壱ノ章 双血の盟約ちぎり



 隼人はやとは、ほおに触れる誰かの手の感触に意識を取り戻した。

 冷えた身体からだの重み、そして急激な痛みが襲ってくる。身体には数えきれぬほどの刀傷や銃創が刻まれていた。その中には致命に達する深手も存在している。

「……ここは……」

 目を開く。そこには隼人の頬に触れている人物がいた。それは、どうやら少女のようだ。しかし、血を失いすぎたせいか目の焦点が合わない。視界に映るすべてのものがぼけている。

 冷たくあおざめた銀の光を浴びる、林の中。そこにたたずむきやしやな姿は、ほんの十六、七にも満たないように思えた。中天に輝く月光と同じ色の髪は長く、真夜中の風に吹かれ銀糸のごとくたなびいている。

 自分の衣服に手をやる。肌のみならず、くさりかたびらの上に着込んでいたみずみずしいあさの色の羽織も、今は真っ赤に染まっている。それは、自分の誇りそのものである隊服。

 ───新選組。

 幕末の京に生きる人間ならば、その羽織の意味を知る者は少なくない。おおかみうたわれた幕府方の精鋭戦闘集団・新選組のあかしである。それは隼人が所属していた部隊であり、誇りであり、生きる理由そのものであった。

 つい、先ほどまでは。

 自分は敗れ、そして無残に死のうとしている。

 なぜ? どうして?

 死にかけの鈍い頭に自問する。そして、ひとつの答えを見つける。

 ──一八六八年一月。京・鳥羽および伏見。

 さつ藩・長州藩・土佐藩よりなる西方雄藩連合軍との会戦。徳川幕府方の軍勢は完膚なきまでの大敗を喫した。そう、隼人が属する新選組も。

 無念が隼人の胸のうちをいっぱいにした。しかしなぜかふつふつと怒りがわいてくる。

 焦点の合わないまま、自分の周りに目を向ける。るいるい。この周りの遺体はすべて、自分たち新選組を含む幕府側兵士たちのものだ。

 なぜ? どうして?

 大敗の理由──西洋式の大砲や新式銃といった軍備の差? いや、違う。

 総兵力数の差? それも違う。むしろ数が戦いを決するのなら、勝敗は逆でなければならなかった。

 戦に負けるに至った理由は──。

 ふと、目の前の少女に視界の焦点が合う。

 やみの中で淡く光る、異国の宝石のようなそのひとみろうざいをも思わせる、常人よりも遥かに透き通ったはくせきの肌。

 そして何よりほおずき色の唇奥にのぞく、やけに鋭い糸切り歯──いや、を。

吸血鬼……!」

 黒船と共に到来し、この国を変えようとしている西洋の異人種──彼らの支配階級である、人外の怪物ともいうべき超人類。その存在こそ、この戦いで幕府軍が大敗した原因だ。

 西洋では王族や政治家、軍部の上層といった社会を支配する階層をほぼこの吸血種族が占め、人間を家畜か奴隷のように扱っていると隼人はやとは聞いていた。

 吸血鬼たちは世界に進出する文明を築くや、本来の生存圏である西洋に飽き足らず東洋にまでその食指を伸ばした。広大な大陸を支配するあの清国までもが、完全に奴らの支配下に置かれてしまったのはまだ記憶に新しい。

 日本ではさつや長州がその支配下に入ったと聞いていたが、それでもまだ徳川幕府にはこの恐るべき侵略者に抵抗する力が残っていると隼人は思っていた──こうして奴らと闘うまでは。

 銃弾でがいを撃ち砕かれても、その前進を止めるには至らず。砲撃の爆風で四肢を引きちぎられても、肉体を再構築しながら立ち上がってくる。不死身としか形容できぬそうした異人の兵士たちが、新政府連合軍として投入されたのだ。

 当然のように幕軍は苦戦し戦線は崩壊した。それでも隼人は、闘志を奮い立たせて闘い続けた。闘って、闘って、闘い続け……そして今、こうなっている。

 真正面から激しい憎悪を向けられても、少女はその場から立ち去ろうとはしなかった。まるで、「憎しみ」という感情すら知らないかのように。その透明な視線の前では、どれだけにらもうとぬかに釘を打つも同然だった。

 そうこうしている一秒ごとにも、身体からだに残ったわずかな力は抜け落ちていく。

「く、そ……」

「だ、だいじょうぶ……ですか?」

 敵であるはずの異人の少女は、自分をいたわるような声を出した。差し伸べられるその手を振り払いたいが、それだけの力さえ深手を負ったこの身には残っていない。

「何を……」

 そこでふと、自らが敗戦を喫した理由がまだ別にあるような気がした。そうだ。忘れてはならない。より強い憎しみを向けるべき相手は、他にいる。

 その男の名は──

「新選組参謀……とうろう……!」

 新選組内にあって、こんどういさみひじかたとしぞうに匹敵する才覚と統率力を誇る大幹部。そんな傑物がまさか、戦に乗じはんぎやくきばを同胞たちへ向けるなどと隼人はやとをはじめとして誰が予期できただろう。

 新選組の拠点であった伏見奉行所。鉄壁の守りを固めたはずのその内部に、突如として敵の突入部隊は出現を果たした──幹部であるとうの誘導によって。

 そして、証拠となるその現場を目撃した瞬間。背後からの不意討ちのやいば身体からだを貫いたのだった。

 憶えているのはぞうえぐる鋼の冷たさと、その感触とは裏腹に柔和な笑みをたたえた伊東の顔。そして、あの男はこう言ったのだ。

『こういうめぐり合わせになってしまい、私も実に残念だ、まさき君。私の行動に気づいたのは、君が持つ優秀さのゆえにだろう。だが、皮肉にもそれが君の命取りにもなってしまった。君に落ち度があったとするなら、それはたった一つ──』

 そうして地にした隼人の耳に口を近づけ、ささやいた。

私の味方ではなかったことだ。しかし安心したまえ、君の犠牲は決して無駄にはしない。何から何まで私の役に立ってもらうつもりだ。君の裏切りによって隊は壊滅し、敗走することになったと報告してあげよう。ああ、実に心が痛むよ。誰よりもサムライにあこがれ、サムライになろうとした君が、きようものとして死んでいく無念は計り知れないだろうからね──』

 一言一句として忘れない。あの微笑を含んだ柔らかな声に潜む悪意が、脳髄を怒りで焼き尽くした。

「伊東───! 許せん!」

 鈍い音を立てて、こぶしが泥にめり込む。

 あの憎き男を殺したくて、動けぬまま聞いた仲間たちの絶叫が耳を離れなくて……地に突き立てたままの刀で身体を支え、立ち上がろうとする。

「……っつ!」

 身体の隅々にまで激痛が走るが、そんなものでこの怒りは止まらない。

 敵の誘導と、それに続く自陣内部からのありえない奇襲。それにより分断された新選組は、もはやごうの衆も同然だった。人外の猛威によって惨殺されていく仲間たち。みしめていた奥歯に痛みが走った。

「立たないで……!」

 吸血鬼、あるいは不夜の血族。呼び方こそ数あれど、目の前の少女は間違いなくその種のものだ。この一族が支配する欧米諸国が日本に開国を迫ったことが遠因で、隼人の仲間は命を散らした。なぜその敵であるはずのこの娘は、自分を気遣うようなそぶりを見せるのか。

 憎しみを込めてその少女を再びにらみ付けるが、そこでふと、少女も傷を負い血を流していることに気づいた。彼女の息遣いは荒く、苦痛の気配をそこに感じた。

「お前も、傷を……負って? しかし、そんなもの、おまえたち吸血鬼なら……」

 海の彼方かなたからやってきた吸血種族は、人間ならば致命の外傷でさえ見る間にふさぐ治癒力を持つ。少女が傷を受けてからどれだけ時が流れたかは不明だが、流れる血の色は鮮やかだ。

「これは……わたし、ここまで逃げてくる間に、黒い服の人たちに撃たれて……。その人たちはわたしのこと〝銀〟で撃てって言ってた」

 少女はたどたどしく語る。

「吸血種族には銀は強烈な毒になる」と以前に聞いたことを思い出した。銀は彼らの傷の回復も遅くすると。しかし銀製の刀や弾丸などそうそう簡単に調達できるものでもなく、結果としてその真偽は不明なままだった。

 ──いや。それよりも。

「お前、黒い服の奴らに撃たれたのか? 黒い服ってこういう?」

 身近に倒れている黒い隊服の男の死体を指差した。それは、隼人はやと自身がり倒した相手。つまり、新政府軍の兵を指す。

 少女はその死体に目を向け、うなずいた。

 隼人にとって、吸血鬼とは無条件で「敵」を意味する存在だった。だが、その吸血鬼である少女は、やはり隼人の敵である新政府軍によって撃たれ負傷している。しかも銀の弾丸が使われたということは、少女が吸血鬼であることを敵が把握した上でということになるだろう。

 敵が敵を殺そうとする──その矛盾が、隼人の心にかつてなかった動きを呼び起こしていく。

 幕軍を滅ぼしたたいてんの敵。そのような記号でしかなかった少女は……今や自分の中で、別の何かに変化しようとしていた。

「お前は……何者なんだ……」

 だが──

 隼人の問いを受けた少女は虚をかれたような表情を浮かべる。

「わたし……わからない。何も……」

 あろうことか、少女の表情に深いおびえが浮かんだ。その表情はうそをついたり、そうとしたりしているようには到底思えなかった。

「何も知らない……いや、覚えていないとでもいうのか……?」

 少女のな表情が、不思議なほどに隼人の警戒心を薄れさせていく。

「俺の名は……隼人だ。まさき隼人。京都守護職預り、新選組隊士……」

 自分の名をあらためて口にしたことで、わずかに力を取り戻す。己が何者であり、何をすべきかが次第にはっきりと見えてくる。

 隼人は目の前にいる少女を再び見つめた。吸血鬼──血族ではあっても、傷ついたその姿は討つのではなくまもるべき対象にも思えた。自分でも不思議なことに。

 あるいはその感情は隼人自身ではなく、隼人が目指してきた理想の生き方が命じる声なのかもしれなかった。

「せめて闘うことができれば、おまえをまもってやることもできるんだが……な」

 その内なる声に従うように、隼人はやとは少女にそう告げる。

「護る……? 助けてくれるの?」

 少女の目がほんの少し、明るく輝いたように見える。そして希望に満ちた、しかし不思議そうなまなしを隼人に向けた。

「あなたは、誰かを護って闘うことができるの?」

「信じられないのか? もっとも、俺がここで助かって、動けるようになればの話だが……」

「わたしはずっと、自分のことだけで精一杯だった。今も、自分があなたを助けられるかもしれないなんて考えもしなかった……だから、あなたがすごいと思ったの」

 感嘆したように少女が告げる。本当に、そんな人間がこの世にいることなど知らないとでもいうように。

 だから隼人は、自分の言葉に絶対の重さを乗せてもう一度繰り返した。

「ああ、おまえを護ってやる……侍として約束しよう

 傷は深く、血は流れ続けて止まらない。身体からだは刻一刻と冷えていく。忍び寄る死の影は、意識に付きまとって離れてはくれない。

 しかし、約束──その言葉を口にした以上は別だった。たかが死などに屈するわけにはいかないのだ。

 侍とは約束を果たすもの──それは、隼人が胸に抱き続けてきた生きるためのみちしるべであるのだから。

「しかし……本当に何も覚えていないのか? どこから来たのかや、自分の名前も?」

 問いかけに対し、少女は深く考え込む。その沈黙は永遠にも思われた。しかし、彼女の唇がかすかに言葉を紡ぐ。

「──ひつぎ」

ひつぎ? それが名前か?」

 柩──人の名前にしては奇矯すぎる響きだった。内部に死人を納めたかんおけ。忌み名にしても変わっている。

「うん……柩。そう呼んで」

 少女はなぜか、それだけで何かを成し遂げたかのように満足そうな様子を見せた。まるで宝物を一つ手に入れたかのように。

 そんな振る舞いを前に、隼人はあつに取られるしかなかった。いったい、この少女は何者なのか。

「──……!」

 急に、のどからせり上がる温かいものを感じて、それを吐き出した。

 大量の血。していた痛みが戻ってきたように全身を貫く。力が抜け、再びひざをつく。機能を停止しかけた内臓がけいれんしているのがわかる。死が、今度こそ間近に迫っているのを感じた。

「くそ……ッ」

 ぽつりと言葉がこぼれ、憎悪と悔恨が脳を焼く。

 俺は、ここまでなのか。

 農民に生まれた隼人はやとにとって、武士──侍とは天に輝く太陽のごとき存在だった。唯一無二の、絶対的な存在。いつしかごうまんにも、自らその太陽となることに強いあこがれを抱いた。

 厳格な階級が存在する社会体制の中で、農民が武士になることはほとんどありえない。それでも隼人は、この夢を捨てることができなかった。

 ゆえに隼人は、誰よりも「侍」らしくあろうとした。清貧かつ勤勉であり、きようを憎み、弱き者を助けること。そして、命よりも忠義を選び、決して約束を破らぬこと。

 加えて、戦いをなりわいとする侍にとって強さは必要不可欠だ。剣をはじめとした武術の修得にも血道を捧げ、精神と肉体の鍛錬を欠かさなかった。

 そうしてそれは、「絶好の機会」となって隼人の前にやってきた。

 黒船来航とともに訪れた、徳川幕府の危機。世は混乱を極め、「武士に生まれた者」でもその混乱にほんろうされるしかなかった。代わって台頭し始めたのがその出自を問わない「侍」によって構成された「新選組」であった。

 入隊に際して出自を問わない新選組の隊士には、農民や町人の出身者も少なくない。現に、幹部であるこんどういさみひじかたとしぞうも武家の出自ではなかった。ゆえに、新選組は概念としての侍に過激なほどこだわっており、それもまた隼人にとっては理想的な場所と言えた。

 新選組屯所の門をたたいたあの日ほど、胸が高揚したことはない。こうして、隼人は名実ともに念願だった侍となったのである。

 なのに、それがこのざまだ。

 敗北──それは単に、幕府軍の局地戦な敗退を意味するのではない。

 幼き日から憧れ続け、やっと立てた場所で、隼人の存在意義アイデンテイテイじんに砕けてしまった。恐るべき吸血鬼、異人が備える条理を超えた力……。

 絶対と信じてきた「侍」の身分を得てわずか数年で、否応もなく巻き込まれた変革の嵐。それは神の車輪のごとく、万象すべてをつぶしこの国を根こそぎ変えてしまうだろう。

 それでも、侍として勇敢に闘い、時代という不可抗力を前に潔く散ることができたなら、隼人は笑って死ねただろう。

 だが、あの男──とうは隼人を裏切り者に仕立て上げるつもりだ、と言った。自分に残された最後の誇りを踏みにじり、心安らかなまま死に臨む覚悟さえ奪っていったのだ。

 だからこそ、こんな最期を受け入れるわけにはいかない──まったく、あんまりだ。

 もはや吐く血さえれ果てたのか、せきだけが出る。地面を真っ赤に染めた隼人の血を、ひつぎが食い入るように見つめている。そのひとみは蛍火のように淡く発光して見えた。

 吸血鬼。隼人はやとの仲間をなぶり殺した者たちも、同じ目をしていた。

「……隼人? 死ぬの?」

 あまりにも静かにひつぎが問う。死という現象の意味さえ知らないというように。

 死ぬのか? その言葉に隼人は自問する。このまま? 裏切り者として? 侍としてあるまじき、最悪な死を迎えるのか?

 途端、心が沸騰し、反対に異常なほど思考が覚めていくのを感じた。もはやこの身がどうなろうと構わないと思えるほど、限りなく冷徹に。

 ──ふざけるな。俺は絶対に認めない……! この死を認めてなるものか!

 激情に駆られるまま、柩の首元をつかんで引き寄せる。そして、一言一句を絞り出すように言った。

「……柩。お前は吸血鬼なんだな? ならば……お前のけんぞくになれば、俺は生き延びることができるか?」

 それは、隼人がここでだしたいちの希望──そして、二度と引き返せない道へと至るぶんすいれい

 隼人は知っていた。吸血種は人間の血を吸うことで、その相手を自らの眷属に転化させることができると。その条件について詳しくはわからないが、脳裏にひらめいたその思考に魅入られたように隼人は叫ぶ。

「今ここで、俺を吸血鬼にすることはできるか? なあ、どうなんだ!?

 柩はあつに取られた表情で、揺さぶられるままでいる。が、それでも小さくうなずいた。

 隼人の決意──人間を捨て、日本への侵略者である吸血鬼の同類に身をとすこと。

 隼人はそこに、一切の躊躇ためらいを感じないわけではなかった。だが、しかし。

「なあ、俺はこのまま、裏切り者として、侍として惨めに死ぬわけにはいかないんだ……! 俺の生きるうえで何より価値あることは、侍であることを貫くことなんだよ……! そのためには、どんな地獄を見たって構うものか。もう一度、生まれ変わってでも目指したい──今度こそ、どんな力にも奪われることのない……思い描いた自分自身の姿を……ッ! 俺はあいつにふくしゆうして、汚名を必ず返上してやる。それが俺の使命なんだ!」

 それは、隼人の命の絶叫だった。

 敵である吸血鬼の眷属たちの、あの異常なまでの不死身性。絶望とともに焼きついたその光景が、今は隼人の希望となっていた。もしあの回復能力が手に入れば、隼人が負ったこの致命傷さえ立ちどころに回復するだろう。

 隼人の見せる、文字通り血を吐くような執念にき動かされたというように……困惑するばかりだった柩の表情に、わずかな変化が訪れる。

「……生きるうえで何より価値のあること……」

 ひつぎがそう繰り返し、はっとしたように顔を上げた。「それ、どこかで聞いたことがあるような……」

「もし、お前が俺に新しい命を……吸血鬼の命を与えてくれるなら……俺は自分の使命を果たす代わりに、お前のことを絶対にまもってやる……これは約束だ。そして、俺は侍だ絶対に約束は破らない

 薄れゆく意識と視界の中で、隼人はやとは柩に食い下がる。次第に身体からだから力が抜けていく。

「わたしが、隼人に新しい命を……」

 柩がぼうぜんつぶやいた。

 そして、躊躇ためらうようにその手を隼人の首に伸ばし──。


「──おったぞ、ここじゃ」

 そのとき茂みをかき分けて、二人の人影がやみ奥から姿を現した。

 いずれも、洋装の黒い軍服を着込んでいた。柩の顔が恐怖にゆがむ。

「どうして……どうしてわたしを殺そうとするの? 誰の、何のために?」

 何も知らないままに狩りたてられる少女。込み上げる感情のまま向けた問いは、当然のように黙殺された。

「我らはさつ藩士……だが理由など知らぬ。ただ主命に従うまでじゃ」

 二人の構えたミニエー銃が柩を照準する。そうてんされているのは銀の弾丸。柩は迫り来る死に為す術もなく目を閉じる。

 だが、その二ちようの銃が火を噴くことはなかった。──銃口の先にある目標が、新たに増えたからである。

さん──」

 柩を追ってきた二人は、目の前の光景にどうもくする。無理もないだろう。傍らに転がるしかばねが幽鬼のごとく立ち上がってきたのだから。

 もう一度立てるはずがない。闘えるはずなどないのだ。

 それほどの重傷であることは、誰の目にも一瞬でわかること。しかし、それでも隼人は再び立ち上がったのだ。

 ──侍は約束を果たすもの

 破れ目だらけのボロ布のように傷つき果てた身体。それを支える理由は、たったの一つ。ただの信念という魂の原動力だけだった。

「そん羽織……」

 隼人が身にまとった血に染まったあさ色の羽織を認め、一人がその目をすがめる。もう一人が憤りのこもった視線とともに言葉を引き継いだ。

「知っちょッ──京の都で見知っちょッぞ、そん羽織! 我が朋輩ば数多あまた殺しよっためが!」

 今度こそ二ちようのミニエー銃は炎と硝煙を噴き上げた。

 真夜中の山中にとどろき渡る、落雷めいたごうおんの二重奏。だが放たれた銃弾は、いかなる標的をも撃ち抜くことはなかった。

 それよりもはやさやを離れた、隼人はやとの抜刀によりすべてが両断され地に落ちていたから。

 さつ藩士たちはきようがくした。いかなる達人であったとしても、己めがけ発射された鉄砲玉を宙で切り落とすなど常軌を逸した所業だったからだ。

 隼人にしても、その認識は同じ。死を隣にした極限の集中力があってこそ可能になったにすぎない、奇跡的な離れ業だ。もう一度やれと言われても、決してできるものではないだろう。

 二人の追っ手は躊躇ためらい、再そうてんに時間のかかるミニエー銃を放棄。それぞれが抜刀した。

 抜き放たれた剣先は、すべてが迷いなく天頂を指して持ち上がってゆく──が、そのとき隼人は既に、その身を一陣のふうに変えていた。

 次瞬──やみを貫いたものは、骨肉を断ちる生々しい残響。

 一人の薩摩藩兵の上半身に真一文字の断線が走るや、血を噴きずるりと横に落ちた。隼人の放った中段逆胴のざんげきが、その体を文字通り両断してのけたからだ。これもまた、消えゆくろうそくが見せる最後の炎にも似た爆発力のなせる業だった。

「なんて……」

 ひつぎは感嘆したようにそうつぶやく。もう一人の薩摩藩士はぼうぜんと崩れた相方の上半身を眺めていたが、思い出したように隼人に向き直る。

「キィエエエエエエエェェェェェェェイッ!!

 流派特有の気合いである猿叫のほとばしりと共に、その太刀が高々と天頂を指して持ち上がった。げんりゆう必殺、二ノ太刀不要の大斬撃を繰り出す構え。

めいへ送り返してくれるわァッ!」

 そして、その五体が地をった。あらゆる防御を捨て命を惜しまぬ魂が可能にする、残像すらく超高速の疾走が迫りくる。繰り出す一刀に己の全存在を同化した、必死必殺の大斬撃が隼人を両断せんと撃ち出され──

 雷火のごときいつせんは過たず、恨み重なる新選組のあさ羽織を真っ二つに引き裂いた。

 ──そう、ただ羽織一枚のみを。

「……俺は、死ぬわけにはいかないんだ」

 二つに裂かれた羽織が草に落ちると同時……隼人が斬り捨てた薩摩藩士の身体からだが、鮮血を噴き上げ崩れ落ちる。

 示現流必殺一ノ太刀をかわしざまの、紙一重で放った合わせ技。勝敗はここに決した。

 隼人は刀を鞘に収めようとして、果たせずそのまま倒れていた。身体のあらゆる感覚が消えていく。最後に残された生命力を、ここですべて使い尽くしたというように。

隼人はやと……!」

 ひつぎ身体からだがすがりつく。その体温は隼人にとって心地よいものだった。

「どうして、こんな無理を……わたしのために?」

 ひどく取り乱しつつ、疑問を呈する少女に隼人は小さく笑って答える。

「当然だろ。侍は約束を守るんだッ……ただ、どうやら、それも……」

 隼人、と柩が叫ぶ声が、どんどん遠ざかっていった。

 思考が水に落とした墨のように溶け消えていくのがわかる。もはやどうにもならない引力で、生から死へとちていく──そのとき。

 ゆらりと、柩の背後に死に神めいた影が立つのが見えた気がした。いよいよ迎えが来たのかと目をこらす。違う。それは、たった今り倒したはずのさつ兵だった。

「柩……! 後ろだッ!」

 半ば死にかけの身体で繰り出した剣だったゆえか、それとも敵の恐るべき執念か。ともあれ即死させるには至らなかったのだろう。立ち上がろうとするが、もう力が入らない。

 すさまじい恐怖が心臓をつかんだ。己の死を意識したときよりも、遥かに強く。

 約束を果たせないこと──侍としての生き様を貫けないことへの、激しい恐怖が。

 果たして──

 火薬のさくれつするごうおんと共に、薩摩兵の心臓が飛沫しぶきを咲かせていた。

「……当た、った」

 スミスアンドウェッソン・モデルアーミー──金属やつきようを用いる最新式の六連発リボルバー。振り返った柩の指には、その銃把が握られていた。

 隼人が目にしたそれは、およそ少女のきやしやな手には似つかわしくない鉄の塊だった。黒光りする銃身の先からは、灰色の硝煙が立ちのぼっている。なぜこんな銃を柩が持っているのか、隼人は想像することができなかった。

 おそらくは初めて人を狙い、初めてヒキガネを引いたのだろう。こちらを振り向いた柩の顔はそうはくに変わり震えている。

 だが、その目には生き延びるために敵と闘うことを決意した意思の光が見えた。柩はその銃を大切そうに懐にしまう。

「これをあの人にもらってから、ずっと使う決心がつかなかった。でも、隼人と会って、わたしの何かが変わった気がしたの。……ねえ、隼人のしてくれた約束、信じてもいい?」

 宝石のような柩のひとみに、隼人の顔が映る。

 隼人は、強くうなずいてみせる。もはや声は出せない。

 ──ああ。約束だ。侍は約束を必ず守る。

 そして、あの人とはいったい……と疑問を思い浮かべたのもつかの間、隼人の意識は急速に遠ざかっていった。

 その最後の一片が、虚無に溶けるその寸前……甘いような生臭いような、不思議な香りが鼻先を漂う。

 そして、月の光をはじく何かがひつぎの口元に見えたと思った瞬間──隼人はやとの意識は暗黒に呑み込まれていった。