都心方面に一台のタクシーが走っている。そのタクシーの客席には
制服の女子中学生──
(あー……本気でいらつくわ。まじで、どいつもこいつも)
一番腹立たしいのは隣のガスマスク男──
二番目に
真糸はとりあえずの憂さ晴らしに、卯助のすねにかかとをぶつける。タクシーの中なので大きく動けず、威力はないが、卯助の首の筋肉がわずかに
やがて、タクシーが
真糸が金を払ってタクシーから降りると、ガスマスクの男──卯助も続いて降りた。
真糸は建物の中に入り、エレベーターに乗ったところで、卯助の腹に思い切り
(あとで、ママにタクシー代多めに請求してやろ)
真糸は、苦しそうにしている卯助のことなど気にも留めず、そんなことを考える。
彼女は十四階で降り、端の部屋に向かう。この部屋が真糸と彼女の母の終雪が暮らしている家だ。その隣の家には卯助が住んでいる。そのほかの十四階の部屋もすべて真糸の母である終雪のものだ。防犯上、この階のすべての部屋を買ったらしい。なので、大半は空き家だ。
「ただいまー」
真糸は玄関に
真糸はそのまま奥の部屋に向かう。
奥の部屋には真糸の母親の不器終雪がいた。彼女は部屋のど真ん中に置いた革張りの
「卯助を回収してきた」
真糸がそう報告すると、
「ご苦労様」
終雪は真糸の方を見ようともせずに言った。
「あとでタクシー代ちょーだいね。三万円」
真糸は二万五千円ほど上乗せしておいた。
「分かったわ。口座に振り込んでおくわね」
そう言って、終雪はノートパソコンを操作する。オンラインバンキングで振り込むのだろう。真糸はこれが
真糸が自分の部屋に戻ろうとすると、
「待って。これ、見といて」
と、終雪は立ち上がって、ホチキスで
(こいつらのせいで卯助は失敗したのか。まぁ、卯助が何かを
体力だけが
「この六根雫ちゃんを連れてきて」
「……りょーかい」
「足として卯助を使うといいわ」
「分かった」
真糸は終雪の言葉で卯助が運転免許を持っていることを思い出した。あの男がどうやって運転免許を取ったのかは
(あいつ、免許証の写真もガスマスクなのかな?)
しかし、さすがにそれを調べるほど、真糸もひねくれてはいない。彼のガスマスクには理由がある。彼には顔の下半分から
(まぁ──そこら辺は同情するけどね)
「今日、明日中にこの子連れてきてね」
「分かった」
真糸はその紙を持ったまま、キッチンに行って、牛乳を一杯飲む。
(面倒だし、今日やっちゃうか)
資料を見た限りでは〝誘拐屋〟の事務所も遠くないし、まったく問題ないだろう。ただ〝誘拐屋〟の二人をぶっ飛ばして、女子中学生を一人パクってくればいいだけの話だ。
真糸は自室に戻り、バッグを置くと、携帯電話で卯助に連絡する。
「今から三十分後に車を出してもらう。用意しておくように」
卯助は喋れないので、もちろん返事はない。だが、断られたことなど一度もないので、そのまま通話を終了させる。
(あー面倒くさいなー)
なんだか、最近──すべてが面倒くさい。
学校の人間とはレベルが合わずつまらない。真糸は学校にいる人間は幼すぎる──人生経験が足りないと感じていた。中学生の時分で、こんなことをしている自分の方がおかしいということは分かっている。だが、自分の方がおかしいということが確定したからといって溝が埋まるわけではない。かといって、溝を受け入れる気にもならない。だから、彼らとは分かりあえない。もちろん友達なんて一人もいない。クラスでは
(あーだるいなー。明日も学校あるのかー)
しかし、学校に行かなければ、することがないので、とりあえず学校に行くしかないのだが。それに、母親が学校には行けと言ってくる。ほかのことにはまったく干渉してこない
(この仕事がいつ終わるか分からないし、出る前にちょっと宿題やっとくか、面倒だけど)
真糸には宿題というものの存在意義がさっぱり分からなかった。こんなものは、教師が自分の能力が足りずに授業の時間内では生徒の理解力を規定の部分まで伸ばすことができない、ということを証明しているだけではないかと思う。だからといって、そんな
(なんか人生って感じ? 仕方ないから面倒くさいことに取りかかる──みたいな)
きっと、今日の仕事も退屈なまま終わると思うと、うんざりしてきた。
*
「
という
「行ってらっしゃい」
斜は軽く手を振って、春を見送ると、リビングに向かった。リビングでは雫がソファーに寝そべりながらスマートフォンで遊んでいた。
「雫、夕飯は何食べたい?」
「出前?」
「そうなるね。ピザか、お
斜は指を折りながら言った。
「うなぎ! って高くない!?」
「まぁ、高いけど、結局ピザの五割増しぐらいで収まるだろうし、問題ないよ」
そもそも、夕飯代は春に請求するのでまったく問題ない。
「うなぎってさー、ご
「分かる。
「なんだよ、丸いしって」
雫がスマートフォンをいじる手を止めて笑い出す。
「丸い食べ物って美味しいものが多い気するんだよね」
「斜はやっぱ変なやつだなー」
「そうかな? じゃあ、適当にピザ頼むね。ピザの具で絶対無理なのとかある?」
「多分ない」
「了解」
斜は近くに宅配ピザに電話を掛けて注文する。よく使う店なので、電話番号と食べたいものを伝えるだけで、すぐに注文が終わった。
「四十分ぐらいだって」
「おっけー。ってかウチら、ここにいて大丈夫なのかな? あのガスマスク男はここ知っているわけじゃん。家の前にいたんだし」
「うーん、まぁ、大丈夫だと思うよ。春が大丈夫って言ってたし」
「そうなの? そういや、斜は確か、ガスマスク男を倒したんだっけ」
「不本意ながら」
「斜って強いの?」
「まぁ、普通の人よりは強いかも」
「そーなんだ。でも、あのガスマスクのやつは普通じゃない気もするけど」
「うーん……あの人は強かったけど、普通の
「ってか、なんで、強いの? 見た目あんま強くなさそうだけど」
「説明すると長くなるけど、僕が勝てるというよりは絶対負けないって感じかな?」
とりあえず【
──が、例外もある。春だ。春には、春の【
「なんで負けないの? 説明してくれないと分かんないよ」
雫が口を
しかし、斜はそれを説明できなかった。春に【間合い】のことは、あまり人に言わないように言われている。こういうものは他人に知られていないからこそ価値があると。それに、これまで【間合い】が分かるせいで人間関係がことごとく上手くいかなかったのだ。斜としては、あまり自分の特殊性を
「ちょっと言えない。企業秘密」
「……何それ? でも、とにかく、強いってことだよね」
厳密には違うのだが、
「そうだね」
と、答えておいた。
しかし、斜としては、この【間合い】を常々暴力以外のことに使えないかと思っていた。一応、尾行なんかに使えないことはないのだが──もっと平和的というか、建設的なことに使えないかと考えていた。今のところ、まったくアイデアは浮かんでいないが。
「あっ、そういえば、ピザ、この前も食べたじゃん!」
急に雫が声を上げる。
「ああ、そうだね? それがどうしたの?」
「えっ、斜って同じものが連続しても気にしないタイプ?」
「三連続とかなら嫌だけど、今日は中一日
「まぁ、いいか。ピザの味は違うよね?」
「うーん……ごめん。前に食べたピザの味、覚えてないや。雫は覚えてる?」
「トマトっぽかった気がする」
「ピザって半分くらいはトマトっぽくない? ってか、トマトのやつ頼んじゃったよ」
「えっ、そうなの? まぁ、いいか。ピザ好きだし」
雫はソファーに寝っ転がると、またスマートフォンをいじり出した。
斜は手持ちぶさただったが、ソファーに座って、ぼんやりしながら、ピザを待つことにした。
*
斜が雫と先程注文したピザを食べているとき──玄関の開く音がした。春が帰ってきたにしては早すぎるし、何より、感知したこの【間合い】の感覚は春のものではない。そして、ほかの知っている人間でもない。どうやら知らない人間が勝手に入ってきたようだ。斜はこれからの対応のため、ピザを皿に置き、手を
足音が近づいてくる。
リビングに現れたのは、目つきがやたら鋭いセーラー服の女子──知らない人間だった。
「こんばんはー」
その少女はあごを少し引き、斜を
斜は未だに素知らぬ顔でピザを食べている雫を引っ張って、自分の後ろに隠し、一応「こんばんは」と言いつつ、その少女との【間合い】を取り始める。
「〝誘拐屋〟ね。まぁ、ピザ取って
その少女は顔とは似合わない、
「何か用ですか?」
斜はその少女との【
その少女は斜が戦闘態勢に入ったことを理解したのか、斜に対して鋭い視線を向けた。
「その子、ちょーだい」
少女は斜の後ろにいる雫に向かって、指をまっすぐに突き立てる。
「は?」
「〝誘拐屋〟さんからその子を〝誘拐〟しようって言ってるんだよ」
少女は、しししっ、と笑うと、一歩前に出る。斜もそれに合せ、一歩下がる。
(まずいな、狭いから取れる【間合い】に限界がある。【
しかも、後ろには雫もいるので酷く戦いにくい。だが、相手は女の子だ。そんなに警戒する必要はない気もするが──彼女はそこらへんの女の子とは雰囲気が違った。
「斜、〝誘拐屋〟って何?」
雫が緊張感のない声で後ろから聞いてきた。
「あとで話す」
話さないかも知れないが、斜はとりあえず、こう答えておく。
「──変だ。なんで、そこに立ってるの? まるで、私がどうするか分かっているみたい」
少女は一歩下がりながら言った。
斜は逆に一歩詰める。
「なんで、そこだと確信できるんだ? あんた? ちょっと──試してみるか」
少女は斜が使っていた皿を持ち上げ、乗っていたピザをテーブルにぶちまけると、その皿をまるでフリスビーでもするかのように構えた。
斜はそれに合わせ、距離を詰める。この場合は、近距離が【
だが、その攻撃はいとも簡単に少女の右手に止められてしまった。斜にとってそれは異常事態だった。そもそも【
斜は、少女が皿を構えるのをやめたので、最初の位置まで【間合い】を取り直す。
(……この【間合い】もおかしい──遠すぎる? 女の子でこんなに【
「なんていうか【間合い】の取り方だけ達人級だね。ほかはせいぜい、
少女は皿を持ったまま、ソファーの上に飛び乗った。
「なんていうか、あんたもバカだよね──宝の持ち
少女は
少女は斜に皿を投げつける。
斜はその皿を手で防ぐ。だが、その防御の隙に部屋の隅まで追い詰められてしまった。雫が一番端にいて、それから斜、少女と続く形だ。これではもう【間合い】が取れない。
「ほら、あんたの負け。私はあんたに
少女はそう言って、斜の
「なるべく早くどいてね、どくまでどつくから」
「──嫌だ」
「あっそう」
少女は
「よし、行こう」
少女はそう言って、雫の手を引き、そのままドアに向かった。雫もされるがままにされている。
「待てよ!」
斜は立ち上がり、声を張り上げる。
「待たないし」
斜は、背を向けて歩き始める少女に向かって、突進する。だが、少女は斜の方を見ることもせず、いとも簡単そうな動作で、斜を避けると、今度は斜の
「あんたは、なんていうか、本当にダメだなー。【間合い】が分かるんでしょ? なら、せめて、私が歩いて距離ができたところを攻めてくればいいのに」
少女は、しししっ、と息を
「待て!」
斜はそのまま、少女の制服の
「そろそろ、やめようよ。別に、あんたも、こいつがいないと死ぬってわけでもないんでしょ? 〝誘拐〟のターゲットだったってだけで。命の方が大切でしょ。
摑まれた少女は振り返りもしない。
斜はさらに強く、少女の裾を引っ張り、行く手を
「……あー、ちょっとウザい」
彼女はそう言って、右手で斜のあごを上にぐっと突き上げると同時に、足を払って転ばせ、そこから、
それを食らった斜は、体を曲げて、
「斜、ありがと。でも、もういいよ」
さっきまで黙っていた雫が斜に向かって言った。
「…………えっ?」
「斜は確かにレアケースだけど……斜だけが
こんな風に拒絶されるとは思わなかった。何故か、裏切られたような気すらする。
「ちょっと、雫──」
言葉は途中で途切れ、何を言ったらいいのか分からない。
「だってさ、
少女は、しししっ、と笑うと、雫を
斜は、雫に拒絶されたせいか、もう彼女を追いかけることができなかった。本来ならば、仕事なので追いかけねばならないのだが──それができなかった。斜の中にはもう、雫を追いかけるだけの理由が残っていなかった。
*
不器真糸は車の後部座席に座り、隣の六根雫を観察する。
でも、だからこそ異常だ。
こんな乱暴に攫われたのに取り乱したりせず、あまつさえ、あの状況で〝誘拐屋〟の
それに、事前情報では、彼女は中学校のクラスメイトの大半をどうにかしたとあった。正確には、ほとんどを不登校にした、だ。手段が分からない分、気味が悪い。
(ママはこんなのをどうするつもりなのかしら?)
真糸は母親のゲテモノ趣味にはうんざりしていた。卯助より使える人間はいくらでもいるのだから、卯助を使う必要はないし、気味の悪い女子中学生は
真糸は運転席のカーナビを見て、到着時刻を確認する。あと十分ほどで家に着くようだ。
(時間もあるし、ちょっと話しかけてみるか)
「えーと、六根雫だっけ。私は不器真糸」
「雫って呼んで」
雫は窓を見たまま答えた。
(すごいな、こいつ。
「なんていうか、雫は、怖くないの?」
「何が? 別に怖くないけど?」
「……どうして?」
「怖がる理由がないと思うけど?」
それは確かだ。真糸は雫を傷つけるわけにはいかないし、そもそも傷つける理由もない。だが、さっきの深草斜に対する乱暴な対応を見れば、
「さっきの見てたでしょ? 私、強いんだよ」
真糸はそう言ってから、
「
彼女の言うとおりだ。雫の体格は正直小学生ぐらいだ。そういうことを抜きにしても、女子中学生より弱い人間というのはそうそういない。
「まぁ、いいや。雫はいくつ?」
真糸は話を変えることにする。
「そんなこと聞きたいの? ウチは十四歳だよ」
「同じだ」
「……」
「…………」
もちろん、年齢は事前に知っていたが、これは、同い年を強調し、話を引き出す作戦だ。しかし、会話はまったく広がらなかった。
(……なんていうか、話を引き出す必要もないんだけどね)
「さっきは、乱暴してごめんね」
今度は謝ってみる。もしかしたら雫の態度が軟化するかも知れない。
「ウチは何もされてないけど。斜には謝った方がいいと思うけどね──というか、なんで、ウチは攫われているわけ?」
「さぁ? 私はママに頼まれただけだし」
ここで、中学校のクラス全員を不登校にしたことを聞こうかとも思ったが、やめておいた。そういうのは母親に任せるつもりだ。面倒くさいことには
「ママ、ね」
「何か文句でも」
「ないよ」
「なんで、雫はそんなに冷静なわけ?」
「ウチもびっくりしてるよ。でも、もしかすると、こういう劇的な環境の変化から〝新天地〟へのきっかけが摑める可能性もあるしね。まぁ、斜にはまた会わなきゃならないだろうけど」
「…………そう」
(何、言ってるんだ、こいつ? もう一度〝誘拐屋〟と会えると思っているのか?)
そこで車がマンションの前に着いた。真糸は、駐車を卯助に任せ、雫と二人で降りる。
「着いたよ、ここが私の家」
「ふぅん」
雫は興味なさそうな返事をする。
「十四階は全部うちの家なんだよ」
真糸は、雫もこの話題には乗ってくるだろうと思った。しかし、
「そうなんだ」
と、彼女は全然興味を示さなかった。
「反応薄いね」
「わーすごい。お金持ちなんだー。うらやましー」
雫は棒読みで言う。それには真糸もいらっときた。真糸は雫の頰に手を当てると、親指を立てて、まぶたに触れさせる。いつでも目を
「あんまり、
真糸はそこで言葉を止めてしまった。雫の
真糸がたじろいでいると、雫が小さく笑った。そして、彼女は軽く手を振り、
「真糸はさ、承認欲求っていうのかな? そういうのが強すぎるよ。斜と戦っているときも、言わなくていいことをべらべら喋ってたしね。周りとコミュニケーションが上手く取れていないでしょ? それどころか同級生とかに対して、自分が上だって思いすぎていて、自分からコミュニケーションを
と、真糸の弱点と思われることを指摘してきた。真糸はその様子に、
「──冗談だよ」
真糸は言い捨てると、雫の頰から手を離し、くるっと反対側を向いて、家の方に歩き始めた。──すぐに後ろを向いたのは、にやけた自分の顔を見せないためだ。
真糸は雫のことを
ずっとあった退屈な気持ちは、いつの間にか吹き飛んでいた。
