リノのベッドの上には、病人用のテーブルが置かれていた。

 入院病棟で使われるような、ベッドに取りつけてスライド可能なタイプ。作業をする際にこれがあった方が楽だとリノが言ったので、盟人めいとが取り寄せたのだ。

 そのテーブルにノートパソコンを載せ、リノはキーボードをたたいていた。

 既に一時間ほど画面を凝視している妹が、まばたきすらしていないことに盟人は気付く。

 普通の人間なら、数十秒も目を開けっ放しにしていれば痛くて瞬きをするはずなのだ。だというのに、リノはしない。彼女のひとみには、ただひたすら画面のデータが映っている。

 リノが疲れたように息をついて、ベッドに横たわった。小さな頭は重量も軽いのか、まくらにほとんど沈み込みもしない。まるで、ぬいぐるみを寝かせているかのようだ。

「駄目。ソウルジェネレーターのありかが、どうしても見つからない」

「リノちゃんでも難しいのですか……? それは実在するのでしょうか?」

 シアが柳眉を寄せた。

「実在はする。リノは見たことがある。だけど、配置が極秘扱いになっているみたいで、どこにもそのデータの痕跡がない。データの目録さえない」

「どうしたらいいのかしら……」

 ドリスが困ったように言った。

「分からない。でも、ソウルジェネレーターをバベル工業が集めているということだけは分かった。この前の輸送トラックも、エデン製薬からバベル工業に荷物を運んでいたらしい」

「バベル工業か……またでかいところだな」

 盟人はつぶやいた。

 世界の工業製品のほとんどを製造している巨大企業。そのトップのアラン・スチュワートは十賢老じゆつけんろうであり、文字通り世界の支配者の一人だ。

 その辺の家に置かれているテレビ、トースターなどにも、バベルの塔のマークは刻印されている。盟人の自宅ではバベル工業の製品は使わず、わざわざ零細企業の商品を取り寄せているが、普通の家電量販店でバベル工業以外の製品はなかなか見つからない。

 ドリスがぶるっと身を震わせる。

「エデン製薬からバベル工業に実験データを運ぶなんて、嫌な感じがするわね……」

「どうせまたくだらない実験でも続けるつもりだろう。ギラドの遺志を継ぐ者ってわけだ」

「あんな実験を……また……」

 ギラドから拷問に等しい苦痛を与えられていたシアが、ひざをきつく握り締めた。血の気を失った顔には、恐怖と不安が浮かんでいる。

「とにかく、バベル工業を探ってみよう。そうすればソウルジェネレーターのありかが分かるだろうし、バベル工業がなにをしようとしているかもつかめるかもしれない」

「え……兄者あにじや、日本地区を出るの……?」

 リノが盟人を見上げた。無表情な顔から心細さがにじみ出ているのを、盟人は長年の経験で感じ取る。

 バベル工業のオフィスも工場も研究所も、日本地区には一つも存在しない。世界政府によって統一された現代、税関などはないからほかの地域への旅は昔より簡単だが、いずれにせよ衰弱したリノを置いて長旅をしなければならない。

「仕方ないだろう。他に探る方法が……」

「そういえば……バベル工業の社長さんが日本地区を訪れていると、両親に聞きましたが」

 シアから突然のニュースを告げられ、盟人は驚く。

「アランが? テレビではなにも言ってなかったが」

「あまりおおっぴらにはしたくないのかもしれませんね。ただ、アランさんが日本地区の有力者と親交を深めるため主催するパーティがあるらしく、ホワイト家にも招待状が届いていたのです」

 このタイミングで、エデン製薬からバベル工業への実験データ輸送。

 そして、バベル工業のトップの来訪。

 盟人には、とても単なるお忍びの親善旅行には思えない。

「そ、それって、シア様が名指しで呼ばれていらっしゃるのですか?」

「ええ。招待状の宛名は私でした。私はあまり行きたくないのですが、ここしばらく社交界に顔を見せていないからたまには行くようにと、両親が……」

 シアは小さくめ息をついた。

 リノが指摘する。

「もしかしたら、アランがシアからギラドの情報を探りたいのかも。ギラドに受けていた実験のこととか」

「そうなのでしょうか……。やっぱり、行くのは怖いです……」

「だったら、おれと一緒に行かないか?」

「え……?」

 盟人の提案に、シアが目を丸くした。

「現状を見るに、アランはエデン製薬と深くつながっているはずだ。恐らく、ソウルジェネレーターのありかだって知っているだろう。ひょっとしたら、ソウルジェネレーターを持ち出したのもアランとバベル工業なのかもしれない」

「その可能性は、高い」

 リノが同意する。

「だろう? なら、バベル工業のボスと仲良くなって、探りを入れた方が手っ取り早い。渡りに船ってやつだ」

 盟人はシアの方に向き直った。

「シア、協力してもらっていいか。今回はホワイト家の力が要る」

「は、はい、もちろんです! 私にできることなら、なんでも!」

 シアは笑顔で何度もうなずいた。

 ドリスがあせったように胸元むなもとこぶしを握り締める。

「で、でしたら、私もお供します!」

「お前はお留守番だ。パーティ会場ではシアも俺も素顔をさらす。そんな場所で戦闘要員は必要ないし、ドリスは演技に向いていない」

「向いてるわよ! 頑張ればなんだってできるわよ!」

「本当にか? 自分の感情を完全に隠して、ただパーティを楽しみに来たアホな召使いのふりを何時間も続けられるか? うっかり尻尾しつぽを出してしまわないか?」

「も、もちろん……できる……わよ……」

 声がしりすぼみになっていく。

 基本がバカ正直で激しい性格のドリスにとって、それは無理難題というものだ。なにせ、盟人にからかわれて怒鳴っているときさえ、うれしがっているのが駄々れなのだから。

 一方、シアは天使のように純粋だが、意外と演技派だ。ドリスの命を守るためではあったが、ギラドとの結婚を喜んでいるふりを続け、日本地区の全住民に真意を悟らせなかった。だから、パーティでも決してボロを出さないだろう。

「兄者、どうして素顔を晒す? 幻惑魔法装置プロジエクターがあれば別人になりすませるのに」

 リノが尋ねた。

「シアは招待状を持って素顔で行くんだ。俺だけが顔を隠すわけにはいかない。それに……、エスコートする男と一緒に住んでいる男が違ったら、シアの評判が傷つくだろ?」

「エスコート……盟人様が、私をエスコート……」

 シアはぽーっとしてささやいた。赤く染まったほおを両手で抱える仕草しぐさは、まさに乙女おとめ。そんな姿を見ると、盟人は胸の奥がうずくのを感じる。

「兄者が心配。パーティにはインカムを着けて行って。リノがオペレーターとして、会場の周囲の警備や監視カメラの状況を教える」

「その体調じゃきついだろう。無理するな」

「無理でもやる。兄者が大変な目に遭うよりはいい。それが駄目なら、リノもパーティについて行く」

 リノは飽くまで言い張った。

 こうなってしまったら、リノの意志を変えさせるのは不可能だ。見た目はか弱いし、感情はあまり見せないのだが、自分の中で決めたことは譲らないのだ。

 そのことを、盟人はだれよりもよく知っている。

「……分かった。じゃあ、しっかりオペレーター頼んだぞ」



 パーティ会場へ向かう車が、夜の国道を走っている。

 シンプルながらも上質な内装の車だった。運転をしているのは、ホワイト家のお抱え運転手。盟人の隣には、ドレス姿のシアが座っている。

 車窓の夜景を眺める盟人の耳に、インカムからリノの声が流れ込む。

『現地の警察の通信システムを傍受した。今夜は、会場周辺の半径十キロ圏で、特別警戒網が敷かれる模様。騒ぎを起こしたら逃げるのは大変。会場の裏手の森なら、なんとか脱出できるかもしれないけど、極力トラブルは避けて欲しい』

 盟人はえり元の超小型マイクにささやく。

「了解。情報助かるよ。でも、本当に今日くらいはオペレーターなんてしないで休んで良かったんだぞ? 戦闘区域に侵入するってわけでもないんだから」

『イヤ。リノはさびしい。置いていかれたくない』

 子供のようなことを──実際に子供なのだが──訴える。その言葉が、どこか切実な響きを帯びていて。

「いつも悪いな。仕事だしな」

 盟人はすまなく思った。

『知ってる。小さいころから、兄者が仕事に行くのが嫌で、ううん、兄者と離れるのが嫌だった。だから、リノは兄者の仕事を手伝うことにした。そうすれば兄者と一緒にいられるから』

「リノ……」

 十歳の女の子が長時間一人で家にいるというのは、盟人の想像以上に心細いことなのだろう。リノには友達もいない。家族だって、盟人しかいない。

 ドリスやシアが来るまでは、本当に家の中が静かだった。

 あたかも、墓場に住んでいるかのように。

『それに……リノは心配。自分が知らないところで、兄者が戦って、傷ついて、死んじゃうのが。いつか、兄者が帰って来なくなって、リノはずっとずっと待って、でも兄者が帰って来なくて……そんなふうになるんじゃないかと、思う』

 リノの声が、消え入りそうなくらい弱々しくなっていく。

 盟人は両親のことを思い出した。兄妹二人がいくら待っても帰って来なかった両親。あの経験が、リノの不安をさらに大きくしているのかもしれない。同じ不安を抱きながら過ごした盟人には、妹の気持ちがよく分かってしまう。

「じゃあ……そこにいろ。俺の耳元に」

『ん。いる』

 リノが大きくうなずいている姿が、盟人の網膜には映った。



 夜空に絢爛けんらんなホテルがそびえ立っている。

 日はとっぷり暮れているのにもかかわらず、そのホテルが放つ光は、夜を昼に変え、辺りの隅々までも白日の下に晒していた。

 石材を組み合わせて造られた、日本には珍しいタイプの洋館。

 外壁には神々の彫刻が飾り付けられ、きらびやかにライトアップされている。

 玄関から道路に繫がる階段は、段の一つ一つが鏡のようにみがき上げられていた。

 扉の脇に待ち構えるドアマンでさえ、わずかなしわもない制服を着込み、世界を見下しているかのように尊大な顔をしている。

 そんなホテルの前に、一台のクラシックカーが停まった。

 盟人は後部座席から足を踏み出す。普段とは違い、糊のいたスーツを身に着けていた。光沢のある革靴を鳴らし、反対側のドアへと向かう。

 静かにドアを開けると、中のシアに手を差し伸べた。

「さあ、行こうか」

「はい」

 シアは笑顔でうなずき、盟人の手を握って車から降りる。

 今夜のシアは、いつにも増して可憐かれんだった。レースがたっぷりあしらわれた、花びらのようなイブニングドレスをまとっている。

 驚くほど小さな足をガラスの靴に入れた姿は、まるでお伽話とぎばなしの少女のよう。輝かしい金髪を飾る白銀のティアラは、プリンセスにしか見えない。

 盟人が腰に手を当てて腕を差し出すと、シアはその腕に手の平を載せた。しきりに瞬きをしながら、盟人の顔を見上げる。

「これでマナー通りのはずなのですが……。男性にエスコートして頂くのって初めてで、緊張します」

「大丈夫だ。お前は俺に任せておけばいい」

「は、はい! すべて盟人様にお任せします!」

 シアは盟人の腕をきゅっと握り締めた。

 盟人はシアを連れて、パーティ会場となるホテルの階段を上っていく。少女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩く。二人の靴音が重なって聞こえる。

 シアは盟人に肩を寄せるようにして、うっとりとささやいた。

「盟人様……。私、夢を見ているみたいです……。こんな素敵なエスコートを、王子様にして頂けるなんて……」

 八年前、盟人が初めて出会ったときも、シアは王子様へのあこがれを口にしていた。夢見る少女なところは今でも変わっていないのだなと、盟人はなつかしさと共に笑みをこぼす。

 扉を開けてくれるドアマンに聞こえないよう、小声でシアに言った。

「俺は王子じゃない。ただの泥棒どろぼうだ」

「では、泥棒の王子様ですね」

「泥棒の王子様ってなんだ」

「いろんなところから宝物を盗み出すのが趣味の王子様です」

「やっぱり犯罪者じゃないか」

「とにかく、盟人様は王子様なのです」

「相変わらず強情な女だな」

 盟人はあきれる。

 人当たりは物柔らかで、外見も弱々しいのに、内に秘めたしんは鋼なのだ。ドリスのため断固として死を選ぼうとしていたことからも、それは明らかだった。

「式場へ救いに来てくださったときの盟人様は、王子様にしか見えませんでしたから。いいえ、八年前からずっと、盟人様は私の王子様ですから」

 シアは潤んだ瞳で盟人を見つめる。

 その視線のあまりの熱さに、盟人は首筋が熱を持つのを感じた。大抵の女は適当にあしらえるのに、シアだけは昔から苦手だ。それは、彼女が初恋の相手だったからなのかもしれない。

 盟人はシアをエスコートしてホテルの通路を進んだ。

 シャンデリアの輝きが、床の大理石に映り込んでいる。

 右手の壁には、巨匠が思いのままに力を振るった名画の数々。

 廊下にたたずむ人々は皆、豪奢ごうしやな衣装で着飾っている。

 クリスタルガラスの壁で隔てられた外とはまったくの別世界が、そこにはあった。

 盟人が耳の穴に埋め込んでいる超小型インカムから、リノの通信が入る。

『兄者。ハッキングした監視カメラで、そっちの警備状況を確認した』

「どうなってる?」

 盟人は襟の裏に隠したマイクを使って小声で尋ねた。

『会場の敷地内は警官隊が埋め尽くしている。それと連携して、ゴーレムも大量に配備されている。監視カメラの数は三百機。トイレの中までカメラが仕掛けてあって、コントロールルームから監視されている』

「カメラの死角は」

『ほとんどない。バルコニーはぎりぎり死角になっているけど、そこで幻惑魔法装置プロジエクターを起動したりしたら、監視カメラに映る前後の顔が違ってボロが出る』

「荒事は絶対に避けなきゃいけないってことだな。引き続き監視を頼む」

『ん、了解』

 通信が終わると、盟人は素早く周囲に視線を走らせた。

 リノの言葉通り、天井てんじようの至る所にカメラが仕掛けられ、ゆっくりと首を振っている。静かなモーター音、そしてズームアップされる音。どうやら、通路を通るあらゆる人間が見られているようだ。

 監視カメラの映像をチェックする警備員と目が合わないよう、盟人はすぐ視線を前に戻す。

「盟人様……? 大丈夫ですか……?」

 通信中だったことに気付いたらしく、シアが声を潜めていてくる。

「ああ、万事問題ない。お前は心配しなくていい」

 盟人は表情を変えずに答えた。

 天井に設置されていた監視カメラは、機密情報を扱う研究所などにあるのと同じハイエンドモデルだ。わずかな異変や不審な素振りさえ感知され、無用な警戒を招いてしまうだろう。盟人たちは、ただ単にパーティを楽しみに来た愚かな客を演じていなければならないのだ。

 パーティ会場は、階段を上った突き当たりの大ホールだった。

 白いクロスのテーブルが並び、豪勢な料理がそろっている。

 光に満ちたホールに足を踏み入れると、好奇の目がシアに向けられた。

 色鮮やかな夜会服で身を覆った女たちが、ささやき合う。

「あらあら、あれってホワイト家のご令嬢じゃありませんの?」

「ギラド様が亡くなったばかりだというのに喪服も着ないで、なんて不謹慎なのでしょう」

「しかもあんな若い男を連れて」

「変わり身の早い女ですわねえ」

「見ない顔の男ですし、きっと愛人ですわ。ギラド様がいなくなって、ようやく堂々と連れ回せるようになったんでしょう」

「まあ、いやらしい」

 散々な言われようだ。

 変わり映えのない社交界に退屈した奥方たちが、格好の餌を見つけて興奮している……そういった印象を盟人は受けた。低劣な人間がうわさ話を娯楽にするのは勝手だが、誰よりも高潔な少女であるシアをおとしめるのは許せない。

「クズどもが」

 盟人が呟くと、シアは小さく笑った。

「大丈夫です、私は気にしませんから。盟人様たちさえ私のことを理解してくれていれば、それでいいのです」

 そう言いながらも、少女の笑みは引きつっていた。盟人の腕を握る手にも力がこもっている。

 当然の反応だと盟人は考える。シアのような高潔な人間にとって、不道徳な人間だと誤解されることに勝る恥はないのだから。

 盟人は腐りきった顔つきの奥方たちを観察した。その中から、声が大きく、取り巻きが多く、場の中心となっていると思われる女にねらいを絞る。

 その女はパニエですそを膨らませたドレスを着て、派手な羽扇子を持っていた。分かりやすい目立ちたがり屋。虚飾を愛し、脚光を浴びるためなら手段を選ばないタイプだ。

 こういうタイプは敵に回すと厄介だが、一方であやつりやすい相手でもある。

 盟人が堂々と歩み寄っていくと、女はわずかなたじろぎを見せた。扇子で口元を隠し、表情を読み取れないようにする。

 盟人は右手を胸元に添え、西洋式の礼をした。

「お初にお目にかかります、ミズ。シア・ホワイトさんと結婚を前提にお付き合いさせて頂いている、影島かげしま盟人と申します」

「め、盟人様!?

 シアはさっと頰を染めた。

 黙っていろとの意味を込めて盟人が視線をやると、シアは口をつぐむ。

 扇子の女は声を揺らした。

「へ、へえ? ギラド様との結婚がご破算になってすぐ、もう次の結婚とはねえ。なかなかお盛んですこと」

 遠慮のない言葉に、周囲の婦人たちが忍び笑いを漏らす。

 自分では口にできない毒舌を代弁してくれる人間をもてはやし、重宝する、そんな取り巻きはどこのコミュニティにもいるものだ。そういう臆病でさかしい偽善者よりも、扇子の女のように手加減のない愚者の方が、盟人はまだマシだと思った。

「私とシアさんは、ギラド様との縁談が持ち上がるずっと前からの仲だったのです。結婚しようとも思っていましたし、準備も進めていました」

「だったらなぜ、ギラド様と結婚を? 愛する男を捨てるなんて利口な女ですこと」

 扇子の女はなにがなんでもシアを悪者に仕立て上げたいらしい。他者を低めることで自分を高めるのは、虚栄心にあふれる人間の特徴だ。

「シティの支配者に結婚を申し込まれて、断れますか? ホワイト財閥にどんな制裁が加わることか……そのくらい分からない皆様ではないでしょう?」

 盟人は周囲をぐるりと見回して問いかけた。

 まるで、扇子の女を愚かだとほのめかしているかのように。

「それはもちろん、分かりますけれど……」

 渋々認める扇子の女に、盟人はもう一歩近づき。

 互いの熱を感じるほどまで顔を寄せて、ささやく。

「だから、シアさんを責めないであげてください。そんなにしかめっ面をしていたら、せっかくの美しい顔が台無しですよ?」

「そ、そうですわね……気をつけますわ……」

 女は首筋を紅潮させ、扇子でしきりに自らを扇いだ。

 盟人はにっこりと微笑ほほえんで会釈し、女の前から立ち去る。

 とりあえず毒牙は抜いた。ああいう手合いはすぐにまた毒舌を振るい始めるだろうが、標的にシアが選ばれることはない。

 それでも会場の注目は収まらず、今度は盟人までもが視線のあらしを浴び始めた。

 居心地が悪いのか、シアが訴えるような目で見上げてくる。

「盟人様……バルコニーに出ませんか。私、ちょっと外の空気を吸いたいです」

「ああ、行こうか」

 盟人はシアを連れて、きつい香水のにおいを放つ富豪たちのあいだを抜けていく。

 ホールにはウェイターやウェイトレスもたくさんいて、人ごみの中を器用にすり抜けていた。富豪たちは彼らを道具扱いしているし、給仕たちも富豪を同じ人間扱いしていない。生物としての種類は同じなのに、そこには明らかな隔絶が見える。

 料理を食べている富豪はほとんどおらず、大抵がグラスを片手に談笑を交わしていた。

 けれど、一人の女性がテーブルに食いつくようにして陣取っているのが目立った。

 それは、この前の戦闘でゴーレムを操縦していた、キャンディスだった。

 胸元の大きく開いた、紫のドレス姿。

 髪をアップに盛っている姿は、貴婦人に見えないこともない。だが、ひたすら皿に料理を取って食べまくっているのは、貴婦人からは程遠い。

 赤い唇にかにのむき身がちゅるんと吸い込まれていく。なまめかしくのどが動き、悩ましい吐息が漏れる。その光景はある種、官能的ですらあった。

 キャンディスが盟人の視線に気付く。

「なーに、坊や? 蟹が欲しいのかしら? あげないわよ。欲しいなら向こうのテーブルから取りなさい。ここは私が占拠してるのよね」

「いや、別に人の蟹を奪いたいわけではないが」

「じゃあ、なにかしら? お姉さんをデートにでも誘いたいの? 悪いけど、今日は仕事で来ているのよ」

 盟人の方に向き直って、テーブルに軽く腰を預ける。ドレスの裾が持ち上がり、深いスリットから中がのぞいた。

 張り詰めた、豊満な太もも。

 油を塗ったようにつやを帯びた肌が、シャンデリアの光を反射している。

 男なら誰もがむしゃぶりつきたくなるそこには、しかし、ホルスターで拳銃が取りつけられていた。仕事で来たというのは事実のようだ。

 とはいえ、相手は生身の人間。巨大人型戦車ゴーレムに乗っていない今なら、すぐにつぶしておけるだろう。けれど、素顔を晒して参加しているパーティで騒ぎを起こすのはまずい。

 どうしたものかと盟人がキャンディスを眺めていると、キャンディスはまゆをひそめて腕で胸元を隠した。

 シアが盟人の腕を引っ張る。

「もう、盟人様。あまりじろじろと見ては失礼ですよ」

 どうやら女性二人から下心ありと判断されてしまったらしい。

「悪いな」

 盟人は肩をすくめて立ち去ろうとした。

 横を通りすぎる瞬間、キャンディスがささやく。

「ねえ……坊や。私たち、どこかで会った気がしない?」

 盟人は体がこわばるのを感じた。戦士の勘という奴だろうか、これだからこの女は油断できない。警戒心を悟られないよう、盟人は軽く笑い飛ばす。

「残念だが、初対面だ。今度会ったときは、ダンスの相手でもしてくれよ」

「ええ……お願いするわ。楽しいダンスになるといいわね……」

 ねっとりとした視線が背中にへばりつくのを意識しながら、盟人はシアと共にバルコニーに出た。シアが盟人の腕から手を離し、手すりの方へと歩いて向き直る。

 ホールのキャンディスはやっと盟人への興味を失ったのか、またテーブルの料理と取っ組み合いを始める。

 バルコニーには、他に人はいなかった。

 香水や料理の匂いに犯されていない、新鮮な空気。

 ホールとのあいだを隔てるガラス戸を閉じると、不愉快な喧噪けんそうも和らぐ。

 木製の手すりがバルコニーの周りを囲い、転落を防いでいる。

 ホテルが広大な森林公園のそばに建っているお陰で、ここからは醜い人工の街並みを見ずに済んだ。やみに包まれた木々の向こうから、鳥たちの寝言が漏れてくる。あるいは、名も知れぬ獣の鳴く声が。

 空からは月の光が降りそそぎ、シアを照らし出していた。

 その黄金の髪は、白い肌は、闇から浮き上がっているかのように見える。

 まるで、月夜に舞い降りた妖精ようせい

 盟人はそんな少女の姿に、改めて美しいと感じた。

 シアがやわらかく微笑む。

「ありがとうございます、盟人様。皆さんから誤解されないよう、私をかばってくださって。やっぱりあなたは私の王子様ですね」

「かばったわけじゃない。クズ共をコケにしたかっただけだ」

「またそんなことを言って、盟人様ったら」

 くすくすと、慈しむような笑い声を漏らす。

 盟人の悪意を悪意ととらえず、その動機を疑いもしない、見透かしているような態度。そういうふうに扱われると、盟人はきまりが悪くなるのだ。

「いいから、空気ならさっさと吸え。落ち着いたらホールに戻って、アランを見つけないといけないんだからな」

「盟人様……ちょっと背をかがめてください」

 優しげな、命令口調。

 あまりにも自然なその言葉に、盟人は思わず言われた通りにしてしまう。

 シアの手の平が、絹よりもすべらかな肌が、盟人の頰を覆った。

 世にも可憐な顔立ちが間近に迫り、ふわっと花の香りが漂う。

 小さな唇が、盟人の唇に触れた。

 シアはつま先立ちで背伸びをしながら、盟人に唇を押しつける。

 赤く、赤く、染まりきった頰。

 人形よりも長いまつげ。

 夢のような感触の唇が、盟人の熱を味わっている。

 盟人は動けなかった。突然の出来事に、自らを含むすべてのときが止まってしまうのを感じた。八年前のキスが、盟人を衝撃的な初恋に叩き落としたあの瞬間が、たちどころに脳裏によみがえる。

「……はあっ」

 長い長いキスの後に、シアは唇を離した。自分からしてきたというのに、酔ったようにくらりとよろける。盟人は急いでシアの体を抱き止めた。

 シアは盟人の胸に身を寄せ、潤んだ瞳で見上げる。

「八年……ぶりですね」

「……ああ」

「迷惑、でしたか」

「迷惑なわけがない」

「私は二回目ですけど……、盟人様はドリスとしていらっしゃいましたね。他のとはしましたか? 美穂みほさんとは? リノちゃんとは?」

「していない。ドリスだけだ」

「じゃあ……、許してあげます。盟人様から、してくれたら」

 シアが盟人の上着を握り締めた。