一八五三年──時は
その事件こそが、日本列島を激動の渦に巻き込む端緒となったことに疑いはない。
圧倒的な航海技術、成熟した近代文明、そして
米国が
これにより、徳川幕府──そして日本という国は、《彼ら》に突きつけられた要求を受け入れざるをえなくなった。《彼ら》──すなわち西洋の異人たちの支配階層、不夜の血族と呼ばれる不老不死の吸血種族である。
* * *
「
「……すまん。寝入っていたな」
京都・伏見から街道沿いに進んで、早三日。道中の宿場町で食糧などを調達しつつ、人目を避けて進む旅が続いている。隼人と柩は今夜、寂れた寺の堂で雨風をしのぐことにした。
いかにも異人然とした柩の髪や
「いや、しょうがないよ。わたしもよくは知らないけど、転化したばかりは
柩にそう言われて、あらためて隼人は自分の身体に意識を向ける。伏見の戦いで負った傷は、すべて何事もなかったかのように完治していた。そればかりではない。すべての五感が研ぎ澄まされたようで、身体も驚くほど軽く感じる。
吸血種族とはこういうものなのかと柩に問うたが、彼女は転化前の記憶がないようでこの変化が普通なのかもよくわからないようだった。
「ただ、わたしたちは不死身に近いかもしれないけど、死なないっていうわけじゃないことだけはわかるよ」
柩がそう言ったのは、実際に自分が殺されかけたり敵の命を奪ったりした経験からだと思われた。
「銀で受けた傷は治りにくいし、その弾丸で心臓を撃たれたら一発で死んでしまうのは確かみたいだね。あと、杭みたいなもので貫かれて傷が
死ぬのか、という隼人の確認に柩は「たぶん」と
隼人の変化は他にもある。まず、犬歯が異様なほどに発達した。瞳の色は変わらなかったが、気持ちが
それらは、新選組にいたときに風聞で聞いた吸血鬼の特徴に違わないものだった。
だがしかし、その
「
その様は隼人にも
一方で自分は、人間であった頃とは異なり食べ物に関心が薄くなっていた。代わりに、なぜか異様な欲を感じるものがある。それは──。
柩の首元から、えもいわれぬ芳香が漂ってくる。胸が一杯になり、不穏な気持ちが
女に対するこのような劣情は、剣術一筋に生きてきた隼人には縁遠かった
「? なに? どうしたの?」
柩が驚いて隼人を見た。隼人はなんとか
「柩こそ、連日こんな野宿で大丈夫か? 風呂にも入りたいだろう?」
伏見を出てすぐ、大きめの宿場に入り込み情報を探った。そこで隼人は、自分が新選組を裏切った張本人という
死んだと思われているうちはいいが、死体が見つからなかったことで必ずや新選組からも追っ手がくるだろう。その前に江戸へ着かねばならない。そしてなんとしてでも
その一念を貫くのみならず、柩を
もちろん柩には事情を話している。だがそれでも、「隼人の行くところに付いていく」と彼女は答えた。
「あ! もしかして、隼人わたしのこと臭いって思ってる?」
柩が自分の臭いを
「い、いや! まさか!」
柩も見た目から推測するに年頃の娘だ。傷つけてしまったかと隼人は慌てて否定する。侍を目指した頃から
と、いきなり柩が鼻を隼人に近づけ、臭いを嗅いでくる。近くで見る整った顔立ちや
「んん?
彼女に名前を問うたとき、「柩」と返ってきた。そのためそれが名前なのかと思っていたが、そうではないらしい。彼女がはっきり覚えているのが、
そこにはたくさんの人間あるいは吸血種族がいたようだが、時おり意識が浮上するだけで彼らと話すことはできなかったらしい。眠りと夢うつつの往復が、無限に思えるほど繰り返された。実際の時間がどうであったかは定かでないにせよ、孤独を感じるには充分長すぎる時間だっただろう。
柩は眠っている間、おそらくは彼女を保護している者たちから生命維持のために血を与えられ続けてきた。すると不思議なことに、その血を介して誰かの記憶や様々な情報が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。この世界のことや、そこに生きる人々のこと。言葉や知識も、そうやって柩の中に蓄えられていったのだという。
ただしそれらは一方的に与えられた断片であり、彼女自身が経験によって獲得したものではない。ただ閲覧できる見本のようなものだ。知識はあっても言動すべてが浮世離れしているのは、そのせいだろう。
あらためて考えてみるに、彼女については何から何までおかしなことばかりだ。
言うまでもなく、見た目は異人そのもの。しかし、口にするのは日の本の言葉。しかも、無理に学習したようなたどたどしさがない。となると……異人であり血族ではあるが、この国の環境下で育ったという可能性も考えられる。つまり、彼女の言う「棺桶のような場所」も日本のどこかにあるのかもしれないのだ。
そうして、最も重要なのが「なぜ柩は官軍に追われているか」ということだ。
隼人は伏見を発ってすぐに、その質問を柩に投げかけた。それに対し、柩は「ある男」が彼女を「棺桶のような場所」から解き放ったのだと答えた。追っ手の薩摩藩士を撃った銃も、その男から預かったと。しかし、それ以上のことを聞こうとしても無駄だった。柩は必死に答えようとはしてくれるのだが、記憶が
柩の
異国でもきっと高級品だろう。まして、この国でこれを持つような人間となるとおよそ見当もつかない。幕閣の要人、それも外国との
ふと、首筋に痛みが走る。そこには
「なあ、柩。あらためて
「……だと思う。ごめん」
柩はまるで怒られた子供のように声を潜めて言う。
あの日、隼人が意識を失った後、柩は首筋を
「責めているわけじゃない。ただ確認しておきたかっただけだ……。その、柩は……あの日以来、血を吸っていないだろ? 食べ物は食べているが。それで大丈夫なのか?」
柩は、その質問に対し複雑な表情を見せた。
「実は……まだ隼人に言ってなかったことがあるんだけど」
柩の
「吸血種族も人間も身体の造りは同じだから、普通の食べ物からも栄養を摂ることはできる。でも、それだけじゃ駄目なんだ。血を摂らないと、体力とは違う目に見えない命の根源みたいなものが弱っていくみたい。で、ここからが本題なんだけど……」
柩は一度言葉を切ると、意味ありげな視線でこちらを見つめた。そして柩の顔が隼人に迫る。その吐息が唇にかかるのを感じた。
「……わたしの血を飲んでみる?」
隼人の心臓は、その言葉を待っていたかのように跳ねる。
「同じ血族同士でも、互いの血を摂り合うことで少しは命の力を補充することができるみたいなんだ。それに……わたし、最初に隼人の血を飲んだとき、ほんの少しわかった気がしたんだ。隼人の悔しい思いとか、決意とかが……」
だからもし隼人さえよかったら、と柩は目を伏せて少し自信なさそうに言う。それは初めての行為を恥じらう生娘のようにも見えた。その銀に輝く
だがしかし、柩の傷一つない白い首筋に牙を突き立てる自分を想像しただけで
隼人の戸惑いを感じ取ったのか、柩は慌てて言う。
「ほんの少しで大丈夫だと思う……ほら、これくらいの」
「あ、ああ……」
隼人は柩の手を取ると、その人差し指の先を口に含んだ。舌の上に、奥深い血の味が広がる。脳髄に快い
対する柩も、とろんと夢心地めいた
そうしておもむろに隼人の手を取ると、先ほどと同じ要領で指先を傷つける。柩の