弐ノ章 追う者、追われる者



 一八五三年──時はしん戦争の開幕から十五年をさかのぼる。

 米国アメリカ軍籍を持つ四隻の巨大な蒸気艦船、すなわち『黒船』が浦賀沖に来航。船団を指揮する東印度艦隊司令代将マシュー・カルブレイス・ペリーは、徳川幕府に対して開国の要求を突きつけた。

 その事件こそが、日本列島を激動の渦に巻き込む端緒となったことに疑いはない。

 圧倒的な航海技術、成熟した近代文明、そして数多あまたの民族を屈服させてきた武力……そのすべてが日本人を圧倒したことも。

 米国がせんべんをつけたその矢先、英国イギリス仏国フランス、そして古くより日本に営々とつながりを築いてきた蘭国オランダといった新旧の列強国もまた我先にと乗り出してきた。

 これにより、徳川幕府──そして日本という国は、《彼ら》に突きつけられた要求を受け入れざるをえなくなった。《彼ら》──すなわち西洋の異人たちの支配階層、不夜の血族と呼ばれる不老不死の吸血種族である。


          


隼人はやと、体調はどう?」

 ひつぎの声で隼人は目を覚ます。辺りはもう、日が暮れかかっていた。

「……すまん。寝入っていたな」

 京都・伏見から街道沿いに進んで、早三日。道中の宿場町で食糧などを調達しつつ、人目を避けて進む旅が続いている。隼人と柩は今夜、寂れた寺の堂で雨風をしのぐことにした。

 いかにも異人然とした柩の髪やひとみの色は人目につく。顔が隠れる大きさの編笠を調達したものの、それだけでは心もとない。

「いや、しょうがないよ。わたしもよくは知らないけど、転化したばかりは身体からだもだるくて、睡眠もたくさん必要みたいだから」

 柩にそう言われて、あらためて隼人は自分の身体に意識を向ける。伏見の戦いで負った傷は、すべて何事もなかったかのように完治していた。そればかりではない。すべての五感が研ぎ澄まされたようで、身体も驚くほど軽く感じる。

 吸血種族とはこういうものなのかと柩に問うたが、彼女は転化前の記憶がないようでこの変化が普通なのかもよくわからないようだった。

「ただ、わたしたちは不死身に近いかもしれないけど、死なないっていうわけじゃないことだけはわかるよ」

 柩がそう言ったのは、実際に自分が殺されかけたり敵の命を奪ったりした経験からだと思われた。

「銀で受けた傷は治りにくいし、その弾丸で心臓を撃たれたら一発で死んでしまうのは確かみたいだね。あと、杭みたいなもので貫かれて傷がふさがらない内に、たくさんの血が流れ出てしまっても……」

 死ぬのか、という隼人の確認に柩は「たぶん」とうなずく。隼人はあらためて自分の肉体に意識を向けた。

 隼人の変化は他にもある。まず、犬歯が異様なほどに発達した。瞳の色は変わらなかったが、気持ちがたかぶったりすると薄ぼんやりと赤く発光することも知った。筋肉も構造そのものが変化したかのように、力がかなり強くなったように感じた。

 それらは、新選組にいたときに風聞で聞いた吸血鬼の特徴に違わないものだった。

 だがしかし、そのうわさには単なる迷信がいくつか含まれていることも知った。まず、吸血種族は十字架も信仰もニンニクも恐れないし、流れる水の上も渡ることができる(まあ、海を渡って黒船がやってきた時点でこの迷信は否定されてしかるべきだが)。日光の下も歩けるし、招かれざる他人の家にも押し入ることができる。そして処女の命を奪って吸血せずとも、生き延びることはできる。つまり、普通の食事からも栄養を補給することができるのだ。

隼人はやと、これ食べる?」

 ひつぎは、町外れの露店で買った蒸しまんじゆうを半分に割ってこちらに差し出してきた。だが、隼人は笑って断る。柩は初めて出った日に交わした会話の通り、とある場所から逃げ出してきたらしく、その前はずっとそこに幽閉されていたらしい。人里に出るのは初めてのことだとも。逃亡中であるにもかかわらず、彼女は目に映るすべてのものに興味津々だった。

 その様は隼人にもほほましく映った。つい先を急ぐ道中ではあったが、なけなしの路銀をたたいて柩が興味を示したもの(饅頭や団子など)を買い与えていた。

 一方で自分は、人間であった頃とは異なり食べ物に関心が薄くなっていた。代わりに、なぜか異様な欲を感じるものがある。それは──。

 柩の首元から、えもいわれぬ芳香が漂ってくる。胸が一杯になり、不穏な気持ちがき上がってきた。

 女に対するこのような劣情は、剣術一筋に生きてきた隼人には縁遠かったたぐいのものだ。その首筋に舌をわせたくなるような衝動を感じて、隼人は慌てて柩から身を離す。

「? なに? どうしたの?」

 柩が驚いて隼人を見た。隼人はなんとかそうとして話題を振る。

「柩こそ、連日こんな野宿で大丈夫か? 風呂にも入りたいだろう?」

 伏見を出てすぐ、大きめの宿場に入り込み情報を探った。そこで隼人は、自分が新選組を裏切った張本人といううわさが流れていることを知った。血が沸騰するような怒りに襲われたが、なんとかやり過ごした。

 死んだと思われているうちはいいが、死体が見つからなかったことで必ずや新選組からも追っ手がくるだろう。その前に江戸へ着かねばならない。そしてなんとしてでもとうの裏切りを白日の下にさらし、ふくしゆうの一太刀を浴びせてやるのだ。

 その一念を貫くのみならず、柩をまもるという約束もまた果たすつもりではある。しかし自分と行動を共にすることで、彼女をより危険で過酷な道に巻き込んでいるのも事実だ。そのことに、わずかな罪の意識を感じてもいた。

 もちろん柩には事情を話している。だがそれでも、「隼人の行くところに付いていく」と彼女は答えた。さつ兵を撃ち抜いたときと同じ、強い意思を感じさせるひとみで。

「あ! もしかして、隼人わたしのこと臭いって思ってる?」

 柩が自分の臭いをぎながら、憤慨したようにそう言った。

「い、いや! まさか!」

 柩も見た目から推測するに年頃の娘だ。傷つけてしまったかと隼人は慌てて否定する。侍を目指した頃からおなとは触れ合ってこなかったため、どうも苦手なのだ。

 と、いきなり柩が鼻を隼人に近づけ、臭いを嗅いでくる。近くで見る整った顔立ちや身体からだの曲線が意識させられ、鼓動がやにわに速まる。

「んん? 隼人はやとの臭いとそんなに変わらないと思うけど……でもわたし、身体からだかれるだけで、ちゃんとお風呂に入ったことないからよくわからないなあ……」

 ひつぎ曰く、彼女が覚えているのは真っ暗で閉ざされたかんおけのような場所で眠っていたことだけだと言う。

 彼女に名前を問うたとき、「柩」と返ってきた。そのためそれが名前なのかと思っていたが、そうではないらしい。彼女がはっきり覚えているのが、の印象だけだったというのが真相のようだ。

 そこにはたくさんの人間あるいは吸血種族がいたようだが、時おり意識が浮上するだけで彼らと話すことはできなかったらしい。眠りと夢うつつの往復が、無限に思えるほど繰り返された。実際の時間がどうであったかは定かでないにせよ、孤独を感じるには充分長すぎる時間だっただろう。

 柩は眠っている間、おそらくは彼女を保護している者たちから生命維持のために血を与えられ続けてきた。すると不思議なことに、その血を介して誰かの記憶や様々な情報が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。この世界のことや、そこに生きる人々のこと。言葉や知識も、そうやって柩の中に蓄えられていったのだという。

 ただしそれらは一方的に与えられた断片であり、彼女自身が経験によって獲得したものではない。ただ閲覧できる見本のようなものだ。知識はあっても言動すべてが浮世離れしているのは、そのせいだろう。

 あらためて考えてみるに、彼女については何から何までおかしなことばかりだ。

 言うまでもなく、見た目は異人そのもの。しかし、口にするのは日の本の言葉。しかも、無理に学習したようなたどたどしさがない。となると……異人であり血族ではあるが、この国の環境下で育ったという可能性も考えられる。つまり、彼女の言う「棺桶のような場所」も日本のどこかにあるのかもしれないのだ。

 そうして、最も重要なのが「なぜ柩は官軍に追われているか」ということだ。

 さつ・長州の西方雄藩は早くも欧米列強による支配を受け入れ、特に上位の者たちは吸血種族に転化したとのうわさも聞いた。そんな彼らがなぜ、たったひとりの吸血種の少女に執着し、殺そうとするのか。

 隼人は伏見を発ってすぐに、その質問を柩に投げかけた。それに対し、柩は「ある男」が彼女を「棺桶のような場所」から解き放ったのだと答えた。追っ手の薩摩藩士を撃った銃も、その男から預かったと。しかし、それ以上のことを聞こうとしても無駄だった。柩は必死に答えようとはしてくれるのだが、記憶があいまいらしく、結局要領を得た言葉は返ってこないのだ。

 柩のけんじゆうを借りて検分してみたが、それはおよそお目にかかったことのない新型銃だった。火薬と弾丸と雷管すべてが封入された、金属製の薬莢カードリツジそうてんするだけで発射が可能になっている。

 異国でもきっと高級品だろう。まして、この国でこれを持つような人間となるとおよそ見当もつかない。幕閣の要人、それも外国とのつながりが相当深い人物でもなければ入手は困難だろう。注意深く見てみても、隼人はやとにその出どころがわかるはずもなかった。

 ふと、首筋に痛みが走る。そこにはひつぎに突き立てられたきばあとが残っている。

「なあ、柩。あらためてくが……俺の身体からだは、もう二度と人間に戻ることはないんだな?」

「……だと思う。ごめん」

 柩はまるで怒られた子供のように声を潜めて言う。

 あの日、隼人が意識を失った後、柩は首筋をんで《洗礼》を行なった。それは、吸血種がけんぞくを創造する儀式であるという。血族が人間を吸血し、双方の間で魂の合意が為されたとき、その相手は人間から吸血種へと変容する。どのような神秘がそこに働いているのかは、隼人にもわからないしその瞬間を憶えてもいない。ただ、それが行われたことだけは事実だった。

「責めているわけじゃない。ただ確認しておきたかっただけだ……。その、柩は……あの日以来、血を吸っていないだろ? 食べ物は食べているが。それで大丈夫なのか?」

 柩は、その質問に対し複雑な表情を見せた。

「実は……まだ隼人に言ってなかったことがあるんだけど」

 柩のひとみが怪しく光り、隼人はどきりとする。

「吸血種族も人間も身体の造りは同じだから、普通の食べ物からも栄養を摂ることはできる。でも、それだけじゃ駄目なんだ。血を摂らないと、体力とは違う目に見えない命の根源みたいなものが弱っていくみたい。で、ここからが本題なんだけど……」

 柩は一度言葉を切ると、意味ありげな視線でこちらを見つめた。そして柩の顔が隼人に迫る。その吐息が唇にかかるのを感じた。

「……わたしの血を飲んでみる?」

 隼人の心臓は、その言葉を待っていたかのように跳ねる。

「同じ血族同士でも、互いの血を摂り合うことで少しは命の力を補充することができるみたいなんだ。それに……わたし、最初に隼人の血を飲んだとき、ほんの少しわかった気がしたんだ。隼人の悔しい思いとか、決意とかが……」

 だからもし隼人さえよかったら、と柩は目を伏せて少し自信なさそうに言う。それは初めての行為を恥じらう生娘のようにも見えた。その銀に輝くまつを見て、隼人は今すぐにでもその血を味わいたい衝動に駆られた。

 だがしかし、柩の傷一つない白い首筋に牙を突き立てる自分を想像しただけでおぞが走った。あっという間に傷はふさがるはずだが、それでも隼人は躊躇ためらわざるをえない。

 隼人の戸惑いを感じ取ったのか、柩は慌てて言う。

「ほんの少しで大丈夫だと思う……ほら、これくらいの」

 ひつぎは自分の人差し指を犬歯で傷つけた。ふつふつと赤い真珠のような血の玉が浮き上がってくる。その真紅の色彩に、隼人はやとは心臓をつかまれたかのように魅入られてしまう。

「あ、ああ……」

 隼人は柩の手を取ると、その人差し指の先を口に含んだ。舌の上に、奥深い血の味が広がる。脳髄に快いしびれが訪れる。甘く、ほうじゆんな命の味。夢中になって柩の指を吸う。

 対する柩も、とろんと夢心地めいたひとみで隼人を見つめる。そしてまるで楽しむかのように、その指で隼人の口内の感触を確かめていた。

 そうしておもむろに隼人の手を取ると、先ほどと同じ要領で指先を傷つける。柩のきばで皮膚を切られる痛みは、不思議と不快ではなくむしろ痺れるように甘美だった。あふれ出した隼人の血を、柩が指ごと唇に含んだ。