翌日。午前七時。

 ななめはる六根雫りくねしずくの家を最寄もよりのバス停のベンチから見張っていた。距離としては、人の出入りを目視できるぎりぎりの距離だ。

 今日の春はスーツではなく、右肩が大きく露出した服を着ていた。下はショートパンツなのでやはり脚が大きく露出している。帽子のチョイスも派手目だ。対する斜はいつものようにカジュアルな──どちらかといえば、地味な格好だ。

(春の格好、絶対目立つよなー。なんで今日スーツじゃないんだろ? やる気ないのかな? まぁ、金髪の時点でガン目立ちしてるし、関係ないのかもね)

 斜が春のことをぼーっと見ていると、

「暑い」

 春が突然言った。

「そうだね、暑いね」

 夏も近いし、当たり前だ。

「帰ろっか?」

 春はそう言いながら、斜の腕に腕をからめた。暑いと言っていたくせに。

「そういうのやめてよ。目上の人のボケって、割とどうしたらいいか分からないし。っていうか、春が本気なのかそうじゃないのかも分からないし」

「なんか面白おもしろいこと言ってよ」

「だから、そういうのやめてって」

「つまんねーなー」

 斜はとりあえず、無視することにする。不毛だ。だが、すぐに春が、

「なんか、しゃべれよ。暇」

 と、先程組んだ腕のひじを斜の肋骨ろっこつ辺りにねじ込みながら言った。

「静かにしとこうよ」

「話してた方が不自然じゃないよ」

「確かにそうだけど。じゃあ、なんか話そうか……これ終わったら何食べる?」

「……んーと、そうだね。あっ、つけめん食べたい。冷たいやつ。スープがっぱいやつ」

「じゃあ、それで」

「…………いや、同意したら、会話終わっちゃうじゃん」

「だって、僕もつけ麵でもいいかなぁって感じだし」

「なんか、これぞっていう、食べたいものないの?」

「とんかつ?」

「斜、いつもそれだね」

 春があきれた感じで言った。

「そう言われても…………じゃあ、ちょっと考える」

 斜が食べたいものを考えていると、六根雫の家から制服の少女が出てきた。彼女は玄関のかぎを締めると、斜たちの方へ歩いてきた。彼女が六根雫だとすれば、斜たちのいるところ──バス停は学校の方角、つまり通学路なので予想どおりだ。彼女の身長は百四十センチメートル半ば。写真で見るより実際の印象は小柄こがらだ。

 二人は、ここでは尾行をせずに六根雫の存在を確認するだけの予定だった。実際の行動は彼女の下校時に起こす手はずだ。なので、彼女をそのまま見送る。

「あの子だね」

 斜は、間違いなく写真の少女だとは思ったが、春に同意を求める。

「そーね」

「もう少ししたら、学校の方でも見にいく?」

 これは前日に決めた手順だ。斜としては、学校は見なくてもいいのでは、と意見したのだが、春が時間もあるし、学生の生活の中心はやっぱり学校だと言ったので見にいくことになった。もしかすると、春には学校で何か確認したいことがあるのかも知れない。

「まぁ、昼過ぎからでもいいんだけど──まだ時間あるし、午前中に一回見ときますか」

 二人は、あえて最短ルートではない道を歩きながら、六根雫の通う中学校に向かう。人に見られないよう一時間目の授業が始まってから、学校に着くのが望ましいからだ。

「そうだ、斜、食べたいもの決まった?」

「あれだね、とんかつじゃないとすると、ぼんじり食べたい」

「すげーピンポイントなところ来たね。ぼんじりってランチで食べれる店あるかな?」

「ないの?」

「ない気がする。見たことない」

「じゃあ、いいや」

「まぁ、どちらにせよ、つけ麵食べるんだけどね。すげー食いたいし」

「だと思った。別にそれでいいけどね」

 二人は、六根雫の通う中学校のそばにある、特にセキュリティシステムのないマンションに忍び込んだ。そして、外壁の階段から学校を双眼鏡で観察し始める。圧倒的に不審な行動だが、見つかったら、逃げればいいだけの話だ。

 斜は左上の教室から順に確認していく。そのとき、明らかにおかしい教室──生徒が数人しかいない教室を見つけた。生徒と教師をあわせても五人しかいない。全員いないのなら、教室移動か体育だと予測が立つが、この状況は明らかに異常だ。そして、教室にいる生徒の中の一人は六根雫だった。遠目だが間違いない。彼女はぼんやりと外を見ている。彼女以外の生徒はきわめて真面目まじめに授業を受けているようだ。この距離からでも集中している様子がうかがえる。

「ねぇ、春。教室に四人しかいないってあり得る?」

「あり得ないだろうね。移動教室を仲良しグループがサボってるって可能性ぐらいかな?」

「でも、先生もいるんだよね。上から二番目、左から五番目の教室」

 右の方を見ていた春も双眼鏡を動かし、斜が教えた教室に目をやる。

「こうなっているのか」

 春はその状況に対し、あまり驚いていないようだった。

「黒板に何か書いているね」

「進学クラスって訳でもなさそうだし……。生徒がいなくても授業やらなきゃならないなんて、先生も大変ね」

 春は双眼鏡を下ろすと、あごに手を当てて、考え込み始めた。

 斜はその間もさらに観察を続ける。

「そんな楽な仕事じゃないかもね」

 春はそう言ってため息をついた。

(別に、そこまで先生に同情しなくたっていいのに……)

 斜はそう思ったが──実際には違った。春の言葉は、今回の仕事の難易度についての感想だった。斜がそれに気付くころには、この言葉なんて忘れてしまっているだろうが。

「んじゃ、つけ麵食べに行きますか。酸っぱいのね、酸っぱいの」

 春は双眼鏡をしまうと、スマートフォンで近くのラーメン屋を検索しながらそう言った。



 午後三時半。斜は通学路で六根雫が通るのを待っていた。まずは、ここで彼女に声をかける予定だ。それが失敗した場合、車で待機している春がなんとかするという手はずだ。

 斜は春の作ったサンプル会話集に目を通し、六根雫との会話をシミュレートする。彼女の性格が未知数なので、どんな会話にも対応できるよう、サンプル集の隅から隅まで目を通す。

(むむぅ……女子中学生と話すのかぁ……)

 斜にとって初めての経験だ。上手うまくできるか分からない。しかし、悩んでも仕方ない。斜はいさぎよくやってしまうことに決めた。春も「家でゴキブリが出たらすげーびっくりするけど、仕事場に出ると普通に殺せるでしょ」と言っていた。確かに経験がある。バイト先でゴキブリが出たときは普通に退治できた。ただ、家でゴキブリを見たことがないのでなんとも言えないが。

 斜の携帯電話に連絡が来る。

『あと二分ぐらいで六根雫がそこに着く。私はこれから先回りを始める』

「了解」

 斜が携帯電話をしまってから少しつと、前の方から六根雫が歩いてきた。

(ターゲットが通り過ぎたら、追いかけて一緒の方向に歩きながら声をかけるんだったよな)

 斜は、この作法がなんの役に立つのか分からなかったが、春のメモどおりにして声をかける。

「こんにちは」

 笑顔を顔に張り付かせることも忘れない。あまり笑うのは得意ではないが。

「何?」

 六根雫は立ち止まり、怪訝けげんそうな顔で言った。そして、彼女は斜の方に手を伸ばすと、その手を斜の体の前ですっと横切らせた。それは人を追い払うときにする手の動きではなく、何かをすくうような不思議な動作──少なくとも初対面の人間にはしない行動だった。それから、六根雫はなんだか、興味深そうというよりは観察するように斜を見ると、

「…………あんた、人間?」

 と、聞いた。斜もまさか、人間かどうかを聞かれるとは予想していなかった。もちろん、こんな問答は春の会話集にはない。しかし、彼女はふざけているというわけではなさそうだ。この少女からは何故なぜか真剣さがにじみ出ている。それに加え、多少のあせりも。

「はぁ……人間だけど。ちょっと話があるんですが、いいですか? 六根雫さん」

 斜は彼女の名前──自分が本来ならば知らないと思われている情報を出し、彼女に揺さぶりをかけてみる。

 だが、六根雫は予想外の反応をする。彼女は斜の後ろの方に視線を移すと、後ずさりし、

「そいつ……あんたの仲間?」

 と、おびえた声で言った。

 斜は後ろを振り向く。そこには斜より身長が十五センチは高い非常に大柄な男が立っていた。だが、本当に特徴的なのはその体軀たいくではなく服装だった。ガスマスクと目深まぶかかぶったパーカーのフード──そのせいで表情がほとんど窺えない。どうやってここまで職質を受けずに来たのか不思議になるレベルの不審人物だ。

 斜も後ろから人が近づいているのは【間合い】で分かっていた。だが、なまじ【間合い】で人が近づいてくるのを察知できてしまっていたため、対象を見るということをせず、その風貌ふうぼうの異常性に気付かなかった。もちろん、こんなやつ、仲間ではない。

 斜は、ターゲットの六根雫に何かあったらまずいので、その男を六根雫に近づけないよう間に立ちはだかった。そして、六根雫の手を引き、男から距離を取り始める。相手は体が大きくリーチが長いせいか、最適な【間合い】にはまだ遠い。

 斜が距離を取ろうとすると、そいつは距離を詰めてきた──つまり、こちらをねらっているとみて間違いないだろう。斜は仕方なく、六根雫の手を取り、走って逃げることにする。六根雫もそれに逆らわずについてくる。

「だから、あいつはあんたのなんなの?」

 六根雫は少し苛立いらだった風に聞いた。

「知らないよ、無関係」

「っていうか、そもそも、あんたはなんなの?」

「えっ、僕?」

「そう、お前!」

「僕は、その、な、なんだろう!?

 さすがに「君をさらいにきた」とは言えない。かっこいい台詞せりふだが、初対面の相手には言ってはいけない台詞だ。意味が変わってくる。──もっとも、斜が今しようとしていることはその変わった意味の方なのだが。

 斜は走りながら後ろを見て、ガスマスク男を確認する。そいつも走りながら追いかけてきている。しかも、不気味なほど速い。あの体軀であのスピード、威圧感を通り越して気味が悪い。

(どうする? どうする?)

 斜は焦る。この少女を先に逃がして、ガスマスク男をどうにかすることは──できる。だが、目的は六根雫を春のところに連れていくことだ。ここで少女を逃がしてしまったら本末転倒だ。しかし、逃がさないで対処することも難しいだろう。

(そうだ、春に連絡して──)

 車にこの少女を乗せて逃げようと思ったとき──ついに追いつかれた。その大男は、少女の方にぐっと手を伸ばしてきた。斜は瞬時に、少女の胴体にラリアットを食らわせるかのような体勢で、少女と一緒に飛び退く。

「下がってて」

 斜がそう言うと、六根雫は近くの電柱の裏に隠れた。

 この状況では、春に連絡する余裕もないし、少女を連れていくにも、まずはこの男をどうにかしなくてはならない。このすきに六根雫が逃げるかも知れないが──そのときはそのときだ。春に報告して次の手段を考えてもらうしかない。不測の事態だ、仕方がない。

 男はさらに雫に向かって進もうとしてくる、斜はそれを妨害するように立ちふさがった。

「あの、何か用ですか?」

 斜は妙にやる気のないことを言う。だが「なんだ、お前は!」と言えるほど、斜の気は強くない。それになるべく、ことを荒立てたくはない──すでにかなり荒立ってしまってはいるが。

 だが、もちろんと言うべきか──その男は何も言わず、斜に殴りかかってきた。斜は距離を取ってそれをける。まずは、最適な【間合い】を取りたい。

 斜は一旦いったん、六根雫のことをあきらめることにする。

「六根雫さん! ちょっと本気で逃げて! ここはどうにかする!」

「う、うん。分かった」

 電柱の陰から二人を見ていた六根雫はその場から逃げ出した。

 ガスマスクの男はそれを見ると、斜を抜いて、雫を追いかけようとした。

(やっぱり、こいつの狙いはあの子だったのか。僕じゃなくて)

 そして、ここまでは斜の計算どおりだ。斜にとって最適な【間合い】というのは一つではない。イメージ的には人体から円を描くように存在している。だが、その円はいびつな円で、丸みを帯びた三角形みたいな形をしている。背中の方の最適な【間合い】は短く、正面は長い。

 だから、人が通り過ぎるときに、最適な【間合い】を取ることは容易だ。そして、最適な【間合い】から繰り出された攻撃はまず避けられないし、ダメージも大きい。──斜と春はその最適な【間合い】を『バッド・ディスタンス』と呼んでいる。

 斜は男が自分のわきを通り抜け、【最適な間合いバッド・ディスタンス】に入ったところで、ポケットに入れておいた包装された五十枚つづりの五十円硬貨──棒金を握り込み、男の首目がけて後ろから殴りつけた。少々卑怯ひきょうな絵だが、緊急事態なので仕方ない。

 だが、男は倒れもせず、首を押さえながら、斜の方に振り向いただけだった。

(だよねー……)

 体格が違いすぎるのだ。斜は全力で殴ったが、相手にはほぼダメージがないように見える。

(武器もあるっちゃあるけど……どうしようかなぁ)

 今、武器になりそうなものはポケットに収まるような小さい警棒とアーミーナイフだけだ。今日は、女の子に声をかけるだけの予定だったので、最低限のものしか持ってこなかったのだ。

(ナイフで人刺すわけにはいかない──というか、こんな小さいナイフじゃ役立たないし)

 斜は消去法で、警棒をポケットから出し、伸ばす。

 どうやら、ガスマスクの男は斜を先に排除することにしたようだ。あの少女の元に行かれるよりかは幾分かマシな状態だ。斜にとって、追いかけっこをするよりはるかに都合が良い。

 斜は【最適な間合いバッド・ディスタンス】を維持しつつ、少しずつ、相手の周りを回るように移動していく。【最適な間合いバッド・ディスタンス】の点でできた線をなぞるように。

 その間、何度か相手が斜に向かってパンチや突進をしてきたが、【最適な間合いバッド・ディスタンス】の効果でことごとく失敗する。相手も迂闊うかつに攻撃できないことが分かったのか、ただ、斜に相対するように、少しずつ位置を変えているだけだ。──つまり、斜の思惑おもわくどおりだ。

 斜はさらに緩急かんきゅうをつけて、相手の裏に回り込むような素振そぶりも見せつつ、移動する。

 ガスマスクの男はしびれを切らしたのか、見ているだけではなく、距離を詰めたりと、攻撃を誘うような動作を取り始めた。しかし、斜は相手の誘いには付き合わず、【最適な間合いバッド・ディスタンス】を引き続きなぞる。

 この膠着こうちゃくを崩したのは斜だった。今まで【最適な間合いバッド・ディスタンス】を取ることに徹していた斜が、突然、ガスマスクの男の方へ歩を進めたのだ。だが、その妙に堂々とした歩き方は、この戦いの場においては圧倒的に異質だった。それは、相手から攻撃されることなんて微塵みじんも想定していないような、不遜ふそんとも取られかねない歩みだった。

 それに対し、ガスマスクの男の方は──斜を見失ったかのように、辺りを警戒し始めた。何故か、眼前の斜の異常な進行に対してはまったく対応をしようとしない。

 ついに、斜の体がガスマスク男の前まで辿たどり着いた。明らかにガスマスク男の方が有利で、斜が絶対に取ってはいけない【間合い】だ。だが、斜は男をまったく警戒していない。それどころか、斜は警棒を握り、しっかりと構え──攻撃態勢に入った。そして、斜は一呼吸置き、男の脇腹目がけ、全力で警棒を振り抜いた。

 勝敗は先程までのにらみ合いからは想像もできないようなあっけなさで決した。男は斜の攻撃に反応すらしないまま、もろに食らい、地面にすい込まれるように崩れ落ち──終わった。

 これは斜にとっては、まったく予想通りの結果だった。斜が分かる【最適な間合いバッド・ディスタンス】には、さらに最適な【間合い】がある。春がこれに【虚実の消失点バニシング・ポイント】と名前を付け、斜もそう呼んでいる。この【虚実の消失点バニシング・ポイント】は相手に自分の存在を認識すらされない【間合い】だ。視界にいるのに見失ってしまう──意識の死角と言うべき【間合い】なのだ。春に言わせれば、意識したくないぐらいいやな【間合い】、らしい。