夜。真糸まいとしずくを一緒に入浴しようと誘った。今日、決めたことを話すためだ。普段はシャワーしか浴びないが、わざわざ湯を張った。

「明日、逃げよう」

 真糸は湯船に沈んだところで言った。

「逃げる? 何から?」

「ママから。脱走するの」

「……なんで?」

 雫が髪をかき上げながら聞き返す。

「多分、ここは雫にとって、良くない場所だと思う」

「まぁね。思うところはある」

「なんか、あった?」

「今日、お昼、国会議員のおじいさんに人生の目標を教えた」

「え……」

(それって──国会議員相手はまずいんじゃないの?)

 中学生とはわけが違う。

「まぁ、今のところ問題にはなってないみたいだけどね」

「でも──」

 真糸の言葉の途中で、雫は小さく笑い、

「ウチの知ったことじゃないし」

 と、言った。

 真糸は言葉に詰まる。自分の提案が遅かったのではないかと。

「で、脱走だっけ?」

「…………うん」

「逃げた先はいいところなの?」

「──多分、今よりは」

 真糸も、現時点ではどうなるか分からないが──いいところに行けるよう努力するつもりだ。

「……ふぅん」

「まずは〝誘拐屋〟のところに行く」

 雫がおかしそうに声を殺して笑う。

「それって、はるななめのとこ? 元のところに戻すんだ?」

 雫の言葉を無視し、真糸は続ける。

「そこで、雫を守りつつ、雫が幸せになれるところに行けるように交渉する」

「幸せねぇ──ウチは幸せになりたいのかな?」

「えっ」

 きょを突かれた。そこに突っかかってくるとは思わなかった。

「幸せってさ、欲望を満たした先にはないんだよね。欲望をどんなに満たしても、結局人間の欲望は終わらない。でも、欲望が終わることが幸せかっていうと、きっと、そーじゃないんだよね。そう考えると、幸せっていうのは、もしかすると、あきらめなんじゃないかなって思うんだ。より上位の幸せを手に入れることを放棄ほうきして、今を幸せだと自分に言い聞かせることでしか手に入らないんじゃないかなってね。欲望が見えるウチはそんなことを考えちゃうわけよ」

(急に、何を言っているんだ)

 真糸は本気で困惑する。

「でも、幸せを目指す姿勢っていうのは大切だと思う。だけど、ウチは幸せになりたいわけではないんだよね。多分。……いや、どうなんだろう? そういう単純さも重要なのか?」

「どうなんだろう? って言われても……」

「まぁいいよ。ウチも斜や春にもう一度会いたかったしね」

 随分と軽い動機だ。

 真糸はそれから簡単にこれからの行動を説明する──明日、学校が終わったら、夕食を食べにいくと言って、雫と一緒にそのまま〝誘拐屋〟のところまで行く。ただそれだけだ。シンプルの極みだ。でも、まず問題はないだろう。

「二つ質問っていうかな? 疑問がある」

「何?」

「真糸はそんなことをして大丈夫なの?」

 正直、それは真糸にとっても分からないことだった。──しかし、やると決めた。

「まぁ、私はママの娘だしね。怒られるぐらいじゃない?」

「楽観的だねー」

 本当はもっと悲観的なことも考えていたのだが、あえて言う必要もないので言わなかった。

「次の質問は?」

「会ったばかりのウチになんでそこまでするの?」

 これも、真糸自身分からないことだった。本当の自分はもっと冷たい人間のはずだ。こんな面倒くさいことをする人間ではなかったはずだ。

「自分でも分からない感じ?」

「……多分」

 真糸は曖昧あいまいに答える。

「じゃあ、友達だからってことにしておこうか」

 雫が言った。

 真糸は考える。果たして自分と雫は友達なのだろうか、と。今までの人生において、友達と呼べる存在はいなかった。そもそも、真糸には友達の定義が分からない。きっと、辞書を引いたって適当なことしか書いていないだろう。こういうことをすれば友達──のような明確な基準があれば分かりやすいのだが。それに、友達に対してここまでするか? というのも分からない。友達というのは自分の立場をそこまで悪くしてまで、助けるべきものなのか分からない。

 しかし、ほかに答えもない。答えに値する屁理屈へりくつを構成できるだけの言葉もない。

 だから、

「そうだね」

 と、言っておいた。自分が雫を友達と思っているか分からないし、雫が自分を友達と思っているかも分からない──いや、雫はきっと自分のことを友達とは思っていないだろう。むしろ、自分と雫の関係は敵対関係だ。彼女を拉致らちして、幽閉ゆうへいし、使役しえきしているのだから。

 ──友達とは今のような上辺うわべだけの関係のときも使う言葉なのだろう。

 それに、自分がうそでない対人関係を望んでいるのかどうかも分からない。

 そもそも、噓でない対人関係とはなんなのか──分からない。

 きっと、信頼というものは、噓でも構わないと狂信しない限り、発生しないのだろう。信頼というのはそういうものだ。疑うことをしないことではなく、相手に噓をつかれたり裏切られたりすることすら諦められる関係のことをいうのだろう──まさしく、狂信だ。

 こんなことは、別に、どうでもいいことだが。

 雫は人の気持ちが分かるようだが、どうせ、自分には自分の気持ちだって分からない。ならば、衝動こそが答えなのだろう。

「明日、私が学校行っている間に荷物まとめておいて、私のはもう、まとめてあるから」

「──分かった」

 真糸は雫より先に風呂ふろから上がった。

 その夜、真糸は中々寝付けなかった。明日が本当に不安だった。



 その日、斜はバイトのあと、もう一度、雫に会いにいこうと決めていた。一昨日は訪ねることすらできなかったが──昨日の夜、覚悟を決めた。だから、今日は大丈夫のはずだ。

 午後四時。斜は出発する。バイトは春に秘密で早退した。夜になる前に片をつけたかったからだ。店長には口裏を合わせてもらうことにした。そのとき、店長は何故なぜか、ニヤついたり、うなずいたりしながら、「これを持っていけ」と、五千円をくれた。多分、何か勘違いをしたのだろう。斜は、誤解を解くのも面倒だったので、五千円を臨時収入としてありがたく頂いておくことにした。

 バイト先から自転車に乗って二十分ほどで目的地に着く。前に来たときと時刻は少ししか変わらないのに、辺りの雰囲気が随分と違う。夕方と昼の境目みたいな時間。街全体がことごとく中途半端はんぱで、人の層も空の色も、にごっているような感じだった。

 斜はマンションの近くまで来たところで、また逡巡しゅんじゅんしてしまう。

(いや、今日は行くって決めた……!)

 そう自分に言い聞かせ、再度決心する。

 斜はそのまま自転車を走らせて、マンションの入り口の前にめる。

(……つーか、ここからどうすればいいんだ……?)

 斜はあまり深く考えずここに来てしまったが、どうやって、このマンションからあの少女を捜せばいいかを考えてこなかった。まさか、一軒一軒まわるわけにもいかない。

(……とりあえず、入ってみるか)

 斜はそう思ったものの、入り口前で、入るのを躊躇ためらってしまった。前に来たときは気付かなかったのだが、受付の人がいた──斜の住んでいるマンションにも管理人はいるのだが、そういうのではなく、ホテルとかデパートの入り口にいそうな制服を着た女の人がいるのだ。

(うへぇ、すごく入りにくいなぁ……)

 斜は玄関から少し離れたところに移動しつつ、どうするか、頭を巡らせる。

(絶対オートロックで、しかもかぎとか番号じゃないんだろうな……どうすればいいんだ?)

 斜が三分ほど悩んでいると、建物の玄関から雫とあの少女が出てきた。何故だかは分からないが──とにかく出てきた。千載一遇せんざいいちぐうのチャンスだ。だが、あまりにも、唐突だったので、斜は全然心の準備ができていなかった。いくらなんでも出会いがしらというのは想定していない。しかし、ここで見逃すわけにはいかない。多分、これ以上のチャンスはない。斜は自転車を走らせ、二人の前に行く。

 そして、二人と向かいあったときにようやく気付いた。

(やっべぇ! 僕、またぶちのめされるんじゃ……?)

 斜は、雫を助けなければ、ということばかり考えていて、この少女の対策を考えていなかった。会わなければいい、ぐらいの気持ちでいた。

「斜じゃん。迎えにきてくれたの? 真糸、先に連絡しといたんだ?」

「いや……連絡なんてしてないけど?」

「どーゆーこと?」

 斜はなんだか、二人の会話がよく分からなかった。もっと緊迫した事態になることを想定していたのだが、そうではなかった。空気がゆるい。ただそこに女子中学生が二人いるだけみたいだ──もちろん、そのとおりなのだが。

「雫、帰ろう」

 斜は、第一声はこの言葉を言おうと決めていた。理由をぐだぐだ説明するより、ずばっと言った方が良いと思ったからだ。また拒否されることを考えると、言うのは怖かったが。

「うん、今から真糸と斜のとこに行く予定だったんだよ」

「えっ、そうなの? なんで?」

 ひど肩透かたすかしだ。人生でも五本の指に入るような勇気を出したのに。

「なんかそういう話になった、真糸が逃げようって」

「はぁ……」

 全然意味が分からない。もしそうだとしたら、わざわざここに来なくても、どうにかなったということになる。骨は折ってないが、くたびれもうけだ。

「真糸、とりあえず斜に謝りなよ」

「えっ!?

 真糸と呼ばれた少女はなんだか気まずそうな顔をしている。

(この子〝マイト〟っていうんだ)

「別に、謝らなくていいよ」

 斜もそこら辺は割り切っている。春の仕事を手伝うと決めたときから、ある程度危険はあると覚悟している。人を〝誘拐〟しているのだ、ねらわれても仕方がない。

「斜、怒ってないの?」

 雫が斜の顔をのぞき込みながら聞いてきた。

「うん、怒ってないよ」

 正直、斜はこの世の何に怒ればいいのか分からなかった。だから、怒り方も分からない。【間合い】のせいで人間関係はことごとく上手うまくいかなかった。しかし、それに対して怒るというのは何か違う気がした。いやだ、と思うことはあっても、怒りを感じることはほとんどない。

「さすがに、それは変すぎるよ。あんなことされたのに」

 雫がきつめの口調で言った。『変』と言われたが、斜は分からなかった。普通に考えれば、怒らない方がいいに決まっている。

「いいよ。謝る。ゴメン」

 雫と斜が口論になりそうだと思ったのか、真糸が先に謝った。

「よし」

 雫は満足そうに言った。

「じゃあ、これから〝誘拐屋〟のところに向かう──んだけど、この人に案内してもらった方がいいのかな?」

 真糸が聞いた。

「この人じゃなくて、斜ね。自己紹介あとでするといいよ」

「ななめ? 変な名前? 私も人のこと言えない気がしなくもないけど」

「僕も変な名前だと思う。なんか、うちは伝統的に、最初の二文字は同じじゃなきゃいけなかったんだってさ。僕もよく分からないけど。じゃあ、案内するね」

 斜が、時間はかかるが、二人を連れて歩いて家に向かった方がいいのか、それとも、二人を電車に乗せて、自分だけ自転車で帰った方がいいのか、考え始めたときだ。

 視界に知った人間の姿が見えた。あの伸ばしっぱなしの長髪と、妙に丸い背中、華奢きゃしゃで折れそうな体軀たいく──コングロマリットだ。いつも、兼崎かねざきと一緒にいるのかと思っていたがそうでもないようだ。彼は斜の姿を確認したからか、こっちに向かってくる。

(うへぇ……挨拶あいさつした方がいいのかな? あの人苦手なんだよな、暗いし。しゃべらないし)

 斜が小さく会釈すると、コングロマリットはそれを無視して、いきなり雫の方へ手を伸ばした。斜は何が起きたのか分からなかった。だが、真糸は斜と違い、それにすぐ反応し、雫をひっぱりながら、コングロマリットの手をけていた。

 斜は、コングロマリットが兼崎に言われて、雫を受け取りにきたのだと思ったので、

「あー……一応、春と相談しないといけないので、雫は一旦いったん連れて帰るんですが」

 と、断りを入れた。

(それにしても、行動が雑だなー、この人。一言ぐらい説明があってもいいのに──)

 斜の暢気のんきな思考は、バチン、という妙に高く大きい音でさえぎられる。斜は、即座にはその音の正体が分からなかった。それはコングロマリットの腕と真糸の足がぶつかったときに発生した音──より正確に言うならば、コングロマリットの攻撃を真糸が防いだときの音だった。

(な、なんで、あの二人いきなり喧嘩けんかしてるんだ!?

 斜は今起きたことにようやく気付いたが、まったく状況が飲み込めない。

「斜! 雫を連れて、逃げて!」

 真糸が声を振り立てた。

「わ、分かった!?

 逃げなければならない理由は分からなかったが、真糸の声が切羽詰まっていたので、斜は真糸の言葉に従って、自転車を雫のところまで走らせ、彼女を回収し、ここを離れる。

 斜が自転車をぎ始めると、コングロマリットは真糸を無視し、斜の方に走ってきた。漕ぎ始めたばかりでスピードが出ていない上に雫を乗せているので、追い付かれそうになる。

 コングロマリットが手を伸ばせば自転車に届くというとき、真糸がコングロマリットに足をかけ、彼を思い切り転倒させた。コングロマリットは顔面からつんのめるようにぶっ倒れる。

(うわぁ……あの子、マジで容赦ようしゃないな。痛そう。っていうか、なんで喧嘩してんだ?)