彼女の温かな口内に、自分の命が流れ込んでいく感覚。まるであいするように、互いの血を丹念に舌でめとる。息苦しさの中で、ぴちゃぴちゃといういんな音が堂の中に響き渡った。

「はあっ……」

 柩のほおは上気して色に染まり、それを見た隼人は彼女をこのまま押し倒したいと思った。

 ──いや、俺は一体なんてことを思っているんだ。

 急に頭が冷静になり、隼人は慌てて柩の指から口を離す。えきが内心の名残惜しさを表すように、白く虚空に糸を引いた。

 なんとも言えない後ろめたさが、後から強烈に襲ってきた。

「侍であること」だけを理想として掲げてきた隼人はやとは、同世代の男の誰もが興味を示した女性関係についても堅く自分に禁じてきた。そのせいで女性に対する苦手意識を少なからず感じていたし、女性に対して欲望を抱く自分を恥じる気持ちが人一倍強かった。

 まして、ひつぎは自分に助けを求めてきた世間知らずの少女だ。そんな彼女に対してよこしまな思いを抱くなど、男子として言語道断という思いがある。隼人は無理やり柩から視線をらす。

「どうしたの? もしかして、いやだった?」

 柩は隼人のかたくなな反応に、おろおろしている。そして無意識な不安の現れであるのか、身を寄せてくる。その柔らかな肌が触れるのがより意識されて、隼人は気を逸らすため深呼吸した。

「いや、そんなことはない……。それより明日も早い。もう寝るぞ」

 柩は、隼人の真意を探るようにこちらをじっと見ていた。が、やがてあきらめたように横になる。

 隼人も彼女に背中を向け、身体からだを横たえた。

「……隼人?」

 親を呼ぶ子のような柩の声がして、彼女の気配がぐっと近づく。

「いまの、いやだったわけじゃないよね……?」

「ああ」

 内心の動揺を悟られないよう、隼人は努めて冷静な声で答えた。

「じゃあ……こうさせていてくれないかな?」

 柩の体温が、背中ごしに伝わってくる。落ち着きかけていた隼人の心臓は、暴れ馬のように激しく脈動を始めた。それどころか、柩は隼人の着物の内側にまで手を潜り込ませてくる。ひんやりとして、それでいてすべすべとして柔らかい手の感触。思わず身を震わせた。

 こうするって……まさか、まさかッ。

 意識から遠ざけようとしてきた劣情に、再び火がともる。隼人は息を飲み、早鳴る心臓の鼓動を鎮めようと精神を集中させた。

「手、冷たかった? ごめん。でもなんだかこうして肌を触れ合わせていると、満たされる気がするんだ。お願いだから、少しだけこうさせてて」

 しかし、柩の声から性的ななまめかしさは一切感じない。そのことに、隼人は奇妙な安心感を覚えた。柩のてのひらが触れている部分が、じんわりと温かくなってくる。そのぬくもりは決して不快ではなかった。

「うん、安心する……よく眠れそう……」

 柩が密着してくる。それは子犬が母犬から暖を取るように自然な仕草だった。素肌に直接押しつけられる膨らみの弾力から必死に意識を逸らしていると、柩の安らかな寝息が聞こえてきた。その寝息の健やかさに、自分へ向けられる絶対的な信頼を感じてしまう。

 隼人もまた、次第に心地よい眠りに落ちていった。

          


 隼人はやとは、夢を見ていた。

 まず感じたのは、暗さと息苦しさだった。

 外界と完全に遮断された、巨大な箱のような場所。猛烈なへいそくかんの中で、真っ先に連想したのは、かんおけの中だった。

 ──そうか、これは。

 隼人は理解した。これはおそらくひつぎの記憶だ。先ほど彼女の血を摂取したことが関係しているのかもしれない。

 この中では、すべてがあいまいだ。過ぎていく時間、情報、そして多くの人々。印象的なものは何一つなく、混ざり合って融けていく。

 ──まだかくせいしないのか?

 ──××の血との相性に問題があるのか?

 ──だが、成功させねばならん。これは我らの悲願なのだから。

 時たま耳につく会話は、幼子の行く末を案じる親類たちのそれのようにも聞こえる。敵意はないものの、柩個人をおもんぱかって交わされているものではないようだ。もっと無味乾燥な、いわば人格などない工芸品や被造物にでも向けたような会話。

 そんな変化のない停滞した時間だけが、無限に思われるほど繰り返し流れ……。

 いきなり、暗い世界に白くまぶしい光が差した。

「棺桶のような場所」が外側から開かれ、誰かが柩をそこから連れ出そうとしている。それが男性であることはわかるが、そのようぼうは逆光に塗りつぶされて見ることができない。柩に対する害意がないことだけは伝わってきた。

 その男は、こう言った。

 ──おまんはどこにでも行けるし、何にでもなれる。

 ──それを自分自身で決められるのが、本当の人間ちゅうものぜよ。

 ──この世の姿を見てみい。生きた人間に触れてみい。感じたままに泣いて、笑ってみせい。そうやっていてもがいて、お前自身が何者であるのかをだしていくんじゃ。

 ──そしていつか、お前が思い描いたお前になれ。

 その言葉は、柩の記憶に触れている隼人の心をも揺さぶる。その感情の強さは、柩が初めて人格を持つ人間として語りかけられた言葉であったせいだろうか。

 隼人が男の顔を認識しようとしているうちに、意識は次第に夢の中に溶けていった……。


          


 翌朝。血を交換し合ったせいか、隼人はやとの体調はすこぶる良くなっていた。転化して以降付きまとったひどい眠気は消え、全身に力がみなぎっているのを感じた。隼人は身支度を整えながらひつぎに問う。

「昨夜、柩の言っていた『かんおけのような場所』の夢を見たよ。たぶん、血を飲んだせいだと思うが……柩をあそこから連れ出した、男がいたな?」

 柩は朝からなぜか若干不機嫌なようだったが、隼人の言葉にうなずく。

「うん。時が来れば、あの人はわたしの前にもう一度現れると言ったんだ」

 隼人はその言葉を油断なく受け止める。その意図が不明であったからだ。ただ男の正体が誰であるにせよ、もし敵であればり捨てる準備があった。

「その前に言われたこと……わたしが思い描いたわたしになれ、とかの意味はよくわからなかったんだけど。でもなぜかあの戦場で隼人に出って、思ったんだ。この人となら、それがわかるかもって」

 柩のまっすぐな視線に射抜かれて、隼人はなぜか照れ臭くなった。

「思い描いた、自分自身の姿を目指して生きろ……か」

 隼人は男が口にした言葉をはんすうする。そこには消化しきれないなぞが残った。なぜその男が柩にそう告げ、どことも知れぬその場所から彼女を解き放ったのか。

 やはり、その目的が見えてこない。単純に柩の身の上をあわれんだからなのだろうか?

 ほかにも考えるべき問題はある。

「伏見で闘ったあの連中のことなんだが」

 新政府軍の中にありながら本隊とは作戦行動を別にし、柩を追撃するためだけに動いていたとおぼしきさつ藩の者たち。

「奴らは、柩を捕らえるのではなく殺そうとしていた。銀の弾丸まで使用してな」

 隼人は昨日まで、彼らは柩の元いた場所からの追っ手だと思っていた。しかし、柩の記憶から推測するに、「棺桶のような場所」の者たちは柩を何らかの理由で必要としていた様子だった。彼女があそこから逃げ出したことで殺すしかなくなった可能性も否定できないが、まずは彼女を連れ戻そうとするのではないだろうか? しかもよく事情も知らないような薩摩藩士に任せるのも変だと思った。隼人の直感は、一つの可能性を導き出す。

「柩。お前はもしかすると二つ以上の勢力に追われているのかもしれない」

 一つは「棺桶のような場所」に柩を隔離していた者たち。そして、もう一つはそれとは別の思惑で動く、薩摩藩を動かした何者か。

 どちらも正体不明なのは変わりないが、厄介だ。特に後者は襲撃が失敗したことを知り、次なる一手を打ってきていてもおかしくはない。

 さらに気を引き締めて動かねば、と隼人は決意する。が、柩の表情はどうしてか曇ったままだった。

「おい、どうした?」

 ひつぎはむつかしい顔のまま、口を開いて。

「わたしも昨日、たぶん隼人はやとの記憶を見たんだけど……。新選組で隼人の上役だった人……名前は聞き取れなかったけど、その人のことをすごく慕ってたんだね」

 そう言った。新選組での上役という柩の言葉に、隼人の胸の中で懐かしい思いが広がった。

「ああ……そうだな」

 だが、すぐに隼人の思いは苦いものに変わった。今頃、あの人の耳にも隼人が新選組を裏切ったといううわさが届いているだろうか。人間の肉体を捨てて吸血種族になった隼人を、あの人は信じてくれるだろうか。

 不安を打ち消すように、こぶしを無意識に握りしめる。がいとうを目深にかぶりつつ、堂の外へ出た。


          


 朝焼けの中を歩き出した隼人の背中を見つめながら、柩は昨夜見た夢──隼人の記憶をはんすうしていた。

 夢の中で柩は隼人自身になっていた。そのとき隼人が抱いたと思われる感情や思考のすべてが、自分のものに置き換わって感じられた。

 その中で、隼人じぶんはある人物と会話をしていたのを覚えている。


『私が■■だ』

 名乗りの言葉は、隼人よりも頭ふたつは低い位置から聞こえてきた。

 新選組へ入隊して間もなく、配属されたのは一番隊。隊を率いる組長の名を知り、会う前から緊張に身震いしたのを憶えている。

 もちろん、その存在はそれ以前から知っていた。

 ぞろいの新選組において、筆頭を争うほどの天才的な剣客であること。そして年齢が自分と三つしか変わらぬ若さであることも。

 そして、今は懐かしいの屯所……八木源之丞邸の離れで対面した初日。

『なんだ。そんな不思議そうに人の顔をしげしげと』

 ──あっ、いえ。すみません。

『ふん……まあ、言いたいことはわかっているがな』

 そんな反応は慣れっこだとばかりに、■■は冷ややかな笑みを口元に浮かべて。

『寸足らずのちびのうえに、女みたいに生っ白いツラをしているとでも思ったんだろう?』

 図星をかれ隼人じぶんは戸惑う。抱いたたんない印象はまさにその通りではあるのだが、そんな感想を口に出していいはずがない。冷や汗が背中に浮いた。

 じろり、と■■が下から顔をめ上げてきた。見透かすような視線に心臓が凍る。

 まずい。ようやく念願の新選組に入れたと思った矢先、初対面の上役からの第一印象はもしかして最悪なのでは……と隼人じぶんは少し焦りを覚えてしまった。

『ふっ……ははははッ。口だけじゃなく、顔でさえうそのつけない男のようだな。侍の世界も、今日びは世渡りが何より大事だという。それじゃロクに出世もできんぞ?』

 だが。意に反して、■■はさも愉快げに笑い出した。どうやら怒っているのではないらしい。思わずほっとしたが、それもしっかり顔に出てしまっているんだろうか?

『だが……白刃の下をくぐるときには、背中を預けたいのはそういう奴のほうだ』

 そして、小さなこぶしで胸を突かれた。どん、と骨ごたえのある衝撃が心地よく響く。

『気に入ったぞ、まさき隼人はやとだったな。として一人前になるまで、今日から直々に鍛え直してやろう。覚悟しろよ?』

 その宣言通り、けいで隼人は一切の手加減抜きでしぼられた。■■から一本を取り返せたことは、結局ただの一度もないままだった。まさに剣の申し子というべき次元違いの才能に、ただ純粋に魅せられあこがれた。

 ■■に対する憧れの強さは、その秘密を知ることになった後も変わらなかったけれど……憧れの種類が少し変わった気はする。

 もしもこの天才剣士が鳥羽伏見に参戦していれば、戦の結末も変わっていたのだろうか。

 そんなことを思いながら、隼人じぶんの意識は夢の中で泡のごとく形を失い消えていった……


 ──そしてひつぎは、血に残る夢の余韻をはんすうし終え現実へ戻る。

(その人のこと、本当に大切に思って信頼していたんだな……隼人)

 今もきっと会いたいだろうな、と前を歩く隼人の気持ちを想像する。

 なぜか胸に痛みとも呼べない淡いうずきが芽生えるのに、柩はかすかな戸惑いを感じていた。


          


 京の西──後に神戸と呼ばれることになる地の沖合に、新大陸亜米利加アメリカより到着した一隻の蒸気船が停泊していた。その船上に今、一人の日本人武士が乗り込んでいく。

「遠路はるばるご苦労でござる。さつ藩士なかしん、国父しまひさみつの命により推参いたした」

 いかにも薩摩武士らしいひようかんさを漂わせた武士──新兵衛の眼光は、それ自体が触れれば切れる刃物のごとく鋭い。

 当初は異人勢力の排撃論を唱えていた薩摩藩であったが、薩英戦争を機に英国イギリス血族と融和し、倒幕路線に転換した。そして藩の最高権力者たる島津久光は、ヴィクトリア女王を頂点とする英国血族の《洗礼》を受け、その血統内に組み込まれていた。

 しんしまの命を受け、とある客人と行動を共にするようにとやってきたのである。それに対して、新兵衛を出迎えた一人の男が言葉を返した。

「ジェイムズ・バトラー・ヒコックだ。《ワイルド・ビル》とあだで呼んでくれても構わんぜ」

 片端がめくれ上がったニヒルな唇。そこから血族のあかしたるきばのぞいている。たっぷりの口ひげと、灰色のひとみを持ち、目深にかぶったつばの広い黒帽子は男ぶりを感じさせる。だが彼が何者であるのかを最も雄弁に語るのは、その腰のガンベルトにるされたずしりと重たげなリボルバーけんじゆうだった。

 新兵衛は以前にも、この男のうわさを聞いたことがあった。

荒ぶる嘴ワイルド・ビル》ヒコック。

 その半生は、暴力とさつりくによって織り上げられたタピストリーにも似ている。

 米国アメリカの南北戦争において、優秀な狩人──殺戮者として活躍した拳銃使い。その手にかかったしかばねの山は百人を超すという。

 逸話は往々にして誇張されるものだが、本人を目の前にするとこの話はあながち真実なのかもしれないと新兵衛は思った。ヒコックはすましているが、その灰色の目の奥には狩りと殺しに対する隠せぬ欲望の炎がちらついている。新兵衛はけいべつの念を表に見せぬように言う。

さつの同胞が不覚を取り、標的は既に逃亡した。京から東に向かっているとの報を入手している」

「了解だ。むしろ日本のサムライごときが一発で仕留められるなんて期待してなかったんでね。俺たちに任せてくれ」

 サムライごとき、という言葉に新兵衛の頭に血が上る。命令でなければ今すぐにでもたたってやりたいが、ぐっとこらえた。

 この新大陸からの客人は、本来なら新兵衛ら薩摩藩士が果たすべき任務──英国イギリス公使パークスからの依頼により下された主命を支援するようへいとして呼ばれていた。パークスではなく、藩の最高権力者たる島津ひさみつが、事の万全を期するため自らの判断で手配したものだ。

 久光がそうした理由は、言うまでもなく伏見において薩摩の刺客たちが標的を仕損じ、その逃亡を許したためである。無論、新兵衛としても事情はわきまえてはいる。しかし、薩摩武士の実力を侮られたというふんまんを感じずにはいられない。

「ところで、俺たちの雇い主、シマヅの殿様は元気か?」

「ああ……。不老不死を手に入れられた今や、ますますご壮健そのものだ」

 ヒコックが口の端をさらに大きくゆがませ、のようにわらう。灰色の瞳には、こちらの内心を見透かすような悪意が見えた。

「不老不死? 笑わせないでくれよ。……ああ、あんたら日本人は全員が皆まだ成りたてだったな。なら、血族についてよく知らなくても無理はない。俺が簡単に教えてやるから、無知な同胞に伝えてやってくれ」

 ヒコックの、こちらをめ腐った物言いに言い返そうとするが、その前にヒコックが畳み掛けるように語り始める。

「俺たちは、だいたい転化して百年を越えたあたりでようやく一人前になる。つまり、吸血によって自分のけんぞくを創れるようになるわけだ……で、さらにそこから百年二百年と生きた辺りで、一種のふるいにかけられる」

「篩……とは?」

「それ以上の永遠を生きる資格を問われる試練だ。血族として頑強になった身体からだでも、不老不死ではない。再生できない負荷がかかると《聖別》が訪れる。《聖別》に耐えられなければ、直ちに灰となって滅びちまう。つまりは永遠の死だ。しかも、耐えられるのは四割にも満たない。このおかげで血族の人口はバカみたいに増えずに保たれているわけだが。まあ、あんたの主君も《聖別》に耐えられなければ死んじまうぜ」

 しんは、ヒコックからもたらされた情報に驚きを隠せなかった。転化した日本人のどのくらいが、このことを知っているのだろう。

「その《聖別》はどうやって生き残るのだ?」

 そして新兵衛の主君もまた、その死の選別を免れえないということでもある。焦りをみ殺しながら新兵衛は問う。ヒコックはそんな反応を愉しむかのように、悠然とした仕草でかんぱんにあるに長い足を組んで腰掛けた。

「《聖別》の先まで生き延びる奴には、命よりも大事な、生きる理由が必要だ。肉体と精神のきようじんさも。それでも多くが死ぬ。まさに試練と呼ぶほかにはないが、それをくぐり抜けた者は相応の報奨も手にすることができるぜ」

「それは、なんだ?」

「血族は、より永く生きることで真の不死者と呼ぶべき存在に到る道へ入る。それこそ、昔話の怪物のようにな。果ては、灰やちりからでも復活するという次元違いの不死身性まで持つ者もいたそうだが……流石さすがにそこまでは現実に見たことはない。《聖別》を経ての一番の変化は、自分の《墓碑銘エピタフ》が魂に刻まれることだ」

「《墓碑銘》……? それはなんだ」

「さしずめ魔法や妖術のようなものだな。誰も見たことがないような超常現象を起こす力さ」

 新兵衛はせんりつを覚えた。ただでさえ超人的な力を有する吸血鬼が、更に得体の知れぬ術をも使うとなれば脅威でしかない。

「そう……不死なる者が己の死を知るという矛盾。己を葬る覚悟と向き合い、死を乗り越え生きる決意を持った者だけが、自分の魂に刻まれたその真理を知ることができる。一人に一つ──だから、顕われる現象はその使い手によって全く違うものになる」

 ヒコックは左手の甲を新兵衛に見せた。そこには、深紅の色を帯びた十字の紋章が浮かび上がっている。

「これがその発現のあかし、血族の象徴である十字の聖痕だ。《墓碑銘エピタフ》によって血に宿された力は、世の条理さえじ曲げるのさ。もちろんこの俺も、自分自身の《墓碑銘》を持っている」

「……なるほど。『がくれ』のようなものか」

 しんも知る武家社会に伝わる古典。そこに記された一節、「武士道とは死ぬことと見つけたり」──すなわち自身の生死を超えた境地に達してこそ、真に偉大なことが為せるという思想にもそれは似ている。

「今回俺が組む相棒も、《聖別》をくぐり抜けた古強者せんぱいだ。なんと言っても、欧州に本物の騎士がいた時代からの生き残りだからな」

 ヒコックは新兵衛を船倉へと案内した。

 薄暗く湿ったその場所には、なんともいんうつな気が充満していた。

 それは一切の日光が入り込まない暗所であるというだけでなく……くらやみの一部と化したかのように、そこに立つ一人の男が醸し出す気配にも一因があると言えただろう。

 寒気をもよおすような金属のきしみ音が、その男の右ひじから鳴る。それは鋼鉄で造られた義手であった。

「ゴットフリート・フォン・ベルリッヒンゲン──《鉄腕ゲッツ》とも呼ばれておる。理由は、ご覧の通りというところ。どんな男かであるのかは……まあ、おいおいわかることにもなろうて。ワシと仕事を共にすればの」

 ベルリッヒンゲンと名乗った巨漢は、その義手の軋みによく似て耳障りな声でそう告げる。

 その顔には、すさまじい古傷が縦横に刻まれていた。かいめんぼうゆがめ、獣がのどを鳴らすようなわらいをらす。つかの間、濃密な血の臭いが新兵衛の鼻先をかすめたような気がした。

「よろしくお頼み申す」

 戦一筋に生きてきた古豪──との印象を、新兵衛はベルリッヒンゲンの隠しようもなくにじみ出る残虐性から受けていた。

 だが、我が国のいにしえ……戦国の世にも、このような男は掃いて捨てるほどいたことだろう。

 戦場とはとどのつまり、暴力と獣性が一極的に支配する世界。そこでは残忍さこそが美徳であり、慈悲や寛容は無用のものとされる。そこが、自分たち日本の武士とは相いれぬ部分であると新兵衛は感じていた。たとえさつりくが戦の本質であるとしても、その上で高潔な人間性を忘れない在り方が武士道だ。野蛮なだけの獣とは断じて違う。ベルリッヒンゲンに比べれば紳士的に見えるヒコックも、一皮むけば同じ人種であると思っていた。

 となれば、そんな男たちに狙われる標的──件の娘の命運は、既に確定したも同然か。

(しかし、女をるか……およそ、侍の誉れやいさおとは程遠い仕事よ)

 じくたるその思いを、秘めた内心のみでもてあそぶ。

 無論、侍とは主命に従うものである。この期に及んで実行を躊躇ためらうといった優柔さは持たないが、士気が上がるかと言えばまた別だ。京洛で暗殺に明け暮れた時代も、女を手にかけたことだけはない。

「ヒコック殿」

「なんだい」

「今ひとつご教示願いたい。例の娘の血統とは、それほどまでにして狩り滅ぼさねばならぬ対象なのか?」

 任務遂行に当たってより完全を求めるため、しんはヒコックに問いかける。

英国イギリス公使パークスからのさつ藩に下された使命の内容は、決して事をおおやけにせぬということ、標的の正体が発覚する恐れを極力排除した上で密かに暗殺するということがようていであった……ユダ氏族の生き残りである、件の娘をな」

 二千年前に、《真祖》から洗礼を受けた最初の十二人の吸血種。それを始祖とする血統に、血族は分かたれているという。すなわち──

 ペテロ氏族。

 大ヤコブ氏族。

 ヨハネ氏族。

 アンデレ氏族。

 フィリポ氏族。

 バルトロマイ氏族。

 マタイ氏族。

 トマス氏族。

 小ヤコブ氏族。

 タダイ氏族。

 シモン氏族。

 そして──ユダ氏族。

「この十二氏族の内、ユダ氏族だけは存在してはならない血統として他の十一氏族から徹底的に抹殺され尽くしたとも聞いている」

「その通りだ。で、その理由は知っているのかい?」

 新兵衛は首を横に振った。それに対してヒコックが答える。

「かつて、血族の神たる《真祖》を殺した男の血統だからっていうことだ。それが何を意味するのかは、血族おれたちの生態を知っていればわかるはずだ。たとえほんの一代の違いであっても、自分の血統の上にいる者には決して逆らえない。普通はな」

 すべての血族には、《血の縛り》が存在している、とヒコックは念を押すように語った。すなわち、血統における下位の者は上位の者の命令にあらがえず、危害を加えることもできないという吸血種族特有の法則を。このため古い世代にさかのぼるほど権力はばんじやくとなり、国家の支配体制も揺らぐことはない。だが──

「ユダ氏族の血統のみは、《血の縛り》を逸脱している。だからこそ上位者である《真祖》殺しも可能になったということなのさ」

 それを知ったしんは絶句し、ヒコックの言葉にただ耳を傾け続けた。

《血の縛り》に基づく上位下位の絶対性は、血族世界における根幹を成す背骨とも言うべき概念だ。それを否定する存在など、血族それ自体を滅ぼしかねない異分子であり致命の病原菌にも等しい。その新兵衛のを読んだかのように、傍らのベルリッヒンゲンが声を発した。

「だからこそ権力者は、その生き残りがいれば殺す。根絶やす。いつでも自分の寝首をける存在など、恐怖の対象でしかないからな……」

 そこでふと、煙草たばこをくゆらせるヒコックの皮肉げな笑みが新兵衛の神経に障った。

「ただし、事はそれほど単純でもないのさ」

 新兵衛の予感を裏付けるかのように、ヒコックが口を開いた。

「なんだと? まだ何かあるのか」

「確かに、ユダ氏族は数を減らしちゃいるだろう。けれど、出自を偽って他の血統に潜り込んでいる生き残りも多いらしいぜ。それに、わかっていてかくまう他氏族の者もそれなりにいるようだからな」

「馬鹿な。そんなことをすれば、みすみす身を滅ぼすようなものではないか」

 当然とも言うべき新兵衛の疑問を、しかしヒコックは一笑に付した。

「たとえばある男にとって、《血の縛り》が不都合だったとしたならどうする? 血統の上につっかえている邪魔な上位者がいる。けれど自分じゃ絶対に手が出せないとしたら」

「まさか……ではそのために、過去ユダの血を引く者たちを使ったというのか?」

 自血統の上位者を排除するための殺し屋──ひとりとして、ユダの血族を利用する。一方では血族全体の敵として排除しながら、それは大いなる矛盾だった。

「なにせ可能であれば、血統の長を殺ることさえできるんだからな。実際、そんな裏の手を使って動いた歴史は多々あるだろうぜ。俺の祖国……米国アメリカの独立も含めてな」

 血族世界における、あらゆる負の矛盾を背負う裏切りの血統。それが今も健在というのは、新兵衛にとっても意外な事実だったが……

「しかし、だとしても……いや」

 なお残るなぞについての疑問を、新兵衛は口にしていく。

「そうであればなおのこと、わざわざたった一人の娘だけを狙い暗殺する理由にはなるまい。一人や二人を消し去ったところで、ユダの脅威はもはやどうにもならぬ問題なのであればな」

 そうであればなぜ、そのために英国イギリス血族がさつ藩を動かしたのか。のみならず、なぜ国父であるしまひさみつは万全を期すべく二名のれを米国から召喚したのか。

「まあ、そう考えるのが自然であろうな」

「……何か知っているな?」

 しんは問いを向けるが、ベルリッヒンゲンは答えない。代わってヒコックがうなずく。

「ああ。ただしあくまで、血族世界の裏に流れるうわさや伝説のたぐいだ。それでよければ教えてやってもいいぜ」

 頷く新兵衛に、ヒコックは紫煙と共に言葉を継ぐ。

「血族の神──《真祖》を殺したがために、ユダ氏族は他の氏族によって滅ぼされる運命になった。だからユダは自らが殺した神の代わりを欲し、新たに創ろうとしている。自らを救う神をな。その新しい神は《真祖》と同じ力を持ち、他の十一氏族を《血の縛り》によって支配することができる。ユダの血統を最上位としてな。それによって、ユダはようやく裏切りと神殺しの宿命から逃れることができる……と、いうものだ」

「自らが殺した神の代わりを創るだと? そんなことが可能だというのか……?」

 新兵衛はうつむきつつ沈思していたが、あることに気づき顔を上げる。

「ではまさか、その企てに件の娘が関わっていると?」

「さあな。あくまで噂と言っただろう。もう百年以上まことしやかに裏で流れているが、本当のところは誰も知らんよ……だが、こうして英国イギリスが動いたのは事実だ。その娘の存在が、何らかの価値や秘密を持つことだけは間違いないといったところだろうな」

 ヒコックは、傍らで酒瓶をあおるベルリッヒンゲンに話を向けた。

「なあ、あんたはどう思う?」

 ベルリッヒンゲンは、さほど感心もなさそうに低いうなり声をらす。

「どこの誰が神になろうが、世に戦が無くなることだけはあるまいて。ならば、ワシにとってはどうでもいいよ……フックク」

「なるほど。《鉄腕ゲッツ》らしい感想ではあるな」

 新兵衛は二人のやり取りを横目にしつつ、内心ではそれなりの納得を得ていた。

 自分たちが追うユダ氏族の少女とやらにも、どうやら狙われるべき──そして死ぬべき明確な理由があるらしい。少なくとも英国血族の権力者にとっては。

 だが、新兵衛はあくまで血族のらちがいにある人間。守り優先すべきは、ただ主君たるしま家の下命だけだ。主君が望むのであれば、何者だろうとただこの孤剣をもってり捨てればいい。これまで幾度もそうしてきたように。たとえ相手が不死の血族であろうと、恐れもまた新兵衛は感じない。人間より素早く力強い? そんなものなら、おおかみや猪とも変わらぬだろう。さつげんりゆう、その剣の秘奥を前にしては敵にあらずと新兵衛は自負する。

 かんぱんを震わす蒸気機関の唸りを足下に感じながら、幕末の人斬りは密かにそう己に誓いを立てた。


          


 鳥羽伏見の戦いで大敗を喫した幕府方は、多数の負傷者を出すことになった。

 それらの多くは淀城の南、宇治川のほとりに建つ長円寺に運び込まれていた。

 さながら地獄絵図の様を呈する寺のけいだいには、傷と敗戦の痛みに苦しむ将兵のうめき声が満ちている。また力尽きた死者たちのむくろも並び、線香の匂いでも隠せぬ死臭が漂っていた。

 その中には、動けぬほどの重傷を負い脱落した新選組隊士たちの姿もあった。先の戦いで、おおかみうたわれた精鋭軍団は、実に全体の三割にものぼる戦力を失っている。

 戦に遅れること数日。その長円寺の境内を訪れたのは、一番隊組長・おきそうの姿だった。

 沖田は鳥羽伏見の戦いには参戦していない。公務による局長・こんどうの大坂行きに護衛として帯同していたためである。その近藤は、大坂へ撤退してきた副長・ひじかた率いる新選組本隊と共に、既に江戸へと幕府の船で向かっていた。

 沖田が単身で長円寺を訪れたのは、ある使命を受けてのことだ。

 あの戦いで起こったという、とある隊士の裏切りの事実を確かめるために。

「……やはり、私には信じられん」

 沖田にその事実を伝えた隊士は、もはや虫の息であった。それゆえに、その言葉が虚偽であるとは思えず……沖田の秀麗なもくは、耐えがたい真実の重みにゆがんだ。

「あの隼人はやとが、新選組を裏切った──など」

「間違いありません……とう参謀に、とうどうさんも……確かにそう言っておりました……ッ」

 伊東ろうは言うまでもなく新選組参謀職にある重鎮であり、八番隊組長である藤堂へいすけとは江戸以来の同じ釜の飯を食った仲間。その言葉を疑うことは、沖田にも容易にできかねる。

「沖田さん……無念です。どうか、我らを裏切ったまさき隼人に……裁きをッ」

 沖田の手を握りしめながら、その隊士は息を引き取った。

 悲痛に歪んだ死に顔にもくとうを捧げると、沖田は無言で腰を上げる──受けた使命、すなわち脱走した裏切り者・柾隼人追討の任務を果たすために。

「沖田さん、私も歩けるようになり次第同行します!」

「俺もだ! 柾の裏切りのために、井上さんたちは……畜生ッ」

 負傷兵たちが、傷の痛みを押して口々に無念を叫ぶ。

「無用だ。おまえたちは養生に専念しろ」

「しかし──」

「くどい。裏切りの事実が確かであれば、すぐにでも逃げた隼人の後を追う必要があるだろう。おまえたちの回復を待っている暇などはない」

 遮るように言い放たれた語気は鋭く、また正論でもあった。一切の反論を許さず、沖田は寺の境内を後にする。その足取りは速い。

 長円寺に、隼人の骸は運び込まれていなかった。

 となれば存命しており、なおかつ隊には帰らずどこかへ去った可能性が高い。事実、戦場を立ち去る隼人はやとの姿を目撃したという生存者もいる。

 命令を受けたおきが大坂から京へ戻る際、江戸行きの幕船に乗るとうろうこんどうと話していた言葉を思い出す。

『──沖田君にとっては厳しい任務になりますな。それを承知で彼に命じたのなら、あなたも残酷な方だ、近藤さん』

 裏切り者が隼人という報告を近藤にもたらしたのは、その伊東だ。沖田はそれを聞かされたとき、まず信じられないという思いで一杯だった。もし近藤に命じられなかったなら、自分から隼人を追う役を買って出るつもりだった。だが沖田の思いも虚しく、伊東の報告は信憑性を増すばかり。焦燥に、沖田の足はなお早まる。

「なぜだ……」

 潔白ならば、なぜ復隊せず逃げるようなをした?

 理由があるならば、なぜこの自分にだけでも打ち明けようとしなかった?

 唇をみしめる沖田そうの脳裏には、隼人に対する不可解が焦りと共に渦巻いていた。


 追う者──追われる者──そしてまた追う者。

 入り乱れる思惑はこんとんまんを描きながらも、着実に流れを次なる局面へと移してゆく。

 渦中にある者たちは、誰もがまだその運命を知らぬままに。