転ノ章 賽を転がす者



 隼人たちはその後、猟師が使う番小屋を留守の間に拝借して二日間の休息を取った。それから東海道を徒歩で江戸方面に向かい、日暮れを前にして江戸の表玄関である品川宿へ入ろうとしている。さらなる追っ手らしき気配は、今のところない。

 横浜脱出の際に失われたまんろうの下半身は、今はもう元通りになっていた。

「しかし……ついでに新しい服に着替えたはいいが、相変わらず派手だな」

 万次郎が身に着けた異国風の服装を見て、半ばあきれたように隼人が感想をもらす。

「気に入ってるんだ。それ以外に服を選ぶ理由なんざいらねえだろ? こういう細かいところにも、一々こだわりは大事なんだぜ。それが自分なりの思想なり美学なりを育むからな。異国の言葉じゃ『だんでぃずむ』っていうんだが」

 万次郎の発音にならって、隼人が復唱しようとした。が、すぐに断念する。

「隼人──」

 江戸湾を遠くに望む海沿いの街道を歩きながら、おきがぽつりと口を開いたのはそんな矢先のことだった。

「江戸へ入る前に、一度ここで別れよう。私は新選組本隊に戻ろうと思う」

 その言葉に反応し、傍らを歩いていたひつぎ隼人はやとまんろうの視線が一斉におきへと向く。

「内部から、とう一派の動きを監視していくつもりだ。もしわかったことがあれば、お前にも伝える」

「隼人のことはどう報告するんだい?」

「『裏切り者・まさき隼人』は伏見で死んでいたということにしておくさ。仲間を欺く形にはなるが、敵を油断させるためでもある……汚名を着たままにはなるが、ここは辛抱してくれ」

 隼人は、沖田の言葉に不安を覚える。いかに一番隊組長の役職を持つとはいえ、隊内で自らの立場を危うくしかねない行動だった。

「沖田さんまで疑われることになるのでは?」

 隼人は、問わずにはいられない。もしそうなれば、伊東とその一派は沖田にも毒牙を向けるかもしれなかった。だが、沖田は平然と隼人の視線を受け止めている。

「まあ、そう見るやからもいるかもしれないだろうな。せいぜい尻尾を出さないようにく立ち回るさ……で、隼人たちはどうするんだ?」

 そこは任せてくれ、と万次郎が沖田に答える。

「こっちも、江戸府内でどこか身を潜める場所を見つけるさ。いくつか見当は付けてるが、身辺には気をつけねえとな。いつどこで狙われるかわからねえのは、今度の旅で身にしみたぜ……今後は、沖田のだんと連絡を取り合う必要もあるだろうしな」

 うなずいた沖田の横で、隼人は足を止め万次郎に向き直った。万次郎と沖田も、街道の端に並ぶ松の木の下で立ち止まる。

「万次郎。そろそろ教えてもらってもいいだろう。お前の雇い主……そして」

 隼人は柩に視線を向け、言葉を継いだ。

「柩を解き放ち、あの銃を贈った男のことを」

 隼人と沖田から強い視線を向けられ、万次郎は薄く微笑する。そして隼人を見据えた。

「悪いが、今までお前を見極めさせてもらっていたのさ。この一件に関わる価値があるだけの人間かどうかをな。結果は、合格ってところだ……それが幸か不幸かは、保証しねえが」

 成り行きを見守る柩の顔にも、緊張の色が浮かんでいた。その手は無意識の仕草か、懐のけんじゆうを汗ばむほど強く握りしめている。

「柩、お前のその銃……そうだ、思い出したぞ」

 沖田の視線は、なぜか万次郎ではなく柩の持つ拳銃──スミスアンドウェッソン・モデルアーミーへと吸い寄せられていた。

「一つ聞くが。万次郎……お前の雇い主とやらは、その銃の持ち主と同一人物なのか?」

 その問いに対し、万次郎は頷く。沖田は、波打ち際に跳ね返る夕陽のまぶしさに目をすがめながら隼人はやとを見た。

「そうであれば……私は、その男を知っている。ひつぎの持つ連発銃が以前は誰の物であったのかを、たった今思い出したんだ」

 柩が息を呑む気配。隼人は食い入るように、おきの言葉を待っている。まんろうは、楽しげにも見える表情で夕風に揺れる松の枝を眺めていた。

「だが……その男は既にこの世にはいないはずだ。昨年の秋、京で暗殺されているのだからな。近江屋で」

「……!」

 沖田の口にしたその商家の名で、隼人もそれが誰であるのかを理解した。

 その男は、隼人らの属する新選組とも因縁の深い相手だった。直接やいばを交えたことこそないが、敵対関係にあったと言っていいだろう。

 しかし、男は味方であるはずの開国派からもその存在を危険視されていた節もある。いわく、すべてを裏から操る死の商人。日本を滅亡に導きかねない最悪の策士……などなど、誰に命を狙われても不思議はない不穏な風評があったのは事実だ。

「その男の名は──」

 江戸湾から吹きつける強い海風。

 その中に流れた沖田の声が、男の名を告げていた。

さかもとりよう

 とうにこの世から消えているはずの、幕末の亡霊のその名を。


          


 何もかもが燃え尽きるようなれんの色に、海と空が染め上げられていた。

 水平線に沈む斜陽を横切るように、煙を吐き出し航行する一隻の蒸気船がある。その船名、および国籍は不明。夕陽の落とす影をまとい、どこか幽霊船を思わせる西洋式の軍艦だった。

 江戸湾沖の洋上。

 そこを航行する蒸気船の中に、その男はいた。

 深紅のじゆうたんが敷かれ、たんの円卓が置かれた船室の一つ。欧風のの背に深く身を預け、両脚を自然な形で組んでいる。

 年の頃はを幾らか過ぎたあたりだろうか。無造作に後ろへでつけた総髪に、口元にはあるかなしかのあいまいな笑み。それは漂う霧のように常に男の表情に付きまとっている。

 決して威圧的ではないが光の強いまなしは、円卓上に置かれた日本地図へと緩やかに向けられていた。

 そして男の傍らには、涼しげな目元をたたえた妙齢の女が控えている。

まんろうサンが品川宿に着いたそうよ。もちろん、『あれ』と一緒にね」

「そうかい、おりよう……あのお調子もん、いことやってくれているようじゃのう」

 男は、女のもたらしたその報告にほおを緩めた。

 男の名は──さかもとりよう

 かつて西方雄藩連合にあって立役者と呼ばれた元土佐藩士であり、数か月前に京の商家近江屋で凶賊に襲われ暗殺されたはずの男であった。

 だが龍馬はここに生きていた。血族ならぬ定命の身である彼だったが、その外見には襲われた負傷のあとらしきものは欠片かけらもない。

 なぜなら、全てはこの龍馬が仕組んだはかりごとの一端であったから。暗殺されたという事実を作り実際に自身が消えることで、表舞台から坂本龍馬という役者を退場させるための演出であったのだ。

「グラバー商会も、まさか飼い犬に虎の子をさらわれるとは思わなかったでしょうね。けど、こうまでうわさが広まっているなんて、ずいぶん脇が甘いこと」

 お龍と呼ばれた女は声を潜め、ここではないどこかへ思いをせるように目をすがめた。

「それがユダという氏族の背負った宿命、因果というものだからじゃろう。たとえ『あれ』が未来において自分たちを救いうる神になるのだとしても、の。今を生きるために仲間を裏切り敵に通じる……だとすれば、このワシも後ろめたく感じる必要はないということかもしれん。裏切りこそが連中の流儀ちゅうんならな……じゃが、とんだ予定外の飛び入りが現われおった。『あれ』が自分の意思でけんぞくを作り、しかもそれがとはの。因果なもんじゃ」

 無意識の手慰みか、龍馬はいつの間にか手の中で二つのさいころもてあそんでいた。賽の触れ合う軽く涼やかな音が、てのひらの中でかすかに響く。

「アッハッハ! それじゃ策士失格じゃないのかしら。ねえ、お前様?」

「あのなあ。世間ではそう言われとるようじゃが、ワシは別に策士でもなんでもなかぞ? ワシは言うてみればばく打ちじゃ。どう転がるかわからんものだからこそ、ける値打ちがあると思うとる。その壬生狼も、出目次第じゃどでかく化けるかもしれん。問題なか」

 そう言い切る龍馬の言葉は、まるで童子のような無邪気さえ感じさせる。

 だがこの男の語る博打とやらが、ただの遊びであるはずもない。その賽が転がるたび、現実の血は流れ死体は転がっていくのだろう。

「だいたいじゃ。首尾よく『あれ』が命がけで自分の欲するところをだし、《墓碑銘エピタフ》がその形を成したとして……その時ワシの思惑通り『あれ』が踊ってくれるかどうかは、やってみんことには一切わからん。そんなもんが、ばんじやくの策なぞと呼べるものかよ」

 他人事のように嘲笑する龍馬を、傍らのお龍が理解しがたいといったまなしで眺めている。

 その龍馬の手から、二つの賽子が振り出された。小さな立方体は、円卓に広げられた日本地図の上で暴れるように転がっていく。

「じゃが──この国が最後に勝つには、そんなばくける以外に道はないちゅうことぜよ」

 さいを振る人間に求められるものとは、どんな神算でも鬼謀でもない。それはただ、断固たる覚悟のみである。

「ワシは、この賭けに必ず勝ってみせるぜよ。誰のためでもなか。ただこのワシの……さかもとりようただ一人の勝負がしたいがためじゃ。世界の全てを向こうに回した、の」

 時代の激流の中、幕末の亡霊は不敵にわらう。

「そのためにも、『あれ』──ユダのお人形には、一つ頑張ってもらわねばの。お供についとるおおかみともども、く生き延びてもらいたいものじゃ」

 ぶつかり合って転がり終えた二つの賽の目は、それぞれが天国いち地獄ろくとを示していた。