冷えた
「……ここは……」
目を開く。そこには隼人の頬に触れている人物がいた。それは、どうやら少女のようだ。しかし、血を失いすぎたせいか目の焦点が合わない。視界に映るすべてのものがぼけている。
冷たく
自分の衣服に手をやる。肌のみならず、
───新選組。
幕末の京に生きる人間ならば、その羽織の意味を知る者は少なくない。
つい、先ほどまでは。
自分は敗れ、そして無残に死のうとしている。
なぜ? どうして?
死にかけの鈍い頭に自問する。そして、ひとつの答えを見つける。
──一八六八年一月。京・鳥羽および伏見。
無念が隼人の胸のうちをいっぱいにした。しかしなぜかふつふつと怒りがわいてくる。
焦点の合わないまま、自分の周りに目を向ける。
なぜ? どうして?
大敗の理由──西洋式の大砲や新式銃といった軍備の差? いや、違う。
総兵力数の差? それも違う。むしろ数が戦いを決するのなら、勝敗は逆でなければならなかった。
戦に負けるに至った理由は──。
ふと、目の前の少女に視界の焦点が合う。
そして何より
「吸血鬼……!」
黒船と共に到来し、この国を変えようとしている西洋の異人種──彼らの支配階級である、人外の怪物ともいうべき超人類。その存在こそ、この戦いで幕府軍が大敗した原因だ。
西洋では王族や政治家、軍部の上層といった社会を支配する階層をほぼこの吸血種族が占め、人間を家畜か奴隷のように扱っていると
吸血鬼たちは世界に進出する文明を築くや、本来の生存圏である西洋に飽き足らず東洋にまでその食指を伸ばした。広大な大陸を支配するあの清国までもが、完全に奴らの支配下に置かれてしまったのはまだ記憶に新しい。
日本では
銃弾で
当然のように幕軍は苦戦し戦線は崩壊した。それでも隼人は、闘志を奮い立たせて闘い続けた。闘って、闘って、闘い続け……そして今、こうなっている。
真正面から激しい憎悪を向けられても、少女はその場から立ち去ろうとはしなかった。まるで、「憎しみ」という感情すら知らないかのように。その透明な視線の前では、どれだけ
そうこうしている一秒ごとにも、
「く、そ……」
「だ、だいじょうぶ……ですか?」
敵であるはずの異人の少女は、自分をいたわるような声を出した。差し伸べられるその手を振り払いたいが、それだけの力さえ深手を負ったこの身には残っていない。
「何を……」
そこでふと、自らが敗戦を喫した理由がまだ別にあるような気がした。そうだ。忘れてはならない。より強い憎しみを向けるべき相手は、他にいる。
その男の名は──
「新選組参謀……
新選組内にあって、
新選組の拠点であった伏見奉行所。鉄壁の守りを固めたはずのその内部に、突如として敵の突入部隊は出現を果たした──幹部である
そして、証拠となるその現場を目撃した瞬間。背後からの不意討ちの
憶えているのは
『こういうめぐり合わせになってしまい、私も実に残念だ、
そうして地に
『私の味方ではなかったことだ。しかし安心したまえ、君の犠牲は決して無駄にはしない。何から何まで私の役に立ってもらうつもりだ。君の裏切りによって隊は壊滅し、敗走することになったと報告してあげよう。ああ、実に心が痛むよ。誰よりもサムライに
一言一句として忘れない。あの微笑を含んだ柔らかな声に潜む悪意が、脳髄を怒りで焼き尽くした。
「伊東───! 許せん!」
鈍い音を立てて、
あの憎き男を殺したくて、動けぬまま聞いた仲間たちの絶叫が耳を離れなくて……地に突き立てたままの刀で身体を支え、立ち上がろうとする。
「……っつ!」
身体の隅々にまで激痛が走るが、そんなものでこの怒りは止まらない。
敵の誘導と、それに続く自陣内部からのありえない奇襲。それにより分断された新選組は、もはや
「立たないで……!」
吸血鬼、あるいは不夜の血族。呼び方こそ数あれど、目の前の少女は間違いなくその種のものだ。この一族が支配する欧米諸国が日本に開国を迫ったことが遠因で、隼人の仲間は命を散らした。なぜその敵であるはずのこの娘は、自分を気遣うようなそぶりを見せるのか。
憎しみを込めてその少女を再び
「お前も、傷を……負って? しかし、そんなもの、おまえたち吸血鬼なら……」
海の
「これは……わたし、ここまで逃げてくる間に、黒い服の人たちに撃たれて……。その人たちはわたしのこと〝銀〟で撃てって言ってた」
少女はたどたどしく語る。
「吸血種族には銀は強烈な毒になる」と以前に聞いたことを思い出した。銀は彼らの傷の回復も遅くすると。しかし銀製の刀や弾丸などそうそう簡単に調達できるものでもなく、結果としてその真偽は不明なままだった。
──いや。それよりも。
「お前、黒い服の奴らに撃たれたのか? 黒い服ってこういう?」
身近に倒れている黒い隊服の男の死体を指差した。それは、
少女はその死体に目を向け、
隼人にとって、吸血鬼とは無条件で「敵」を意味する存在だった。だが、その吸血鬼である少女は、やはり隼人の敵である新政府軍によって撃たれ負傷している。しかも銀の弾丸が使われたということは、少女が吸血鬼であることを敵が把握した上でということになるだろう。
敵が敵を殺そうとする──その矛盾が、隼人の心にかつてなかった動きを呼び起こしていく。
幕軍を滅ぼした
「お前は……何者なんだ……」
だが──
隼人の問いを受けた少女は虚を
「わたし……わからない。何も……」
あろうことか、少女の表情に深い
「何も知らない……いや、覚えていないとでもいうのか……?」
少女の
「俺の名は……隼人だ。
自分の名をあらためて口にしたことで、わずかに力を取り戻す。己が何者であり、何をすべきかが次第にはっきりと見えてくる。
隼人は目の前にいる少女を再び見つめた。吸血鬼──血族ではあっても、傷ついたその姿は討つのではなく
あるいはその感情は隼人自身ではなく、隼人が目指してきた理想の生き方が命じる声なのかもしれなかった。
「せめて闘うことができれば、おまえを
その内なる声に従うように、
「護る……? 助けてくれるの?」
少女の目がほんの少し、明るく輝いたように見える。そして希望に満ちた、しかし不思議そうな
「あなたは、誰かを護って闘うことができるの?」
「信じられないのか? もっとも、俺がここで助かって、動けるようになればの話だが……」
「わたしはずっと、自分のことだけで精一杯だった。今も、自分があなたを助けられるかもしれないなんて考えもしなかった……だから、あなたがすごいと思ったの」
感嘆したように少女が告げる。本当に、そんな人間がこの世にいることなど知らないとでもいうように。
だから隼人は、自分の言葉に絶対の重さを乗せてもう一度繰り返した。
「ああ、おまえを護ってやる……侍として約束しよう」
傷は深く、血は流れ続けて止まらない。
しかし、約束──その言葉を口にした以上は別だった。たかが死などに屈するわけにはいかないのだ。
侍とは約束を果たすもの──それは、隼人が胸に抱き続けてきた生きるための
「しかし……本当に何も覚えていないのか? どこから来たのかや、自分の名前も?」
問いかけに対し、少女は深く考え込む。その沈黙は永遠にも思われた。しかし、彼女の唇が
「──ひつぎ」
「
柩──人の名前にしては奇矯すぎる響きだった。内部に死人を納めた
「うん……柩。そう呼んで」
少女はなぜか、それだけで何かを成し遂げたかのように満足そうな様子を見せた。まるで宝物を一つ手に入れたかのように。
そんな振る舞いを前に、隼人は
「──……!」
急に、
大量の血。
「くそ……ッ」
ぽつりと言葉が
俺は、ここまでなのか。
農民に生まれた
厳格な階級が存在する社会体制の中で、農民が武士になることはほとんどありえない。それでも隼人は、この夢を捨てることができなかった。
ゆえに隼人は、誰よりも「侍」らしくあろうとした。清貧かつ勤勉であり、
加えて、戦いを
そうしてそれは、「絶好の機会」となって隼人の前にやってきた。
黒船来航とともに訪れた、徳川幕府の危機。世は混乱を極め、「武士に生まれた者」でもその混乱に
入隊に際して出自を問わない新選組の隊士には、農民や町人の出身者も少なくない。現に、幹部である
新選組屯所の門を
なのに、それがこのざまだ。
敗北──それは単に、幕府軍の局地戦な敗退を意味するのではない。
幼き日から憧れ続け、やっと立てた場所で、隼人の
絶対と信じてきた「侍」の身分を得てわずか数年で、否応もなく巻き込まれた変革の嵐。それは神の車輪のごとく、万象すべてを
それでも、侍として勇敢に闘い、時代という不可抗力を前に潔く散ることができたなら、隼人は笑って死ねただろう。
だが、あの男──
だからこそ、こんな最期を受け入れるわけにはいかない──まったく、あんまりだ。
もはや吐く血さえ
吸血鬼。
「……隼人? 死ぬの?」
あまりにも静かに
死ぬのか? その言葉に隼人は自問する。このまま? 裏切り者として? 侍としてあるまじき、最悪な死を迎えるのか?
途端、心が沸騰し、反対に異常なほど思考が覚めていくのを感じた。もはやこの身がどうなろうと構わないと思えるほど、限りなく冷徹に。
──ふざけるな。俺は絶対に認めない……! この死を認めてなるものか!
激情に駆られるまま、柩の首元を
「……柩。お前は吸血鬼なんだな? ならば……お前の
それは、隼人がここで
隼人は知っていた。吸血種は人間の血を吸うことで、その相手を自らの眷属に転化させることができると。その条件について詳しくはわからないが、脳裏に
「今ここで、俺を吸血鬼にすることはできるか? なあ、どうなんだ!?」
柩は
隼人の決意──人間を捨て、日本への侵略者である吸血鬼の同類に身を
隼人はそこに、一切の
「なあ、俺はこのまま、裏切り者として、侍として惨めに死ぬわけにはいかないんだ……! 俺の生きるうえで何より価値あることは、侍であることを貫くことなんだよ……! そのためには、どんな地獄を見たって構うものか。もう一度、生まれ変わってでも目指したい──今度こそ、どんな力にも奪われることのない……思い描いた自分自身の姿を……ッ! 俺はあいつに
それは、隼人の命の絶叫だった。
敵である吸血鬼の眷属たちの、あの異常なまでの不死身性。絶望とともに焼きついたその光景が、今は隼人の希望となっていた。もしあの回復能力が手に入れば、隼人が負ったこの致命傷さえ立ちどころに回復するだろう。
隼人の見せる、文字通り血を吐くような執念に
「……生きるうえで何より価値のあること……」
「もし、お前が俺に新しい命を……吸血鬼の命を与えてくれるなら……俺は自分の使命を果たす代わりに、お前のことを絶対に
薄れゆく意識と視界の中で、
「わたしが、隼人に新しい命を……」
柩が
そして、
「──おったぞ、ここじゃ」
そのとき茂みをかき分けて、二人の人影が
いずれも、洋装の黒い軍服を着込んでいた。柩の顔が恐怖に
「どうして……どうしてわたしを殺そうとするの? 誰の、何のために?」
何も知らないままに狩りたてられる少女。込み上げる感情のまま向けた問いは、当然のように黙殺された。
「我らは
二人の構えたミニエー銃が柩を照準する。
だが、その二
「
柩を追ってきた二人は、目の前の光景に
もう一度立てるはずがない。闘えるはずなどないのだ。
それほどの重傷であることは、誰の目にも一瞬でわかること。しかし、それでも隼人は再び立ち上がったのだ。
──侍は約束を果たすもの。
破れ目だらけのボロ布のように傷つき果てた身体。それを支える理由は、たったの一つ。ただの信念という魂の原動力だけだった。
「そん羽織……」
隼人が身にまとった血に染まった
「知っちょッ──京の都で見知っちょッぞ、そん羽織! 我が朋輩ば
今度こそ二
真夜中の山中に
それよりも
隼人にしても、その認識は同じ。死を隣にした極限の集中力があってこそ可能になったにすぎない、奇跡的な離れ業だ。もう一度やれと言われても、決してできるものではないだろう。
二人の追っ手は
抜き放たれた剣先は、すべてが迷いなく天頂を指して持ち上がってゆく──が、そのとき隼人は既に、その身を一陣の
次瞬──
一人の薩摩藩兵の上半身に真一文字の断線が走るや、血を噴きずるりと横に落ちた。隼人の放った中段逆胴の
「なんて……」
「キィエエエエエエエェェェェェェェイッ!!」
流派特有の気合いである猿叫のほとばしりと共に、その太刀が高々と天頂を指して持ち上がった。
「
そして、その五体が地を
雷火のごとき
──そう、ただ羽織一枚のみを。
「……俺は、死ぬわけにはいかないんだ」
二つに裂かれた羽織が草に落ちると同時……隼人が斬り捨てた薩摩藩士の
示現流必殺一ノ太刀をかわしざまの、紙一重で放った合わせ技。勝敗はここに決した。
隼人は刀を鞘に収めようとして、果たせずそのまま倒れていた。身体のあらゆる感覚が消えていく。最後に残された生命力を、ここですべて使い尽くしたというように。
「
「どうして、こんな無理を……わたしのために?」
ひどく取り乱しつつ、疑問を呈する少女に隼人は小さく笑って答える。
「当然だろ。侍は約束を守るんだッ……ただ、どうやら、それも……」
隼人、と柩が叫ぶ声が、どんどん遠ざかっていった。
思考が水に落とした墨のように溶け消えていくのがわかる。もはやどうにもならない引力で、生から死へと
ゆらりと、柩の背後に死に神めいた影が立つのが見えた気がした。いよいよ迎えが来たのかと目をこらす。違う。それは、たった今
「柩……! 後ろだッ!」
半ば死にかけの身体で繰り出した剣だったゆえか、それとも敵の恐るべき執念か。ともあれ即死させるには至らなかったのだろう。立ち上がろうとするが、もう力が入らない。
約束を果たせないこと──侍としての生き様を貫けないことへの、激しい恐怖が。
果たして──
火薬の
「……当た、った」
スミスアンドウェッソン・モデルⅡアーミー──金属
隼人が目にしたそれは、およそ少女の
おそらくは初めて人を狙い、初めて
だが、その目には生き延びるために敵と闘うことを決意した意思の光が見えた。柩はその銃を大切そうに懐にしまう。
「これをあの人にもらってから、ずっと使う決心がつかなかった。でも、隼人と会って、わたしの何かが変わった気がしたの。……ねえ、隼人のしてくれた約束、信じてもいい?」
宝石のような柩の
隼人は、強く
──ああ。約束だ。侍は約束を必ず守る。
そして、あの人とはいったい……と疑問を思い浮かべたのもつかの間、隼人の意識は急速に遠ざかっていった。
その最後の一片が、虚無に溶けるその寸前……甘いような生臭いような、不思議な香りが鼻先を漂う。
そして、月の光を