Part 01: 菜央(私服): ねぇ一穂、溶き卵の準備はできた? 一穂(私服): う、うん……こんな感じでいいかな? 菜央(私服): 十分よ。じゃあ、次は……。 美雪(私服): たっだいまー! おっ、いい匂い~! 一穂(私服): おかえり、美雪ちゃん。 菜央(私服): おかえりなさい。もうすぐ夕飯ができるから、その前にお風呂を掃除してくれる? 美雪(私服): はーい……って、あれ? 菜央(私服): どうしたのよ、魚の切り身じっと見て。……今日は肉の気分だった、なんて言ったりしたら切り刻むわよ。 一穂(私服): あ、あははは……なら、明日はお肉にしようね。 美雪(私服): いやいや、さすがにそんなことは言わないって。ただ、久しぶりに見るなーって思っただけだよ。 美雪(私服): 今日はネズミザメのフライか……うーん、お腹が空いてきたよ~! 一穂(私服): ……サメ? 美雪(私服): えっ……違うの? 菜央(私服): 魚屋さんはこの魚、ボタって呼んでたんだけど。 一穂(私服): う、うん。おいしい白身だよってオススメされて……それでね。 美雪(私服): あ……そっかそっか。こっちの地域だと、ネズミザメはボタって呼ぶのかも。もしくはその魚屋さんがそう呼ぶ地域の出身かな? 菜央(私服): ボタって……ネズミザメの別名なの? 美雪(私服): 地域ごとの別名ってやつだね。ネズミザメに関してはモウカザメ、ってまた違う呼び名もあるらしいよ。 美雪(私服): 鶏肉の炊き込みご飯をかしわめし、って呼ぶのを聞いたことってない? 菜央(私服): あ、それなら聞いたことがあるわ。かしわ、ってニワトリのお肉のことよね? 一穂(私服): 呼び方が違うだけで、同じものを指すんだ……。 美雪(私服): うんうん、そういうこと。魚は生息地域が広い種類が多いからねー。 美雪(私服): 地域ごとにいろんな呼び方をされてるけど、実は同じ魚だったってことは多いらしいよ。 菜央(私服): へー、あんたって詳しいのね。 美雪(私服): 社宅に住んでる友達が、サメに詳しくてさ。色々と教えられたんだ。 一穂(私服): 美雪ちゃんのお友達……サメが好きなの? 美雪(私服): 好きなんてレベルじゃないね。サメって種類全般を愛してるよ。サメと結婚できるなら喜んでそうするレベル。 菜央(私服): どんなレベルよ……。 美雪(私服): あ、思い出した。ネズミザメで面白い話があってさー。 一穂(私服): なぁに? 美雪(私服): 去年の夏の話なんだけど……。 ……うちの社宅には、子ども会があってさ。 読んで字のごとく、社宅に住んでる子たちの集まりなんだけど。 うちの社宅って、警察官舎でしょ? 一応何日か休みは貰えるけど、一般の会社みたいに住んでる人が全員一斉に夏休み……とはならないんだよね。 だから、夏休みとか冬休みになると子ども会で大きいバスを借り切って、よく遠出とかをしてたんだ。 遊園地とか動物園とか、水族館とか……団体だと料金も安くなるしさ。 メインは幼稚園から小学生で、中学以降の子はあまり参加しないんだけど……。 小さい子たちの引率って名目で、中高生も何人か行かないといけないんだよね。 まぁ、私はたまに参加させてもらって……いや、その親友に誘われたら、嫌とは断りづらくて。 ……で、去年は海だったんだよ。 私の親友の子……千雨っていうんだけどさ。サメだけじゃなくて、海全般に詳しくてね。 釣りが趣味の近所のお父さんから釣り竿を譲ってもらって、休みの日は一緒に行ったりもしたっけ。 それでまぁ、海が絡むと当然のように千雨も引率役としてかり出されてさ。 最初は乗り気じゃなかったみたいだけど、一緒に水着買いに行ったりして……実は結構楽しみにしてたっぽいんだよね。 千雨: 『私ひとりで、あの理性のないサルどものお守りをさせるつもりか?……いいからついてこい』 美雪(私服): 『サルって……キミねぇ。あの子たちのお母さん連中が聞いたらさすがに怒られるよ?』 千雨: 安心しろ。言葉にして出すのはお前にだけだ。まぁ……心の中ではずっとそう罵ってるけどな。 美雪(私服): 何を安心したらいいのかねぇ……絶対教育者にしちゃいけないタイプだよ、キミは。 そんな感じに当日、海に到着してさ。 とはいえ早い時間帯だったから、私たち以外のお客さんはほとんどいなくて。 みんな着替えて、さぁ泳ぐぞーってなったんだけど……。 Part 02: 千雨(水着): はい、腕を頭の上まで伸ばしてー、いち、に、さん、しー……。伸ばしながら聞けー。 千雨(水着): ネズミザメは、モウカザメとも呼ばれている。正式な和名としてはネズミザメだ。 千雨(水着): 全長は3メートルくらいで、日本だと日本海の寒い地域によく出没する……ごー、ろく、しち、はち。 社宅の少年A: ねー、ちさねーちゃーん。そろそろ海に入ろうよー。 千雨(水着): ダメだ。ちゃんと準備体操してからだ……ほら、ちゃんとふくらはぎ伸ばせー。 社宅の少女A: 学校のプールより準備運動が長いよ~。 千雨(水着): 海は学校のプールじゃないからな。溺れたら学校のプールより死ぬ確率が高いんだ。だから、ちゃんと身体ほぐしておけ。 社宅の少年B: 千雨姉ちゃんがずーっとサメの話してるから、ストレッチが長くなってんじゃね……? 千雨(水着): 何を言ってるんだ。ストレッチしながらサメの勉強もできるなんて、これほどお得なことなんてそうそうないぞ! 社宅の少年A: 楽しいのはお姉ちゃんだけだと思う~。 千雨(水着): うるせー。次はふくらはぎ伸ばせー。ちなみにネズミザメは食えるサメだー。かまぼこの原材料にも使われてる。 社宅の少女B: えっ……じゃあ気がつかないうちに、食べてるかもしれないってこと?! 千雨(水着): そうだ-。知らないうちにお前の身体の一部になっているかもしれない偉大で身近なサメだー。感謝しろー。 とかなんとか解説しつつ、念入りに柔軟体操をさせてたんだよね。 サメ解説については、まぁ……千雨って、隙あらばサメについての知識を喋りたいタイプだから。 場の空気は読めるから、ダメな時は控えるけど……いけるって判断したらノンストップなんだよね。 社宅の子はそういう千雨の性格を知ってるから、運動が終わるまでは付き合ってやろう……ってなまぬるーい感じで見てたんだよね。 ……私? 私は千雨の後ろでみんなの浮き輪を膨らませてたよ。 ほら、足で踏んでシュポシュポと空気入れるやつ。 千雨が衝動買いしたサメのフロートは、とりわけサイズが大きかったから……膨らませるのに苦労したなぁ。 まぁ、フロートとか浮き輪に空気入れながらしばらく準備運動を眺めてたんだけど……。 新参少年A: 準備運動やーめた! つっまんねぇ! 新参少年B: もういいじゃん、泳ごうぜ! って、言い出した男の子たちがいたんだよ。 他の子たちは千雨がサメ、というか海に詳しいことを知ってたから苦笑いしながらもちゃんとやるかーって感じだったんだけどね。 その子たち、最近社宅に引っ越して来て住み始めたばかりの家の子たちで……。 まぁ……うん。典型的な、おバカ全開の小学生男児って感じの子たちだったんだ。 千雨(水着): ……おい、お前ら。誰が勝手に終わらせていいと言った。 新参少年A: 俺たち、ぜってー溺れないしー。 新参少年B: そうそう、それに溺れてる人なんていないじゃん! 新参少年A: みんな準備体操なんてしてないしーっ。 千雨(水着): そりゃ、今は客は私たちしかいないからだろ。 新参少年B: うるせーなー!俺、スイミングに行ってたからへーき! 新参少年A: あっちで泳ごうぜー! って、走り出して行っちゃったんだ。 保護者たち: あっ、こらっ! 付き添いの大人たちが追いかけようとして、私も慌てて捕まえようと走り出しかけたんだけど。 ……なんか嫌な予感がして、振り返ったんだ。 そしたら……千雨がさ。 私が空気入れて置いておいたサメのフロートを拾い上げて……笑ってたんだよ。 にっこにっこで。 千雨(水着): そうか、じゃあひとつ教えてやろう。 千雨(水着): ……スイミングプールに、サメはいたか? とか言って、自前のごっついステンレス水筒のヒモを、こう……サメフロートの尾びれにぐるぐるぐるぐるぐるぐる巻いてさ! 千雨(水着): よい、しょっ。 って、構えて。 千雨(水着): おりゃああっ! 叫びながら、ブン投げたんだよ! 保護者A: あ、あれはなんだ?! 保護者B: 鳥か?! 飛行機か?! 保護者C: いや、サメだーーっ!!! 新参少年A: わ、わぁあああああああ!!!!! 新参少年B: へぶぁっ?! ……空飛ぶサメは回転しながら、走ってる男の子たちに直撃……いや、襲撃かな。 空気しか入ってないフロートだから軽いよ?でも水筒の重り付きだからね……。 ゴムボールって当たっても痛くないけど、大きいほどぶつかった時の衝撃も大きいでしょ? 結構な勢いで直撃したから、男の子たちは案の定砂浜の上にスッ転んだんだ。 その背後に、みんながモーゼみたいに空けた道を千雨が優雅に歩いて近寄って……。 千雨(水着): ……水筒ブン投げてやろうと思ったが、それじゃぶつかったときに大怪我だからな。手加減してやったこと、感謝しろ? ん? 新参少年A: う、ううぅっ……。 千雨(水着): さっき、ネズミザメは食えるって言ったけどな……ネズミザメって、人間も食えるんだよ。 千雨(水着): この近海にはいないと言われているが、あくまで言われてるだけだ。 千雨(水着): ただ人間が知らないだけで、サメが近くに潜んでいないとも限らない。 千雨(水着): 海は……自分たちが一方的に遊ぶ場だと思うか? 千雨(水着): ……ここはお前たちが「遊ばれる」場所になるかもしれないってこと、忘れるなよ。 千雨(水着): 死にたくないなら、ちゃんと準備運動して大人の言うことを聞くんだな。 Part 03: 美雪(私服): そう言いながら千雨は、にやぁっ……!って、笑ったんだよ。 美雪(私服): ……怖かったなぁ、あの笑顔は。幼馴染みの私でも震えたよ。 一穂(私服): そ、それで……その後はどうなったの? 美雪(私服): その後は平和なものだったよ。みんなで普通に海水浴を満喫して、溺れた子も怪我人もゼロ。 美雪(私服): 毎年どこ行ってもテンションを上げすぎた子が、走って転んで怪我したりするんだけどねー。 美雪(私服): 子ども会で海に行くのは危ないんじゃないか、って渋い顔してた大人たちは喜んでたよ。 一穂(私服): そ、そうなんだ……。 菜央(私服): フロートじゃなくて、水筒の方が男の子にぶつかってたら大怪我だったんじゃない? 美雪(私服): いや、それはないと思うよ。千雨、投てきって言うの? すっごい上手だから。 美雪(私服): 釣り竿持たせたら、絶対狙い通りの位置に針を沈ませるんだよね。どうやってるのかは知らないけど。 美雪(私服): ……うん、ネズミザメフライおいしい!菜央の揚げ方が上手なのはもちろんだけど、あっさりした白身魚って油と相性いいよねー。 菜央(私服): あんた、そんな恐ろしい話をしておきながらよくパクパク食べられるわね。 美雪(私服): ん、なんで? 一穂(私服): え、えっと……つまり私が今食べてるネズミザメって……人を食べるかもしれないんだよね? 美雪(私服): 食べられる、ってだけの話だよ。 美雪(私服): そういうこと言い出したら、人間だって人間を食べることはできるでしょ?食べたいかどうかはまぁ、別の話としてさ。 一穂(私服): それはそうだけど……。 美雪(私服): このサメが人間を食べたかも、って心配になった?断言するよ。それはない。 一穂(私服): ど、どうして断言できるの? 美雪(私服): サメが人間を食べたら、ニュースにならないはずがないし。 美雪(私服): そんなことになったら該当地域のサメなんて一掃されるよ。人食いザメが出たぞーっ! って。 菜央(私服): ……それもそうね。 菜央(私服): にしても、美雪の友達ってなかなかアグレッシブなのね。 美雪(私服): 普通にいい子だよ。サメが好きすぎるのと、危険に敏感なだけで。 美雪(私服): そう考えると……性格はともかく、行動は一穂とちょっと似てるかも? 一穂(私服): わ、私サメを飛ばしたりしないよ?! 美雪(私服): いや、でも……一穂も危険な事が起こったら言葉より身体で止めにかかるタイプでしょ? 菜央(私服): 確かにそうね。 一穂(私服): わ、私は脅したりはしない……と思う、けど。 美雪(私服): でも、必要だと思ったらやるんじゃないかな……一穂はさ。 一穂(私服): そ、そうかな……? 美雪(私服): うんうん。そうであってくれると、私はありがたいな。 美雪(私服): ほら、私って状況によって自分の危険性を無視することもあるからさ。一穂が止めてくれると思うと、安心するんだ。 菜央(私服): ……一穂にはいい迷惑ね。 美雪(私服): いやー、ほんと苦労をかけてるね。一応自覚はしてるんだけど、なかなか改善できてないっていうか……。 一穂(私服): べ、別に私……苦労なんて、思ってないよ? 美雪(私服): そう? だったら嬉しいな。 美雪(私服): いざという時に止めてくれる人がいるかどうかで、取れる行動って変わってくるからさ。 菜央(私服): まぁ、美雪が自由に振る舞うより……一穂が自由に振る舞う方が困るわね。……誰も止められないもの。 美雪(私服): そうそう。千雨も本気出したら、私なんかじゃ止められないしさ。その辺もそっくりだなー。 一穂(私服): (うぅ、いろいろ言いたいことはあるけど言い返しても絶対負けるから言えない……!) 一穂(私服): (でも……) 一穂(私服): ……私、千雨さんと会ってみたいな。 美雪(私服): もっちろん。平成に戻ったら紹介するよ!サメの話は適当なあたりで切り上げるとして……。 一穂(私服): あ……でも私、サメの話も聞いてみたいな。全然知らないから、ゆっくりとね。 美雪(私服): お、おぅ。一穂がそう言うなら……うーん、三日三晩徹夜すればなんとか、終わる……かも、しれ、ない? 菜央(私服): あんたの友達のサメへの愛はどうなってるのよ。 一穂(私服): ね、寝ないように頑張るね……。 美雪(私服): …………。 千雨: どうした、美雪。 美雪(私服): …………え? 千雨: あのショーウインドウの水着を見てるようだが……去年買ったあれ、もうきつくなったのか? 美雪(私服): そんな短期間で成長なんかしてないよ。千雨じゃあるまいしさー。 美雪(私服): ……言ってみて悲しくなってきた、うぅ。 千雨: 私だって最近は、成長が頭打ち気味だぞ。身長だって伸びなくなってきたしな。 美雪(私服): …………。 美雪(私服): ねぇ、千雨……今年は海、行けるかなぁ。 千雨: 眠り病の流行次第だろうな。……なんだ、行きたいのか。 美雪(私服): あ、いや……子ども会で社宅のみんなと海に行った去年の話を、一穂にしたことを思い出してさ。 美雪(私服): その時、約束したんだよ。一穂を千雨に会わせるって。 美雪(私服): 仲良くなれるかな、って……サメの話を聞いてみたいって、一穂は言ってたよ。 千雨: ……そうか。なら、一刻も早く一穂ちゃんを平成に引き戻してやらないとな。 千雨: よし……サメ好きが増えるかもとなったら、尚更やる気が出てきた。 千雨: 早く一穂ちゃんを平成に連れ戻す方法を見つけよう。そしていつか、一緒に海に行くんだ。私と、美雪と、一穂ちゃんと、菜央ちゃんの4人でな。 美雪(私服): ……頼むから、サメの話はほどほどにしてよ。 千雨: 断るッ!! 美雪(私服): ちょっ?! 千雨: ことわーるッッ!!