは、六月の図書室を思い返したからだ。

 もう、アキくんと初めて話したのは四か月も前のことなのだ。頭の中でかえりながら、その形をなぞってみる。

「国語の教科書にっていたお話や詩で、印象的だったものってある?」

「あー、それなら」

 こっほん、とせきばらいをしたとうさんが、こわいろを変えて話しだす。

とうげきした。必ず、かのじやぼうぎやくよしを除かねばならぬと決意した」

「『走れメロス』だ」

じやぼうぎやくは言い過ぎだけどね。昨日の放課後なんだけど、よしのやつめ調子乗って、行き止まり用の段ボールこわしやがりました」

 そんな事件があったとは。

だいじようだった?」

「うん。さなくんが直してくれたからさ、助かったよ」

 そういえば昨日、演劇練習のちゆうにアキくんがけたことがあった。あれはスマホに助けを求めるれんらくが入ったからだったのだ。

「……あたしってさ、根本的にアウトローなのよ」

 ほんだなから落っこちそうになっている本をとすとすと指先でもどしながら、とうさんが言う。

「グループのだれかとめると、その一帯に寄りつきにくくなるでしょ。そういうときは他のグループを転々として、しばらくしてもどると、めたって事実もなかったことになってかんげいされる。ヒットアンドアウェイっていうのかな、こういうの」

 ちょっとちがうか、ととうさんがしのわらいをする。古びた本の中で笑う彼女は、やさしいていねんをにじませている。

「ひとりでいても、あいかわさんはぜんぜんみじめじゃないよね」

 目についた本を取りだすとうさんの目は、うらやましいと語っている。

「でもときどき、本当にときどき、さびしそうに見えたりする。これは、気のせいか」

 彼女が見ているのは、私だろうか。それともなお

「とか、分かったようなこと言ったりしてね。こんなだから、あんまり女子に好かれないんだよねぇ」

 年下の女子にはモテるんだけどねぇ。しみじみと、めるみたいに言うものだから、なんだかおかしくなった。

「そうなんだ」

「そうなのよ」

「でも、それは、その人たちに見る目がないだけだよ」

 私は、とうさんが好ましい人だと思う。

 体育の授業で、二人組を作ってねって簡単そうに言われると、いつも困る。自分と同じ、困っている人がどこかにいてくれないかなって、目をらして探す羽目になる。

 そういうとき、探すより早く、とうさんが何度か声をかけてくれた。彼女の言にのつとるならば、どくなクラスメイトを助けているわけではなくて、グループ間を転々とする作業のいなのだろうけど。

 とうさんが手をってくれると、ちょっとだけかたが下りる。少なくともクラス委員長である彼女の目には、私の姿は映っているのだって思えるから。

 とうさんはといえば、ぜんとしていた。

あいかわさん、それ口説いてる?」

「えっ」

 なんだかこの前、似たようなことを言われたような。

「ちょっとドキドキしちゃった。美少女ってこわい」

 反応に困っていたら、とうさんがおおぎように額をたたいた。

「あちゃー。『人間失格』、読んでみたかったけど借りられてるか。あれだな、この前映画化したやつ探してみるか。そっちも借りられてるかなぁ」

 照れくさそうに笑って、他のほんだなに向かうとうさん。

『走れメロス』を読み返す気は、特にないみたい。私のおすすめ作戦はあえなく失敗したようだ。

 でも、別にいい。二人で話ができて楽しかったから。

 そんなことを思いながら、まだ三人はまんを読んでいるのかな、と視線を飛ばしてみる。そこで私は小首をかしげた。

 開いたままのドアから、通り過ぎていく女の子の姿が見えた。

 りっちゃんだ。こちらには気がついていない。前をえるひとみがやけにしんけんだったように思えて、気にかかった。

「ごめん、ちょっと出てくる」

 とうさんに一声かけてから、にぎわう図書室を出る。りっちゃんは図書室の前を横切って、部室に入ろうとしている。

「またからりかぁ。うー、このままじゃ事件はめいきゆうりしてしまう」

「りっちゃん」

「うぎゃっ」

 声をかけるとおどろいたようで、りっちゃんは変な悲鳴を上げた。

 ばっとかえると、私の顔を見るなり大きく息をいてだつりよくしている。

「ナ、ナオせんぱいかぁ。びっくりしました」

「ごめんごめん。ところで、事件ってなんの話?」

「あばばば」

 あわてふためいたりっちゃんは、私の手をつかんでかぎを開けた部室へと引き込む。

「も、もしかして声に出てました? その、事件がなんちゃらって」

 かべぎわに立ったまま、ひそひそ声で問われる。

「出てたよ」

「うっ、出てましたか」

 何やらしようちんするりっちゃんを見ていて、ふと思いつく。

「もしかして、ビラをいた犯人捜してるの?」

 犯人という言い方は、へいがあるかもしれない。何か犯罪をおかしたというわけではないのだ。

 私の問いに対して、りっちゃんはまゆを八の字にしている。その角度は何よりもゆうべんだった。

「ええっとですね、それは」

「りっちゃん、教えて」

「……はい。捜してました」

 観念したように、りっちゃんが両手を上げて白状する。

 イベント好きなりっちゃんのことなので、ビラき事件のなぞを解決しようとひとりでほんそうしていたのかも、と思う。でも、私の考えはちがっていた。

「だって心配なんですもん。あのビラ、ナオせんぱいとアキせんぱいのこと言ってるのかもしれないし」

 りっちゃんがしょんぼりした顔で続ける。

「自分がこっそりとさぐるだけなら、二人にめいわくはかからないし、相手の動きをけいかいすることもできるなって思って」

「りっちゃん、そんなこと考えてたの?」

 私たちの間で、ビラの話題が出ることはなかった。それもりっちゃんがづかってくれてのことだったのだ。

「あたりまえのクラッカーですよ」

 ふくれっつらのりっちゃんを前に、どんな顔をしていいか分からない。

 部誌のための小説を書いて、台本の調整をしていて、クラスの出し物の準備だってあるはずなのに、りっちゃんはこっそりと、だれにもさとられないように犯人捜しに乗りだしてもいた。私には本当に、もったいないくらいの友人だ。

「ありがとう、りっちゃん」

「いえいえ。いまだになんのかりも得られてませんし」

 同時に、考える。私ひとりでは無理だしぼうだろう。

 でも、かんするどいりっちゃんといつしよであれば。

「ね。犯人捜し、私も手伝っていい?」

「えっ、でもアキせんぱいおこられますよ」

 思わずしようしてしまう。

「もう、とっくに注意されたあとだから」

 アキくんはさぐるべきでないと言ったのだ。

 それが正しいのは分かりきっている。でも、できることなら、あのビラをいた人物の真意を知りたい。自衛に入るのは、それからでもおそくないように思えるのだ。

「アキくんにはないしよにしよう。これは、私とりっちゃんだけの秘密ってことで」

 口元に人差し指を当ててみせる。りっちゃんはかない顔をしている。

「少しでも危険だと思ったら、アキせんぱいに話しますからね」

「うん。そのときはいつしよおこられて、ろうに並ぼう」

「バケツ持ってですか?」

「そうそう。しっかり両手に」

 こうして、私たちの共犯関係が成立する。

「でも、捜そうと思って見つかるものなのかな」

 相手だって、ビラきなどめられたではないと知っているだろう。自分の正体がバレないよう、細心の注意をはらって行動しているはずだ。

 それにあれから二週間が経過している。何かのこんせきというのは時間がつごとに見つけにくくなるものだ。もしどこかにかりがあったとしても、犯人が回収したか、とっくに消えたあとかもしれない。

やみくもに捜しても無理だと思います。でも、任せてくださいよナオせんぱい。必ず犯人は見つけてみせます」

 長い長いめを作ってから、りっちゃんがきりりと決め顔で言い放つ。

「りっちゃんの名にかけて!」

 これが言いたかったらしい。