──朝。
目を覚ました
水が半分ほど入ったコップを手の平で抱え、動かない水面をぼんやりと眺めている。
窓から
「一人でベッドを出て……もう体は大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃない。でも、
リノはコップを見つめたまま視線を動かさない。
「それなら
「
「なにを今さら……」
盟人はリノの態度を
普段のリノといえば、健康なときでも自力で移動することさえ面倒がり、兄に抱いて運んでもらうほどなのだ。それが、病に伏せっている状況で遠慮するなんて、明らかにおかしい。
まだリビングにはシアもドリスも来ていなかった。
盟人はどうやらいつもより早く起きてしまったらしい。隣に寝ているはずのリノがいなかったから、違和感で目が覚めたのかもしれない。
盟人は朝食まで時間を
普段と違って、リノは盟人の
気詰まりな空気。
盟人が妹とのあいだにこんな空気を感じたのは、今日が初めてだった。
そういえば、とリノに尋ねたいことを思い出す。昨日はアランの超高周波発生アプリのせいでリノが寝込んでいて、聞けなかったのだ。
「ソウルジェネレーターって、結局はどういう
びくり、とリノが小さく肩を震わせた。
黙ったまま、なにも答えようとしない。
「……どうした? 盗むターゲットがどういうモノなのか知っておかないと、仕事に差し支えるんだが」
盟人が告げると、リノはゆっくりと口を開く。
「デスウォーカーは……死者。心臓を抜き取られた死者は、体内のコアの力で動いている。一定範囲のコアに生命エネルギーを送信する
盟人は顎をひねる。
「つまり……、ソウルジェネレーターの近くにいないと動けないわけか。ガイも、お前も、
リノはうなずく。
「ん。最近の衰弱死事件は、デスウォーカーの護衛兵たちが機能停止していっているのが真相。でも、表にその情報は流れない。一部の人しか知らない機密事項だから」
「どうして黙ってた? ソウルジェネレーターの本当の機能とか……お前がデスウォーカーだってこととか」
そのせいで、盟人はリノを本当の妹ではないかもしれないと思ってしまったのだ。
だが、魔法研究所にさらわれて死亡し、デスウォーカーとして
「……ごめん、なさい」
リノはうつむいた。
「いや、謝る必要はないけど、理由が知りたい。お前のことだから、ちゃんとした理由があるんだろ?」
盟人は妹に手を伸ばし、抱き寄せようとした。どうしてリノがそこまで沈んでいるのか分からないが、妹が苦しそうにしているのは見ていられなかった。
だが、リノは盟人の腕からすり抜ける。
決して肌を合わせようとしない。
「ごめん……なさい……ごめんなさい……」
元から小さな体をさらに縮め、そう繰り返すだけの妹に。
盟人はなんと声をかけたらいいのか、分からなかった。
「これで三日ぐらいは持つかしら。盟人が結構食べるから、すぐなくなっちゃうのよね。まあ、作りがいがあっていいけど!」
ドリスがスーパーの買い物袋を山のように提げて歩いている。
それは、商店街から盟人の自宅への帰り道。
住宅街を縫うように通っている道路には、さして車の往来もなく、盟人やシアが並んで歩いても問題はなかった。
盟人は買い物袋を左右に一つずつ持っている。
シアは自分も荷物を運ぶと言ったのだが、ドリスが断固としてお嬢様にはそんなことをさせられないと言い張ったため、手ぶらだった。
盟人もシアの細い腕が買い物袋の重みに耐えられるとは思えないので、そっちの方が良いと思うのだけれど。
「今日のリノちゃん……様子が変でしたね。盟人様にもなんだかよそよそしくて……」
シアは浮かない顔で言った。
「……ああ。いろいろ思うところがあるみたいだが、話してくれないから分からない。あいつが俺に隠し事をするなんて、今までなかったのにな」
盟人がぼやくと、ドリスは肩をすくめた。
「あんた、分かってないわねー。どんなに小さくても、女の子には隠し事の一つや二つあるものよ。それが女の子ってものなの。これだから男って
奴隷には分不相応な偉そうな態度を取られ、盟人は
「お前は男を語れるほど男を知っているのか?」
「し、知ってるわよ! 恋愛系の漫画とか結構読んでるもの!」
「よし、じゃあお前の隠し事とやらを全部話してもらおうか。これは命令だ」
「いいわよ! 絶対びっくりさせてやるから! えっと……えっとねえ……あれ……? なにかあるはず……ちょっと待ってね……」
ドリスは口をへの字にして考え込む。
そんなメイドにシアが
「ドリス……無理をしないでください。表裏がないというのは、良いことではありませんか」
「そうだぞ。世間の人間はお前を単細胞と呼ぶかもしれないが……気にすることはない。なぜなら、俺はこう呼ぶからだ。バカ、と」
「バカゆーなっ! 私だっていろいろ複雑なんだからね!? ホントだからね!?」
ドリスは必死に主張するが、
リノもこれくらい単純だったら助かるのになと思いながら、盟人は自宅への道を進んだ。
先日のパーティで分かったのは、ソウルジェネレーターがまだ日本地区にあるということ。詳しい位置は分からないが、それでも海外に運び出されたよりはずっと楽だ。リノを回復させるため、さらに調査を進めなければならない。
「リノちゃん、きっと
シアが促す。買い出しのあいだの留守番と看病は
夕暮れの住宅街は、けだるい空気に満ちていた。
民家の庭からは、芝刈り機の音。
ベビーカーを押して歩いている、間の抜けた顔の女性。
白いバンが向こうから走ってきて、盟人たちの横を通りすぎる。盟人はドリスとシアの腕を軽く引いて、道の端に寄せた。
盟人はそのバンに、かすかな違和感を覚えた。
なにが引っかかったのかは分からない。
車が通ったのが珍しかっただけかもしれない。
けれど、振り返って見たときには、バンはとっくに遠くへと走り去ってしまっていた。
特に気にする必要もないだろうと思い、盟人は再び歩き始める。
家にたどり着いたときには、空にわずかな
盟人は玄関の
開かない。
ノブを回して何度も引くが、それでも開かない。
「どうしたのですか、盟人様?」
シアが盟人の後ろから覗き込んだ。
「いや……鍵を開けっ放しにしてたみたいだ」
「まったくもう、盟人ってばバカねー。人のこと言えないんだから」
「かけたはずなんだがな……おかしいな……」
盟人は改めて鍵を回し、ドアを開いた。
しん、と静まりかえった屋内。だいぶ日が暮れてきているのに、電気がついていないせいで、薄暗い。だが、その薄暗さは、いつもの夕暮れよりさらに
妙に気温が低く感じられ、盟人は身をすくめる。
「リノ、帰ったぞ」
妹の部屋がある二階に向かって声をかけるが、返事はない。恐らく眠っているのだろう。
リノの体調を確かめようと思い、盟人は階段を上った。
すると、廊下に美穂が寝転がっているのが目に入る。うつ伏せになって四肢を
「おい、なにしてるんだ?」
歩み寄った盟人は、気付いた。
美穂の頭の下に、血
心臓が、冷たい刃に触れられたかのように凍りつく。
「美穂? 大丈夫か? 美穂!?」
怒鳴っても、とっさに抱き上げないだけの理性は残っていた。頭を
盟人は美穂の首筋に指を添える。
脈は、あった。
血は後頭部から滴っているようだ。まだ凝固していないので、傷ができてからそう時間は
「外傷と
シアが美穂の頭上に手をかざし、癒しの力を使い始める。手の平に光が集まっていく。
「頼む!」
盟人は言い残して、リノの部屋へと走った。
脳裏によぎるのは、さっきすれ違ったバンの姿。幼馴染みを巻き込んでしまったことへの後悔。警戒が足りなかった自分への怒り。
そして──
リノの部屋には、誰もいなかった。
銃弾が一発、リノの
枕の上に散らばっている、長い髪の毛。
転がっているコップ。
「な、なにが……あったの……?」
ドリスが
盟人は四肢の力が
同時に、怒りが。赤黒い
盟人のポケットから、スマートフォンの着信音が流れ始めた。聞き慣れたメロディなのに、それは不思議と葬送の音楽のように聞こえてしまう。
取り出したスマートフォンの画面には、リノの電話番号が表示されていた。
盟人は砕けそうなほどの力でスマートフォンを握り締め、電話に出る。
「殺されたくなければ、リノを無傷で渡せ」
「あらあら、ずいぶん怒ってるみたいねー、
スピーカーから流れてきたのは、キャンディスの声だった。
犬の遠吠えが聞こえる。
盟人とドリスは、キャンディスから指定された工場へ足を踏み入れる。ガラスの破片が散らばった床に靴底が擦れ、耳障りな音を立てた。
そこは、恐ろしく荒れ果てた廃工場だった。
まともに残っている窓ガラスはなく、トタンの壁はサビまみれになっていた。
コンクリートの打ちっ放しの床はひび割れ、あちこちに工具が打ち捨てられている。
足場に囲まれて放置された大きな物体は、なにを作ろうとしていたのかも分からない。
世界政府によって厳格に管理されている世界で、このような廃工場が放置されていたことが、盟人には意外だった。
けれど、今は工場の事情なんてどうでもいい。
盟人にとって気がかりなのは、リノの安否と所在、それだけだ。
ドリスは手の平サイズの球体──起動前の
「これ……絶対に
その声は震えていた。恐怖を感じながらも頑張って同行してきたドリスに、盟人は心の中で感謝する。口に出しては、言わないけれど。
「ああ。俺がリノを盗み返したら、お前はリノを抱えてとにかく逃げろ。後のことは気にしなくていい」
「ど、どういうこと、それ……?」
「言葉通りのことだ。お前はリノを避難させるためだけに連れてきた。その役目を……ちゃんと果たしてくれ」
盟人はドリスの目をじっと見つめて言った。
普段とは違う真剣な盟人の態度に、ドリスは戸惑いを浮かべる。
「う、うん……分かったわ……」
理解していない様子ながらも、ぎこちなくうなずいた。いざというときにドリスがどう動くかは不明だが、とりあえず盟人は指示を出しておきたかった。
二人が廃工場の真ん中に来ると、正面から
ドリスが声を
見れば、サーチライトが床に設置され、真っ直ぐ盟人たちの方へ向けられていた。
そして、サーチライトの前には、キャンディスとリノの姿がある。
リノはぐったりと床にうずくまり、手錠をかけられていた。白い手首には、くっきりと赤い輪が刻まれている。よほどきつく手錠を締められたのだろう。
盟人は怒りを腹の奥底に抑え込んで、キャンディスに声をかける。
「来てやったぞ。これからどうする」
「そうね……。素直に要求に応じてくれたから、まずは妹ちゃんを返してあげましょうか。ほら、受け取りに来なさい」
キャンディスはリノの手を引きずるようにして起き上がらせ、その背中を乱暴に押した。リノは危うく転びそうになりながら、よろよろと盟人の方へ歩いてくる。
「ドリス……頼んだぞ。リノを、家に」
床を
「……え」
当惑するドリスを背後に残し、疾走する。
「今よ!」
キャンディスがさっと右腕を振り上げて叫んだ。
途端、四方八方から爆音が鳴り響く。
全方位から鋭い
盟人はサーチライトの光を浴びながらリノを抱き上げ、ドリスに向かって放り投げた。大
身を引き裂くような痛みに、ほとばしる鮮血。
槍は盟人の体内で張り裂け、大量の
槍の柄に
盟人はその槍を体から引き抜こうとした。だが、そうすればするほど槍は棘を増やし、体内の肉に食い込む。壮絶な痛みに意識が
「無駄無駄、無駄よ!
キャンディスは拳銃を振りながら、靴音を響かせて盟人に歩み寄ってくる。
槍の刺さった傷口から、赤い液体が大量に滴り落ちた。
盟人の太ももへさらに一本、槍が突き刺さり、肉が弾け飛ぶ。
「盟人!」
ドリスが悲痛な叫びを上げ、盟人に駆け寄ってこようとした。
盟人は薄れかける意識の中で、声を絞り出す。
「いいから、お前はリノを連れて行け!
「で、でもっ!」
「これは命令だ! 『行け』!」
「ッ……!」
「キャンディス隊長! 追いますか!?」
ゴーレムの操縦席からデバイサーの男が尋ねた。
だが、キャンディスは気だるげに首を振る。
「放っておきなさい。私たちの仕事は、坊やを持って帰ること、それだけよ。無意味に働くんじゃないわよ、めんどくさい」
「は、はい、了解しました……」
デバイサーの男は口惜しそうに答える。
キャンディスが盟人の顎をつまみ上げた。
マニキュアを塗った長い
キャンディスは盟人の目を覗き込みながら、薄笑いを浮かべる。
「さあ、行きましょうか。楽しい楽しい、鳥籠の中にね」
彼女の声は盟人の鼓膜を犯すようにして
その部屋は、白かった。
照明が全体に埋め込まれ、眩いばかりの光を降らせる白い天井。
わずかな傷による陰影すら存在しない、つるつるした白い床。
中央の
白い電子機器、白い魔導装置。
拘束用の白い椅子、白い手錠。
そんな、無機質の極み、無味乾燥の極致ともいうべき白い部屋で……、
彼は拘束用の椅子に座らされ、首、胴体、両手両脚を縛りつけられている。漆黒のコートは実験の邪魔になるので
キャンディスはアランの隣に立って、実験の進行を見守る。それは単純に好奇心だった。
アランが
「逃げようなどとは思わない方がいい。君の首に装着した首輪……それは逃亡の意思を表す脳波を検知した時点で、収縮を始めるからね。苦痛が増すだけだ」
「……逃げはしないさ」
「よし。それでは、
人形の手をもぎ取るときのような気軽さで、アランが研究者たちに指示を出した。
研究者たちも表情をぴくりとも変えず、万力を
分厚い鉄板を二つ組み合わせたような外観。加工する素材が動かないよう強烈な力で締め上げて固定する道具だ。この万力にはスイッチとランプがついている。どうやら手動ではなく電動で素材を締め上げることができるらしい。
研究者たちがスイッチを押すと、万力が腕の圧縮を始めた。
皮膚が引き伸ばされ、血が
腕が奇怪な方向に曲がり、がくがくと
骨が
血管が裂けて鮮血がほとばしり、腕の断面から肉と皮が垂れ下がる。
それでもなお万力は圧搾を続け、薄皮一枚までも押しちぎる。
二本の腕が、床に転がった。切られたトカゲの
こぼれる血液が、白い床を赤に汚した。
キャンディスは胸が悪くなるのを感じた。醜悪なスプラッタに吐きそうだった。
「社長……。こんな悪趣味なことするより、さっさと殺して解剖した方が人道的なんじゃないですかねー」
思わず苦言を呈するが。
「人道? なんだね、その空虚な概念は。前時代的な倫理が、我々に利益をもたらしてくれると言うのか? なにかメリットはあるのかな? 言ってみたまえ、聞いてやろう」
「いや……別にメリットとかはないですけど」
「だったら、黙っていたまえ。いずれにせよ最後は殺すのだから、それまでこの被検体をどう扱っても問題はないだろう?」
アランは、仮面のような無表情だった。
そこには、人間らしい感情や感覚といったものが一片として残されていない。
キャンディスはぞわりと背筋に悪寒が走るのを感じる。金をくれる上司がどんな人格だろうと別に構わないが、個人的に仲良くなりたい相手ではないと、改めて思う。
と、
「アラン社長!
「なに!?」
アランは計測器に目をやった。その瞳孔が興奮で広がる。
「素晴らしい! なんとしても計測するんだ! これは使えるぞ!」
両腕を切断された少年の前で、満面の笑みを浮かべる。
研究者たちが慌てて計測器の調整を始め、幾人かが研究室を飛び出す。
皆が目を輝かせていて、キャンディスのついていける雰囲気ではなかった。
そもそも、キャンディスの担当はアランの秘書役や戦闘部隊のリーダーを務めることであって、研究はまったくの門外漢なのだ。
「はー、楽しそうですねー。私は必要なさそうなんで、監視室に行っておきますよー。問題が起きたら呼んでください」
キャンディスは手を振って部屋を去ろうとするが、誰も聞いている様子ではないし、こっちを見向きもしない。きっとそれどころではないのだろう。
キャンディスは肩をすくめて部屋を出た。
研究者たちの行き交う通路を歩く。彼らが早口で
まともに家に帰らず泊まり込みで研究を続けている者も多いみたいだし、ああいう連中はいったいなにが楽しくて生きているのかと、キャンディスは不可解に感じる。
とりあえず食事を済ませておこうと、食堂に入った。
ピラフとフライドチキン、そしてサラダを注文する。
──相変わらず、まずいわねー。
一人でもそもそと
この施設は食堂の料理も味気なくて、
要するに、キャンディスは退屈だった。
秘書や戦闘部隊のリーダーの仕事は簡単すぎて、刺激もない。
「あーあ、つまんないわー」
キャンディスは
薄暗い室内には、淡く青い照明がついており、最低限の視界を確保している。
数十のモニタが壁に並び、施設の様々な場所の映像を送ってきていた。
モニタの前には長いテーブルがあり、警備員たちが座って映像を監視している。
「どう? なにか面白いことはあった?」
キャンディスが声をかけると、警備員が
「面白いことと……言いますと?」
「面白いことは面白いことよ。なにか、トラブルでもない?」
「トラブルが起きないように監視するのが、我々の仕事です」
生真面目な答えに、他の警備員たちもうなずく。プロ意識の高さが全身から漂っている男ばかりで、スマートフォンをいじっている者さえいない。
「ホントにつまんないわねー、あんたらって……」
キャンディスは
けれど、そこに好色な視線を向けてくる男もいない。どいつもこいつもキャンディスの華々しい経歴と地位にびびってしまって、粉をかけてくる勇気もないタマなしばかりなのだ。
キャンディスはモニタに視線を走らせ、
あの気色悪い実験は見たくないが、万が一にも
左端のモニタに、さっきの研究室が映っていた。
部屋の真ん中にある拘束用の椅子で、
椅子の下には血溜まりができている。休憩中なのか、他に人の姿はない。あんまり研究を急いで実験体が死ぬのも困るのかもしれない。
キャンディスは
──後一日くらいは生きてるかしら? それとも一時間くらいかしら?
わずかな
そのとき、
首が起き上がり、視線が真っ直ぐ正面を向く。
気配が、変わった。
やつれきっていた顔に、精力がみなぎる。
それはまるで、彼が幽鬼でもあるかのように。
そこに少年が実在していないかのように。
キャンディスは目を疑う。身を乗り出して、食い入るようにモニタを凝視する。
目にも止まらぬ速度で、
先程までの衰弱を幻と思わせる、しっかりとした足取りで。
監視カメラに近づいてくる。
強大な気配が近づいてくる。
ようやく、監視室の警備兵が騒ぎ始めた。
キャンディスも、自分のすぐそばに
その凶悪な
にやりと唇をつり上げた、悪魔の笑み。
それを最後に、監視カメラの映像は消えた。
大量のサーバがうずたかく積まれ、電子音を響かせている。
一つ一つの機器の音はさして大きくはないものの、それが重なり合い、協奏曲を奏でている様は、ここが情報の集積場であることを感じさせる。
そのサーバルームで、盟人は一機のサーバに小型端末を繫ぎ、タッチパッドに指を走らせた。
小型端末に内蔵されたクラッキングプログラムがやすやすとサーバの障壁を破り、そのデータの中身をさらけ出す。企業に侵入する仕事で何度か使ったことのあるプログラム。リノのお手製だ。
この施設のコンピュータは外部のネットワークと繫がっていないらしく、そのため外からリノが情報をハッキングすることはできなかったようだ。しかし、こうして内部からアクセスすると、セキュリティはあっけなく崩れ落ちた。
盟人は端末を操作し、お目当ての情報を見つけ出す。
ソウルジェネレーターのありか。その
──バベル工業……、エデン製薬の工場をあちこち譲渡されてるのか。エデン製薬もギラドの開けた穴を埋めようと必死だな。
盟人はデータの山を
バベル工業が日本地区で持っている施設の見取り図。
警備態勢。
ソウルジェネレーターを手に入れるために必要な情報を、小型端末にコピーアンドペーストする。コピーが完了するまでの時間が画面に表示され、盟人は一息ついた。
その後頭部に、硬い物体が突きつけられる。
「トロイの木馬」
背後から、女の声がした。
「古代、トロイの都市攻略戦で使われた手口ね。巨大な木馬を敵に戦利品として奪わせ、その内部に兵を隠しておくことで、トロイに潜入。内部から都市を崩壊させたらしいけど、まさか自分の体を木馬に使うなんてね。
「あのくらいの実験、なんてことはないさ」
盟人は薄く笑いながら振り向いた。
キャンディスが目の前に立っており、盟人に正面から銃口を向けている。走ってきたのか、息を
「でも、残念だったわねえ。坊やの行きそうなところくらい、簡単に分かるのよ。他の連中は、坊やが脱走を図ったと思って見当違いのところを探し回ってるけどね」
「正解正解、大正解だ。褒めてやるぞ」
盟人はゆっくりと大げさに拍手してみせた。
キャンディスの
「坊や……分かってるのかしら。これで坊やの大冒険は終わり。あんたを捕まえてアラン社長に突き出すのが、私の仕事なのよ? あんたを逃がしたら減給モノなんだから」
銃口が、盟人の鼻筋に押しつけられる。
くだらないことをすれば、すぐにでも顔面を吹き飛ばすとでも言いたげに。
だが、盟人は笑う。
「仕事ねえ。そんな不自由な生活は面白いか?」
「はあ?」
キャンディスは不可解そうに盟人を見た。
盟人は小型端末のモニタに視線を送る。データの転送にはまだ時間がかかりそうだ。今このサーバルームを離れるわけにはいかない。時間を稼がなければならない。
盟人は銃身を人差し指でつついて遊ぶ。
「この世界では、政府に従いさえすれば衣食住に困らないし、マナタブレットさえ飲めば幸せでいられる。ほとんどの人間が、その生活に満足している。でも……お前の目は奴らと違う。世界の退屈さに……飽き飽きしている目だ」
キャンディスの唇が
「満足しているわよ? 私はねえ、世界政府軍のエリートだったの。ゴーレムの操縦にかけては勝る者なしといわれた天才でね。それに目をつけたアラン社長が、高給で引き抜いたってわけよ。今や十賢老の補佐官よ。つまり、勝ち組なのよ」
「なんに勝ったんだ? なにと戦っている? お前は結局、世界に負けたんだろう? 力を持っているのに、鎖をつけられて、鳥籠の中に入れられて。馬鹿に従うだけの虎だ」
盟人は嘲る。
キャンディスはぴくりと頰を引きつらせた。怒りの滲んだ瞳を寄せてくる。
「わけの分からないことを言うんじゃないわよ。なんでそんな余裕ぶっていられるのかしらね。私が人を呼んだら、坊やはまた実験の道具にされるだけなのよ」
「でも、呼んでいない。なぜだ? 部下たちと一緒に来れば良かっただろうに、どうして一人だけで来た?」
「そ、それは……」
キャンディスの表情に、たじろぎが生じた。痛いところを突かれたといった様子だった。
盟人は彼女の目を覗き込みながら、ささやく。
「お前は……人を呼びたくないんだろう? 誰かを呼んだら、この刺激的な時間が終わると思っているんだろう? それくらい、お前は刺激に飢えている」
「ち、違……」
身を乗り出す盟人に押されるようにして、キャンディスが後じさる。銃を固く握り締めているのに、撃ってこようとはしない。大声を出そうともしない。
「じゃあ、こんな刺激はどうだ? みんなが捜している敵に密室で迫られて、年下の男から辱められるって刺激は……?」
盟人はキャンディスを壁に押しつけた。キャンディスは盟人を
盟人はキャンディスの首筋に唇を寄せ、カリッと歯を立てる。
「んっ……」
キャンディスの喉から、甘い声が漏れた。盟人が
「あんた……おかしいんじゃ……ないの……」
その言葉には明らかに、愉悦と聞こえるものが混じっていた。
盟人はキャンディスの太ももに手を滑らせる。そこはじっとりと湿っていて、切なげに擦り合わされていた。盟人が指で触れると、キャンディスの肩が跳ね、首がのけぞる。
「でも、退屈は、しないだろ?」
「しない……けど……」
荒い息。だらりと垂れたキャンディスの手から、銃が転がり落ちた。キャンディスは熱に浮かされたような顔をして、盟人を見つめている。
「こ、これから……なにを、するのかしら……? 坊や……?」
上ずった声で、
盟人は小型端末のモニタに目をやる。
データのコピーは完了していた。
もう、ここに用はない。
「そうだな……残念だが時間切れだ。そろそろ帰らせてもらうよ」
「はあ!?」
盟人は小型端末に向かって駆けると、端末をサーバから外し、カードのサイズに縮小させた。
「悪いな、定時で帰りたいのはお前だけじゃない。これ以上の残業は時間の無駄だ」
「む、無駄……!?」
キャンディスが歯を食い縛って床の銃を拾おうとする。
盟人はその隣を走り抜け、通路へと飛び出した。
キャンディスが鬼の形相で追ってくる。額に青筋を立て、完全に逆上している。
仕方がなかったこととはいえ、どうやら盟人はからかいすぎたようだ。ドリスとは違って、この女性には冗談も通じないように見える。
盟人は通路沿いの窓に駆け寄るや、
窓から見えるのは高層ビルの数々、そして
盟人は窓枠に跳び乗り、キャンディスの方を振り返る。
キャンディスは目を血走らせて盟人に銃口を向けていた。
「……逃げられないわよ、この悪党が。ここは二十階、落ちたらタダじゃ済まないわ……」
「やってみれば分かる」
「ちょっと、まさか……!」
「これで──強奪完了だ」
盟人は笑いながらカードを
施設に警報が鳴り響く。
赤色灯が明滅する通路を、兵士たちが大慌てで走っていく。
「早く被検体を見つけなさい! どんな手段を使っても捕まえるのよ!」
キャンディスは無線機を通して部下たちに怒鳴っていた。
年下の少年に惑わされ、まんまといっぱい
けれど、それ以上に、面白い獲物に出会うことができたという
あの少年は、自分が引導を渡したい。戦って、戦って、屈服させたい。
そんな思いに駆られ、専用の
キャンディスはスマートフォンを取り出す。
青いランプの点滅。これは……奴からだ。出たくはないが、出なければならない。
キャンディスは舌打ちして通話ボタンを押し、相手にささやく。
「電話はやめてって言ってるでしょ。あと今は忙しいんだから」
『知っている。
スピーカーの向こうの相手は、生真面目な口調で言った。
「ええ、そうよ。でもすぐに捕まえてやるわ」
『捕まえる必要はない。奴は泳がせておけ』
キャンディスは耳を疑う。
「どうしてよ? 無闇にうろちょろされると計画にも支障が出るでしょ」
『いや、
その口ぶりに、妥協の余地は
キャンディスは肩をすくめた。
「……分かったわ。捜査は適当なところで終わらせておくわよ」
『頼んだ』
電話の相手は別れの言葉もなしに通話を切る。
キャンディスはため息を吐いて、スマートフォンをしまい込んだ。
窓の外に目をやる。よだれが出るほど
「今度チャンスがあったら、必ずやってやるわ……」
キャンディスはじりじりと焼けつく胸を押さえながら、遠い
