参ノ章 新たなる邂逅であい



 一刻も早く江戸へと向かうため、隼人はひつぎを連れて表街道を外れた小さな路を進んでいた。

 本来ならば、東海道の桑名宿で船に乗って次の宿場に向かうのが最も早い道のりだ。だが人目に付きやすい手段を選ぶことは極力避けるべきと判断した。

 現に隼人はいくつかの宿場で、「異人の娘を捜している者たち」のうわさを耳にした。

 京方面での幕府方の敗戦の報は、ここまで既に聞こえてきている。さらに、今や官軍と名を変えた薩長土の新政府軍が東──江戸へ向け進軍中であることも。

 当然、この東海道もその進路の一つ。進路上にある街道や宿場に先遣の斥候が放たれ、後方を進軍中の本隊に情報を送っていたとしても不思議ではない。桑名宿をはじめとした幕府支配地でも、その認識の元に警戒を強めているようだ。


「無礼者ッ。我らを倒幕に決起せし官軍の志士と知ってのことかあ!」

 突然、粗野な胴間声が道の行く手から響いてくる。隼人は警戒しつつ、騒ぎの起きている方向を見やった。

 そこには三人の浪人者たちがいた。往来をふさぐように立ち並び、殊更に肩を怒らせ威圧感を醸し出している。

「どうかお許しくださいませ、お武家様……!」

 彼らの前には、商人風の若夫婦とその娘と思われる童女が道端に平伏している。完全に無抵抗でおびえきり、それを見た浪人たちはさらにかさにかかって高圧的になっているようだった。

 明らかにめ事の気配だ。

 理由など、もはや聞くまでもない。そんなものあってないようなものなのだろう。道を譲らなかっただの、態度がそんであるだのと、どうせ馬鹿馬鹿しいほどに一方的なうつぷん晴らしのこじつけだろう。そのような「侍」とも呼べないくずの姿も、隼人はやとは嫌というほど見てきた。

「どうか、おゆるしください」

「ええい触るなッ、餓鬼めが」

 童女もまた親にならい、浪人の足にすがろうとする。浪人がその足を振り上げると、小さな身体からだを強くり離した。

「だ、だいじょうぶ?」

 よろけた童女が、ひつぎの腰にぶつかって尻もちをつく。

はなかった?」

 柩は、道端にしゃがみこんだ童女に手を差し伸べる。童女は、あつに取られたまま編笠の下に隠れた柩の顔を見上げていた。

「おねえちゃんのおめめ、きれい……」

 童女は、うっとりとそうつぶやいた。

「なんじゃ、娘。その不格好な笠を取って顔を見せんか!」

 浪人の一人が、そう言う。まずい、と隼人は思った。だがしかし、「侍」としてこのような無法者たちをのさばらせておくわけにはいかないという思いもある。

 隼人も柩も、騒ぎに関わるのは鬼門だ。それでも、隼人はどうしてか自制する気にはなれない。いつもより攻撃的になっているのが自分でもわかった。

「成り行きについておおよその見当は付くが、双方の言い分を聞こう」

 あえて挑発するような言葉が、自然と口から出ていく。

「なんだ小僧、訳知り顔に。一丁前に二本差しだが、まだ青二才ではないか」

「貴様などに用はない。立ち去れ!」

「無論、その連れの女を置いてなァ。さもなくば、死ぬぞ」

 予想した通り、ぞうごんだけが返ってきた。道端に平伏したままの若夫婦も、激情する浪人を恐れてか、慌てて言う。

「先を行って結構です。私らに構うことはない」

 だが、隼人はやとは立ち去ろうとはしなかった。ひりついた空気におびえたひつぎが隼人を見やる。

 と、いきなり浪人の一人が、さやに収めたままの刀を振るった。柩のかぶった編笠が、その勢いで飛ばされる。

 銀色の長い髪が流れ、風に吹かれて稲穂のようにきらめいた。

「ほう……」

「これはこれは……」

「異人の小娘とは、珍しい」

 柩のようぼうは、浪人三人の視線を立ちどころに奪っていた。どの顔にも、めいめいゆがんだ喜色が浮かび上がる。

 その視線に柩が汚されるような気がして、隼人は彼女の手を引いた。男たちのた欲望からかばうように前へ出る。もう後には引けないし、引く気もない。

「新政府軍の勝ち馬に乗っているだけの無頼漢ゴロツキが……」

 隼人の言葉に、浪人たちの顔色が一斉に赤黒く変わる。

「貴様ッ、お国の大事に立ち上がった志士を軽んじるか。旧態依然とした幕府を倒し、この日本を新時代の中で強国に立て直すという我らの志を!」

「貴様ら……何がお国の大事だッ」

 隼人は吠えた。腹を焼く怒りを抑えきれない。眼が据わっているのが自分でもわかる。さらに一歩前に進み出た隼人の圧力に耐えかねたかのように、三人が同時に腰の刀に右手を飛ばす。

 それは、まるでなめくじうように遅い動きに見えた。

 浪人たちの動きが伝える情報から、彼らの剣術は大したものでないことは明らかだった。が、以前ならばここまで鈍重には見えなかったはず。

 血族になったことで、恐るべき域にまで視神経の反応速度が上がっているようだ。隼人は血族と人間の身体能力の違いを、まざまざと実感した。

 もし自分が本気で力を振るえば、三人は一瞬で肉塊と化すだろう。わずかな時間で隼人はそう確信する。そんな悪趣味な光景は見たくもないし、騒ぎを呼ぶのは間違いない。相手を殺さずに制するのであれば、百の力を一にまで抑制して使うような芸当が必要になるだろう。

 ゆえに隼人は、身に刻み覚えた柔術──その当て身と逆取りの技術を用いて、敵を制圧することを選択した。

 柔とはそもそも、力の流れを制御することにそのようていがある。本来は敵の攻撃を無力化するための技術だが、今はその逆……自らの吸血種としての過剰な破壊力を抑えることに、柔の極意は役立っていた。

 ほぼ一つに重なった破壊音──肉を打ち、骨をひしぐ響き──と共に、三人の浪人がその場に崩れ落ちていた。

 彼らは、掌打であごを砕かれ、小手投げで腕のちようつがいを外され、ぞくによって受け身も取れず顔面を強打しけいれんしていた。いずれも重傷ではあるが、人間業の範疇には留まっている。

 どろりと粘っこく、鮮やかな色の血が土の上ににじみ出す。その匂いをいだとたん、自分の中の何かが激しく反応するのがわかった。

「ひいっ──」

 恐怖の悲鳴は、隼人はやとに救われたはずの商人夫婦と童女から上がっていた。

 ふと水たまりに映る自分の姿を見て、隼人はせんりつした。

 らんらんと輝くそうぼうと、隠しようもなく歯茎から生え伸びたきば。そして何より、全身から吹き出す獣臭にも似たえた気配。

 過去二千年に渡り、人類の生き血をむさぼってきた強大な捕食者──不夜の血族の本性を前にして、ただの人間である彼らの反応はごく当たり前のものだった。森で虎に遭遇した子鹿の絶望にも等しい。しかし、当然ながら隼人はそのことを知らない。

(なんだ……? これは……?)

 隼人はさらに戸惑う。己の力を解放し敵をじゆうりんしたことで、純粋な愉悦を感じている自分に。

 今までの自分には、明らかに存在しなかった感覚だ。敗者にあわれみこそ感じても、振るったぼうぎやくに快感を覚えたことはない。これもまた、血族となったことでの変化だというのだろうか。

「隼人……?」

 ひつぎに声をかけられ、隼人はようやく我に返る。いつの間にか、騒ぎを聞きつけてやってきた付近の住人たちの姿が見える。

「いや……なんでもない。先を急ごう」


          


 しばらくして、二人は旅の足を止めた。街道を外れた、宿場とも呼べない寂れた集落が見えてきたからだ。入っていくが通りは狭く、宿の数も一軒しかない。それも、料理屋や酒場を兼ねているようなわいざつな雰囲気だった。

 隼人は思案する。先ほどの騒ぎが尾を引くかもしれない。本来ならもう少し先を急ぎたいところだったが、柩が疲労している様子を感じた。男である自分に遅れることなく踏破してきただけでも、かなり無理をしているのはわかる。どうやら今日はここまでのようだった。

 持ち銭もそう多くない。人目を避けるためにも、この宿の寂れ具合は格好だったのだが……

「隼人、宿屋ってこんな感じなんだね」

 暗く怪しいろうそくの炎に照らされた部屋。薄い壁ごしには、男女の艶めいたあえぎ声が聞こえる。

 極めつけに、部屋の中央には一つの布団。しかもその色は実に扇情的な紅色だった。

 柩は初めて見る布団に興味津々のようで、頭からその中に飛び込んだ。着物の裾がめくれ、彼女の白い太ももがあらわになる。

「い、いや……これは」

 ここは非合法のあいまい宿。つまり商売女である女郎などを置き、男女がねやを共にするための宿……というより、ずばり大人の遊び場のようだった。表向きは旅人向けの宿という体裁だから、もちろん宿泊自体も可能ではある。

「どうしたの?」

 黙りこくった隼人はやとを見て、ただごとではないと感じたのだろう。ひつぎは隼人の額に白くすべらかな手を当てた。

「ん……熱はないけど、本当に具合悪そう」

「ッ──」

 ひんやりとした柔らかさを額に感じた瞬間、はじかれたように身体からだが反応してしまった。まるでり合いの最中のような必死さで、柩から身を遠ざける。

「な、何でもない。ほっといてくれ。体調が悪いとかじゃないんだ」

「変な隼人?」

 あきれ気味に鼻白む柩をよそに、壁際で背を向けて横になる。隼人の奥歯が、人知れずぎりりときしんだ。

(まずい……)

 柩の気配を間近に感じただけで、強烈な男の衝動が全身の血を沸騰させるような思いがする。その白い肌に目が釘付けになり、理性が音を立てて蒸発しそうだ。

 柩に感じてしまう強烈な肉欲と衝動は、まるで獣じみていた。そしてそんな獣欲にほんろうされる自分を、恥じずにはいられない。

 ──これでは、さっきのくずどもと同じじゃないか。

 いかなるときも己を保ち、生と死の際にあってさえ取り乱すことなく堂々と振る舞う──そんな武士としての理想像を、一心不乱に追いかけ続けてきた。

 もし自分に誇れるものが一つあるとしたなら、それは鍛え続けたその克己心にこそあると思っていたのだ。それにも関わらず、現状はこの体たらく。

 もちろん、隼人とて生身の健全な男である。同年代の異性と曖昧宿で二人きり、という状況に何も感じないというほうがおかしいだろう。

 そもそも対象である柩が、普通の男なら一目で心奪われるほどの美少女なのだ。

 ならばこそ、この身を焼くような衝動もまた正当なものではないだろうか……などと自分を慰めてはみる隼人だったが、やはり苦しいものは苦しい。

 隼人の脳裏によぎるのは、柩に欲望を向けた浪人者たちに覚えたいつにない激しい怒りといらちだった。あれもよもや、この衝動に関係あるのだろうか。

 ──まさか俺が、この吸血鬼の少女に欲情している……?

「ねえ」

「はぅあッ!?

 だからこそ、いきなりに吹きかけられた吐息は爆弾にも等しかった。誇張ではなく、一瞬尻が床から浮き上がる。

「わたしの話を聞いているの? さっきから話しかけているのに」

「す、すまん」

 薄くなった空気をむさぼるように、隼人はやとは息を吸う。

 ひつぎの白い肌から立ちのぼる女の匂いが、頭の芯をしびれさせていく。呼吸は熱く火のようだ。

 そして、隼人の身体からだの真ん中が──

 柩の手が隼人に触れる。隼人は魅了されたように柩の間近に迫る美しい顔を見ていた。

「ねえ、隼人。お腹すいてるんだよね……?」

 少女はどこかわくてきな笑みを浮かべながら、長い銀髪を後ろに流し、真っ白な首筋を隼人の眼前にあらわにする。

 隼人の食いしばった歯の間から、うめきがれる。

「こないだのだけじゃ足りなかったでしょ? わたしの、飲んでいいから」

 隼人の本能の暴挙は自制の鎖を引きちぎり──

「グゥゥッ……!」

 ついに柩の首筋に、きばを突き立てていた。

「んッ──」

 牙が肉にい込む生々しい響き。濃密な血臭と甘やかな味が、隼人の口内を満たした。

 柩の漏らすなまめかしい声さえ、この上ない快感だった。えが満たされていく。

 しかし、それと反対に隼人の男としての欲望は加速する。ダメだ、と理性が声を上げるが、隼人は柩を一組しかない布団の上に組み敷いた。

 獣のように、彼女の首筋から血をすすりながら、その柔肌に指をわせる。

「は、隼人? ど、どうしたの……!?

 柩が、隼人の突然の暴挙に驚きの声をあげた。しかし生娘のようなその反応すら、隼人の興奮を加速させる。

 ──これはきっと吸血鬼という性質のせいなのだ

 隼人は必死にそう言い聞かせる。自分が、こんなた欲望に流されるなどありえない。

「やめて……っ! 隼人」

 柩の苦しそうな、しかし艶めいた声に興奮をあおられる。隼人は少女の身体を、より抱きしめようとして──

「待って、隼人」

 少女の声が、冷静な響きを取り戻していることに気づいた。

 一瞬にして情欲の熱が去り、思考がえる。

「何か、聞こえない……?」

 人間の域を超えて発達した聴覚が、宿の外から聞こえる多数の足音と話し声を夜風の中から拾っていた。

 ──桑名宿代官所からのあらためである──

 ──異人の女──

 ──捕らえろとの命が──

「……っ、追っ手か!?

 先ほどの浪人との騒動もある。彼らの口から、自分たちのことが伝わったのかもしれない。

 ふと、かちりと響いた金属音に振り返った。

 ひつぎが震える指で懐から六連発のけんじゆうを取り出し、その輪胴シリンダーに弾丸をそうてんしている。柩の不安に揺れる目が隼人はやとを捉える。

 その目に宿るおびえを見て、隼人の中で決心が固まった。刀のさやを握る手に自然と力がこもるのを感じていた。


          


 その頃。東海道の桑名宿では──

 宿場全体に漂う物々しさに、誰もが不安を隠せずにいた。

 そしてその心理は、駆り出されてきた代官所の役人たちでさえ同じだった。

 徳川の軍は敗れ、将軍は兵を見捨てて江戸へ逃げ帰ったという。そのうえ、徳川家は今やこの国の古くからの象徴たる天子から朝敵と見なされ、賊軍におとしめられたとさえ聞く。

 そして官軍は江戸を目指して刻一刻と進軍中。もしこの桑名まで到達したなら、依然として徳川に仕える自分たちの扱いはどうなるかもわからない。にも関わらず、こんな真偽も定かでないような騒動にかまけている場合なのかという不安だった。

 吸血鬼が領内で暴れたという事実。代官所に寄せられたのは、そんなうわさが流れているという情報だった。ところが、どうもそれ以上の詳細がつかめない。普段ならば、そういったあやふやなうわさばなしなどは無視しても問題はなかっただろう。しかし、官軍が侵攻中という情勢下である今は別だ。

 官軍の中核を成すさつ藩と長州藩は、既に英国イギリスより与えられた吸血鬼の力を軍事に用いていると聞く。天領、つまり幕府直轄地であるこの桑名に出現したという吸血鬼が、その官軍から送り込まれた尖兵である可能性も無視できない。

 桑名藩の上層部では、やってくる官軍に対して抗戦か恭順かで現在も紛糾している。仮にもし、現れた吸血鬼が官軍の尖兵であった場合。上の決定次第では、自分たちが取るべき対応も全く変わってしまう。末端の小役人にすぎない立場としては、今は下手に手を出したくない一件だった。

「──よう、この辺りで血族を見かけたってのは本当かい?」

 そんな役人たちの背後から、場に似合わぬのんな声がふいに響く。

「な、なんだ。おぬしは……」

 どうせ酔っぱらいのたぐいだろうと振り返った役人たちの目の前にいたのは、年齢不詳の男だった。派手な服装に身を包み、何を考えているかわからない笑みを浮かべている。

 次の瞬間、役人の一人がおびえて叫んだ。

「ひっ──き、吸血鬼!」

 夜の暗がりで蛍火のように赤く光る、そのひとみ。もしやこれが例の奴かと役人たちが仰天し、腰の刀へ一斉に手を伸ばす。

「おいおい。俺は確かに血族だが、そう警戒する必要はないぜ。身元は確かなんだ」

 のんびりと言うその口元にのぞくのは、常人よりも鋭い犬歯。男のふうぼうは異様ではあったが、日本人のように見える。吸血鬼といえば西洋の異人と思っていた役人たちは驚いた。

「こう見えて直参の旗本だ。生まれこそ土佐の漁師だが、れっきとしたサムライなんだぜ? そう怪しまなくても大丈夫だって」

 旗本と言えば、徳川家直属の家臣である。およそ信じがたいが、もしも真実だったら? 役人たちの間に動揺が走る。

「貴公、名は何と申す」

なかはま村のまんろうだ。米国アメリカから戻ってきてからは、向こうでもらった名前──『ジョン万次郎』で通ってる」

 かつて数奇な運命を辿たどり、鎖国中の日本から新大陸まで流れ着いた一人の男。

 男は彼の地で《洗礼》を受け、黒船来航とほぼ時を同じくして生まれ故郷へと帰還した。その男の名は、ジョン万次郎。

 江戸から離れた桑名の地にも、そのうわさは広まっていた。役人たちは、かの男を前にして戸惑いを隠せない。

「俺がここにやってきたのは、あんたらの上から直々に頼まれたからだ。俺は外国語にも堪能だからな。だから、もうここは俺に任せて詰め所に戻ってくれ。その吸血鬼だかが官軍に関係があるか、確かめてきてやるからよ」

「しかし我らも、役目上、この先にある民家や宿をあらためないわけにはいかず……」

「そうそう、そこよォ。本当に血族がらみなら尚更慎重にやらねえと。もし勘違いで外交問題って奴になったら、おまえさんたち、まとめて腹を切っても追っつかねえ羽目になるかもしれねえぞ」

「うっ、そ、それは……」

 身振り手振りを交えた万次郎の話しぶりに引き込まれ、役人たちが一斉に色を失う。

 薩英戦争のヒキガネとなった、横浜のなまむぎ村での異人殺傷事件はまだ記憶に新しいらしい。

「で、だ。この一件、このまんろう様にを預けてみるってのはどうだい?」

「き、貴公に?」

「おうよ。しかも俺の生まれは土佐で、ついこの間までさつのほうで仕事していたから官軍そつちにも顔が利く。今回の件に打って付けの人材だとは思わねえかい? 心配すんなって。あんたらの上には、部下はちゃんと働いてたって報告しといてやるからよ」

 万次郎の言葉に異論を唱える者はいなかった。皆触らぬ神にたたりなしだと思っているのだろう。役人たちは肯定も否定もせず沈黙する。それを同意と受け取り、万次郎は満足げにうなずき片目をつむった。そして、ダメ押しのようにこういう。

「そういえば、向こうの長屋で浪人同士がけんしてたぜ? あんたら、そっちを放置しててもいいのかい?」

 役人たちは顔を見合わせ、しぶしぶと言った感じで万次郎の指差した長屋のほうに向かっていく。それを見やると、万次郎はそのほおに笑みを浮かべた。

「よーし、これで厄介者は追っ払えたな、へへッ」


          


 隼人はやとは、いつ踏み込んできてもおかしくない役人たちを部屋のふすまの陰で待ち構える。いっそ思いきり暴れて、すべてをり破ってやりたいという激しい衝動が肉をうずかせてもいた。

 暴力への強い渇望とも言うべき、自分ではあまり意識したことのない欲求だ。先ほど、ひつぎに対して抱いた男の衝動と、それはどこかでつながっているようにも思えた。

 宿の女将と何者かが言い合う声が聞こえてくる。やがて廊下から、一人ぶんの足音が近づいてきた。そして、ふすまの向こうでぴたりと止まる。

「よう。聞いてくれぃ、中のあんたら」

 隼人が想像していたのとはまったく違う、軽い調子の声が聞こえた。

「俺ァ、ジョン万次郎って者だ。ちょいと中に入れてくれねえか? 悪いようにはしないと約束するぜ。表の役人たちも追っ払っておいた」

 隼人は答えない。代わりにすきから外の人物をのぞき見、そして驚いた。

「吸血種……!」

 隼人のつぶやきに、万次郎はにやりと笑う。

「ああ、そうだ。俺は吸血種……つまり不夜の血族の一人だ。そして、あんたらを追ってる薩摩の奴らとは別口だ

 どうやらこの男は、自分たちについての事情をなぜか知っているらしい。非常に怪しいが、隼人にしても情報は欲しい。どうするか、としゆんじゆんする。

「どうしたの、隼人はやと?」

 隼人の後ろに身を隠しつつ、ひつぎが不安の声を上げた。

 敵であれば簡単に踏み込んでくるはずの距離に留まったまま、まんろうという男はあくまで隼人がふすまを開けるのを待っている。

 やがて、隼人が動かないのを悟ったのか、万次郎は自分から話を切り出した。

「なあ、サムライの坊主。お前、新選組を裏切ったことになっているんだってな」

 挑発的な万次郎の物言いを怪しむ。だが同時に、全身の血が怒りで沸騰しそうになる。あらためて他人の口から聞かされたことで、そのうそを背負わされている現状に激しい耐えがたさを感じてしまう。

「……ッ」

 今すぐにでもそれを否定したいが、相手の思惑に乗るまいとぐっとこらえる。

「だが、本当の裏切り者はおまえじゃなく他にいるんだろ? そうさなァ……新選組参謀の伊東甲子太郎とか、な」

「……!」

 隼人は、思わずふすまを開け放っていた。廊下に立つ万次郎とたいする。隼人のすぐ眼前で、その口元が不敵に微笑した。

「よォ。やっとご対面が叶ったな」

 隼人に油断は欠片かけらもない。

 左手の親指は既に刀のこいぐちを切り、右手はいつでもそれを抜き放てる体勢にある。しかし男は意に介さないように言葉を続けた。

「俺は、ある人からお前たちの道中を手伝うように言われている。損はさせないぜ」

「それは誰だ」

「ちと複雑な事情があってな。その名前は簡単には明かせねえんだ。だが俺と一緒に来れば、お前さんたちも自然と知る時がくるだろうよ。たぶんそう先のことじゃないが、今でもない」

「怪しい話だな」

「秘密っていうのは、どれもそういうもんだろ?」

 万次郎を試すように、隼人はその目を鋭く見据えた。

 万次郎は隼人の視線にひるむことなく、ただおうような笑みを浮かべている。その真意は到底つかめない。

 ただ、今すぐ隼人と柩を害する意思はないことだけは確かなようだった。

 気づけば隣の部屋から、わざわざお楽しみを中断した男女が顔をのぞかせていた。

「……中で話していいかい?」

 万次郎の言葉に、隼人はうなずくほかなかった。どうせ壁は薄いが、立ち話よりはましだろう。

「それじゃ、ちょいと邪魔するぜ──ほう、こりゃなかなか似合いのお二人さんじゃないか」

 そのまんろうの言葉に、なぜかひつぎは少しだけ表情を和らげる。

「……あんたが信用できる保証は?」

 その言葉を承知していたとばかりに、万次郎がうなずき返す。

「信頼できねえと思うが、信じてくれと言うほかない。だが、代わりにお前たちが欲しい情報は与えてやれる。それに、これも」

 万次郎が懐から木の鑑札のようなものを二枚取り出す。

「これがあれば、今この近くに停泊している蘭国オランダの蒸気船に乗れる。おまえらはとうを追うために、江戸表へ向かってるんだろ? その船も最終寄港地は江戸だから、そのまま行けるぜ」

 船に乗れれば、確かに旅程を大幅に短縮できる。しかも外国籍の船であるなら船員も異人しか乗ってはいないはず。となれば、京で闘ったようなさつひとりなどの追っ手が紛れこむ心配も少ないだろう。思わず気持ちが揺らぐが、不審点が消えたわけではない。あくまでここは、この男の見極めが納得のいくまで必要だ。

「……じゃあ、質問を変える。俺たちを助けることで、あんたにどんな利や得があるというんだ?」

「ハッ、得? 小せえ小せえ。俺は愛と自由に生きる男だからよ。そんなせせこましい利害なんぞに、そもそもとらわれたりはしねえのさ」

 なんとも言うことがさんくさかった。つい視線が冷ややかになるのを自覚する隼人はやとだったが、相手からは一向に気にした様子が伝わってこない。

「この国に生まれながらも血族になった身の上じゃ、俺はおまえさんたちの先輩だ。先輩が後輩の面倒を見るのに理由は要らねえだろ? 俺がこの国に帰ってきたのも、元はと言えばそうしたい気持ちがあったからだしな……これからの時代、俺みたいな人間が必要とされるときが必ずくるだろうと思ってよ」

「……あなたは、ずっと前からの、吸血種族なの?」

「この国に黒船が来る前からな。島原の乱のあまくさろうときさだ以来、日本生まれの血族としちゃあ二百何十年ぶりってところだ。米国アメリカで、まあ色々あってよ」

 万次郎はそう言って、首にかけた奇妙な形の飾り物をもてあそぶ。

「これが何だかわかるかい? 異国の言葉の『いろは』だよ。こいつの数え唄が入った異国語の手引き書を、日本向けに書きあげたのは何を隠そうこの俺だ。幕閣のお偉いさんから若い学者まで、みんなその書物と首っ引きで向こうの学問を学んでる。こう見えて、何かと世の中に役に立ってるんだぜ?」

 本当かうそかもわからないような話を、得意げに語る万次郎。それを聞かされている内に、隼人は自分の警戒心が妙に薄れてくるのを感じた。

 というより……万次郎の調子があまりにも陽気なので、こちらだけが神経を尖らせているのが馬鹿らしくなってきてしまうという方が近い。あるいは既に、相手の術中にめられているのかもしれなかったが。

 まんろうに対し、さらに質問を浴びせようとした瞬間。

「……ッ」

 隼人はやとをふいにめまいが襲った。視界が暗くなり、天地の感覚がぐらりと揺らぐ。

「あっ、大丈夫?」

 慌ててひつぎが支えようとする。

「お前たち、血は摂って……るな」

 万次郎が布団を見て言った。紅い布地に紛れても、そこに落ちた数滴の血の匂いは消えない。

「だが、その様子じゃ足りてないみたいだ。ここのところ、無性にいらいらしたり暴れたりしたくならなかったか?」

「そう言われてみれば、道中ずっとそんな感じだったかもしれない……」

 隼人は、自分でも制御が困難だった怒りと暴力衝動の激しさを思い出す。

「それとこう、無性に女が欲しくなったりな……ああ、なるほど? だからこの宿か」

 万次郎が納得したようにうなずきつつ、二人を眺める。隼人は顔面に血が上るのを感じる。

「いや、そういうわけじゃ……おい! 勝手に納得した顔をするな! 柩も何か言え!」

「? どういうことなの?」

 ニヤニヤする万次郎と困惑した様子の柩に見つめられ、隼人は言葉を詰まらせる。

「でまあ、それってのは、吸血欲が満たされないせいで現れていた反動なんだ。つまり血族としての本能が血を求めて暴れていたってところだな」

「きちんと血を摂れば、ひとまずそれは落ち着くのか?」

 ああ、と万次郎は質問を肯定する。

 隼人はあんした。劣情が高まり、自分が自分でいられなくなるような感覚。あれもまた、この吸血欲にまつわるものだと無理やり結論付けた。というかそういうことにしておきたかった。

「……わかった」

「ん? まだ何か引っかかっていそうだな。どうせなら吐き出しちまえ」

 軽妙な万次郎の話術に誘導されているような気もしたが、隼人の懸念は切実だった。

「血を吸うことが自然だというのは、もう受け入れた。ただ……それとは別に、その……みつくのは、ちょっと問題がな……」

 視線は自然と、柩の白い首筋に向いてしまう。照れから顔が熱くなり、言い淀んでしまう。

「ははあ」

 だが万次郎は、それだけでお見通しだとばかりに片ほおり上げ笑う。

「噛みつけば噛みつくほど、このお嬢ちゃんが欲しくなっちまう。夢中で止まらなくなって困るってところか?」

 隼人は絶句し赤面した。なんという露骨な物言いだろう。

 だが、それは事実だった。先ほどひつぎの首にみつきながら、隼人はやとの男としての衝動は強くなっていく一方のように感じていたからだ。噛むことに対する嫌悪ではなく、我を失ってしまいそうになるのが恐ろしい。己を律することこそが、隼人の理想とする武人……侍としての要であるのだから。

「結論から言うが、安心しろ。そりゃ、ごく正常な感覚だ。血族とか人間とか関係ねえ。男が女を、女が男を求めるのは当たり前だろ?」

「じゃあ……」

 つまり、ただ初めての女の色香に血迷っているだけの餓鬼と同じだというのか──そう聞かされた隼人は、ただぼうぜんとする。悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるほど、答えはごく単純だった。

「噛みつくって行為が男と女のアレにつながるのは、血族おれたちにとってはごく自然な心理ってことだ。要は慣れ次第よ。そのうち加減も効くようになるし、気にもならなくなるさ」

 それに、とまんろうは話を続ける。

「今のおまえらみたいにけんぞく同士で血を交換し合ってるだけじゃ、近い内に必ず限界がくる。それ以外の他人からも吸血しないと、血族としての命の源は少しずつすり減っていくんだ」

「しかし……」

「そう暗い顔すんなよ。生き物が他の生き物から命の糧を得る。それ自体は世の摂理として自然なことだろ。たとえそれが血というものであってもな……まあ抵抗があるってのもわかるぜ。俺も最初は、だれかの首筋を噛むなんてとぞっとしたもんだ」

 入門者おまえの悩みぐらいお見通しだ、とばかりに万次郎は隼人を見下ろし。

「だが今やそこも問題はねえ。近代化って奴の影響は、いろんなところに及んでいるもんでな。野蛮な時代とは吸血の作法も変わっているのよ」

 万次郎は片ほおゆがめて笑うと、荷物からきんちやくぶくろを取り出した。ひもを緩め、袋の中にあるものをテーブルの上に振り出した。

 ごろごろと硬い音を立てて、透き通る深紅の色をした小石大の物体が幾つも転がる。赤い金平糖か宝石を思わせた。

「これは……」

 隼人は食い入るようにそれを見つめた。この深紅が何の色であるのかを、本能は既に察している。