「やぁ、パパ。さっきはよくもやってくれたね」

 兼崎は体を半回転させて真糸に向きあう、挟撃きょうげきされた形だ。後ろには〝誘拐屋〟がいる。兼崎は真糸が動けるとは思っていなかった。しかし、予想してしかるべきだった。真糸は、ある意味、終雪の研究の最終成果なのだ──そんなにヤワなわけがない。もっとも、結論は『低コストで性能の高い兵士を作り出すには教育』という身もふたもないようなものだったが。

 真糸が兼崎の腹部──先程、あばらを折ったところに向けて、再度蹴りを放つ。兼崎もなんとか反応し、身を固め、腕でガードを試みる──が、真糸の足は腹部には向かってこなかった。彼女は非常にすべらかな動きで足をほぼ垂直に上げると、兼崎の足に向けていっきに振り下ろしてきた。革靴の上からだというのに足の親指の骨を砕かれる。

「ぐっぅ……!」

 あまりの痛みに勝手に声が出る。

「──お前は絶対に許さない」

 真糸が冷徹な声で言う。きっと、彼女が許さないのは、自分の怪我のことではなく、六根雫のことなのだろう。

(あのガキはなんでこんなに好かれてるんだよ……)

 兼崎はこの状況にそぐわない感想を抱く。あまりにも危機的状況すぎて、思考がおかしくなってしまっているのを自分でも感じる。それでも、兼崎はなんとか、逃げる方法を考える。しかし、前も後ろも塞がっている。絶体絶命だ。後ろからは深草ふかくさ斜が近づいてきている。

 だが、そのとき──。一つの脱出経路が生まれた。コングロマリットが到着したのだ。兼崎には、どういう原理か分からないが、コングロマリットは、必ず兼崎の元に帰ってくる。

 コングロマリットの気配に気付いた真糸が振り向く──しかし、遅かった。きっと、拳銃を持っている自分が目の前にいたため、振り向くのを躊躇ためらったのだろう。その一瞬がすべてを分けた。コングロマリットが振り向いた真糸の頭を鷲づかみにして、路地の壁に思い切り、叩き付けた。正直、自分の娘のこんな姿を見るのは果てしなく最悪だったが──仕方ない。

「コングロマリット、六根雫を殺せ」

 兼崎はそう命令して逃げ出すことにした。こう命令すれば、これ以上、不器真糸が襲われることはない。あの一撃で真糸が死ぬということはないはずだ。これで彼女は助かる。そして、コングロマリットは余計な人間を殺さない。

 これで、すべてが終わる。

 コングロマリットは『低コストで性能の高い兵士』ではない。『コストパフォーマンスは悪いがとにかく強い兵士』の試作機だ。失敗作ではあるが──次元が違う。

 兼崎は、あばらも足の指も痛かったが、〝誘拐屋〟の二人がコングロマリットと睨みあって動けなくなっているすきに、なんとかその場から逃げ、人気ひとけのないところまで移動した。彼はそこで、へたり込み、うなだれる。怪我のせいで、寒いのか熱いのか分からなくなる。大きく呼吸して、とりあえずは気持ちを落ち着ける。

 しかし、全然鼓動は鎮まらないし、汗もとめどなく流れ続ける。

 兼崎は仕事上、威圧感を出すためにサングラスをかけたり、口調を強めにしたりしているが──実際はそんな人間ではない。この仕事に就く前は研究所の事務員だったし、今だって事務兼営業みたいなもので、そこら辺のサラリーマンと何一つ変わらない。拳銃だって、一発目は勢いで撃てたが、今は手が震えてしまっている。多分、もう当たらない。

 しかし、兼崎には撃たなくてはならない理由があった。

 兼崎は、雫のような人間を〝バグ〟と呼び──そういう人間を社会から隔離する仕事をしている。政府が買い取った無人島にそういう人間を集め、〝村〟を作らせ、生活させている。

〝村〟には二つの役割があった。一つは社会の脅威を取り除くことで、もう一つは〝バグ〟の研究だ。

 だが、雫のようなサンプルは危険すぎると判断され、研究よりも安全を重視し、処分されてしまう可能性があるのだ。しかも、信じられないことに、処分が始まると当該人物だけではなく、同じような危険度に分類される人間までもがまとめて処分されてしまう。

 実際、兼崎が仕事を始めてから、そういうことが二度あった。二回で六人が殺された。

 今回は、それどころか〝村〟ごと消されるかも知れない。〝バグ〟の研究はほとんど進んでおらず、成果が上がっていないのだ。〝村〟の人間は、ぎりぎり生かされている状態なのだ。

 もし、兼崎がここで雫を殺し、噓の報告書でも上げれば〝村〟の人間はまだ生き延びられる。

 ──もちろん、雫が危険だからといって〝村〟の人間を処分するという判断が下されるとは限らない。しかし、あんな経験は二度としたくないのだ。

 兼崎は週一回〝村〟に物資を届けるついでに彼らの様子を見にいっている。

 処分があった次の週の訪問は──最悪の記憶だった。先週まではいた人間が、いなくなっているのだ。何事もなく、葬式を上げられることもなく──その人間は、ただ、いなかったことになるのだ。

 兼崎は毎週〝村〟の人間と会わなければならないのに──兼崎には処分の決定権がない。ただ彼らが消されるのを見ることしかできない。

 だが、本当に最悪なのは自分が何もできないことではなく──〝村〟の人間の誰も彼もが『兼崎さんのせいじゃない』と、諦めたように力なく笑うことだった。彼らは、死にたくないとも助けてくれとも言わないのだ。それどころから、『〝村〟で幸せな生活を送れたから良かった』とか言い始める始末だ。兼崎は、それがたまらなくいやだった。

 だから、六根雫は殺さなくてはならない。

 六根雫の問題は過去二回の事件よりも遥かに規模が大きい。人死ひとじにこそ出ていないものの、三十人以上がおかしくなってしまったのだ。

 そして、雫が終雪の手に渡っても同じだ。あの人間は絶対にこの少女を悪用する。不器終雪は最悪な人間だ。すべての選択の理由が遊び半分なくせに、保身だけは人一倍だ。常に安全側から他人をあやつって楽しんでいるような人間なのだ──少なくとも兼崎はそう思っている。

 娘──不器真糸だって、だまされて生まされた。兼崎は終雪と愛しあっていると思っていた。しかし、終雪にはそんな気持ちは一切いっさいなかった。彼女にあったのは、子供を産み、その子供を自分の望むままに育ててみたいという好奇心だけだった。兼崎は、たまたま近くにいた男だから終雪に選ばれ、利用されただけだった。

 兼崎は折られたあばらをさする。

(病院に行くのはすべてを見届けてからだな)

 もちろん、少女の死体など見たくはないが──確認しないわけにはいかないだろう。

 突如、兼崎の視界が暗くなる。影だ。兼崎は顔を上げて影のぬしを見る。それは、不器終雪だった。兼崎はすぐに立ち上がろうとする、しかし、途中まで腰を上げたところで、足の指に激痛が走り、尻餅しりもちをついてしまった。

「相変わらず、雑ね──色々と」

 終雪はにやにやと笑っている。娘が撃たれたというのに怒ってすらいない。

「コングロマリットが来た、もう俺の勝ちだ。俺を殺したって意味ないぞ」

「──? 殺す? 誰が?」

「てめーがだろ?」

 終雪は声を上げて笑う。

「娘の父親を殺すわけないじゃない? 今度、三人で食事でも行きましょう」

「頭おかしいんじゃねーのか?」

 言ってから、兼崎はこの言葉に意味がないことを思い出した。この女は自分がおかしいことぐらいとうに承知している。不器終雪はそういう人間なのだ。ある意味、純粋で──裏表なんてまったくない。自分の望みにはとことん忠実だし、自分の汚さとも鏡でも見るかのように向かいあっている人間だ。

「一つけをしない? どっちが勝つか?」

「はぁ?」

(そうか、こいつは真糸のこと知らねーのか)

「残念だったな、てめーの娘はもう終わりだ。死んじゃいないが、戦えない」

「そう。で、あなたは誰に賭ける?」

「俺の話を聞いているのか? 真糸は戦えないんだぞ? ……何を賭けるかが決まってないが、俺が賭けるのはコングロマリットに決まっている」

 コングロマリットは兼崎にとって、世界で一番信頼の置ける男だ。

「あっそう。じゃあ、私は真糸に賭けるわ。賭けるものは六根雫ね」

(くっだらねー)

 こんなもの、賭けではない。ただ、これから起きる状況と結果を確認しただけだ。コングロマリットが勝てば、六根雫はもちろん、兼崎のものになる──というか、死ぬし、万が一、真糸がコングロマリットを倒せば、六根雫は不器終雪のものだ。

「じゃあ、結果が出るまで昔話でもしましょうか?」

「断る。せろ」

 そんな、兼崎の言葉にも、終雪はただ微笑むだけだった。



 春はまず、やらなくてはならないことを整理する。

 第一は、六根雫の安全を確保することだ。

 次に、あそこで気を失っている不器真糸の回収と応急処置。今はまだ生死にかかわる状況ではないだろうが──あの出血、長くはたない。

 最後はコングロマリットを止める──いや、止めさせることだ。

 この三つをしなければならない。事前にコングロマリットを撃退しなければならないと分かって、準備をしていたのならば、コングロマリットをどうにかできたであろうが──今は何も準備がない。準備にしても、ある程度のトラップ、それなりの銃を装備した人間を数人、そして車を二台ほど用意するのが倒せる最低ラインだろう。もちろん、こんなものを短時間で用意するのは無理だ。つまり、コングロマリットを止めるには兼崎に止めさせるしかない。

 こっちでまともに動けるのは自分と斜だけだ。雫を一人で逃がすのは怪我もあり、無理だ。

 そして、真糸の怪我の処置は自分にしかできない。斜にはあそこまでの怪我の処置は教えていない──つまり、斜に雫を守らせるしかない。

 これらのことはすべて、頭では理解できている。

 だが、それでは、斜と雫の助かる可能性が限りなく低い。しかし、自分と斜の役割を入れ替えたところで、コングロマリットに対する勝率はほとんど変わらない上に、真糸が助からない確率は上がる。すなわち、最良の選択肢は斜に全力で雫と逃げてもらい、自分が真糸に処置をし、救急車を呼ぶなりしたあと、装備を整え、斜に加勢することだ──最良ではあるが、ほぼ実現不可能な選択肢だ。斜と手負いの雫がコングロマリット相手に逃げ切れるわけがない。

 だが、春にはもう一つ案があった。

 雫をててしまえばいいのだ。

 そうすれば、真糸は助かるし、自分と斜にも被害はない。

 しかし、それはできない。

 春は、別に、六根雫を助けたいわけではない。彼女は自分にとって、見捨ててもいい人間だ。

 春にとっての問題は斜に見損なわれるということだった。人命がかかっている状況だが、春にはそれが一番の懸念けねんだった。自分は常に斜にとっての手本でなくてはならない。

 ──春は斜の面倒を見ると決めたのだ。彼にとって尊敬できる人間になろうと決意したのだ。こんなところでその決意をくつがえすわけにはいかない。この程度の事態で決意を覆すのならば──最初から人の面倒なんて見るべきではない。何より自分自身がそういう人間にはなりたくない。

 だから、

「私は真糸を助ける。斜は雫を連れて逃げろ。すぐに私も行く」

 と、命令し、コングロマリットの方──不器真糸の方へ駆け出した。

 案の定、コングロマリットは自分を無視して、六根雫の方へ歩き出した。

 春は後ろを振り返らず、下唇をきつくみしめながら、救急への連絡を開始した。



 斜は春に言われたとおり、雫をおぶって逃げる。しかし、このままでは逃げ切れないと分かっていた。明らかにこちらの方が遅いので、すぐに追い付かれるだろう。

 斜は打開策を考える。

 だが、雫を連れたまま、コングロマリットの追跡を振り切る手段は思い付かなかった。自転車を手に入れたって──怪我をした雫を乗せて速度を出すのはリスキーすぎる。彼女を走行中落としてしまったら、それこそ終わりだ。タクシー、バス、電車は多分、乗り込むタイミングで襲われる。つまり、自分がどこかでコングロマリットを止めなくてはならない。しかも、雫を守りながら。そして、これ以上逃げてしまったら、春が自分たちを見つけられなくなり、応援が期待できなくなる。

 そのことはコングロマリットも理解しているのだろう。彼は追い付こうとするよりも、二人を追い詰めるように追ってきていた──完全に逃げ道をなくそうという魂胆こんたんだろう。

 斜は少し広めのコインパーキングで雫を降ろし、車の陰に隠す。コングロマリットを迎え撃つ場所としてコインパーキングを選んだのは狭い場所で【間合い】が取れなくなるという事態を防ぐためだ。

「……斜」

 後ろから雫が不安そうに言った。

「大丈夫だ。絶対になんとかする」

 と、斜は返す。もちろん、全然大丈夫じゃない。しかし、ここで弱音を吐くわけにはいかない。彼女を助けるには、自分が彼女に信じてもらえる人間にならなければならない。

 コングロマリットが現れる。

 斜はすぐに【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取る。雫を守るためにはまず、コングロマリットが雫を攻撃できない状況──コングロマリットが自分を無視できない状況を作らなければならない。

 斜は警棒を握り──コングロマリットに向かって突っ走り、その勢いのまま、彼の側頭部向け、警棒を振り抜く。

 コングロマリットはモロにそれを食らう。そもそも【最適な間合いバッド・ディスタンス】からの攻撃だ。けられるわけがない。しかし、警棒が側頭部を直撃したというのに、コングロマリットにはダメージがないようだ。まるで、ゴムボールがぶつかったかのような反応しか示さない。

 コングロマリットは目をぎょろっと動かし長い髪の隙間すきまから斜の方を見て、立ち止まった。

(──これで、僕を狙ってくれれば……)

 少なくとも、自分が倒れるまでは雫を守れる。

 斜はまた【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取り直し、コングロマリットと向きあう。

「あ、ああ、あ、あ」

 コングロマリットが斜と視線を交差させながら声を出した。

 斜はコングロマリットの声を初めて聞いた。だが、その声はただの音で、ひたすら無意で──声帯を空気で揺らしただけのものだった。

 斜は再度、コングロマリットに近づき、側頭部を狙って警棒を振るう。もう一度、同じ場所を攻撃すればダメージがあるかも知れない。

 コングロマリットは斜の攻撃動作を見ても、避けようともしない。彼はただぼんやりしている。棒立ちしている。

 斜はそのまま、警棒を打ち込む。

 その瞬間、コングロマリットは絶妙なタイミングで警棒の方向と同じ方向に首を逸らした。多少の手応てごたえはあったものの、一回目より遥かに軽い。

 ──これは【最適な間合いバッド・ディスタンス】の対処法の一つだ。【最適な間合いバッド・ディスタンス】からの攻撃は受け流すことはできるのだ。無論、これは酷く難易度の高い芸当だ。【最適な間合いバッド・ディスタンス】からの攻撃は普通の攻撃よりも遥かに強い。しかも、今回は警棒を使っているのだから尚更だ。それを受け流すなど普通は──いや、普通の人間ではできない。

 そして、コングロマリットは即座に斜に向かって手を伸ばしてきた。

 斜は先の真糸のことを思い出す──もし、摑まれでもしたら、死ぬまで頭を地面か何かに叩き付けられかねない。

 斜は、飛び退いて、ぎりぎりのところでそれを避ける。先の斜の警棒での攻撃に対するコングロマリットの受け流しが完璧かんぺきだったら、今ので終わっていただろう。コングロマリットの回避のタイミングは完全ではなかった──だから、彼の攻撃への移行が一瞬遅れた。

 斜はなんとか、もう一度【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取る。

 だが、斜は今の攻防で追い詰められてしまった。

最適な間合いバッド・ディスタンス】からの攻撃は威力が高い。普通の人間に対して行えば、まず一撃で無力化できる。つまり、斜には攻撃を当てたあと、もう一度【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取る余裕ができるのだ。これをループさせるのが斜の必勝法だ。つまり、普段ならば一撃が決まった時点で勝てるのだ。

 しかし、今のように──相手にダメージがなさそうな場合、攻撃を当てても【最適な間合いバッド・ディスタンス】が取り直せなくなる。そうなると【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ったからといって、容易に攻撃に移れなくなる。【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取り直せる保証がないのに攻撃をすれば──命取りだからだ。【最適な間合いバッド・ディスタンス】は攻撃か防御どちらか一回にしか使えない。攻撃をしたら効力は切れるし、回避をしても効力は切れる。攻撃が成功する保証がないのならば、どうしても防御に使わざるを得ない。

(……【虚実の消失点バニシング・ポイント】からなら)

 それならば、通用するだろう。

 相手が攻撃をいなしたということは──その攻撃が効くという証左しょうさだ。効きもしない攻撃を、あんな難易度の高い方法で避ける必要はないのだから。

 斜はコングロマリットの【間合い】を確認するため【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取りながら、移動を開始する。

 だが、今度はコングロマリットが斜に向かって走ってきた。

 斜はチャンスだと思った。

 この攻撃は確実に失敗する。そうすれば、その隙に、コングロマリットの背中側の【最適な間合いバッド・ディスタンス】を確認できる。──だが、コングロマリットはそんなに甘い存在ではなかった。斜は知らないことだが、そもそも彼は〝戦争〟のために作られた存在なのだ。子供の浅知恵で対処できるほどぬるくない。

 コングロマリットは手を大きく振り上げ──そのまま振り下ろす。そして、斜の読みどおり、コングロマリットの攻撃は失敗した。彼の攻撃は斜の後ろにめてあった車を大きくひしゃげさせるものの、斜に当たることはなかった。予想どおりだ。

 しかし、コングロマリットの攻撃動作からの復帰の早さは斜の予想を遥かに上回っていた。

 彼はあんなに大きな動作──車をひしゃげさせるほどの動作で動いたのにもかかわらず、無理矢理上半身を半回転させ、強制的に慣性を消すと、再度、真横に手を振るってきたのだ。

 斜は飛び退いてそれを避け、もう一度【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取る。だが──今の攻防では背中の【間合い】を確認することはできなかった。

 ──これではジリひんだ。今の行動をコングロマリットに取られ続けてしまえば、こちらにはもうできることがない。ただ、逃げ回るしかない。

 斜は次の手段を考える。

 そして、気付いた。逃げ回れるのならば、逃げればいい。いずれ、春が来るはずだ。すると、コングロマリットが斜に向かって走り出し、今回は何故かジャンプをして飛びかかってきた。

 斜は【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取っていたので、この攻撃を避けようとしなかった──そして、これは決定的に間違った選択だった。

 何故か、コングロマリットの体が斜に激突し、斜はそのまま吹っ飛ばされる。それは中途半端はんぱな体当たりで威力は大したものではなかった。しかし、問題は威力ではなく、攻撃が成功したという事実だった。斜はどうしてこうなったのか分からなかった。【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ったのにもかかわらず、攻撃が当たったのだ。あり得ない。

 斜は立ち上がって【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取り直し、今の攻撃を食らってしまった原因を考える。

(…………もしかして、そういうことなのか?)

 斜はコングロマリットの攻撃が成功した理由に思い至る。もしかすると、彼には攻撃する意志がなかったのかも知れない。彼は移動しただけだったのだ。つまり、彼はまったく雑念──斜を攻撃しようと、頭の隅っこですら考えず、移動だけを実行したことになる。それが人間にできることとは到底思えなかったが。

 コングロマリットはこの数回の攻防で斜の【間合い】の弱点を見抜き──一度攻撃を失敗してからは、再度攻撃をするという手段よりも、確実にダメージを与える手段の方が有用だという結論に至ったのだろう。

(……これじゃあ、勝てる要素がないじゃないか)

最適な間合いバッド・ディスタンス】を取っても攻撃が効かず、そのうえ、防御不可の攻撃を行われる──今の斜は武器をすべて奪われたようなものだった。それに、この状況で春が来るまで待つなど、不可能だ。今の攻防をもう数回繰り返されて、少しでも動きが鈍って、馬乗りにでもなられたら──アウトだ。【最適な間合いバッド・ディスタンス】は取ってあるから一撃は回避できても、馬乗り状態からなら、二撃目は確実に食らう。

 コングロマリットが斜の方を向いた。

 そのには何もなかった。情念というものがひたすらに欠けていた。そこには攻撃の意志すらなく──それは、ただ殺戮さつりくのルーチンをよどみなく実行するための受光装置でしかなかった。

 斜はそれを見た瞬間、手がカタカタと震え始めた。

 斜は今の今まで戦いというものを理解していなかった。今までは、自分が【間合い】のおかげで圧倒的優位に立っていたから、戦いというものの意味を分かっていなかった。

 ただの力比べくらいに思っていた。

 だが、現実は全然違った。

 戦いというのは奪い合いだった。非情のもとで、酌量しゃくりょうのない手段を行使し、相手からすべてを奪わんとする行動を押しつけ続ける──それが戦いだった。

 すでに手段は奪われた。

 このままでは命を奪われて──雫を奪われる。

 さらに、手段がないのだから奪われるのを待つしかない。ここからは、むしられて食われるだけだ。斜は生まれて初めて戦いの本質──恐怖と向きあってしまった。

 ──だが、ここで退くことはできない。

 自分の命だけなら諦めるという選択もできたであろうが、後ろに雫がいる以上──自分の勝手な判断で退くわけにはいかない。戦えるのならば、たとえ、その抵抗が無意味でも戦い続けなければならなかった。



 雫は車の陰からずっと斜のことを見守っていた。

 ──だが、状況は劣勢どころの話ではなかった。

 しかし、自分にできることは何一つなかった。

 最初は、斜が戦っている隙にコングロマリットの【到達のビーズ】を確認し、その内容を話せば勝てると思っていた。なんとかして【到達のビーズ】に触れさえすれば、コングロマリットを無力化できると思っていた。

 そして、雫はコングロマリットの【到達のビーズ】に触ることができた──斜が吹っ飛ばされたとき、コングロマリットの体が近くにきたのだ。車越しだったが、【到達のビーズ】に触ることができた。

 だが、それは無意味だった。

 コングロマリットの【到達のビーズ】の内容は自分を殺すことだった。あまりにも刹那せつな的すぎる人生の目標だが──今現在、この時点においてコングロマリットの人生の目標は間違いなく、自分の殺害だった。こんなもの伝えたところでまったく状況は変わらない。

 雫はほとんど諦めかけていた。

 自分は〝新天地〟に辿たどり着くことなどできず、ここで死ぬのだろう。

 そして、

(なら、ウチが死んで、斜を守った方がいいじゃん)

 と、思った。このままでは二人とも死んでしまう。それなら自分だけ死んだ方がいい。

 雫は立ち上がり、ふらっと車の陰から出た。これで、きっと、コングロマリットの標的は自分になるだろう。

 そして、一歩歩いたところで、コングロマリットと目が合った。

 死ぬのは怖くない──と言ったら噓になるが、諦められた。自分は散々なことをしてきた。家族を滅茶苦茶にして、級友を滅茶苦茶にした。きっと、級友の家族も滅茶苦茶になったことだろう。それに、終雪に言われてだが、あの国会議員の人生も滅茶苦茶にした。

 これは、多分、報いだ。そして、後悔は手遅れだ。

 今更、自分は生まれ持った才能のせいで可哀想かわいそうな人間なんだ、とは言うまい。言う権利はとうに失った。被害者だろうがなんだろうが、加害した時点で永遠に加害者だ。

 コングロマリットが自分に向かってくる。彼は少しずつ速度を上げる。だが、それに気付いた斜の方が先に自分のところまで来た。

「何やってるんだ!?

 斜はそう言って、警棒をコングロマリットに向かって投げつけると、自分を抱えて走り始めた。斜の投げた警棒はコングロマリットの額にまっすぐ飛んでいき、彼の動きを止めた。斜はビルの裏手まで走り、止まる。そこは完全に行き止まりだった。ビルとビルの間には背の高いフェンスが張ってある。斜は走ったせいか、息が上がっている。

「……なんで、そこまでするの?」

 雫は聞いた。会ったばかりの自分に、斜が何故、命をかけるのか分からない。【ビーズ】も見えないので、目の前の人間が本当に何を考えているか分からない。

「雫を助けたいからだ」

「……なんで、ウチなんか助けたいのさ?」

「雫が僕と同じだからだ」

「──同じって、何が?」

 雫は『同じ』と言われたとき、カチンと来た。人の気持ちを理解することのできない──【ビーズ】を見ることのできない人間が自分の気持ちを共有しているつもりになっているのがしゃくに障った。だが、その怒りは斜の次の言葉でなくなった。

「僕も色々分かるから──ずっと、どうしようもなかったから」

 その言葉を聞いたとき──斜が前に言っていた『色々分かる人』というのが斜本人だと、ようやく気付いた。何故気付かなかったのか不思議なくらいだ。きっと、彼は自分と同じような経験をしてきた人間なんだと気付いた。

「だから、僕は雫を助けたい──雫だって、こんなところで終わりたくないだろ? 僕もおじいちゃんが死んだとき、もう終わりだと思った。死ぬんだと思った。だけど──それが嫌だったから、がんばって春のところまで行ったんだ。雫だって嫌だろ?」

「…………うん」

 それはそうだ。こんなの理不尽だ。足が速いやつが速く走ったらめられるのに、自分の場合は才能を発揮しただけで殺されるなんて、あんまりだ。

「あとは僕がなんとかするから」

 雫はこのとき泣いていた。頭の中がぐちゃぐちゃでよく分からなかったが、泣いていた。斜の言葉は全然嬉しくなかった。嬉しいはずなのに、嬉しくなかった。初めての理解者の言葉なのに、それは悲壮すぎて聞きたくなかった。

 だが、それと同時に、一つ、思い出した。

 初めて斜が自分のことを守ってくれたとき──卯助を倒したときのことを。

 あのときも、最初は攻撃が効かず、劣勢だったはずだ。それなのに、彼は勝った。

 そこに何かあるはずだ。

「斜は何が分かるの? それで、卯助に勝ったんだよね?」

「……僕は【間合い】が分かる。でも、今はあのときと同じことはできない」

「なんで?」

「一回、相手の後ろに回らないとダメなんだ」

「──相手の後ろに回れれば、勝てる?」

「分からない。けど……もし勝てるとしたらそれしかない」

「分かった。じゃあ、ウチがおとりになるよ。その間に確認して。ちょうど行き止まりだし、ウチが壁際かべぎわに立っていれば、斜は確実に後ろを確認できる」

「ダメだ。囮なんてできるわけないだろ。真糸がやられたところ見ただろ? あんなの食らったら──」

 足音が近づいてきた。コングロマリットだろう。

「ウチは多分、少しだけなら避けられる──【ビーズ】で分かるから」

 事前に、攻撃をしたいという欲望の【ビーズ】を確認できれば、避けられるはずだ。そういう欲望の【ビーズ】は暖色系だ。狙って、最速で触れば、なんとかなる──はずだ。

「でも……」

「信じて」

 そう言ったときにはもう、涙は流れ出ていなかった。それどころか【ビーズ】が見えない人間に自分を『信じろ』と言った自分がおかしくて笑い出しそうだった。

「──分かった」

 斜がそう言うのと、ほぼ同時にコングロマリットが曲がり角から姿を現した。



 斜は雫を置いて、コングロマリットの方へ走り出す。

 対するコングロマリットは一瞬、斜の方を向いたものの、斜を無視して、雫の方へ駆け出した。

 斜はぎゅっと歯を食いしばる。この選択が正しかったかどうか分からない。しかし、先程の駐車場とは違い、ここには隠れる場所もない。これしかなかったかも知れない。

 それに、雫をここで信じなければ、たとえコングロマリットを倒せたとしても、彼女を助けられないような気がした。自分が【間合い】を信頼されなかったらつらいように、彼女の【ビーズ】も信じなければならないと思った。

 コングロマリットが到達する寸前、雫がコングロマリットの方へ手を伸ばした。そして、彼女は斜から見て右の方へ素早くねる。──このとき、斜はすでに、コングロマリットの【虚実の消失点バニシング・ポイント】を確認し終えていた。

 コングロマリットが振りかぶった手を大きく、振り下ろす。──そして、それは雫には当たらなかった。だが威力は強暴で、彼女の後ろのフェンスをまるで紙のように引き裂いた。

 そして、コングロマリットがその手を再度、振り上げる。斜もすでにコングロマリットに向かって走っている。

(間に合うか──!?

 コングロマリットの【虚実の消失点バニシング・ポイント】は体のほぼ正面だった。【虚実の消失点バニシング・ポイント】が正面にあるなんて、非常に珍しいケース──いや、初めてのケースだった。普段ならば【虚実の消失点バニシング・ポイント】が正面にあるのは、攻撃の際、後ろに回らなくて済むので、こちらの有利に働くだろう。しかし──今、斜はコングロマリットの背中側にいる。正面に回り込まなくてはならない。

 雫が再度、コングロマリットに手を伸ばす──

(もう一回、避けるつもりなのか!?

 ここで、斜は迷う。

 もし、雫が避けられるのに、自分がコングロマリットを止めようと何か行動を起こして、コングロマリットの攻撃の軌道が変わったら雫が避けられないのではないのかと。しかし、雫の初動は明らかに先程より遅い。

 判断の時間はほぼなかった。

 斜はほとんど無意識に何もしないことを選んでいた──雫を信じた。

 コングロマリットの攻撃は、雫の体スレスレを通過した。

 斜はすぐに、ポケットの棒金を握り込んで──コングロマリットの【虚実の消失点バニシング・ポイント】に滑り込むように移動すると、渾身こんしんの一撃をコングロマリットの土手っ腹にぶち込んだ。コングロマリットは口から胃液をまき散らしつつ、苦悶くもんする。

 意識外からの攻撃──しかも、雫を攻撃することに存分に意識がいっているところへの不意打ちだ。効かないはずはない。

 それは確かに効いていた。

 だが、効いていただけだった。

 卯助に対して攻撃したときとは違い、ダメージを与えただけだった。

 しかし、ダメージを与えられるのならば、いつもの勝ちパターンだ。一撃で決められなくても構わない。

 斜はコングロマリットがひるんだ隙に、再度、【虚実の消失点バニシング・ポイント】から、体重のほとんどを乗せたパンチを顔面に叩き込む。

 そして、斜は間髪かんぱつを入れず、三撃目を敢行し、再度、コングロマリットの顔面を殴りつける──その瞬間、斜は頭に衝撃を受けた。まるで鉄球を思い切り、ぶつけられたかの衝撃。それは、コングロマリットの横なぎの拳こぶしだった。

 ついに、コングロマリットが【虚実の消失点バニシング・ポイント】に対応し始めたのだ。斜が意識外でなくなる瞬間、攻撃が成功した瞬間に反撃をし始めた。人間業ではない。それをするには、【虚実の消失点バニシング・ポイント】からの攻撃に耐えつつ、急に現れた存在に瞬時に反応しなければならないのだ。攻撃に対する耐性も反応も人間のそれではない。

 斜は、それでも【虚実の消失点バニシング・ポイント】から攻撃するしかないので【虚実の消失点バニシング・ポイント】を取り直そうとする。

 だが、移動しようと、足を動かそうとしたとき、体勢を崩した。先の攻撃をくらったせいだ。戦闘の興奮状態で痛みはそこまで感じなかったが、体の方はそうではなかったらしい。

 そして、その一瞬が命取りだった。【虚実の消失点バニシング・ポイント】に入れなかった。

 ──眼前のコングロマリットが手を振り上げる。

「お前のしたいことは、ウチを殺すことだろ!」

 雫が叫んだ。

 斜は、雫が打つ手なしで悲鳴の代わりにそれを叫んだのだと思った。そして自分はもう終わりだと思った。だが、違った。──その悲鳴は【到達のビーズ】の内容だった。それを教えられた人間は周りが見えなくなりそれだけに没頭してしまうという呪いのような言葉だ

 コングロマリットの手が斜の目の前で止まった。そして、彼は雫の方へぐるりと体を動かし、突進するかのような勢いで雫の方へ進み始めた。

 斜はすぐに、真糸が前にやっていたのを思い出し、コングロマリットに足をかけて、転倒させる。そして、コングロマリットと雫の間に立ち、【虚実の消失点バニシング・ポイント】に移動する。

 コングロマリットが立ち上がる。だが、今までとは違い、動きがぎこちない。どうやら、ようやくダメージが蓄積し始めたようだ。

「斜、あいつは次、突進してきて、左手をまっすぐ、ウチに向かって伸ばしてくる」

 後ろの雫が言った。【ビーズ】の内容だろう。

 そして、斜は雫の言わんとしていることを理解した。雫はカウンターを狙えと言っているのだ。【虚実の消失点バニシング・ポイント】からの攻撃は相手が反応しないため、絶対にカウンターにはならない。しかし、コングロマリットが雫に殴りかかろうとする今、この状況においては、例外的にカウンターを成立させられる。

(無茶言うなぁ──)

 しかし、ここで決めるしかないだろう。自分の体の状態はよく分からないが、疲労と先の攻撃のダメージで立っているのがやっとなのだろう。足がふらついていたし。

 斜は強く、棒金を握りしめ、わきを固める。

 コングロマリットが姿勢を低くする。そして、肉食の四足歩行動物のような勢いで突進してくる。

 斜は足に精一杯の力を込め踏ん張ると、腕を後ろに引いた。そして、目を閉じる。カウンターのタイミングなら──【間合い】の感覚でとらえた方が分かりやすい。自分にとっては視覚以上の感覚だ。

 そして、斜は腰の回転と左手を引くことを意識しつつ、右手を全力で、コングロマリットの顔面目がけ突き出した。

 拳が人体をえぐる感覚。

 確かにそれを斜は感じた。

 だが、それと同時に、すべての意識が消失した。【間合い】の感覚も。



「ああ? こりゃどーなってんだ?」