しまった、これじゃ逆効果だ──と思ったときには、既に遅く。

 無意識のまま、隼人の腕が柩を抱き寄せていた。柩もなされるがままに隼人に身を預け、その首筋を差し出す。

「……んで。隼人とつながる感じが気持ちいいんだ」

 それが、とどめだった。隼人は柩の首にきばを突き立てる。熟れた果肉をかじるような、れた生々しい音が静かに鳴った。隼人ののどが動き、その奥を柩の血がえんされていく。

「んっ……く、ぅ……」

 陶酔したような甘い吐息を柩がらし、隼人の背中に腕を回す。さらに牙を深くまで受け入れるかのように。

 血の味に酔いれる隼人もまた、それに応えた。それ以上はいけないという声が自分の奥深くから聴こえた気がするが、すぐに消えていく。壁を超えてはいけないという危機感が薄れ、代わって真紅の愉悦が隼人の全てを上塗りしていく。いつかの言い訳めいた言葉が、気付けば意識にだましていた──これはきっと吸血鬼という性質のせいなのだ

 まんろうとの問答で、これが自然な営みであるというお墨付きを得た心理的影響は大きい。自制できるように慣れるためには、回数をこなすことも必要だろう……と、言い訳めいた理屈で自分を許す。その自堕落な背徳もまた、快感を増すのに一役買った。

 そのままひつぎを壁に押しつけ、柔らかな身体からだを──。


隼人はやと!」

 せつ。柩をむさぼるのに夢中になっていた隼人の耳を、聞きなれた声がたたく。

 その声は一瞬にして、隼人をあの頃に引き戻していた。おおかみ、その一員として血煙渦巻く京洛のちまたを駆けていた修羅と青春の日々に。

 振り向いた先──さっきまで自分たちがいた客室のテラスに立つ、自分よりも小柄な武士が隼人に視線を向けていた。一点の曇りもないまなしは、白刃の切っ先のごとくれいで鋭い。

 その顔色がそうはくであるのは、月光のせいだけではなかった。まるで戦場で敵とたいしているかのような鬼気迫る気迫と、そして隠せぬ怒りの色が浮かび上がっている。

おきさん……!」

 隼人はぼうぜんとその名を呼ぶ。新選組一番隊組長、沖田そう──かつて京の都で、共に血煙をくぐった戦友にして上官がそこにいた。

「おまえに会うためにきた──そう言えばわかるはずだ。私が聞きたいのはただ一つ。お前は新選組を裏切ったのか?」

 しかも吸血鬼に身を落としたようだな、と沖田は続けて吐き捨てた。

「違います! 俺は裏切ってなどいません!」

 原隊に帰還せず、単身で逃亡。そのうえ、鳥羽伏見で新選組の敵となった吸血種への転化。客観的には、どう見ても自分が裏切り者に見えるだろう。最悪の状況だと隼人は思う。

「私もそう信じていたさ。たったの今、この瞬間まではな……そのざまはなんだ、隼人。こんなところにまで落ち延びて、吸血鬼として快楽におぼれるのがおまえの士道か?」

 加えて、見られた場面もこれ以上なくまずかった。血に酔ってしまった言い訳はできないが、それでも潔白は証明しなければならない。

「京からここへ来るまで、私はずっとお前の無実を信じてきた。似た人物のうわさを聞いて桑名にも行ったが一歩遅かった。いったん江戸に向かおうと思ったが、横浜からきた異人たちが居留地で侍を見かけたという話を聞いてな……その甲斐あってようやく会えたが、そんな姿は見たくなかったぞ」

 沖田の表情は、今すぐにも抜刀を辞さない気迫に満ちている。ここまで伝わってくるその剣気に、隼人の背筋に冷気が走った。

「答えろ。鳥羽伏見で何があった?」

 たとえ相手が何者であろうと、任務のためであれば一切の区別なくり捨てる非情のやいば。沖田のひとみの中には、今あのときと同じ冷徹さが宿されている。

 今ここで返す答えいかんによっては、沖田が腰に差すしゆうきよみつはすかさずさやから抜き放たれ、隼人はやとは一刀の下に葬り去られるだろう。

 だからこそ──

「俺は、新選組を裏切ってはいません」

 隼人はまず、それだけを答えた。

 それ以外に言うべきこと、言えることなど、何もないと思ったから。

 立てられるあかしは何一つなく、あるとすれば、それはただ自分自身の命をけるだけ。

 だからこそ、覚悟はもう定まっていた。

「……その娘にたぶらかされたのか?」

 おきは、心配そうに隣の隼人を見ているひつぎを視線で刺して問う。隼人は柩をかばうように後ろに隠す。それを許さぬとばかりに沖田が踏み出す。双方の距離は触れ合うほどに近づいた。

「まさか、お前をる日がくるとはな」

 言いながらも、沖田の剣は動かない。隼人は、いちの望みをかけてなお沖田に伝える。

「何度でも言います。俺は裏切っていません。新選組を裏切ったのは、とうです」

「……なんだと?」

 その名を聞くや、流石さすがの沖田も表情を一変させた。

「お前が新選組の裏切り者であるとのしらせをもたらしたのは、その伊東参謀なのだぞ」

 沖田の秀麗なめんぼうに驚きの色が浮かぶ。隼人が告げる言葉は、聞いていた事前情報とはまるで逆だったからだ。わずかの後、沖田は思い出すように口を開いた。

「初めて会ったとき、私が言ったことを覚えているか?」

 無論とばかりに、隼人はうなずく。

 入隊後、一番隊に配属された初日のことだ。桜吹雪ふぶきの舞うの屯所の庭で、この小柄な剣客を前にしたときの記憶。それは、つい昨日のことのような鮮やかさで思い出せた。

「顔でさえうそのつけないまっすぐな男だと、あのとき私はそう思った。そして事実、お前はそうだった。なのに今の私はお前の心がわからない……」

「沖田さん……」

 追憶が呼んだ迷いを、隼人は沖田の語気から感じ取る。そして、ここぞとばかりに前へと一歩進み出た。双方の気迫が逆転したかのように、沖田がその一歩を後ずさる。

「俺は、新選組を裏切るくらいなら……あなたに嘘をつくぐらいなら、迷わず死ぬことを選びます。でも、こうして死を選ばずに生にしがみついたのは……それでもやらねばならないことがあるからです」

 伊東へのふくしゆう。そして汚名をそそぎ、奪われた侍としての誇りをこの手に取り戻すこと。

 隼人が、さらに一歩沖田に向かって踏み出そうとしたそのとき──。

 眼前の視界を、せんこうがかすめた。ほおが熱くなる感覚の後、隼人の顔を一筋の血が伝う。

 ──弾丸!?

 遅れて隼人はやとの耳に届いたものは、やみを震わすごうおん──銃声と。

「隼人、ひつぎの嬢ちゃん! 追っ手だ! 逃げろ!」

 こちらに向けて叫ぶ、まんろうの声だった。ホテルの玄関ホールの方向から、隼人たちのいる中庭まで走ってくる。


「──なるほど、そこにいるのがユダの娘か」

 万次郎がやってきたのと同じ方角に、誰かが悠然とたたずんでいた。響いた言葉は米国アメリカなまりの英語イングリツシユ。闇の向こうで擦られた燐寸マツチが、その大男のくわえた煙草たばこに揺らめくだいだいいろの火をともした。太い唇がどうもうゆがむと白いきばのぞき、大量の紫煙が吐き出される。

「さあ、よいの〝狩り〟を始めようじゃないか」

《ワイルド・ビル》ことジェイムズ・バトラー・ヒコックの右手の中で、青黒く光る銃身が月光を鋭くはじいた。