食後、ななめが自室でベッドに寝転びながら本を読んでいると、ドアがノックされた。どうやらしずくが来たようだ。斜は人を見なくても【間合い】で人を判別できる。人はみな固有の【間合い】を持っていて、斜はその【間合い】で人が分かるのだ。人には説明できない感覚だが、多分、犬が嗅覚きゅうかくで人を判別できる感覚みたいなものだろう。

 斜は寝転んだままだと失礼なので、ベッドに座ってから、

「どーぞ」

 と、ノックの相手を呼び入れる。部屋に入ってきたのはやはり雫だった。

「どうしたの?」

「スマホ充電切れて暇になった」

 雫はそう言うと、斜の隣に座った。随分近い。ほぼ密着だ。

「充電しながら使えばいいのに」

「それだと、コンセント遠いからベッドで寝っ転がりながら使えない」

「ああ、そうなんだ。で、なんで、はるじゃなくて僕のところなの?」

 斜は本にしおりをはさみ、ベッドのわきに置く。

「もしかして、迷惑?」

 雫は少し怒ったように言った。

「別にそういうことはないけど、こういうときは女の人のところかなーって思って」

「……なんか春って取っつきにくそう」

「まぁ、そうだね。優しいところもあるけど、おかしいところも多いからね」

「──一つ聞きたいんだけどさ、ウチをここに置いて、斜たちにはメリットがあるの?」

「さぁ……僕はよく知らない。春の助手みたいなもんだからね」

 斜は、雫を兼崎かねざきに渡す予定であることは黙っておいた。伝えるべきことではないだろう。もし、伝えるとしても、それは春の口からだ。

「斜はここに住み込みで働いてるんだ」

「いや……違う。わけではないんだけど。うーん、説明が難しいなー。おじいさんがいて、おじいさんが死んじゃって、春が保護者代わりになってくれてって感じ。で、まぁ、仕事を手伝ってるから、住み込みで働いているっていうのも正しいんだけど、給料をもらってるわけじゃないんだよね。一応、ブロードウェイに入ってる、春の友達が店長をしている……なんか、タロットとか色々なものを売ってるお店でバイトもしてて、そっちは給料をもらってるんだけど」

「ふぅん。あんまり分かんないや、ニュアンスは分かったけど」

「説明下手べたでごめんね」

「別にいいけど」

「そういえばさ、なんで雫のクラス、あんなに人少なかったの? 風邪かぜ大流行?」

「ああー……うん、色々あってね。ってか、なんで知ってるの?」

「まぁ、ちょっと──」

 今度は斜が言葉をにごす。

 すると、雫が斜の方へ確かめるように手を振り、不思議そうな顔をした。

「あと、それ何? なんかときどき、手振ってるけど」

「ん、んー……」

 雫は口をぎゅっと閉じると、うなり出した。

「言いたくないなら、別にいいけど」

「いや、そういうわけじゃないけど…………まぁ、斜ならいいか。話すよ」

(僕なら話せるってどういうことだ? 会ったばかりなのに? いや、だからこそか?)

 斜はよく分からなかったが、うなずいて、聞く意志を示す。

「ウチね、人の周りに球が見えるんだ。ウチはそれを【ビーズ】って呼んでるんだけど。大体人の周りに数個浮いている感じ。欲望が大きくなると【ビーズ】も大きくなる。色はてきとーだと思う。いろんな色してる。おおまかな傾向はあるけど。暖色系とか寒色系とか」

「どういうこと?」

 斜は雫の説明ではピンと来なかった。言葉どおりの理解はできるが。

「人には見えないものが見えるっていうか」

「おけみたいな?」

「見えてるのはお化けじゃないけど、そんなイメージ」

「ふぅん。僕の周りにも浮いてるの?」

 何故なぜか、雫はすぐには返答せず、少し時間を置いてから、

「…………一応、浮いてるよ」

 と、答えた。

 斜は、雫の答えまでのと『一応』という前置きが気になったが、質問を続ける。

「で、雫はときどきそれを触っているわけだ。なんで? 手触りがいいの?」

「いや、感触はないよ。それに触るとね、人の欲しいものが分かるんだ」

「へぇ……便利……なのかな?」

 斜は『欲しいものが分かる』というのがどういうことか、いまいち分からなかったので、どう反応すればいいのか分からなかった。冗談ではなさそうなので、笑うわけにもいかない。

「そーでもないよ。得したことなんてほとんどない。人の欲望が分かったって、いいことない。相手の欲望を自分のかなえられる範囲で親切にすれば、人間関係ぐらいは良くなるけど。それに人の欲望なんて見ても楽しいもんじゃないし──人の欲望って結構エグい欲望だらけだよ」

「ふーん。じゃあ、手を動かしてたのは僕の欲しいものを調べていたんだ?」

 斜は、何故楽しくもないものを見ていたんだ? とも思ったが、自分だって【間合い】を当たり前のように取っていた時期もあったので、そういうものかも知れないと思った。

「まぁね。調べられて、気分悪いならやめるけど」

「いや、別に。──じゃあさ、僕が欲しいものを当ててみてよ」

「…………んー。分かった」

 雫はそう言って、手を振った。しかし、なんだか、春に向かって手を振るときは少し様子が違った。どこがどう違うのかは、はっきりとしないが。

「甘いものが食べたいって感じかな? 多分、アイスだね。暑かったし」

「あー、言われてみれば、そんな感じかも。アイス食べたいかも」

「──大体、そんな感じ」

「すごいね」

「ってか、斜、あんまり驚かないんだね。普通の人はもっとびっくりするんだけどね。まぁ、あんまり人に見せたこともないけどさ。変なやつだと思われちゃうし」

「ああ。うん、まぁ──」

 斜は自分も【間合い】が分かると口をすべらせそうになってしまったが、これはあまり人に話さない方がいいと春に言われていたのを思い出し、すんでのところで止め、

「知り合いになんか色々分かる人がいるんだ」

 と、誤魔化ごまかしておいた。

「やっぱりそうなんだ」

「やっぱりって?」

「ウチのところに斜たちが来たのはそういう人のこと知っているからなんだな、ってこと。そういう人を集めて悪いことするの?」

「さぁ……僕は知らない。でも、なんで雫はそんな風に思ったのについてきちゃったの?」

「……今の生活にうんざりしてたからかな。新しく生きる場所を見つけたい、みたいな」

「見つかるといいね」

「そこは、普通、今すぐ元の生活に戻った方がいいって説得したりするんじゃないの?」

 雫は笑いながら言った。

「いや、環境を変えて上手うまくいくなら──絶対にその方がいいよ」

 これは斜の実体験だ。斜はここに来て、色々なことを克服し、普通の生活が送れるようになった。それは良かったのだが──世間せけん一般でいうところの犯罪に手を染めてしまっていることを考えると、実は良くないのかも知れない。だが、斜には良かったと言える自信があった。前の状態には戻りたくない。

「……斜ってあんまり強い言葉使わないのに、今〝絶対〟って言ったね。ということは斜も環境を変えた口なのかな?」

「すごいね。よくそんなこと分かるね」

「さっき、おじいさんが死んでここに来たって話も聞いたし。これは【ビーズ】関係ないよ」

「うん、そういうこと。だから、無理しない方がいいよ。意味もなくつらいことに耐えたって仕方ないしね。逃げちゃうのも手だよ。そこには助けてくれる人だっているかも知れないし」

「斜は優しいね」

「そうかな?」

「まぁ、普通の人はあんまりそういうこと言わないだろうしね──」

 斜は、普通の人は普通じゃない人のことなんて分からないから、という言葉は飲み込んだ。この言葉は彼女を傷つけるかも知れない。

 斜はそれから一時間ほど雫と他愛たわいもない話をした。

「じゃあ、そろそろ僕は寝るよ」

「早くない?」

「今日は疲れた。なんだかんだで、起きたの朝の五時だしね」

「そっか、おやすみ」

 斜は雫が部屋から出たのを確認し、ベッドに入ると、春にメールで今、雫と話したことを報告してから寝た。雫が、自分ならば話してもいい、と言って教えてくれたことを春に報告するのは少し心苦しかったが──仕事だから仕方ないとあきらめた。



 六根りくね雫は深草ふかくさ斜に【ビーズ】のすべてを話したわけではなかった。雫の見ることのできる【ビーズ】には二種類あり、斜に話した【ビーズ】のほかに【到達のビーズ】と呼んでいるもう一つの【ビーズ】が存在した。──おそらく、こちらこそが事態の中心だ。

【到達のビーズ】──それは通常の、睡眠欲、食欲、性欲、物欲等、諸々もろもろの欲望とはまったく違う、いわば人生の目標を示す【ビーズ】だ。【到達のビーズ】も、触れば欲望の内容が分かるという点では通常の【ビーズ】と変わらないが、【ビーズ】とは形がまったく違った。【ビーズ】は体の周りに浮いている小さな球だが、【到達のビーズ】は、人をおおうくらい非常に大きな球──言ってしまえば、バリアのような形をしていた。その上、色がほぼ無色なので、目をこらさなければ見ることができなかった。

 そして、何よりの違いは【到達のビーズ】の内容を人に教えたときの、伝えられた人間の反応だ。通常の【ビーズ】は人に内容を教えても、特に何も起きない。しかし、【到達のビーズ】の内容──人生の目標を教えられた人間は、その目標に向かって突っ走るようになる。

 これは【到達のビーズ】の内容が、本人が気付いていない無意識にがれている人生の目標だからだ。やりたいと思っていても、諸処しょしょの事情から諦めている──というよりも、考えることすらやめている夢みたいなものなのだ。

 それを雫に教えられた人は、自分の本当の目標に気付くとそれに向かって一直線になる。夢を目指すようになる。雫はすでにこれを試し終わっていた。結果、【到達のビーズ】の内容を知った雫の両親は、子供である自分をないがしろにして仕事に打ち込み、同級生は学校よりも大切なものを見つけ、学校に来なくなってしまった。

 雫は【到達のビーズ】で彼らが辿たどり着いたところを〝新天地〟と自分の中で名付けていた。

 そして、雫は【到達のビーズ】の内容を知って、目標に向かって突っ走る彼らを──うらやましいと思っていた。

 雫にとって世界は窮屈きゅうくつだった。色々と分かってしまう分、逆に行動が制限される。知ってしまうと動けなくなることというのは世の中にたくさんある。

 雫はずっと【ビーズ】のことを隠しながら生きてきた。それは仕方のないことだと思っていた。世界に迎合げいごうしなければ負けるだけなのだから。

 しかし、周りの意見を気にせず【ビーズ】を活用できる世界が、自分の求めている世界かどうかは分からなかった。でも──自分の人生には何かが足りないとずっと思っていた。

 だから、雫も自分の【到達のビーズ】の内容を知り、〝新天地〟に辿り着きたいと思っていた。

 しかし、それには大きな障害があった。

 雫は他人の【ビーズ】しか見ることができなかった──自分の【ビーズ】は見ることができなかった。理由は分からない。欲望がないわけではないだろう。しかし、自分の【ビーズ】だけはどこにも浮いてなかった。それは、鏡を見たって映ってないし、写真にも写らなかった。

 だから、六根雫の当面の目標は自分の【ビーズ】を見ることであった。そして【到達のビーズ】を利用し、果ては自分も〝新天地〟に辿り着きたいと思っていた。

 そして、六根雫は、今日、不思議な人間を見つけた。

 深草斜だ。

 彼には【ビーズ】がなかったのだ。雫が【ビーズ】のない人間を見たのは初めてだった。だから、雫は最初、彼がロボットか何かだと思った──雫にとっては人型ロボットよりも欲望がない人間の方がファンタジーだからだ。もしかしたら【ビーズ】が透明なのかも知れないと思い、手を振ってみたが、やはり彼に【ビーズ】はなかった。密着もしたし間違いない。

 六根雫は【ビーズ】が浮いていない深草斜に興味があった。だから、春とかいうやつの欲望どおりにさらわれてやった。

 今はまだ、斜本人には斜の【ビーズ】が見えないことは隠してある。【ビーズ】の存在を教えた上で、【ビーズ】が見えないと教えたときに変化があるかも知れないと思ったからだ。

 こうやって【ビーズ】が見えない斜を観察すれば、自分の【ビーズ】が見えない理由──ひいては自分の【到達のビーズ】をも見る方法が分かるかも知れない。もちろん、〝新天地〟が世間一般でいう幸せとは程遠いものだということは分かっている。だが、そこは、幸せをなげうってでも辿り着く価値のある場所だと──少なくとも六根雫は思っていた。



 翌朝。雫は寝間着のまま、リビングルームでぼんやりとテレビを見ていた。感覚としては学校を風邪で休んだとき、普段は見ないテレビ番組を昼間に見ている気分だ。今日もまた、斜に話し相手になってもらおうと思っていたのだが、彼は朝からバイトに行ってしまっていた。仕方ないので春と話そうとも思ったのだが、彼女は仕事をしているらしく声をかけにくかった。だから、雫はこうして一人でテレビを見ていた。

(まぁ、大人しくしとくしかないかー。本当はもうちょっと斜と話したいんだけどなー)

 もっと彼を観察して、彼の【ビーズ】が見えない理由を調べなくてはならない。今のところ自分の【ビーズ】を見るための手掛かりは彼しかないのだから。

 午前十一時を半分くらい過ぎたころ、春がリビングにやってきた。

「雫ー、昼は何食べたい?」

「えっと……なんでもいいかな」

「じゃあ、適当に食べにいきましょう」

「分かったー、じゃあ着替えとくー」

 雫が自室に戻り着替えを終えると、春も用意を済ませていた。

「行きますか」

 春がそう言うのとほぼ同時に来客を知らせるチャイムが鳴った。春は「タイミングりーな」と毒突きながら、モニター付きのインターフォンのところに行くと、雫を手招きした。

 雫はなんで呼ばれているのか分からなかったが、そこに近づいてみる。

「これ、昨日、斜と雫が言ってた、ガスマスク君?」

 春がひそひそ声で言った。

 雫は映像をのぞき込む。あのパーカーにガスマスク、間違いないだろう。さすがにこんな格好をしている人間が二人といるわけがない。

「こいつだ」

「執念深いやつだなー」

「どうするの?」

「面倒だしー、おなかいてるしー、裏から出て、ご飯食べにいこう」

(この人、第一目的がまだ、ご飯食べることなんだ……普通だったらこいつをどうにかしようと考えるんじゃないの? そういや、斜も春はおかしいって言ってたな)

 雫はあきれつつも、かなり感心してしまった。事実、春の【ビーズ】は食欲の球だけが異常に大きい。ここまでの食欲は中々見ない。給食前の男子中学生だってこうはならない。

 やがて、ドアをドンドンとたたく音がリビングにまで聞こえ始める。

「うぜぇな、あいつ。ドアへこんだらどうすんだ? ぶっ殺そうかな?」

「えっ、できるの? あの人すごい大きかったよ」

「関係ないわよ。人間はマンモスだって食べてたんだし」

「それは集団で狩ってたからじゃあ……?」

「中には一人で倒せたやつもいたでしょ?」

「いや、いないと思うけど」

「まぁいいや。とりあえず、雫になんかあるとマズいし、逃げるわ」

「それはいいけど、どうやって?」

 ここはマンションの七階だ。ベランダに非常用のはしごなんかはあるかも知れないが、それを非常時でもないのに出すのはまずいだろう。もっとも、あのガスマスク男から逃げるためなら、そのぐらいは諦めるべき点なのかも知れないが。だが、春の提案してきた逃走経路はまったく違う──雫の考えが及びもしないものだった。

「まず、ベランダの外に身を乗り出して栅に手を掛けてぶら下がる、手を離す、一個下の階の栅に足を乗せる──を繰り返していくのよ。六回やれば一階に着くわ」

「絶対無理」

「雫は背が小さいから、足は届かないかも知れないけど、まっすぐ落ちれば大丈夫。もしミスっても、一個下の栅をまたつかめばいいわけだし」

「本気で言ってるの?」

「本気だけど?」

「絶対死ぬって」

「じゃあ、ちょっと見つかる危険は増えるけど──隣の家のベランダに侵入するとさ、マンションの外壁の階段までジャンプすればすぐじゃん。そのルートで行こう」

 雫はベランダの栅から身を乗り出し、階段の位置を確認する。不可能ではない距離だ。だが、普通に怖い。雫は春が本気で言っているかを調べるため、春の【ビーズ】に触れてみる。どうやら、自分に害を与えようという欲望はないようだ。あるのは、ほとんどが食欲だ。

(そこまでして飯食いたいのかよ……)

 雫は呆れるが、ガスマスク男に会うよりはマシだと思い、小さくうなずいた。

「まっ、私が先に行って、補助するから」

 春はそう言って、ベランダの栅を乗り越えてぶら下がると、左右に体を揺らし、その反動を使って飛び上がり、いっきに隣の家のベランダに侵入した。

(何あの飛び移り方! ありえないっしょ!? ウチもあれやんの? 無理! 無理! あっ、今気付いたけど、これ不法侵入だ!)

 だが、今更、どうしようもない。

「ほら、手」

 春はそう言って、手を伸ばしてきた。雫はそれを摑む。

「こっちの栅にぶら下がる感じでゆっくり乗り越えて」

 雫は怖かったが、春がしっかりと手を握っていてくれたので、思い切って、体を宙に投げ出す。今、雫の体は栅にかけた左手と、春に摑まれた右手でなんとか支えられている状態だ。皮膚だけは夏の外気で暑いが、体の中は薄ら寒く、生きた心地ここちがしない。

「よっ」

 春がかけ声とともに雫を引っ張り上げた。雫はなんとか隣の家のベランダに侵入することに成功した。今更、心臓がバクバクと鳴り始める。

「じゃあ、次」

 今度は簡単そうだった。ただ、栅の上に乗って、そのまま、階段の方に移ればいい。飛び移る必要すらない。歩幅以下だ。

 春が階段に移動するのに続き、雫も同じように栅に乗り、階段に飛び移ろうとしたときだ──雫は足を滑らせてしまった。きっと、今回は楽だと思って気がゆるんだのだろう。

 体に最悪な浮遊感を感じた直後、春に腕を摑まれた。一旦いったん収まりかけた心臓の鼓動がまた、先のように、速く強い鼓動を刻み出す。さっきの鼓動はなんとなくいやだったが、今回の鼓動は嫌を通り越して、鼓動があって良かったという感じだ。

「ははは、雫はトロいなー」

 春は笑いながら雫を引き上げると、とんとんとん、とかろやかに階段を降りていった。雫はそれを見て、ようやく助かったことを実感する。そして、雫もそれに続く。

「あ、ありがとう」

「別に、どういたしまして。とりあえず、斜のバイトが終わるまでどっか行こっかね。逃げるのを兼ねて、遠くがいいね。どっかのサービスエリア行こう。時間はかかるけど、仕方ない」

 春は全然仕方ないとは思っていなさそうな、楽しげな口調で言う。

「……分かった」

 雫は、春もなんだか、斜とは違った意味で興味深いと思った。今までの人生で、こんな人間は初めて見た。〝新天地〟に辿り着くための手掛かりにはならないだろうが──単純に面白おもしろいと感じた。できれば、もう少し距離を置きたいと思ったのも事実だが。



『えっ、千葉ちばにいる? ご飯食べに? 高速のサービスエリアに? ばかじゃないの?』

「というわけで、斜、バイト終わったら、家の確認お願いね。サービスエリアっぽいお土産みやげ買ってきてあげるから、市販のお菓子の大きいやつとか」

『わ、分かったけどさぁ──』

 雫と食後のお茶をしていた春は、斜との通話を切り、電話をしまった。

「まぁ、時間もできたことだし、適当に話でもしましょうか。そうだ。お互いに一つずつ質問しよう、色々分かるだろうしね」

「はぁ」

 雫は曖昧あいまいに言って、うなずく。

「じゃあ、先質問どうぞ」

 春は、ぱっ、と手の平を雫の方に向けた。

「…………じゃあ、春って何歳?」

「二十三」

「意外と若い」

「いくつぐらいだと思ったの?」

「二十代後半──斜の保護者って聞いてたから。外見での判断とかではないよ」

 春は小さく笑い、コーヒーを一口飲んだ。

「じゃあ次は私が質問するね。雫の誕生日はいつ?」

「それ、本当に知りたいの? ……六月十二日だよ」

「最近、十四歳になったんだ」

「うん。じゃあ、次はウチだね。〝春〟って本名?」

「違うわ。なんで本名じゃないと思ったの?」

「勘。春って名前が、春のとしの割に珍しいからかな? おばあちゃんっぽい気がした」

「そう? そんなことないと思うけど……そうだとしたらなんか嫌だな……まぁ、春は本名じゃないよ、別に名前を隠さなきゃいけないわけじゃないんだけど──名前が英語名なのにアルファベットじゃない上に漢字なのが嫌でね」

「まぁ、名前の感じ方はウチの感覚の問題だしね。──質問どうぞ」

 雫はそう言って、ジュースを一口飲んだ。

「学校の成績はどのくらい?」

「普通ぐらい。悪くはない、多分。じゃあ、質問するね。春は会社勤めとかじゃないの?」

「違う、と言っておきましょう」

「斜は雇ってるわけじゃないの?」

「──この質問は二連続だけど、特別に答えるわ。斜には給料も払ってないし、ただ手伝ってもらってるだけ。まぁ、なんだろ? 居候いそうろうなのかな、あいつは」

「ふぅん」

「じゃあ、私の質問。ときどき、手を振るのは何?」

「…………」

「別にパスしてもいいよ」

 もし、雫がパスをしたのならば、それはそれでやりようはある。だから、問題はない。

「──いや、答えるよ。斜には説明したし。信じてもらえないだろうけど、ウチはこうすると、人の欲望みたいなものが分かるんだ」

「へぇ」

 春は信じていない風──中学生が馬鹿ばかを言っているな、という感じをよそおって相づちを打った。六根雫は兼崎の案件だし、彼女がそういうことができてもおかしくはないということは分かっていた。それに、昨日、斜からも同様の報告が上がっている。

「次はウチの質問だっけ? そんなに聞きたいこともないけど──春は日本人?」

「国籍も生まれも日本。アメリカ人と日本人のハーフ。まぁ、私はアメリカってグアムしか行ったことないんだけどね。じゃあ、次の質問。さっきの続き。私は何を欲しているの?」

 春はテーブルの上で頰杖ほおづえをついた。

「──ウチが本当に人の欲しいものが分かるか、確かめたいわけね」

 雫が挑戦的な笑みを浮かべる。

「まぁ、そういうこと」

「じゃあ、質問変えてもいい? 人間って、同時に色々なものを欲しがってるから、ただ欲しいもの当ててもあんまり説得力ないんだよね」

「いいわよ」

「じゃあ。今、この周りにある店のメニューから一つ食べたいものを選んで。ウチがそれを当ててあげるよ」

 春は首を動かして、周りの店を見る。フードコートには十数軒の飲食店がある。

(うーん。ご飯食べたばっかりだし、あんま食べたいものもないけど……あれにするか)

「決めたよ」

 春が伝えると、雫がさっと二回手を振った。そして、小さく笑った。

「別にフェイント仕込まなくてもいいのに──レストランのお刺身の定食でしょ」

「…………正解」

 春は驚きを隠せなかった。フェイントを仕込んだというところまで完全に正解だった。春は視線や自分から発せられるその他の情報で雫が正解を類推できないよう、あえて、ここからは見えないフードコートの店ではないレストランのメニューを選んだ。そして、雫はそれを当てたのだ──間違いなく、彼女の能力は本物だ。何より驚異なのは、正確すぎることだ。彼女のそれは、なんとなくそんな感じがする、レベルではなく、ほとんど言語に近い正確さで情報を読み取れるようだ。

「じゃあ、次はウチの質問だね。斜はなんで学校に行ってないの?」

 雫が少し得意げに聞いた。

「パス──というより、斜のことは彼の許可なしには答えられない。答えられることもあるけど。だからほかの質問にして」

「分かった。…………春は彼氏いるの?」

「すごいところに質問飛んだね。彼氏はいない。次の質問は──その欲望ってのはどのくらいのことが分かるの? 範囲というか。質問が曖昧でごめんね」

「割となんでも分かるよ。その人が抱いた感想とかは分からないけど、したいとか欲しいって感情なら大抵たいてい。人の考えの五割ぐらいは分かる感じなのかな? よく分からないけど」

 予想以上だった。春は軽く自分がいつも考えていることを思い出してみる。そして、大抵の思考は欲望や欲求といったものにつながっているのではないか、と思った。今のこの思考だって、雫の能力の範囲を知りたいという、ある意味、欲望だ。一体、どこまでが欲望で、どこまでが感想に分類されるのかは見当も付かない。

「次はウチの質問だね。春は斜とはどういう関係なの?」

「──私が保護者ね、で、彼には仕事を手伝ってもらっている。そういう関係。血縁とかはないわ。まぁ、色々あって彼の面倒を見ることになった。色々の内容はやっぱり言えない」

(随分と斜に関する質問が多いな──一緒にいた時間が長いからか? それとも、何かほかに気になる理由でもあるのか?)

 春は今の考えを悟らせないよう、再度コーヒーに口を付ける。──もっとも、雫が人の望みを分かるというのなら、こんな行動を取ったところで、考えはバレているかも知れないが。

「……じゃあ、次は私ね。クラスのあれ、どうやったの?」

 これこそが聞きたかったことだ。あの状況を作り出したのは十中八九この少女だろう。だからこその依頼だ。兼崎は六根雫を野放しにできないから〝誘拐屋〟に人攫いを頼んだのだ。

「────」

 雫は黙ったまま何も言わない。しかし、話す気がないわけではないだろう。言いたくないのならば、パスをすればいい。パスはルールとして設定し、春自身行使してみせた。

「…………ウチは特に何かをしたわけじゃないんだよ。ただ、教えてあげただけなんだ。本当の望みっていうのかな? 人生の目標みたいなものを」

 春は、よく分からなかったので黙っている。多分、雫の方も分からないだろうな、という気持ちで言ったのだろう。

「なんかね、人の周りには小さい球──さっき当てた食欲みたいなのが分かる球が浮いてるんだ。ウチはそれを【ビーズ】って呼んでるんだけど。で、そのほかにも人を覆うぐらい大きい【ビーズ】があるんだ、色がほとんどなくて目をこらさないと見えないんだけど。その大きい【ビーズ】──ウチは【到達のビーズ】って呼んでるんだけど、それは、その人の人生の目標みたいなものなんだよ。これは人間にしかないんだけどね。動物は小さい【ビーズ】しか持ってなくて、虫とかには【ビーズ】すらないんだけど」

「雫は【到達のビーズ】の内容を教えてあげたわけね」

 だが、それでは、クラスに人がいない理由を説明できない。

「そう。その人生の目標はさ、自分では絶対に気付けないものらしいのよ。見て見ぬ振りをしているっていうか。やっぱ、色々あるじゃん。夢とか希望を諦めなきゃいけない理由って」

 春は、中学生のうちから諦めなきゃいけない夢なんてあるのだろうか? と一瞬思ったが、実際問題、中学生だって、数年先には高校受験が控えていて、その三年後には大学受験が待っている。自由に夢を追いかけられるような立場ではないのかも知れない。それに、学生時代、教室には夢を追いかけるのは馬鹿らしいという雰囲気が蔓延まんえんしていたのを、春は覚えている。妙に達観しているというか、しらけているというか、そういうムードが思春期の教室にはあった。そして、その考えに同調しなければならないような空気も。

「で、ウチがそれを教えてあげると、その人はもう……それしか見えなくなっちゃう」

 雫は顔の前で両手を立て前後に振る──視野が狭いということを表すジェスチャーをした。

「へぇ……でもさ、それを──あの人数にどうやって教えたの?」

「そのニュアンスはちょっと違う。みんながウチに聞きにきたんだよ、お金を払ってね。一応、占いって形で。最初の何人かには無料で教えてあげて、口コミが広がったあとは一回、二千円で教えてあげた。聞かなかったのも二人ぐらいいて、聞いたあとも普通に生活してるのもいたけどね──それは、普通に生活して勉強することが人生の目標だったからなんだけど」

「……クラスメイトは知りたがっていたの? それを? 最初の一人だけなら理解できるけど、それ以降の人間が聞きたがる理由が分からないんだけど? おかしくなるんでしょ?」

「そりゃあ、みんな、夢は諦めたくないよ。最初はがんばる人を馬鹿にしたとしても、最終的には自分もそうなりたいと思うんじゃない? 無料で三人ぐらいに教えてからは早かったね」

「……そうかもね」

 だが、春にはどうも、それだけではないような気がした。もっと別の力が働いたと思われた。どうにも、その状況は──作為的だ。

 春はそのあと、雫に対する質問を普段の生活に関することなど、差し障りのないものに変えた。この少女が人生の目標とやらを聞きたくない人間にまで教えるとは思えないが──もし、彼女がそれを悪用したら危険すぎる。しゃべるだけで人を無力化できるなど、警戒のしようがない。

(まったく……困ったものね)



 斜はバイトが終わると、すぐに家を確認しに向かった。どうやら、春の話では家の前に昨日のガスマスク男がいるらしい。斜は不用意に家に近づかず、まずは少し離れた建物から折りたたみ式のオペラグラスを使い、家の玄関を観察することにする。家の前にはだれもいない。周囲にもあやしい人間はいない。斜は念のため、自宅に戻り、中まで調べた。しかし、特に異常は発見できなかったし、建物内には近隣住民以外の【間合い】もなかった。斜は、そのことを報告するため、春に電話をかける。

「もしもし、春」

『どうだった?』

「大丈夫、誰もいないし、なんともなってないよ」

『サンキュー。じゃあ、いつものファミレスで落ちあおう』

「了解」

『いつものファミレス』とは事務所のそばにあるファミレスだ。近いので月十数回は使う。

 斜は店に入り、ウェイターにあとで二人来るむねを伝え、四人用の喫煙席に案内してもらう。

 店内は夕飯のタイミングだというのに空いていた。

 斜は、春たちを待つ間、ドリンクバーしか頼まないというのも悪い気がしたので、フライドポテトも一緒に頼んだ。三百十五円で心に平静が訪れるなら安いものだ。それに、最終的にお金を払うのは春なので無料で心が安らぐ。

 それから三十分ほど、斜が文庫本を読みつつ時間をつぶしていると、春と雫が来た。

「お待たせ」

 春は手を振りながら言うと、雫と一緒に斜の向かいに座った。

「じゃあ、なんか頼もうか」

 斜はメニューを二人の方に渡す。

「斜は何食べるの? ウチはね、昼いっぱい食べたから少ししか食べないつもり」

 雫が、少し身を乗り出しながら聞いた。

「僕はこのオムライスとエビフライとクリームコロッケのやつ」

「つーか、いつも、とんかつ食いたいって言ってるんだから、ミックスフライ頼めばいいのに。とんかつ入ってんじゃん、これ」

 春が口を挟む。

「いや、とんかつはご飯とキャベツがおかわり自由じゃないと、とんかつって感じしないし」

「雫、意味分かる?」

 春が雫に同意を求めると、雫は首を横に振った。

「なんで分からないのさ。……まぁいいや、注文しよう」

 斜はそう言って、店員呼び出しボタンを押した。

 結局、春はドリアを、雫はパンケーキを注文した。料理は十分ほどでそろい、三人は各々おのおの食べ始める。そして、斜がオムライスを半分食べ終え、先にエビフライを食べるか、それともクリームコロッケを食べるか悩んでいると、

「斜、今からもう一回家の様子確認してくる。斜は雫とここで、連絡あるまで待機してて」

 春はそう言って、バッグを持つと、斜の返事も聞かずに出ていってしまった。

「あっ、春、ドリア残してるよ」

 雫が隣にあるドリアの皿を指さした。

「うわっ、ほんとだ。春は本当に適当だな……仕方ないから、僕が食べておくか」

 斜がドリアと自分の頼んだメニューを食べ終えてから十分ぐらいすると、斜の携帯電話に春から電話が掛かってきた。

『もしもーし』

「僕だよ」

『家──ほかのやつが見張ってたわ』

「まじで?」

『うん。だからさ、斜と雫は家には帰ってこないで。そうだね、一時間ぐらいで戻ってこれるところで時間を潰してて。安全になったら呼ぶから』

 斜は春からこういう指示を受けたのは初めてだった。やや自分の裁量が大きい命令だ。だが、仕事なのでやらないというわけにはいかない。

「分かった。何かあったらすぐ連絡するね」

『了解ー。こっちも大丈夫になったら連絡するから』

 斜は携帯電話をポケットに突っ込むと、

「なんか、一時間で戻ってこられるところで待機してなきゃならなくなった」

 と、雫に説明した。

「そうなんだ」

 雫は雫で、あまり興味なさそうな返事をする。

「どうしよっかな?」

「時間潰すなら、漫画喫茶とかでいいんじゃないの? 近くにある?」

「あるよ。北口の方にあった気がする。サンプラザのところにあったかな?」

「サンプラザってボウリングあるところだよね。行ったことあるよ」

「へぇ。僕はボウリングってしたことないや。でも、ルールは知ってるよ」

「まぁ、ルールも何も点数計算自動だから、ボールを転がすだけだけどね」

 二人は店を出て、とりあえず、中野なかの駅北口の方へ向かうことにする。

「暑い」

 雫が言った。多分、店に入る前よりは涼しいのだろうが、それでも、店の中が涼しかったこともあり、かなり暑く感じられる。

「だね、さっさと駅行っちゃおう」

 斜が雫を連れて駅に向かって歩いていると、また春から連絡が来た。

『今日はちょっと帰ってこないで、朝までにはケリ付ける』

「えっ、どういうこと? どうすればいいのさ?」

 斜は『一時間で帰ってこられるところにいろ』という命令だったので、今日中には春の方も片付くと思っていたのだが、当てがはずれた。

『適当にホテル泊まるなり、カラオケにいるなりしなさいよ』

「そういうのって、僕と雫だけで大丈夫なの?」

『…………あっ、ダメかもしんない』

「だよね」

『カラオケなら多分、大丈夫……なのかな? ……大丈夫なカラオケが見つかるまでがんばって! 漫画喫茶とかもいけるかな? ファミレスは追い出されるのかな?』

「適当な……」

『ラブホじゃなくて、普通のホテルなら泊まれるのかな? まぁ、とにかくがんばれ! 斜ならできる! ダメそうなら連絡して。一応──なんか、こう、うまくやってみるから』

 春の返事が全然うまくやれそうではない。

「……分かった。じゃあね」

(しかし──春は本当に家の確認してるのかな? どうもうそっぽい気がするんだよなー。ほかのことしてるんじゃないかな。雫の件に関して、春の行動はおかしすぎるし)

 しかし、あまり深く考えても仕方ないので、斜は目下もっかの問題を解決することにする。

「朝まで漫画喫茶にいてだって。だから漫画喫茶で寝ることになるね」

 斜は、ほかの選択肢はあえて伝えなかった。もともと斜と雫の間では漫画喫茶に行くことが決まっていたのだし。

「えっ朝まで、斜と二人? うーん。まぁいいか。ってか、暑いから、早く行こう」

 斜と雫は早足で駅前の漫画喫茶を目指した。



 二人は駅の北口から少し歩いたところの漫画喫茶に着いた。店内はんでおらず、まったりとした空気が流れていた。受付のアルバイトも暇なのか、見るからに、やる気がなさそうだ。

 だが、そんな店の空気とは裏腹に──斜には一つの不安があった。

(──ってか、ナイトパックで入れるのかなー……入れなかったら、どうしよう)

 斜も雫も未成年なので、本来ならば、ここで夜を明かすことはできない。斜は二十歳になっているにせの身分証を持っているので問題ないが──雫が問題だ。彼女は中学生にすら見えない。小学生と言われた方がしっくりくる容姿だ。下手をすれば通報されかねない。

 ──しかし、それは杞憂きゆうだった。漫画喫茶には、何事もなくナイトパックで入れた。一応、斜は偽の身分証を提示したが、雫の方は聞かれもしなかった。

 二人はペアブースに入る。そこは、狭い空間に革のソファーとデスクトップPCが一台あるだけの部屋だった。PCのLEDだけが薄暗い中に小さく赤と青の光を拡散させている。周りはひどく静かで、キータッチの音とハードディスクのシーク音が時折聞こえてくるだけだ。

「僕、漫画喫茶って久々だよ」

 斜は周りの静かさに合わせ、ひそひそ声で言った。仕事で夜に時間を潰すときは、大抵、春とカラオケに行く。歌はあまり歌わず、寝たり食事をしたりする感じだ。

「ウチもせいぜい二、三回だな」

「そうなんだ。そういえば、気になってたんだけど、雫は関西出身なの」

「なんで? 違うけど」

「いや、『ウチ』って言ってるから」

「うっ……それは、その──なんでもいいじゃん!」

 雫は顔を赤くしながら言うと、そっぽを向いてしまった。──実のところ、雫が自分のことを『ウチ』と呼ぶのはただ単にやめていないだけだ。小学生のころに流行はやったときから、なんとなく使い始めて、やめるタイミングもなかったので使っているだけだった。中学に上がると同時にやめようともしたのだが、同じ小学校の人間が結構いたのでやめられなかった。

「ねぇ、僕がパソコン使ってもいい?」

「……別にいいけど。じゃあウチは漫画読む」

 雫はそう言うと、漫画を取りにいってしまった。

 斜はオークションサイトを適当に巡ってCDを探すことにした。

 数分すると雫が帰ってきた。数冊、本を持っている。

(同時に何冊も借りていいのかな? まぁ、そんなにいっぱいでもないし、いいのかな?)

「斜、何見てんの?」

「CD。なんかいいのないかなーって」

「音楽好きなの?」

「うん。まぁまぁね。詳しくはないけど」

「〝ヴァスストック〟好きなの?」

 雫は画面を見ながら言った。

「それなりにね」

 これは建前たてまえだ。斜は曲単位で好き嫌いを判断するので、この人の曲だから好きとか、このグループの曲だから好き、ということはなかった。しかし、〝ヴァスストック〟の曲にも好きな曲がいくつかあり、完全な噓ではなかったので、こう答えた。

「ウチも好きだよー、三番目のアルバムが一番好きだな」

「えっ、持ってるの?」

「ん? 持ってないの?」

「すごいね、雫。どこで買ったの?」

「普通にお店で買ったけど……」

「へー、運がいいね」

「何言ってるの? 普通に売ってるよ。今でも買えると思うよ」

「そんな馬鹿な。イベントでしか売ってなかったと思うから、千枚も出てないと思うよ。一番目と二番目は再販したけど、三番目だけは再販しなかったし」

「斜の話って〝ヴァスストック〟の話だよね?」

「そうだよ」

「なんか、全然みあわない」

「多分、雫がすごい勘違いをしている気がする。あっ、もしかして、雫の言っている〝ヴァスストック〟って女の人一人の〝ヴァスストック〟?」

「うん。一人だけだね」

「納得。それは十八枚目のアルバムだ。正直、アルバムって単語はおかしいけど」

「どゆこと?」

「自費出版のCDが十五枚あるんだよ。十六枚目からはメンバーもジャンルも違うしね」

「へーそうなんだ。今度、その前のCDってやつ聴かせてよ」

「いいけど、全然違うよ」

「構わないよ。ウチが聴いてみたいだけだし」

 二人は会話を終わらせ、斜はオークションサイト巡りに、雫は漫画を読むのに没頭し始めた。



「ねぇ、斜」

 一時間ぐらいったときだろうか、雫が声をかけてきた。

「何?」

「斜ってさ、人生の目標とかってある?」

「人生の目標?」

 考えてもみなかったことだ。

「深く考えなくていいよ。こうだったらいいなー、レベルでいいから」

「うーん……なんだろ、いていえば、もうちょっと仕事ができるようになりたいな」

 人生の目標とは違うが、仕事をしているときにいつも思っていることだ。バイトのときも、春の仕事を手伝っているときも。もう少し自分に何かできたらと。

「……ふぅん」

 雫は自分から聞いたくせに、興味のなさそうな返事をした。

「というか、それは雫が分かるんじゃないの? さすがにそういう欲望は分からない感じ?」

「ああ、あれは噓。まぁ【ビーズ】のことは本当だけど」

「えっ、どういうこと? アイス食べたいって……」

「あんなの──食後のデザートに暑いからアイス食べたいなんて、ほとんどの人に当てはまること言っただけだよ。……なんか分からないけど、斜の【ビーズ】だけは見えないんだよね。さすがに、欲望がないってことはないだろうけど。こんなの初めてだよ。数万人は見ているはずなのに。なんでだろうね?」

「さぁ……」

『なんでだろうね?』と言われても、斜には分からない。しかし、自分に欲望がないわけではないだろう。お腹は空くし、CDだって欲しくなる。そこで、斜は原因を一つ思い付く──【間合い】が関係しているのではないかと。

(でも、雫に対して【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ったことはないんだけどな。もしかしたら心の【間合い】みたいなものもあって、それを自然に取ってるのかなぁ)

 しかし、そんなものがあっても確かめようがない。人間に心があるかどうかすら証明はできないのだから。

「──斜は〝新天地〟ってあると思う?」

 雫は一息つくと、そう聞いてきた。まず、斜には〝新天地〟の意味が分からなかった。それが環境を指すのか、それとも実際の場所を指すのか、はたまた、心理的な上位のステージを指すものなのか、判然としなかった。

 斜が何も答えないでいると雫が続ける。

「〝新天地〟っていうのは──人間が命を懸けて目指すべき場所。ウチが見える【到達のビーズ】っていう人生の目標の【ビーズ】の内容を人に教えてあげると──その人はそれに一直線になって何も見えなくなっちゃうんだ。最初に教えてあげたのは、お父さんとお母さんだったな。二人とも、仕事にのめり込んで家にも帰らなくなっちゃった。どこに泊まってるのかは知らないし、外に泊まる理由も分からないけどさ。だから、毎日一人でご飯食べてたよ。まぁ、それまでも共働きだったし、三人揃ってご飯食べることはあんまりなかったけどね」

(ああ、それで雫の両親は雫がいなくなったことに対して、何もしないのか。もしかしたら、今頃いまごろ、春はそこら辺を調べてるのかもなぁ……)

「で、それからクラスメイトにも人生の目標を教えてあげたわけ。占いってことで」

「なんで、教えたの? 人が変になっちゃうって分かってたのに?」

「教えてほしいって言われたからだよ。もちろん、聞いてこなかった人には教えなかったよ。どっか旅に出ちゃったやつもいるし、部屋にもりきって絵をき始めて、出てこなくなっちゃった子もいる」

「…………」

(それは聞かれても教えない方がいいんじゃ……)

 と、斜は思ったが、知りたい人には教えてもいいのではないか、とも思ったのも事実だ。

「──でもね、ウチはウチの欲しいものは分からないんだ」

「どういうこと?」

「ウチはウチの【ビーズ】が見えないんだ。だから【ビーズ】が見えない斜を調べれば、ウチの欲しいものが分かるかなって思ったの。それが分かったらさ、ウチの望みが分かって、ウチは〝新天地〟に辿り着けるかも知れない」

「その〝新天地〟ってよく分からないや」

 それだと、人生の目標に向かって努力し始めた時点で、努力が実を結ばなくとも〝新天地〟とやらに辿り着けることになってしまう。

 そして、斜は、雫の自分を観察するという行動は徒労とろうに終わるだろうと思った。雫が自分の【ビーズ】とやらを見られないのは、きっと【間合い】のせいだろうから。もちろん、斜はそのことを雫に説明する気はなかった。現時点では【間合い】が原因だという確証もないし──そもそも【間合い】のことは秘密なのだ。彼女には申し訳ないが。

 だが、これで彼女がすんなり〝誘拐〟された理由や、自分の部屋に来た理由に合点がてんがいった。

「なんかさ、ウチにとって、この世界っていうのは酷く生きづらいんだよね」

 斜にもそれはよく分かった。確かに、普通でない人間にとって、この世界は酷く生きづらい。普通といういつわりを身につけるのに労力と時間を随分浪費させられた。そして、普通を演じる限り、足枷あしかせは消えず、多分、死ぬまで縛られる。

「【ビーズ】のことは斜には話したけどさ、クラスメイトとか普通の人に話したら、さすがにまずいじゃん。変なやつだって思われるし──まぁ、占いの時点で思われてたかもだけどさ」

「……だろうね」

「でもさ、できることをしちゃいけないっていうのは息苦しいんだよ」

 それは、斜にもよく分かる。【間合い】を取らないでいるというのは斜にとっては不快だった。たまに、なんで自分がこんな苦労を強いられねばならないんだ、と思うこともある。もちろん、その苦労から逃げ出せば、もっと大変なことになるので諦めているが。

「でも、そーいう色んな悩みはウチが【到達のビーズ】を確認できたら、全部解決するわけ。だって【到達のビーズ】に従って動けばいいだけだからね。そしたら、きっと──ウチの望む世界が待ってる。だから、自分の【ビーズ】を見るために色々試してるんだよ。本当の望みをクラスメイトに教えたのも、他人の本当の望みから自分の本当の望みを類推できないか、っていうのが一番大きかった。結局、サンプルが少なくてどうにもならなかったけど──さすがに知りたくない人に教えるわけにはいかないしね。で、今のウチにとっては、斜が一番の望み」

 斜にはなんとなく分かってしまった。

 彼女の言う〝新天地〟とやらはおのれに対する誤魔化しであり、慰めでしかないことが。雫の〝新天地〟に関する言葉は──斜には全部薄っぺらな慰めに聞こえた。

 雫は自分で自分をだましているのだと思った。

 昔の斜にもそういう時期があったからだ。

 妙にポジティブに考え、がんばればどうにかなると思ってしまうのだ。斜はそれが一番マズいということも知っている。がんばってもどうにもならず、より深く傷つくだけだからだ。中には一人でその逆境を突破できる人間もいるのかも知れないが。

 斜は彼女を助けたいと思った。

 彼女に過去の自分を重ねているというのも一因だが、それでも心の底から助けたいと思った。

 ──だが、斜には方法が分からなかった。

 自分にとっての春のような存在が彼女にもいれば──彼女は助かるだろう。

 しかし、あんな人間、そうそういない。自分が春に出会えたのは運が良かったからだ。

 斜には、ただ、彼女が助かるように願うことしかできなかった。



 そのころ、春は雫のことを相談するため、先輩の元を訪れていた。この先輩には斜のことでも随分とアドバイスをもらった──頼りになる先輩だ。人間としてはかなり微妙でまったく尊敬できないが。雫の件でもすでに一度、斜に雫の荷物を取りにいかせたときに相談している。春が隠れて会っているのは、斜や雫が自分のことを人に相談されていると知って、気を悪くしたりしないようにするための配慮だ。

 春は普段、適当に振る舞ったりもするが、斜のことは割と本気で考えている。元々は人の面倒を見るなんて、自分には荷が重すぎて、やりたくないと思っていた。しかし、あの遺書のせいでやらざるを得ない状況におちいった。だが、やるからには、嫌々いやいやながら適当に面倒を見るのではなく、自分が斜を正しく導き、手本になるような人間になり──ゆくゆくは斜に素晴らしい人間になってほしいと思っていた。もしかすると、本当のところは、そういう自分を見せるのが恥ずかしいから隠れて先輩のところに来ているのかも知れないが。

 春はまず、六根雫のことで新しく分かったことを先輩に報告した。

「──それは全然違うよ、アリちゃん」

「そうなんですか? あと、そろそろ〝アリちゃん〟って呼ぶのやめて下さい、先輩」

「なんで? アリちゃんがなんと名乗ろうと、私にとって、君は未来永劫えいごうアリちゃんだよ。アリソンちゃんって呼ぶなら二千歩ぐらい譲って許せるけど、春ちゃんなんて呼ぶのは、絶ッ対に許せないよ。名前ってのはそのくらい大切なんだよ」

「……じゃあ、名前のことはいいです。で、何が違うんですか?」

「そもそも、斜君みたいのは【間合い】を調べる必要すらなく。知ってるんだよ」

「その感覚、よく分からないんですよね」

 先輩は笑い出す。

「分かるわけがない。アリちゃんには未来永劫理解できないよ。私もね」

「はぁ。できれば、その理解できない理由を教えてほしいのですが」

「アリちゃんは、猫のしっぽの感覚を今の自分の体で理解できると思う? 蜘蛛くもの八本足の動かし方を理解できると思う? 無理だよ無理。あれはもう違う生き物ってぐらい違うんだよ」

「えーと、じゃあ、斜と六根雫が全然違うっていうのはどういうことなんですか? 六根雫も色々分かるみたいですが」

「だーかーらー。分かる、じゃないんだって、斜君は知ってるんだって。知るのにアクションが必要な時点でもう全然別物。斜君はレアなの」

「はぁ」

 春としては、できることが同じならば、結局同じようなものだと思えるのだが、どうやら先輩によれば違うらしい。それに、斜がレアだというのも、なんだかなー、という感じだ。

「でもね、問題はそこじゃないんだよ」

「どこなんですか?」

「何故、その球──【ビーズ】を触っているかなんだよ」

「調べるためじゃないんですか?」

「その【ビーズ】とやらは、見るだけでは分からないのかな?」

「……そこはまだ聞き取りしていないので、分からないです。今度聞いておきます」

「分からなければ、まずは考えようよ。重要なことだよ。そもそも、何故【ビーズ】として──形あるものとして認識しなければならないのかってことだよ。対象は気持ちだよ? 何故ワンステップ必要? ……多分、形はなくてはならないものだったんだよ」

「それこそ、先輩が言っていた、猫のしっぽの感覚の話なのでは?」

「違うよ。彼女は、斜君と違って、まだ理解できる。理由がある」

「──私の感覚では逆なのですが」

「そりゃ知らん。で、ほかにはー? それだけしか分かってないのにまた来たの? ほら、あれ、中学校の生徒がいっきにいなくなった話」

「あれですね、なんか、彼女が言うには、人にその人の人生の目標を教えると、それに向かって突っ走るようになってしまって、学校に来なくなったという話なのですが」

「ふぇ、意味分からん」

「私もです、もう少し詳しく言いますと──」

 春はなるべく雫の言葉をトレースするように先輩に説明していく。

「ふぅん」

「やはり、まずいですかね?」

 先輩はにやにやと笑い始める。

「アリちゃんはまずかったら、どうするんだい? 彼女をぶっ殺すのかい? もちは餅屋がいいと思うけどねぇ。とはいえ、餅屋さんは〝戦争〟であらかた廃業しちゃったけどね」

「……今はまだ、決まってないです」

 あの〝戦争〟で春は職を失った。だから今〝誘拐屋〟なんてやっている。結局、あの〝戦争〟では誰も勝利しなかった。かといって、誰かが敗北したわけでもない。痛み分け──だったのだろう。もちろん、割を食った人間もいるが、ほとんどが自業自得だった。

「あっそう。ところでアリちゃんは餅屋って見たことある? 私はない」

「私も餅屋は見たことないですが──餅屋って、和菓子屋のことなんじゃないですかね?」

「和菓子屋か。まぁ、私に言わせてもらえば、中学校の件は多分、問題ないよ。予想するに、その中学生と六根雫の両親がおかしくなったのは一ヶ月──いや、二週間以内だよね?」

「はい、そうです。なんで分かったんですか?」

「逆に聞きたいぐらいだよ。なんで分からなかったんですかって? アリちゃんは人間というものをロボットかなんかだと思っているの? それもある意味間違ってはいないと思うけど──でも、人間はどうしようもなく人間だ、心があるんだよ。もうちょっと考えてみなよ」

 春は顔をしかめる。この先輩が『逆に聞きたいぐらい』と言い出したときは、絶対に、その答えを教えてくれないからだ。

「はぁ。では、また何か分かったら来ます」

「別に来なくていいよ、遊びに来るならいいけど、こんな話聞かされてもなー。六根雫本人に会えるなら話は別だけど。でも、可愛かわいい後輩のためだ、来るっていうなら、宿題を出してあげよう。アリちゃんは、なんで【ビーズ】に触らなきゃいけないのかを考えてみてね。というか、触る、という行動の意味を。彼女が触っているのは【ビーズ】だけど──それは彼女にとってはきっと無機物ではなく人間だ。人が人に触れる意味を考えるといい。アリちゃんは人を知りたいときに触るかな? 触らないよね? どういうときに触るかな?」

 春はため息をつく。正直何を言っているか分からない。

「宿題ですか……?」

「宿題だよ。提出しなかったら、もう相談に乗ってあげないから」

 先輩は嫌らしく笑った。

 春はため息をついた。この先輩の相手は疲れる。相談に応じてくれるのはありがたいのだが。

「──最後にこれだけは教えて下さい。六根雫は本当に危険ではないのですか?」

「それ、原始人みたいな発言だよ。ナイフだって危ないし、車だって危ないし、銃だって危ない。危なくないものなんてないよ。愛だって人を殺すし、夢だって人類に害をす」

「──それは役に立つ側面があるから危険でも問題ないのでしょう?」

「果たして、この世に役に立たないものってあるのかな? 百害あって一利なしなんてものは未来永劫存在しえないよ。──そのぐらい、この世界は素晴らしい」

『この世界は素晴らしい』というのは、この先輩の口癖くちぐせだ。ちょくちょく聞く。しかし、春には世界が素晴らしいとは思えなかった。特段悪いとも思わないが。



 斜は雫が寝たあともずっと起きていた。不測の事態に備えるためだ。家は見張られているらしいし、こちらに追っ手のようなものが来ないとも限らない。

 しかし、何もせず、ソファーに座りながら、暗いところで眠らないでいるのは酷く困難だった。しかも、雫が斜の膝枕ひざまくらで寝ているので、立つことはおろか体をひねることすらできなかった。何故、膝枕をしているかというと、雫が横になりたいと言い出し、ももに足を乗せられるか、それとも、頭を乗せられるかの二択を迫ってきたので、仕方なく頭を乗せられることを選んだからだ。横になりたいという要求を断れば良かったのだが、雫の有無を言わせない雰囲気に飲まれてしまい、座って寝ろとは言えなかった。

(そういえば、女の子とこんなに密着してるなんて初めてかもな)

 春と密着していることはときどきあるが、あれは女の子ではないだろう。もっと別の何かだ。

 冷房の効いた店内と対照的な雫の体温が妙にもどかしい。彼女が呼吸するたびに、足への負荷が変わって、なんだかくすぐったい。その度、足が強張こわばる。雫の耳の固いところがももに当たっている。痛くないのか気になる。しかし、寝ているのだから、痛くはないのだろう。

 雫が寝返りを打ち、顔が上を向いた。口が少し開いている。斜はなんとなく、下唇とあごの間のくぼみを触ってみる。それから、意味はないが、おでこにかかった髪を横に流してみた。

 そのとき、雫がまた寝返りを打った。斜はあわてて、雫の顔から手をどける。今度は雫の顔が自分のお腹の方に向いている。斜は数秒雫の顔を見てから、小さく息をき、またパソコンをいじることにした。

 そのあと、斜は何度も何度もこっくりと頭を落としては、ガムを嚙んだり、ももをつねったりして、なんとか朝の六時を迎えた。