Part 01: 背筋は伸ばして、丸めない……気をつけて。あと、腕は必要以上に動かすと姿勢が乱れるよ。 一穂(私服): ……っ、と……。 魅音(私服): いいよいいよ、その調子。大丈夫、ちゃんと全身のバランスを保てば崩れないから。 一穂(私服): う、うん。 詩音の声: はろろーん、お姉~っ。可愛い妹が遊びに来てあげましたよ~♪ 一穂(私服): ひゃあっ?! どんがらがらがっしゃーん!! 背後から聞こえてきた声にバランスが崩れ、腕に乗せていたものが後を追うように次々と落下していく。 詩音(私服): ちょ……ちょっと、何の悲鳴です?! 魅音(私服): あんたのせいであがった一穂の悲鳴だよ! 登場と同時に魅音さんの罵倒を受けた詩音さんは、半泣きの私を見て動きを止めた。 詩音(私服): は……一穂、さん……? 一穂(私服): ご、ごめんなさい……。 詩音(私服): えっと……2人で何をしていたんですか?あと、この床に転がった空の皿と湯飲みは……。 魅音(私服): バイトの練習だよ。 一穂(私服): えっと……その、お金が欲しくて。 詩音(私服): お金って……一穂さんがですか? 魅音(私服): 珍しいでしょ? 詩音(私服): えぇ、びっくりしました……一穂さんって、食べる以外に欲がないものと思っていたので。 詩音(私服): で、どうしたんです?何か欲しい物でもあるんですか? 一穂(私服): え、えっと……物、というか。 ――それは、昨日の夜のこと。 お風呂掃除を終えた私がリビングで見たのは、チラシを広げている美雪ちゃんと菜央ちゃんだった。 一穂(私服): お風呂掃除、終わったよ……って、何を見てるの? 美雪(私服): 今度#p興宮#sおきのみや#rの映画館でやる、映画のチラシだよ。買い物に行った時にもらったのを思い出してさ。 美雪(私服): 興宮にも小さい映画館があったんだね~。ちょっと驚いたよ。 菜央(私服): けど、テレビで見たことがあるタイトルばかりね。あまり目新しさはないわ。 美雪(私服): リバイバル上映なんだって。有名どころを集めてるみたいだよ。 一穂(私服): リバイバル? 美雪(私服): 昔の古い映画を、映画館で上映することだよ。 菜央(私服): せっかく映画館で見るなら、新作を見た方がいいんじゃないの?古いのなら、ビデオでいくらでも見られるじゃない。 美雪(私服): 家のビデオでのんびり映画を見るのも楽しいけど、大きいスクリーンで見るのは臨場感が違うからね。 美雪(私服): それに新しいって言っても、私たちにとってはこの時代の最新映画は全部古い映画だと思うけど。 菜央(私服): ……それもそうね。 一穂(私服): 美雪ちゃんも菜央ちゃんも、以前は映画館に行ったりしてたの? 菜央(私服): あたしはそれなりに。撮影協力とかでお母さんが映画のチケットを貰うことが多かったから。 美雪(私服): 映画館は友達とたまに行くぐらいだけど、ビデオはよく借りてたよ。 美雪(私服): 一時期は借りてきた映画漬けだった時もあったなー。 一穂(私服): そうなんだ……。 一穂(私服): (映画館、か……行った記憶、ないな。どの映画も、見たことがないものばかりだ) 一穂(私服): …………。 一穂(私服): (映画代って……結構高いんだね。3人分となると、さすがにお金が……) 一穂(私服): (……そうだ) 詩音(私服): なるほど。お二人を映画に連れて行くお金が必要なんですか。 一穂(私服): うん。それで魅音さんに相談して、新しく作ってる喫茶店で働けることになったから練習をしてたんだよ。 詩音(私服): 新しく作ってる、喫茶店……? 魅音(私服): ほら、この前から話していたでしょ?エンジェルモートが試験店舗として買い取った、例のアンティークな喫茶店だよ。 詩音(私服): あー、あれですか。そういえば、そろそろ完成間近だってお姉が言っていましたね。 魅音(私服): 店長も決まったし、衣装も菜央ちゃんが頑張ってくれたから、準備は万端。それで臨時バイトに、一穂を推薦したってわけ。 詩音(私服): なるほど、一穂さんはマネキンですか。働くウェイトレスはこんな感じですよ~ってサンプルとして見せるための。 魅音(私服): そうそう。 一穂(私服): な、なんか、その……すごいアルバイト先だったんだね。大丈夫かな……? 魅音(私服): 大丈夫大丈夫。映画館に3人が入りびたっても平気なくらいきっちりと稼がせる約束を取り付けたから! 一穂(私服): そ、そうじゃなくて……。 魅音(私服): とりあえず、一穂はウェイトレスの役割を果たしてくれればいいから! 一穂(私服): う、うん……。 Part 02: 仮営業日が差し迫り……私は美雪ちゃんと菜央ちゃんに、アルバイトのことを打ち明けた。 さすがに2日間も外出しているのをごまかすのは無理だという、魅音さんと詩音さんのアドバイスだ。 嘘をついていない証拠に、お店の資料を差し出して説明すると……。 美雪(私服): そっかそっか。何をしてるのかと思ったら、内緒でアルバイト計画を立ててたのか~。 美雪(私服): いやー、よかったよかった!もしかしたら私たちには打ち明けられない悩みでもあるのかと思って、焦っちゃったよ。 一穂(私服): 気づいてたの? 美雪(私服): なんかこそこそしてるなー、程度にはね。けど、映画に行きたいなら素直に言えばよかったのに。それくらいなら私のサイフから出せるよ? 一穂(私服): そ、それは……私が連れて行きたかったから。 美雪(私服): ……そっか。じゃあ、今回は甘えちゃおうかな。バイト頑張ってね、一穂。 一穂(私服): う、うんっ! 美雪(私服): にしても大正時代に出来た建物かぁ。大正時代と言えば、第一次世界大戦かな。あとは……。 菜央(私服): ……反対よ。 一穂(私服): えっ? 思ってもみなかった声に、思わず振り返る。すると、菜央ちゃんがチラシを見ながら眉間にしわを寄せている様子が目に映った。 美雪(私服): おぅ……反対って、一穂のバイトが?理由はどうして? 菜央(私服): 添付してある、資料のこれを見て。このページよ。 そう言いながら、菜央ちゃんが指で差し示すところに書いてあったのは……。 一穂(私服): ……え? せ、制服? 菜央(私服): 可愛くないわ。 美雪(私服): んー……古い映画とかで見たことがあるけど、当時のウエイトレスの制服ってこんな感じじゃない? 菜央(私服): 当時は当時。今は今よ。いくら建物が古いからって、ウエイトレスの衣装まで古い必要がある? 菜央(私服): 今は大正じゃなくて、平成……でもない、昭和よ。昔を大事にするのはいいけど、今だって大事にしなきゃ。 美雪(私服): まぁ、そこまで横から口出しをしなくてもさ……。 菜央(私服): ……ちょっと、魅音さんに電話をかけるわ。 美雪(私服): ちょ、ちょい待ち、菜央! 菜央(私服): 大丈夫、ウエイトレスの制服に少しだけ手を加えさせてってお願いするだけよ。それと……。 菜央(私服): 閉店後にちょっとお邪魔させて、って交渉するだけだから。 アルバイトの制服に身を包み、少し緊張した私を魅音さんは明るく出迎えてくれた。 魅音(私服): おぉー! いいじゃんいいじゃん!似合っているよ、一穂! 一穂(大正ロマン): あ、ありがとう……。 魅音(私服): その衣装に手を加えたのって、菜央ちゃん?さっすがー、凝っているねぇ。 一穂(大正ロマン): ちょっと付け加えるだけって言ってたんだけど、これはちょっとじゃないような……? 魅音(私服): あはは、まぁいいと思うよ。可愛いしね!……で、準備はいい? 一穂(大正ロマン): う、うん。これからお客さんが来るから、練習通りに接客をすればいいんだよね。 魅音(私服): そんなに気負わなくてもいいよ。今回はプレオープンで、全員が園崎の関係者か顔見知りだからさ。 魅音(私服): 店長、この子のこと、よろしくね。 店長: もちろんですよ、魅音さん。 カウンターにいた年配の男性は魅音さんと親しいのか柔和に微笑むとそのまま私の方を向いた。 店長: 一穂さん、でしたね。一緒に頑張りましょう。 一穂(大正ロマン): (し、知らない人と2人で一緒に働くのは、緊張する……) 一穂(大正ロマン): (でも、今日と明日を頑張れば、映画に行ける……はずっ……!) 一穂(大正ロマン): よ……よろしくお願いします! 頭を下げると、首筋に髪を結ぶリボンが触れる。……いつもと違う感覚に、少し緊張が走った。 魅音(私服): 本当は一穂の活躍を優雅に、お茶を飲みながら眺めたかったんだけど、用事が入っちゃってさー。 魅音(私服): 他のお客さんが帰った頃にまた来るから、それまで頑張ってね! 一穂(大正ロマン): …………。 魅音(私服): 大丈夫だって、そんな不安そうな顔をしなくてもさ。 魅音(私服): ここに来てくれた店長さんは、別の喫茶店で長く働いていたベテランだから。基本的なことはお任せして大丈夫! 店長: えぇ、お任せください。 一穂(大正ロマン): は、はい。ありがとうございます。 魅音(私服): じゃあ頑張ってね、一穂! 一穂(大正ロマン): う、うん……! Part 03: 一穂(大正ロマン): あ、ありがとうございました……。 店長: 今の方で、予定していたお客さんは最後ですね。 キッチンに立っていた店長さんが、洗い物の手を止めて閉められたドアを見る。 店長: 一穂さん、念のため2階を見てきていただいていいですか? 一穂(大正ロマン): は、はい。 一穂(大正ロマン): ふぅ……。 誰もいないことを確認して、手近な椅子に腰掛ける。 休憩している場合じゃないけれど、一人で息をつける時間が欲しかった。 一穂(大正ロマン): …………。 トン、と角砂糖の入った器を叩きながら、窓の外に視線を投げる。 1階席の特徴はステンドグラスのような色とりどりのガラスだけど、2階席の特徴は大きな窓がはめこまれていることだ。 窓から差し込む木漏れ日はキラキラしていて、午後の柔らかな輝きをさらに穏やかにしながら喫茶店の中へと差し込んでいる。 一穂(大正ロマン): なんだか、不思議な感じ……。 古い建物特有の匂いのせいだろうか。ここにいると今が何年なのか、曖昧になりそうだ。 ……最初は壊す予定だった、と聞いた。もう要らない、廃棄されるはずだった建物。無くなってしまうはずだった場所。 でも今は別の誰かに必要とされていて、そして……。 一穂(大正ロマン): 私が今、そのお店で働いている。……なんだか、不思議だな。 このお店は、私が子どもの頃からあったはずだ。……でも、私の記憶の中には見当たらなかった。 覚えていなかっただけで、確かに存在したはずなのに……。 ……私が知らなかっただけで、存在すらなかったことになる。 映画もそうだ。#p興宮#sおきのみや#rに映画館があるなんて、知らなかった。 一穂(大正ロマン): 私って、何も覚えてなかったんだな……。 知っていたはずの街の、知らない角度から見る景色。それを見ながら、私は……。 魅音の声: 一穂ー……! ぼんやりしていた意識が、ふいに聞こえてきた声で引き寄せられる。 はっ、となって窓の外に目を向けると、大きく手を振っている魅音さんの姿が下の方に見えた。 店長: お帰りなさい、魅音さん。 魅音(私服): ただいまー。いやぁ、疲れた疲れた……。で、店長。どう、一穂の働きは? 店長: 十分に頑張ってくれましたよ。お客さんの反応も上々でした。 一穂(大正ロマン): あ、ありがとうございます。 店長: それにしても、いい店ですね。よほど前の持ち主が大切にしていたのでしょう。 魅音(私服): うん……とっても大事にしていたそうだよ。 手近な椅子に腰掛けた魅音さんは、懐かしそうに目を細める。 魅音(私服): ねぇ、一穂。古い建物ってさ、放置すると何が起きると思う? 一穂(大正ロマン): え、えっと……崩れ、ちゃうとか? 魅音(私服): それもあるけど……浮浪者や不良のたむろ場になることもあるんだよ。 魅音(私服): あと、肝試し目的のカップルが勝手に侵入したり……とか? 魅音(私服): そういう人たちにとって、この店が誰の持ち物でどれだけ大事にしていたとかは、どうでもいいことだから。 魅音(私服): 荒らされちゃうんだよね。そういうの、いくつも見てきたからさ。 一穂(大正ロマン): …………。 魅音(私服): だからこのお店は、前のオーナーさんと同じくらいに大事にしていきたいんだよね。 一穂(大正ロマン): いつか、無くなっちゃうとしても? 魅音&店長: …………。 失言だった、と気づいた時にはもう遅い。 魅音さんと店長さんの視線を受けた私の耳にざぁっと血の気が引く音が聞こえた頃にはもう何もかもが手遅れだった。 一穂(大正ロマン): あっ……ご、ごめんなさい! 店長: いえ……確かにこの店を永遠に持たせることは不可能でしょう。 魅音(私服): そうそう、補強しても限界はあるからねー……けど。 魅音(私服): まだこの店の限界は来ていない……って、思うんだよね。 店の中をぐるりと見渡し、魅音さんはニヤリと笑う。 魅音(私服): だからさ、店長もだけど一穂の意見も聞かせてよ。このお店をもっともっと、盛り上げていくためにね。 店長: はい。これから私の思い出も詰めていきたいですからね。 一穂(大正ロマン): は、はい! 安堵と同時に背筋を伸ばした瞬間、カランと甲高いベル音が店内に鳴り響く。 お客さんは、もう帰った。ということは……。 美雪(私服): やっほー、一穂! 菜央(私服): 遊びに来たわよ。 一穂(大正ロマン): あっ……! 魅音さんと店長さんは、このお店に思い出を詰めていきたいと言った。 だとしたら、ほんの少しでいいから。私の思い出を詰めても……許されるだろうか。 嬉しさに緩みかけた口元を引き締め、練習通りに頭を下げる。 一穂(大正ロマン): ……いらっしゃいませ。お席にご案内させていただきます。