早く酒が飲みたい。

 キャンディス・イーグルはそう思いながら、黒タイツの脚を組み替えた。

 上司と一緒に乗った車で渋滞に巻き込まれることほど、彼女にとって退屈なことはない。

 会話ははずまないし、景色くらいしか見るものはないし、とにかく酒が飲みたい。できればブラを外して、この窮屈なスカートも履き替えて、ひたすら美食と美酒に溺れたかった。

 車の窓から見える都市の夜景は、収穫を待つ麦畑のように熟れきっている。

 カミシロ・シティの中心部。

 縦横無尽に張り巡らされた高架道路を縫って、高層ビルの群れが天を貫いている。

 色とりどりの光が街に散らばり、消費されているカネと、ヒトと、エネルギーの膨大さを、これでもかと誇示してくる。

 夜を染めるヘッドランプ。車に乗っている者や、道行く人々は小綺麗こぎれいなナリをしており、満ち足りた幸福の表情を浮かべていた。

 十賢老じゆつけんろうの一人、エデン製薬の会長のギラドが消えたというのに、カミシロ・シティは平和そのものだ。

 エデン製薬はいまだにせっせと幸福薬マナタブレットを供給し続けているし、官僚組織は日本地区の運営を順調に続けている。

 だとすれば王たちはなんのためにいるのだろうかと思いながら、キャンディスは向かいの席の男を眺めた。

 ぱりっとしたスーツに身を包んだ、長身瘦軀そうくの男。

 切りそろえた髪を真ん中で分け、ネクタイをきっちり締めている。薄い唇と細長い鼻筋は整っているものの、そこに美はない。

 あるのはただ、機械のような無機質さ。

 装飾性の欠片かけらもない楕円型だえんけい眼鏡めがねには、男が操作しているノートパソコンの光が映り込んでいた。レンズの向こうで動くひとみには、ぞっとするような冷たい光が宿っている。

 男の名前は、アラン・スチュワート。

 世界の工業製品の九割を製造するバベル工業の社長にして、十賢老の一人。キャンディスは彼の補佐官を務めている。

 男前な上司ではあるけれど、キャンディスは彼と恋仲になりたいとは少しも思わなかった。色気や面白味おもしろみというものを感じないのだ。キャンディスにとってアランは上司、金をくれるだけの存在。それ以上でも以下でもない。

 と、キャンディスの手元にある端末に光がともった。

 赤色で、三回連続。そのパターンが何度も繰り返す。

 キャンディスはだるさを覚えながらアランに声をかける。

「……社長。十賢老の方たちから通信が入ってますよ」

「気にするな。彼らと話している時間なんてない」

 アランは無表情なまま、キーボードをたたき続ける。恐らくは、彼の支配するエリアやバベル工業への指示を出しているのだろう。

「でも、緊急通信みたいですよ。無視したら後が面倒なんじゃないですかねー。面倒なのはごめんですよ」

「仕方ない。つないでくれ」

 アランはうんざりした様子でパソコン画面から顔を上げた。

 キャンディスが手元のボタンを押すと、前の座席との仕切りに設置された大型ディスプレイに、幾つものウィンドウが並ぶ。

 それぞれのウィンドウに表示されているのは、十賢老のお歴々だ。

 硬いプラスチックの向こうから、まとわりつくような視線を浴びせてきている。その視線の糸にからめ取られたら、どんな偉丈夫いじようふでも足を取られ、がんじがらめになり、身動きの一つもできなくなる……そんな視線だ。

 キャンディスは彼らに生理的嫌悪を感じた。

 上司のアランのこともいけ好かないやつだとは思うが、それが複数集まって敵意を向けてきていると、もはや始末に負えない。

 もし彼らがその気になれば、キャンディスなどたやすく消し飛ばしてしまえるだろう。社会的にも、物理的にも。

 だが、今の彼らがにらんでいるのは……キャンディスではなくアランだ。

 世界政府の管理者を自称する王たちが、口々に言う。

『アラン……日本地区は当面のあいだ不可侵にするということで、話がまとまったはずだ』

『空白の領土を巡って我らが争えば、世界が焦土になるのは必然』

『共倒れになるのは、なんとしても避けねばならない』

『だというのに、なぜお前はそこにいる?』

『我らを裏切り、ギラドの土地を手に入れようというのか?』

『直ちに日本地区を出なさい。平和を望むのであれば』

『我らの繁栄のために』

 ざらつくような、悪意に満ちた声音。

 それがキャンディスの鼓膜をいずり、め回して絡みついてくる。

 要するに彼らは、アランが抜け駆けをしようとしているのではないかと疑っているのだ。

 もしもギラドののこした領土をだれかが独占すれば、十賢老のパワーバランスは崩れる。それは血で血を洗う世界大戦の始まりとなるだろう。だからこそ、十賢老は日本地区をかつての南極のような禁域にしようとしているのである。

「……どうぞご心配なく」

 アランは指で眼鏡の位置を直しながら、くすりと笑った。

「私が日本地区を訪れているのは、ただのビジネスですよ」

『ビジネス……?』

 十賢老の一人が、怪訝けげんそうに眉根まゆねを寄せた。

 アランはにこやかにうなずく。

「ええ。ギラドとはずっと密に取り引きをしていましたのでね。製品の流通についても、研究協力についても、一度現地の責任者たちと話をしておこうと思ったわけです。ギラドが消えた程度で彼らとの繫がりが消えては、私も大きな損害をこうむりますから」

『ふむ……野心はないと申すか』

「野心だなんて、とんでもない。皆さんの末席である若輩者の私が、これ以上の増長を望んでは罰が当たるでしょう。私は平和に自分の領土を守れれば、それでいいのですよ」

 モニタの光を反射したレンズのせいで、アランの表情は読み取りづらい。

 その全身から嘲笑あざわらうようなオーラが出ているのを感じられるのは、同じ空間で密閉されているキャンディスだけだ。

『ならば……よしとしよう』

『くれぐれも我らを裏切らぬよう、気をつけよ』

『ギラドの二の舞を演じたくないのであればな』

 渋々といったふうに、大型ディスプレイから次々と十賢老の姿が消えていく。けれど、その目から決して疑惑の色は消えず、後ろ髪を引かれているのがありありとうかがえる。

 全員が去り、モニタの電源が切れると、アランは鼻で笑った。

 口角をつり上げ、首をそらしてディスプレイを見やる。

「臆病な老人共だ。そうまでして平和が欲しいかね」

「まあ、戦争はめんどくさいですからねー」

 キャンディスはほおく。世界大戦になったところで、自分がほかの人間に後れを取るとは思っていないけれど、平和でなければ酒を思う存分飲むことだってかなわない。

「合理的に考えれば、今のチャンスを逃すのは愚かしい行動であることぐらい、誰だって分かるだろうに。見たまえ、この素晴らしい獲物を。麗しき日本を……」

 アランは車窓から都市を見下ろし、舌なめずりするようにしてつぶやいた。