深草斜ふかくさななめは車の助手席から降り、辺りを見回した。地下駐車場は外気と遮断しゃだんされているためか、思いのほか、ひんやりとしている。外の暑さがうそのようだ。

(マンションの地下駐車場は、どうにも殺風景だな。装飾品とかも、ほとんどないし)

 斜は、き出しの管が通った仄暗ほのぐら天井てんじょうを見ながら、そんなことを思った。数秒後には忘れてしまうような、どうでもいい感想だ。

 少しすると、運転席から黒いスーツを着た、色の薄い金髪と青いひとみをした女性が降りてきた。彼女は深草斜の保護者であり、上司でもある──柚木春ゆずきはるだ。彼女の日本においては珍しい風貌ふうぼうと、そのすきのないたたずまいは、人を寄せ付けない雰囲気をかもし出していた。

 斜はというと、春のフォーマルな服装とは対照的にカジュアルな服装で、街でよく見かけるという形容がぴったりな格好だった。前髪が目にかからないようにか、細いヘアピンを使って髪を留めているのが、男子にしては珍しいといえば珍しいかも知れない。

 斜は車から降りてきた春とともにエレベーターまで移動し、上のボタンを押した。

「斜、仕事終わったら何食べたい?」

 春がエレベーターの扉に寄りかかりながら聞いた。彼女の金髪碧眼へきがんという容姿からは違和感を覚えてしまうぐらい流暢りゅうちょうな日本語だ。不自然さがまったくない。

「それ、仕事が終わってから決めてもいいんじゃない? 今は仕事に集中しようよ、春」

 斜が答える。

「別に、今日のは大した仕事じゃないし」

「だろうけどさ──というか、これは本人たちがやるべきだよね」

「……色々やりにくいんでしょ、相手が相手だしね。ものに触るって感じじゃない?」

「そうなのかな? ……いや、そういうもんなんだろうね」

 地下駐車場の静かな空間にエレベーターの扉が開く音だけがさびしく反響する。二人はエレベーターに乗って七階まで移動すると、廊下を迷いなく進み、七○八号室の前で止まった。

 春はポケットからメモを取り出し、それを見ると、斜に向かってうなずいた。

 それにあわせ、斜は一歩下がり、開いたドアの死角になるような位置に移動する。

 春は斜に向かって小さく手を振って合図すると、インターフォンのボタンを押した。

 数秒後、インターフォンが通じる。

『はい』

 スピーカーから聞こえてきたのは、あまり若くなさそうな男性の声だった。

「すいませーん、隣の家の者なんですけどー……、うちの猫がお宅のベランダの方に行っちゃって……ちょっと、取らせてもらってもよろしいですか? 申し訳ありませーん」

 春はインターフォンのカメラに向かって頭をぺこぺこ下げながら、さっきまでとはまったく違う、いかにも情けなさそうな声で言った。

『はぁ……』

 インターフォンの通話状態が終了し、辺りから通話時の微細なノイズが消えた。

 三十秒ほどで玄関のドアが解錠され、開かれる。

 ──それと同時に、死角に待機していた斜がドアノブを勢いよく引っ張った。ドアを開けた男性は、内側のドアノブをつかんだままだったからか、バランスを崩し、変な声を上げながら、マンションの共用廊下まで飛び出してきた。

 その男性は、自宅にいるというのに何故なぜかスーツを着ていた。斜と春の今日の仕事内容から考えるに、彼はまだ着替えていないのではなく、来客があったので着替えるタイミングがなかった、と見るべきだろう。

 まんまと玄関のドアを開けさせることに成功した斜と春は、くつも脱がず、ずかずかと家の中に上がり、片っ端からドアを開け、部屋を確かめていく。

 マンションの共用廊下で立ちすくんでいたスーツの男も事態が異常なことにようやく気付いたのか、あわてた足取りで二人を追いかけ始める。だが、スーツの男が追いつく前に斜と春はターゲットのいる部屋──奥のリビングに到達した。

 その、取りつくろったかのような小綺麗こぎれいさが鼻につくリビングには、制服を着た女子高生が一人いた。彼女は驚いた顔で、侵入してきた斜と春の方を見ている。だが、見ているだけで何か行動をする様子はない。きっと、状況に対応できず固まってしまっているのだろう。

須山すやまさんね」

 春が制服の女子高生に聞く。

「……はい」

 女子高生は怪訝けげんそうにしながらも、春の質問に対し、肯定の返事をした。

「ご両親が心配しておられます。一緒に帰りましょう」

 春の言葉は字面じづらこそ丁寧だったが、その口調は人を迎えにきた人間のものとは思えぬほど冷たかった。きっと、この言葉が提案でも依頼でもなく──命令だからだ。

 そして、女子高生も春の言葉で状況が把握できたようだ。──通っている高校の教師と恋愛関係になり、その教師の家に入り浸っていることを快く思わない両親が、この二人を寄越よこした、ということを理解したのだろう。

「な、なん、なんなんだお前ら!」

 スーツの男が後ろで声を張り上げる。

「今回は教え子に手を出したことに関しては目をつぶる──ってことになっている」

 もちろん条例違反だが、彼女の親からはそう言われていた。きっと、世間体せけんていを気にしての判断なのだろう。この方が彼女にとってもデメリットの少ない選択ではある。

 春はスーツのポケットから薄いコンパクトデジカメを取り出して、女子高生と教師の写真を一枚ずつ撮った。そして、女子高生の方に近づき「帰りましょう」と手を差し伸べた。

 その瞬間、女子高生はその手をはねけ、

「ふざけないで!」

 と、叫んだ。

「あぁ?」

 春はさっきまでの慇懃いんぎんな態度を崩し、女子高生を威嚇いかくするような声を出す。

「私の自由じゃない! 何か悪いことした!? 私がだれと一緒にいたっていいじゃない!」

「うっさい! こういう仕事なんだよ、こっちは! それに未成年者うんちゃらかんちゃらでダメだよ! ばーか、ばーか!」

 春は女子高生に手を伸ばし、胸ぐらを摑み上げると、強引ごういんに彼女を引きり始めた。女子高生も抵抗をしているようだが、春はそれをまったく意に介していない。

「ちょ、ちょっと乱暴すぎるよ、春! 依頼主の娘さんだよ!?

 斜は急な展開についていけず、少し慌てながら言った。

「知るか。斜、私はな、ガキのくせに自由とか言うやつがムカつくんだよ、マジで。ジャンヌ・ダルクかよ?」

「ジャンヌ・ダルクって自由を求めた人じゃないよ。フランス革命と混ざってない?」

「うっさい! それにこの方が楽じゃん。私たちはこのガキの親じゃない」

「それでも、怪我けがさせちゃったら問題だよ」

「してもり傷ぐらいだよ。問題なし」

 春がそう言いったときだ、

「やめろ!」

 スーツの男が叫んだ。彼の手にはいつの間にか包丁が握られている。多分、春と女子高生が言い争っているときに、キッチンから持ってきたのだろう。

「斜、出番だ」

いやだ」

「嫌だ、じゃない。訓練だと思って、がんばってどうにかしなさい」

「これが訓練?」

「そう。今は経験が重要よ」

「……了解」

 斜はしぶしぶ、スーツの教師の方を向くと、少し移動して、男との距離を取った。

「ふざけてんじゃねーっ!」

 男は大声を出す。多分、彼は侵入してきた斜と春が自分のことを無視してしゃべっているのが気に食わなかったのだろう。そもそも、不法侵入されたことに腹を立てているのかも知れないが。

「お前ら! その子を離せ! おれは学生時代、空手をやっていたんだぞ!」

 男の声は裏返っていて、どうにも迫力に欠けていた。

「えっ、じゃあ、なんで包丁を持ってきたの?」

 斜は本当に分からなかったから聞いた。だが、その言葉が決定的となった。スーツの男を完全に怒らせたようだ。男は包丁を構え、斜に突っ込んでくる。どうやら、本当に刺す気のようだ。包丁を持つ手の力み具合も、動きの大きさもおどしのそれではない。

 だが、男の包丁はなんでもないところ──斜の少し前の空間で空振りしただけだった。さらにスーツの男は一人でバランスを崩し、よろめき、斜を通り越してしまった。男にとってもそれは予想外だったようで、彼はなんだか不思議そうな顔をしている。

「私はエレベーターの前で待ってる。そいつを片付けてから来てね」

「はいはい」

 斜はそう答えると、再度、男の方に向き直り、半歩ほど後ろに下がって【間合い】を取る。

 ──ここで、異変が起きた。

 スーツの男が動かないのだ。このままでは女子高生をさらわれてしまうというのに──斜を突破し、春を追わなければならないというのに、固まったままなのだ。しかし、彼は戦意を喪失したわけではなさそうで、視線は依然鋭い。しかし、包丁を握り直したり、先程、自分が通った床をしきりに目で確認しているところを見ると、かなり戸惑とまどっているようだ。

「無理だよ」

 斜が言った。

「……?」

「そっちの攻撃は絶対に失敗するし、僕の攻撃は絶対成功する──感覚的に分かると思うけど。だから、やめてほしい。殴ったり、殴られたりってあんまり好きじゃないし」

 だが、そんなことを言われてやめる人間はいない。男は意を決したように包丁を構え、突進してきた。しかし、それはまたもくうを切るだけで当たらない。

「だからさ、絶対無理なんだって、攻撃も防御も成功しない」

 斜はそう言うと、一歩下がって、再度【間合い】を取り直してから、男の前まで駆け寄り、男のあごに横なぎの拳こぶしを食らわせた。男は脳しんとうを起こしたのか、受け身もとらず倒れる。

 斜は男が立ち上がれないことを確認すると、その家を出て、エレベーターホールに向かった。

 エレベーターホールでは、へたり込んで泣いている女子高生を前にして、春が不遜ふそんな態度で仁王立ちしていた。

「春、何やってんのさ。彼女、すごい泣いちゃってるじゃん」

「こいつは勝手に泣いてるの。私は泣けなんて一言も言ってない」