盟人の心臓が、痛いほど早鐘を打つ。

 自分がここまで緊張するというのが、苛立いらだたしかった。だが、止められなかった。

 れた弱みは、それが恋心と呼んでいいのか分からぬモノに変わってからも、のろいのように盟人を縛りつけている。そしてその呪縛が決して不快でないのも、盟人を戸惑わせるのだ。

 盟人はシアの顎を指に載せ、自分の方へと引き寄せた。

 シアは小さく身を震わせた後、夢見るように目を閉じる。

 まつげが、震えていた。

 その小さな唇から、甘い香りが漂ってくる。

 盟人は自分の唇が、あらがいようのない力によってシアの唇に吸い寄せられるのを感じた。シアの鼓動の音が聞こえてくる気がする。いや、それは盟人自身の鼓動かもしれない。

「盟人……様……」

 懇願するように、シアがささやく。

 悩ましい声に盟人は鼓膜を犯される。

 息をすることすら、つらかった。

 二人の唇が、近づき、空気を通して熱が混じり合い、そして──。

「これはこれはアラン様! お近づきになれて光栄ですわ!」

 ホールの方から黄色い声が響き渡り、盟人とシアはびくりと動きを止めた。

 見れば、ホールに長身瘦軀そうくの男が入ってきており、人々が餌を乞う魚のように群がっている。男は美しい笑顔を浮かべているが、それは笑顔ではない。笑顔の形をした仮面だ。

 盟人はテレビや資料で彼を見たことがある。

 アラン・スチュワート。

 十賢老の一人、バベル工業の主。

 今回の作戦のターゲット。

『兄者、そんなことしている場合じゃないと思う。目的を忘れないで欲しい……』

 インカムからリノの苦情が聞こえた。どことなく悲しそうな音色を帯びているのは、盟人の錯覚か、それとも事実か。

 とにもかくにも、盟人はようやく甘い空気から解放され、我を取り戻した。

 シアの顔を見やる。

「すまないが……」

「平気です。時間はいくらでもありますから、焦らなくても」

 首を振るシアだが、心から残念そうな表情をしている。

「埋め合わせはする」

「はいっ!」

 盟人はシアを連れて、バルコニーからホールに戻った。

 中は腐臭がする。アランにおべっかを使う富豪たち、こびへつらいの笑顔、私欲に満ちたしわがれ声──汚れきった人間たちの吐く呼気で、よどんでいる。

 無垢むくなシアと二人でいた外に比べると、その落差は激しく、盟人は軽い吐き気を催した。

「皆さん、どうしてあそこまで必死にアランさんに挨拶あいさつをしているのでしょう?」

 シアが小首をかしげた。

「ギラドが死んで、もう日本地区は十賢老の庇護ひご下にないからな。このままじゃ世界で競争力を失ってしまう。そうなる前に寄りかかれる柱を手に入れておこうって考えだろ」

「なるほど……。皆さん、頭が良いのですね。私は思いつきもしませんでした」

「あんな悪賢さ、シアは身に着けなくていいさ」

 そう、闇に染まるのは連中みたいな偽善者と自分みたいな悪人だけでいい、と盟人は思うのだ。純白とは、それだけで希少な存在なのだから。

 すり寄ってくる富豪たちを、アランはてきぱきと片付けていた。

 会釈、会話、握手、会釈。

 会釈、会話、握手、会釈。

 ベルトコンベアで運ばれる肉のように、富豪たちは次々と処理されていく。

 その効率性たるや、盟人に一種の機能美を感じさせるほどだ。

 さすがは、弱小だったバベル工業を若くしてのし上がらせ、自ら十賢老の立場まで占めるに至った敏腕社長。その能力は伊達だてではないらしい。

 アランのかたわらには、いつの間にかキャンディスがり付いていた。

 さっきとは違って食事にうつつを抜かすことなく、抜け目ない視線を辺りに配って警戒している。会場でのボディガードを務めているのだろう。

 ひっきりなしに押し寄せていた富豪たちの波が収まり、アランが一息ついた。酒のグラスを受け取り、キャンディスと何事かささやき合っている。

 シアが盟人に尋ねた。

「私たちも挨拶に行きますか?」

「いや、それじゃ富豪たちと同じく適当に流されるだけだろう。アランに人間として扱わせ、こっちに興味を持たせるには、インパクトが要る」

「では、どうしたらよいのでしょう?」

「大切なのは、きっかけだ」

 盟人はそでの中に隠しておいた透明のテグスを伸ばす。

 トラックのタイヤを盗むときにも用いた、超微細のテグス。常人の肉眼でその存在を認識することは難しい。使った後は巻き取ればいいから、証拠も残らない。

 盟人はアランの近くに歩み寄ると、給仕が通りかかるときを待った。

 背後では、アランとキャンディスが日本地区の警察の文句を言っている。無能だとか、融通が利かないだとか、散々だ。

 やがて、酒の入ったグラスをトレイにいくつも載せ、ウェイターがやって来た。慣れた作業をこなしているせいで、足下に注意は払っていない。

 ……今だ。

 盟人はテグスの先を飛ばし、ウェイターの靴に突き刺して、軽く引いた。

 ウェイターがバランスを崩す。トレイからグラスが三つ、アランの方へと投げ出された。濃い色の液体が満たされたグラスが飛んで行く。アランが目を見張る。

 盟人は素早く手を伸ばすや、すべてのグラスを空中でキャッチした。

 まったく液体を揺らさず、こぼさず、エレガントに。

 それでいて、常人の速度を超えないように。

 三つのグラスをウェイターのトレイに積み上げ、小さく笑う。

「酒は服に飲ませるものじゃないぞ」

「も、申し訳ございませんっっっ!」

 ウェイターは顔面蒼白そうはくになって縮み上がるや、アランの前で土下座した。ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、禿げそうな勢いで床に頭をこすりつける。

「もういい。私はなんの損害も受けていないし、謝罪されてもまったく利益は向上しない。聞くだけ時間の無駄だから、消えたまえ」

 アランは少しの怒りも見せず、そっけなくウェイターを追い払う。ウェイターはそれでもぺこぺこ頭を下げながら、ホールから逃げ去っていった。

 アランが盟人に顔を向ける。

「なかなか器用な少年じゃないか。なにか特別な訓練でも受けているのかな?」

「子供の頃に、手品師の真似まね事をしていただけだ。十賢老ならあのぐらいのグラス、自力で避けてみせるべきだと思うがな?」

 盟人が見下したように言い放つと、周囲の富豪たちがざわめいた。

 シアは盟人の上着の裾を握ってかすかに震えている。

 キャンディスが面白おもしろそうに目を細める。

「アラン様にあんな物の言い方を……!」「あれ、ホワイト家の令嬢と一緒に来た男ですわよ!」「ろくでもない男を連れて来たものだわね……!」

 会場に満ちる、敵意の視線、悪意の雑言。

 だが、アランはやはり一欠片かけらの憤慨も覗かせない。ギラドだったら激怒したであろう場面で、眼鏡めがねの奥の瞳をわずかに光らせる。そこに宿るのは、好奇の光。

「どうして私を敬わない?」

「敬う必要がないからだ。お前は俺の主人ではないし、俺の住む地域の支配者でもない。よって、俺はお前にこびへつらっても、なんの意味もない」

 盟人は率直に告げた。

 これもすべて計算ずくの言動だ。他の参加者たちと自分を差別化し、アランに印象づける。それができてこそ、初めてアランとまともに話せるのだから。

 アランは笑った。

「ははは……現状はその通りだ。だが、びておけば君にとって利用価値のある存在になるかもしれない。富をもたらしてくれるかもしれない。そうは考えないのかね?」

「金が欲しけりゃ自分で手に入れるさ。恵んでもらおうとは思わないよ」

 盟人はパーティ会場の富豪たちを見回して言う。

 富豪たちは顔をしかめた。腹の奥まで腐っているのに、その腐臭を指摘されるのには我慢がならないようだ。それは、腐っているからこそ、なのかもしれないが。

「面白いな、君は。非常に面白い」

 アランは盟人をまじまじと見つめ、シアにも視線をやった。

「連れの女性は……同胞ギラドと結婚する予定だったミス・ホワイトじゃないか。どうして君と一緒にいるのかね?」

「俺とシアは、そのうち結婚するからな」

 盟人はシアの手をたぐり寄せて握り締める。シアは頰を赤らめながら盟人に寄り添う。

「ほう……。十賢老の一人が死んだ直後、その花嫁を自分のモノに……素晴らしいじゃないか……君とはちょっと、じっくり話してみたいね……」

「俺もお前とは話してみたいな。聞きたいことがたくさんあるんだ。今、このタイミングで、なにをしに日本地区に来たのか、ということとかな……」

「ふふ……ただの親睦のためとは、思わないのかい……?」

 探るような視線を注ぎ合う、盟人とアラン。

 知らぬ間に、会場の富豪たちは静まりかえっていた。

 皆、息を詰め、二人の様子を注視している。

 アランはキャンディスに顎で命じる。

「別室を手配しろ。彼と二人で話せるよう、防音の部屋がいい」

「はい、すぐに手配しま──」

 キャンディスが言いかけたときだった。

 突如、銃声が会場を貫いた。

 金属の砕ける音、甲高い悲鳴、衝突音、肉の裂ける音。

 天井のシャンデリアが金具から外れ、恐ろしい勢いで落下してくる。

 シアの、頭上へと。

 盟人はとっさにシアを抱きすくめた。

 耳の割れるような破砕音が鳴り響き、激痛が盟人の体を襲った。シャンデリアの破片が肩を貫く。床に盟人を縫い止める。

『兄者? 兄者? なにが起きた?』

 インカムから、状況を把握できないリノの声。

 会場が闇に覆われた。どうやら、何者かがシャンデリアを銃撃して光を消したらしい。

 だが、魔獣の子チヤイルドである盟人は闇の中も見通せる。数多くの魔獣の力を宿した魔獣の血族ブラツドであるシアも、また。

「め、盟人様! ひど怪我けがです!」

 床に伏せた盟人の腕の下で、シアが目を見開いた。

「仕方なかった」

 盟人は激痛にえながらささやく。

 落ちてくるシャンデリアは、しっかりと視界に捉えていた。やろうと思えば、魔獣の子チヤイルドの盟人がシアを抱えて安全圏まで飛び退くことは可能だった。

 だが、尋常な人間の反応速度では無理だ。会場にいる連中に怪しまれずに済ませるためには、普通の人間ができる最大限のこと──シアを体でかばうことくらいしかできなかった。

 盟人の肩から血液が滴り、シアの綺麗きれいな顔を汚す。

 シアは震えながら盟人の肩に手の平を近づけ、いやしの力を使おうとする。

 そんなことをすれば、アランにシアの利用価値を気付かれてしまうかもしれない。盟人はシアの手を握り締めて止める。

「やめろ。なにもしなくていい」

「で、ですが……」

「俺なら問題ない。このくらいの痛み、慣れている」

「慣れ……ないで、ください……」

 シアは今にも泣きそうだった。

 盟人はシアを抱き締めるようにして、シャンデリアの残骸の下からい出る。少女の大切な体に、わずかな傷さえ残らないよう細心の注意を払って。

 真っ暗な会場の中、おびえた富豪たちがうずくまっていた。頭が真っ白になっているのか、彫像のように突っ立っている者もいる。

 そして、アランのこめかみに、ガイが銃口を突きつけていた。

 ガイの後頭部には、キャンディスが銃口を押しつけている。

 一触即発の空気。三人は微動だにせず、お互いをにらみ合って立ち尽くしていた。

「ちょっと、あんた。うちの上司からその玩具を離してくれないかしらぁ? 今月の給料はまだもらってないから、上司が死ぬと困るのよねえ?」

 キャンディスが銃口をガイの頭にねじ込む。

「離すわけにはいかない。この男からは聞き出したいことがある」

 ガイが引き金にかけた指に力を込める。

 キャンディスが顔をゆがめた。

「あんたさぁ、そんなに頭を吹っ飛ばされたいの? さっさと消えないとホントに殺すよ?」

「やってみればいい。デスウォーカーの俺は、頭を吹き飛ばされたくらいでは死なん」

 ガイは飽くまで厳しい態度を崩さない。

「ガ、ガイ……? 生きていた……のですか?」

 シアが盟人の腕にしがみついて戸惑いの声を漏らす。

「シア様!? いらっしゃったのですか!?

 ガイはシアに気付いて一瞬動揺を見せるが、すぐに口元を引き締め、魔銃を握り直した。今、少しでもすきが生じれば、死ぬのはガイなのだ。

 ガイがアランとキャンディスに目を配りながら、シアに顔を向けずに尋ねる。

「怪我は……、していらっしゃいませんか……?」

「はい……盟人様に助けて頂いたお陰で……」

 シアが答えると、ガイは歯をみ締める。

 盟人は一瞬、ガイから射抜くような視線が向けられるのを感じた。

「申し訳ありません。急いで用は済ませます」

 ガイはシアに謝罪した。

 改めて、アランを睨み据える。

「アラン・スチュワート。貴様は……十賢老失格だ。ギラド様の遺産をかすめ取っていく、薄汚い盗人だ」

「ほう? これはこれは、とんだ言いがかりだね。今日は私に無礼な態度を働くのが流行っているのかな? しかし、君の無礼はあまり好きではないな」

 銃を突きつけられている状況なのに、アランは少しもあわてた素振りを見せない。むしろ、薄笑いを浮かべ、嘲るように横目でガイを眺めている。

「好かれる必要はない。貴様は俺の要求に従えば、それでいい」

「君は確か、ギラドの右腕だったね。会議で何度か見かけたことがある。今は誰の下で働いているのかな? 誰が君を寄越したんだ?」

「答えるつもりはない。ある可憐な方を守る力をつけるため、動いている。それだけだ」

「まあ、答える必要はないさ。私のところに来たまえ。君ほどの腕なら、部下として雇ってやってもいい」

「黙れ。ソウルジェネレーターをどこへやった。貴様がエデン製薬から持ち出したのだろう」

 自分たちが探している魔導具デバイスの名が思わぬところから出て、盟人は驚いた。

 なぜガイがソウルジェネレーターを求めているのか、アランがどう返答するのか、二人をじっくりと観察することにする。とんだアクシデントだが、利用しない手はない。

「さて、なんのことかな。私はそんなものは知らない」

「知らないはずがない。貴様が日本に来た時期と、ソウルジェネレーターが運び去られた時期が一致している。もう海外へ輸送したのか」

「どうだろうね」

「それとも、まだ日本地区にあるのか?」

「さあ、どうだろうね?」

 アランの返事はほとんど変わらなかったが、わずかに頰が引きつり、視線が斜めを向いた。声の音色にも、普通の人間には聞き取れないぐらいの微少な変化が生じる。

 ソウルジェネレーターは日本地区に残っているのだ、と盟人は思った。言葉は誤魔化ごまかせても、表情や声までを完全に演技できる人間は存在しない。

「しらばっくれるな。直ちにソウルジェネレーターを俺に引き渡せ。さもなければ……貴様を今すぐ銃殺する」

 ガイが魔銃を突き出し、銃口とアランの頭蓋が擦れ合う音が響く。冗談や脅しの口調ではない。ガイは本気でアランを殺そうとしていた。

 富豪たちの幾人かが、緊張に堪えられなくなったのか、床に倒れ込む。

 シアは震えながら盟人にしがみついている。

「社長……要求に応じましょ。ただの道具より、命の方が大事ですよ」

 キャンディスは銃口をガイのこめかみに突きつけたまま、こわばった声で言った。

「やれやれ……仕方ないな」

 アランが肩をすくめる。

「部下に指示を出そう。一機くらいはくれてやってもいい。胸ポケットにスマートフォンが入っているんだが……、それを取り出すのは構わないね?」

 ガイは厳しい面持ちでうなずく。

「ああ。ただし、妙な動きをすれば容赦はしない」

「大丈夫、分かっているとも」

 アランはゆっくりと右手を胸ポケットに運び、指でつまみ上げるようにしてスマートフォンを取り出した。わざとらしい笑みと大げさな身振りで、抵抗の意志がないことをアピールする。

 スマートフォンを宙に持ち上げたまま、その画面に人差し指を当てた。

 一度、二度、三度と。

「さあ、済んだ」

 アランが、わらう。

 まるで、屍体したいを前にした悪鬼のように。

 途端、スマートフォンのスピーカーから、背筋の寒くなるような高音が鳴り始めた。

 音量が大きいわけではないのに、奇妙に頭蓋に響く音。

 ガイは体を凍りつかせた。その双眸そうぼうから、ダラダラと血が溢れる。ガイはよろめき、その場にうずくまる。

 そして、インカムからリノの悲鳴が響き渡った。

『あああああああああああああああ! 兄者! 兄者! 兄者! 痛い痛い痛い痛い痛い! 助けて! 兄者! 助けて! あああああああああああ!』

「どうした!? リノ!? どうした!?

 盟人は肝を冷やした。リノがここまでの大声を上げるのなんて聞いたことがない。どんなに苦しくても表情さえ変えない妹なのだ。今の叫びはまともではない。

 だが、リノは盟人の問いに答えない。その余裕がないのか、ひたすら悲鳴を上げ続けている。

 盟人の目の前では、身を痙攣けいれんさせるガイの額に、キャンディスが照準を合わせている。

 アランはスマートフォンを見せつけるようにひらひらと振った。

「どうだね、この超高周波発生アプリのお味は? 普通の人間にはただのノイズだが、デスウォーカーの体には効くだろう? ここは死体が大好きな変態ギラドのお膝元だからね、万一に備えて前もって作っておいたのだよ」

「くっ……ギラド様を……愚弄ぐろうするな……」

 ガイは歯を食い縛ってアランを睨みつけた。

「裏切り者のデスウォーカーがまだ忠臣ぶるのか。ギラドの凋落ちようらくは、君のせいでもあるのに」