終雪はそう言うと、真糸の方──怪我けがをしている娘に近づき、

「真糸、私たちも行くわよ。やれるわね?」

 と聞いた。微笑みながら。

「あ……当たり前……だ」

 真糸は撃たれた肩を押さえ、ひたいに脂汗をめながら答える。

 そして、真糸と終雪もこの場を離れ、この短すぎる時間のうちに、ここに残っているのはコングロマリットと卯助だけになった。



 卯助は終雪の言いつけどおり、コングロマリットの足止めを始める。卯助はもちろん終雪の言葉が理解できている──彼は言葉が理解できないわけではない。しゃべれないだけなのだ。

 だから、『勝てないだろうけど』と言われ、傷ついた。しかし、ここで目の前のこいつを倒したら、きっと、終雪の評価が上がり──真糸も見直してくれる、そんな風に思った。

 卯助は思い切り突進し、コングロマリットにつかみかかる。卯助は相手よりはるかに体格でまさっているので、相手が何をしようが押さえつけてしまおうという考えだ。

 コングロマリットは卯助の突撃にされるがまま、壁に激突し、床に押し倒された。

 ここで卯助は疑問を覚える。

 相手が何もしてこないのだ。突進に対する防御反応も、反撃も。

 彼はただ、そのまま、卯助に押さえつけられただけだった。卯助は気味が悪くなり、まずは距離を取り、様子見することにする。言いつけられているのは足止めだ、相手が何もしないなら、こちらから何かをする必要はない。ただ出入り口をふさいでいればいい。

 対するコングロマリットは、首を左右に二回振ってから立ち上がり、目だけを動かして辺りを観察し始めた。そして、それが終わると卯助の方へ一歩踏み出す。

 卯助はそれに反応し、再度、体当たりを敢行かんこうする。

 だが、今度のコングロマリットは無反応ではなかった。コングロマリットは、この状況においては緩慢かんまんとも取れる動きで卯助ののどに手を伸ばす。卯助もそれには気付いていたが、このまま激突すれば勝てると判断し、コングロマリットの行動を無視し、突進する。

 瞬間。コングロマリットの手が卯助の喉をわしづかみにした。いっきに彼の手が喉の肉に食い込む。しかし、それで突進が止まるわけでもなく、卯助とコングロマリットはもつれながらまた壁に激突した。──だが、コングロマリットの手はいまだ、卯助の喉に食い込んだままだった。その握力はすさまじく、声が上げられるなら、確実に叫喚きょうかんしているようなものだった。

 ここで、また一つ卯助に疑問が浮かぶ。

 なぜこの男は、ここまでの握力を持っていながら、とどめを刺そうとしないのか、という疑問が。

 そして、その疑問は十数秒後──解消される。

 コングロマリットは再度立ち上がると、今度は卯助の喉を摑み、引きりながら玄関の方へ移動し始める。途中、卯助はなんとか腕をふりほどこうと、コングロマリットの腕を必死に摑んだものの、彼の手はびくともしない。

 そして、二人の男の体が玄関を越え、日差しにさらされた。

 卯助はこれ以上コングロマリットを進ませてはならないと、一旦いったんコングロマリットの腕を振りほどくことを諦め、床に腕を突き立てようと腕に力を込める──が、何故か床はそこになかった。さらに、喉の異物感が消えている。

 分かったときにはすでに遅かった。卯助の体はコングロマリットによって、宙に投げ出され、七階から落下するところだった。もちろん、落ちればただでは済まない。死ぬかも知れない。

 だが、恐怖は一瞬たりとも訪れなかった。

 驚愕きょうがくが先に来たからだ。

 コングロマリットが──卯助を追いかけるように、七階から飛び出したのだ。理由は分からない。そんなことをすれば相打ちだ。ただ、上で待っていれば、勝てるというのに。

 しかし、卯助の考えは大間違いだった。──コングロマリットの目的は卯助の打倒なんかではなく、ただ、兼崎に追いつくことなのだ。

 ──数秒後。

 卯助は、人体が地面にたたき付けられる音を聞いてしまった。しかも、最悪なことに音の発生源は自分だ。しかし、音を聞けたということは──まだ生きている。

 だが、次の瞬間、更なるダメージが卯助の体に振りかかる。コングロマリットの体が自分の体に激突したのだ。当のコングロマリットは卯助をクッション代わりにすることで、ノーダメージで着地し、やる気のない歩みで、そこを去っていった。

 卯助は薄れゆく意識の中、コングロマリットにとって自分は相手ですらなく、下に降りるための手段だったということを理解してしまった。悔しいとは思わなかった。死への恐怖もない。ただ、戦いの場ですら相手にされなかったことが、さびしかった。



「真糸が!」

 雫の金切り声が、斜の耳にキンキン響く。

 このとき、雫は斜にかつぎ上げられるようにして運ばれていた。彼女が逃げる途中、階段で転んで足をくじいたからだ。本当にタイミングが悪い。

 斜と春は追跡を警戒しつつ、とりあえず、逃げている。逃げる方向も決まっていないし──雫が走れない状態では、いつまで逃げられるかも分からないが。

「春、どうする?」

 斜は走りながら聞く。

「とりあえず、あそこに!」

 春は路地に駆け込む、斜もそれに続く。

 斜はそこで、一旦、雫を降ろす。彼女はがくがくと震えている。歯の根はあっておらず、両手で自分を抱きかかえるように縮こまっている。

「……ねぇ、なんでこんなことになってるの? ウチが悪いのかな? ウチがあれで死んでれば良かったのかな?」

馬鹿ばかなことを言うな、それじゃあ真糸はどうなる。なんのために雫をかばった」

 春が周囲を警戒しながら言った。明らかに怒っている。雫の言葉に腹が立ったのだろう。

「でも──ウチが死ねば全部終わるんでしょ?」

 何故か雫は、拳銃で撃たれたことを怖がるよりも先に、自分が悪いと言い始めた。

 斜にはその気持ちが分かった。斜もずっとそう思っていたからだ。

 斜の両親は斜を祖父に預けたあと、すぐに離婚した。斜はそれが自分のせいだと思った。

 斜の祖父は七十で死んだ。斜は、祖父の寿命が平均寿命より短かったのは自分のせいだと思っていた。自分が祖父のストレスになったからだと思っていた。

 自分の周りの悪い出来事は自分のせいだと思っていた。

 だから、理由も分からず嫌われても──世界を恨む気にならなかった。

 自分が悪いと思っていたからだ。

 でも、今は違う。

 今の斜は、自分が原因だとか、自分が悪いと思うのは、間違いだと分かっている。

 斜はそのことを、頭をかかえ込んで泣きじゃくっている雫に、伝えたかった。

 斜は雫の頭をやや乱暴にでた。

 斜は、雫が抱えているような気持ちに対する解決方法を、すでに知っている。

 それは、酷く簡単な解決方法で──たった一人の理解者がいればいいのだ。

 それだけで、全部解決する。

 斜にとっての理解者は春だった。

 斜はずっと、雫にも春のような人間が現れればいいと思っていた。

 斜は自分と同じように苦しんでいる人間を助けられるなら──助けたいと思った。もちろん、自分には助けられる自信なんてないから、適任者がいるなら、適任者に任せたい。だが、どうしても適任者がいないのなら──自分が雫にとっての理解者になればいいだけの話だ。助けられる可能性を自分の手で捨てたくはない。

 ──斜はずっと、雫をどうして助けたいかが分からなかった。

 だが、ようやく分かった。

 彼女が自分と同じだったからだ。

 ただそれだけだった。

 それは、安易かも知れないが、間違いの理由なんかではなく。

 ゆえに、そんな理由で人を助けてもいいのだと思った。

「心配しなくていい──たとえ、世界が受け入れてくれなくても。僕は──僕だけは絶対に雫の味方だ」

 雫は泣きらした目で斜を見上げる。

 もしも、普段ならば、斜は今の言葉だけで雫を助けられたかも知れない。だが、今はこれだけでは助からないのだ。──実質的な脅威きょういとしての暴力は眼前に迫っていた。



 兼崎は〝誘拐屋〟の三人が路地に逃げ込むのを確認した。数で負けてはいるが、六根雫を殺すためには路地に行かねばならない──こうなってしまったら、なんとしても早急に始末を付けねばならない。彼は銃を上着で隠しつつも、手にしたまま、小走りで路地に向かう。

(……やっべぇ……人撃っちまったよ……しかも、俺の娘じゃん…………十何年ぶりに会って、いきなり拳銃の弾ぶち込むとかどーゆーことだよ……)

 兼崎は顔を苦渋にゆがませつつも、歯を食いしばり路地に突っ込んだ。そして、三人の前に飛び出して拳銃を構える。

「兼崎! てめぇ、自分が何やってんのか分かってんのか!」

 春が怒鳴りつけてくる。

「うるせぇ! 元はといえば、お前がちゃんと仕事しねーのがりーんだろーが!」

 兼崎も売り言葉に買い言葉で怒鳴り返す。

「あんたは──僕と春がさらってきた人間を……いつもこうして殺していたのか?」

 斜が雫を守るように一歩前に出ながら、聞いてきた。兼崎は彼の怒っている顔を初めて見た。その怒りももっともだろう。そして、彼の問いに対する答えはもちろんノーだ。だが、ここで「違う」と答えることに意味はない。六根雫は特別だから殺す──などということを彼らが承知するわけがない。

 兼崎は銃を持つ手に力を込め、

「そいつは殺さなきゃならないんだよ。そうしないと──もっと、多くの人間に害が及ぶ」

 と答え、兼崎は照準を六根雫に合わせようとする、だが、斜と春が邪魔だ。

「……邪魔だ。撃たれてぇのか? そんな気持ち悪いガキどうでもいいだろ」

 兼崎が、まずは威嚇いかくで発砲しようかどうか考えていると、

「違う!」

 と、斜が声を張り上げた。

「それが大人のやることか!? 違うだろ! 困っているのは雫で、助けなきゃいけないのは雫だ! お前は知らないかも知れないけど、彼女は──何も悪いことなんてしていない! 殺して解決だなんて、ふざけるな! 雫はずっと自分がいてもいい場所を探してた! 大人が彼女の望みから逃げてどうすんだよ! 助けるべきだろ!」

 ついに斜が兼崎に向かってきた。──好機だ。このまま、斜を歩かせれば、六根雫への射線しゃせんが生まれる。

 だが、兼崎も斜の言うことは正しいと思っていた。しかし、正しさなんてルールの前ではなんの意味もなさない。人がルールに守ってもらうためにはルールにびへつらわねばならない。

 兼崎はトリガーに指をかける。兼崎も斜の【間合い】のことは知っている。だから、ねらうのは六根雫だ。それならば【間合い】は関係ない。兼崎は指に力を込める。

「黙れ、終わ──」

 だが、兼崎の言葉は途中で途切れ、トリガーは引けなかった。後ろから思い切り、あばらをり込まれたのだ。多分、折れた。複数本。兼崎はうめき声を上げ、身をよじりつつも、なんとか踏みとどまる。蹴りをかましてきたのは不器ふき真糸──自分の娘だった。負傷した肩を押さえつつも、刺すような視線のまま、攻撃的な笑みを浮かべている。