だが、真糸の攻撃のおかげで斜はコングロマリットから逃げ出すことができた。自転車のスピードも出てきたので追い付かれることもないだろう。

「すげぇ、ガチで喧嘩してたね」

 雫が後ろで言った。

「うん。なんなんだろーね? 知り合いなのかな?」

「多分、真糸はあの根暗長髪ねくらちょうはつがウチを襲ってきたと思ったんじゃない?」

「えっ、雫は襲われてたの?」

「ウチも知らないよ? 襲われてたのかな?」

「さぁ、でも、とりあえず未遂みすいってことかな?」

「そうだね」

 斜は、真糸の緊迫さとはかけ離れた会話をしながら家を目指した。そして、二つ目の横断歩道を信号待ちしているとき、偶然、兼崎を見かけた。斜は、とりあえず会釈する。兼崎はそれに気付いたようで、少しだけ斜の方を向いた──反応はそれだけだったが。

(兼崎さんも来てたのか。コングロマリットさんにあんなことをさせたのは兼崎さんなのかな? よく分からないな)

 斜は、コングロマリットとの一件もあり、話しかけられるのも面倒だったので、信号が変わるとすぐに自転車を走らせ、逃げることにする。

「あの人も知り合い? やくざ?」

「いや、公務員らしいよ」

「…………まじで!?

「って言ってた」

「世の中おかしーね」

「うん。それに、あの人怖いんだよね。いるだけで怖い」



 兼崎は事態が飲み込めなかった。

 先日〝誘拐屋〟から、今回は見送ることにすると連絡が来た。

 だから兼崎は、不器終雪ふきしゅうせつのところに六根りくね雫がいるという情報を別ルートで入手し、六根雫を取り返しにきたのだ。──『取り返す』という表現は少々おかしいが。

 だが、何故か〝誘拐屋〟の深草ふかくさ斜が六根雫と一緒に自転車に乗っていた。

(なんだ? なんだ? なんなんだ? 一体どうなってるんだ?)

 柚木ゆずき春が噓をついているとは思えない。噓をつくメリットがない。そもそも〝誘拐屋〟は不器終雪に六根雫を奪われたという話であった。そのとき、深草斜が襲われたとも聞いていた。

(つまり──〝誘拐屋〟は、実はまだ仕事を完全に諦めたわけではなかったってことか?)

 それもおかしい。それならば〝誘拐屋〟が仕事を辞退するという連絡をしてくるはずがない。やめたって言ったけど、実は続けてました、なんてことをするわけがない。何も意味がない。

(わっけわかんねー……とりあえず、コングロマリットを下げるか)

 兼崎はコングロマリットに電話をかける。コングロマリットは犬みたいなものだ。会話はできないし、複雑な命令は理解できないが、覚えさせた特定パターンの行動は確実にこなせる。この場合は三回コールしたらおれのところに戻ってこいという命令だ。

 兼崎は三回のコールを終えると、携帯電話をポケットにしまう。代わりにたばこを一本取り出し吸い始める。あまりにも事態が理解できないので、まずは落ち着きたい。

(つーか、終雪はマジでなんなんだ。とんでもねぇことしやがって)

 終雪は国会議員と六根雫を引きあわせたらしい。兼崎にとっては想定し得る中でもかなり悪い事態だった。今のところ大きな問題は起きていないようだが──問題が起きると困る。かなり困った事態になる。数十人単位で殺さなくてはならなくなるかも知れない。

 ──兼崎は昔から終雪が嫌いだった。

 正直、あれが人間だとは思いたくない。

 兼崎は昔、終雪とある研究施設で一緒に働いていた。そこは、表向きは製薬会社だったが、実際はテロリストに技術供与をしている、ろくでもない会社だった──兼崎もその事実を知っていながら働いていたので、それをどうこう言う権利はないのだが。

 あるとき、終雪はどこかから、反論しなさそうだからという理由で、口とのどに二度と治らない怪我けがをしている子供を連れてきた。彼女はその子供に『うつけ』という名前を付けて、酷い育て方をし始めた。兼崎は見るに見かねて、そいつの名前だけは変えさせた──酷い育て方に関しては研究の範疇はんちゅうだったので何も言うことはできなかったが。

 コングロマリットだって元は終雪の実験動物だった。だから、彼には感情もなければ、言葉も喋れない。あのころの終雪は喋れない存在に傾倒していた──理由は不明だが。

 兼崎はこれ以上イライラしても仕方ないので、たばこを携帯灰皿に押し込んで、コングロマリットが帰ってくるのをただ待つことにした。



 斜は自宅の前まで雫を送り届けると、

「僕、あの子を迎えにいくから、雫は鍵締めて家で待ってて」

 と、伝え、真糸を迎えにいくことにした。

 斜は十五分ほどで真糸のマンションの前に着いたが、そこにはだれもいなかった。

(あっれー、途中で会ったりもしなかったしなー……どこ行ったんだろ?)

 斜は仕方なく、また、自宅に向かって自転車を漕ぎ始める。行きと同じく、真糸の【間合い】の確認も怠らない。最終的に、彼女を見つけたのは自宅マンションの植木の前だった。どうやら入れ違いになってしまったようだ。

「途中で会わなかったね。新宿のマンションまで一回往復してきたんだけど」

「電車で来たから」

「ああ、そうか電車か。そりゃそうだよね。あんまり電車使わないから、気付かなかった。というか、中に入ってれば良かったのに。暑かったでしょ」

「いや、そういうわけにはいかないし……雫と一緒なら入れたけど」

「前は普通に入ってきたじゃん。普通じゃなかったけど。お皿とか今度弁償してよね」

「……なんか、斜……さんって変な人だね。言うことが変だ」

「そうかな? ──まぁいいや。行こう。バッグ持とうか?」

 斜は、真糸が雫のボストンバッグを持っていたから聞いてみた。真糸は「ありがと」と小さく言って、そのボストンバッグを斜に手渡した。

 二人は一緒にエレベーターへ向かう。

「えーっと、真糸……ちゃん? コングロマリットさんと喧嘩してたけど、なんだったの?」

「えっ、あいつ、明らかに雫を襲おうとしてたじゃん」

「そうなの?」

「そうだよ。だから逃げろって言ったじゃん。あいつ強いね。けものみたい。正直、正面からやりあったら勝てない気がする。まぁ、途中であいつが急に雫を追いかけるのをやめて、どっか行ったからなんとかなったけどさ」

「へぇー、あの人やっぱり、すごいんだ。あんなに細いのにボディガードって聞いてたから、ずっと疑問だったんだよ」

「…………というか、斜……さんは、なんで雫を襲った相手に対して──うらみっていうか、敵意っていうか、そういうものがないの? 私に対してもだけどさ」

「だって、もう襲うのやめたんでしょ? ならいいじゃん」

「そういう話じゃないでしょ?」

「僕は、嫌われっぱなしとか、嫌いっぱなしは嫌だな。やっぱり、仲直りしたいよ。僕もさ、昔は根に持ったりしたこともあったけど──やっぱり、自分がそういう気持ちじゃ、上手くいかないんじゃないかなーって思うんだよ。まずは自分が許さないと。許すっていうのは、なんか上から目線で、おこがましいからちょっと違うかも知れないけど」

 真糸はきょとんとした顔で斜を見ていた。

「何?」

「いや。やっぱ変だよ、斜さんは」

「これに関してはそうかもね。雫も変だって言ってたし」

 二人はエレベーターを降り、斜の先導で家に入る。

「おじゃまします」

 真糸は小さな声で言って中に入った。

「ただいまー」

 斜がそう言うやいなや、

「おいぃ! 斜! てめぇ、ふざけてんのか!」

 春の怒鳴り声が聞こえてきた。春は玄関まで来ると斜の胸ぐらをつかみ上げた。

「てめぇ! なんで、雫持って帰ってきてんだよ! マジふざけんな!」

 斜は春の剣幕に一瞬びくっとしてしまった。ここまで怒られたのは初めてだ。

「ダメだったの……? っていうか、僕が連れてきたというよりは、雫と真糸がここに来る予定だったらしいんだけど? まぁ……僕も連れてこようとは思ってたんだけど」

「あぁ? 何言ってんだ! そいつは誰だ!」

「この子は雫をさらった人。真糸ちゃん」

 春は斜を解放すると、怒鳴るのをやめて、頭をかかえ出す。

「……なんで、そんなやつと一緒に? 意味分からないんだけど……」

「僕もいまいち、事情が分からないんだ」

「事情分かんないなら、連れてくんなよ……」

 春の元気がどんどんなくなっていく。

「あ、あのー……私から説明します」

 真糸は前にここを襲撃したときは正反対ともいえる調子で切り出す。

「…………分かった。とりあえず、中入れ」

 春はそう言って、ため息をつくと、中に戻っていった。



 真糸は応接室兼リビングのソファーに座らされた。向かいあった二人掛けのソファーには斜の上司だという春が座っている。そして自分の隣には雫が座っている。雫は随分リラックスした感じだ。しかし、雫とは対照的に真糸は死ぬほど緊張していた。ここでミスって〝誘拐屋〟の協力を取り付けられなかったら、完全に手がなくなる。しかも、先程、春とやらは『なんで、持って帰ってきてんだよ』と怒っていた。つまり、この時点において〝誘拐屋〟は雫をすでに必要としていなかったということだ。これは予想外の展開だ。

 斜がコーヒーを四つ持ってきたところで、

「じゃあ、まず──お前は誰だ。あと斜は床に正座」

 と、春が切り出した。斜は春の言葉に逆らわず正座を始める。犬みたいだ。

「不器真糸と申します。器ならざる真の糸で不器真糸です。雫を助けたいというか……」

 真糸はどこから説明をしたらいいか分からなかった。こういう話し合いの駆け引きのやり方なんて知らない。知らない上に手札てふだすらない。暴力で解決できれば楽だが──相手をぶん殴ってイエスと言わせたりしてしまったら、雫を守る戦力をそのまま欠如けつじょさせてしまうことになる。

「ん? つまり、お前は雫の友達で、雫が攫われたから、連れ戻しにきたってこと?」

「違います。最初はママに雫を連れてくるように言われて、でも、ママのところにいたら、きっと雫に良くないから、もっと、いいところに行けるようにと思って……」

「ママって誰?」

「えーと、お母さんです。不器終雪って名前です。器ならざる終わりの雪って書きます」

「へぇー」

 春は気の抜けた声で言うと、コーヒーを一口飲んだ。

「……きっと、ママのところにいたら、雫は悪いことをさせられる。だから、雫を保護してほしくって。そして、雫がそういうことをしなくてもいいところに行けるようにして欲しい」

 真糸は言った。自分がこんなことを頼んでいい立場ではないということは、もちろん分かっている。春の相棒である斜を襲ったのだから。

「あいにく──うちはそういうことをするところじゃないんだけど」

 春は、カンカンカンカンと、素早く人差し指のつめでテーブルをたたきながら言った。

「えっ、そうなの? なんか前に〝誘拐屋〟と名乗ってはいるけど、結構なんでもするよ、みたいなこと言ってなかった?」

 春は口をはさんできた斜に「余計なこと言うな、馬鹿ばか」と頭にげんこつを食らわせた。

「というか、あなたはなんで雫を助けたいわけ?」

 春が真糸をにらみ付けながら言った。

「────」

 真糸は言葉に詰まる。自分でも何故、自分が雫にここまでしているのか分からない。もちろん、一応の理由はある。雫が気に入っているからだ。でも、そんな理由で相手を納得させられるわけがない。自分だって、その理由では納得できていないのだから。今ここで、噓の理由をでっち上げるという選択肢はある。雫が危険だからとか、母親を増長させるのは嫌だとか。でも、ここで噓をついてはダメな気がした。

 春がうつむいている真糸を覗き込むように姿勢を少し下げる。

 真糸は決めることにする。噓をつくか、本当のことを言うか。そして、少し考えて──いや、考えるというよりはむしろ、頭の中で棒を倒してかたむいた方を選ぶかのように、

「…………私が雫を助けたいのは、私が雫のことを気に入っているからです」

 と、答えた。真糸は、すぐに雫の顔を見たいと思った。だけど、横を向けなかった。彼女の顔を見るのが怖かった。

「あっそう」

 こんなに悩んで決心したのに、春とかいうやつの言葉は信じられないくらい軽かった。

「雫、この子と友達になったの?」

 斜が聞く。

「うん。友達になった」

 雫も軽い感じで言った。しかし、その軽さは確認するまでもない、という感じの軽さで、それが真糸にはうれしかった。

「まぁ、過去のことは一万歩ぐらい譲って、水に流してもいい」

「申し訳ありません」

 真糸は頭を下げる。

「だけど、こっちも慈善事業じゃないんだよね。お金が必要」

「…………いくらですか」

 真糸は色々あると思い、一応、貯金を下ろしてからここに来た。財布に十五万円は入っている。しかし、いくら請求されるのかはまったく見当が付かなかった。

 春はため息をつく。

「とりあえず、ここにいる全員に今日の夕飯に焼き肉をおごること。そして、成功したあかつきにはもう一度、ここにいる全員に焼き肉を奢ること。それで請け負ってやるわ」

「えっ!?

 真糸は、春が何を言っているのか分からなかった。まさか、食事を要求してくるとは思わなかった。

「なんか、不満?」

「い、いえ、で、でも?」

 この女、もしかしたら頭がおかしいのかも知れない。いや、多分、おかしいのだろう。

「これから、どうするか考えるから、そこら辺で適当にしてて」

 春はそう言うと、「春は本当に焼き肉が好きだね」と言う斜にもう一度げんこつをかましてから、自室らしき部屋に戻っていった。



 ──それから、一時間ほどったころ。

 斜は春に呼び出された。斜が春の部屋に入るのは久しぶりだった。彼女の部屋で特徴的なのは、二十四インチのディスプレイが横に三つ連なっているパソコンと、大量の消しゴムだろうか。パソコンは仕事用で、消しゴムは春の趣味の判子作り用だ。

 春はパソコンデスクの椅子いすを回して斜の方を見ると、

「正座」

 と言った。斜は特に逆らわず、春の前に正座する。

「勝手なことしやがって。今は何もしないけど、この件が終わったらマジでしごくからな」

「…………はい」

 斜は神妙に答える。

「で、とりあえずは今後の方策」

「どうするの?」

「まぁねー……あの女の子のこと無下むげにするわけにもいかんしねー」

「そういえば、焼き肉でいいの本当に?」

「あれ、中学生でしょ? 金取れねーよ。まぁ、彼女のママとやらからは取れそうだけどね」

 春は小さく口角を上げた。

「春はあの子のお母さんのこと知ってたの?」

「まあね、有名人だし」

「そうなんだ」

「で、真糸は、雫をいいところに行かせたい、みたいなことを言ってたけど、正直、無理」

「えっ、そうなの?」

 斜は、春の請け負うと言っておきながら投げやりなところを見ると、大人はズルいなぁと思った。だが、それと同時に、ちょっとかっこいいとも思った。

「うん。だから、もう、兼崎と真糸の母親を話しあわせるしかない」

「話しあわせてどうするの?」

「より高く買う方に渡す」

「えー……いくらなんでも酷すぎない、それ? 詐欺さぎだよ詐欺」

「でも、ほかに彼女を守る方法なんてないわよ。あの中学校の事件で雫のことを知っている人は知っているしね、現に私も兼崎から依頼を受ける前に小耳には挟んでいたし」

「そうだったんだ。で、ほかに雫を欲しい人なんているの?」

「いる。ぱっと思い付くだけで三人ぐらい。先輩も、会ってみたいとか言ってたし。まぁ、先輩は、どうでもいいけど。そして、そういう有象無象うぞうむぞうの中では、兼崎か真糸の母親っていうのは悪くない選択肢ではある」

「そうなんだ」

「兼崎のとこが真糸の望みには一番かなっている。でも、当面の敵がいたままでは、兼崎のところも安全ではないかも知れない。だから、真糸の母親と兼崎に話しあって決めてもらうわけ」

「そういうことかー。真糸ちゃんのお母さんはなんでダメなの?」

「んー、あんまいい話聞かないしねー……」

「そうした場合、ほかの雫が欲しい人たちは大丈夫なの?」

「分からない。問題が起きてから対処するしかない。襲わないでね、って言って廻るわけにもいかんし。真糸にはこの条件で提案する。これで了承してもらうしかないんだけど。今のところ、ほかに手はないし」

 斜はうなずいた。

「で、決まったら、兼崎と真糸の母親にアポイントを取ってすぐ話し合いね。兼崎には私から話しにいくけど、真糸の母親には斜に会いにいってもらう」

「なんで? 電話とかじゃダメなの?」

「話し合い当日に、真糸の母親が大人数で襲撃してくるかも知れない。斜が一度会っておけば、【間合い】で真糸の母親のことを認識できるでしょ。まぁ、分かり始めるのが四十メートルくらい前だし、意味があるかは分からないけど、いきなり襲われるってことはなくなる」

「……ああ、そうだね」

「一応、斜を向かわせるってことは、真糸の方から不器終雪に連絡させるようにしとく」

「…………分かった」

「じゃあ、私が真糸に話を付けるまで、適当にしてて」

 斜は正座をやめ、自分の部屋に戻った。

 だが、何かが頭の中で引っかかったままだった。春の言っていることは正しくて、きっと、一番スマートな解決方法なのだろう。しかし、それに納得できない自分がいた。多分、今の話に雫の気持ちがまったく考慮されていないからだ。斜には雫の【ビーズ】が見える能力ばかりが優先されていて、肝心な彼女自身が、ないがしろにされている気がした。だからといって、代替案もなければ──雫の本当の気持ちも知らないので、何もできないのだが。



 一時間後。

 斜は不器終雪に話し合いのアポを取るため、自転車で西新宿にししんじゅくのマンションに向かっていた。

 真糸も春の提案には納得していなかったようだが、春に理詰めで責められると、しぶしぶ、提案を了承したようだった。せざるを得なかったというか。

 すでに真糸の方から、彼女の母親の不器終雪には連絡が入っていて、訪ねれば、不器終雪は話を聞いてくれるということだった。だが、斜は、雫と真糸がそろって、不器終雪は変人だと言っていたので少し不安だった。

 斜はマンションに着いたところで、ガスマスクの男に案内され、エレベーターに乗った。

 斜はちょうど、いいタイミングだと思い、謝ることにする。

「この前は、ごめん」

 だが、ガスマスク男は何も言わず、ちらりと斜の方に顔を向けると、興味なし、とでも言うかのように、エレベーターがどこにあるかを示す電光掲示板に目を移した。

(そりゃー、怒ってるよな。【虚実の消失点バニシング・ポイント】から警棒で殴ったんだもんな)

 エレベーターを降り、端の部屋の中まで案内されたところでガスマスクの男は隣の家に行ってしまった。案内はここまでらしい。斜は奥の部屋の前まで進み、ドアをノックする。

「入っていいわよ」

 扉の奥からは女性の声が聞こえた。きっと、真糸の母親──不器終雪だろう。

「失礼しまーす」

 斜はドアを開けて中に入る。斜が、この部屋の装飾を見て抱いた感情は『なつかしい』だった。祖父の家の食堂や祖父の書斎もこんな雰囲気だった。

「雫のことでお話があって参りました」

 斜がそう言って、頭を下げると、椅子に座っていた終雪は、パソコンでの作業をやめ、斜のことを上から下までじろじろと見てきた。

「君が深草斜君ね」

「はい、そうです」

「うちの真糸が世話になったわね」

 終雪はなんだか嬉しそうに言った。

(なんで、この人、こんなに上機嫌なんだろ? というか、この人、危機管理意識あるのか? 僕が〝誘拐屋〟だって知ってるのにすんなり家に上げて──しかも、一対一だなんて)

 斜は色々と不思議に思う。

「私は雫の処遇しょぐうについて兼崎って方と話し合いをすればいいの?」

「ええ、そうです。今日は終雪さんの都合のいい日程を伺いにきました」

「ところで、兼崎の下の名前は葬式の葬で合ってる?」

「……はい、合ってます」

「懐かしい。あいつが生きていたなんて、てっきり死んでるかと思った。要領悪いし」

「はぁ……」

 斜は、終雪と兼崎が知り合いだったことにほんの少し驚いた。口ぶりからするに、昔からの知り合いなのだろう。死んでいると思ったということは、最近は会ってないようだが。

「斜君って可愛かわいいわね」

 急に話が飛んだが、斜はとりあえず、

「ありがとうございます」

 と、言っておいた。バイト先で、客に言われたことが何回かあるのであせらずに済んだ。

「今度、デートしない?」

「…………!?

 さすがに『デートしよう』と言われたことはなかった。斜はどう返答すべきか考える。まず、考えたのは、断ってしまうと兼崎との会談に支障が出るかも知れない、ということだった。それはマズい。次に考えたのは、終雪とデートするのは自分的にどうなのか、ということだ。正直、乗り気はしない。斜がどうするべきか迷っていると、

「冗談よ」

 と、終雪は上品に笑いながら言った。そして、斜がほっとしたタイミングで、半分だけね、と続けて言った。

「まさに冗談半分ですね」

 斜はテンパってろくでもないことを言ってしまう。だが、終雪には大ウケだったようで、彼女は大笑いし始めた。そして、ひとしきり笑うと、

「じゃあ、明日の午後三時、で大丈夫かしら。一応、卯助うすけを連れていくわ。今日、あなたが会ったガスマスクのやつね」

 と、聞いてきた。

「はい、問題ありません。万が一何か起きたら、すぐ連絡します」

 兼崎からは、いつでもいいと返答をもらっているので、これで問題ないだろう。

「明日は、あなたに会いたいから、絶対行くわ」

 終雪は立ち上がって、斜に握手を求めてきた。斜もそれに応対して、握手した。

 そのあと、斜は終雪にハグをされ、なし崩し的に、携帯番号とメールアドレスを交換させられた。──不器終雪は変には変だったが、思っていたほど変な人間ではなかったので、斜は少しほっとした。



 真糸は焼き肉屋にいた。

 隣には斜が座っていて、向かいには春と雫が座っている。

「斜、ここは真糸の奢りだから、いくらでも食べていいわよ」

「いくらでもって──っていうか、真糸ちゃんはお金大丈夫なの?」

 隣の斜が心配そうに聞いてきた。

「まぁ、あります」

 真糸はざっとメニューを見て、四人で二万円にはならないだろうと計算していた。そのぐらいの価格帯だった。

「おっ、金持ちー」

 と、春が嬉しそうにはやす。

(何が『おっ』だ……)

 真糸があきれていると、春が店員呼び出しボタンを押し、店員を呼んだ。

「ビール一つと、ウーロン茶二つ、コーラ一つ、あと上タン塩二人前と特上カルビ二人前、あと、特選ミスジとサーロインお願いします」

 春が一人で勝手に注文をする。

「…………」

 どうやら、先程の二万円という計算は間違いだったようだ。最初の注文だけで一万円に行ってしまった。どうやらこの春という人間はメニューがカテゴリ分けされていると、カテゴリの上の方しか読むことができないようだ。

「あっ、二人とも気を付けた方がいいよ、焼き肉でライス頼むと、春怒るから。僕は絶対にご飯と一緒に食べた方がおいしいと思うんだけどね」

 斜というやつは斜というやつで、どうでもいい情報を垂れ流している。

 真糸はあまり食事を楽しむ気にはなれなかった。不安で一杯だ。明日が怖い。母親に何を言われるか分からない。雫の件がうまくいかなかったら、自分はどうするべきなのか──どうしようもなく憂鬱ゆううつになる。気を緩めたらいっきに後悔しそうだ。

 肉が運ばれてきても、正直、食べる気にならない。今更ながら、勝手にウーロン茶を頼まれたことに腹が立ってくる。春がすでに二杯目のビールに突入しているのにも腹が立つ。明日はある意味決戦なのにアルコールを入れるだなんて。春にとっては大したことではないのかも知れないが──その、温度差にいらいらする。

「そんな、怖い顔してないで食べなよ、なんだったらウチも半分くらいお金出すからさ」

 雫がそう言いながら、トングで肉を真糸のタレの皿に入れた。

 真糸はそれをはしで口に運ぶ。美味おいしいのが腹立たしい。今の気持ちと関係なく舌の味蕾みらい細胞が正常に働いているのがむかつく。しかし、肉を食べたら、悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた。どうしようもなく明日は来るんだし、今ここで悩んだって、明日の結果には影響しない。だから、真糸も食べることにした。その方が幾分建設的だ──割り切ってしまおう。

 ──結局、真糸もほぼ満腹になるまで食事をしてしまった。

 真糸が金を払って店から出ると、春が待っていた。

「ごちそうさま」

「…………どういたしまして」

「じゃあ、帰ろうか」

 春はそう言って、歩き出した。真糸は雫と一緒に歩きたかったが、雫は斜と話していて、自分は春と並んで帰ることになりそうだった。

「今日、帰ったら雫といっぱい話しとくといいよ、二度と会えなくなるかも知れないし」

「……分かった」

 分かりたくはなかったが。

 真糸は人生にこんな選択があるなんて知らなかった。

 雫と一緒にいたいが、一緒にいたら彼女が不幸になる。

 もし、神様とかいうやつがいるのなら、そいつの底意地の悪さは相当なものだ。

 もちろん、神様なんて信じていないが。