伍ノ章 炎の墓碑銘エピタフ



 横浜の沖合、江戸湾の洋上。

「貴様らには、ほとほと失望した」

 夜のやみが落ちた蒸気船のかんぱん上で、しんはもはやその怒りを抑えなかった。このようへいたちのせいで、隠密裏に進めようとしていたユダ氏族の娘狩りが幕府方や他の血族に露呈しかけ、さらには敵が新兵衛たちをかくらんするために様々な情報を流し、その真偽を見極めるのに時間を割くことになったからだ。

 その憤りを向けられるベルリッヒンゲンは、しかし泰然と巨体を海風にさらしたまま動じない。そこから少し離れた場所にたたずむヒコックは、何を思うかじっとその目を閉じている。

「主を持たぬ傭兵と言えど、最低限の矜持はあるだろうと買いかぶっていた。しかるに、使命を忘れたあの暴走ぶり……その上、たかが娘一人をることさえ仕損じるとはな」

 侮蔑もあらわな新兵衛の言葉に、ベルリッヒンゲンは不穏な笑みを返す。

「なぁに。愉しみが後に残ったと思えばいいことではないか」

 開き直ったとしか思えない傍若無人な言葉に、新兵衛は激怒に顔色をあおじろく変えた。

「それに、どうやらうわさは本物らしいという手応えを感じられたのは大きい。ああして必死にまもる奴らが付いているってことは、あの娘に相応の価値があるってことだろうからな」

 ベルリッヒンゲンを一喝しようとした新兵衛を、傍聴していたヒコックの発言が遮る。新兵衛は怒りを呑み込み、そちらをにらんだ。

「噂だと? 何を言っている」

「前に、あんたに話してやったことがあるだろう。ユダの血統は、《真祖》に代わる新たな神を欲しそれを創ろうとしているっていう噂をな。この百年ばかり、血族社会の闇を漂っていたその与太話が、どうやらこの極東の地でやにわに真実味を帯びてきたってことさ」

 ヒコックの言葉に、新兵衛も思い出していた。確かに、そんな話をこの男はしていた。

「だが、それがどうした? 我々の使命とは関わりなかろう」

 ヒコックは先程からこちらを一度も見ずに、目を閉じたまま腕を組んでいる。その様子に不審を感じながらも、新兵衛はヒコックの話を一蹴した。

「我々? あんたの使命の間違いだろう。俺たちは元々、あんたの主君や英国イギリス血族の命令なんぞ知ったことじゃないんだからな。俺たちは米国アメリカ血族──重んじるものはかびくさい血統の利害なんかじゃない。最初から、この話がでかい金を生むか、本物なのかどうかだけを見極めてたのさ。だから横浜でも、あえて派手にやらかしてみせたってわけだ」

 しんは、そこですべてを悟った。ヒコックもベルリッヒンゲンも、英国イギリス血族が追っているユダの娘が血族社会のうわさ──ユダの新たな神に関係があるかどうかを確かめるために、この仕事を引き受けたのだ。そして、その裏が取れた今や本性をむき出しにした。奴らは己自身の利益のために、英国を……そして新兵衛が忠誠を捧げるさつを裏切るつもりなのだ、と。

「卑しき野良犬めが──るッ」

 新兵衛は薩州の剛刀……おくずみのかみただしげこいぐちを切り、吸血種である二人に斬りかかろうとした。その闘志にはじんの曇りもなく、怪物を相手にする恐れもない。

 が。踏み出したその足が、やにわにもつれる。身体からだを支える骨が抜け落ちたかのような消耗感と共に、新兵衛はがくぜんひざをついていた。

「これは……ッ、なん、だ……?」

 新兵衛はもはや身動きも取れなかった。歯の根が合わぬほどの寒さを感じる。身体が異様に冷え切っていた。

「これが俺の《墓碑銘エピタフ》だ──あんたは最初から、俺の『わな』の中にいたのさ」

「馬鹿なッ……いつ、何を仕掛けられたというのだ……?」

 ヒコックは、悠然と煙草たばこくわえ、紫煙を吐き出した。

「どれだけの強者が相手だろうと、〝闘い〟そのものに持ち込ませないのが〝狩り〟の極意ってものだぜ。熊や虎と真っ向から立ち向かい、力と力で打ち勝つことは狩人の勝利じゃない。たとえそれが可能であったとしてもだ。そのそうを無力化し、狙った通りの罠に追いこみ仕留めてこその本懐ってものなのさ。そして……誰にも見えないからこその『罠』ということだ」

 新兵衛は、愛刀の柄を握るのが精一杯の状態にまで追い込まれていた。一秒ごとに力、そして生気そのものが身体から奪われ、どこかへと消え去っていく。まるで見えない亡者たちの手に群がられているかのようだ。

 そして、新兵衛は悟らざるをえなかった。身動きさえ取れない以上、自分はもはや一太刀すら敵に浴びせることなくこの闘いに敗北したのだと。

「俺はッ……貴様などの手にかかって、死にはせん……殺されたりはせんぞッ!」

 薩摩の人斬りは、消え去る寸前の最後の力をその腕に集中させた。必死に身体を起こし、せめて一矢を報いようとする。

「大西郷に栄光あれッ──」

 そして吠えるや、もはや敵には届かぬそのやいばを己の心臓へとたたき込んだ。自らの愛刀で串刺しとなった新兵衛の身体が、前のめりに崩れ落ちる。

「ほほう。これがサムライのハラキリって奴か?」

「うむ。死に誉れを求めたがるのがこの手の者たちだ。むざむざと敵の手にかかるよりは、潔く己の手で……といったところだろうが、敗北は敗北。死は死にすぎん。愚かなことよ」

 なか新兵衛が己の死に与えようとした名誉は、それを傍観する二人の異人にはただのこつけいな見世物にすぎないようだった。もはやそれに対する関心すら失ったように、ヒコックが再び両目を閉じる──が、すぐに灰色のひとみは見開かれた。

「感じた──また踏んだぜ、奴らが。この地に来て早々に、俺が周辺一帯に仕掛けておいた『わな』の一つをな。奴らはそこを通過して、北に向かっている。前の『罠』を踏んだ時からの間隔から考えて、おそらく馬車か何かで移動している速度だな」

 それに対して、ベルリッヒンゲンがうれしげに凶悪な笑みを浮かべた。

「お主の《墓碑銘エピタフ》とは、まさに狩りのためにあるものよのう。一度『罠』を仕掛ければ、こうして遠く離れていても獲物を感知できるとはな……フックク、待ちかねたぞ」

「さあやろうぜ、《鉄腕ゲッツ》。狩りの夜はまだ永い」

 ヒコックのつぶやきが海風に溶ける。くらやみに沈む海の波間を、決着の瞬間を目指して蒸気船は突き進んでいった。


          


 まんろうが用意した四人乗りの馬車で、隼人はやとたちは東海道へ続く間道を北上していた。日が昇る頃には、江戸の入り口である高輪の大木戸まで着けるだろう。

 墨汁を流したような空は雲もなく、月の光がこうこうまぶしかった。

 その銀のまばゆい月明かりに、ひつぎと出った夜のことを思い出す。隼人が人間を捨てることを決意した夜も、こんなふうに月は明るく地上を照らしていた。

 狭い車内の、隼人の向かい合わせには柩が座っている。異国の宝石めいた瞳は、自分と同じように窓外を後ろに流れる景色を見つめていた。その手には、例の最新式の六連発けんじゆうが固く握られている。いつ襲撃を受けるかわからない緊張感で、車内はひりついていた。

「あんたには、これを」

 荷物を探っていた万次郎が、おきに一本の刀を手渡す。沖田はさんくさそうに、万次郎を見やった。

「そいつは美術品として横浜の銀行に預けていた物だ。昨今、仏国フランスじゃ東洋趣味がりでよ。日本刀も美術品として高く取引されるのさ。今のあんたにも刀が必要だろう?」

 沖田は、受け取った刀をさやから抜いてあらためる。そして、その銘を見るまでもなく驚嘆の色を浮かべた。

「これは──」

「さすが、お目が高い。あんたにはすぐわかったようだな」

 思い出したように、隼人も隣に座る沖田の手に豆粒ほどのあるものを握らせる。そして、これが何であるのかを手短に説明した。

「万が一の時は、これも。沖田さんはをしているし、備えは多い方がいいでしょう」

 まんろうが片ほおり上げ、笑みを見せた。

 そのとき。突然、がくんと大きく馬車が揺れて止まった。

「おい御者……!」

 外の様子をうかがうために、御者台に顔を出した万次郎が絶句する。その向こうには死が充満していたからだ。

 さっきまで疾走していたはずの四頭の馬、それを操縦していた異人の御者の顔が、恐怖に凍り付いていたまま死んでいた。傷一つなく、魚の干物のように骨と皮だけの乾ききった異様な屍。まるで、一瞬にして餓死したとでもいうように。御者台と隼人はやとたちのいるワゴンとの間が、一本の線で区切られたかの如く死と生の二色で塗り分けられている。

「追っ手の仕業か!?

 名状しがたい悪寒に襲われ、隼人は反射的にやみに包まれた山肌を見上げる。遠く離れたその一角に、赤く輝く血管のような光の線が浮かび上がるのが見えた。

 あれは──と叫びをあげたのは、おきだった。

「みんな、散れッ──」

 沖田の叫びは、山を震わすさくれつおんと夜気を切り裂く鋭いしようおんとにかき消された。

 山の斜面に仁王立ちとなった、《鉄腕ゲッツ》の右腕──六ポンドアームストロング砲が火を噴く。

 その血の砲弾は標的である隼人たちの馬車を正確に捉えていた。

 れんの爆炎が、隼人の視界を覆う。

 隼人は吹きとばされ、山の斜面を滑り落ちた。地面にたたきつけられ、その衝撃で体内の骨がいくつか折れる激痛が走った。だがそれを意志力で無視し、立ち上がる。この程度の負傷ならば、どの道すぐに回復する。それをわかっているからこそ、痛みにあえぐなどという無駄なことを隼人はしない。

ひつぎ──どこだ、柩!?

 真っ先に探し求めたのは、敵の標的である少女の名前。沖田や万次郎の気配も近くには感じなかった。

 下草を鳴らし誰かが斜面を滑り降りてくる音が聞こえて、隼人は顔を上げる。しかしそのあとに続いた銃声に、絶望的な気持ちになる。どうやら、隼人を追ってきたのはあの短銃使いらしい。

「ち──」

 再びさくやくぜるごうおんが響き渡ったのは、隼人が木立の陰に身を隠すのとほぼ同時だった。

 隼人を狙う短銃使い──ヒコックは、とうの勢いで銃撃を放ってきていた。すべての木立を銃弾でえぐり、伐採するかのような猛射撃が隼人を襲う。

 だが無論、けんじゆうの弾丸に木立を貫通するまでの威力はない。隼人は、木立の間を素早く縫って相手との距離を縮めていった。

 しかし、解けぬままのなぞが不安となって隼人はやとの胸中を冷やし続ける。

 ──あの短銃使いはさっき、俺に何をしたんだ?

 その解明こそが勝利につながる最大の鍵であるのは、言うまでもない。あれは偶然の産物ではなく、仕掛けられたわなだった。何の考えもなく丸腰で敵の前に姿をさらせば、隼人は再び捉えられてしまうだろう。抵抗さえ不可能なあの攻撃を再度受ければ、もはや命はないだろう。

 生気が抜き取られ身体からだが干からびていくような、あの現象の前に、起きたこと……隼人は必死に考えを巡らす。だが、前触れとなる何かがあったとはどうしても思えない。

 ヒコックの銃撃が襲うが、木立に隠れた隼人に傷一つ負わせることは当然できない。その現実がわからぬかのように、相手は絶え間なく無駄弾を撃ち込んでくる。

 隼人の現在地点からヒコックまでの距離は、およそ二十メートル。決して遠い距離とは言えなかった。しかし、いまだ敵の能力──《墓碑銘エピタフ》は隼人に対して作用してはいない。

 隼人はその理由を思考する。一刻も早く能力の性質を見極め、突破口をだすために。

 考えられる理由その一──能力の発動には、正確な標的位置の見極めが必要とされるから。

 さっきの一本道を走る馬車とは違い、今の隼人は木立に隠れながら不規則に移動している。そのため、敵は能力発動の機会をなかなか捉えきれずにいるのではないか──充分に近づけているのにまだ発動されていないことに、それで説明はつく。

 考えられる理由その二──あの能力は、ヒコックが放つ弾丸と関連づいているから。

 能力を発動するには、まず弾丸の命中が前提条件として必要になる。そのため、標的である隼人がまだ被弾していない今の状態では影響を及ぼすことができないのではないか──当たらないとわかっていながら未練がましく射撃を続けていることに、それで説明はつく。

「どちらも決め手はないな……」

 それらはあくまで、隼人が考えた想像上の理由でしかない。しかし、勝つためにはその想像にける以外ないのも事実だった。そしてこの敵を倒さない限り、まもるべき対象であるひつぎへの危険を排除することはできないことも。

 隼人は固く意を決し、潜んでいた木立を飛び出す。一息に距離を詰めると樹林が途切れた。行く手のヒコックとの間に射線が大きく開け、すきだらけの状態に身をさらす。しかし、この危険は覚悟の上だ。

 ヒコックが隼人に銃口を向け、発砲する。それを見切ってかわす準備をした隼人だったが、意に反して弾丸は大きくれた。ずっと離れた場所にあった木立が、隼人の身代わりであるかのように着弾に穿うがたれる。

 ──狙いを仕損じたのか?

 この土壇場にきて、そうとしか思えぬような大外しだった。

 そして隼人とヒコックを隔てる距離は、既に十メートルを切っている。不夜の血族の身体能力であれば、ただ一度の跳躍で消し飛ばせる間合いに突入したのだ。

「参るッ!」

 一刀を抜き放ち、肩に担ぎながらヒコックへ向け大跳躍を踏み切る。

 その瞬間──自分を見つめる灰色のひとみが、確かにわらったのを隼人はやとは見た。《ワイルド・ビル》の顔面をゆがめる会心の笑みに、隼人の心臓がてついたきしみ音を上げる。

 死の予感が、視覚を含む全感覚を爆発的に活性化させた。その隼人の視界に、跳ぶ直前に弾丸を撃ち込まれた木立がふとよぎる。

 そして木の幹に穿うがたれただんこんから、夜目にも赤い液体がたらりと流れ落ちるのが見えた。

「あ──」

 それを見た瞬間、隼人の脳内ですべてのなぞが氷解していた。真実が、てつついとなって隼人の精神を打ちのめす。

 あれはヒコック自身の血液に違いない。あらかじめ弾頭に仕込まれ、着弾衝撃でつぶれた内部からにじみ出すようになっているのだ。

 つまり、あの能力の真髄は目に見える『弾丸』ではなく、そこに隠された『血』に宿っているということ──隼人はそれを知ると同時に、先程からの相手の意図をようやく理解した。

 あの最後の一発は大外ししたのではない。狙い通りに隼人に当てなかったのだ。それまでの銃撃も、無駄弾ではなくすべてが布石に従う有効打だった。

 なぜなら狙っていたのは最初から隼人の身体からだではなく、隼人を取り巻く周囲の木立の方だったのだから。

 その目的は──自分の血を塗った弾丸を撃ち込むことで、『陣地』を作りその中に隼人を囲いこむこと。このような木立の森は、そうして『陣地』を作る上で絶好の地形だということにも隼人は気づく。思えばさっき闘った場所も、ホテルの客室内という狭い閉鎖空間だった。

「まずいッ!」

 隼人は、瞬間的にヒコックへの突撃を中止した。血の陣地……ヒコックの〝狩り場〟に完全に閉じ込められたときが最期だ。今はまず、可能な限りの遠くへ退避──

 そう身を翻したせつ。隼人の前方にある木立に、新たな銃弾が撃ち込まれていた──陣地、完成。

「終わりだぜ──サムライの坊や」

 それが死の宣告であるかのように、ヒコックのつぶやきが隼人の耳に届く。

 同時に隼人を襲ったのは、凍りついた無数の手が内臓に突っ込まれたような悪寒だった。

「ぐああああああァァァァッ──」

 隼人の身体を流れる熱い血潮が、氷河と化したように動きを止めて固まっていく。

「『わな』っていうのは、普通は目に見えないもんだ。だからこそ、獲物を欺くことができる」

 もはや勝利は確定したとばかりに、ヒコックが堂々と木立の奥から姿を現す。

「派手に撃ちまくる弾丸は、いわば表向きの目くらましと本命である『血』の運搬役ってところだな。ばらまいた血の陣地内に囲いこんだ、生物の熱量を奪い取る──それがこの力の正体だ。狙った何者をも逃さず、殺し尽くす狩人の執念。それが結実したかのようだろう?」

 ひとり凍える隼人はやとのすぐ前へと、ヒコックは悠然と歩を進める。右手のけんじゆうは、その間も隼人から照準を外すことはなかった。

「俺の血は、獲物を決して逃さない。『陣地』を作るだけじゃなく、血に触れた物体の情報をも離れた俺に伝えてくれる、仕掛けわなとしての機能もある。お前らの位置がわかったのも、あらかじめ血液を街の周囲一帯の地面にマーキングしておいたからさ」

 とうとうと誇らしげに語るヒコックは、高まる感情とともに能力を解き放っていく。

「我が墓碑銘エピタフをここにうたおう──『抱擁れて眠れ、冷たき屍腕ストーン・コールド・デツドマンズハンド』」

 ぞうをかき混ぜる、冷たい死人の見えない腕。その本数が更に増えていくような悪寒が隼人を襲った。

「グゥゥゥゥッ……吸い取られ、るッ……」

「熱量とは活動する力そのものだ。それ自体を根源から収奪されては、どんな抵抗もできないぜ──とはいえ、仮にも血族だけあって完全に奪い尽くすにはもう少し時間がかかるようだな。まあ、焦らずじっくり待つさ。狩人の仕事の大半は、待つことだからな」

 隼人はけに敗れたのだった。回避不能の死の罠にめられ、待つのはもはや枯死の運命。たとえ人間を超えた生命力を誇る血族であっても、糧を得て生きる存在である以上はその宿命から逃れられない。

 氷のように冷えきっていく身体からだを支えきれず、隼人はひざを折りかけた。だが今度は、握った刀だけは落とさない。それを構え続けることだけが、今の自分に可能な最大限の抵抗だった。

 その隼人の脳裏によぎるのは、月光の色をした髪の少女の面影。

 ここでたおれるわけにはいかないと、己を懸命に奮い立たせながら……隼人の意識は、急速に現実から遠ざかっていった。


          


 ひつぎは、自分が意識を失っていたことに気づいて身を起こした。

 大砲の爆風で吹き飛ばされ、街道を外れた斜面の下にまで転げ落ちていたのだ。

 右手には、スミスアンドウェッソン・モデルアーミーの銃把がしっかりと握られている。今の自分にとって唯一の闘う手段を、意識がない中でも手放すことはなかったことは幸いだった。

「みんなは、どこに……隼人……」

 真っ先に思い浮かぶのは、やはり隼人のことだった。

 敵が狙ってくる標的は、この自分。だからこそ、どう動くべきかをきちんと考えなければならない。

 そう思った矢先に、山林の奥からごうおんが断続的に響いてきた。

 そちらに足を向けたとき、ふと鼻先をいがらっぽい紫煙がくすぐった。

「なっ、まんろう──」

 少し離れた草地の上に、あおけに横たわる男。火のついた煙草たばこは彼の口元にくわえられていた。

「よう、お目覚めかい?」

 気だるげに紫煙を吐きながら、万次郎がこちらを見る。焼け焦げた腰から下を吹き飛ばされ、失った状態で。

「もしかして、わたしをかばってくれたせいで……」

「気にすんな。死ななかっただけ儲けもんだ……とはいえ流石さすがにこの有様じゃ、すぐには身動きが取れやしねえ。しばらくは、ここでじっとしているしか手はねえわな」

 夜の彼方かなたから、また銃声がとどろく。思わずひつぎはそちらを見てしまう。

「よう。隼人はやとはお前をまもると約束したんだよな? つまり隼人の一番の目的は、お前を死なせないことだ」

「えっ……うん」

「なら、どうだ? この場は、お前さえ無事に逃げ落ちれば万事解決なんじゃないのか? もし隼人が負けて殺られたとしても、お前まで死ぬことはないと思うんだがな。そうなったら、隼人も浮かばれないだろ?」

 ぼうぜんと、柩は万次郎の顔を見下ろす。

「何を言っているの……? 隼人は今、敵と闘っているかもしれないんだよ? それに、あの人……おきさんだって。わたしだけ逃げることなんて、できないよ」

「だからこの際、闘いはその道の玄人くろうとに任せようじゃねえかっていう話よ。あの化け物じみた連中の間に入っていって、俺たちに何ができる? なあ、人間には適材適所とか分相応ってものがあるんだぜ。できないことはできないし、なれないものにはなれやしない。それをわきまえる賢さって奴も、時には必要だとは思わねえか?」

 その痛ましい状態とは裏腹に、どこまでもひようひようと万次郎は語る。

 黙然とそれを聞いていた柩が、憤りの声を上げた。

「……だから何を言っているの! わたしには、万次郎の言っていることがわからない。いや、わかりたくない!」

 一息に思いの丈を吐き出すと、急に冷静さを取り戻したように柩はうつむく。

「確かに、わたしなんかじゃとても隼人や沖田さんの力にはなれないかもしれない。万次郎の言う通り、きっと足手まといになるだけかもしれない……」

 万次郎は口を挟まず、柩の言葉に耳を傾けていた。

「でも……自分で決めたんだ。どんなときも、隼人のそばにいたいって。わたしの言っていることって、変なのかな……?」

 不安しかない。けれど取り消す意思もない。口にしたのは、そんな決意だった。それを前に、まんろうは微笑を浮かべた。

「いや、それでいいと思うぜ」

「えっ?」

「〝失敗するぞ、やめとけ〟なんてしたり顔をした誰かの言うことなんざ、まともに聞く必要はねえってことだ。そいつはお前について、何の責任も取るつもりはないんだからな。失敗したら後で後悔すりゃいいだけの話じゃねえか。で、人間ってのは後悔をしないと本当の意味で成長もできねえものなんだ。また厄介なことにな」

「万次郎……?」

「もちろん、それで望んだものが手に入るとは限らねえ。だが、望まない限り手に入るものもねえんだ……いいか。そうやって一つ一つ、自分のココと」

 万次郎は指先で自分の額を指差し、それから胸を指し示した。

「ココを使って、決めていくんだぜ。今みたいにな」

 ひつぎはただあつに取られていた。

「さっきと、言ってることが全然違うよ……? というか、反対のことを言ってない? 無駄なことはするな、できることだけをしろって……」

 そして、その真意を探るように万次郎の顔を見下ろす。柩のそんな反応を見越したかのように、万次郎が微笑を返した。

「ああ、その通りだ。で、お前自身はどう思ったよ? 思わずカチンと頭にきたか?」

 柩はうなずく。

「それは、隼人はやとのことを思ったからか?」

「うん……でも、万次郎の言っていることもわかるんだ。そっちの方が理屈に合っているな、とも思ったよ? でも……隼人が危ないと思ったら、そうしたくないっていう気持ちがいてきたんだ。とても強くね」

 柩は不思議そうに、自分の心に起こった感情を言葉にしていく。

「わたしは、ただそれだけの、理屈に合わない気持ちで反発したのに……どうして万次郎は、急にそれでいいなんて言い出したの? なんだか、試されているみたいな気分だよ」

 狐につままれたような柩を見上げ、万次郎は薄い微笑を浮かべ続けていた。

「気にすんな。波乱万丈な人生の先輩として、ちょいと語ってみたくなっただけだ……さっき俺の言ったこと、もう一度繰り返してみな?」

 柩は記憶をはんすうするように、自分の胸をてのひらで抑える。

「ひとつひとつ、自分のしたいことを、決めていく……わたしの、頭と、心で」

 どこかおぼつかない柩の言葉に対し、万次郎は満足気に頷きを返す。

それが生きるうえで何より価値のあることだ。さ、行けよ。お前の行きたい場所へな」

 半身が消し飛んだ状態でしゃべり疲れたのか、まんろうは目を閉じて煙草たばこをくゆらせ始めた。ひつぎはその顔をしばし見つめていた。

「どうした?」

「あ、うぅん──」

 懐かしい誰かが、いつか言った言葉に似ている気がした──と言いかけたが、また響いてきた銃声に反応する。

「じゃあ、待ってて。必ず、隼人はやとと一緒に戻ってくるから」

 顔を上げると、柩は小走りで山林の奥へと駆け去っていった。

 柩の背中がやみに呑まれてから、少しして。

「……こんな具合でいいのかね? なあ亡霊さんよ──」

 独り言のように、万次郎は夜空に向けてつぶやいていた。


          


 アームストロング砲の直撃は逃れたおきだったが、その爆風を受け大きく距離を吹き飛ばされていた。衝撃波による鼓膜のしびれが回復するまで、じっとくらやみの林に身を潜めて待ち続ける。

 やがて戻ってきた聴覚が、こずえを鳴らす夜風に混じり落ち葉を踏む足音を拾い始めた。

「…………」

 黒い闇が、よりあんうつとした血の気配を引きずる巨影を吐き出す。

 鉄の右腕は、既に『大砲』ではなく再びあのときと同じ『長剣』を創形している。

 その顔に刻まれる悪魔じみたほほみを見たとき、この相手が自分を探し求めてここに現れたことを沖田は悟った。この再会は決して、偶然が生んだ産物ではない。

「よかろう」

 沖田は腰に落とした新たな一刀、その柄に右手をかけた。

「これも因縁。剣士として、このやいばで応えよう──来るがいい」

 そして──戦端は開かれる。

 沖田は闘いの中で時間を忘れ、ただこの瞬間の攻防のみに没入していた。

 たとえばベルリッヒンゲンが今まさに繰り出す、七十七手目となるがけの剣撃。これをどうかわすか、受け止めるか、あるいは先んじて敵を切り伏せるかといった選択で運命は無数に分岐する。その数多あまたの生と死を、沖田はたった一つの最善手に身を投じることで踏破していく。

 沖田の足下には、そんな生と死の二進法が吐き出した膨大な因果が積み上げられていた。

 血族よりりよりよくびんしようりよくも遥かに劣る人間の身でありながら、沖田はただの一度も間違えない。だが……

「ぬう……その手数の少なさはどういうわけだぁ? よもや専守防衛が勝利を呼ぶと思い違えてはおるまいが……」

 ベルリッヒンゲンがらした言葉の通り、この闘いにおけるおきの手数は極端に少なかった。しかも、いまだやいばさやに納めたままの状態で。時おりひらめく銀光は、すべて瞬間的な抜刀、つまり抜いた後は即座に鞘の内へ戻す居合いのみに限られている。

 しかし受けさばきに多用された鞘はずたずたに切り裂かれ、その用をほぼ為していない。これ以上の居合抜刀術を用いることは、この状態になってはもう不可能。

 そしてベルリッヒンゲンが言うように、闘いにおいて守勢に回ることはそれ自体が不利を導く。ましてこのような接近戦においては尚更だ。

 それにも関わらず、沖田はかたくなに鞘から刀を抜かない。ベルリッヒンゲンの猛攻に対し、ただ守勢を維持し続けている。

「その慎重さ、さては逆襲の秘策を狙っている布石か? クククッ、そんなものをワシが恐れると思うか?」

 ベルリッヒンゲンは、鋼鉄の義手を変型させた『長剣』に赤く輝く血を通わせ、むち状にしなる性質へとさらに変化させた。そして正面から思いきりよく仕掛けていく。

「さあ、今のワシはすきだらけだぞ? 合わせの一撃を見舞ってくるがいい。どんな必殺剣が飛び出そうとも、ワシはそれを恐れんぞ。なぜなら防御できずとも、その一撃で死ななければいいだけだからなァ!」

「──ッ!」

 ベルリッヒンゲンが、鞭のような使い方で剣を放った。鉄とは思えぬほどしなやかで軟らかな魔剣は、せんの軌跡を描いて沖田の刀に絡みついた。そして沖田が引き戻すより素早く締め付け、圧力で鞘を破壊する。

 粉々に砕けた鞘の下から、ついに沖田の持つ白刃が露出した。ベルリッヒンゲンによって、強制的に抜刀させられたと言ってもいい。沖田はすかさず、刀を引く。そのままでは、刀身ごと砕かれかねなかった。

 あらわになった沖田の刀身の光沢を、しばし見つめ……ベルリッヒンゲンの表情に、納得とせんりつの色が同時に浮かび上がるのが見えた。

「……なるほどなるほど。それが切り札だったというわけか。おお剣呑剣呑、クックック」

 そして、鉄をこすり合わせるような寒気を呼ぶ声が沖田の耳に響いた。

「銀刀──とはなぁ。健気なものよ。〝銀〟を混合させた鋼で鍛造した、対血族への殺傷効果付与を目的とした特殊な刀剣……そして、銀ゆえに刀身の強度は通常よりも遥かにもろい」

 沖田の眼前で、ベルリッヒンゲンは自ら暴いた秘密を語る。

「頑なに鞘から刃を抜かなかったのは、そのためというわけか。先のように、武器破壊を狙って折られぬためが第一。のみならずむき出しのままでは、受けさばきに用いただけでも損傷する可能性が高かろう。つまり、『さや』には刀身のいんぺいと保護という二つの役割があったのだろうが……クク、浅知恵を巡らせおって!」

「……どうやら見抜いたようだな」

 ベルリッヒンゲンの言葉はおきにはわからない。だが、気配が明らかに変化したことだけはわかった。

 沖田の脳裏を、手にしたこの一振りの持つ来歴がよぎった。

 ──今を去る数百年前の寛永年間。長崎の地にて起こった最後の日本血族・あまくさろうときさだによる島原の乱。それを鎮圧するために幕府より派遣された軍勢に単騎参戦していたのが、剣聖として名高い晩年のみやもとさしであった。

 そして、往時の武蔵が携えていた業物こそがこの銀刀だったと伝えられている。血族殺しのその〝妖刀〟が、天草討伐にいかなる働きを見せたのかの記録は現存していない。

 ただ今に残るのは、この銀刀を鍛えたたいの刀匠の名のみである。

 すなわち、村正──と、沖田は、かつてこの刀の伝承を師匠であるこんどういさみから聞いたことがあった。

「フフ……見える。見えるぞォ? 貴様の魂に刻まれた、ワシに対するその無自覚なるおそれがなァ……血族たるワシをたおすためにつかみ取った、その銀刀こそがほかならぬあかしよ。どうだぁ? 己の才に初めて抱いた疑いと不安の味は? そして、もう一つ見抜いたぞ──」

 ベルリッヒンゲンの顔面に、おぞましいほどにぎやくてきな表情が浮き上がる。

「貴様ァ、正体は女だな? 姿格好は男を装っても、血の匂いは隠せぬわ。クク、女ごときがワシを倒そうと? 小生意気な……こうなれば、ただ殺すだけでは済まさん。貴様のすべてをなぶり尽くしてくれるわァァ……」

 ベルリッヒンゲンが放ち始めたオスとしての獣欲に、沖田は相手が看破したのが銀刀だけではないことを悟った。そして、より圧力を強めながら前進してくるベルリッヒンゲンに立ち向かう。

「既に貴様は負けているのだ。てんぴんや技量でワシを大きく引き離しながら、血族殺しの銀刀を携えてきた時点でなァ……って立つべき剣技の優位よりも、人間と血族との格差にとらわれている──それこそは、愚才たるワシの『存在』が貴様の『天才』をつぶした証ではないか!」

 ベルリッヒンゲンは、その事実に愉悦を感じるというように攻撃の速度を上げていく。

「そして、ひとたび己を疑った者は果てしなく崩れるものよ。ろうした小細工の報いを受けるのだ……おお薫るぞォ、貴様のかぐわしき血の匂いがァァ……闘いを長引かせたことで、先の傷口が開いたと見えるな? ギヒィィ、たまらん! たぎるわッ」

 その言葉の通り、今や沖田の着物の裾からは赤いしずくが幾条も伝い流れてきている。傷口をふさいだサラシも鮮血で真っ赤に染まっているはずだった。のみならずベルリッヒンゲンの剣先は、下劣にも明らかにおきの胸部……秘め隠した女の乳房を狙ってきている。

 隠していた銀刀が暴かれたこと。そして傷口からの止まらぬ出血。これらの要素が積み重なったことで、沖田は闘い方を変えざるをえなくなっていた。

「もう、闘いを引き延ばしても無意味だぞ? となれば前に出るしかなかろうが……貴様の希望は、何から何まで絶望に変わる。そしてワシにむさぼり尽くされる運命なのだァァ!」

 ベルリッヒンゲンが予言のようにそう叫ぶ。その直後、沖田はこの闘いで初めて自ら前に出ていた。

「行くぞ──機は熟した

 防戦一方だった沖田の踏み込みは、それまでとは打って変わって力強いものだった。

「私が隠し続けていた、この銀刀の正体は暴かれた──だからこそ

 敵対者が簡単に露呈させた情報に対しては、よほどの愚鈍でない限りその裏……つまりわなである可能性を疑う。兵法に通じた沖田は、それをよく知っている。

「だがその逆は? 敵対する者が、徹底して隠そうとした情報……それを自ら発見した場合は?」

 そのことも無論、沖田は知り尽くしていた。そう、そこに疑いの心理は発生しづらいのだと。自力で暴いたという、敵を上回った達成感が認識を曇らせてしまうのだから。

「相手には、もう策は何も残されてはいないと思いこむ。ちょうど、今の貴様のようにな」

 ベルリッヒンゲンの意識と視線は、もはや完全に沖田の右手に握られた銀刀・村正──沖田に残された、唯一つのはずの武器──に釘付けとなっている。

 それを確信すると同時に、沖田は更に前に出た。同時に、ベルリッヒンゲンも沖田めがけて突進する。二人の間合いは、ほとんどつかみ合いのような至近距離にまで近づいた。

「さあワシに見せろ、女ァ! 貴様の美しき絶望を!」

 そして沖田は、左手の中にある真の切り札を握りしめた。

 ──古今様々なものが存在した武術体系の中に、指弾というものがある。

 いしつぶてなどを手の内に握り込み、親指のはじきでこれを飛ばす隠し武器術のたぐい。無論、一撃必殺の威力などは期待できないが、達人が至近距離から放てば目をつぶす程度のことは充分に可能だ。

 沖田は、その指弾の使い手でもあった。そして今、左手の親指で指弾それを放つ。村正を見せ札にしてまでも、本当に隠しておきたかった真の切り札──銀の弾丸を。

 ぐしゃっという不気味な破裂音が、ベルリッヒンゲンの顔面から沖田の耳に響く。

 その音を発したのは、ベルリッヒンゲンの右がんだった。そこから、飛沫しぶきと破裂した眼球の破片が飛び散っていく。

「グアアアアアアアッ──!?

 白い蒸気と肉が腐敗したような悪臭が、沖田とベルリッヒンゲンの間に立ち込める。至近距離から放たれた銀の指弾は、ベルリッヒンゲンの右目を潰していた。

 血族には猛毒となる銀。それにかれるあらがいがたい激痛に、ベルリッヒンゲンのきよが大きくけ反る。

「馬鹿な、左手にも銀の欠片かけらを……だとォッ」

「なぜ私の手に、それがあるのか問いたげな顔だな? さっき貴様の仲間が、隼人はやとに撃ち込んでいったものだ。貴様への土産として、受け取っておいた」

 おきは、襲撃される直前の馬車での記憶を思い出す。数時間前に《ワイルド・ビル》ヒコックが隼人に獲られた、銀の弾頭。万が一の時はと隼人がそれを託してくれたからこそ、この戦法は成立した。

「地獄で仲間に会ったなら、返してやるがいい」

 ベルリッヒンゲンの残された左目が自分を見ているのを、沖田は認めた。そのひとみに映りこんで見えたものは、がら空きになった吸血鬼の心臓めがけてほとばしる銀の流星──沖田自身の放とうとしている、突きいつせんの光であった。

 ベルリッヒンゲンに不死の命をもたらす心臓を、血族殺しの銀のやいばが貫通した。衝撃にベルリッヒンゲンの左眼球が裏返り、白目をむく。

 沖田は深く呼気を吐くと、心臓を貫いた刃をえぐり完全に破壊しようとする──が。

「なに!?

 きようがくの声を発したのは、今度は沖田の番であった。異様な圧力が手の中に伝わってきた。何かが、村正の刀身を強烈に締め付けている。

「この圧力ッ、傷口が閉じようとしているのか……! 馬鹿な、こんなに速くだと!?

 同時に、白目をむいていたベルリッヒンゲンの眼球が表返る。それを見た沖田の背中を、氷柱つららのようなせんりつが走り抜けた。

 その瞬間、刀身から聞こえたぴしっという音が耳を打つ。

 刀を折られる──その恐怖の中で、沖田はとっさに目の前に立つ巨体をりつけた。後ろへ飛ぶ反動と己の体重によって、どうにか村正の刀身を引き抜くことに成功する。

「馬鹿なッ……なぜこれでたおれん!?

 沖田が叫ぶ。吸血鬼の不死の命を断ち切るには、一撃の下に心臓を破壊するのみ──沖田の知っているその前提さえ覆す、異常事態だった。

 沖田の驚愕に応えたものは……心臓部の傷口から白煙を噴き上げながら仁王立つ、ベルリッヒンゲンの健在な姿だけだった。

「どうやら、並の吸血鬼ではないようだな……その度を越した不死身が、貴様の自慢か」

 悠久を生きると言われる吸血鬼だが、実際は《聖別》なる死の試練が存在する。そしてそれを乗り越えた者は、以前にも増してすさまじい不死性を発揮するという。沖田は以前、異国に詳しい蘭学者から聞いた話を思い出していた。

「よもやその時は、自分が闘うことになるとは思いもしていなかったがな」

 ベルリッヒンゲンの誇る異常なまでの再生能力は、心臓が破壊される前にその傷自体をふさいでしまったのだ。

「……それですべてかぁ? まだあるならば出し惜しみ無用よ、さあ来るがいいわァァ!」

 銀弾を押し出し再生を完了したベルリッヒンゲンの右目が、おきを見据えた。

「魔剣の秘奥。驚天の奇策。そのすべて、ワシは余さず受けきろう。そのうえで、この不死の肉体が貴様のすべてを押しつぶし、じんも残さずすり潰してくれようぞォ! クク……ウハハハッ! なんと身もふたもなく醜い勝ち方よ──だが、それでこそワシと貴様の決着にはふさわしい!」

 獣が吠えるかのようなこうしようを、ベルリッヒンゲンが上げた。その妄執が、脅威の不死性を伴って前進する。同時に鉄の右腕に深紅に輝く血管が走り、高速の変形を成していく。

「我が墓碑銘エピタフをここにうたおォォッ──『万象無為なるかな、我が暴虐の愉悦レツク・ミツヒ・イム・アルシユ』ゥゥッッ!」

 最終的に組み上がったそれは──ベルリッヒンゲン自身が卑しさの極みと称した悪魔の兵器、『ガトリング砲』であった。その毎分二百発の猛射をこの近距離からたたき込もうというのだ。

 だが。

「甘いぞ──吸血鬼」

 数多あまたの死線をくぐり抜けてきた。ゆえにどれだけの脅威であろうと、一度見た技は食らわない。沖田が見破ったものは、ガトリング砲の構造──その弱点であった。

 右手が動く。沖田が懐から取り出したものは、こうがいと呼ばれる刀の付属品だった。

 その小さな金属の棒を、沖田は手裏剣のように素早く投じた。宙を飛んだ笄は、砲身を回転することで弾丸を発射させる機構──歯車の間にみ合い、その作動を強制停止させる。

「ぬうっ──」

 ガキンという異音とともに沈黙した鉄の右腕を見て、ベルリッヒンゲンが驚きに目をむく。そして発射不可能になった『ガトリング砲』の形態を解除し、別の武装へと再変形させていく。しかし、その暇を許す沖田であるはずもなかった。

「おおおおおおおおおおッ──」

 沖田は村正を構え、身体からだごとぶつかるように突きを放っていく。腰を落とし、前傾姿勢となって疾駆する様はまさにおおかみ。銀に輝く一刀の切っ先は、再びベルリッヒンゲンの心臓部を狙っていた。

「……来るがいい。受けきってくれるわァァァァッ!」

 武装の再変形が間に合わぬと見たか、ベルリッヒンゲンは両脚を踏みしめ身体で迎え撃つ体勢を取った。

「愚かな……一撃でワシは殺せないのを知っておろうがッ! その突きがワシの心臓を貫いたときが、貴様の最期と知るがいいッ!」

 ベルリッヒンゲンが喝破する。しかも、沖田のかざす村正の刀身には既に亀裂が入っている。もう一度、あの攻防を繰り返せばもろい銀刀は耐えられずに折れるかもしれない。

「そうなれば、貴様はもはや完全に無力。ワシにむさぼられるだけの人間の女、血の詰まった肉袋でしかないわ! 仕留めるには、この素手のこぶし一つあれば充分よォォ!」

 おきがさらに加速し、間合いを一気に踏み切った。紫電の速度で放たれた突きいつせんあやまたず、ベルリッヒンゲンの心臓を光の矢のごとく貫いた。

 しかし不死の血脈は、心臓が破壊される前に受けた傷を一瞬にして修復せんとする。まるで時間が巻き戻ったかのような、先と同じ繰り返しの光景を──沖田の放つ第二撃が粉砕した。

「ぐはッ──なにィィッ!?

 ベルリッヒンゲンが血を吐きながらどうもくした。一度の呼吸で襲いきた二度目の衝撃──否、それでもまだ終わらない。沖田の突きには、次がある。

「一のせつに──三太刀だと!?

 ベルリッヒンゲンは知らなかった。これこそが沖田そうの誇る幕末の魔剣、三段突き。

 一度の突きで死なぬならば二度三度と突けばいいとばかりに、限りなく時間差の存在しない連撃が沖田から放たれていく。

 だがしかし、その手に握る村正の強度はもはや限界であった。亀裂は切っ先から根元に至るまで幾つも走り、二撃目の突きと同時に一部は欠けて崩れつつある。脆い銀刀ゆえに、三段突きの衝撃に刀身自体が耐えられないのだ。

「とはいえ……この期を逃せばッ」

 沖田にとっても、苦渋の決断だった。この不死の怪物を仕留める好機は、今を置いて他にない。止まらぬ出血により消耗していく沖田にとって、これ以上の長期戦は敗北につながる。もはや勝利への道は、この刹那にしか存在しなかった。

 ゆえに、沖田は三度目にして最終最後の突きを放つ。刀身をかいさせながらも、その切っ先はベルリッヒンゲンの心臓めがけて伸びていく。

穿うがてッ──村正ァァァッ!」

 無念無想の境地の中、沖田は自分の身体からだが剣と限りなく一体化するような感覚にあった。その中で……沖田の腕を伝い流れた血潮の糸が、村正の刀身へと滴り絡みつくのが目に映る。

 赤いしずくは、まるで吸い込まれるかのように亀裂の一つ一つへと染み込んでいく。それはまるで、村正の刀身が沖田の血をすすっているかのような光景であった。

 沖田の血が刀身に吸い込まれた、その瞬間。

 今にも砕け散りそうだった刀身の亀裂が、深紅のせんこうをまばゆく放つ。そして一瞬の後、亀裂は完全に癒着し消滅した。のみならず、沖田の手の中で刀身全体が赤い──血の色の輝きを放ちながら鳴動していく。触れるものすべてを穿ち切り裂く、破壊の振動波が魔物の叫喚のごとくだました。吸血妖刀──その秘められた真髄を、沖田は刹那の中で体感していた。

 かくして、沖田の手により決着の一閃は穿たれる。ベルリッヒンゲンの心臓を、三度目の突きが貫く。

 一瞬のうちに、三重の衝撃が時間差で次々に襲いきたのだ。いかに爆発的な回復力を誇るとはいえ、三度にも渡る「死」の全てを無かったことになどできはしない。ベルリッヒンゲンの心臓は、おきの三段突きにより完全破壊されていた。

「……これが、はての景色か。実に味気ないものよのォ……殺し足りぬ、殺し足りぬわ……ッ」

 全身から力感を失っていくベルリッヒンゲンの巨体が、大きく揺らぐ。そして最後に、至福の笑みが古傷だらけの顔に浮かび上がった。

 果たしてその笑みの意味は何だったのだろうか。己自身が焦がれて求め、そしてその手にできず背を向けた美しき天剣によってたおされた被虐の歓びか。それとも己自身の抱く妄執から解放された安寧であったのか。沖田にそれはわからなかったが……ともあれ、決着は付けたという確信だけは感じた。もう二度と、この怪物が立ち上がってくることはないはずだと。

 隻腕の騎士が地響きを立てて沈むと同時に、その鋼鉄の義手は一瞬にしてあかさびに覆われ粉々に砕け散っていく。それが《鉄腕ゲッツ》の最期であった。

 そのしかばねいちべつを向けると、沖田はよろめく足で月を仰ぎ──そして崩れ落ちる。

「……待っていろ、隼人はやと……今、私が行くからな……」

 出血多量でもうろうとする沖田の意識は、その言葉と共に途切れていた。


          


《ワイルド・ビル》ヒコックの前で、隼人は全力をもって立ち続けていた。ただ立ち続けるという行為にさえ、限界の気力を振り絞らなければならなかったから。

「俺は、狙った獲物を逃したことは一度もないんだ。だから例の娘の前に、心残りを片付けておこうと思ってな」

 必要以上に近づかず、ヒコックは輪胴弾倉を銀弾がそうてん済みのものへと交換する。そしてコルトM1851ネイビーの銃口を、隼人の心臓に向けて照準した。

「──!?

 ヒキガネにかかったその指が硬直する。ほぼ同時にヒコックの長靴が地をり、大柄なたいは反射的に飛びずさっていた。

 動けないはずの隼人が構えた、刀の切っ先。それが、ほんの数ミリに満たない範囲で動いていたからだ。それは見間違いではなく、隼人が自分の意思で起こした精一杯の行動だった。

〝まだ動けるぞ〟という事実の誇示。それが、この状況下でたった一つ隼人にできる抵抗であった。

 これまでの闘いにおける周到な立ち回りぶりから、隼人はヒコックの本性を直感で察していた。すなわちこの男の本分が、戦士ではなく狩人であることを。

 一か八かで危険に飛び込み、死と隣り合わせの勝利をつかむような蛮勇。そんなものにヒコックは価値を感じていない。この男にとっての価値ある勝利とは、あくまで万難を排し準備を尽くしたうえで手に入れるものでなくてはならないのだ。

「どうやら、まだ少しは動けるようだな。なら詰めに行くには早いってことだ」

 ヒコックは決してれた様子もなく、隼人はやとの一挙手一投足を慎重に見守っている。

「根比べなら、挑むだけ無駄ってものだぜ。獲物に逆襲する力が残っている限り、それがゼロになるまで俺は待ち続ける。油断も決してしやしない」

 一方で、隼人は今の挙動を起こすだけですさまじい死力を尽くしていた。剣術の修行に費やした十年近い努力の熱量と、それは体感としてほぼ変わらないほど。もう一度同じことをやるだけの力は、もはや残っていない。

 そして。無理をした代償として、隼人は刀を保持する握力さえ完全に失いつつあった。

 この刀を取り落としたときこそ、隼人の最期だ。ヒコックは〝狩り〟を締めくくるために、満を持してそのヒキガネを引くだろう。

 隼人は思う。確実な死をほんの数秒引き延ばしたにすぎない、無駄な抵抗だったのかと。

 かつては武士になるという見果てぬ夢を己に課し、今もまた奪われた誇りのために闘い続けている。

 だが皮肉にも今、その克己と向上の精神は隼人にとって最悪の運命を呼び込もうとしていた。

「隼人────っ!」

 樹林の奥から駆けつける、銀雪の髪の少女──ひつぎの到着が間に合ってしまったことで。

 ──来るな!

 声を限りに叫ぼうとするが、干からびたのどはもううめき声ひとつらすことができなかった。肉体を動かすことなどとっくに不可能。隼人に、柩の接近を阻止する手段は何も残されていない。

 やみに潜むヒコックは、走りくる柩の接近に対し何の行動も起こさない。ただ見守り、待ち続けている──彼女の足が『陣地』を越えて侵入してくる瞬間だけを。

「く──うッ!?

 そして、柩はわなを踏んだ。ヒコックが血の刻印によって作り上げた結界内に、入り込んでしまったのだ。動きの止まった標的ひつぎの腹に、ヒコックは冷酷に銀弾を撃ちこむ。

「……ここで本命が掛かるとはな。少々あつのない結末だが、まあこんなこともあるだろうさ。すぐには殺さねえから、おとなしくしているんだぜ」

 隼人と同じく、活動のための熱量を収奪された柩がその場に崩れ落ちていく。

 もはや回避は不能。抵抗も不能。そのうえ、腹には血族殺しの銀弾。柩の繊手はスミスアンドウェッソン・モデルアーミーの重みに大きく震え、今にも取り落とさんばかり。

 その手が銃を手放した瞬間、柩という獲物は完全な形で無力化される。

 隼人はやとの脳裏に渦巻くのは、鳥羽伏見での敗残と絶望だった。あの冷え冷えとした空虚に包まれ、どこまでも暗黒の底を落ちていくような喪失感が蘇る。

 自分はもう一度、あそこに引き戻されてしまうのか──そう思った瞬間、すさまじい恐怖が隼人の心臓をつかんだ。

 隼人は死のふちで、自分の為すべきことをもう一度思い描いた。

 それは、侍としてもう一度立ち上がること。そして、踏みにじられた誇りを取り戻すこと。

 だからこそ隼人は、この死を絶対に受け入れられない。

 汚名をすすぐこともできず、まもると誓った少女への約束も果たせぬ末路──ふざけるな。

 そう、何もかも奪われた隼人の中に残った最後のもの……それは、怒りでしかなかった。

 その怒りを、隼人は記憶していた。そして思い出す。

 人間としての自分が死んだ、伏見の戦いのことを。ひつぎに迫るさつの兵を相手に、半ばしかばねと化した動くはずのない身体からだで立ち上がった瞬間の記憶を。そして……

 ──侍は約束を果たすもの

 あのとき抱いた一念は、死よりも重いものだったということを。その瞬間だった。

 ──あれは……?

 隼人の目に映る世界が、いつの間にか切り替わっていた。そこは今までいた夜の森ではなく、ヒコックや柩の姿も見えはしない。そこにいるのは……

 ──俺だ。

 何もない漆黒の虚空に浮かぶのは、紛れもない自分自身の姿だった。

 しかし目の前にした己の鏡像に感じたものは、たとえようもないおぞましさである。なぜなら、眼前の自分の顔を死相が彩っていたのだから。

 死せる隼人の胸には、血を流し続けるだんこん穿うがたれている。それを見た瞬間、隼人は理解した。この幻こそ自分がこれから辿たどる運命であるのだと。

 そして、この運命を──自身の死と向かい合う覚悟があるかどうかを、隼人は己の血から問われているのだと。

 つまり、屍の幻影は警告であり試しであるのだろう。死の先へ進む価値とは、本当に永遠を約束された己の命よりも重く尊いものなのか。血は、隼人にそう問いかけているのにほかならない。

 ならば、答えはもはや一つしかなかった。

 己が永遠に、この手で墓標を──

「……かげろう、だと?」

 突如として現出したその光景に、ヒコックがげんそうに目を細める。今にも自重さえ支えきれず崩れ落ちようとしている隼人の周囲が、まるで炎天にあぶられた大地であるかのように揺らめいて見えたのだ。