深草斜ふかくさななめは夕飯を買うため、近くのハンバーガーショップに向かっていた。家で待っている柚木春ゆずきはると自分の分、二人分を買う予定だ。

 時間はすでに夜に差しかかろうとしているのだが、夏至げしを過ぎたばかりということもあり、まだまだ日は高い。そして、何より暑い。蒸し蒸しする。

 中野なかの駅に近づくにつれ、人が増えてくる。ちょうど、学生や会社勤めの人間が帰宅する時間なのだろう。もっとも、こちらは南口側なので、中野サンモール商店街や中野ブロードウェイがある北口側と比べると人通りは少ないのだが。

 斜は意識を集中させながら道を歩く。はたから見れば、斜はただ歩いているようにしか見えないだろうが、彼は持てる神経のすべてを、道行く人に違和感を与えない、ということにそそぎ込んでいた。普通に街を歩く──斜が春の元に来てから半年かけて身につけた技術だ。もちろん、普通の人間は普通にできることなので、取り戻した技術と言うべきかも知れないが。

 ──斜には生まれたときから、他人との最適な【間合い】が分かるという才能があった。斜にとってこの【間合い】は測ろうとせずとも、勝手に理解できてしまう──いわば、彼だけの常識のようなものだった。

 そして、この【間合い】の最適さこそが厄介者やっかいものだった。この【間合い】はあくまでも斜にとって最適なだけなのだ。斜にとって絶対的に安全で、圧倒的に相手よりも優位に立てる【間合い】──つまり、ほかの人間にとっては最悪の【間合い】なのだ。

 もちろん、斜以外の人間は直感的にその距離が最悪な【間合い】だと理解することはできない。だが、それでも何かしらの嫌悪感を覚える──そのくらい最悪な【間合い】なのだ。

 しかし、その【間合い】は斜にとっては安全な【間合い】だったので、彼はハイハイができるようになったころから、他人とは最適な【間合い】を保ちながら生きてきた。

 無論、他人に嫌悪感を与えるほどの最適な【間合い】を理解し、取り続けられるような人間が、快適に生きられるほど世界は甘くない。残念ながら、斜はみ嫌われることになった──常に人が嫌悪感を覚えるところに位置していたのだから当然の帰結だ。

 しかし、一番の問題は嫌われたことではなく、斜が人に嫌われる原因に気付けなかったことだった。斜にとって最適な【間合い】は当然の取るべき距離であり、彼はそれが人に嫌われる原因だなどとはつゆほども思わなかったのだ。何より、斜は他人が【間合い】を理解できないということをかなり長い間──春と出会うまで理解できていなかった。自分が特別だなんて気付きもしなかったのだ。斜にとって【間合い】とはそれほど当たり前な感覚だった。

 それから、斜は十六歳のときに柚木春と出会い、春から自分の性質──そして【間合い】に対する解決方法を教わる。解決方法は単純に【間合い】を取らなければいいというものだった。他人からしてみれば「じゃあ、普通にすればいいだけじゃん?」と思うかも知れないが、自転車に乗っているとき、眼前に迫った木の枝に対し、けずにぶつかりながら進むようなことをしない──というかできないように、斜にとって、ただ歩くというのは中々できないものだった。それでも、彼は半年間、訓練を重ね、ようやく普通の人間と同じレベルの行動ができるようになった。だから、今日のようにお使いもこなせるようなった。

 斜はハンバーガーショップに入る。ここまで来れば、あとは普通に並んで普通に買うだけだ。行列は立つ場所が決まっているので、基本的に最適な【間合い】を取ってしまうことはない。

 斜はテイクアウトで自分と春が食べるものを適当に買って、店を出た。店に入ってから出るまでの十分に満たない時間なのに、日が少しかたむいて、オレンジ色になっていた。

 帰り道、斜は部活帰りの男子高校生の集団とすれ違った。

 斜は十七歳だが高校には通っていない。そもそも、高校は義務教育でないので通う必要はないのだが──それでも、斜は同年代の人間を見ると少しさびしくなる。学校に行ってみたいと思ったりする。だが春に、高校に行きたいとは言い出せなかった。彼女は血もつながっていない自分の面倒を見てくれているのだ、そこまでワガママは言えない──ような気がした。

 それに、まずは小学校に通わないとダメだろう。斜は中学校には一度も行かなかったし、小学校にも二年間しか通わなかった。だから、高校に行ったってどうしようもない。勉強にはついていけないはずだ。そして、勉強についていく手段は閉ざされている。残念なことに斜は小学校と中学校を卒業してしまっていた。斜は小学校にも中学校にも通っていなかったし、卒業式に出た記憶もなかったのだが、いつの間にか卒業させられていた。

(まぁ、どうでもいいか)

 考えてもどうしようもないことに悩まない。春に教えられたことだ。

(──というか、中学校までの勉強は自分でして、それから高校に行けばいいのか)

 思いついたものの、そうまでして勉強をしたいかと言われれば、確実にノーだったので、このことを考えるのはやめた。きっと、理由もなく他人をうらやんでいただけなのだろう。

 斜は、冷房の効いた部屋に辿たどり着きたかったので、歩くスピードを上げ、家路を急いだ。

 ──数分後。斜は家に着くと、応接室兼リビングにあるテーブルに買ってきたハンバーガーを置いた。この家は事務所を兼ねているので、リビングはくつで入れるようになっている。各々おのおのの自室に入るときに靴を脱ぐ形だ。

「ただいまー。春ー、ご飯買ってきたよ」

「おかえりー」

 半袖はんそでジャージ姿の春が部屋から出てくる。金髪と相まって田舎いなかの不良といった風貌ふうぼうだ。こんな格好をしているが、彼女は斜の上司であり、保護者でもある。彼女は祖父が死んだことで行き場をなくした斜の面倒を見てくれている──親代わりというにはとしが近すぎるが。

 この部屋には二人掛けの黒い応接ソファーが二つ、ガラスのテーブルをはさんで向かいあうように設置されている。斜と春はそれぞれのソファーの右側に座る。はす向かいの形だ。別に、こういう風に座ろうと決めたわけではないが、自然とこうなった。向かいあって食事をするような関係ではないからだろう。

「今日はモスにしたんだ? お店んでた?」

 春がハンバーガーの包みを開けながら聞いた。中野駅南口にはマクドナルドとモスバーガーとフレッシュネスバーガーが同じ道沿いに百メートルもおかず立っている。だから、ハンバーガーを買うときは気分で店を変える。

「いや、そんなに混んでなかったよ」

「ってか、斜、それだけで足りるの? もっと食べていいのに」

 斜が買ってきたものはモスチーズバーガー一個だ。これは遠慮したわけではない。

「あとで、カップラーメン食べるから。早めに食べないと、また、春に食べられるし」

「一言多い」

「だって、春、この前、僕のカップラーメン食べたじゃん。新発売のやつ」

「あの日、あれしかご飯なかったし、仕方ねーじゃん。細かいこと言わないでよ。ってか、斜がバイト先で飯食ってきたのが悪いんじゃん。私のご飯買ってこないで」

「…………」

 斜は、細かいことを言っているのは春の方だと思ったが黙っておいた。



 翌日。〝誘拐屋〟に依頼が来た。

 依頼を持ってきたのは兼崎葬かねざきそうという男だ。彼は〝誘拐屋〟によく仕事を依頼する、いわば、お得意様だ。

 斜はコーヒーを応接室兼リビングのテーブルに置いた。ソファーには春と兼崎が向かいあって座っている。兼崎は非常に体が大きく、二人掛けのソファーが二人掛けに見えないほどだ。しかも、彼は黒いスーツに加え、サングラスをかけているので威圧感がすさまじい。

 斜はキッチンにお盆を戻しにいくとき、ジーンズとシャツという地味なちの男とすれ違った。彼はコングロマリットと呼ばれている兼崎のボディガードだ。黒い髪は伸ばしっぱなしで長く、そのせいで表情はうかがえない。さらに、彼は何もしゃべらず、ただぼんやりたたずんでいるだけなので、はっきりいって不審だ。斜は彼を見るたびに、本当は兼崎がボディガードで、コングロマリットの方が主人なのではないか、と思ってしまう。コングロマリットは自分より背が低く、体格もひょろっとしている。服装からしたって、どう考えても兼崎の方がボディガードっぽい──とはいえ、コングロマリットが主人っぽい格好をしているわけではないのだが。

 斜はお盆をシンクの横に置き、冷蔵庫にもたれかかった。大人の話し合いに混ざる気もなければ、その話し合いを聞く気もないからだ。話を聞く気がないのは、自分は春のアシスタントで仕事に関して何かを考える必要はないという理由が半分と、兼崎が怖いという理由が半分ずつだ。

 だが、そんな斜の気を知ってか知らずか、

「斜ー、おいでー」

 と、春が斜を呼んだ。さすがに呼ばれているのを無視はできない。行きたくはないが。

 斜がリビングに着くと、春が自分の横の席を、ぽんぽんぽん、と三回素早くたたいた。斜は仕方なく「失礼します」と言って、そこに座る。

「……別に、そいつに話を聞かせる必要はないんじゃないか」

 兼崎がハンカチでひたいの汗をぬぐいながら言った。斜はまったくそのとおりだと思った。

「いやね、斜をちゃんと教育しようと思って。もし、斜が一人前になったらさ、私もかなり楽できるじゃん。OJTよ」

 春は客の前だが随分フランクに喋る。これは兼崎や一部の常連だけに使う口調だ。この前の、教師と駆け落ちした女子高生の件の依頼主──女子高生の父親には敬語を使っていた。

 兼崎は、ふん、と鼻を鳴らし、

「…………仕事をちゃんとやってくれるなら、なんでも構わないが」

 と、不機嫌そうに答えた。

「で、今日はどんな用件」

「こいつを連れてきてほしい」

 兼崎はかばんから写真を一枚と、文字が印刷してあるA4コピー用紙を一枚取り出した。

〝誘拐屋〟に来る依頼の大半は人捜し──ていに言えば、人をさらってきてくれ、という〝誘拐〟の依頼だ。だから〝誘拐屋〟と呼ばれている。本当はもう少し幅広い仕事を請け負っていたらしいのだが、いつの間にか誘拐専門のような扱いになったとのことだ。最早もはや、春も開き直り、自分から〝誘拐屋〟と名乗っている。

 斜は横から資料を見る。A4コピー用紙の方はテキストファイルをそのまま印刷したもののようで、上の方に、六根雫りくねしずくという名前らしき文字列と、中学校の名前が書いてあるだけだった。写真の方は街中まちなかを写したもので、信号待ちをしている背の低い制服姿の女の子にマジックで赤い丸がしてあった。撮り方から察するに、隠し撮りだろう。

「──子供はやってないんだけど」

 春はさっきまでとは一転して、冷たい口調で言った。

〝誘拐屋〟では基本的に子供──十八歳未満の人間を攫わない。これは春の決めたルールだ。理由は人道的にというわけではなく、仕事の難易度が上がるからだ。子供がいなくなると、警察が動く。そうすると、ひどく仕事がしにくくなる。

 基本的に捜索ねがいというものは家族のような近しい者しか出せない。だが、家族は出せるのだ。このことは、行方ゆくえ不明者の数で十代の人間が一番多いということからも明らかだ。人口構成比では圧倒的に少ない十代の人間が最も行方不明の数が多いのだ。これは、いかに十代の人間の捜索願が出されているかということの証左しょうさで、成人がいなくなっても捜索願が出されないということの証拠でもある。そして、捜索願が出された行方不明者は九割以上見つかる。この時点で仕事の成功率は一割になる。これはあくまでも単純計算だ。行方不明の子供はもっと発見される。なので、普段は警察が動いた時点でその仕事はやめることにしている。

 前回〝誘拐屋〟が女子高生を対象にしたのはそれが〝誘拐〟でなくある意味〝救出〟で、依頼主が彼女の親だったからだ。

「もちろん、知っている。だが、頼みたい。ヤバいかも知れない」

 兼崎は言葉をにごした。斜はその言葉の意味が分からなかった。子供でしかも女の子が〝ヤバい〟というのがどういうことか理解できなかった。

 春は資料をテーブルに置き、背もたれに寄りかかって足を組むと、兼崎のことをにらみ付けた。兼崎も少し前屈まえかがみに姿勢を変え、春と視線を交差させる。

「今回はいつもの五倍、金を払う。そのうち三割は先に払う」

 兼崎は右手の指を五本立てた。

「…………」

 春は何も言わない。

 斜は、この提案は逆効果だと思った。春も信念を金でくつがえす人間だとは思われたくないだろう。むしろ、兼崎は金のことを話さず、情に訴えるべきでは、と思った。

 しかし、春はそんな斜の考えとは裏腹に、

「──分かったわ」

 と、答えた。

(えー……オーケーしちゃうんだぁ……)

 斜は声には出さなかったものの、少し落胆した。春は自分を助けてくれた人間で、面倒を見てくれている人間なので、尊敬している分、がっかりだった。もしかしたら春も兼崎の〝ヤバい〟の意味が分かったからかも知れないが。

 だが、春は一息置いて、

「前金はいらない。その代わり──この仕事は私の判断で、やめるべきだと思ったら、連絡なしにやめさせてもらうわ。事後連絡はするけどね」

 と、強い口調で宣言した。

 斜は少しほっとした。春が金に目がくらんだわけではないと知って。