都心方面に一台のタクシーが走っている。そのタクシーの客席には半袖はんそでのセーラー服を着た女子中学生とガスマスクをした男が乗っていた。明らかに異様な取り合わせだ。

 制服の女子中学生──不器真糸ふきまいとはいかにも機嫌が悪いといった感じで、貧乏揺すりをしながら眉間みけんしわを寄せている。

(あー……本気でいらつくわ。まじで、どいつもこいつも)

 一番腹立たしいのは隣のガスマスク男──卯助うすけだ。たかが女子中学生一人をさらうのに失敗した挙げ句、報告もせずにターゲットがいる家の周りをうろつき、その上、警察に職質され、留置所にぶち込まれた。そのせいで、自分が卯助を迎えに行くハメになった。

 二番目に苛立いらだつのは自分の母親──不器終雪しゅうせつだ。この件を卯助に任せず、最初から自分に任せてくれれば、女子中学生の誘拐など失敗しなかったはずなのに。

 真糸はとりあえずの憂さ晴らしに、卯助のすねにかかとをぶつける。タクシーの中なので大きく動けず、威力はないが、卯助の首の筋肉がわずかに強張こわばったところを見ると、少しは効いたのだろう。もちろん、真糸のイライラはこんなことでは収まらないが。

 やがて、タクシーが西新宿にししんじゅくにあるマンションの前に着いた。その三十三階建てのマンションは周りの高層建築物に非常によく溶け込んでいる。エントランスはまるでホテルのようで、高級感のかたまりといった感じだった。

 真糸が金を払ってタクシーから降りると、ガスマスクの男──卯助も続いて降りた。

 真糸は建物の中に入り、エレベーターに乗ったところで、卯助の腹に思い切り拳せいけんをぶち込んだ。卯助は体をくの字に折り曲げて、苦悶くもんし始める──真糸は女子中学生としては背の高い少女だとはいえ、卯助との身長差は三十センチメートル以上ある。体重差に至っては倍だろう。そんな少女のパンチが一撃で、この大男にここまでのダメージを与えたというのは不思議な光景だった。もちろん、これは痛がっている振りなどではない。真糸は生まれてからずっと色々な訓練を受けてきて、今は母親の元であまり人には言えない仕事もしている。キャリアが違う。体格差があろうと、卯助なんて話にならない。本気を出すまでもない。

(あとで、ママにタクシー代多めに請求してやろ)

 真糸は、苦しそうにしている卯助のことなど気にも留めず、そんなことを考える。

 彼女は十四階で降り、端の部屋に向かう。この部屋が真糸と彼女の母の終雪が暮らしている家だ。その隣の家には卯助が住んでいる。そのほかの十四階の部屋もすべて真糸の母である終雪のものだ。防犯上、この階のすべての部屋を買ったらしい。なので、大半は空き家だ。

「ただいまー」

 真糸は玄関にくつを脱ぎ捨てて、中に入る。真糸はいつも『ただいま』と言うと変な気分になる。母親からの返事は絶対にないのに、何故なぜ自分はこんな言葉を発しているのだろうと。

 真糸はそのまま奥の部屋に向かう。

 奥の部屋には真糸の母親の不器終雪がいた。彼女は部屋のど真ん中に置いた革張りの椅子いすに座り、同じく革張りのフットレストに足を投げ出しながら、ノートパソコンで作業をしていた。終雪は自宅だというのに何故かパーティ用ドレスを着ている。真糸にはこのインテリアとファッションが本当に理解できなかった。まず、椅子を部屋の真ん中に置くというのが理解できない。明らかに邪魔で、空間の超非効率活用だ。それにドレスを着ている理由も分からない。何から何まで理解できないが──最早もはや、この人間を理解しようとも思っていない。

「卯助を回収してきた」

 真糸がそう報告すると、

「ご苦労様」

 終雪は真糸の方を見ようともせずに言った。

「あとでタクシー代ちょーだいね。三万円」

 真糸は二万五千円ほど上乗せしておいた。

「分かったわ。口座に振り込んでおくわね」

 そう言って、終雪はノートパソコンを操作する。オンラインバンキングで振り込むのだろう。真糸はこれがいやだった。終雪はお小遣こづかいも銀行口座に振り込むのだ。手渡しのメリットなんて何もないことは分かっているが──それでも、真糸は手渡しでもらいたいと思っていた。

 真糸が自分の部屋に戻ろうとすると、

「待って。これ、見といて」

 と、終雪は立ち上がって、ホチキスでたばねた三枚ほどの紙を真糸に渡した。そこには、六根雫りくねしずくという、卯助が攫うのに失敗した人間の情報と〝誘拐屋〟という二人組の情報があった。

(こいつらのせいで卯助は失敗したのか。まぁ、卯助が何かを上手うまくできるわけないけど)

 体力だけがで、しゃべることすらできない、でくの坊──それが、真糸の卯助に対する感想だ。何故、母親がこんな人間を使っているのだろうと常々疑問を感じている。さっさと切り捨てるべきだと思っている──自分がいれば十分なはずなのに。

「この六根雫ちゃんを連れてきて」

「……りょーかい」

「足として卯助を使うといいわ」

「分かった」

 真糸は終雪の言葉で卯助が運転免許を持っていることを思い出した。あの男がどうやって運転免許を取ったのかはなぞだが。

(あいつ、免許証の写真もガスマスクなのかな?)

 しかし、さすがにそれを調べるほど、真糸もひねくれてはいない。彼のガスマスクには理由がある。彼には顔の下半分からのどにかけてひどく大きな傷──いや、傷という言葉が生易なまやさしいぐらいのえぐれがあるのだ。ガスマスクはそれを隠すためのものだ。そして、彼はその傷のせいで喋ることができない。

(まぁ──そこら辺は同情するけどね)

「今日、明日中にこの子連れてきてね」

「分かった」

 真糸はその紙を持ったまま、キッチンに行って、牛乳を一杯飲む。

(面倒だし、今日やっちゃうか)

 資料を見た限りでは〝誘拐屋〟の事務所も遠くないし、まったく問題ないだろう。ただ〝誘拐屋〟の二人をぶっ飛ばして、女子中学生を一人パクってくればいいだけの話だ。

 真糸は自室に戻り、バッグを置くと、携帯電話で卯助に連絡する。

「今から三十分後に車を出してもらう。用意しておくように」

 卯助は喋れないので、もちろん返事はない。だが、断られたことなど一度もないので、そのまま通話を終了させる。

(あー面倒くさいなー)

 なんだか、最近──すべてが面倒くさい。

 学校の人間とはレベルが合わずつまらない。真糸は学校にいる人間は幼すぎる──人生経験が足りないと感じていた。中学生の時分で、こんなことをしている自分の方がおかしいということは分かっている。だが、自分の方がおかしいということが確定したからといって溝が埋まるわけではない。かといって、溝を受け入れる気にもならない。だから、彼らとは分かりあえない。もちろん友達なんて一人もいない。クラスでは軋轢あつれきを生まないようにうまくやっているが──それだと気を遣うだけで全然楽しくない。多分、そういう雰囲気が真糸の普段の行動からにじみ出ているのだろう、真糸はクラスでは浮いてこそいないが、一歩距離を置かれ、なんだか遠慮されていた。それはある意味、真糸としても望むところではあるのだが。

(あーだるいなー。明日も学校あるのかー)

 しかし、学校に行かなければ、することがないので、とりあえず学校に行くしかないのだが。それに、母親が学校には行けと言ってくる。ほかのことにはまったく干渉してこないくせに。

(この仕事がいつ終わるか分からないし、出る前にちょっと宿題やっとくか、面倒だけど)

 真糸には宿題というものの存在意義がさっぱり分からなかった。こんなものは、教師が自分の能力が足りずに授業の時間内では生徒の理解力を規定の部分まで伸ばすことができない、ということを証明しているだけではないかと思う。だからといって、そんな屁理屈へりくつで宿題をやらないわけにもいかないので、宿題に取りかかるしかないのだが。

(なんか人生って感じ? 仕方ないから面倒くさいことに取りかかる──みたいな)

 きっと、今日の仕事も退屈なまま終わると思うと、うんざりしてきた。



ななめ、起きろ。私はこれから出掛ける。雫と適当にご飯食べておいて」

 というはるの声で斜は目を覚ました。そして、ぼんやりとした目で時計を見る。午後五時。家に帰ってきてからずっと寝ていたので、七時間くらいは寝た計算だ。今日の春はいつもと違い普通の起こし方だった。もしかすると余裕がないのかも知れない。

「行ってらっしゃい」

 斜は軽く手を振って、春を見送ると、リビングに向かった。リビングでは雫がソファーに寝そべりながらスマートフォンで遊んでいた。

「雫、夕飯は何食べたい?」

「出前?」

「そうなるね。ピザか、お寿司すしか、中華か、うなぎってところかな」

 斜は指を折りながら言った。

「うなぎ! って高くない!?

「まぁ、高いけど、結局ピザの五割増しぐらいで収まるだろうし、問題ないよ」

 そもそも、夕飯代は春に請求するのでまったく問題ない。

「うなぎってさー、ご馳走ちそうっぽいけどさー、そこまで美味おいしくない気がするんだよねー」

「分かる。誤魔化ごまかされてる気がするよね。美味しいけれど、これはタレが美味しいんじゃ? みたいな。値段と見合ってない感じ。そうだね……じゃあ、ピザにしよっか。丸いし」

「なんだよ、丸いしって」

 雫がスマートフォンをいじる手を止めて笑い出す。

「丸い食べ物って美味しいものが多い気するんだよね」

「斜はやっぱ変なやつだなー」

「そうかな? じゃあ、適当にピザ頼むね。ピザの具で絶対無理なのとかある?」

「多分ない」

「了解」

 斜は近くに宅配ピザに電話を掛けて注文する。よく使う店なので、電話番号と食べたいものを伝えるだけで、すぐに注文が終わった。

「四十分ぐらいだって」

「おっけー。ってかウチら、ここにいて大丈夫なのかな? あのガスマスク男はここ知っているわけじゃん。家の前にいたんだし」

「うーん、まぁ、大丈夫だと思うよ。春が大丈夫って言ってたし」

「そうなの? そういや、斜は確か、ガスマスク男を倒したんだっけ」

「不本意ながら」

「斜って強いの?」

「まぁ、普通の人よりは強いかも」

「そーなんだ。でも、あのガスマスクのやつは普通じゃない気もするけど」

「うーん……あの人は強かったけど、普通の範疇はんちゅうかな」

「ってか、なんで、強いの? 見た目あんま強くなさそうだけど」

「説明すると長くなるけど、僕が勝てるというよりは絶対負けないって感じかな?」

 とりあえず【最適な間合いバッド・ディスタンス】さえ取れれば、そこから始まる相手の攻撃は必ず失敗するので、相手の攻撃が失敗したすきに【最適な間合いバッド・ディスタンス】をもう一度、取り直せば負けない、という理屈だ。

 ──が、例外もある。春だ。春には、春の【最適な間合いバッド・ディスタンス】と自分の【最適な間合いバッド・ディスタンス】を一致させられてどうしようもなくなった。互いの【最適な間合いバッド・ディスタンス】が一致すると、二人ともの攻撃が失敗するわけではなく【最適な間合いバッド・ディスタンス】の最適さが機能しなくなり──完全な実力勝負になってしまうのだ。その原理については春も理解していないようだったが、そういうルールだと彼女は言っていた。その状況からいかに脱出するか、というのが春から斜に与えられている課題の一つだった。しかし、いまだに糸口すら見えていない。まず、春がどうやって【最適な間合いバッド・ディスタンス】を見つけ出し、調整したのかが分からなかった。【間合い】は自分しか分からないはずなのに。しかし、春は【最適な間合いバッド・ディスタンス】があるという事実と【間合い】が分かる人間──斜がいれば、それを見つけ出すことはできる、と言っていた。斜には理解できなかったが。

「なんで負けないの? 説明してくれないと分かんないよ」

 雫が口をとがらせながら言った。

 しかし、斜はそれを説明できなかった。春に【間合い】のことは、あまり人に言わないように言われている。こういうものは他人に知られていないからこそ価値があると。それに、これまで【間合い】が分かるせいで人間関係がことごとく上手くいかなかったのだ。斜としては、あまり自分の特殊性を吹聴ふいちょうしたくはない──雫ならば共感してもらえるのかも知れないが。

「ちょっと言えない。企業秘密」

「……何それ? でも、とにかく、強いってことだよね」

 厳密には違うのだが、

「そうだね」

 と、答えておいた。

 しかし、斜としては、この【間合い】を常々暴力以外のことに使えないかと思っていた。一応、尾行なんかに使えないことはないのだが──もっと平和的というか、建設的なことに使えないかと考えていた。今のところ、まったくアイデアは浮かんでいないが。

「あっ、そういえば、ピザ、この前も食べたじゃん!」

 急に雫が声を上げる。

「ああ、そうだね? それがどうしたの?」

「えっ、斜って同じものが連続しても気にしないタイプ?」

「三連続とかなら嫌だけど、今日は中一日いてるし」

「まぁ、いいか。ピザの味は違うよね?」

「うーん……ごめん。前に食べたピザの味、覚えてないや。雫は覚えてる?」

「トマトっぽかった気がする」

「ピザって半分くらいはトマトっぽくない? ってか、トマトのやつ頼んじゃったよ」

「えっ、そうなの? まぁ、いいか。ピザ好きだし」

 雫はソファーに寝っ転がると、またスマートフォンをいじり出した。

 斜は手持ちぶさただったが、ソファーに座って、ぼんやりしながら、ピザを待つことにした。



 斜が雫と先程注文したピザを食べているとき──玄関の開く音がした。春が帰ってきたにしては早すぎるし、何より、感知したこの【間合い】の感覚は春のものではない。そして、ほかの知っている人間でもない。どうやら知らない人間が勝手に入ってきたようだ。斜はこれからの対応のため、ピザを皿に置き、手をいてから立ち上がった。

 足音が近づいてくる。

 リビングに現れたのは、目つきがやたら鋭いセーラー服の女子──知らない人間だった。

「こんばんはー」

 その少女はあごを少し引き、斜をにらみながら言った。

 斜は未だに素知らぬ顔でピザを食べている雫を引っ張って、自分の後ろに隠し、一応「こんばんは」と言いつつ、その少女との【間合い】を取り始める。

「〝誘拐屋〟ね。まぁ、ピザ取ってかぎかけてなかったのは不用心だけど──玄関が閉まってたら、窓ぶち破って入るだけだし、気にしない方がいいよ。どうせ、私の侵入は防げなかった」

 その少女は顔とは似合わない、物騒ぶっそうなことを言い出す。

「何か用ですか?」

 斜はその少女との【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取りつつ、聞く。

 その少女は斜が戦闘態勢に入ったことを理解したのか、斜に対して鋭い視線を向けた。

「その子、ちょーだい」

 少女は斜の後ろにいる雫に向かって、指をまっすぐに突き立てる。

「は?」

「〝誘拐屋〟さんからその子を〝誘拐〟しようって言ってるんだよ」

 少女は、しししっ、と笑うと、一歩前に出る。斜もそれに合せ、一歩下がる。

(まずいな、狭いから取れる【間合い】に限界がある。【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ったから一回は攻撃を防げるけど……)

 しかも、後ろには雫もいるので酷く戦いにくい。だが、相手は女の子だ。そんなに警戒する必要はない気もするが──彼女はそこらへんの女の子とは雰囲気が違った。瞳孔どうこうの拡大した目はギラギラとして、なんだか怖い。

「斜、〝誘拐屋〟って何?」

 雫が緊張感のない声で後ろから聞いてきた。

「あとで話す」

 話さないかも知れないが、斜はとりあえず、こう答えておく。

「──変だ。なんで、そこに立ってるの? まるで、私がどうするか分かっているみたい」

 少女は一歩下がりながら言った。

 斜は逆に一歩詰める。

「なんで、そこだと確信できるんだ? あんた? ちょっと──試してみるか」

 少女は斜が使っていた皿を持ち上げ、乗っていたピザをテーブルにぶちまけると、その皿をまるでフリスビーでもするかのように構えた。

 斜はそれに合わせ、距離を詰める。この場合は、近距離が【最適な間合いバッド・ディスタンス】になるようだ。そして、この【間合い】が自分の攻撃の射程範囲とほぼ同じだったので、少女の腕に手を伸ばし、ねじり上げようとする。彼女は不法侵入者だ、多少痛い目にわせても問題ないだろう。

 だが、その攻撃はいとも簡単に少女の右手に止められてしまった。斜にとってそれは異常事態だった。そもそも【最適な間合いバッド・ディスタンス】から、繰り出された攻撃はけたり防御したりすることができないはずなのだ。身を強張らせたり、威力を殺すぐらいなら不可能ではないが──このように完全に防御されたのは初めてだった。

 斜は、少女が皿を構えるのをやめたので、最初の位置まで【間合い】を取り直す。

(……この【間合い】もおかしい──遠すぎる? 女の子でこんなに【最適な間合いバッド・ディスタンス】が遠い子なんて普通いないぞ? ……いや、どう考えても普通じゃないよな、この子は。そういや、春も【間合い】が広かったような?)

「なんていうか【間合い】の取り方だけ達人級だね。ほかはせいぜい、素人しろうとに毛が生えた程度だけど──なんか、ちぐはぐで気持ち悪いな、あんた。じゃあ、ネタもバレたし、そろそろ終わらせますか。卯助にあんたはちょっと荷が重かったかもね──あいつバカだから」

 少女は皿を持ったまま、ソファーの上に飛び乗った。

「なんていうか、あんたもバカだよね──宝の持ちぐされっていうか。いや、違う。手段に使われてるんだ。なまじ【間合い】が分かる分、行動が稚拙ちせつなんだよ。まずは、分かるっていうことを相手に分からせないようにしないと。どう考えても、この皿はブラフでしょ。それに、こんなもん投げられたところで、どうってことないだろうに」

 少女は余裕綽々よゆうしゃくしゃく講釈こうしゃくを垂れるが、その間も斜は動けない。これは春に指摘されたことのある弱点だ──斜は最適でない【間合い】で行動を起こすことができないのだ。もちろん動けないわけではないのだが、どうしても戸惑とまどってしまう。だから、まず【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ることを優先してしまい、普通に戦えないのだ。それに何より、これだけの短い時間で【間合い】を看破かんぱされたことが衝撃だった。数分ですべてを見抜かれるなんて経験──初めてだ。さらに【間合い】を見抜かれたことを抜きにしても彼女の身のこなしは異常だ。

 少女は斜に皿を投げつける。

 斜はその皿を手で防ぐ。だが、その防御の隙に部屋の隅まで追い詰められてしまった。雫が一番端にいて、それから斜、少女と続く形だ。これではもう【間合い】が取れない。

「ほら、あんたの負け。私はあんたにうらみはないし、その子をくれれば、何もしないよ」

 少女はそう言って、斜のほおを張った。しなる平手が斜の頰とぶつかり、ぱぁんという高い音が鳴る。それは予想以上の威力で、斜は一瞬体のバランスを崩し、よろけてしまった。

「なるべく早くどいてね、どくまでどつくから」

「──嫌だ」

「あっそう」

 少女はあきれた感じで言い、斜の足に足を引っかけつつ、斜の襟首えりくびつかんで、床に押し倒すと、斜の頭をローファーで踏みつけた。斜ももちろん、ふんばったり、逆に相手を摑もうと抵抗をしたのだが、彼女はいともたやすくその抵抗をいなし、斜のふんばる力を逆に利用するかのように斜のバランスを崩した。そして、ただ頭を踏まれているだけなのに立ち上がれない。

「よし、行こう」

 少女はそう言って、雫の手を引き、そのままドアに向かった。雫もされるがままにされている。

「待てよ!」

 斜は立ち上がり、声を張り上げる。

「待たないし」

 斜は、背を向けて歩き始める少女に向かって、突進する。だが、少女は斜の方を見ることもせず、いとも簡単そうな動作で、斜を避けると、今度は斜の脇腹わきばらひじを入れた。

「あんたは、なんていうか、本当にダメだなー。【間合い】が分かるんでしょ? なら、せめて、私が歩いて距離ができたところを攻めてくればいいのに」

 少女は、しししっ、と息をらすように笑う。

「待て!」

 斜はそのまま、少女の制服のすそを摑んだ。

「そろそろ、やめようよ。別に、あんたも、こいつがいないと死ぬってわけでもないんでしょ? 〝誘拐〟のターゲットだったってだけで。命の方が大切でしょ。利口りこうになろうよ」

 摑まれた少女は振り返りもしない。

 斜はさらに強く、少女の裾を引っ張り、行く手をはばむとともに、自分の方を向かせた。

「……あー、ちょっとウザい」

 彼女はそう言って、右手で斜のあごを上にぐっと突き上げると同時に、足を払って転ばせ、そこから、よどみない動作で倒れた斜のみぞおちにつま先でりを入れた。

 それを食らった斜は、体を曲げて、もだえ始める。

「斜、ありがと。でも、もういいよ」

 さっきまで黙っていた雫が斜に向かって言った。

「…………えっ?」

「斜は確かにレアケースだけど……斜だけが辿たどり着く手段ってわけじゃない。それに、斜が手段であるという確証もないし。何より、この子は斜より強いみたいだしね。この子といた方が安全だ。〝新天地〟はこの子のところで、じっくり探すことにするよ」

 こんな風に拒絶されるとは思わなかった。何故か、裏切られたような気すらする。

「ちょっと、雫──」

 言葉は途中で途切れ、何を言ったらいいのか分からない。

「だってさ、あきらめな。フられちゃったね」

 少女は、しししっ、と笑うと、雫をかつぎ上げて出ていった。

 斜は、雫に拒絶されたせいか、もう彼女を追いかけることができなかった。本来ならば、仕事なので追いかけねばならないのだが──それができなかった。斜の中にはもう、雫を追いかけるだけの理由が残っていなかった。



 不器真糸は車の後部座席に座り、隣の六根雫を観察する。

 頰杖ほおづえをつきながら、車の窓から景色を眺めている彼女は、いかにも普通、といった感じだった。どこにでもいそうな女子中学生だ。同い年の真糸がそう思うのだから、間違いない。

 でも、だからこそ異常だ。

 こんな乱暴に攫われたのに取り乱したりせず、あまつさえ、あの状況で〝誘拐屋〟の深草ふかくさ斜をこれ以上怪我けがさせないようにか、わざと突き放すという立ち回りをしたのだ──普通の女子中学生ではとてもじゃないができない芸当だ。冷静すぎる。

 それに、事前情報では、彼女は中学校のクラスメイトの大半をどうにかしたとあった。正確には、ほとんどを不登校にした、だ。手段が分からない分、気味が悪い。

(ママはこんなのをどうするつもりなのかしら?)

 真糸は母親のゲテモノ趣味にはうんざりしていた。卯助より使える人間はいくらでもいるのだから、卯助を使う必要はないし、気味の悪い女子中学生はほうっておけばいいと、常々思う。

 真糸は運転席のカーナビを見て、到着時刻を確認する。あと十分ほどで家に着くようだ。

(時間もあるし、ちょっと話しかけてみるか)

「えーと、六根雫だっけ。私は不器真糸」

「雫って呼んで」

 雫は窓を見たまま答えた。おびえていないどころか、最早、ふてぶてしさまで感じる。

(すごいな、こいつ。きもわっているっていうか……)

「なんていうか、雫は、怖くないの?」

「何が? 別に怖くないけど?」

「……どうして?」

「怖がる理由がないと思うけど?」

 それは確かだ。真糸は雫を傷つけるわけにはいかないし、そもそも傷つける理由もない。だが、さっきの深草斜に対する乱暴な対応を見れば、だれだって怖いと思うはずだ。しかし、こうまで反応が思いどおりではないと、少しいじめてやりたくなる。

「さっきの見てたでしょ? 私、強いんだよ」

 真糸はそう言ってから、ずかしいことを言ってしまったと後悔した。『強いんだよ』なんて、アホそのものだ。真糸は冷静になろうと心掛ける。

大抵たいていの人がウチより強いと思うけど」

 彼女の言うとおりだ。雫の体格は正直小学生ぐらいだ。そういうことを抜きにしても、女子中学生より弱い人間というのはそうそういない。

「まぁ、いいや。雫はいくつ?」

 真糸は話を変えることにする。

「そんなこと聞きたいの? ウチは十四歳だよ」

「同じだ」

「……」

「…………」

 もちろん、年齢は事前に知っていたが、これは、同い年を強調し、話を引き出す作戦だ。しかし、会話はまったく広がらなかった。

(……なんていうか、話を引き出す必要もないんだけどね)

「さっきは、乱暴してごめんね」

 今度は謝ってみる。もしかしたら雫の態度が軟化するかも知れない。

「ウチは何もされてないけど。斜には謝った方がいいと思うけどね──というか、なんで、ウチは攫われているわけ?」

「さぁ? 私はママに頼まれただけだし」

 ここで、中学校のクラス全員を不登校にしたことを聞こうかとも思ったが、やめておいた。そういうのは母親に任せるつもりだ。面倒くさいことにはかかわりたくない。

「ママ、ね」

「何か文句でも」

「ないよ」

「なんで、雫はそんなに冷静なわけ?」

「ウチもびっくりしてるよ。でも、もしかすると、こういう劇的な環境の変化から〝新天地〟へのきっかけが摑める可能性もあるしね。まぁ、斜にはまた会わなきゃならないだろうけど」

「…………そう」

(何、言ってるんだ、こいつ? もう一度〝誘拐屋〟と会えると思っているのか?)

 そこで車がマンションの前に着いた。真糸は、駐車を卯助に任せ、雫と二人で降りる。

「着いたよ、ここが私の家」

「ふぅん」

 雫は興味なさそうな返事をする。

「十四階は全部うちの家なんだよ」

 真糸は、雫もこの話題には乗ってくるだろうと思った。しかし、

「そうなんだ」

 と、彼女は全然興味を示さなかった。折角せっかく、会話を盛り上げようと話題を提供したというのに、こういう対応をされると、少しムカつく。

「反応薄いね」

「わーすごい。お金持ちなんだー。うらやましー」

 雫は棒読みで言う。それには真糸もいらっときた。真糸は雫の頰に手を当てると、親指を立てて、まぶたに触れさせる。いつでも目をつぶせるぞっていうおどしだ。

「あんまり、めて──」

 真糸はそこで言葉を止めてしまった。雫のがあまりにも冷静で冷たかったからだ。真糸はそんな眼をする女子中学生を今まで一度も見たことがなかった。

 真糸がたじろいでいると、雫が小さく笑った。そして、彼女は軽く手を振り、

「真糸はさ、承認欲求っていうのかな? そういうのが強すぎるよ。斜と戦っているときも、言わなくていいことをべらべら喋ってたしね。周りとコミュニケーションが上手く取れていないでしょ? それどころか同級生とかに対して、自分が上だって思いすぎていて、自分からコミュニケーションをこばんでるんじゃないかな? そういうのって子供っぽいと思うよ」

 と、真糸の弱点と思われることを指摘してきた。真糸はその様子に、がらにもなく、ぞっ、としてしまった。怖いわけではない。得体が知れないのだ。目を潰すという脅しをかけられているのにもかかわらず、先と変わらぬ態度で自分に接し、あまつさえ、自分を逆上させるようなことを言ってくるのだ。目の前の少女が何を考えているのか、分からない。

「──冗談だよ」

 真糸は言い捨てると、雫の頰から手を離し、くるっと反対側を向いて、家の方に歩き始めた。──すぐに後ろを向いたのは、にやけた自分の顔を見せないためだ。

 真糸は雫のことを面白おもしろいと思い始めていた。気味が悪いと思う気持ちや、怖いと思う気持ちよりも、圧倒的に好奇心がまさっていた。彼女は学校の同級生とは違って刺激的だ。もう少し話がしたい──真糸は雫のことを知りたいと思った。

 ずっとあった退屈な気持ちは、いつの間にか吹き飛んでいた。