すごいわね……たった三日で家を建て直しちゃうなんて……」

 ドリスは啞然あぜんとしながら、影島かげしま家の自宅を見上げた。

 抜けるような青空から陽光が突き刺し、新しい窓ガラスで照り返している。

 つやつやとした新品の瓦、美しい壁材、猫の足跡一つないコンクリートの床。

 すっかり元通りというわけではなく、若干増築や改造を施しているものの、そこには非の打ち所がない建物が復活していた。

 ギラドとその軍勢の襲撃を受け、完膚無きまでに破壊されたにもかかわらず、だ。豊臣秀吉の一夜城建造に並ぶ、現代の奇跡だった。

 盟人めいとはポケットからかぎを取り出し、玄関の扉の錠前に差し込む。

「これでもうホテル暮らしはしなくて済む。長いこと大変だったな」

「いやいや!? 長くはないって言ってるでしょ!? どうやったのよ、これ!? なんかこう、怪盗王フアントムの力でも使ったの!?

 ドリスは目を回している。よほど驚いてしまったらしい。

 盟人はため息をいてドリスを見やる。

「お前……頭は大丈夫か。いくらおれでも、そんなことができるわけがないだろう。俺は戦闘能力以外はいたって普通の高校生なんだからな?」

「それでは、どうやって再建されたのですか?」

 シアが小首をかしげた。

 盟人は軽く笑う。

「俺はやみの王だと言っただろう。闇社会の住人たちを総動員して、あらゆる違法な技術と資源と人材を使って建て直させたんだよ」

「まあ……盟人様、素敵です」

 シアはしとやかに両手を合わせて感嘆した。

「素敵じゃないですよ、シア様!? ていうかまったく普通の高校生じゃないわよね!?

「ドリスは細かいことを気にしすぎ。リノは早く部屋でのんびりしたい」

 リノがくいくいと盟人のシャツを引っ張った。

「私が……細かいことを気にしすぎ……?」

 呆然ぼうぜんつぶやくドリスをよそに、盟人は玄関の扉を開けた。

 ぐに伸びた廊下、張り直された床。それらが視界に入ると同時に、新しい木材のにおいが鼻腔びくうに流れ込む。

 リノは靴を脱ぎ散らかし、さっさと家に上がった。シアは許可を求めるように盟人を見やる。盟人がうなずくと、小さくお辞儀して靴を脱いだ。

 盟人の脱いだ靴を含め、全員分の靴をドリスがきちんとそろえる。

「さすがはメイドだな」

「ほ、褒めたってなにも出ないわよ!?

 ドリスは自分の体を両腕で抱き締めるようにかばいながら、盟人をにらみつけた。

「なぜそう身構える」

「わ、私を褒めて口説いてるんでしょ!? シア様の前では言えないようなことをさせるつもりなんでしょ!?

「別に褒めてはいないんだがな。ただの感想だ」

「じゃあ褒めなさいよ!」

「……褒めて欲しいのか?」

 盟人が尋ねると、ドリスは悔しそうな顔でそっぽを向いた。どうやら図星らしい。盟人の下心には警戒しているが、評価されないのもさびしいのだろう。

 盟人は皆の先に立って廊下を歩きながら話す。

「ドリス、シア。お前たちに新しい間取りを教えておこう」

「なにか変わったところがあるのですか?」

 シアの問いに、リノがうなずく。

「ん。兄者あにじやの要望にこたえて、リノが設計し直した」

「リノちゃんが……。建物の設計までできるなんて、やっぱり天才なんですね……」

「そう、リノは天才」

 無表情だが、兄の目には心なしか誇らしげに見えるリノである。

 ドリスに対しては(特にドリスの胸に対しては)敵意を示すことが多いが、天使のように無邪気なシアには毒気も抜かれてしまうらしい。

「リビングとかキッチンとかトイレとか、だいたいの間取りは前と同じなんだがな」

 言って、盟人は廊下沿いの扉を開けた。

風呂ふろを拡張してみた」

 扉の先には、ちょっとした銭湯のような更衣室、そして大浴場が広がっていた。

「なんのために!?

 当然の疑問を発するドリスである。

 盟人は鼻で笑った。

「分かっているだろう?」

「分かるわよ! あんたの考えそうなことぐらい、だいたい分かるわよ! 変態!」

「変態で結構。後で俺の背中を流しに来い。奴隷として当然の務めだ」

「こ、この、へんたい……」

 ドリスは涙目になると、な顔でうつむいた。

 実のところ、盟人はドリスがメイドとしてシアの入浴の世話をしやすいように風呂を広くしたのだが、あえてその情報は言わないでおく。なぜなら、誤解させたままの方がドリスの反応が可愛かわいいからだ。

「あとは……そうだな。お前たちの部屋を教えとくか」

 盟人はリビング脇の階段から二階に上った。

 日当たりのいい廊下に沿って、個室が四つ並んでいる。部屋の持ち主ごとに扉は色が異なり、それぞれの名前が刻まれていた。

「ここが、シアの部屋だ」

 盟人が開いた扉の向こうには、上品な内装が広がっていた。

 お姫様が眠るような、天蓋てんがいつきの大きなベッド。

 シアの雰囲気にぴったり合った、真っ白なシルクのカーテン。

 真鍮しんちゆうの金具で優雅な模様が描かれた、クリーム色のタンス。

 猫脚のテーブルには愛らしい花瓶かびんが置かれ、見事な花々が飾られている。

「まあ……」

 シアは胸元むなもとで手を握り締めて立ち尽くした。視線が室内を行き巡る。

 ドリスも驚きの声をらした。

「屋敷のシア様のお部屋そっくりだわ! もしかして……この前、屋敷のお部屋がどんな感じか根掘り葉掘り聞いてたのは、このためだったの?」

「ああ、参考にさせてもらった。女の好みは難しいからな」

「リノは最新スペックのパソコンと遠心分離器を置くべきだとアドバイスしたのに、まったく聞き入れてもらえなかった。これは差別だと思う」

「それは参考にならん」

 不満を表すリノに、盟人は軽く頭をでてなだめる。女の好みが分かりづらいとはいえ、遠心分離器がなにか違うということくらいは分かる。

「そんなことまでしてくださったんですね……」

 シアは目をまばたいて盟人を見つめた。

「で、次はドリスの部屋だ」

 盟人は廊下を歩き出す。

 隣の部屋のドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開いた。

 室内は、女の子らしい家具や調度品で満たされていた。

 ピンクの絨毯じゆうたんに、ピンクのカーテン。

 天井てんじようには星空が描かれ、壁際にはクマのヌイグルミが置かれている。

 クイーンサイズのベッドは、花柄のベッドカバーで覆われていた。

「へー、意外といい部屋じゃない! あんたのことだから、てっきりバーベルとかウォーキングマシンとか置いて、『こういうのが欲しかったんだろ?』って言うのかと思ったわ!」

 ドリスは足取りも軽く部屋に入った。踊るように体を回転させて室内を見回す。

「いや、お前は案外乙女おとめチックなやつだからな。少女趣味全開な部屋がいいと判断した。こういうのが欲しかったんだろ?」

「お、乙女チックゆーな! 女の子ならだれでもこんな部屋がいいでしょ?」

「んーん」

「私は……あまり派手な部屋はちょっと……」

「ええええ!? 私だけ!?

 女性陣から揃って否定され、ドリスは目を潤ませる。

 盟人はドールハウスのような本棚を指差す。

「そこに、有名な恋愛小説も一通り入れておいた。暇で暇で仕方ないときは読むといい」

「い、要らないわよ! そんなに恋愛とか興味ないしっ!」

「じゃあ処分する」

「待って! 一応もったいないから全部読んでからにして!」

 本棚に近づこうとする盟人の前に、両腕を広げたドリスが立ちふさがる。ちらちらと本棚に目をくれているし、やはり興味津々らしい。

「好きにしろ。ま、言っておかなきゃいけないのは、このくらいかな」

 盟人とリノが部屋を出ると、ドリスとシアもついてくる。

 主従の少女たちは、寄り添うようにして廊下に立ち、盟人のことをじっと見た。可憐かれんで小柄なシアと、健康的な魅力のあふれるドリスが並ぶと、まるで姉妹のようだ。

 ドリスはこぶしを握り締め、とても言いにくそうにしながら、言葉を絞り出す。

「あ、あの……ありがとね」

「ん? なにがだ?」

「その……シア様と私のために、専用の部屋を用意してくれたことよ。扉に名前まで彫ってあるし……。なんか……すっごく……ありがとね……」

 たどたどしい表現。

 けれど、ドリスの感謝はしっかりと伝わってくる。

 そこまで喜ばれると照れくさくなってしまい、盟人はほおいた。

「ここはもう、お前たちの家だからな。遠慮せず使ってくれ」

「盟人様……ありがとうございます……」

 シアは唇を結んだ。

 ガラス玉のようなひとみれ、窓の光にきらめいていた。



 白く立ち込めた湯気。

 奇妙な獣の石像が、とうとうと湯を吐いている。光沢のある石造りの湯船は、十人くらいの人間がかれそうなほど広く、いっぱいに湯が満たされていた。

 これだけスペースがあれば、さぞかしのんびりくつろげるだろうと思いながら、盟人は一人で浴場に入る。

 さっきはドリスに背中を流せと言ったが、もちろんあれは冗談だ。盟人はドリスをからかうのは好きだが、そういったことを無理強いする気はない。今頃いまごろ、ドリスはシアと一緒にリビングでチェスでもしているはずだ。

 盟人は鏡の前で椅子いすに腰かけ、タオルを洗面器に置いた。

 さて体を洗おうかと蛇口をひねったとき。

「き……来たわよ……」

 かぼそい声と共に、浴場の戸が開かれた。

 驚いて盟人が見やれば、入り口にドリスが立っている。それも、普段の姿ではない。豊満な体にバスタオルを巻いただけという、明らかに臨戦態勢の格好だ。

 けれど、少女にしては高めの背丈が災いして──盟人にとっては災いどころか幸いだが──バスタオルは全身を覆うことができていない。

 健康的な肉感に満ちた太ももがすそからさらけ出され、もじもじとこすり合わされている。

 バスタオルの上部からは、豊かな双丘が上半分ほどのぞいていて、今にもバスタオルをはじき飛ばしてしまいそうに張り詰めている。

 ごくりと、盟人は唾を飲み込まざるを得なかった。

 奴隷ごときに主人が目を奪われているなどと気付かれるのは困るが、だがしかし、男子としての肉体は自然な反応を示しそうになる。

「なにを……している……?」

 盟人はぎこちなく尋ねた。

「な、なにって、背中を流しに来たのよ。あんたがやれって言ったんじゃない!」

「なんて生真面きまじめ目な奴だ……まさか本気にするとは」

「ええ!? 冗談だったの!? ジャパニーズジョークは分かんないわよ! 私、もしかして脱ぎ損!? 覚悟し損!?

 ドリスは半泣きだった。ハンドタオルを握り締め、いたたまれなさそうに身を震わせている。

 盟人はなぜか申し訳ない気持ちになる。別に自分が悪いわけではないはずなのだが、ドリスにひどいことをしてしまったような、いわれなき罪悪感が生まれていた。

「いや……まあ、そこまで準備したんなら、背中を流してくれ。お前もそのままじゃ、なんか気が済まないだろう」

「気が済まないことはないけど……頑張るわ……」

 鼻をぐすぐす言わせながら、ドリスは盟人の後ろに歩み寄ってきた。

 少女の裸身から放たれる熱が空気を通して伝わってきて、盟人の鼓動が速まる。

 ドリスはタオルをシャワーの湯で濡らすと、ボディソープを垂らし、丁寧に泡を立てた。泡まみれになったタオルを、武器のように恐る恐る構える。

「じゃ、じゃあ、行くわよ……」

「お、おう……」

 まるで一騎打ちの寸前。

 なんでこんなに物々しい雰囲気なのだと、盟人は不可解な状況に疑問を感じる。

「すう……はあ……」

 深呼吸して息を整えるや、ドリスは盟人の肩をタオルで擦り始めた。

 次いで、首筋、背中、腰、足と、肌をみがき上げていく。痛くもなく、かといって力が足りないということもなく、かゆいところに手が届くような見事な強度。

「へえ、上手うまいじゃないか」

「ま、まあね! シア様の体をずっと洗ってさしあげてるもの。こういうこともプロフェッショナルよ!」

 ドリスが胸を張ると、その胸が盟人の背中にぶつかる。バスタオルをかぶっているとはいえ、明らかにそれと分かる弾力性に、盟人は体のしんが熱くなっていく。

 このままでは奴隷にリードを取られる。ペースを自分の側に取り戻さねばなるまいと考え、ドリスの方を振り返った。

「よし、次は前を洗ってもらおうか」

 ドリスの視線が盟人の股間に突き刺さり、目が点になる。

「きゃあああ!? こっち向かないで! ていうかこっちに向けないで! 服を着てええっ!」

「無茶を言うな。ここは服を脱ぐべき場所だろう。いいから早く洗え」

「む、無理よっ! な、なんかっ、コブラみたいだしっ! 威嚇してるしっ!」

 いやいやと首を振るドリス。首まで真っ赤になり、目を手の平で覆いつつも、指の隙間すきまからは穴が開くほど盟人の股間を凝視している。

 興味はあるが、恐怖もある、といった素振りだった。

「仕方ない。だったら、そのうちな」

「う、うん……」

「そのうちならいいのかよ」

「ち、違っ……今のはっ……えとっ……!」

 あわてて言い訳を探すが、なにも見つからなかったらしく、リンゴのように赤い顔をして黙り込む。相変わらずの可愛らしい反応に、盟人は笑みをこぼした。

 ドリスの持っているタオルに手を伸ばす。

「今度は俺がお前を洗ってやろう」

「い、要らない! 私は自分で洗えるから! むしろ盟人がお風呂に入る前に、ちゃんと洗っておいたから!」

「なぜ……?」

 二度も入浴の手間をかけるなど、盟人の頭脳では理解不能だった。

「だって、汚いままじゃ恥ずかしいしっ、お手入れとかもっ、しておきたかったし!」

「準備万端か」

「う、うるさいっ! 四の五の言わずにさっさと前を洗ってお風呂に浸かりなさいよっ!」

 ドリスはタオルをぶんぶん振り回して要求した。歯をぎりぎりとみ締め、いっぱいいっぱいといった表情だ。本当にどこまでも真面目な奴隷だった。

 結局、盟人は自分で股間を洗うという労働を強いられ、湯船に身を沈めた。

 たっぷりの湯が体を包み、筋肉の隅々に至るまで疲れをいやしていく。自宅再建のあいだ泊まっていたホテルはユニットバスだったため、四肢を充分に伸ばせないのが困りものだった。

 ドリスはすすいだタオルを握り締めて、所在なげにたたずんでいる。

 盟人を洗う途中で濡れたせいか、少し寒そうに身を縮めていた。鳥肌が立った太ももが、なんとも生々しく、男の劣情をそそる色気を漂わせている。

「お前も入ったらどうだ? たまには二人でくつろごうじゃないか」

「え? ……ええ!」

 ドリスはうれしそうにうなずくと、濡れた床で滑りそうになりながら湯船に近づいた。

 そうっと片足を上げるドリス。太ももの裏の白さ、ひざの裏のなまめかしさに、盟人は見てはいけないものを見てしまったような気がする。

 ドリスが足の爪先つまさきを、湯船の水面に触れさせた。

 水が足の指に吸い付き、一瞬のためらいの後に足が湯の中に吸い込まれていく。ドリスはバスタオルがはだけないよう手で押さえながら、ゆっくりと湯船に腰を下ろした。

 盟人の視線を浴びるのが恥ずかしいのか、胸の前を両腕で隠す。

「ちょ、ちょっと……あんまりじろじろ見ないでよ……」

 ドリスは消え入りそうな声でささやいた。

「どうして隠すんだ?」

「当たり前でしょ! 人に裸を見られるのなんて、嫌に決まってるじゃない! な、なんか、太ってるなとか、思われるかもだし……」

 縮こまって水中に口を沈め、ぶくぶくと泡を漏らす。顔を見られるのさえ恥ずかしいらしい。

 盟人は笑った。

「太ってるなんてことはないぞ。むしろスタイル抜群だ」

「ふえっ!? そ、そう……?」

 ドリスが弾かれるようにして水中から顔を出し、飛沫しぶきが幾つも盟人の顔にかかった。

「ああ。肌は綺麗きれいだし、プロポーションも健康的に引き締まってる。しっかりトレーニングをやってるお陰だろう。男なら誰だって抱きたくなるはずだ」

「ば、ばか……お世辞にもほどがあるわよ……そんな言葉にだまされないんだから……」

 なんて言いつつも、ドリスは胸を覆う両腕を少しずつ緩めていく。やがて両手を浴槽の底に突き、足を崩して軽く息を吐いた。

「バスタオルも要らないだろ? せっかくの広い風呂なんだから、もっとのびのびとくつろがないともったいないぞ」

「……どうせ、盟人が見たいだけでしょ?」

 ドリスはじろりと盟人を睨む。

 盟人は大きくうなずいた。

「もちろんだ。嫌か?」

「嫌……だけど、奴隷は主人に命令されたら逆らえないしっ……し、仕方、ないわよね……」

 上ずった声で言い、震える手でバスタオルを解いていく。顔を真っ赤にしているが、そこに怒りらしき感情はうかがえなかった。

 きつく巻かれたバスタオルの拘束から、豊満な胸が解放される。それだけで湯船の水位が上がるほどのボリュームに、盟人は目を釘付けにされてしまう。

 ドリスがさらにバスタオルを下ろそうとしていると……、急に脱衣場の方から声がした。

「ドリス、いるのですか?」

「っ!?

 シアの呼びかけに、ドリスが体をこわばらせる。外しかけていたバスタオルを握り締め、かすれた声で返事する。

「は、はい! います!」

「……良かった。なんだかドリスの声が聞こえたもので。私も一緒に入りますね」

「ちょっと待ってください!」

 ドリスの叫びが浴場にわんわんと反響した。盟人は危うく鼓膜を破壊されそうになる。

「え? どうしてですか?」

 シアの戸惑いが、りガラス越しにも伝わってくる。

「そ、その、えっと!」

 ドリスは混乱しきっている様子だった。

 それはそうだと盟人も思う。男と裸で風呂に入っている現場を、昔からの主──家族のような少女に見られるなど、死ぬほど気まずいだろう。

 ドリスが盟人に顔を寄せてささやく。唇が触れ合いそうな距離だが、そんなことを気にしている余裕もないらしい。とにかくあせりまくっている。

「か、隠れてっ……今すぐっ……」

「隠れるって、どこにだ?」

「どこでもいいからっ……水の中にでも隠れててっ……三十分くらいっ……」

「窒息するぞ」

「いいからっ……」

「良くない」

 二人が言い合っているうちに、シアが引き戸を開けた。心配そうに浴場を覗き込む。

「……ドリス? 大丈夫ですか? のぼせてしまったのですか?」

「きゃあああああああっ!?

 パニックになったドリスは、実力行使で盟人を隠した。

 すなわち、両腕で盟人の頭を抱き寄せ、包み込むことで。

 必然として、盟人の顔はドリスの胸に押しつけられる。

「────────────────────!!

 盟人の口から驚きの声が漏れそうになるが、ドリスが漏らさせない。渾身こんしんの力で盟人を抱き締め、弾力性溢れる乳房で鼻と口を圧迫する。

 夢のようにきめの細かい肌に包まれ、果物のような甘酸っぱい匂いが盟人の鼻に流れ込んだ。

 むにむにとやわらかい肉が、ひたすら盟人を攻め立ててくる。

 盟人の鼻先は胸の谷間にがっちり挟まれてしまっていて、抜け出すことができない。いや、抜け出せない。

 訓練で鍛えられたドリスの肢体はみずみずしさとハリに満ちていて、そのからだと密着しているのは、至福の一言だった。この甘美な地獄から抜け出せる男がいるはずもない。

「ド、ドリス? 悲鳴を上げるほどですか? 驚かせるつもりはなかったのですが……」

「す、すみませんっ! ちょっと取り込み中だったものでっ!」

 ドリスは胸に盟人を抱きすくめたまま答える。

「取り込み中というと……お手入れでもしていたのですか? それなら別に……」

「え、えっと、手入れではないんですけどっ……はああああん!」

 息苦しくなった盟人が口を動かした拍子に、唇が当たったのかドリスが甘い声を漏らす。びくびくっと躰を痙攣けいれんさせ、さらに腕に力を込めて盟人を抱き締める。

「本当に大丈夫ですか……? 具合でも悪いのですか? 治癒しましょうか?」

 盟人が呼吸をする度に息が胸にかかり、ドリスは身を震わせながら懇願する。

「だ、大丈夫ですっ……んんっ……大丈夫ですからっ……あああっ……すぐ上がりますからっ……くううんっ……リビングで待っていてくださいっ……お願いしますっ……ああ……」

 甘い声の響き。

「わ、分かりました……無理せず早く上がってくださいね……」

 シアは浴場の引き戸を閉めた。ためらいがちな足音が、遠ざかっていく。

 ドリスが盟人を解放する。盟人はようやくまともに息ができるようになり、肺の奥まで酸素を取り込んだ。顔が熱くてしょうがない。

 見れば、ドリスも頰を火照らせ、はーはーと息を荒げて口からよだれまで垂らしていた。決して盟人に触らせまいとするかのように、再び胸を覆い隠してしまっている。

「うううう……絶対、シア様に変な子だって思われたわ……」

 泣き声で嘆くドリスを見て、盟人は笑う。

「気にするな。シアは変なお前だってちゃんと受け止めてくれるさ」

「死ぬ……私、もう死ぬわ……」

 水中に泡を上げながら、ドリスは湯船に沈んでいった。



 かつて盟人とガイが死闘を繰り広げたリビングは、綺麗に建て直され、居心地の良い団らんのスペースとなっていた。

 カウンター越しにシステムキッチンが見え、冷蔵庫が小さな駆動音を鳴らしている。

 リビングには分厚い絨毯が敷かれ、五人分のソファも置いてある。盟人とリノ、ドリスとシア、そしてよく遊びに来る美穂みほの分だ。

 盟人がリビングに来たとき、ドリスとシアはいなかった。盟人が風呂を出た後、シアが入浴すると言い、ご苦労にもドリスはもう一度風呂に入ることになったのだ。

 これで今日、ドリスは合計三回入浴することになる。体がふやけてしまいはしないだろうかと盟人などは思うが、本人の好きにさせておいた。

 リビングにはリノだけがおり、ソファでぼんやりとテレビを眺めている。

 テレビに映っているのは、本日何度繰り返されたかも分からないニュースの詰め合わせだ。朝のニュースは昨夜の残り物、昼のニュースは鮮度が抜群で、夜のニュースは一日の総決算とも言うべき詰め合わせになる。

 深夜にそんな番組が流れているのを何気なく見ると、盟人はけだるさと共に一日の終わりを感じる。どことなくアナウンサーの表情が疲れているのも、深夜ならではだ。

『カミシロ・シティで相次いでいる衰弱死事件。遺体の不可解な状況に、警察は死因の究明を急いでいますが、いまだ原因は分かっていません』

 単調な説明文の後で、自称・専門家たちへのインタビューに切り替わる。

『そうですねえ……衰弱というのは、様々な理由で起こり得ることですからねぇ……医学の分野からは、こう、一つの原因を特定するというのは、なかなか難しくてですねえ……』

 意見を求められているのに明言を渋る医者。

『すべては食生活が問題なんですよ。要するに、玄米菜食。これに限ります。食品添加物に汚染された人間は、衰弱もするというものですよ』

 やつれきった顔で健康について語る、なにがしかのプロフェッショナル。

『母親の教育が悪かったんでしょうなぁ。事件を起こすのは、大抵それがいかんのですよ』

 質問の意図さえ理解せず、とんちんかんな返答をする教育研究者。

 どの専門家も、番組の時間稼ぎにしかならないようなことばかりしやべっている。

「この番組……面白おもしろいか?」

 盟人がソファの後ろから尋ねると、リノは首を振った。

「退屈。るのが苦痛」

「じゃあなぜ観てる」

「義務感」

「妙な義務感を抱くな。つらいならやめればいいだろう」

「それでも辞められないからブラック企業は存続する」

「どうしてブラック企業の話になった……?」

 盟人はあきれながら、リノの隣に腰かけた。しっかりとしたスプリングが、二人の体重を頼もしく吸収してくれる。

 せっかくスペースがたっぷりあるのに、リノはわざわざ盟人の膝によじ登ってきた。

 小さなしりを擦りつけるようにして体を動かすと、座り心地の良い位置を見つけたのか、盟人の膝の上にすっぽり収まって息を吐く。

「ソファに座ればいいのに」

「兄者の膝がリノの特等席。リノはここが一番落ち着く」

「しょうがない奴だな」

 いつまでっても兄にべったりの妹だが、そうやって愛情不足を補っているのかもしれないと、盟人は思う。まだまだ十歳といえば両親に甘えていたい盛りなのに、リノと盟人は二人きりの家族なのだ。

 華やいだ足音と共に、シアとドリスがリビングに戻ってきた。

 シアは盟人を椅子代わりにしているリノを見て微笑ほほえむ。

「ふふ、盟人様とリノちゃんは今日も仲良しさんですね」

 リノはこくりとうなずく。

「ん。リノと兄者は仲良し。トリメチルベンゼンとメタンカルボンアミドのような関係」

「どういう関係なのか分かんないわよ!」

 ドリスはキッチンに入ってヤカンをガスコンロにかけた。

「大丈夫。ドリスも大きくなって賢くなれば分かる」

「え……それって、私が馬鹿ばかだって言ってるわけじゃないわよね? ね?」

「そう受け取ってくれても構わない」

「構うわよ! 馬鹿だと思われたくないわよ!」

 涙目のドリス。

「ドリスとリノちゃんも、ずいぶん仲良くなりましたよね。このお家では……屋敷にいた頃よりもドリスがのびのびしている気がします」

「そ、そうですか……?」

「ええ。きっと、盟人様たちのお陰ですね」

 シアは盟人の隣へ静かに腰を下ろした。さすがは生粋きつすいのお嬢様と言うべきか、その動作は果てしなく優雅で、ソファはまったくきしみもしない。

 風呂上がりの濡れ髪はつやがあり、細い首筋に毛先がり付いていた。

 頰が少し紅潮しているのが愛くるしく、そしてかすかな色気を感じさせる。

 華奢きやしやな体から漂ってくる甘い香りが、盟人の鼻をくすぐり、胸をうずかせる。

「……盟人様」

 まるで春のそよ風のような声で、シアがささやいた。

 そのあおい瞳で見つめられると、盟人はわずかに居心地の悪さを感じる。

 決して不愉快なのではない。シアと同じ空間を共有できるのは嬉しいし、共有したいとも思うのだけれど……、彼女とのあいだには因縁が深すぎて、落ち着かないのだ。

 盟人が身じろぎすると、リノがきゅっと手の平を握り締めた。なぜかシアと目を合わせようとせず、明らかに反対方向を見ている。

「どうした、シア?」

 盟人は尋ねた。

「ありがとうございます、ドリスや私に、こんな楽しい生活をさせてくださって。ここで盟人様と一緒にいると、つらかったこととか、怖かったことが、全部消えていく感じがします」

「それは良かった。完全に忘れるのは難しいだろうが……、俺のそばにいればお前が傷つくことはない。安心して生きろ」

「はい……!」

 シアは嬉しくてたまらなさそうに微笑み、盟人の片腕にそっとしがみついた。やわらかな頰を寄せ、安堵あんどしきったように目をつむる。

「……ここはリノの特等席なのに」

 リノが呟くと、シアは慌てて盟人から体を離した。

「あっ、ごめんなさい。私ったら、つい……」

「分かれば、いい。でも、あんまりベタベタするのは困る」

 兄を独り占めできないのが不満なのだろうか、と盟人はリノの嫉妬を可愛らしく感じた。とはいえ、ドリスに対するのとは違い、だいぶ態度は穏やかだ。

 それは盟人も同様で、ドリスのことはいくらでもいじれるが、シアのことはそう簡単にはからかえない。高級感というか聖域というか、気安く触れてはいけない空気があるのだ。

「できましたよー。寝る前にカフェインは良くないので、ココアにしました」

 ドリスが丸いトレイにティーカップを載せて運んできた。

 シアの席から順番に、湯気を上げるカップを置いて行く。肉体派の強気な少女なのに、職業柄か、こういった仕事をしているときは実にイキイキとしている。

 シアはココアを上品にすすり、美味おいしい、と小さく呟いた。

 ティーカップを静かにテーブルに置く。

 それから、表情を引き締めて顔を上げた。

「両親と……、話をつけないといけませんね。いつまでもここでこうしているわけには……」

「ええっ!? 屋敷に帰るんですか!?

 ドリスは目を見張った。

 やたらとショックを受けている様子のドリスに、盟人はちらりと視線をやる。

「お前は屋敷に帰りたくないのか?」

「い、いやっ、帰りたくないっていうか、私は盟人の奴隷だしっ、ちゃんとご奉仕するって約束しちゃったしっ!」

「そんなにご奉仕したいのか」

「違うわよ! したくないわよ! でもっ……盟人がっ……盟人がっ……うう……」

 トレイを胸元に抱き締めて涙ぐむドリス。言葉とは裏腹に、本音は見え見えだ。そこまでこの家を気に入られると、盟人としても満更ではない。

 シアはおかしそうに笑った。

「私だって、盟人様のおうちを離れたくはありません。そうではなくて、堂々とここで暮らせるように、両親と話をしたいのです」

「あ……なんだ……そういうことですね……」

 ドリスは胸を撫で下ろした。

「結婚式から逃げ出してから、私はまだ世間的に行方ゆくえ不明ということになっていますし。無事に生きていることを、両親に報告しておかないと。……決着をつけなければ」

 シアは唇をきつく結んだ。

 自らの意に反して結婚をさせられそうになった令嬢。その結婚に、シアの両親は諸手もろてを挙げて賛成していた。

 もし両親がシアの気持ちを理解し、飽くまでギラドに抵抗していれば、少しは流れが違ったのかもしれない、と盟人は思う。あのギラドなら、両親を殺してでもシアを手に入れようとしただろうけれど。

 とにもかくにも、盟人とギラドの戦いは終わったが、シアの闘いは終わっていないのだ。

 盟人は軽く息を吐く。

「……そうか。心細かったら、俺もついていくぞ」

「はい、お願いします。盟人様のこと、両親に紹介もしないといけませんから」

 シアは頰を染めてうなずいた。



 青々と茂った針葉樹の森。

 そのあいだを縫うようにして切り開かれた道があった。

 蛇行する道の奥には、立派な門がそびえ立ち、堂々たる洋館が待ち構えている。

 三階建てに、三角屋根、全世界の少女があこがれるようなバルコニーも揃っている。

 敷地内には見事な庭園が広がり、色とりどりの花が咲き乱れていた。

「うわーっ、凄いね! 凄いお屋敷だよ! シアちゃんってホントにお嬢様なんだね!」

 タクシーから降りた美穂は目を輝かせた。

「お前は来る必要なかったんじゃないか……?」

 疑問を投げかける盟人に。

「だって、お嬢様のお屋敷って一度は見てみたいじゃない? それに、盟人のおねえさんとして、盟人が失礼なことをしないようにカントクしとかないといけないしねっ!」

 美穂は腰に手を当て、偉そうに胸を張る。

 ドリスが首を傾げた。

「美穂って、盟人の姉だったの?」

「そういうわけじゃない。こいつが勝手にそう思い込んでるだけだ」

「まあ……では、記憶喪失かなにかなのですか?」

 シアは心配そうに眉根まゆねを寄せた。

 美穂は慌てて訂正する。

「そういうわけでもないよ! 昔っから盟人はなんか危なっかしいから、あたしがお世話しとかないといけないの。だから、おねえさんなんだよ!」

 うんうんとうなずくリノ。

「美穂は信用できる姉代わり。変態的な誰かと違って、兄者を誘惑したりしない」

「誰かって、誰かしら!? 変態ってなんのこと!?

「心当たりは、ありゅはじゅ……」

 リノとドリスはお互いの口を引っ張り合いっこして争っている。

 相変わらずの光景。ケンカするほど仲がいいということわざもあるが、この二人にはあまり当てはまらない気がする盟人である。