だが、兼崎の方は、口をへの字にゆがませ、こめかみの辺りを人差し指でぽりぽりとき始める。納得がいっていないのだろう。

「この条件でしか受けない。いやならほかを当たってね」

 春がだめ押しするかのようにそう言うと、兼崎は鼻から、ふん、と大きく息をき出し、

「分かった、それでいい。頼む」

 と、投げやりに言って、立ち上がった。

 きっと、兼崎にはこんなことを請け負ってくれる人間が春くらいしかいないのだろう。斜は春から、殺人を請け負ったとしても〝誘拐〟を請け負う人間はまずいないと聞いていた。理由は単純に、得られる金額とやるべき仕事が釣りあわないからだ。もし金額を上げて仕事に釣りあわせようとしたら、だれも頼まない──そういう仕事だという話だった。そのときの場の雰囲気から、なら何故なぜやっているんだ? とは聞けなかったが。

「まっ、いつもどおり、ちょくちょく連絡入れるわ。あんまり期待しないでね」

 兼崎は春の言葉を無視するかのように、部屋の入り口辺りにいたコングロマリットを連れて、事務所を出ていった。



「で、結局どうするの?」

 接客用のコーヒーカップを洗い終えた斜は、リビングに戻って、春に聞いた。

「やるって言ったからやるわよ、適当にね。見にいって、即ダメでしたでもいいんだし」

「でもさ、それだと、なんというか……次の仕事に影響しない?」

「おっ、いっちょまえに、そんなこと心配し出したか」

 春はニタニタ笑って続ける。

「まぁ、いつも、子供はやらないって言っているのに頼んできたわけだしね」

「…………でも、なんか、それって良くないような。勝手にやめるっていうのは」

「──お客は大事だけど、こっちのすることは客に喜んでもらうことではないのよ」

 よく分からなかったので、斜は首をかしげる。

「八百屋に向かって、ケーキは置いてないのか? って聞いてくるやつがいたらどう思う?」

「変だね。ケーキ屋に行けって思う」

「そういうこと」

「でもさ、一応、僕たちの仕事は〝誘拐〟じゃん。今回の場合は八百屋にケーキは置いてないってたとえとは少し違うと思う。ルールだからやらないってことは分かるけどさ、今回のはなんて言うんだろう……変なルールを押しつけるラーメン屋みたいな」

「別に、双方にメリットのない、おかしな自分ルールを押しつけているわけじゃないよ。白アリの駆除業者が同じ虫だからってスズメバチの駆除はしないようなもん」

「あっ、ちょっと分かったかも──似てるように見えてまったく別ものってこと?」

「そう。でも、ここから先は自分で考えるといい。私が正しいとは限らないから」

 春はよく、言葉の最後に『私が正しいとは限らない』と言う。斜は何故、春がそんなことを言うのか分からなかった。春の性格からして、自分の言ったことに責任を持ちたくがないがために逃げ道を作っているわけではないだろう。

(どう考えても、僕より春の方が頭は良いし、正しいはずなんだけどなぁ)

 斜がそんなことを考えていると、

「じゃあ、私は色々準備してくるから、適当にしてて。あとで呼ぶから」

 春はそう言って、自室に入ってしまった。

(『適当にしてて』っていうのもよく言われるけど、それも分からないな)

 斜は自室に戻り、ノートパソコンの電源とアンプの電源を入れた。斜の部屋には一つだけ特徴的なものがあった。それは部屋のサイズには不釣り合いなスピーカーだ。このスピーカーとアンプは祖父が死んだ際、祖父の家から引き取ってきたものだ。本当は捨てようと思っていたのだが、春に「それ、けーやつだから、持ってった方がいいよ」と言われ、持ってきたのだ。斜は音楽が好きだが、音の出力装置にはこだわりがないので、どうでも良かったのだが。それに、このスピーカーが本当に高いのかどうかも分からなかった。一応、型番は書いてあるのだが、その型番はネットでいくら検索しても出てこなかった。

 斜はパソコンが立ち上がったところで、デジタルオーディオプレイヤーのプログラムを起動させ、アルバムをランダムで選び、流し始める。流れてきたのはブルータル・デスメタルだった。このアルバムは自分で買ったものではなく、祖父の遺品だったCDから入れたものだ。

(あの人は七十にもなって、こんなのを聞いていたのか……)

 そんなことを考えながら、斜は死んだ祖父を思い出そうとしてみる。

 斜は八歳のときから祖父の家で暮らしていた。斜の両親が祖父に斜を押しつけたのだ。これは斜の【間合い】が分かる能力のせいだ。斜は両親に対しても、常に最適な【間合い】を取り続けていた。きっと、いつも不快なところにいる気味の悪い子供と思われていたことだろう。だから斜は捨てられた。今なら解決策も分かっているし、両親とも円滑な関係を築けるだろうが──今更、戻りたいとも、戻したいとも思わない。

 斜は祖父に預けられてから八年間、学校にも行かず、ずっと家にいた。

 そのころの斜は人に嫌われる原因が【間合い】だとは知らなかったので、なるべく祖父とも会わないように暮らしていた。ただ人におびえていた。家にいる間はずっと、祖父にもらった本を読むか、音楽を聴くかして過ごしていた。

 斜はあまり、祖父のことを思い出せなかった。八年間もともに生活していたというのに。理由は会っていた時間が短いからだと分かっているが。

 だからといって、斜は祖父が嫌いではない。自分を許容してくれたし、遺書という形でだが、春と自分を引きあわせてくれた。そのおかげで、色々な問題に解決のきざしが見えた。

 しかし、考えれば、考えるほど祖父はなぞだ。妙に資産家だったし。老人のくせに春みたいな若い女性と知り合いだったり。斜は祖父のことをもう少し知りたかったと思った。今更だが。

 斜はそんなことを考えているうち、音楽を聴きながら眠ってしまった。



 パチン、というかすかな音と頭への軽い衝撃で斜は目を覚ました。目を開けると、春の姿が見えた。彼女は、何故か自分に馬乗りになって、両手で交互にデコピンをしている。

「起きたか」

「何やってるの?」

「これから、ミーティングだ」

「たまには普通に起こしてよ」

「斜は普通に起こされて楽しいの?」

「普通に起こされても楽しくないけど、これも楽しくな──」

 言葉の途中で、春はもう一度デコピンをすると、何故か満足そうな顔で斜から降り、部屋から出ていった。斜は非常に理不尽だと思ったが、自分もリビングに向かうことにする。

 リビングのテーブルにはすでに資料が用意されていた。それは、兼崎の持ってきた写真をPCに取り込み、各種情報を履歴書風に書き替えたもののようだ。春は資料を作るときに体裁にこだわりすぎるきらいがある。斜は文句こそ言わないが、無駄だな、といつも思っていた。

 斜は資料に目を通してみる。

 ターゲットの名前は六根雫。彼女は高円寺こうえんじ阿佐ヶ谷あさがやの間に住んでいるようだ。この事務所兼自宅は中野にあるので、目と鼻の先だ。資料には、中学二年生、女子。裕福だろう、という春のコメントがある。

 斜は次に写真を見る。普通の少女だ。写真の背景と少女との大きさのバランスを考慮すると、小柄こがらなのだろう。制服が夏服なので、この写真は最近撮られたものだと判断できる。まさか一年前の写真ということはあるまい。この歳の子供は一年もあったら、別人だ。

「春、こういう住所とかってどうやって調べるの?」

「別に大したことないわよ。この六根雫って子の制服と写真の周りの風景から通っている学校を特定して、この子の通っている学校が普通の公立だったから、徒歩二十分以内ぐらいのところに住んでると推察して、そこら辺を調べただけよ。名字が珍しいから簡単だったわ」

「その、最後はどうやって調べたのさ?」

「今回は同級生っぽい人に片っ端から電話して聞いたわ」

「えっ、そんなこと可能なの? 個人情報教えてくれるの?」

「結構、普通に教えてくれるわよ。今回はお中元を送るからって理由を付けたけど。それでダメなら業者に頼むわね。すぐに結果出るわよ。そんな高くないし」

「へー、なんか嫌だなぁ……まぁいっか。で、どうするの?」

「明日、早速見にいって、声かける」

「声かけるんだ」

「うん。で、断られたら、やめる」

「……それって絶対断られそうな気がするけど」

 攫いますけどいいですか? と聞かれて、それを了承する人間はいないだろう。

「まぁね。でも、この子の場合、兼崎のところに行くのも悪くない気がするけどね」

「……? そういえば、僕は知らないんだけど、兼崎さんって何している人なの?」

 春は目をらすと、口に手を当て、何かを考え始めた。そして、数秒すると、

「一応、公務員。詳しい中身は、おいおい話す。でもまぁ、悪いことではないわ。何が良いことで何が悪いことかは、最終的には斜が考えることね。私は悪くないと思っているけど」

 と、言った。

「分かった」

 と答えたが、斜は、どう考えても兼崎は悪い人間だと思った。格好からして悪そうだ──サングラスをかけているし。サングラスをかけていると悪人という根拠もサンプルもないが、斜はなんとなくそう思った。そして、何より〝誘拐屋〟を使っている人間が良い人のはずがない。──〝誘拐屋〟の斜が言うのもおかしな話だが。

 そのあと、斜と春は、明日の細かい予定と作戦を二時間ほど話しあったあと、解散し、各々の部屋に戻った。