翌日。

 斜はバイトもなく完全にオフだった。だから、斜は前日から雫に会いにいくと決めていた。もう一度、話をしたいと──彼女を助けたいと思っていた。

 斜は前日の内に、襲ってきた少女の制服から、彼女がどこの学校に通っているか、あたりを付けていた。前に春に教えてもらった人を特定する方法の一つだ。調べ方は全然スマートではなく、インターネットの画像検索を使ってのしらみつぶしだが。それでも、なんとか候補を二つの学校にしぼった。片方は東京の荻窪おぎくぼ駅近くにある中高一貫校で、もう一つは埼玉さいたまの公立の高校だ。

 斜は、今日は荻窪にある学校の方に行くことにしていた。理由は単純に近いからだ。プランとしては下校の時間に通学路を見張り、襲ってきた女の子を見つけたら、尾行して、家というかアジトを突き止めるつもりだ。彼女が今日、学校に行っているという保証はないが。

(よし、そろそろ行くか)

 斜は尾行をするときにいつも持っていく荷物を持って家を出る。今日はきちんと武器も持った──もちろん、使わないことに越したことはないが。

 斜はまだ、何故なぜ雫を助けたいかは分かっていない。だが、助けたいとは思っている。──今までの人生で、こんなことを思ったことは一度もなかったし、人を助けられるような立場にいたことだって一度もなかったが。

 斜は雫に教えてもらった方法で電車に乗って、荻窪駅に向かう。中野なかのからなので結構近い。

 荻窪駅からは徒歩十数分で学校に着いた。

(なんか、僕の知っている学校とはちょっとイメージが違うなぁ)

 その学校は、雫の学校とも、自分が二年ほど通っていた小学校とも雰囲気が違った。そして、この学校は中高一貫だからか、斜の知っている学校よりも遥かに大きかった。

(ここの監視は骨が折れるぞ)

 生徒がどこから出入りしているのか、外から見ただけでは分からない。斜はとりあえず、学校の敷地の周りを一周してみる。あまりの広さに、それだけで十分弱かかってしまった。

(出入りできるのは、正門と裏門と、あとは車用の駐車場に通じている出入り口か──つーか、トラックで学校に何運んでいるんだろう? まぁ、それはいいか)

 斜はどこで待つか少し考える。そして、すぐに答えが出た。正門だ。理由は駅に近いからだ。徒歩、自転車の可能性もあるが、多分、駅の確率が最も高いだろう。

 そして、問題はどこから監視するかだった。いつも、監視場所は春が決めていた。だから、どういうところが監視に適している場所なのか、自分では判断できなかった。春から色々なことを学びたいと思い、やり方をちょくちょく聞くようにしているが──こういう細かいところにも知識が必要だと改めて思い知った。

(むむっ、どうするか……)

 斜は悩んでいるうちに一つひらめいた。そもそも、なぜ正門を張ることにしたかというと、駅が近いからだ。駅にターゲットが来ると踏んで、正門にしたのだ。ならば、駅で待てばいい。その方が、人通りも多く、たたずんでいても不自然ではないだろう。

 斜は駅に戻り、近くの牛丼屋に入って、早めの昼食を取ると、再度、学校と駅の周りを歩いてみて、どこで監視をするのが一番いいかを確認する。候補は二つ見つかった。一つ目は改札の側。改札は二つあるが、あの学校からこの駅を使うなら確実に北口の改札だろう。もう一つは駅側のコーヒーショップ。この店の二階席からは駅に入る人をほとんど監視できる。

 斜は最終的に、途中までコーヒーショップで待って、生徒が駅に来始めたら、改札の横に行くことにした。この暑さの中、ずっと改札の前にいたら体力がもたないだろうという判断だ。

 斜は一人でコーヒーショップに入るのは初めてだったが、春とは何度も一緒に入っているので、問題なく、注文等をできた。この六ヶ月バイトや春のお使いをこなしたおかげだ。

 斜は外に気を配りつつ、時間をつぶす。

 そして、午後三時を少し過ぎたころ、最初の生徒が通りかかった。

(じゃあ、改札の横で待ってるか。あっ、先に切符買っておこう)

 改札の横で待つと、ターゲットに見つかってしまう可能性があるが、後ろでも向きながら、あの少女の【間合い】が感知できる場所に立っていれば、顔も見られないし、問題はないだろう。そうすれば、彼女が通れば、一度感知した【間合い】なので、すぐに分かる。感知できる広さは体調や精神状態なんかに多少左右されるが、大体、目で見て人を誰だか判別できるぐらいの距離──半径四十メートルぐらいはある。春にこのことを話したときは、なんか頭痛くなりそうと言われた。もちろん、斜にとっては当たり前のことなので頭痛なんて起きないのだが。

 斜が改札の側で待ち始めてから四十分ほどしたとき、あの【間合い】の感覚を見つけた。

 斜は目では追わず【間合い】の感覚だけを頼りに追跡する。これならば、電車の車両を違えても問題なく追跡できる。斜は彼女を追跡しつつ、電車に乗る。そして、電車が数駅進んだところで、ターゲットが降車したのを感知し、電車を降りた。

新宿しんじゅくか……快速だと中野の次じゃん。割と近い。自転車でも来れたんじゃ?)

 斜は精算をすませ、ターゲットをさらに追跡する。ターゲットの少女は新宿駅西口から数分ほどの警察署のすぐ側にある、斜の住んでいるマンションと比べれば、巨大と称しても構わないようなマンションに入っていった。

 敵のいる場所は確認できた。あとは、そこに行って、雫がいるかどうか確かめるだけだ。

 ──だが、斜はそれ以上何もできなかった。

 ここまでは勢いで行動できたのだが、ここに来て怖くなってしまっていた。あの少女が怖いわけじゃない。殴られたって痛いだけだ。そんなものはいくらでも我慢できる。

 斜はそれ以上に──雫に拒絶されるのが怖かった。

 あのとき、何故、雫がころっと態度を変えたのか、という疑問がふつふつと沸き上がる。

 彼女と一緒にいた時間は短い。だが、それなりに仲を深められた──ような気がしていた。いずれは別れる人間だけれども。

(そう、思っていたのは──僕だけだったのかな……)

 そもそも、助けるも何も、雫は自分で向こうに行くことを選択したのだ。それを自分がとやかく言う権利はない気がしてきた──助けるだなんて見当違いで、おこがましい行動なのでは、と思ってしまった。それに結局、自分のしようとしていることは〝誘拐〟で彼女を兼崎に引き渡すだけなのだ。それが雫にとってプラスになる行動かどうか、斜には分からなかった。

 あと、ほんの少しというところで、斜は何もかも分からなくなってしまった。そもそも、確固たる理由があってここに来たわけじゃない。

 助けたい理由は自分でも分かっていない。

 それ以前に、雫を何から助けたいのかも分からなかった。彼女が助かってないと勝手に思い込んでいただけなのかも知れない──でも、それでも、助けたいと思ったのだ。

 しかし、その気持ちも不安に打ちのめされた。

 斜はもう一度、その高いマンションを見上げると、ため息をついた。そして、帰ることにした。斜には、雫に会うための勇気も、会うだけの理由も、なかった。

 会いたくて、助けたかったけれども。



 真糸は学校から帰ってくると、また出掛けることになってしまった。雫に一日中家にいて暇だったから外に連れていけと言われ──断り切れなかったのだ。

 真糸は雫を連れて外に出る。

(まぁ、今日は宿題なかったからいいけど……暑いし、面倒くさいなぁ)

 真糸はあずかり知らぬことだが、二人が外に出たのは、斜が立ち去ってから一分とっていなかった。あと数十秒、真糸たちの家を出るのが早かったら、ニアミスしていたかも知れない。

「なんていうか、あまり外に出るのはよろしくないんだけどね」

 真糸はくぎを刺す。

「なんで? 昨日、夕飯食べにいったじゃん?」

「あ……あれは、なんていうか、仕方なく」

「その程度で仕方ないなら、別にいいじゃん」

 そう言われてしまうと、どうしようもない。あれは同年代の女子とファミレスに行くという行動にかれたから取ってしまった行動だ。雫のことも知りたかったし。そのことで母親に怒られたりはしなかったが──彼女を強奪した以上、誰かが取り返しにこないとも限らないので、あまり賢い行動ではなかった。

(まぁ、そのときは私がどうにかすりゃいいんだけどさ)

「なんか真糸の私服ってシンプルだね」

 隣の雫が言った。

「そう?」

 と、答えたものの、真糸も自分の格好がシンプルであることは自覚していた。Tシャツとジーンズを合わせても、三千円以内で収まる格好だ。くつだけはバスケットシューズで二万円近くするが──まったくおしゃれではない、というか男物だ。しかし、市街地やビル内などで一番動きやすいのはバッシュだと真糸は確信していた。だからいている。

「うん、超シンプル。装備がグラフィックに反映されるRPGの初期装備みたい」

「……何それ? よく分からない。雫の格好はごてごてしていると思うよ」

 着ているもののがらも派手だし、アクセサリーの量も多い。スカートも靴も全部派手だ。少なくとも真糸からすれば派手すぎる。そもそも真糸は制服以外のスカートをはいたことがない。

「そうかな? 普通だよ」

「…………服装はいいとして、新宿駅に向かってるみたいだけど、なんか用事あるの?」

 さすがに、雫が電車に乗ろうとしたら止めねばなるまい。危険が増えるし、何より、面倒くさい。徒歩で行けない場所に行きたくない。

「いや、特に用事はないよ。散策。逆に真糸はなんかしたいことある?」

「逆にって……私は何もないよ」

「つかさ、真糸って普段何してんの?」

「学校行って、帰ったら、宿題やって、トレーニングとかしたら寝る。仕事のある日は仕事」

「趣味とかないの?」

「ない」

「音楽聴いたりしないの? ゲームとかは?」

「全部しない」

「──なんか、楽しいことってあるの?」

「多分──ない」

さびしくないの?」

「別に」

 とは言ったが、常々、寂しいとは思っていた。人と違うから寂しいのではない。可能性がないのが寂しいのだ。自分の生きる道が既定であることを思い出すと、喪失感を覚える。だけど、確固たる夢や希望があるわけでもない。寂しいと思いつつもその既定が楽で心地よいと思ってしまっているのだろう。

 そんなことを考えていると、雫が目の前で手を振っていた。だが、その動作は、ぼーっとしている人に「おーい」と声を掛けるときの手の振り方とは少し違っていた。

「まぁね、世の中には仕方ないことも多いけどね。でも、あるかも知れないじゃん、自分が満足できる場所っていうか、新しい世界っていうか」

「ないと思うよ。それは実現不可能な夢っていうか妄想だよ──」

 そこまで言って、真糸は酷い違和感に気付いた。話が異常なまでに飛躍していたのだ。いや、違う、繫がってはいる。だが、その繫がりが異常なのだ。まるで、心の中の言葉に返事をされたような。間違っても、自分は思っていたことを口に出したりなんてしていない。

「まぁね。でも真糸の場合は夢じゃないよ。多分、すぐ側にある。ほんのちょっとのきっかけで世界は変わる……これ以上は言わないけどさ。──あっ、駅着いた」

 新宿駅の西口まで来た二人はそこで立ち止まった。真糸はこの会話の飛躍について雫にたずねようとも思ったが、駅に着いてしまったので、

「……で、どうするの?」

 と、そのまま話を変えることにした。

「どうしよーか。真糸はしたいこととかないの?」

「……だから、ないって。雫が来たいって言ったから来たんだし」

 真糸としては正直、寝たかった。することがなければ寝たい。面倒だし、基本、寝たい。

「行くとしたら、カラオケかゲーセンかなぁ……」

「不良っぽいよ」

「えっ、それを真糸が言うの? 真糸なんて不良どころの話じゃないじゃん。最早もはや、テロリストじゃん。あと、買い物もしたいな」

「テロリストって……で、三つ案が出たけどどうするの? 全部行く気?」

「真糸はどれが一番行きたくない?」

 雫は随分変な聞き方してきた。真糸としては、買い物は別に行ってもいいかな、という感じだが、ゲームセンターとカラオケには抵抗感があった。その二つでより行きたくない方と聞かれたら、カラオケだろう。授業でもないのに人前で歌うなんて言語道断ごんごどうだんだ。

「うーん……カラオケは嫌かな」

「じゃあ、カラオケに行こう」

「はぁ!? 嫌だっつったじゃん!」

「だからこそだよ」

 雫は人差し指を立てると、ウインクしながら指を振った。ウザい。

「何が? どうして? だからこそなの?」

「どーせ、真糸はカラオケ、行ったことないんでしょ?」

「……ないけど」

「なんとなく嫌な気がしただけでしょ?」

「……そーだけど」

「なら経験した方がいいよ」

 そのとき、真糸は先程考えていたことを思い出した。可能性がないのが寂しいと思っていたことを。もしかしたら、自分でその可能性を無意識に適当な理由をつけて潰していたのかも知れない。カラオケが人生の可能性だとは思えないが──それこそが、先に雫の言った、きっかけ、というやつなのかも知れない。

「それにさ、真糸はウチの面倒を見なきゃならないんでしょ」

 雫がだめ押しで言う。

「……分かったよ」

 真糸は降参とばかりにため息をつくと、雫の選択に従うことにした。



 真糸は覚悟を決めてカラオケに来たものの、歌なんて知らないし、どうしようもなかった。真糸が知っている歌なんて童謡と英語の授業で覚えた歌ぐらいだ。なので、真糸は、フライドポテトを食べながら、雫の歌を聴くことに終始することにした。

(まぁ、これでもカラオケを経験したことになるかな、一応)

 そして、雫の歌は音楽を聴かない真糸からしても下手へたに類するものだった。なんというか、歌い方が自由すぎるのだ。ひたすら自分の好きなように歌っている。だから、リズムも音程も適当なのだ。しかし、その歌は不快というわけではない。一生懸命だな、という感じだ。

 雫の歌が一段落し、モニタにカラオケの妙な宣伝番組が流れ始めたところで、真糸は聞く。

「なんかさ、雫の言動って、ときどき先回りしてる感じだけど、なんなの、あれ?」

 先程、聞こうと思ったことだ。真糸は聞いてから随分と不明瞭ふめいりょうな質問だと思った。しかし、分からないことは分からないのだ。こう聞くしかない。

「ん、あー、なんか変だった?」

「……変だった」

 正直に言う。

 すると、雫はマイクをテーブルに置き、完全に歌う体勢をやめ、【ビーズ】と【到達のビーズ】、その二つの能力を説明してくれた。

 真糸はそういうことができる人間がいるということは母親から知識として教えてもらっていたが、実際に見たのは初めてだった。雫がうそをついているという可能性はあるが──これまでの言動を見る限り、本物なのだろう。

「そゆこと」

 雫はそう締めくくった。

 真糸はなんとなく、この少女は危険なのではないか? と思った。【到達のビーズ】が危険だというのではなく──もっと根本的なところで。真糸は彼女のそれが世界のことわり亀裂きれつを入れているような気がしたのだ。これは、あくまでも真糸のかんで、理由はないのだが。

 二人は歌う雰囲気ではなくなったので、カラオケを出て、買い物を済ませると、近くのラーメン屋で食事を取って帰った。

 外で食べるラーメンも真糸にとっては初めてだった。雫と出会わなければ、一生食べなかった可能性だってある。雫は生意気だが──面白い人間だ。

(ママは雫を側に置いておくみたいだし──これからも一緒にいれんのかな?)

 ──もしかすると、友達ができるかもしれない。

 真糸はちょっとだけ嬉しくなったが、すぐに胸がギュッと苦しくなり、少し寂しくなった。



 翌朝。雫は目を覚ましたあと、ベッドでぼんやりしていると、真糸の母親──終雪にリビングに来るようメールで指示された。メールアドレスを教えた記憶はないのだが、何故か終雪は知っていた。少々気味が悪い。雫は一応、リビングに向かうことにする。

 そこには昨日と同じく、終雪が革張りの椅子に座っていた。彼女の着ているドレスは、昨日とは違う色で違うデザインだが、雫が受けた印象は昨日とほとんど一緒だった。

「今日、出掛けるから」

 終雪は雫を見ると、いきなり言った。

「はぁ……いってらっしゃい」

「雫も一緒によ」

「えっ!? ……えーっと……絶対ですか? 今日は暑いし──」

 そこで、終雪は雫の言葉をさえぎり、

「絶対よ」

 と、にっこりと有無を言わせぬ笑顔で言った。

「そんなに時間は取らせないわ。ただ、あなたの言う、人生の本当の目標とやらを私以外の人間に教えたとき、どうなるのかを見てみたいの」

「…………」

 雫は何も言えなかった。

「心配しなくてもいいわ、相手は悪い人間よ」

 終雪は続けて言う。

 雫にとって、相手が善良かどうかなんてことは、どうでもいいことだった。もし、雫が善良な相手に対しては本当の目的を教えることを躊躇ためらってしまうような性格なら──間違って教えてしまった両親以外には【到達のビーズ】の内容を教えていない。そもそも、雫は【到達のビーズ】の内容を人に教えるのはいいことだと思っている。人生の目標を知ることは悪いことではない。むしろ、分かるのにそれを教えない方が悪いことだとすら思っている。自分だって、自分の【到達のビーズ】の内容を知りたいぐらいなのだし。

 だが、それ以前に、雫には善も悪もないのだ。そもそもの価値観が違うのだ。

 ──雫の世界には信頼なんてものは存在していない。信頼は信じられないもの──噓があるからこそ発生する。だが、雫には信じられないものなんて何一つない。人の噓をほとんど見破れる。いつわりが存在しない世界での事象はすべてが信じられる、というより疑う余地がない。

 心の中にどんなえげつない欲望をかかえている人間でも、信頼があれば善になるし、崇高すうこうな信念の元で犯罪を犯したとしても、信頼がなければ悪になる──これが人間の常識だ。だが、雫の前ではその常識が反転する。雫の手の届く範囲では人間共の下らない常識など、一切合切いっさいがっさい通用せず、真実は常にそこにある。

 雫としては、悪い人間だから【到達のビーズ】を教えても構わないということもないし、善い人間だから【到達のビーズ】を教えないということもない。

 だから、問題になるのは相手が【到達のビーズ】の内容を知りたいかどうかだ。

 雫は、知りたくない人間に対して【到達のビーズ】の内容を教えるのは反対だった。雫が【到達のビーズ】の内容を教えた人間は全員知りたいと言ってきた人間だ。同級生も、終雪もだ。両親に関しては──そのときの雫は【到達のビーズ】の内容を人に教えたときにどういうことが起きるのかを知らなかったから教えてしまった。雫もこれについては後悔していた。

 しかし、これは割り切らねばならない問題なのだろう。終雪のこれは依頼ではなく脅迫きょうはくなのだし──それに、彼女とは良い関係を維持しなければならない。〝新天地〟に辿り着くには、終雪がどのようにして自分の欲望に直面できたのかを聞くことになるかも知れないのだから。

「……分かった、やるよ。出発はいつ?」

 だから、雫はそう答えた。



 昼。雫が連れてこられたのはやたらと横に長いホテルだった。雫は終雪とともに五階にある和食の店の個室に通される。その和室にはへらへらした笑顔が妙に作り物臭い老人がいた。その老人は高そうなスーツを着ていて、終雪はパーティドレスを着ている。対する雫は、いつもの私服だ。雫は自分の格好が場違いすぎて、すでに居心地が悪くなってきた。早く帰りたい。

 雫が終雪にうながされるまま奥の席に座り、少し経つと、料理が運ばれてきた。ランチだからか、普通の和食だった。だが、場所柄きっと高いのだろうと雫は思った。

 雫が、終雪と老人が食事に手を付けたら、それに紛れるように食べ始めようと、二人が食べ始めるのを待っていると、

「食べてていいわよ」

 と、終雪が言った。これは言われたくなかった言葉だ。こんなことを言われたら、食べないわけにはいかない。その上、この二人が食べ始める気配はない──つまり、自分が最初に食べ始めなくてはいけないのだ。この場においては、ちょっとしたいじめだ。きっと、この二人は育ち盛りの若者に早く食べさせてあげよう、とか思っているのだろうが、ありがた迷惑だ。

 雫は料理を食べ始める。多分、この二人は自分が子供っぽくがっつくのを期待しているだろう──【ビーズ】を見るまでもない。だが、あまりにもがっつきすぎると、それはそれで悪印象だ。こいつらは『がっつく』と『綺麗きれいに食べる』の両方ともを求めているはずだ。ほとんど矛盾している要求だが──大人っていうのはそういう馬鹿ばかな生き物なのだから仕方ない。

「その子が?」

 老人が聞いた。

「この子は違うわ」

 と、終雪が答えた。

 雫は、その短い会話から、老人の方が立場は下である気がした。老人の口調が終雪に遠慮しているようなのだ。だが、立場の違いは確定的ではなく──二人は名目上同じ立場だが、終雪に対しては一応、下手したてにでなくてはならない関係だと思われた。

「まぁ、この子は占い師みたいなものね」

 終雪が言った。

「好きだねぇ──オカルト」

 老人は言った。少しあきれた感じだ。対して、終雪は何も言わず、小さく笑っただけだった。

 やがて、終雪と老人も料理に手を付け始める。それから、数分経ったとき、

「雫、大石おおいしさんを占ってあげたらどうかしら?」

 と、終雪が聞いてきた。

 雫は終雪の顔を見てから、大石の顔を見て、そしてもう一度終雪を見た。終雪がうなずく。やらなくてはならない雰囲気だ。雫ははしを止め、立ち上がると「失礼します」と言いつつ、大石に近づき【到達のビーズ】に触れた。

(そういう感じか……)

 雫は終雪に目配めくばせする。話していいか? という最終確認のアイコンタクトだ。終雪はそれを見て、またうなずいた。

「無理なんだよね。多分、あなたは──はっきり言ってが劣ってるよ」

 雫は失礼とも思えるようなことをずけずけと言い放つ。

「努力っていうのは、素晴らしいけどさ、あきらめたり、てるってことも──同じくらい素晴らしいんじゃないかな? というか、努力だけなら馬鹿でもできるけど、積み上げてきたものを捨て去る覚悟っていうのは──中々できる人はいないと思う」

 雫はそこで一息置いて、大石の顔を見る。口が震えている。多分、もう一押しだろう。雫は【到達のビーズ】をでる。

「多分、遅くない。今更、どこにも行けないと思っているかも知れないし、身軽になるために棄てるには、手に入れたものが多すぎると思っているかも知れないけど──もし、先を見たいなら、棄てるしかない。そのときの勇気と覚悟は、あなたを更なる高みに押し上げる」

 そこで、大石が立ち上がった。

 そして、彼は「帰る」とだけ告げて、店を出ていってしまった。

「私のときと違って随分と回りくどく言うのね?」

 終雪が言った。

「──まぁね。あの人が欲しかったのは休息で、そして休む理由だったからね。だから、逃げることを正当化してあげた。逃げるわけにはいかない立場──とかなのかなあの人?」

「国会議員だからねぇ」

「げっ、そうなの?」

「知らないの? まぁ、国会議員って数百人いるし、知らなくて当然かもね」

「ていうか、仕事辞めさせちゃまずいんじゃ?」

「さぁ? 大丈夫じゃない? いっぱいいる中の一人だし。それに不良議員だしね」

「不良議員って?」

「良くない議員ってこと。悪い議員と言い換えてもいいわ。あるところから、不正な利益供与を受けていると言っておきましょうか」

「……それって、賄賂わいろを渡してるのが終雪さんってこと? じゃあ、色々まずいんじゃ?」

 雫は声をひそめる。

「違うわ。何も問題ない。私は彼がどうなろうと安全よ」

 雫はそれ以上、この話を聞いても楽しくなさそうなので、食事の残りを食べてしまうことにした。あまりかかわらない方がいい話題だ。きっと。



 その日。不器真糸は授業も聞かずにずっと考えていた。

 六根雫をどうするべきかを。

 雫はきっと、危険な存在だ。人の望むものを理解できるというだけでも使い方次第では脅威になるのに──人生の本当の目標を理解できる能力は本当にどうしようもない。

 敵にしてしまったら、一手いって間違うだけでこちらが負ける。彼女に一メートルぐらいのところから手を伸ばされて、言葉を発せられたら終わるのだ。事前に警戒していなければ対処のしようがない。咄嗟とっさに耳をふさぐなどの対処法はあるにはあるが、もし彼女が悪意と作戦をもって、こちらに害をそうとしたら、防ぐのは難しいだろう。

 そして、雫は味方にするにも暴発のリスクが大きすぎる。裏切られた場合の被害は甚大じんだいだ。彼女の気まぐれに対応する方法が思い付かない。完全隔離するぐらいか。

 正直、どうすればいいか分からない。

(ママのところに置いておくのはまずいだろうな)

 あの人間は変なものほど好きになる。そして、雫のことはすでに気に入っているようだ。

 そもそも、こんなリスキーなものを個人で扱うなんて論外だ。

 それに、

(雫は──ここにいてほしくない)

 と、何より思う。

 嫌いだからではない。

 好きだからだ。

 出会い方が違えば、友達になれただろう──いや、なりたかった。彼女のどこに惹かれているのかは分からないが、あのミステリアスで底の見えない雰囲気は、わくわくできて楽しい。

 だからこそ、自分とは一緒にいてほしくない。

 母親の元にいたら、血なまぐさいことに使われる。直接でなくても、彼女の【ビーズ】は確実に人を傷つけるために使われる。本来ならば、もっと優しい使い方──人の真意をくみ取って場を円滑に進めたり、しゃべれない人間とのコミュニケーションに使えたりもしただろうが。

 だが、真糸には手段がなかった。

 雫を逃がす、という方向は決まっている。

 そして、雫を母親の元から離すだけなら簡単だ。夕飯を食べにいくついでに、そのままどこか遠くへ行ってしまえばいい。

 問題はその先だ。

 まず、金がない。そして、金がないのをカバーできるだけのコネもない。中学生二人の家出なんて一週間もつわけがない。

 だが、これはあくまで自分と雫で逃げ出す場合だ。雫だけを逃がす、というなら、彼女を欲している人間のところに連れていくという手もある。が、それもだめだ。結局は同じことだ。どこに行ったって、雫は母親と同じような用途で利用されるのだろう。

 それに、真糸にとっては、母親を裏切ることになるというのも問題だ。

 親子関係というのは思いのほか、きつい隷属れいぞくだ。今、母親に見限られたら、本気でどうしようもない。さすがに殺されはしないだろうが。そうなってくると、自分の立場を危うくしてまで、雫を助けようとする意味はあるのか、という問題になってくる。

 冷静に考えれば、ないだろう。

 冷静に考えるまでもなく、全然ない。

 でも、これは気持ちの問題なのだ。メリット・デメリットの話ではない。

 真糸は一旦いったん、考えを戻す。助けるのは決定事項なのだから、その手段を考えるべきだ、と。

 建設的な手段は、母親を説得することだろう。

 だが、これは一見建設的なだけだ。無駄なものは無駄なのだ。あの人間が自分の話なんて聞くわけがない。地球の自転の向きが逆転したって意見を曲げるわけがない。

 そして、コネ──というわけではないが、雫を保護してくれるであろう人間は、一応いる。

〝誘拐屋〟だ。彼らの目的は雫だし、渡せば受け取るだろう。あのヘアピンを付けた男では母親の私兵から雫を守るには心許こころもとないが──そこは自分がカバーすればいい。

 だが、その手段も非常に難しい。一度奪っておいて、返しにいって、助けて下さいと頼まなければならないのだ。イカれてる。

 それでも〝誘拐屋〟に頼むほかない。選択肢がそれしかないのだから。選択は、どちらを選ぶか、ではなく、選ぶか選ばないか、だけなのだ。そして、雫を助けたいのだから、選ぶしかない。その提案が〝誘拐屋〟に受け入れられなかったら、それはそのとき考えるしかない。

 もう一つの懸念は〝誘拐屋〟とやらが、雫をどうしようと考えているかが問題だ。〝誘拐屋〟について知識はないが、名前から察するに誘拐代行業なのだろう。となると、〝誘拐屋〟を使っている人間が問題だ。その人間が雫をどうするかが知りたい。

(まぁ、うじうじ考えていても仕方ないか。やるしかない──それしかないんだし)

「おい、不器! 聞いてるのか!」

 思考が終わったところで、真糸は自分が教師に呼ばれていることに気付いた。もちろん、聞いていなかった。なので、真糸は、立ち上がり、

「聞いていませんでした」

 と、教師をにらみ付けながら正直に言って、また椅子に座り直した。

 結局、教師は「そうか、ちゃんと聞けよ」とぼそっと言っただけで、また授業に戻った。