時間はすでに夜に差しかかろうとしているのだが、
斜は意識を集中させながら道を歩く。
──斜には生まれたときから、他人との最適な【間合い】が分かるという才能があった。斜にとってこの【間合い】は測ろうとせずとも、勝手に理解できてしまう──いわば、彼だけの常識のようなものだった。
そして、この【間合い】の最適さこそが
もちろん、斜以外の人間は直感的にその距離が最悪な【間合い】だと理解することはできない。だが、それでも何かしらの嫌悪感を覚える──そのくらい最悪な【間合い】なのだ。
しかし、その【間合い】は斜にとっては安全な【間合い】だったので、彼はハイハイができるようになったころから、他人とは最適な【間合い】を保ちながら生きてきた。
無論、他人に嫌悪感を与えるほどの最適な【間合い】を理解し、取り続けられるような人間が、快適に生きられるほど世界は甘くない。残念ながら、斜は
しかし、一番の問題は嫌われたことではなく、斜が人に嫌われる原因に気付けなかったことだった。斜にとって最適な【間合い】は当然の取るべき距離であり、彼はそれが人に嫌われる原因だなどとは
それから、斜は十六歳のときに柚木春と出会い、春から自分の性質──そして【間合い】に対する解決方法を教わる。解決方法は単純に【間合い】を取らなければいいというものだった。他人からしてみれば「じゃあ、普通にすればいいだけじゃん?」と思うかも知れないが、自転車に乗っているとき、眼前に迫った木の枝に対し、
斜はハンバーガーショップに入る。ここまで来れば、あとは普通に並んで普通に買うだけだ。行列は立つ場所が決まっているので、基本的に最適な【間合い】を取ってしまうことはない。
斜はテイクアウトで自分と春が食べるものを適当に買って、店を出た。店に入ってから出るまでの十分に満たない時間なのに、日が少し
帰り道、斜は部活帰りの男子高校生の集団とすれ違った。
斜は十七歳だが高校には通っていない。そもそも、高校は義務教育でないので通う必要はないのだが──それでも、斜は同年代の人間を見ると少し
それに、まずは小学校に通わないとダメだろう。斜は中学校には一度も行かなかったし、小学校にも二年間しか通わなかった。だから、高校に行ったってどうしようもない。勉強にはついていけないはずだ。そして、勉強についていく手段は閉ざされている。残念なことに斜は小学校と中学校を卒業してしまっていた。斜は小学校にも中学校にも通っていなかったし、卒業式に出た記憶もなかったのだが、いつの間にか卒業させられていた。
(まぁ、どうでもいいか)
考えてもどうしようもないことに悩まない。春に教えられたことだ。
(──というか、中学校までの勉強は自分でして、それから高校に行けばいいのか)
思いついたものの、そうまでして勉強をしたいかと言われれば、確実にノーだったので、このことを考えるのはやめた。きっと、理由もなく他人をうらやんでいただけなのだろう。
斜は、冷房の効いた部屋に
──数分後。斜は家に着くと、応接室兼リビングにあるテーブルに買ってきたハンバーガーを置いた。この家は事務所を兼ねているので、リビングは
「ただいまー。春ー、ご飯買ってきたよ」
「おかえりー」
この部屋には二人掛けの黒い応接ソファーが二つ、ガラスのテーブルを
「今日はモスにしたんだ? お店
春がハンバーガーの包みを開けながら聞いた。中野駅南口にはマクドナルドとモスバーガーとフレッシュネスバーガーが同じ道沿いに百メートルもおかず立っている。だから、ハンバーガーを買うときは気分で店を変える。
「いや、そんなに混んでなかったよ」
「ってか、斜、それだけで足りるの? もっと食べていいのに」
斜が買ってきたものはモスチーズバーガー一個だ。これは遠慮したわけではない。
「あとで、カップラーメン食べるから。早めに食べないと、また、春に食べられるし」
「一言多い」
「だって、春、この前、僕のカップラーメン食べたじゃん。新発売のやつ」
「あの日、あれしかご飯なかったし、仕方ねーじゃん。細かいこと言わないでよ。ってか、斜がバイト先で飯食ってきたのが悪いんじゃん。私のご飯買ってこないで」
「…………」
斜は、細かいことを言っているのは春の方だと思ったが黙っておいた。
*
翌日。〝誘拐屋〟に依頼が来た。
依頼を持ってきたのは
斜はコーヒーを応接室兼リビングのテーブルに置いた。ソファーには春と兼崎が向かいあって座っている。兼崎は非常に体が大きく、二人掛けのソファーが二人掛けに見えないほどだ。しかも、彼は黒いスーツに加え、サングラスをかけているので威圧感が
斜はキッチンにお盆を戻しにいくとき、ジーンズとシャツという地味な
斜はお盆をシンクの横に置き、冷蔵庫にもたれかかった。大人の話し合いに混ざる気もなければ、その話し合いを聞く気もないからだ。話を聞く気がないのは、自分は春のアシスタントで仕事に関して何かを考える必要はないという理由が半分と、兼崎が怖いという理由が半分ずつだ。
だが、そんな斜の気を知ってか知らずか、
「斜ー、おいでー」
と、春が斜を呼んだ。さすがに呼ばれているのを無視はできない。行きたくはないが。
斜がリビングに着くと、春が自分の横の席を、ぽんぽんぽん、と三回素早く
「……別に、そいつに話を聞かせる必要はないんじゃないか」
兼崎がハンカチで
「いやね、斜をちゃんと教育しようと思って。もし、斜が一人前になったらさ、私もかなり楽できるじゃん。OJTよ」
春は客の前だが随分フランクに喋る。これは兼崎や一部の常連だけに使う口調だ。この前の、教師と駆け落ちした女子高生の件の依頼主──女子高生の父親には敬語を使っていた。
兼崎は、ふん、と鼻を鳴らし、
「…………仕事をちゃんとやってくれるなら、なんでも構わないが」
と、不機嫌そうに答えた。
「で、今日はどんな用件」
「こいつを連れてきてほしい」
兼崎は
〝誘拐屋〟に来る依頼の大半は人捜し──
斜は横から資料を見る。A4コピー用紙の方はテキストファイルをそのまま印刷したもののようで、上の方に、
「──子供はやってないんだけど」
春はさっきまでとは一転して、冷たい口調で言った。
〝誘拐屋〟では基本的に子供──十八歳未満の人間を攫わない。これは春の決めたルールだ。理由は人道的にというわけではなく、仕事の難易度が上がるからだ。子供がいなくなると、警察が動く。そうすると、
基本的に捜索
前回〝誘拐屋〟が女子高生を対象にしたのはそれが〝誘拐〟でなくある意味〝救出〟で、依頼主が彼女の親だったからだ。
「もちろん、知っている。だが、頼みたい。ヤバいかも知れない」
兼崎は言葉を
春は資料をテーブルに置き、背もたれに寄りかかって足を組むと、兼崎のことを
「今回はいつもの五倍、金を払う。そのうち三割は先に払う」
兼崎は右手の指を五本立てた。
「…………」
春は何も言わない。
斜は、この提案は逆効果だと思った。春も信念を金で
しかし、春はそんな斜の考えとは裏腹に、
「──分かったわ」
と、答えた。
(えー……オーケーしちゃうんだぁ……)
斜は声には出さなかったものの、少し落胆した。春は自分を助けてくれた人間で、面倒を見てくれている人間なので、尊敬している分、がっかりだった。もしかしたら春も兼崎の〝ヤバい〟の意味が分かったからかも知れないが。
だが、春は一息置いて、
「前金はいらない。その代わり──この仕事は私の判断で、やめるべきだと思ったら、連絡なしにやめさせてもらうわ。事後連絡はするけどね」
と、強い口調で宣言した。
斜は少しほっとした。春が金に目がくらんだわけではないと知って。
