そんなシアの姿を見るのは初めてで、盟人は驚かされる。

 ホワイト夫妻もそれは同じだったらしく、目を丸くして娘を見ていた。

 美穂も口をぽかんと開けている。

 シアが我に返る。

「あっ、ご、ごめんなさい! お父様とお母様と一緒が嫌というわけではないのです! た、ただ、盟人様から離れたくない、それだけなのです!」

 ドリスがシアの隣で口添えする。

「旦那様、奥様! 私からもお願いします! 前のように屋敷にいても、お嬢様は寂しいんです! 盟人の家にいれば、みんなでにぎやかに暮らせるんです!」

「その……影島君とは、どういう関係なんだね? 古い恩人と言っていたが……ただの友達ではないのだろう?」

 父親が盟人を一瞥いちべつしてシアに訊いた。

 シアは宝物を抱き締めるように胸を押さえる。

「私の……大切な方です。命を何度も助けて頂きました。今回だけではなくて、八年前も」

 母親が目を見開く。

「八年前……? それって、屋敷に不審者が忍び込んだときのことかしら?」

「はい。あのとき不審者から助けてくださったのが、盟人様です。盟人様は、八年前からずっと、ずっと、大切な方です。だから、一緒にいたいのです」

 必死になりすぎているせいか、シアは目に涙までにじませていた。

 ホワイト夫妻は黙っている。

 シアもドリスも口をつぐみ、不安そうに夫妻を眺めた。

 張り詰めた空気。

 シアはまだ未成年、両親から帰宅しろと言われれば従うしかない。盟人がさらっていくことは可能だが、そんな方法で家出をすれば、シアは決定的に親子の縁を失ってしまう。情の深い彼女にとって、それはなによりもえがたいことのはずだ。

 ホワイト夫妻が、顔を見合わせた。

 そして……二人で笑みを漏らす。

「まさか、シアがそんなことを言うとはな」

「シアがワガママを言うなんて、初めてじゃないかしら」

 怒っている様子ではない。むしろ楽しそうだった。

「お父様……? お母様……?」

 シアは当惑の表情を浮かべて両親を眺めた。

 父親が告げる。

「いいだろう」

「え……? なにが、ですか?」

「お前がなにかをやりたいと主張するのは珍しい。つまり……それは心の底から、どうしてもやりたいことなんだろう?」

「は、はい。そうです。そうです!」

 シアは何度もうなずいた。

 父親は小さく笑う。

「だったら、やってみるといい。娘の初めてのおねだりを突っぱねたら、一生恨まれそうだからな」

「シアが幸せなら、それでいいわ。だいぶ寂しくなるけどね」

 母親はシアの頰に手の平で触れた。

「お父様……お母様……ありがとうございます……」

 シアはなにかを堪えるかのように目を瞬かせる。

 父親はシアの頭をぽんぽんとたたいた。

「ギラド様の屋敷に運んだ荷物を返してもらうのは難しいが……、我が家に残っている物で必要な物は、影島君の家に運びなさい。メイド長に手配を頼むといい」

「はい! 頼んできます!」

 シアはドリスを連れて、廊下に出て行った。

 部屋に残されたのは、盟人、リノ、美穂、そしてシアの両親という不思議な取り合わせ。一般的に言って居心地の良い状況ではない。

 とはいえ、盟人はその程度で萎縮するような繊細さは持ち合わせておらず、壁に寄りかかってあくびをしていた。

 すると、シアの父親がぽつりと言った。

「……娘を不幸にしたら、許さんからな」

 盟人は鼻先で笑った。

「不幸になるか幸せになるかは、あいつ次第だ。そこまでは約束できない。だが、俺はどんな手段を使っても、あらゆる災いからシアを守る」

「ちょっ、盟人!? なんでそんなに偉そうなの!?

 美穂が目を白黒させる。

 けれど、シアの父親は腹を立てはしなかった。

「君が言うと、妙な説得力があるな。なぜかは分からないが」

「守るからな、実際に」

「頼んだぞ」

「ああ。たとえ神様が襲ってきたって、シアを渡しはしないさ」

 シアの父親が差し出した手を、盟人は力強く握り返した。



 通りを自動車の群れが埋め尽くしていた。

 古い商店街を貫く国道。

 交通量の少ない時期に作られた道路だから、車幅は狭く、車線も二つしかない。

 その中でひしめき合う車は、ブレーキランプをつけたり消したり、止まったり進んだりを繰り返し、一つ一つの挙動に苛立いらだちが滲み出ていた。

 盟人たちの乗っている中型タクシーの車内も、疲れ切った空気が漂っている。

 メイド長に荷物の発送を頼んで、シアの屋敷を出てから、既に一時間。列は遅々として進まず、もはや徒歩の幼児にすら追い抜かれる始末だ。

「うーん、いつになったら帰れるのかなー」

 美穂が嘆いた。

「今、リノは生まれてきたことを後悔している……」

 リノはぐったりと盟人の膝にうつ伏せていた。

「そんなにつらいの!?

 驚くドリスも、そわそわしてしきりに前の車を確かめている。

「ごめんなさい……私の用事で皆さんを連れ出したばっかりに……」

 シアは唇を嚙み締め、すぐにも責任を取って死を選びそうな雰囲気だ。

 盟人も待たされるのはあまり好きではない。一人や二人なら小脇に抱えて走っていった方が速いが、さすがに四人の少女を抱えて運ぶのは、だいぶシュールな光景になりそうだった。

 うんざりした様子の一同を見回し、美穂が手を叩く。

「そうだ! この渋滞はしばらく抜けられないだろうし、どうせだから商店街に寄らない? 友達が美味しいパフェのお店ができたって言ってたんだよね!」

「パフェ……そんな軽薄な店にリノは興味がない」

 リノは目を閉じたまま切り捨てた。

 が、美穂はめげずにプレゼンテーションを続ける。

「軽薄なのかどうかは知らないけど、いろいろメニューがあるみたいだよ。イチゴパフェに、マンゴーパフェに、ミルクアイスに、あ、キュウリアイスなんてのもあるんだって!」

 リノがぱちっと目を開ける。

「キュウリアイス……食べたい。キュウリアイスなら食べたい」

「なぜそこに食いついた」

 相変わらず、我が妹ながら嗜好しこうが理解できない盟人である。野菜はアイスに入れるべき存在ではないと思うし、キュウリに至っては味の想像もつかない。

「いいですね。せっかくですし、皆さんと一緒に遊びたいです」

「シア様がそうおっしゃるなら私も!」

 主従二人の賛同も得て、美穂が拳を突き上げる。

「よしっ! じゃあ、全員一致ということで! 行こー行こーっ!」

「俺に投票権はないのか……?」

 盟人は当然の疑問を発するが、美穂は天井に激突した拳の痛みに苦しみもがくので精一杯で、明確な回答は得られなかった。

 盟人、リノ、シア、ドリス、美穂の五人は、料金を払ってタクシーを降りる。

 さんざん渋滞に悩まされた後に自分の足で歩くと、盟人は気分が爽快になるのを感じた。望む方向に進むことができるし、肌に当たる風が心地良い。

 古びた石畳の歩道を、人々がせわしげに行き交っている。

 ふと車道の向こう側に目をやった盟人は、そこに信じられないものを見た。

 ガイが、歩いていた。

 あの、融通がまったくききそうにない生真面目な顔つきで、青いコートを着て。

 なにか目指すところがあるかのように、足早に進んでいた。

 彼は、死んでしまったはずなのに。

「おい……あれって……」

 盟人は他の少女たちに気付かれないよう、密かにリノの肩をつついた。

「なに、兄者?」

「ガイ……だよな?」

 と言いながら、再び車道の向こうを見やったときには。

 ガイの姿は消えてしまっていた。

 まるで、白昼夢でも見ていたかのように。幻でもあったかのように。

「ガイ? どこに?」

「いない、な。いるわけがないよな……」

 盟人は呟いた。

「変な兄者」

 リノは不思議そうに首を傾げる。

 盟人は肩をすくめながらため息を吐き、今見たものは忘れることにした。きっと疲れているのだ。人間の目なんて、たいして信用できるものでもない。

 国道沿いには、宝石店、ブティック、ケーキショップ、肉屋、書店から雑貨屋まで、バラエティ豊かなショーウィンドウが並んでいた。

 豪華な純白のドレスが飾ってある店の前に来て、美穂が足を止める。

「わー! ウエディングドレスだ! いいないいなー。綺麗ーっ!」

みをつけずに結婚式の料理を食べるのが死ぬほど大変そうだな」

「もう、そんなこと言わない! こういうのは女の浪漫ろまんなんだからね!」

「そうですね。私もいつか、大好きな人のために着たいです」

 美穂とシアは目をきらきら輝かせて、ショーウィンドウに貼り付いた。

 一方、ドリスは落ち着かない様子でショーウィンドウから距離を置いている。

「ドリスはこういうのは好きじゃないのか?」

 盟人が尋ねると、ドリスは顔を赤くした。

「えっ? なんで私に聞くの!? な、なんか深い意味でも、ああああったりするの!?

「いや、別にないが」

「そ、そうよねっ、え、えとえと、リノちゃんはどう? こういうの好き?」

 慌てたように話をよそに振る。

 だが、リノはウエディングドレスに目を向けようともしない。

「リノには……無理だから」

 うつむいて、かぼそい声で呟いた。

「リノ……?」

 その姿がいつになく小さく見えて、盟人は気になってしまう。

 妹はいろんなことを自分の中にめ込みがちなのだ。苦しいこと、悩んでいること、悲しいことを、兄にだってなかなか話そうとしないし、表情にも出さない。

 だから、兄はわずかな様子の変化を察してやる必要がある。昔は……八年前、魔法研究所にさらわれる以前は、リノも普通の子供のように笑ったり泣いたりしていたはずなのに。

「なんでもない」

 リノはささやいて、兄の上着のそでをきゅっと引っ張った。まるで、そのショーウィンドウから早く離れたいとでも思っているかのようだった。

 盟人たち五人は、国道沿いの表通りから、商店街の内側に入る。

 すぐ盟人の目に入ったのは、道の片側にずらっと並んだ長蛇の列だ。先頭はスイーツ店の入り口につながっており、商店街の混雑を五割くらい増やしている。

「うわー、結構並んでるねー。学校でも女子に大人気だもんなー」

 美穂は目の上に手の平をかざして列を見やった。

「どうする? 他の店にする?」

 ドリスが盟人に尋ねるが、リノが首を振る。

「キュウリアイスが食べたいから、ここがいい。リノは頑張る」

「私もここで構いません。並んでなにかを食べるのって、初めてですから」

 シアは顔を輝かせた。

 盟人も特に反対意見はない。車の中と違って商店街は息が詰まりはしないし、辺りにはいろいろと見るものがある。それに、店内の回転率が良いのか、列の進みは結構速いようだ。

 盟人たちは大人しく列の最後尾についた。

 並んでいる顔ぶれは、やはりと言うべきか、女子高生や女子大生らしき者たちが多い。店のメニューについて興奮気味に語り合ったり、恋愛談義に花を咲かせたりしている。

 ちらほらと女性に連れられた男性もいて、居心地悪そうにスマートフォンをいじったり、女性の話におざなりな相づちを打ったりしていた。

 十分ほどして、ようやく盟人たちが店内に入る順番が来た。

 店内はむっとするような砂糖の匂いが立ち込めていて、盟人は男性として少々の息苦しさを感じる。明らかに男女の人口比率がおかしいし、店員も綺麗どころで揃えられている。

 盟人たちが注文カウンターの前に立つと、洒落しやれた帽子の店員が朗らかな声を放った。

「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか? 当店のオススメは、特製イチゴパフェになっておりま──」

「キュウリアイス」

 リノのご注文はとっくにお決まりだった。

 店員は少しも申し訳なさが表れていない元気な声で。

「申し訳ございません! キュウリアイスは品切れとなっておりまして!」

「品……切れ……?」

 リノのテンションが急降下するのが盟人は分かった。

「じゃあ……なんでもいい……生ゴミでも食べさせておけばいいと思う……」

 力なく盟人の腕にしがみつく。

「バニラアイス、二つ頼む」

 盟人は一番無難そうな商品を選んだ。クリームやらトッピングやらが大量に飾ってある物体は、よく理解できない。

「あたしはソーダフロートにするよ!」

「え、えっと、私はイチゴパフェがいいわ」

「私は……、んー、どれも美味しそうですけれど、盟人様と同じものでお願いします」

 全員が注文と支払いを済ませ、番号札を受け取ってテーブルに就いた。この店はどうやら配膳がセルフサービスになっているらしい。

 リノはよっぽどショックを受けたのか、テーブルにぐったりとうつ伏せになっていた。

「大丈夫か……?」

「ん」

 盟人が声をかけても、顔を上げようともしない。こういうとき、どんなに天才でも心は年齢相応なのだと盟人は実感させられる。可哀想かわいそうだが、少し微笑ましい。

 やがて、スイーツの数々がテーブルに運ばれてきた。

 ドリスは豪華なイチゴパフェを前にして歓声を上げる。

「わーっ、可愛い! すっごく可愛いわ! 食べちゃうのがもったいないわ!」

「よし、では俺が代わりに。奴隷のモノは俺のモノだ」

「そ、そうはいかないわ! こればっかりは譲らないんだから!」

 盟人が手を伸ばしてパフェをかっさらおうとすると、ドリスは両腕でガードする。がるる……と犬が餌を守るような感じに、涙目で盟人を見上げる。

「ほらっ、リノちゃん! ソーダフロート、美味しいよ。食べたら気分がすっきりするよ」

 美穂が適度に溶けかけたバニラ部分をソーダフロートからすくい取り、スプーンをリノに差し出した。

 リノは仕方なくといった感じでスプーンをくわえるが、またすぐに伏せてしまう。

「キュウリ……アイス……」

「もー。リノちゃんってば、すっかりキュウリに取りかれちゃったねー」

 美穂は苦笑いした。

「ふふっ、ドリスはイチゴパフェの魔力に取り憑かれてしまったみたいですけどね」

 上品にバニラアイスを口に運ぶシアの隣で、ドリスは夢中でイチゴパフェをぱくついていた。イチゴとクリームを口に入れては、んんーっと幸せそうに身を震わせる。

 あまりにも我を忘れているせいで、その頰にはクリームがくっついていた。

「おい、こっち来い」

「え? なによ?」

 怪訝けげんそうに眉をひそめながらも、ドリスは盟人の方に身を乗り出す。少女の顎を盟人は指でつまみ……、頰のクリームを軽くめ取った。

「ひゃあああああっ!?

 ドリスは椅子を弾き飛ばして後ろに飛び退いた。

 真っ赤な顔で自分の体を抱き締め、盟人を睨みつける。

「なっ、なっ、なななななな……いきなりなにするのよ!?

 驚きすぎたせいか、勢いで他の客のテーブルに跳び乗ってしまっていた。一般人だらけの店内で人間離れした跳躍力を見せつけられ、客の女子高生が呆然とドリスを見上げている。

「なにって、お前の顔を掃除してやっただけだ。顔が汚かったからな」

「女の子の顔を汚いとか言ったらダメでしょ!」

 叱りつける美穂。

「盟人様……公衆の面前でそういうことをするのはどうかと思います……」

 頰を赤らめて目を伏せるシア。

「兄者のろくでなし……」

 バニラアイスを握り締めて投げつけてこようとするリノ。

「うう……盟人の、バカ……」

 恥ずかしそうに自分のほっぺたに触れるドリス。

 今日も世界は平和だった。



 少女たちが一時間ほどスイーツを満喫した後、ようやく帰宅することになった。

 夕暮れの商店街を歩きながら、盟人はため息を吐く。

「ふう……なんか、全身が甘ったるくなった感じがするな」

「それはあんたが私の分をどんどん奪っていったからでしょ!?

 ドリスが盟人を睨み据える。

「仕方ないだろう。うまそうだったんだから」

「じゃあ自分で注文しなさいよ!」

「自分で頼むほどではない。が、お前が食べていると無性に旨そうに見える」

「タチが悪すぎるわよ!」

 なんて批判されても、実際にそうなのだから仕方ない。それに、ドリスがスイーツを取られる度に必死の抵抗をするのが可愛らしくて、盟人もついつい悪ノリしてしまったのだ。

 五人は、国道のある表通りを目指して進んだ。

 空の雲は不思議な桃色に染まっていて、盟人に軽い酩酊感を生じさせる。

 降りそそぐ夕日が街並みを包み、今にも建物を溶かしてしまいそうに見えた。

 雑踏。人の声と足音がさざめき、鼓膜に残響をこびりつかせる。

 妙に現実味の薄い午後だった。まるで世界から盟人という存在ががれ落ち、迷い子になろうとしているかのように……。

 そんな光景の中を、盟人たちの方へふらつきながら歩いてくる男がいた。

 男の着ている制服を見て、ドリスが身構える。

「あれ……ギラドの護衛兵じゃない?」

「ああ。でも、なんか様子がおかしい」

 盟人はシアを背後に守りつつも、その場から離れない。

 男の服は、もう長いこと洗っていないのか、よれよれで薄汚れていた。髪はべたついて乱れきっているし、頰は瘦せこけている。瞳は茶色に濁り、唇は乾燥してひび割れていた。

 制服さえなければ、これが護衛兵だとは誰も思わないだろう。

 なにせ、ギラドの護衛兵と言えば、カミシロ・シティでもエリート中のエリート。適齢期の女性たちから熱い視線を一身に浴びる職業だったのだから。

 ギラドが死んだとはいえ、シティの治安を維持するエリートとしての立場は動いておらず、この男のように落ちぶれた風体をさらしはしないはずなのだ。

 男が、よろめく。

 紫色の唇から、ぼたぼたと唾液が落ちた。唾液は黄土色に染まっていて、胸の悪くなるような固形物が幾つも混じっている。

 耳からは赤黒い血が流れ、首筋を伝って地面に滴っていた。

 欠けた指先にも、血が滲んでいる。

「ちょ、ちょっと、あの人ホントにおかしいよ!?

 美穂がさおな顔で叫んだ。

 男は地面に倒れ込み、獣のようなうめきを上げながらいずる。

 その両目から、ダラダラと鮮血が溢れ出した。

 男の口から泡が大量に噴き出す。

 少女たちは悲鳴を上げて後じさった。

 立ち尽くす盟人の上着に、男がすがりつく。

「助けて……たすけテ……くれぇ……」

 老人のようにしわがれた声。

 懇願する男の皮膚に、無数の皺が走った。みるみるうちに顔がしなび、眼球が乾燥していく。

 収縮した唇の皮が裂け、内部から腐った肉がこぼれ落ちた。

 二の腕が縮んでいき、奇妙な角度に曲がって折れる。

 指が木の枝のように細くなっていく。

 全身が灰色に変わり、皮膚が剝げ落ち、露出した血管が破けて体液が噴き出す。

「た……ス……け……」

 男は何度か痙攣した後……、動かなくなった。

 体が盟人から滑り落ちる。額が地面を叩き、その下に紫色の体液が血溜まりを作る。

 商店街に悲鳴が響き渡った。

「これは……」

「待て。リノは見るな」

 グロテスクな死体に歩み寄ろうとするリノを、盟人は止めた。しかし、リノは必死に死体へ近づこうとあらがう。

 シアはドリスと抱き合って目を見開いていた。

「な、なんなのこれ!? なにが起きたの!?

 美穂は混乱しきって盟人の腕を揺さぶった。

 盟人は死体から漂ってくる腐臭に顔をしかめる。

「最近、シティで衰弱死事件が続いているってニュースで言ってたが……」

「まさか、この人も!? きゅ、救急車呼ばないと!」

「いや、もう遅い」

 生者の持つ命の輝きというものを、盟人は男の体から感じ取れなかった。数多あまたの修羅場をくぐり抜けてきた身、死体と生者の違いくらいは一瞬で見分けられるようになっている。

 シアがささやく。

「……私もそう感じます。こうなってしまったら、誰にも救うことはできません……」

「そんな……」

 美穂は真っ青な顔で呟いた。

 商店街の通行人たちは立ちすくんで死体に注目している。通りの店からも従業員たちが飛び出してきて、目を見張っていた。不謹慎にもスマートフォンで写真を撮っている者も多い。

 少し離れた交番から、数人の警察官が走ってきた。

 美穂が盟人の顔を見上げる。

「こ、ここはあたしに任せて、盟人たちは家に帰って! 目撃者として警察に事情聴取とかされたら、いろいろまずいでしょ!?

「どうしてそう思うんだ?」

 盟人は驚いて尋ねた。実際、ギラドの花嫁となるはずだった行方不明の少女と一緒にいるのを警察に見られたら、面倒なことを根掘り葉掘り探られることは間違いない。

 盟人やドリスに関する捜査記録はリノがシティやエデン製薬のデータベースから念入りに抹消したが、叩けばどんなホコリが出るのか知れたものではないのだ。

 美穂は血の気を失った顔ながらも、気丈に笑ってみせる。

「なんとなく。盟人、だいぶ危ないことに関わってるんでしょ。あたしはなにも知らないし、無理に教えてもらおうとは思わないけど……、自分にできる手伝いくらいはしたいよ」

 言って、両手で盟人の背中を押す。

 目の前で人が死ぬところを初めて見て動揺しているだろうに、必死に堪えている。

 盟人は幼馴染おさななじみの少女に感謝した。いつかきっと恩を返さなければならぬと思った。

「……すまん」

 リノの手をつかみ、ドリスとシアを連れて足早に現場から立ち去る。

 タクシーを捕まえるため、国道に繫がる路地を歩いていると、リノが倒れた。

 路面にぶつかりそうになるリノの体を、盟人はとっさに抱き止める。

「お、おい! どうした!?

「だい……じょうぶ……」

 絶え絶えに答えるリノは、誰がどう見ても大丈夫な様子ではなかった。

 苦しそうに息を荒げ、青白い顔がいつにも増して青白い。

 その四肢はだらりと垂れ、まるで人形のようになっている。

 小さなつめの先からは……真っ赤な血が滴を落としていた。

 なにがなんだか盟人には分からなかったが、とにかくここを離れなければならない。

 盟人はしっかりとリノを抱きかかえ、路地を走った。



 リノが自室のベッドに横たわっている。

 微かに漏れる息の他は、生気の欠片かけらも失せている。

 まくらに投げ出された小さな手の平は、軽く折り曲げたまま固まっていた。

 今にも妹の命の火が消えてしまいそうで、盟人は焦りを感じる。

 思い返してみれば、商店街に行く前、タクシーに乗って渋滞に巻き込まれていたときから、既に妹の様子は変だったのだ。

 ぐったりとして、モバイルPCさえ触ろうとしていなかった。普段のリノなら暇さえあればコンピュータをいじっているから、渋滞だろうと退屈するはずもないのだ。

「多分……これで治ると思うのですが……」

 シアが手をリノの頭上にかざした。

 手の平の中に空中から白い粒子が集まり、まばゆい光の塊となっていく。その光は膨らみながらリノの額に降りていき、頭蓋の内部に吸い込まれた。

 リノの皮膚が真っ白に光り輝き、血管の脈動が透ける。

 明滅しながら辺りを照らした後、徐々に光は薄れ、やがて消えた。

 盟人は目を見張る。

「なんだ……その力は……?」

「癒しの力です。簡単な傷や病気なら、一瞬で回復させられるはずです」

 シアは言葉少なに答えた。

 いったいどれだけの魔獣や神獣の力がシアの中に潜んでいるのか、癒しの力を与えているのはどの獣なのか、盟人は気になるが、今はそれどころではない。

 追及するのは後回しにして、リノに尋ねる。

「どうだ? 楽になったか?」

「なにも……変わらない……。リノは……病気でも……怪我けがでもないから……。生命力が……衰えているだけ」

 途切れ途切れの言葉。リノは息をするのがやっとの様子だ。

「どうしたらいい?」

「ソウルジェネレーターが、必要」

「ソウルジェネレーターって?」

 ドリスは心配そうにリノを見下ろして尋ねた。

「ギラドが、カミシロ・シティに配備していた魔導具デバイス生命波リブラをばらまく装置。あれを使えば、生命力を回復できる」

 リノの唇は乾燥していて、声もかれていた。

 盟人はテーブルからスポーツドリンクのペットボトルを取り、リノに差し出す。

「水分を取った方がいい。少しは違うだろう」

「ん」

 リノの開いた唇へ、慎重に液体を流し込む。

 こくっ、こくっ、と小さな喉が音を鳴らし、わずかな液体が唇の端から流れ落ちた。盟人はそれを指の腹でき取り、ペットボトルをテーブルに戻す。

 リノはほうっと息をついた。

「ちょっと……落ち着いた……」

「他になにかして欲しいことはあるか? 水枕でも要るか?」

「水枕は、要らない。それよりキスして欲しい。そしたら元気になれる」

「なんでよ!?

 ドリスは面食らうが。

「……了解」

 盟人はリノの前髪を搔き分けた。いつもは外気に晒されることのない、白い額が姿を現す。愛らしいその曲面に、盟人はそっと唇を触れさせた。

「んっ……」

 目をつむったリノがぴくんと身を震わせ、手の平を握り締めた。

 盟人が唇を離すと、リノは濡れた瞳で盟人を見上げた。ほっぺたに赤みが差す。ほんの少し生気が戻った妹に、盟人は軽く安堵した。ちゃんとキスは効果があったらしい。

「仲良しの兄妹というのは、キスもするものなのですね……」

 シアは両手で口を押さえて目を丸くしていた。

「いやいや、おかしいですよ! 実の兄妹でキスとか! 盟人は変態よっ!」

 ドリスは顔を真っ赤にして腕を振り回す。

 すると、リノがドリスにちろりと視線をやった。

「兄者とリノは、実の兄妹じゃない。血は繫がっていないから、なにをしても問題ない」

「え……じゃ、じゃあ、結婚とかも、でき……」

 ドリスは口ごもった。

「そう、倫理的には結婚とかもできる。リノと兄者はラブラブ」

「つまり、盟人はリノちゃんを異性として好きなの!? 妹と思ってないの!?

 なんだか場の空気が妙な方向へ流れ始めたので、盟人は念のため言っておく。

「リノは妹だ。血が繫がっていようがいまいが関係ない。異性とは思っていないから、変に勘ぐるな」

「そ、そう……そうよね」

 ドリスは胸に手を当てて深々と息を吐いた。

 キリ……と歯ぎしりの音がリノの方から聞こえる。

 盟人が見やれば、リノは変わらず無表情のままだった。歯ぎしりしていると思ったのは気のせいだったのだろうか、と盟人は思う。この妹が感情を表に出すわけがないのだ。

「リノは兄者に添い寝を要求する。ドリスとシアは、出て行って欲しい」

「すみません。眠った方がよろしいですよね」

「盟人、あんまりリノちゃんにベタベタしたらダメだからね!」

 シアとドリスは廊下へと去っていった。

 扉が閉じられ、リノの個室は家族水入らずの空間になる。

 盟人はカーテンを閉めた。スポーツドリンクのペットボトルと、汗を拭くためのタオルと、照明や空調のリモコンを、枕元に揃えて置く。

 そうやって準備を整えてから、ベッドの掛け布団の中に潜り込んだ。先にリノが入っていたのに、布団の中は冷たい。

 リノは体をすり寄せるようにして、盟人の腕にしがみついてきた。甘いミルクの香り、そして花畑のような香りがふわっと漂い、盟人の鼻腔に流れ込む。

「兄者、ごめんなさい。あんなとこで倒れて、兄者に迷惑をかけて。具合も悪くなって」

「気にするな」

「気にする。リノはいつも兄者に迷惑をかけている。リノがいなければ、兄者はもっと自由に暮らせるのに。一人でどこにだって行けるのに」

「だから、気にするな」

 盟人は笑った。

「俺は父さんと母さんと約束したんだ。『どんなことがあっても、必ず妹を守る』ってな。約束は絶対に破るわけにはいかない」

 その約束を交わしたのは、盟人の両親がエデン製薬の健康診断に向かう直前だった。今考えれば、両親はあのとき既に死を予期していたのかもしれないと、盟人はふと思う。

「兄者は……約束に縛られている?」

「いいや、約束にはなんの強制力もない。それを守るのは、飽くまで俺の意志だ」

「兄者の、意志……?」

 ささやく妹の頭を、盟人は撫でた。

 リノに、妹に、自分が負担になっているとは感じさせたくない。幼くして両親を失った盟人が強く生きられたのも、一つは妹という守るべき存在がいたからなのだ。

 リノが盟人の腕をくいくいと引っ張る。

 これはいつも、リノが腕枕をして欲しがるときの仕草しぐさだ。

 盟人が枕の上に腕を伸ばすと、リノは頭をそこへ載せてきた。天才の脳が詰まっているとは思えぬほどの、軽い頭蓋。長い髪が盟人の袖に擦れて音を立てる。

 リノは腕枕に頭を落ち着かせると、ぽつりと呟いた。

「キュウリ……アイス……食べたかった……」

「まだそれを言ってるのか。よっぽど心残りだったんだな」

 盟人は呆れて笑った。

「ん。凄く心残り。どういう味なのか気になって仕方ない」

「じゃあ、また食べに行こう。それでいいだろ?」

「行く。リノとの約束」

「ああ。必ずお前をあの店に連れて行く。約束だ」

 リノと盟人は小指をからめ合った。

 共に過ごし、共に成長してきた時間の中で、二人は何度この儀式を繰り返したか分からない。盟人はリノに無数の約束をし、必ず果たしてきた。

「おやすみ、兄者……」

 指切りをして安心したのか、リノは目をつむった。

 疲れきっていたらしく、すぐに寝息を立て始める。

 そんなリノを眺めながら、いつしか盟人も眠りに誘われていった。