──朝。

 目を覚ました盟人めいとがリビングに入ると、リノがテーブルの前に座っていた。

 水が半分ほど入ったコップを手の平で抱え、動かない水面をぼんやりと眺めている。

 窓からのぞく空は灰色に濁り、リビングの中までその色に染められてしまったかのようだった。

「一人でベッドを出て……もう体は大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃない。でも、のどが渇いてた」

 リノはコップを見つめたまま視線を動かさない。

「それならおれを呼んで取ってきてもらえば良かっただろうに」

兄者あにじやを働かせるのは、申し訳なかったから」

「なにを今さら……」

 盟人はリノの態度をいぶかった。

 普段のリノといえば、健康なときでも自力で移動することさえ面倒がり、兄に抱いて運んでもらうほどなのだ。それが、病に伏せっている状況で遠慮するなんて、明らかにおかしい。

 まだリビングにはシアもドリスも来ていなかった。

 盟人はどうやらいつもより早く起きてしまったらしい。隣に寝ているはずのリノがいなかったから、違和感で目が覚めたのかもしれない。

 盟人は朝食まで時間をつぶそうと、ソファに腰かけてリモコンでテレビの電源をつけた。

 普段と違って、リノは盟人のひざによじ登ってこようとはしない。特等席だと言い張るこの場所にやって来るどころか、盟人とは目も合わせずじっとしている。

 気詰まりな空気。

 盟人が妹とのあいだにこんな空気を感じたのは、今日が初めてだった。

 そういえば、とリノに尋ねたいことを思い出す。昨日はアランの超高周波発生アプリのせいでリノが寝込んでいて、聞けなかったのだ。

「ソウルジェネレーターって、結局はどういう魔導具デバイスなんだ? ガイもリノも探してるってことは……、その、デスウォーカーにとって大事なモノなんだろ?」

 びくり、とリノが小さく肩を震わせた。

 黙ったまま、なにも答えようとしない。

「……どうした? 盗むターゲットがどういうモノなのか知っておかないと、仕事に差し支えるんだが」

 盟人が告げると、リノはゆっくりと口を開く。

「デスウォーカーは……死者。心臓を抜き取られた死者は、体内のコアの力で動いている。一定範囲のコアに生命エネルギーを送信する魔導具デバイスが、ソウルジェネレーター」

 盟人は顎をひねる。

「つまり……、ソウルジェネレーターの近くにいないと動けないわけか。ガイも、お前も、ほかのデスウォーカーも」

 リノはうなずく。

「ん。最近の衰弱死事件は、デスウォーカーの護衛兵たちが機能停止していっているのが真相。でも、表にその情報は流れない。一部の人しか知らない機密事項だから」

「どうして黙ってた? ソウルジェネレーターの本当の機能とか……お前がデスウォーカーだってこととか」

 そのせいで、盟人はリノを本当の妹ではないかもしれないと思ってしまったのだ。

 だが、魔法研究所にさらわれて死亡し、デスウォーカーとしてよみがえったのなら、すべて辻褄つじつまが合う。知能が大幅に向上したのも、魔導実験の影響なのだろう。

「……ごめん、なさい」

 リノはうつむいた。

「いや、謝る必要はないけど、理由が知りたい。お前のことだから、ちゃんとした理由があるんだろ?」

 盟人は妹に手を伸ばし、抱き寄せようとした。どうしてリノがそこまで沈んでいるのか分からないが、妹が苦しそうにしているのは見ていられなかった。

 だが、リノは盟人の腕からすり抜ける。

 決して肌を合わせようとしない。

「ごめん……なさい……ごめんなさい……」

 元から小さな体をさらに縮め、そう繰り返すだけの妹に。

 盟人はなんと声をかけたらいいのか、分からなかった。



「これで三日ぐらいは持つかしら。盟人が結構食べるから、すぐなくなっちゃうのよね。まあ、作りがいがあっていいけど!」

 ドリスがスーパーの買い物袋を山のように提げて歩いている。

 それは、商店街から盟人の自宅への帰り道。

 住宅街を縫うように通っている道路には、さして車の往来もなく、盟人やシアが並んで歩いても問題はなかった。

 盟人は買い物袋を左右に一つずつ持っている。

 シアは自分も荷物を運ぶと言ったのだが、ドリスが断固としてお嬢様にはそんなことをさせられないと言い張ったため、手ぶらだった。

 盟人もシアの細い腕が買い物袋の重みに耐えられるとは思えないので、そっちの方が良いと思うのだけれど。

「今日のリノちゃん……様子が変でしたね。盟人様にもなんだかよそよそしくて……」

 シアは浮かない顔で言った。

「……ああ。いろいろ思うところがあるみたいだが、話してくれないから分からない。あいつが俺に隠し事をするなんて、今までなかったのにな」

 盟人がぼやくと、ドリスは肩をすくめた。

「あんた、分かってないわねー。どんなに小さくても、女の子には隠し事の一つや二つあるものよ。それが女の子ってものなの。これだから男ってやつはどうしようもないんだから」

 奴隷には分不相応な偉そうな態度を取られ、盟人はまゆを寄せる。

「お前は男を語れるほど男を知っているのか?」

「し、知ってるわよ! 恋愛系の漫画とか結構読んでるもの!」

「よし、じゃあお前の隠し事とやらを全部話してもらおうか。これは命令だ」

「いいわよ! 絶対びっくりさせてやるから! えっと……えっとねえ……あれ……? なにかあるはず……ちょっと待ってね……」

 ドリスは口をへの字にして考え込む。

 そんなメイドにシアがかなしげな視線をそそぐ。

「ドリス……無理をしないでください。表裏がないというのは、良いことではありませんか」

「そうだぞ。世間の人間はお前を単細胞と呼ぶかもしれないが……気にすることはない。なぜなら、俺はこう呼ぶからだ。バカ、と」

「バカゆーなっ! 私だっていろいろ複雑なんだからね!? ホントだからね!?

 ドリスは必死に主張するが、だれ真面目まじめに受け取る者はいない。

 リノもこれくらい単純だったら助かるのになと思いながら、盟人は自宅への道を進んだ。

 先日のパーティで分かったのは、ソウルジェネレーターがまだ日本地区にあるということ。詳しい位置は分からないが、それでも海外に運び出されたよりはずっと楽だ。リノを回復させるため、さらに調査を進めなければならない。

「リノちゃん、きっとさびしがってますよね。早く帰りましょう」

 シアが促す。買い出しのあいだの留守番と看病は美穂みほに頼んでいるが、リノのことだから兄がいないと不満だろう。

 夕暮れの住宅街は、けだるい空気に満ちていた。

 民家の庭からは、芝刈り機の音。

 ベビーカーを押して歩いている、間の抜けた顔の女性。

 白いバンが向こうから走ってきて、盟人たちの横を通りすぎる。盟人はドリスとシアの腕を軽く引いて、道の端に寄せた。一瞥いちべつしたバンの窓は、黒く塗り潰されていて中が見えない。

 盟人はそのバンに、かすかな違和感を覚えた。

 なにが引っかかったのかは分からない。

 車が通ったのが珍しかっただけかもしれない。

 けれど、振り返って見たときには、バンはとっくに遠くへと走り去ってしまっていた。

 特に気にする必要もないだろうと思い、盟人は再び歩き始める。

 家にたどり着いたときには、空にわずかなあかねが差していた。

 盟人は玄関のかぎを開け、ドアノブを引っ張る。

 開かない。

 ノブを回して何度も引くが、それでも開かない。

「どうしたのですか、盟人様?」

 シアが盟人の後ろから覗き込んだ。

「いや……鍵を開けっ放しにしてたみたいだ」

「まったくもう、盟人ってばバカねー。人のこと言えないんだから」

「かけたはずなんだがな……おかしいな……」

 盟人は改めて鍵を回し、ドアを開いた。

 しん、と静まりかえった屋内。だいぶ日が暮れてきているのに、電気がついていないせいで、薄暗い。だが、その薄暗さは、いつもの夕暮れよりさらにやみが深いように見えた。

 妙に気温が低く感じられ、盟人は身をすくめる。

「リノ、帰ったぞ」

 妹の部屋がある二階に向かって声をかけるが、返事はない。恐らく眠っているのだろう。

 リノの体調を確かめようと思い、盟人は階段を上った。

 すると、廊下に美穂が寝転がっているのが目に入る。うつ伏せになって四肢をぐ伸ばし、足を階段の方に向けていた。しっかり者の幼馴染おさななじみが、廊下で寝るなんて滅多にない。

「おい、なにしてるんだ?」

 歩み寄った盟人は、気付いた。

 美穂の頭の下に、血まりができていることに。

 心臓が、冷たい刃に触れられたかのように凍りつく。

「美穂? 大丈夫か? 美穂!?

 怒鳴っても、とっさに抱き上げないだけの理性は残っていた。頭を怪我けがしているのなら、急に動かすと大変なことになり得る。

 盟人は美穂の首筋に指を添える。

 脈は、あった。

 血は後頭部から滴っているようだ。まだ凝固していないので、傷ができてからそう時間はっていないはずだ。

「外傷と脳震盪のうしんとうだけだと思います! 私がいやします!」

 シアが美穂の頭上に手をかざし、癒しの力を使い始める。手の平に光が集まっていく。

「頼む!」

 盟人は言い残して、リノの部屋へと走った。

 脳裏によぎるのは、さっきすれ違ったバンの姿。幼馴染みを巻き込んでしまったことへの後悔。警戒が足りなかった自分への怒り。

 そして──あらしのように渦巻く、不安。

 リノの部屋には、誰もいなかった。

 銃弾が一発、リノのまくら元に打ち込まれている。

 枕の上に散らばっている、長い髪の毛。

 絨毯じゆうたんに放り出された掛け布団ぶとん

 転がっているコップ。

「な、なにが……あったの……?」

 ドリスが啞然あぜんとして立ち尽くした。

 盟人は四肢の力がえていくのを感じる。

 同時に、怒りが。赤黒い業火ごうかのような怒りが、腹の底から膨れ上がっていく。

 盟人のポケットから、スマートフォンの着信音が流れ始めた。聞き慣れたメロディなのに、それは不思議と葬送の音楽のように聞こえてしまう。

 取り出したスマートフォンの画面には、リノの電話番号が表示されていた。

 盟人は砕けそうなほどの力でスマートフォンを握り締め、電話に出る。憤怒ふんぬによって逆に冷え切った声で、言葉少なに告げる。

「殺されたくなければ、リノを無傷で渡せ」

「あらあら、ずいぶん怒ってるみたいねー、怪盗王フアントムの坊や? 大丈夫、あんたが余計なことさえしなければ、妹ちゃんは無事に帰ってくるわよ」

 スピーカーから流れてきたのは、キャンディスの声だった。



 犬の遠吠えが聞こえる。

 煌々こうこうと月が照らす港湾地帯には、ぞっとするような冷気が漂っていた。

 盟人とドリスは、キャンディスから指定された工場へ足を踏み入れる。ガラスの破片が散らばった床に靴底が擦れ、耳障りな音を立てた。

 そこは、恐ろしく荒れ果てた廃工場だった。

 天井てんじようには穴が開いて月光が降り注ぎ、場内のホコリをきらきらと輝かせている。

 まともに残っている窓ガラスはなく、トタンの壁はサビまみれになっていた。

 コンクリートの打ちっ放しの床はひび割れ、あちこちに工具が打ち捨てられている。

 足場に囲まれて放置された大きな物体は、なにを作ろうとしていたのかも分からない。

 世界政府によって厳格に管理されている世界で、このような廃工場が放置されていたことが、盟人には意外だった。

 けれど、今は工場の事情なんてどうでもいい。

 盟人にとって気がかりなのは、リノの安否と所在、それだけだ。

 ドリスは手の平サイズの球体──起動前の剣型魔導具ソードデバイス──を握り締め、辺りに油断なく目を配っている。

「これ……絶対にわなよね。敵に取り囲まれてるって思って間違いないわよね」

 その声は震えていた。恐怖を感じながらも頑張って同行してきたドリスに、盟人は心の中で感謝する。口に出しては、言わないけれど。

「ああ。俺がリノを盗み返したら、お前はリノを抱えてとにかく逃げろ。後のことは気にしなくていい」

「ど、どういうこと、それ……?」

「言葉通りのことだ。お前はリノを避難させるためだけに連れてきた。その役目を……ちゃんと果たしてくれ」

 盟人はドリスの目をじっと見つめて言った。

 普段とは違う真剣な盟人の態度に、ドリスは戸惑いを浮かべる。

「う、うん……分かったわ……」

 理解していない様子ながらも、ぎこちなくうなずいた。いざというときにドリスがどう動くかは不明だが、とりあえず盟人は指示を出しておきたかった。

 二人が廃工場の真ん中に来ると、正面からまばゆい光が照らした。

 ドリスが声をらして目を覆い、盟人も目を細める。網膜をがすような暴力的な光に、まぶたを閉じてしまいそうになるが、ここで視界を失うわけにはいかない。

 見れば、サーチライトが床に設置され、真っ直ぐ盟人たちの方へ向けられていた。

 そして、サーチライトの前には、キャンディスとリノの姿がある。

 リノはぐったりと床にうずくまり、手錠をかけられていた。白い手首には、くっきりと赤い輪が刻まれている。よほどきつく手錠を締められたのだろう。

 盟人は怒りを腹の奥底に抑え込んで、キャンディスに声をかける。

「来てやったぞ。これからどうする」

「そうね……。素直に要求に応じてくれたから、まずは妹ちゃんを返してあげましょうか。ほら、受け取りに来なさい」

 キャンディスはリノの手を引きずるようにして起き上がらせ、その背中を乱暴に押した。リノは危うく転びそうになりながら、よろよろと盟人の方へ歩いてくる。

「ドリス……頼んだぞ。リノを、家に」

 床をって駆け出すと同時に、盟人はドリスにささやいた。

「……え」

 当惑するドリスを背後に残し、疾走する。

「今よ!」

 キャンディスがさっと右腕を振り上げて叫んだ。

 途端、四方八方から爆音が鳴り響く。

 全方位から鋭いやりが飛来し、盟人の全身に突き刺さる。

 盟人はサーチライトの光を浴びながらリノを抱き上げ、ドリスに向かって放り投げた。大あわてで抱き止めるドリス。盟人の体にさらに無数の槍が襲いかかる。

 身を引き裂くような痛みに、ほとばしる鮮血。

 槍は盟人の体内で張り裂け、大量のとげを伸ばした。

 槍の柄につながった鎖がぴんと張り詰める。工場の内壁に沿って巨大人型戦車ゴーレムが並び、その鎖を牽引けんいんしていた。盟人を廃工場の真ん中で縫い止め、動きを封じてしまう。

 盟人はその槍を体から引き抜こうとした。だが、そうすればするほど槍は棘を増やし、体内の肉に食い込む。壮絶な痛みに意識がはじけ飛びそうになる。

「無駄無駄、無駄よ! あきらめなさい! これは巨大なデスウォーカーの捕獲用に設計された鋼針乙女アイアンメイダ! 無理に外せば失血死するように作ってあるわ! あんたを殺したら任務失敗になっちゃうんだから、大人しくしときなさい!」

 キャンディスは拳銃を振りながら、靴音を響かせて盟人に歩み寄ってくる。

 槍の刺さった傷口から、赤い液体が大量に滴り落ちた。

 盟人の太ももへさらに一本、槍が突き刺さり、肉が弾け飛ぶ。

「盟人!」

 ドリスが悲痛な叫びを上げ、盟人に駆け寄ってこようとした。

 盟人は薄れかける意識の中で、声を絞り出す。

「いいから、お前はリノを連れて行け! ねらいは俺だけだ!」

「で、でもっ!」

「これは命令だ! 『行け』!」

「ッ……!」

 魔獣の子チヤイルドの主従関係にはあらがえず、ドリスがリノを抱き締めて駆け出す。ゴーレムの銃撃がドリスの背中を襲うが、ドリスは転がるようにして回避し、廃工場の外へ飛び出す。

「キャンディス隊長! 追いますか!?

 ゴーレムの操縦席からデバイサーの男が尋ねた。

 だが、キャンディスは気だるげに首を振る。

「放っておきなさい。私たちの仕事は、坊やを持って帰ること、それだけよ。無意味に働くんじゃないわよ、めんどくさい」

「は、はい、了解しました……」

 デバイサーの男は口惜しそうに答える。

 キャンディスが盟人の顎をつまみ上げた。

 マニキュアを塗った長いつめが、肌に食い込んで傷跡を刻みつける。

 キャンディスは盟人の目を覗き込みながら、薄笑いを浮かべる。

「さあ、行きましょうか。楽しい楽しい、鳥籠の中にね」

 彼女の声は盟人の鼓膜を犯すようにしてみ入り、最後の意識をき消した。



 その部屋は、白かった。

 照明が全体に埋め込まれ、眩いばかりの光を降らせる白い天井。

 わずかな傷による陰影すら存在しない、つるつるした白い床。

 中央の椅子いすを取り囲む、白衣の研究者たち。彼らの持つ白いファイル、白い紙。

 白い電子機器、白い魔導装置。

 拘束用の白い椅子、白い手錠。

 そんな、無機質の極み、無味乾燥の極致ともいうべき白い部屋で……、怪盗王フアントムだけが闇のように黒かった。

 彼は拘束用の椅子に座らされ、首、胴体、両手両脚を縛りつけられている。漆黒のコートは実験の邪魔になるのでがされているが、下のシャツも漆黒。いや、怪盗王フアントムという存在そのものが、光を塗り潰す漆黒のオーラをまとっているように見えた。

 キャンディスはアランの隣に立って、実験の進行を見守る。それは単純に好奇心だった。怪盗王フアントムがどんな力を持っているのか、じっくり観察したかったのだ。

 アランが怪盗王フアントムに告げる。

「逃げようなどとは思わない方がいい。君の首に装着した首輪……それは逃亡の意思を表す脳波を検知した時点で、収縮を始めるからね。苦痛が増すだけだ」

「……逃げはしないさ」

 怪盗王フアントムは言葉少なに答える。観念してしまったのか、うつむいて床を凝視したまま、抵抗の素振りさえ見せない。

「よし。それでは、怪盗王フアントムの腕を潰してみようか」

 人形の手をもぎ取るときのような気軽さで、アランが研究者たちに指示を出した。

 研究者たちも表情をぴくりとも変えず、万力を怪盗王フアントムの両腕に装着する。

 分厚い鉄板を二つ組み合わせたような外観。加工する素材が動かないよう強烈な力で締め上げて固定する道具だ。この万力にはスイッチとランプがついている。どうやら手動ではなく電動で素材を締め上げることができるらしい。

 研究者たちがスイッチを押すと、万力が腕の圧縮を始めた。

 皮膚が引き伸ばされ、血がにじみ出る。

 腕が奇怪な方向に曲がり、がくがくと痙攣けいれんした。

 骨がきしむ音、砕けていく音。

 血管が裂けて鮮血がほとばしり、腕の断面から肉と皮が垂れ下がる。

 それでもなお万力は圧搾を続け、薄皮一枚までも押しちぎる。

 二本の腕が、床に転がった。切られたトカゲの尻尾しつぽのように痙攣する。

 こぼれる血液が、白い床を赤に汚した。

 怪盗王フアントムは叫び声一つ上げることなく、歯を食い縛っていた。けれど、その額には大量の脂汗が浮かんでいる。

 キャンディスは胸が悪くなるのを感じた。醜悪なスプラッタに吐きそうだった。

「社長……。こんな悪趣味なことするより、さっさと殺して解剖した方が人道的なんじゃないですかねー」

 思わず苦言を呈するが。

「人道? なんだね、その空虚な概念は。前時代的な倫理が、我々に利益をもたらしてくれると言うのか? なにかメリットはあるのかな? 言ってみたまえ、聞いてやろう」

「いや……別にメリットとかはないですけど」

「だったら、黙っていたまえ。いずれにせよ最後は殺すのだから、それまでこの被検体をどう扱っても問題はないだろう?」

 アランは、仮面のような無表情だった。

 そこには、人間らしい感情や感覚といったものが一片として残されていない。

 キャンディスはぞわりと背筋に悪寒が走るのを感じる。金をくれる上司がどんな人格だろうと別に構わないが、個人的に仲良くなりたい相手ではないと、改めて思う。

 と、怪盗王フアントムを観察していた研究者が驚きの声を上げた。

「アラン社長! 怪盗王フアントムの生命力が急上昇しています! 計測が追いつきません!」

「なに!?

 アランは計測器に目をやった。その瞳孔が興奮で広がる。

「素晴らしい! なんとしても計測するんだ! これは使えるぞ!」

 両腕を切断された少年の前で、満面の笑みを浮かべる。

 研究者たちが慌てて計測器の調整を始め、幾人かが研究室を飛び出す。

 皆が目を輝かせていて、キャンディスのついていける雰囲気ではなかった。

 そもそも、キャンディスの担当はアランの秘書役や戦闘部隊のリーダーを務めることであって、研究はまったくの門外漢なのだ。

「はー、楽しそうですねー。私は必要なさそうなんで、監視室に行っておきますよー。問題が起きたら呼んでください」

 キャンディスは手を振って部屋を去ろうとするが、誰も聞いている様子ではないし、こっちを見向きもしない。きっとそれどころではないのだろう。

 キャンディスは肩をすくめて部屋を出た。

 研究者たちの行き交う通路を歩く。彼らが早口でしやべっている内容が耳に入ってくるが、専門用語や数式だらけで、ちっとも理解できない。

 まともに家に帰らず泊まり込みで研究を続けている者も多いみたいだし、ああいう連中はいったいなにが楽しくて生きているのかと、キャンディスは不可解に感じる。

 とりあえず食事を済ませておこうと、食堂に入った。

 ピラフとフライドチキン、そしてサラダを注文する。

 ──相変わらず、まずいわねー。

 一人でもそもそと咀嚼そしやくしながら、キャンディスは嘆いた。

 この施設は食堂の料理も味気なくて、面白味おもしろみのかけらもない。戦闘部隊の部下たちも功をあせる真面目な馬鹿ばかが多く、話が合わないからつるみたくもない。

 要するに、キャンディスは退屈だった。

 秘書や戦闘部隊のリーダーの仕事は簡単すぎて、刺激もない。十賢老じゆつけんろうの側近だなんて、凡俗の人間が聞けば垂涎すいぜんしてあこがれる職だろうが、キャンディスは優秀すぎるのだ。

 怪盗王フアントムを捕まえたら面白いことが起きるかとも思ったけれど、アランや研究者たちに独占されてしまい、キャンディスがいじって遊ぶ暇もない。あの様子だとすぐに殺されてしまうだろうから、もう怪盗王フアントムと話す機会もないだろう。

「あーあ、つまんないわー」

 キャンディスはめ息をきながら、食堂を出て通路を歩き、監視室に入った。

 薄暗い室内には、淡く青い照明がついており、最低限の視界を確保している。

 数十のモニタが壁に並び、施設の様々な場所の映像を送ってきていた。

 モニタの前には長いテーブルがあり、警備員たちが座って映像を監視している。

「どう? なにか面白いことはあった?」

 キャンディスが声をかけると、警備員が怪訝けげんそうに首をかしげた。

「面白いことと……言いますと?」

「面白いことは面白いことよ。なにか、トラブルでもない?」

「トラブルが起きないように監視するのが、我々の仕事です」

 生真面目な答えに、他の警備員たちもうなずく。プロ意識の高さが全身から漂っている男ばかりで、スマートフォンをいじっている者さえいない。

「ホントにつまんないわねー、あんたらって……」

 キャンディスはあきれながら壁に寄りかかった。脚を軽く組むようにして立つと、スカートのすそがずり上がり、自慢の太ももがさらけ出される。

 けれど、そこに好色な視線を向けてくる男もいない。どいつもこいつもキャンディスの華々しい経歴と地位にびびってしまって、粉をかけてくる勇気もないタマなしばかりなのだ。

 キャンディスはモニタに視線を走らせ、怪盗王フアントムの姿を探す。

 あの気色悪い実験は見たくないが、万が一にも怪盗王フアントムが逃げ出さないよう見張るのが、今日のキャンディスの仕事だ。

 左端のモニタに、さっきの研究室が映っていた。

 部屋の真ん中にある拘束用の椅子で、怪盗王フアントムがぐったりとしている。目を閉じ、微動だにしない。

 椅子の下には血溜まりができている。休憩中なのか、他に人の姿はない。あんまり研究を急いで実験体が死ぬのも困るのかもしれない。

 キャンディスは怪盗王フアントムを眺めた。

 蝙蝠こうもりかカラスを思わせる、黒い髪。なかなかに整った顔立ちをしている。だが、薬剤を打たれて腫れ上がったまぶた、自らの飛沫しぶきを浴びたほおは、あわれな虜囚の姿だ。

 ──後一日くらいは生きてるかしら? それとも一時間くらいかしら?

 わずかな憐憫れんびんの情と共に、けれど助けてやろうという感情は欠片かけらもなく、キャンディスは怪盗王フアントムの窮状を傍観する。自分の身内ならともかく、泥棒どろぼうに差し伸べる手などないのだ。

 そのとき、怪盗王フアントムがゆっくりとまぶたを開いた。

 首が起き上がり、視線が真っ直ぐ正面を向く。

 気配が、変わった。

 やつれきっていた顔に、精力がみなぎる。

 怪盗王フアントムの両手両脚が、拘束用のかせからすり抜けた。

 それはまるで、彼が幽鬼でもあるかのように。

 そこに少年が実在していないかのように。

 キャンディスは目を疑う。身を乗り出して、食い入るようにモニタを凝視する。

 目にも止まらぬ速度で、怪盗王フアントムの首輪が外れた。

 怪盗王フアントムは拘束用の椅子から立ち上がる。

 先程までの衰弱を幻と思わせる、しっかりとした足取りで。

 監視カメラに近づいてくる。

 強大な気配が近づいてくる。

 ようやく、監視室の警備兵が騒ぎ始めた。

 キャンディスも、自分のすぐそばに怪盗王フアントムが迫っているかのような脅威を覚える。

 怪盗王フアントムは、少年は、ぎらぎらした眼で監視カメラを直視している。

 その凶悪なひとみがレンズに迫った。

 にやりと唇をつり上げた、悪魔の笑み。

 それを最後に、監視カメラの映像は消えた。



 大量のサーバがうずたかく積まれ、電子音を響かせている。

 一つ一つの機器の音はさして大きくはないものの、それが重なり合い、協奏曲を奏でている様は、ここが情報の集積場であることを感じさせる。

 そのサーバルームで、盟人は一機のサーバに小型端末を繫ぎ、タッチパッドに指を走らせた。

 魔導具デバイスの格納機能を応用した小型端末は、時機が来るまでSDカードほどのサイズに縮小して耳の穴に隠し持っていた。

 小型端末に内蔵されたクラッキングプログラムがやすやすとサーバの障壁を破り、そのデータの中身をさらけ出す。企業に侵入する仕事で何度か使ったことのあるプログラム。リノのお手製だ。

 この施設のコンピュータは外部のネットワークと繫がっていないらしく、そのため外からリノが情報をハッキングすることはできなかったようだ。しかし、こうして内部からアクセスすると、セキュリティはあっけなく崩れ落ちた。

 盟人は端末を操作し、お目当ての情報を見つけ出す。

 ソウルジェネレーターのありか。その魔導具デバイスは、バベル工業が日本地区で確保した複数の施設に散らばっているらしい。残念ながら、今現在いる施設には運ばれていない。

 ──バベル工業……、エデン製薬の工場をあちこち譲渡されてるのか。エデン製薬もギラドの開けた穴を埋めようと必死だな。

 盟人はデータの山をあさっていく。

 バベル工業が日本地区で持っている施設の見取り図。

 警備態勢。

 巨大人型戦車ゴーレムの配備状況。

 ソウルジェネレーターを手に入れるために必要な情報を、小型端末にコピーアンドペーストする。コピーが完了するまでの時間が画面に表示され、盟人は一息ついた。

 その後頭部に、硬い物体が突きつけられる。

「トロイの木馬」

 背後から、女の声がした。

「古代、トロイの都市攻略戦で使われた手口ね。巨大な木馬を敵に戦利品として奪わせ、その内部に兵を隠しておくことで、トロイに潜入。内部から都市を崩壊させたらしいけど、まさか自分の体を木馬に使うなんてね。ひどい実験を受けるって、分かっていたでしょうに」

「あのくらいの実験、なんてことはないさ」

 盟人は薄く笑いながら振り向いた。

 キャンディスが目の前に立っており、盟人に正面から銃口を向けている。走ってきたのか、息をはずませ、頰を上気させている。

「でも、残念だったわねえ。坊やの行きそうなところくらい、簡単に分かるのよ。他の連中は、坊やが脱走を図ったと思って見当違いのところを探し回ってるけどね」

「正解正解、大正解だ。褒めてやるぞ」

 盟人はゆっくりと大げさに拍手してみせた。

 キャンディスの眉間みけんしわが寄る。

「坊や……分かってるのかしら。これで坊やの大冒険は終わり。あんたを捕まえてアラン社長に突き出すのが、私の仕事なのよ? あんたを逃がしたら減給モノなんだから」

 銃口が、盟人の鼻筋に押しつけられる。

 くだらないことをすれば、すぐにでも顔面を吹き飛ばすとでも言いたげに。

 だが、盟人は笑う。

「仕事ねえ。そんな不自由な生活は面白いか?」

「はあ?」

 キャンディスは不可解そうに盟人を見た。

 盟人は小型端末のモニタに視線を送る。データの転送にはまだ時間がかかりそうだ。今このサーバルームを離れるわけにはいかない。時間を稼がなければならない。

 盟人は銃身を人差し指でつついて遊ぶ。

「この世界では、政府に従いさえすれば衣食住に困らないし、マナタブレットさえ飲めば幸せでいられる。ほとんどの人間が、その生活に満足している。でも……お前の目は奴らと違う。世界の退屈さに……飽き飽きしている目だ」

 キャンディスの唇がゆがんだ。

「満足しているわよ? 私はねえ、世界政府軍のエリートだったの。ゴーレムの操縦にかけては勝る者なしといわれた天才でね。それに目をつけたアラン社長が、高給で引き抜いたってわけよ。今や十賢老の補佐官よ。つまり、勝ち組なのよ」

「なんに勝ったんだ? なにと戦っている? お前は結局、世界に負けたんだろう? 力を持っているのに、鎖をつけられて、鳥籠の中に入れられて。馬鹿に従うだけの虎だ」

 盟人は嘲る。

 キャンディスはぴくりと頰を引きつらせた。怒りの滲んだ瞳を寄せてくる。

「わけの分からないことを言うんじゃないわよ。なんでそんな余裕ぶっていられるのかしらね。私が人を呼んだら、坊やはまた実験の道具にされるだけなのよ」

「でも、呼んでいない。なぜだ? 部下たちと一緒に来れば良かっただろうに、どうして一人だけで来た?」

「そ、それは……」

 キャンディスの表情に、たじろぎが生じた。痛いところを突かれたといった様子だった。

 盟人は彼女の目を覗き込みながら、ささやく。

「お前は……人を呼びたくないんだろう? 誰かを呼んだら、この刺激的な時間が終わると思っているんだろう? それくらい、お前は刺激に飢えている」

「ち、違……」

 身を乗り出す盟人に押されるようにして、キャンディスが後じさる。銃を固く握り締めているのに、撃ってこようとはしない。大声を出そうともしない。

「じゃあ、こんな刺激はどうだ? みんなが捜している敵に密室で迫られて、年下の男から辱められるって刺激は……?」

 盟人はキャンディスを壁に押しつけた。キャンディスは盟人をにらみながら、こめかみに銃口を突きつける。その胸は激しく上下し、彼女の手は震えていた。

 盟人はキャンディスの首筋に唇を寄せ、カリッと歯を立てる。

「んっ……」

 キャンディスの喉から、甘い声が漏れた。盟人が柔肌やわはだに歯を食い込ませていくと、キャンディスの指も銃の引き金に食い込んでいく。

「あんた……おかしいんじゃ……ないの……」

 その言葉には明らかに、愉悦と聞こえるものが混じっていた。

 盟人はキャンディスの太ももに手を滑らせる。そこはじっとりと湿っていて、切なげに擦り合わされていた。盟人が指で触れると、キャンディスの肩が跳ね、首がのけぞる。

「でも、退屈は、しないだろ?」

「しない……けど……」

 荒い息。だらりと垂れたキャンディスの手から、銃が転がり落ちた。キャンディスは熱に浮かされたような顔をして、盟人を見つめている。

「こ、これから……なにを、するのかしら……? 坊や……?」

 上ずった声で、いてきた。紅潮した頰には、艶美な色香が漂っている。その豊満なからだから、におい立つような女の香りが滲み出していた。

 盟人は小型端末のモニタに目をやる。

 データのコピーは完了していた。

 もう、ここに用はない。

「そうだな……残念だが時間切れだ。そろそろ帰らせてもらうよ」

「はあ!?

 愕然がくぜんと目を見開くキャンディス。

 盟人は小型端末に向かって駆けると、端末をサーバから外し、カードのサイズに縮小させた。

「悪いな、定時で帰りたいのはお前だけじゃない。これ以上の残業は時間の無駄だ」

「む、無駄……!?

 キャンディスが歯を食い縛って床の銃を拾おうとする。

 盟人はその隣を走り抜け、通路へと飛び出した。

 キャンディスが鬼の形相で追ってくる。額に青筋を立て、完全に逆上している。

 仕方がなかったこととはいえ、どうやら盟人はからかいすぎたようだ。ドリスとは違って、この女性には冗談も通じないように見える。

 盟人は通路沿いの窓に駆け寄るや、幻肢フアントム・リムの右手で解錠した。窓を開くと、外の風が勢いよく吹き込んでくる。

 窓から見えるのは高層ビルの数々、そしてはるか眼下にアスファルトの地面。

 盟人は窓枠に跳び乗り、キャンディスの方を振り返る。

 キャンディスは目を血走らせて盟人に銃口を向けていた。

「……逃げられないわよ、この悪党が。ここは二十階、落ちたらタダじゃ済まないわ……」

「やってみれば分かる」

「ちょっと、まさか……!」

 驚愕きようがくと共に、指が引き金を引く。

「これで──強奪完了だ」

 盟人は笑いながらカードをみ、背中から宙に身を躍らせた。



 施設に警報が鳴り響く。

 赤色灯が明滅する通路を、兵士たちが大慌てで走っていく。

「早く被検体を見つけなさい! どんな手段を使っても捕まえるのよ!」

 キャンディスは無線機を通して部下たちに怒鳴っていた。

 年下の少年に惑わされ、まんまといっぱいわされたのが腹立たしい。躰についた火は消えてくれないし、悔しさともどかしさでどうにかなってしまいそうだ。

 けれど、それ以上に、面白い獲物に出会うことができたというよろこびが、キャンディスの心を支配していた。

 あの少年は、自分が引導を渡したい。戦って、戦って、屈服させたい。

 そんな思いに駆られ、専用の巨大人型戦車ゴーレムを置いている格納庫へと走っていると、スマートフォンが振動し始めた。

 キャンディスはスマートフォンを取り出す。

 青いランプの点滅。これは……奴からだ。出たくはないが、出なければならない。

 キャンディスは舌打ちして通話ボタンを押し、相手にささやく。

「電話はやめてって言ってるでしょ。あと今は忙しいんだから」

『知っている。怪盗王フアントムが逃亡したのだろう』

 スピーカーの向こうの相手は、生真面目な口調で言った。

「ええ、そうよ。でもすぐに捕まえてやるわ」

『捕まえる必要はない。奴は泳がせておけ』

 キャンディスは耳を疑う。

「どうしてよ? 無闇にうろちょろされると計画にも支障が出るでしょ」

『いや、怪盗王フアントムは利用価値がある。これは命令だ』

 その口ぶりに、妥協の余地はうかがえない。

 キャンディスは肩をすくめた。

「……分かったわ。捜査は適当なところで終わらせておくわよ」

『頼んだ』

 電話の相手は別れの言葉もなしに通話を切る。

 キャンディスはため息を吐いて、スマートフォンをしまい込んだ。

 窓の外に目をやる。よだれが出るほど美味おいしそうな獲物が去っていっているのに、なにもできないなんて、もったいなくて仕方ない。

「今度チャンスがあったら、必ずやってやるわ……」

 キャンディスはじりじりと焼けつく胸を押さえながら、遠い怪盗王フアントムにささやいた。