虚実の消失点バニシング・ポイント】があるならば、【虚実の消失点バニシング・ポイント】こそが本当の最適の【間合い】であって、ほかの【最適な間合いバッド・ディスタンス】はただ良いだけの【間合い】ではないか、と春に聞かれたことがあるのだが、斜の感覚からすると、ほかの【最適な間合いバッド・ディスタンス】も最適ではあるのだ。上手く説明できない感覚だが。

 そして、この【虚実の消失点バニシング・ポイント】の弱点は【最適な間合いバッド・ディスタンス】の線をほとんどすべて辿らないと発見できないことだ。だから、斜は先の睨み合いを続けていたのだ。一度、ガスマスクの男に追い抜かれて背中側の【間合い】を確認できたのも幸運だった。背中側の【間合い】を確認するのが一番厄介やっかいだからだ。

 斜は男の正体を確かめようとも思ったが、それよりも、まずは春に六根雫の確保に失敗したことを報告し、早急にこれからの行動を相談するべきだと考え、待ち合わせ場所に向かった。



 斜は春の車に戻る途中、運良く、六根雫を見つけることができた。どうやら彼女は、逃げろと言われたのにもかかわらず、少し離れたところで見ていたらしい。

「すげー! あれ、どーやったの? なんか、あいつ全然反応してなかったけど!」

 六根雫は興奮した様子で聞いてきた。

「それは──」

 斜がどう答えようか考えていると、一台の車が斜の横に止まった。春の車だ。

「おせーよ」

 運転席の春が車の窓を開けながら言った。

「いや、ちょっと色々あって、なんか、ガスマスクをした男に襲われてて」

「はぁ? ふざけてんの?」

 ふざけてると思われても仕方ないだろう。斜も先の男が現実の存在かどうかいまだに信じられない──殴りはしたが。斜がここで言い訳をしても仕方ないし、謝ろうと思ったとき、

「あー、あの、それは本当です。この人に助けてもらいました」

 と、六根雫が会話に混ざり、斜を擁護ようごしてきた。

 春は斜と雫の顔を交互に見て、うなずいた。

「信じてやるか……不思議なこともあるものね。で、そのガスマスク男はどうしたの?」

「あー、なんか申し訳ないけど……そいつは、僕が警棒でぶん殴って大人しくさせちゃったというか……。話し合える雰囲気じゃなかったんだ。多分、正当防衛ってやつ」

「暴力で解決とか良くないよ」

「春に言われたくないよ」

 春は雫の方を向くと、

「あなたが六根雫さんね。これから三人でドライブしない?」

 と言った。相変わらず適当だ。彼女がそれを了承するはずがない。──しかし、ここまで来たら、彼女を車に詰め込んでしまえばいいだけなので失敗することもないだろうが。

 だが、斜の予想に反し、六根雫は、

「あっ、はい、ちょっとだけならいいですよ」

 と、いとも簡単にその提案を了承した。

(えー……なんなの、この子!? 不良外人に誘われたらついて行っちゃうの? ちょっとヤバいんじゃない? 最近の子ってここまで常識ないの?)

 春もこの展開は予想していなかったようで、固まっている。一旦、場が沈黙してから、

「──じゃあ、移動しますか、なんか変なやつもいるって話だし」

 と、六根雫の方を向きながら言った。

 斜が後部座席のドアを開けると、六根雫はあっさりと中に乗り込んだ。斜もそれに続く。

 斜はやはりおかしいと思った。こんなもの、幼稚園児だってあやしいと思うはずだ。本当は半ば無理矢理な形で攫う予定だったのだ。今の状況は肩透かたすかしを通り越し、不気味だ。

 斜は隣に座っている雫を観察する。彼女の表情に不安や緊張の色は見えない。しかし、高揚しているという風でもない。ただ、特徴的なのは、ときどき運転席の春の方に手を伸ばし、軽く手を振るという、斜が会ったときにも見た動作だ。何をしているのかは分からないが。

「どうする、雫ちゃん、このままドライブする? それとも、どっかのお店に入る?」

「長く車に乗ってると気持ち悪くなるので降りたいです。あと、ちゃん付けはやめて下さい。下の名前で呼び捨てにして下さい」

(ちゃん付け嫌なんだ)

 斜にはその気持ちがよく分からなかった。自分は何を付けて呼ばれても、どうとも思わない。様とか殿を付けられたらこそばゆいだろうが。

 斜と春に六根雫を加えた三人は適当なコインパーキングを探し、車を駐車したあと、そこから一番近い喫茶店に入った。

(というか、この子本当に素直についてくるなー、さっき助けてあげたからかなー。春はこの子の行動をどう思ってるんだろ? おかしいとは思ってるはずだけど……)

 三人が店員に案内され、席に着くと、

「雫、何飲む?」

 春はそう言って、メニューを雫に渡した。

「じゃあ、このアイスレモンティーで」

 春は、雫が言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、ウェイトレスを呼び、

「ホットコーヒー二つと、アイスレモンティー、あとこのケーキとこのケーキとこれ、それに、これとこれとこれ下さい」

 と、注文した。

(コーヒー嫌だなー、ホットだし。アイスでいいじゃん。暑いんだし。勝手に頼まないでほしかったなー。ていうか、なんでケーキ六個なんだよ。三個でいいじゃん、三個で)

 斜は春の行動にかなり不満だったが、コーヒーは砂糖を入れまくって飲むことに決める。あまり、仕事中に変なことを言うのは良くないだろうという判断だ。

「雫、好きなケーキ食べていいよ。なんなら一口ずつ全種類を食べるとかでもいいから、余りは斜が食べるから」

 春はまたも勝手なことを言い出した。だが、斜もケーキは嫌いではないので文句は言わないことにする。さすがに六個はきついので分量次第では夕飯を減らさなければならないが。

「じゃあ、まずは自己紹介。私は柚木ゆずき春。こっちが深草ふかくさ斜。私が上司でこいつは部下」

「どうも、深草斜です」

 斜は小さく頭を下げる。人に名乗ると気恥ずかしくなる。理由は分からないが。

 飲み物とケーキが運ばれてくると、春は、

「じゃあ、まずは、何か聞きたいことある?」

 と聞いて、スマートフォンで会話の録音を始めた。

「はぁ……」

 先程までと違い、雫は微妙な返事をする。それもそうだ。いきなり変な男に追い回された挙げ句、不良外人に喫茶店に連れてこられて、質問はあるか? なんて聞かれても、どうしようもないだろう。

「まぁ、食べながら考えてよ」

 春はにこにこしながらケーキを勧めた。

 雫はフォークに手を伸ばし、手近なケーキを一口食べた。そして、そのまま間髪かんぱつを入れず、二皿目のケーキを一口食べた。春は確かにやっていいと言っていたが、斜はこの少女が実際にやるとは思わなかった。やはり、ただ者ではない。

「じゃあ、質問。あなたたちはなんなの?」

 雫が六口目──つまり、すべてのケーキに手を付け終わったところで聞いた。

「児童保護みたいな、なんかいいことしてる、慈善活動家的な、そういう感じ」

 春はにっこりと笑いながら少し首をかしげた。すると、六根雫は、また手を春の方に伸ばしてテーブルの上で横切らせた。

「なんで、その、なんかいいことをしている人たちがウチのところに?」

「雫には色々と困ってることがありそうだったからね」

 斜は会話には参加せず、春と雫のやりとりを聞くことにする。何より、春のうそに合わせていける自信がない──春も噓であることを隠そうとしていない。何がなんだかよく分からない。

「ウチが困ってる?」

「じゃないかと」

 雫はアイスティーを一口飲むと小さく笑った。

「確かにそうかもね、相対的にウチは困っているように見えるだろうね」

 そう言って微笑ほほえんだ少女の顔は、年相応には見えなかった。女子中学生のするような表情ではなかった。さすがに老獪ろうかいとは言うまいが──それでも、すごみのようなものがあった。

「で、そんな困った生活は一旦リセットして新しい生活を始めてみないかっていう提案」

「それをすることで、春と斜はどんな得をするの?」

「困った人を助ける仕事でお給料がもらえるってだけよ」

「ふぅん」

 雫は疑っているのだろう。そして、春がここまで適当なことを言っている理由もなぞだ。

「まぁ、いいよ。それで。確かに今のウチは手詰まりだ」

 雫は投げやりな感じでそう言った。斜には彼女の『手詰まり』という言葉の意味が分からなかった。表情から察するに、多分、春も分かってはいないだろう。何より、彼女がこの提案を了承した意味が分からない。しかも、こんなにあっさりと。逐一──異常だ。

「ありがとう。数日間は私たちと過ごしてもらうわ、その間に雫について上と協議します」

 斜はつい声を出しそうになった。春の言っていることも本当に分からない。兼崎かねざきに彼女を渡してしまえば仕事完了なのに──一緒に過ごすとはどういうことなのだろうか。斜は言いたいことがたくさんあったが、きっと、春には何か考えがあるのだと、自分を納得させることにした。余計なことを言って、春の作戦を台無しにするわけにはいかないし。



 そのあと、斜は春の命令で、雫の家に向かうことになった。雫の着替えや生活必需品を取りにいくためだ。斜はてっきり春の車で行くものだと思っていたのだが、春は何故か「用事がある」と言って、一人でどこかへ行ってしまった。なので、雫と二人で電車に乗って雫の家に行くことになった。ここは雫の家の最寄り駅がある中央線からは少し離れていて、どうやら、かしら線の久我山くがやま駅が一番近いようだった。

 駅までの道中、斜は雫と二人で歩いていると、なんだか気まずくなってきた。何も話さないで、ただ歩くとなると、どうしたらいいか分からない。相手が女子中学生なので、歩く速度や相手との距離にもひどく神経を使う。

「斜」

 突然、雫が話しかけてきた。しかも、いきなり呼び捨てだ。

「何?」

「さっきのケーキでどれが一番おいしかった?」

 どうでもいい話題だった。だが、こういう話は話しやすく、斜としては助かった。

「白いやつが美味おいしかったかな」

「白いやつってどういう答えだよ」

 雫が笑い出す。だが、斜には何がおかしいのか分からなかった。

(あれか、はしが転んでもおかしい年頃ってやつか……っていうか、この言葉の意味マジ分かんないな……なんで箸が転ぶと喜ぶんだよ……)

 雫はひとしきり笑うと、

「つまりショートケーキってこと?」

 と、聞いてきた。

「いや、ショートケーキじゃない白いやつ」

「あー、あれなんて言うんだろ? 甘いやつだよね」

「まぁ、全部甘かったけど」

「なんか、二番目くらいに甘いやつ」

 雫が人差し指をくるくる回しながら言った。

「そうだね、二番目くらいだ。えーっと……そうだ、あれだ。東京ドームみたいな」

「ああ、確かに東京ドームっぽい」

 斜はなんだか、この少女は話しやすいと思った。初対面でここまで話せる人間には会ったことがなかった。これは、特段この少女が話しやすいというわけではなく、春のところに来てからの訓練が役に立った結果なのかも知れないが。

 斜は久我山駅に着くと、まずは券売機の上にある路線図を見た。

(えーっと、ここが久我山駅だから、吉祥寺きちじょうじまで行けば中央線に戻れるのか? あれ、三鷹みたかもあるぞ? 三鷹台みたかだいって名前だけど? すると、もしかして吉祥寺も別の吉祥寺なのか?)

 斜がどうすればいいのか分からずに、じっと路線図を見ていると、

「どうしたの? 乗るよ?」

 と、雫が斜の服を引っ張りながら言った。

「えっ、あっ、えーと……どこまで乗れば」

「吉祥寺まで行って、中央線に乗り換えればいいじゃん」

 雫はそう言うと、Suicaスイカを自動改札口にかざして、中に入ってしまった。

「あの、切符買わないと」

「持ってないの?」

 雫は先程改札を通るときに使ったSuicaを人差し指と中指ではさみ小さく振った。

「うん。そういうの持ってない」

「じゃあ、とりあえず、一番安い切符買いなよ。それで、出るときに精算すればいいよ」

「わ、分かった!」

(電車に乗るには、そんな方法もあるのか!?

 斜は雫の言うとおり、一番安い切符を買って自動改札機に通す。すぱっと自動改札機のゲートが開くと、自分が認められた感じがして、なんだかうれしい。

 斜は雫に連れられホームへと向かう。ホームに着くと、タイミングが良かったようで、ちょうど電車が来た。二人はすぐにその電車へ乗り込む。冷房が効いていて涼しい。車内はんでいて、二人が座れるような席はなかったが、ぎゅうぎゅう詰めというほどでもなかった。

 雫がささっとドアの横の手すりまで移動したので、斜もそこに移動する。

(そういえば、ドアの側は大体、人がいるな。もしかしたら、電車ではドアの側に立つのがマナーなのかな? 次に乗る機会があったら、ドアの横に立つようにしようっと)

「Suica買っておけばいいのに」

 電車の走行音を気にしてか、雫が少し大きい声で言った。

「普段あんまり電車乗らないんだよね」

「車使ってるんだっけ? ウチは車嫌いだなー。なんか臭い。独特のにおいあるじゃん」

「そうだね」

「絶対無理でもないんだけどさー、だんだん気持ち悪くなるんだよねー。電車は大丈夫なんだけどね。臭わないし」

「何が違いなんだろうね? 両方とも乗り物で、密閉されてるのに」

「電気は臭わないんじゃないの?」

 斜は、雫のそのアイデアには一理ある気がした。

「ああ、そうか。ということは、車の臭いはガソリンの臭い……なのかな?」

「かも。多分、そうだ」

「じゃあ、電気自動車は臭わないのかな?」

「可能性はあるね。乗ってみないと分からないけど」

 二人は吉祥寺で中央線に乗り換え、高円寺こうえんじまで移動して電車を降りる。駅から外に出ると、まだまだ日差しがあり、暑かった。

「ウチの家はここから、十分くらい」

「了解」

 あまり背の高い建物のない住宅街を少し行くと、雫の家が見えてきた。一軒家。斜はあまり住宅の事情に詳しくはないが、この家はそれなりに高そうだと思った。立派という言葉こそ似合わないものの、小綺麗こぎれいで新しく、地味に近未来的な、四角さ際立きわだつ一軒家だった。

 雫は荷物の用意をするために家の中に入ったが、斜は人の家に上がり込むのも気がとがめたので、玄関の外で待っていることにした。今更、雫が逃げる心配もないだろうし。

(うーん……彼女、両親とか大丈夫なんだろうか? 共働きだとはいえ……まぁ、僕が気にしても仕方ないか。彼女の両親に関しては──春がどうにかするだろうし)

 三十分後。斜がこの暑い中、外で待つという選択がどんなに馬鹿ばかげたものだったか身にみて実感し始めたころ、ようやく雫が出てきた。彼女は制服から私服に着替えていた。着ているのはチュニックワンピース。腕や首には色々なアクセサリーを着けていた。

「お待たせ。これ持って」

 雫はそう言うと、雫を中に入れられそうな大きさのボストンバッグを斜に突き出してきた。

「嫌だ」

「えー……そこは持ってくれるところじゃないの?」

 雫はそう言いながら、斜のすねをる。

「痛いよ。なんで僕が持たなきゃいけないのさ?」

 斜としてはバッグを持ってあげるのはやぶさかではないのだが、バッグが可愛かわいすぎるのが問題だった。正直、恥ずかしい。

「でも、女の子がこんなに大きな荷物を持っているのに、一緒に歩いている男の人が手ぶらだと、きっと変な目で見られるよ」

「それはそうかも知れないけど──そのバッグ、がらが恥ずかしい」

「ウチと一緒だから大丈夫だよ。さすがに斜のものだとは思われないって」

「……それもそうか」

 斜は雫からバッグを受け取ると、また高円寺駅に向かった。



 斜と雫が中野なかのにある事務所に着いたのは夜の七時だった。斜は大荷物を持っていたのでクタクタになってしまった。

 斜は雫にくつを脱がなくていいことを教え、リビングまで彼女を案内する。

「おかえりー」

 リビングにいた春が言った。

「ただいま。雫の部屋どうする?」

「いつもの部屋使うわ」

 いつもの部屋というのは、ベッドだけが置いてある部屋だ。この部屋は来客用で、二週間に一度くらいの頻度で、春の友達や先輩が泊まりに来るときに使っている。

 斜は雫の荷物を部屋に運び、雫にこの部屋で数日生活してもらう、というむねを伝えた。

「テレビないの? パソコンとか? コンセントは……あそこにあるね」

「この部屋には、テレビもパソコンもないよ。でも、テレビはリビングで見ていいよ。僕も春も基本、テレビ見ないし」

「そうなの? ならなんで、テレビあるの?」

「ゲーム用だって。昔、春がやってたらしい。今はやってないみたいだけど」

「そうなんだ」

「なんか不都合あったら、すぐに教えてね」

「じゃあ、連絡先教えて」

「……同じ家にいるんだから、必要なくない?」

「でも、電話とかメールとかのが早くない? まぁ、ほかの連絡方法でもいいけど」

「うーん、どうだろ? ちょっと、雫に連絡先教えていいか、春に聞いてくる」

「それって自分で決めることだと思うな、ウチ」

「この携帯電話は僕のじゃなくて仕事用に……なんていうんだろう、春から借り受けている物だからね。仕事でしか使わないんだ」

 事実、斜の携帯のアドレス帳には春とバイト先の店長──仕事関係しか入っていなかった。

「ふぅん。変なの」

 斜は部屋から出て、春に、雫に連絡先を教えて構わないか聞きにいくことにする。

(そういえば、雫の携帯電話はだれにお金払ってもらってるんだろう?)

 自分で払っているということはないだろうし、多分、雫の親が払っているのだろう。そうすると、いずれ、雫の携帯電話は使えなくなるのかも知れない。

(……どうでもいいか)

 斜は春に携帯電話のことを聞きにいくことにする。春は何故かキッチンにいて、エプロン姿でフライパンを振るっていた。珍しい──というか初めて見た。そもそも、春と斜にとって、キッチンは冷蔵庫と食器を置くための場所で、コンロはお湯を沸かすためのものだったはずだ。

「春、何やってるの?」

「料理」

 斜は、春が一度だけ料理をしたことがあったのを思い出した。メニューはグラタン。斜はそれを我慢してなんとか食べきったが──二度と食べたくなかった。不味まずいではなくき気をもよおす汚物。複数の魚介の生臭さが凝縮された加熱されていないクリームソースと固すぎるマカロニのえ物──思い出すだけで気持ち悪くなる。さっさと飲み込んでしまいたくても、マカロニを咀嚼そしゃくするのに時間がかかり、生臭いクリームソースがずっと口に残るのだ。

「あー……そうなんだ。大丈夫?」

 斜は一応、聞いてみる。

「いや、まずい。すごいまずい。チャーハン作ろうと思ったんだけど、意味が分からない。米って熱を加えればふくらむんじゃないの?」

「そうなの?」

「斜、米ってどうやれば膨らむの? お店で出る米とはかなり違う感じになってる」

「僕も作ったことないから、よく分からないよ。で、なんで料理してるのさ」

「雫歓迎パーティみたいな感じにしてもいいかなって思って」

 斜は、前に春が料理をしたのは、自分がこの家に来た日だったことを思い出した。あのときはこれからもずっとこんなものを食べなくてはならないのかと、かなりホームシックになった。

「雫歓迎パーティって必要なの? 兼崎さんに引き渡すんでしょ? 申し訳ないけど、僕も料理は分からない。何もアドバイスできないよ。とりあえずネットで検索してみたらどう?」

「検索したとおりにやってるんだけどね。卵を少し炒めて、そこにお米入れたの。で、このあとネギとか入れるつもりだったんだけど……すごい変なんだよね」

「ネットで調べたのが間違ってたとしたらお手上げだね」

「なんかショック。折角せっかく、材料買ってきたのに。米とか重かったのに」

「忙しいところ悪いんだけどさ、ちょっと質問。雫に僕の携帯電話の連絡先教えてもいい? 彼女、連絡用に知っときたいんだって」

「いいよ、──そうだ、ついでに私のも教えておいて」

「あっ、教えていいんだ。仕事用の携帯電話だから教えちゃいけないと思ってたよ」

「別に、そんなことないわよ、斜が教えていいと思った人には教えていいわよ。……って、やばい、卵がげ始めた。なのに米は固いままだ……」

 春の声がどんどん弱々しくなっていく。

「僕は力になれそうにないし、雫のところに行ってるね」

 斜はキッチンから逃げ出し、雫の部屋にノックして入ると、

「連絡先、教えていいって、春のもついでに教えておいてって」

 と、雫に伝え、連絡先を交換するために携帯電話を取り出した。

「斜はスマホじゃないの? 春はスマホだったけど」

「うん。──とりあえず、雫の連絡先入れるからそれ、見せて」

 斜は雫から端末を受け取ると、連絡先に雫を追加し始める。

「スマホの方が色々できてよくない?」

「よく分からないけど、スマートフォンでできることは大抵たいていこっちでもできるよ」

「そう?」

「ゲームも天気も乗り換え情報も見れるし、インターネットもできるよ」

「そう言われれば、確かに」

「違うのって操作方法ぐらいじゃない?」

 斜は雫の連絡先をアドレス帳に登録し終えると、メールで自分と春の連絡先を雫に送った。

「じゃあ、なんで、みんなスマホに乗り換えてるの?」

「それを乗り換えてない僕に聞かれても」

「まっ、そうだね」

 雫の言葉の途中でノックの音がした。

「何ー」

 斜が返事をする。すると、春が入ってきて、

「ねぇ、ピザ頼むんだけど、何が食べたい」

 と、チラシを広げた。

「えっ、チャーハン作ってるんじゃなかったの?」

「あれだけじゃ足りないから、ピザも頼むことにした」

 斜は、春が決定的に失敗したということが分かったが、触れないことにした。



 三十分後、応接室兼リビングのテーブルにはピザ三枚とサイドスナックが並べられた。春のチャーハンもどきは往生際おうじょうぎわ悪く端っこに置いてある。

「これ、何?」

 雫がめざとく見つけて聞く。

「チャー……ハン?」

 と、自信なさげに春が答えた。

 雫は米を一粒つまむと、

「…………り米?」

 と、つぶやき、口に入れた。チャレンジャーだ。

「チャーハン!」

 何故か、さっきとはうって変わって、春は語勢を強めて言った。

「うわ、なんだこれ……油でベトベトしてる……絶対チャーハン違うし。なんでお米かなかったの? しかも、この周りの苦くて黒いの何?」

「あー、なんか聞いたことあるわ『米を炊く』って言葉、意味分からないけど。その黒いのは卵。チャーハンだからね」

「春、良かったじゃん。ちゃんと炒り米って料理にはなってたらしいし」

「うっさい、死ね」

「まぁ、これは炒り米でもないけどね。ってか、この家、炊飯器ないの?」

「すいはんきって何? 斜、知ってる?」

「知らないよ、何それ?」

「二人とも知らないの……噓でしょ!? 料理とか本気でそこまでできないの? っていうか、料理できなくたって普通知ってるはず。常識だと思うけど」

「僕は料理って全然できないなぁ……それに常識ではないと思うよ。僕、それ知らないし」

「私も、外食ばっかだしなー」

「人が料理するところとか見たことないの? というか、小学校で習うよ」

「……僕は見たことないな」

 斜が祖父の家で暮らしていたときは、専属の料理人が厨房ちゅうぼうで食事を作っていたので、見たことがなかった。実家にいたときのことは、小さかったし、覚えてない。

「私も……ないな……」

「なんで、二人ともテンション下がってるの? 聞いちゃいけないことだった?」

「──ピザ食べよっか」

 春が、チャーハンの入った皿をキッチンに片付けながら言った。

「そうだね」

 斜は胸をなで下ろした。これでどうやらあれを食べずに済みそうだ。