Prologue: 過去を振り返ってみても、公由一穂という女の子はやけに自分を抑えているというか……いつも感情的になるのを躊躇している感じだった。 どんなに楽しい時でも、心から笑っていない。たとえ腹が立つことや悲しいことがあっても、何かに怯えているのかと思うくらいにまず隠そうとする。 そして、なんとなく不穏な空気になりかけると自分が悪いとは決まっていない状況でもまず謝る――。 もし千雨が実際にその態度を見る機会があったら、きっと不愉快に思って苦言のひとつでも呈していただろう。彼女はそういう、内罰的な子が好きじゃないからだ。 千雨: 『なんで自分が悪いと決まってないのに、謝る?外国だと謝った瞬間に全部の責任を押しつけられて、一方的に損をさせられるだけだぞ』 ……外国に行ったこともないくせに千雨はそう主張するに違いない。そして私も、その考え方には少しだけ同意だった。 美雪(私服): (最初に出会った時なんて……酷かったもんなぁ) ただでさえ小柄な身体をさらに小さくして、「ごめんなさい」と何もしていないのに頭を下げられた時は仲良くやっていけるだろうか……と先行きが不安になった。 私たちの「世界」とは違う過去、しかも見知らぬ土地で怯えた小動物みたいな子を抱えてどうしよう……と、ため息をなんとか寸前で飲み込んだりもしたものだ。 …………。 ……でも。成り行きで一緒に過ごしていくうちに、実はそうじゃないことが徐々にわかってきた。 美雪(私服): (わかりづらいけど……時々、勇気を振り絞るように背中を伸ばしながら言いたいことを口にしてくれた) パンよりも、お米が好き。部活はちゃんとしたゲームで遊びたい。好きなものは、嫌いなものは……。 それを聞いて、この子は何も考えてないわけでも何も考えられないわけでもないんだ、と。わかった時は……正直、ほっとした。嬉しかった。 でも、それを聞いてあげるような存在が今後彼女の周りにいなかったら。ちゃんと向き合う相手と巡り会えなかったら……。 ただ謝りながら小さくなり続けて、しまいには消えてしまうんじゃないか……なんてことも思ったりした。 美雪(私服): (まぁ……言いたいことを全て遠慮無く言うことが、いいことだとは思わないけどさ) ……と言うより、思えない。実際、菜央は結構思ったことを言葉にするタイプで、それゆえにひやりとすることがあった。 千雨も主張が強い方だけど、彼女の場合は問題が生じてもねじり伏せるだけの力があるので、これは特殊と言うべきだろう。 だから……全部は無理でも、一穂が言いたいことをある程度は言えるように。主張が許されるんだと思えるようになれたら……。 平成に戻った後は、そんな手伝いでもしてあげられたらいいなぁ……なんて身勝手に、傲慢に私は思い上がっていた。 一穂が言いたいことを全部言えない子だってわかっていたはずなのに……確かめるのを怠ったのだ。 『一穂はそもそも、平成に帰りたいの?』なんて質問に対する彼女の答えは、当然ひとつしかないだろうと思い込んで――。 美雪(私服): ……っ……! もう一度……一穂に会うことができたらなんて言おうか、私はずっと考えていた。 ただ、言葉は次々と浮かんでくるけど……実際に会えたらきっと嬉しくて嬉しくて、何も言えなくなるんじゃないかなって……。 なんてことを、思っていた。そして、その予想は当たった。 ……最後、だけが。 美雪(私服): っ……ぁ……! 一穂(神御衣): ――――。 私の背丈とほとんど同じ高さの壇上から、一穂は全てを見下ろしていた。 いつもの怯えや、おどおどした様子は欠片もない。怒りも、恐怖も……その瞳の奥にある漆黒の中には底なしの虚無が広がって……ッ……。 だけど、彼女は……私が見ているその子は見間違えるはずもなく、……公由一穂そのものだった。 菜央(私服(二部)): ……ぁ、……っ? 千雨: …………! 菜央も千雨も、他の誰もが何も言わなかった……いや、言えなかったのだ。 私たちは皆一様に愕然と目を見開き、壇上に立つ一穂を見つめ続けて――。 美雪(私服): か、一穂……どうしてキミ、そんなところにいるの……? なんとか、困惑と驚愕を無理矢理胸の内に押し込んで、かろうじて絞り出した自分の声は……。 本当に、自分の喉から出た音かと疑問に思うほどに掠れて……力が全く、なかった。 だって……だってだって、なにもかもがわからない!会いたいと思っていた一穂が、どうしてここにいる?なんで梨花ちゃんの代わりに、演舞場に立っている? でも、でももっと、理解できないのは……ッ……! 美雪(私服): 一穂、その服……どうしたの……?っていうか、その衣装は……っ。 美雪(私服): なんで、#p田村媛#sたむらひめ#r命と同じ格好を……?! 一穂(神御衣): ――――。 必死に絞り出した呼びかけにも、一穂は無表情を崩さず……反応を示してくれない。 まるで、聞こえていないかのように……いや、私の声なんて耳を傾ける価値なんてないとでも言わんばかりに……! 美雪(私服): ねぇ、答えてよ一穂!黙ったままだとわかんな……っ?! そう声を荒げかけた次の瞬間、私の隣で「影」が勢いよく飛び上がって動くのが目の端に映る。 それが、人の姿をしていることに気づいた時……反対側の菜央が、息をのみながら悲鳴のような叫び声を上げるのが聞こえてきた。 菜央(私服(二部)): 千雨っ……?! 千雨: っ、……らぁッ!! 千雨は壇上へと降り立つと、間髪入れず縁を勢いよく蹴ってさらに跳躍する。 そして一穂の頭上へと舞い上がり、素早くかざした「カード」を武器に変えて両手に握りしめた。 千雨: ……ぅおおあぁぁッッ!! 大きく振りかぶった千雨の武器が、まっすぐ……躊躇いもなく振り下ろされて――! 一穂(神御衣): ――――。 その刃が一穂の額へ突き立てられるかと戦慄を覚えた寸前、……硬いガラスを叩くような轟音が響き渡り、武器ごと千雨の身体が吹き飛ばされた。 千雨: がっ……?! 一瞬、光の障壁のようなものが現れて……2人の間を完全に分断したと気づいたのは反射的に身体が動いた後だった。 嵐に巻き込まれた木の葉のように、体勢を崩した千雨の身体はそのまま虚空に放り出されて――?! 美雪(私服): ――千雨っ! 背中から落下していく彼女を受け止めるべく、私は腰を沈めて両腕を広げる。 美雪(私服): ぐっ……! 受け止めようとした私の全身は、人ひとりの落下の勢いと重みに耐えられず……並んだパイプ椅子を巻き込んで崩れ落ちた。 美雪(私服): がっ……?! 身体のあちこちを打ちつけた痛みに、一瞬息が止まる。……でも、千雨が頭から落ちるのだけは辛うじて避けられたようだ。 赤坂: 君たち、大丈夫かっ?! 突然の一穂の登場と千雨の強襲に、ようやく我に返ったお父さんが慌てて私たちを抱き起こそうとする。 けど、それどころじゃない。腕の中で千雨が苦悶ながらも息をついたのを感じた瞬間、安堵とともに湧き上がる怒りを彼女へぶつけていった。 美雪(私服): な……なんで攻撃するんだよ、千雨っ?あれは一穂! 私の友達の、一穂だってば! 千雨: ……っ……! 私の詰りに、千雨はきっ、と鋭い目を返してくる。そして痛みをこらえながら、シャツの胸元を掴んでいった。 千雨: 馬鹿か、お前は……!なんで、なんでわからない……?! 背後からわずかに見える横顔からは、完全に血の気が失せて――。 千雨: あれは……あんなのは……! こみ上げてくる震えを止められないように……私の腕の中で千雨は、怯えた表情を浮かべていった。 千雨: 人間じゃ、ない……!! 今まで見たことのないような顔をする千雨を見て私は息をのみ、倒れ込んだまま壇上を見上げる。 ――「人間が「神」を演じるには、限界がある」いつか見た映画の台詞が……脳裏に浮かんでくる。 神を演じる人間は人間でしかなく、どこまで極めてもそれが人間と神の絶対的な境界なのだ。 そして、それが分かたれる絶対の違いは……。 美雪(私服): (温度が、……ない) 壇上に佇む一穂には……確かに温度が、ない。 無機的な置物とは違う、絶対的な存在感を讃えて……冷たさとも温かさとも違う空気をまとっている。 そこには、私たち人間とは一線を画すような神々しさすら感じられて……。 美雪(私服): (私の知ってる……一穂じゃない……!) 私の知る一穂は、間違いなく「温度」があった。意思を示すことに怯えて、躊躇いがあっても……ひとりの女の子として確実に「存在」していた。 でも……でも、今の一穂からは全くそれが感じられない……!かつて感じられた空気さえ、跡形もなく……! 美雪(私服): (何が……あったんだ?一穂の身に、何が起きたんだよ……?!) 圭一(私服): ……みんな、逃げろ。 美雪(私服): えっ……? その時、千雨を抱きかかえたまま顔をあげると……一穂を見つめたままの前原くんの喉が微かに動く。 その顔に浮かんだ表情は恐怖、不安……いや、違う。何かに気づき、そして覚悟を決めたような……?! 圭一(私服): みんな、逃げてくれ……早く、ここからッ!! 菜央(私服(二部)): ま、前原さん……? 梨花(巫女服): 圭一……? 状況がわからない菜央と梨花ちゃんが、その真意を前原くんに尋ねようとする。 だけどその前に、いち早く反応したお父さんが私たちを守るべく前に進み出てきた。 赤坂: っ、これは……いったい……?! お父さんの険しい声と油断なく構える動きに、私は千雨とともにその場で立ち上がる。と、 村人A: ぐっ……グググ……! 村人B: 全ての意思を……ひとつに……! 美雪(私服): な、なにこれ……? 千雨: なんだ……あいつらは……?! それまで祭を楽しんでいた村の人たちが、一穂のそれとはまた違う、わずかに温度を残しながらも虚ろな表情で……。 ゆっくりと……そして確実に、私たちを囲もうとしている……?! 梨花(巫女服): や、やめるのです……!やめて、みんなッ!! 梨花ちゃんは震えながらも、鋭い声で皆を一喝する。 だけど、それは彼らに届くことなく……むしろ少しずつその形相に殺意を滲ませながら、梨花ちゃんに迫ろうと手を伸ばして……? 圭一(私服): 危ない、梨花ちゃん! #p園崎魅音#sそのざきみおん#r(詩音): 圭ちゃん、下がって! くっ、このっ……! 前原くんが梨花ちゃんを庇うように抱きかかえ、詩音はパイプ椅子を振り回して周囲を牽制する。 美雪(私服): 梨花ちゃん?! そして、襲われる梨花ちゃんに意識を向けた次の瞬間――。 突然、お父さんの背中が視界を覆って……そのジャケットの右肩に、真っ赤な染みが広がっていくのが目に映った。 赤坂: ぐっ……?! さらに、お父さんの膝ががくん、と折れ……私と千雨の身体に赤い飛沫が振りかかる。 膝を銃で撃ち抜かれたのだ、と理解したのは……崩れ落ちるお父さんの向こうで硝煙をあげる銃が見えたからだ。 そして、その銃の持ち主は……そんな……?! 美雪(私服): お、大石さん……ッ?! 大石: …………。 振り返ったお父さんも、銃を握りしめていた大石さんが見えたのだろう。 村人たちと同じ目をした、……うつろな表情で佇む老刑事の姿が……。 赤坂: ……っ……?! 苦悶の表情を浮かべたお父さんが、地面に倒れる。それを見て、私は自分たちを庇ってくれたのだとようやく理解した。 美雪(私服): お、お父さんっ? しっかりして?! 圭一(私服): おい、大丈夫か?! 梨花ちゃんを抱えた前原くんが声をかけてきたが、それどころではない私はお父さんの身体を必死に揺さぶり続ける。 もう、正体を隠そうという意識なんてなかった。あるのはただ、せめて命に別状がないことだけを祈りたいという思いしか……私には……ッ! 美雪(私服): お父さん、しっかり! 立てる?! 梨花(巫女服): ど、どういうこと……?村人たちが、私の言うことを聞かない……?! 梨花(巫女服): なんで、なんでまた元に戻って……?! 美雪(私服): えっ……? 前原くんに抱かれた梨花ちゃんの呟きに、それはどういうことだと尋ねようとして――。 ふわっ、……と。 エレベーターが下りる直前のような、浮遊感。それと同時に、千雨の身体が光り出して……?! 菜央(私服(二部)): な、なんで美雪と千雨が光っ……えっ……? 戸惑う菜央もまた同じように光を帯び、少しずつそれは強さを増して……?! 菜央(私服(二部)): っ、これは……!平成から昭和に飛ばされた時と、同じ……?! だとしたら、私たち3人だけが光っているこの状況は……?! 美雪(私服): (この「世界」から、強制的に平成へ引き戻されかけている……?!) 千雨: なん、だ……これ……っ?意識が、持っていかれる……?! 菜央(私服(二部)): ま……待って! 待ってよ、お願いだから!またお姉ちゃんを見捨てて、何もできずにここから出て行くのっ?! 菜央(私服(二部)): やめて! 止まってっ!やだ、やだやだやだぁぁああぁっ!! 美雪(私服): ふざけんなっ!私たちはまだ何もわかってないッ!何もできてない! 美雪(私服): 助けられてばかりで、何もっ……何もっ! お父さんの血がついた頬をふりかぶり、「世界」にしがみつこうとする。 美雪(私服): やめっ、やめてっ……やめろぉぉおおおおっ!!私にまた、みんなを見殺しにさせるなぁあああっ!!! あぁでも、私の体はまるで操り人形になったみたいに誰かに宙に持ちあげられ、視界が真っ白に染まって――。 美雪(私服): 一穂ぉぉおおおおおおぉおおおおおおっ!!!!! 叫んだ名前は、あの子に届いただろうか。 ……届かなかったかもしれない。だって……薄れていく意識の中で、最後に私が見た一穂は――。 一穂(神御衣): ――――。 私のことなんて、ちっとも見ていなかった。 Part 01: 美雪(私服): う、ぅ……? 目を開けた時、そこには青空が広がっていた。 美雪(私服): っ……ここ、は……? 自分のいる場所は、古手神社の境内……いや、かつて境内「だった」場所だ。 美雪(私服): ……菜央! 千雨! 起きて、起きて! 勢いよく身体を起こし、隣で倒れている2人を揺さぶって呼びかける。 菜央(私服(二部)): う、っ……。 千雨: ぐっ……! すると間もなく、呻き声をあげながらゆっくりと2人の瞼があがっていった。 美雪(私服): っ……よかった……。 無事に生きていることを確認して、私は立ち上がる。……足に力が入りづらいのはどうやら前回と一緒のようだ。 菜央(私服(二部)): あ……あたしの帽子、ちゃんとついてる……?飛ばされたり、してない……? 千雨: あ、あぁ……って、おい美雪。ひとりでどこに行くつもりだ? 美雪(私服): …………。 背後から、千雨の呼ぶ声が聞こえるけど……引き寄せられるように、ふらふらと進み続ける。 美雪(私服): (……確認、しないと) もう、わかりきっている。それでも……確かめなければいけない。 ここがどこで……そして今、「世界」はどうなっているのかを……。 美雪(私服): …………。 眼下に広がるのは、#p雛見沢#sひなみざわ#rの景色ではなく……遠くまで広がる巨大な青い湖。 美雪(私服): ダムが、完成してる……。 澄み切った美しい水面を前にして……涙がこぼれ落ちそうになる。 もちろん、これは感動なんかじゃない。……それとは正反対の、絶望の思いだった。 千雨: ……おかしいじゃないですか。実際雛見沢ダムの建設は、今年始まったばかりです。 夏美さんの嘘を暴いた時、千雨はそう言った。 そして、私たちは旧雛見沢を訪れて……まだダムができていなかった様子を実際に見ている。 美雪(私服): (だって、そこで灯さんと出会って……夏美さんと戦ったんだから) なのに、この……目の前に広がる光景は、なんだ?ダムは完成して、村は……湖の底に……?! 美雪(私服): ……。ということはまた、私たちの「世界」の中身が変わったってこと……?! 千雨: ……そういうことだな。話には聞いてたが、「世界」が変わるってのはこういう感じか……。 千雨: っ、……なるほどな。ようやく、美雪たちの気持ちが理解できたよ。 千雨: 2つの「世界」の記憶を持つってのは、確かに気分が悪い……理不尽と不条理で吐きそうだ。 美雪(私服): …………。 ぺたんと地面に座り込む。……尻の下から感じる、冷たく固い土の感覚。 それに向けて、私は……。 美雪(私服): ……ッ……! 無言で拳を振り上げ、……力を込めて勢いよく下ろした。 美雪(私服): ……っ、……っ……!! 無言のまま、右手で地面を殴り続ける。手が汚れようが、皮膚が裂けようが……血がにじもうが構わずに何度も、何度も。 怒りに任せて、こぶしを地面に叩きつけた。……それしかできず、それしか思いつかなかった。 千雨: ――やめろ、美雪っ! すると、背後から千雨が私の身体を羽交い締めにしてくる。彼女に制止されてはさすがに腕が動かず……殴るのを、止めた。 千雨: 何をしたいんだ、お前はっ?地面を殴って何かいいことでもあるのか?! 美雪(私服): ……っ……!! ただ、こぶしを振り下ろすのは止められても……あふれ出る激情はもう、止まらなかった。 美雪(私服): なんなんだよ……どうなってるんだよ、いったい! 美雪(私服): 私たちが何かするたびにダムが作られたり、作られなかったり! 千雨: 美雪……。 美雪(私服): なんなの?! なにがダメだったの?!何がどうしてこうなったの?! 美雪(私服): 誰か、誰でもいいから教えてよッッ!! 千雨: ……それができるやつは、もう神様しかいない。 美雪(私服): ……っ……! 千雨: 答えなんて……わかるはずないだろうが。 諦観と達観をはらんだ千雨のため息まじりの声は、釣れかけた魚を逃がしてしまった時と似ていた。 そうだ……もう、どうしようもない。 わかっている……わかっている。けれど、けれど……! 菜央(私服(二部)): ……ねぇ。 私たちがそんなやり取りをする中、菜央は眼前に広がる湖を呆然と見つめていたが……やがて意を決したように、顔を上げていった。 菜央(私服(二部)): とにかく、移動しましょう。ここにいても、何にもならないわ。 千雨: そうだな。……行くぞ、美雪。 美雪(私服): …………。 千雨に促されて、私は立ち上がる。……ただ、どうしても返事をする気にはなれなかった。 荒れ果てた境内「だった」場所を通って山道に入り、近くの駅を目指して移動する。 徒歩でそこまで移動するのは、大変だとわかっている。幼い菜央は余計にきついだろう。 けど、既にダムが完成している以上……工事関係者の車など望むべくもない。 目的の方角がわかっているだけまだマシだと、ひたすら歩き続けるしかなかった。 菜央(私服(二部)): ……前と違って、『ツクヤミ』の姿は見当たらないわね。 千雨: 前は出たのか?……とりあえず、付近におかしな気配はないみたいだ。 美雪(私服): …………。 先頭を歩く千雨と菜央との会話を聞きながら、私は無言で一番後ろを歩く。 相づちを入れることも、厭わしかった。……だけど、ひとりでは歩きたくない。 自分勝手だとわかっていたが、とても他のものに気を回す余裕なんてなかった……。 菜央(私服(二部)): それにしても……前に「世界」を移動した時は祭具殿にたどり着いてからとか、#p田村媛#sたむらひめ#rが力を使ったからとか、何かしらがあったのに……。 菜央(私服(二部)): 今回はどうして、あんな何も無い場所で前触れもなく元の「世界」に戻ることができたのかしら……? 千雨: ……さぁな。そもそも私は、今回が初めてだ。 千雨: 雛見沢に行くのも戻るのも、どういう理屈が働いているのかさえ意味不明で……理解不能だよ。 菜央(私服(二部)): 理屈はあたしもわからないけど……あっ、そうだわ。 前を歩いていた菜央がポケットに手を入れ、中のものを私たちに見せる。 ……見覚えがある。それは一穂が持っていた、あの不思議な……。 菜央(私服(二部)): 「世界」の移動に必要な『スクセノタマワリ』は、今のところあたしが持ってるけど……。 菜央(私服(二部)): これって単体で働くことってなかったはずよ。ねぇ美雪、そのはずよね? 美雪(私服): ……さぁね。 菜央(私服(二部)): ……っ……。 振り返った菜央にぞんざいな言葉を返すと、その表情が曇っていくのがはっきりとわかる。 途端にこみ上げてくるのは、罪悪感と後悔。だけど、何を考えてどう行動しようか、という意欲めいたものが……全然、わいてこない。 千雨: …………。 菜央の前を歩いていた千雨が、振り返って私の顔を見てくる。 何か、言いたそうにしている様子だ。だけど、私には千雨が何を言いたいかも考えられない。 結局千雨は何も言わず、再び歩き始める。そして、しばらくして……。 千雨: ? おい、これってエンジン音か? 菜央(私服(二部)): エンジンって、車が来てるってこと?こんなダムの奥に、何の用で……。 菜央が言いかけたその時、道の遥か彼方から乗用車が現れて……こちらに向かってくるのが見えた。 美雪(私服): (あの車種には……見覚えがある。だとしたら、乗っているのは……) 果たして、あっという間に私たちの前までやってきて、停車した車の運転席から現れたのは――。 雪絵: あらあら、美雪……それに千雨ちゃんも。 ……予想通り、私のお母さんだった。 雪絵: 夏期講習って嘘をついて、こんなところに来ているなんて……いったいどういうこと? 菜央(私服(二部)): ……っ……! 千雨: あ、いやこれは……! 笑顔ながらも何かを感じたのだろう……菜央は身を竦め、それを庇うように前に出た千雨が何か言い訳をしようとしている。 2人が焦るのも、無理はないだろう。……だってお母さん、笑っているけど笑っていない。 美雪(私服): (……明らかに、怒ってるな) ぼやけた頭に、他人事のような感想が浮かぶ。 怒ったお母さんを前にすると、普段は肝が縮むような思いをするはずなのになぜだろう……今は、何も感じない。 恐怖を前に逃げようとか、または取り繕って言い逃れようと考える意思が……自分の中からごっそりと消え失せたようだ。 ……開き直りのような、蛮勇とは違う。もう面倒だ、どうでもいいという……これは自暴自棄にも等しい思いだろう。 雪絵: ……美雪、なにか言いなさい。 空っぽの感覚を抱えた私の前に立った母へ向け、私はかさついた唇を動かす。 美雪(私服): ……お母さん。 美雪(私服): 今は、……いつ? 何月の、何日……? 雪絵: …………? 何か言えと言ったから声に出したのに、お母さんは不快そうに眉を跳ねさせた。 雪絵: ちゃんと説明をしなさい、美雪。 美雪(私服): 教えて……。 雪絵: どうしてあなたたちは、2人でこんな遠くの場所にまで――。 美雪(私服): 教えてよっ!! こんなふうに親に刃向かうのははじめてだと冷静に考える自分を置き去りに、私は怒鳴りながらお母さんとの距離を詰める。 美雪(私服): 今日は、何月何日?!ここは平成5年で、あってるの?! 雪絵: え、えぇ……。今日は、平成5年……6月、8日よ……? 私の予想外の反応に戸惑いながらも、お母さんはちゃんと答えてくれる。 平成5年……1993年の6月8日、火曜日。 だって、その日付は……。 美雪(私服): (私が最初に戻ってきた時と、同じ……) 最初の『昭和A』から『平成B』に戻り、東京のファーストフード店で千雨から聞いた日付と……まったく同じ。 予想はしていた。想像はついていた。だけど……だけど……ッ!! 美雪(私服): っ……結局、元に戻っただけ……。 私と菜央は平成に戻り、雛見沢はダムに沈んだ。 最初に昭和から戻ってきた『平成B』と、同じ「世界」に……! 美雪(私服): 全部無駄だった、なにもかも……。 がっくりと膝を折り、地面に座り込む。 日差しに照らされた轍の地べたは砂利が多い上、草が生えているところよりも熱くて、痛くて……。 美雪(私服): あはははは、あっははははははは……! だけど、そこから立ち上がる気にもなれなかった。力が入らなくて……何より、心が挫けてしまって……。 美雪(私服): ちくしょうッ!!ちくしょうッッ!! 美雪(私服): くそっ! くそぉおおおおおおおおっ!!うぁああああああああああああああああ!!!!! 灰色の地面にひとつ、ふたつ落ちた水が地面を少しずつ……黒く、染めていく。 もう、止まらなかった。我慢できなかった。悔しくて、悲しくて、腹が立って……情けなくて……ッ! 雪絵: ……千雨ちゃん、何があったの?そっちの女の子は? 千雨: ちょっと、色々ありまして……。 菜央(私服(二部)): っ、……ぐすっ……ううっ……!!    ……どこか遠くで、千雨とお母さんの声が聞こえる。    ……どこか遠くで、泣きわめく自分の声が聞こえる。     ……どこか遠くで、菜央が嗚咽する声が聞こえる。             ……でも。     聞きたいものは、なにひとつ聞こえてこなかった。 Part 02: ……東京に戻ってから2日間、私はベッドの上で伏せっていた。 記憶が曖昧でよく覚えていないけれど、#p雛見沢#sひなみざわ#rからの帰路で熱を出したらしい。 熱は3日目にしてようやく収まり、すっかり回復した4日目の夜……。 美雪(私服): おじゃましまーす。 千雨: ……っす。 菜央(私服(二部)): はい、いらっしゃい。 私と千雨は、2度目にして……この「世界」では初めて菜央の家を訪れていた。 まっ暗な部屋の中ではあったものの、どこに何があるかわかっている菜央に促されてふかふかのソファに腰を下ろす。 そして千雨は私の隣に座り、軽く息をつく。……そして対面の菜央は開口一番、私の顔をうかがうように尋ねかけてきた。 菜央(私服(二部)): 美雪……あんた、ほんとに大丈夫なの?まだ辛いんだったら、そこのソファで横になりながらでも構わないわよ。 美雪(私服): んー、平気。もう熱がぶり返すことはないと思うよ。 美雪(私服): いや……取り乱すだけ取り乱してぶっ倒れるとか、迷惑極まりないね。ごめんごめん。 菜央(私服(二部)): ……。だったらいいんだけど。 美雪(私服): あ、そうだ。うちに泊まってる間、母さんと2人きりの時間多かったけど、大丈夫だった?「また」初対面だし、居心地悪かったのかもってさ。 菜央(私服(二部)): ……ううん。とっても、優しかったわ。私のお母さんのことも気遣ってくれて、お見舞いにも付き添ってくれたし。 菜央(私服(二部)): 入院費も心配してくれたけど、それはまた誰かが払ってくれたみたいで……って、そうじゃなくて。 美雪(私服): そうだね、これからのことを話さないとね。 美雪(私服): せっかく菜央がずっとうちに泊まってたのに、私のせいで何の話もできなかったから進展ゼロだしさ。 菜央(私服(二部)): ……自虐的な言い方しないでよ。体調を崩したんだから、仕方ないじゃない。 美雪(私服): あはは。まぁ、うちだと盗聴されてる可能性あるから菜央の家に来るまではそもそも話自体ができなかったと思うけどね。 美雪(私服): 逆に腰を据えて、ちゃんと話した方が心機一転って感じでいいかも。なんちゃって。 千雨: ……おい、美雪。 すると、菜央の家に入ってからずっと黙っていた千雨が笑い声を遮るように鋭い声をあげていった。 千雨: 無理に明るく振る舞うな。聞いてるこっちが痛々しいし、心配になる。 美雪(私服): …………。 ぴた、と笑い声を止める。 美雪(私服): (……無理をするな、か) 無理なんてしてないよ、と言いたい。けど千雨に対して、そんな浅い嘘はすぐに看破されるだろう。 だとしたら……いうべき言葉はひとつしかなかった。 美雪(私服): 無理するよ。……ここで無理せずに、どこで無理をするって言うのさ? 前の「世界」で告げられた#p田村媛#sたむらひめ#rの予言が、この「世界」でも有効かどうかは未知数だ。 タイムリミットが来て、何も起きなければそれでいい。問題は、そうでなかった時だ。 美雪(私服): 無理しなくても無茶しなくても、私たちに残されてる時間はほとんどないんだ。 美雪(私服): だったら……多少やせ我慢をしても今やるんだよ。悩むのも迷うのも、後回しだ。 千雨: ……そうか。なら、勝手にしろ。私も勝手についてく。 美雪(私服): うん、勝手についておいでよ。 きっと千雨は、何があってもついてきてくれるだろう。 それは千雨の身勝手で、無理をするのも私の身勝手。 美雪(私服): (身勝手同士、ちょうどいいかな……) 菜央(私服(二部)): ……ふふっ。 ふいに、吹き出すような声が聞こえて顔を向けると、対面に座った菜央と目が合う。 そして彼女は私の顔を見ると、肩をすくめていたずらっぽく笑って言った。 菜央(私服(二部)): 千雨の言う通りね。心配するだけ無駄だったわ。 美雪(私服): ん、なんの話? 菜央(私服(二部)): 安心しなさい。あんたが熱を出してる間、あたしたちでやれることはやっておいたから。 菜央(私服(二部)): ……とは言っても、どこから説明すればいいかしら? 千雨: 菜央ちゃんのお母さんのことからでいいだろ。違いが起きた、重要な要素だ。 美雪(私服): 違いって……そういえば、菜央のお母さんはどうなったの? 千雨: 眠り病で入院中だ。それは前と同じだ。 千雨: ただ、雛見沢から東京に戻る途中でサービスエリアから菜央ちゃんのマンションに救急車を呼んだ。 菜央(私服(二部)): 正確に言うと、管理人さんに呼んでもらったんだけどね。 菜央(私服(二部)): 様子を見に行くと、電気メーターは動いてるのに何度チャイムを鳴らしても出なかったらしくて……。 千雨: まぁ、中でぶっ倒れてりゃ出るに出られないよな。 菜央(私服(二部)): 前回はあたしがお母さんを直接見つけたせいで美雪と千雨を巻き込んじゃったけど……今回は直接、救急隊の人に搬送してもらったわ。 菜央(私服(二部)): あと、前より発見がちょっと早かったおかげで、そこまで重篤な症状にはなっていないみたい。 美雪(私服): そっか。……良かったね、菜央。 千雨: それから――高野製薬の治療薬の許可がすんなり下りたらしい……前と違ってな。 美雪(私服): あれ? 外資系の……ユプなんとかって会社の薬は? 千雨: そっちの話は聞かなかった。水面下ではどうなってるかは、わからないけどな。 菜央(私服(二部)): とにかく、治療薬が一般の病院でも普通に使われて……かなりの数の患者さんが意識を取り戻してるそうよ。お母さんにも投与されて、あと数日で目を覚ますって。 美雪(私服): おぅ……それはいい話だ。運が向いてきたってやつだねー。 菜央(私服(二部)): ……えぇ。 美雪(私服): ……他には? 枕元で警察広報センターに行くとか、なんかぼんやりと聞こえた気がしたんだけど。 美雪(私服): 南井さんや、秋武さんたちには会えたの? 菜央&千雨: …………。 私の質問に、2人は顔を見合わせる。躊躇うような表情のまましばらく見つめ合った末、年上の矜持か千雨が口火を切るようにいった。 千雨: ……追い返された。 美雪(私服): へっ……? 千雨: 館長は南井巴じゃないし、関係者の紹介でもなければおいそれと話をするわけにはいかないんだとよ。 美雪(私服): な、なにそれっ……? 菜央(私服(二部)): 千雨のお父さんが警察だから一応話はしてくれたけど、あたしだけだったら速攻で追い返されたでしょうね。 はぁ、と菜央が疲れたようなため息をつく。……どうやら相当冷たい対応をされたようだ。 美雪(私服): (私たちが最初に訪れた時は、お茶にお菓子にシールにって歓迎してくれたのに……?) 美雪(私服): ……どういうこと? 菜央(私服(二部)): そのままの意味よ。職員さんたちも全然違う人ばかりだったわ。 美雪(私服): あ……あの2人以外の人は?ほら、眼帯の妙に威圧感ある……比護って人とか! 千雨: ……いなかった。影も形もってやつだよ。 美雪(私服): …………。 舌打ち混じりの否定に、声を失う。 おそらく千雨も菜央も、それを知って今の私のようにかなり落胆したのだろう。苦々しい表情が、それを物語っていた……。 千雨: ジュースくれたデカいおっさんとか、他にも色々と特徴的なのが結構いたと思うが……そいつらも、全員いなかった。 千雨: あれだけ様変わりしてると、記憶してた「世界」とはまるで別物……としか言いようがない。 美雪(私服): …………。 落胆とともに頭を抱えて、叫びたい気分をなんとか抑えながら、冷静に他の言葉を探す。 警察に知り合いがいないのであれば、他のルートだ。味方になってくれるかは怪しいが、まだ「あの人」がいる……! 美雪(私服): 藤堂……公由夏美さんは? 一縷の望みを託して、2人に尋ねる。だけど彼女たちは揃って首を横に振り、すでに問い合わせ済みであることを示していった。 千雨: 例の病院に行って、職員に聞いてみたんだが……そんな人間はいないらしい 菜央(私服(二部)): 一応、公由さんの連絡先を控えてたから電話をかけてみたんだけど……。 菜央(私服(二部)): そんな人間はいない、でガチャ切りされちゃったわ。隠してる感じでもなかった。 美雪(私服): つまり……。 千雨: 警察、そして製薬関係の協力はこの「世界」だとほぼ期待できないってわけだ。 美雪(私服): …………。 薄々わかっていたけれど、断言されると重みが違う。 と、状況の酷さに黙り込んだ私に気まずさを覚えたのか、千雨が付け加えていった。 千雨: 念のための報告だが、美雪のところのおばさんや私の母親への説明は済ませた。 美雪(私服): (……そうか。私の熱が下がってからもお母さんが特に注意をしたりしてこなかったのは、千雨と菜央が説明してくれたおかげってわけか) 美雪(私服): ありがと、助かった……お母さんの反応は? 菜央(私服(二部)): 全部、ではないと思うけど……大まかな状況は理解してくれたみたい。 千雨: ……皮肉な話だが、お前の取り乱した様子を直接見たのが、一番説得力があったみたいだな。 美雪(私服): お、おぅ……。 今思い返すと取り乱しすぎて恥ずかしいが、こうなったら結果オーライと言うしかないだろう。 千雨: 行動制限は前より緩い……が、相当きつい状況ってことは間違いなさそうだな。 菜央(私服(二部)): えぇ。あたしも『眠り病』の疑いで病院に監禁されたりして、時間を無駄にせずに済んだ……けど。 菜央(私服(二部)): 夏美さんと知り合うことがなくなったから、そのツテがなくなったのは痛いわね。あと……。 美雪(私服): ? どうしたの、菜央。 菜央(私服(二部)): あたしが「昭和」の雛見沢に飛んだ後、何があったかはだいたい千雨から聞いたわ。 菜央(私服(二部)): でも……夏美さんって、本当にあんたたちを襲うくらいに悪い人だったの? 美雪(私服): 悪い人……では、ないと思う。 千雨: けど現実として、私と美雪……灯さんって人ももう少しで殺されるところだった。 美雪(私服): それを差し引いても、だよ。 千雨の定義では、夏美さんは悪人なんだろう。……でも、私の定義では完全にそうだとは思えない。 美雪(私服): あの人は殺したいから殺すんじゃなくて、殺す必要性があったって感じだった。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: だから……美雪さん。あなたが過去の誰かから預かったという、「本」を渡してください。 美雪(私服): それにしても、あの人が渡せって言ってた本……いったい何のことを指してたのかな? 美雪(私服): ……っ……? 閉じたまぶたの向こう側に今、何かが一瞬見えた気がしたけれど……。 我に返った時には、既に見えなくなっていた。 美雪(私服): あ、そうだ。夏美さんと言えば……! 菜央(私服(二部)): 言えば? 美雪(私服): 灯さんの連絡先、聞いておけばよかった……! 悲痛な声をあげて頭を抱えうずくまると、菜央が不審そうな声をあげる。……彼女だけは、あの人のことを知らないのだ。 菜央(私服(二部)): 千雨の話を聞く限り、すごく変な人っぽいけど……その灯さんって人、本当に頼りになるの? 千雨: 変人だが、確かに何か掴んでいそうではあった……お姉さんごと繋がりが消えたのは痛いな。 菜央(私服(二部)): じゃあ、お姉さんの方を探し出せないかしら。その人って警察官なんだから、社宅のツテで探せない? 千雨: おいおい……警視庁だけで警察官が何人いると思ってるんだ? 美雪(私服): あと、あそこ警視庁じゃなくて正確には警察の関連施設だからね。秋武さんが事務職員だった場合、探すのは厳しいかな。 菜央(私服(二部)): そう……。 美雪(私服): あと灯さん、学生時代は銀座のプールバーでバイトしてたって言ってたけど……未成年が夜の店を探し回るわけにいかないしね。 美雪(私服): いや、そもそも「世界」の状況が変わった今だと……南井さんも秋武姉妹も何も知らない可能性もある。 よしんば3人を探し出せても、以前とまったく同じ手がかりを所有しているとは限らない。 確実性に欠ける情報入手のために、時間は費やせない。 千雨: つまり、お前が寝込んでる間にわかったことは……東京に確実な手がかりがないってことだけだ。 美雪(私服): ……東京、には? 千雨: ダムになった雛見沢周辺と、高天村……あと、海辺の神社の確認がまだだ。証拠があるかは不明だが、見に行くべきだろ。 美雪(私服): あぁ、そっか……東京に戻る前にそこもちゃんと確認するべきだったね。ごめん、私が熱出したせいで……。 菜央(私服(二部)): あたしのお母さんの件もあったもの。一度帰ったのは間違いなんかじゃないわ。 菜央(私服(二部)): どんなによく効く薬も、発見が遅れて死んじゃった後じゃ意味がないもの……。 美雪(私服): 菜央……。 か細い声から、菜央にとって母親がどういう存在か痛いほど伝わってくる。 そう言われてみると、確かに一度帰ってよかったのかもしれない。 菜央(私服(二部)): ……それより、海辺の神社であんたたちが会った巫女さまって、本当に絢花さんだったのよね? 千雨: あぁ。名前は違ってたが、本人がそう言ってたからな。 菜央(私服(二部)): でも……絢花さん、この「世界」では10年間をどう過ごしてたのかしら。あと、あの惨劇をどうやって回避を……? 千雨: さぁな。こればっかりは、行ってみないとわからん。 千雨: ダム工事が終わってるってことは、色々と状況が異なってる可能性が高いからな。 千雨: ……美雪の父さんの死因が、雛見沢での失踪に変わってることとかも。 美雪(私服): ……あぁ、それもやっぱりか。 雛見沢がダムになっていた時点で薄々わかっていたけど……やはりお父さんの死因は『平成A』と同じらしい。 美雪(私服): (戻った、って言うべきかな?いや、これは……) 千雨: とりあえず、だ。今後の予定……と言うか、明日はどうする? 美雪(私服): 絢花さんのいた神社に行ってみよう。あそこなら、電車で行けるしさ。 千雨: だな。雛見沢よりはまだ近い。 菜央(私服(二部)): 高天村……本体? で、いいのかしら。雛見沢をまるごと移したってところの方は? 美雪(私服): あっちは同じ村でも、車がないと行くのが難しそうだったからね……。 千雨: 明日は神社の確認だけとしよう……菜央ちゃん、異論はあるか? 菜央(私服(二部)): ないわ。神社に行けば、絢花さんに会えるかもしれないもの。 美雪(私服): じゃあ、朝一出発ってことで。菜央、着替えとか持ってきなよ。持つの手伝うからさ。 菜央(私服(二部)): ……あたし、まだお世話になっていいの? 私の言葉に菜央は大きな瞳をさらに丸くした後、遠慮がちに問いかけてきた。 美雪(私服): 菜央のお母さんが退院するまで、遠慮しないでよ。逆に菜央をひとりにすると、母さんが心配するしね。 菜央(私服(二部)): ……そう。じゃあ、お世話になろうかしら。 強ばっていた表情がほっとしたように緩められる。 母親のいない家にひとりで戻残るのはさすがの菜央も不安だったのだろう。 菜央(私服(二部)): 待ってて、すぐ準備するから。……あ、あたしの部屋なら電気つけていい? 千雨: もう話は済んだからな。まっ暗な中で荷造りは無理だろ。 菜央(私服(二部)): 急いで済ませるわ。ちょっと待ってて。 菜央が急いで自室へ走っていくのを見送りながら……私はふと、ひとつのことを思い出す。そして、隣に座っている千雨に顔を向けた。 千雨: ……なんだ? 美雪(私服): あのさ……お母さんが以前、家族を含めた私たちの動向は何者かの監視下に置かれてるって言ってたよね。 美雪(私服): あれって、どういうことなんだろう? 電気もつけずまっ暗な中で延々と喋ることになったのも、その忠告があったからだ。 電気をつけないことがどれだけ効果があるかは不明だが、やらないよりマシだろう。 美雪(私服): 今日も、後をつけられてるって感じはしなかったし。 千雨: わからん。その辺りの調査は、素人の私たちじゃどうにもならないと考えるべきだ。 千雨: とりあえず今は慎重に動いて、敵が尻尾を出すのを待つしかない。 美雪(私服): ……だよね。尻尾を出したら掴むしかないか。 ごそごそと菜央が荷造りの手を進める音を聞きながら、私は暗闇の天井へ視線を向ける。 美雪(私服): …………。 美雪(私服): (私……何か、忘れてない……?どうしても頭の中に違和感というか、引っかかるものがあるんだけど……) Part 03: 東京から、高天村の神社へと電車を乗り継いで向かうのは初めてだった。 美雪(私服): (高天村本体は南井さんの車で行ったし、神社には反対側の#p雛見沢#sひなみざわ#rから、灯さんの案内で電車で行ったから迷わなかったけど……) 一度辿った道だが、それでも不安と期待を抱えて移動する緊張感は何も変わらない。 美雪(私服): (……いや、今回は菜央がいる) 私と千雨だけなら最悪逃げの一手が打てるが、菜央がいる以上その選択肢は消える。 美雪(私服): (前よりも、気を引き締めないと) 3人揃って人気の無い駅で降りると、菜央は物珍しそうに周囲を見渡しながら言った。 菜央(私服(二部)): ……ここの辺りって、関東大震災でかなりの被害を受けたところなんでしょ? 菜央(私服(二部)): 確か駅舎と列車ごと、山からの土砂崩れに巻き込まれて海の底に沈んだって。 美雪(私服): へー、よく知ってるね。私も灯さんから教えてもらったんだけど。 菜央(私服(二部)): 以前お母さんに、ダイビングの名所だって教えてもらったのよ。 千雨: 菜央のお母さんって、ダイビングが好きなのか? 菜央(私服(二部)): あたしがちょっと興味を持ったことあったのよ。知りたいって言ったら色々と教えてくれたり、機会を用意してくれたりしてね。 菜央(私服(二部)): だから、行きたいって言ったら連れていってくれたでしょうね。 菜央(私服(二部)): ……もっとも、そんな曰く付きの場所に潜るなんてあたしは絶対にごめんだけど。 千雨: 菜央ちゃんは幽霊を信じるクチか?……まぁ私も、最近は否定派から肯定派に鞍替えしたくなってるんだけどな。 菜央(私服(二部)): 幽霊、ね……美雪はどう思う? 美雪(私服): うーん、そうだね……。 美雪(私服): 幽霊がいるなら、もっと自己主張してほしいな。存在そのものがあやふやだと、対処に困るしさ。 千雨: 生きてる人間と区別がつかないレベルだと、何かと困るんじゃないか……? 美雪(私服): 危害を加えられたら困るけど、害がないなら別にいいんじゃないかな。 美雪(私服): あと、幽霊にも個体差ってあるのかな?まぁ、本人の意思じゃどうしようもないか……。 美雪(私服): それと、害を及ぼす幽霊の存在が明らかになったら幽霊用に新しい法律を作らないとダメだよね。 美雪(私服): あぁでも、警察になってくれる幽霊とかいるかな?幽霊に衣食住が不要ならお金なんて意味ないし、でも生きてる人間じゃ捕まえられないし……。 美雪(私服): ……って、菜央? なんでそんな変な顔してるの? 菜央(私服(二部)): なんか……美雪って、たまにズレてるわよね。 美雪(私服): んー、そう? 千雨: 安心しろ。こいつがズレてるのは昔からだ。 美雪(私服): ……千雨にズレてるとか言われるのは、ちょっと納得がいかないなー。 千雨: 安心しろ。私はズレてる自覚がある。 美雪(私服): 自覚があればいいってもんじゃないでしょうが。 菜央(私服(二部)): まぁ、あるに越したことはないと思うけどね。 他愛ないお喋りをしながら海辺を歩き、記憶を辿って神社へ向かう。 そして、到着した境内は……。 美雪(私服): な、なんだよこれは……?! 以前来た時よりも荒れ果てた神社が視界に入るや、私は走り出していた。 千雨: おい、美雪っ……? 千雨の制止も振り切って、目指すは神社の奥。 美雪(私服): (今回もまた……とか、甘い考えを持ってたわけじゃない) だけど、もしかしたらという期待はあった。 #p田村媛#sたむらひめ#rの声が聞こえなくなったこの「世界」で、昭和58年に行けるとしたらこの方法しかない……と。 ……だけど、私を待ち受けていたのは無惨な現実だった。 美雪(私服): 注連縄が……?! 記憶よりも荒れた神社の奥に辿りつくと同時に目の辺りにしたのは、私たちがかつてくぐった注連縄の見るも無惨な姿だった。 千雨: これってまさか……あの川田って女がやったのか?! 美雪(私服): ……かもね。でもこれで、最後の希望が絶たれたってことになるかな……。 今の私が過去に行ったところで、正直何ができるかなんてわからない。 だけど、方法があるが意図的に使用しないのとその方法がそもそも存在しないことの間には、大きな隔たりが存在する……! 菜央(私服(二部)): ま、まだ可能性はあるかもしれないわ……!だってほら、今はまだお昼過ぎじゃない! 菜央(私服(二部)): なんとか修理して夕方になれば、あるいは……! 声: ……無理ですよ。それはもう、使い物になりません。 背後から響く甘ったるい声に振り返ると、そこにいたのは……。 美雪(私服): か、川田さん?! いつの間に……! 千雨: ……っ……! 千雨が即座に戦闘態勢に入り、私も菜央を背中で庇いながら身構える。 菜央(私服(二部)): ……っ……! 私たちの様子を見て、菜央もワンテンポ遅れながらも慌てて「カード」を手に取った。 川田: あぁ、安心してください。あなた方に危害を加えるつもりはありませんよ。 そんな警戒心に満ち満ちた私たちに、川田さんは両手を掲げてみせたかと思うとひらひらと魚の尾びれのようにひらめかせた。 川田: ついでに、ソレをズタズタにした覚えもありません。 そう言いながら彼女は、腰掛けていた大型バイクのシートから完全に下りる。 川田さんと傍らに佇む大型バイクは、神社の景色と合わさると奇妙な神秘性があって……まるでモンスターを従える巫女のようにも見えた。 川田: ちなみに、いつの間にも何も……あなたたちが来る前から、ここにいましたよ。 美雪(私服): 気づかなかった……。それじゃ、この縄はどうして……?! 川田: さぁ……どうしてでしょうね。 答えているようにも、とぼけているようにも見える川田さんを、千雨は敵意を露わに睨みつけた。 千雨: ……なんでお前、ここにいる。また私たちの後をつけてきたのか? 川田: いえいえ、今回は偶然です。私もこの神社の様子を見に来ただけですから。 すると川田さんは、あーあ、とのんきな声をあげながらよく晴れた青空を仰ぐ。そして、 川田: ほんとあなたたちって、私が見込んだ通りというか……。 川田: いえ、予想を遥かに超える大活躍をやってのけてくれましたね。 川田: 私としては、「あの子」の注意をそらす目くらまし程度に動いてもらうだけでよかったんですけど。 いつもの本心の読めない軽い調子を保ちながらも、喋る彼女の表情にはどこか物憂げなものが入り交じっている。 千雨: 結局……あんた、何者なんだ? 川田: …………。 千雨の当然の疑問に、川田さんは憂いを帯びた甘い笑みを見せて……。 川田: ちょっと面倒かも知れませんが、まず前提としての例え話をします。 私たちに、真面目な表情を浮かべて向き直った。 川田: 未来を変えるために過去へ飛ぶ、というのはタイムトラベルものの要素のひとつですが……。 川田: その能力を複数の人間が持っていたとしたら、どうなると思いますか? 美雪(私服): ……その話は、夏美さんからも似たような話をされたよ。 美雪(私服): Aさんが幸せになりたくて改変した未来は、Bさんにとって幸せとは限らない。 美雪(私服): だからその能力を手に入れたBさんは、もう一度世界を変えようとするって。 川田: その通りです。うーん、あの人らしい例え話ですね。 川田: ……ま、大まかな認識は同じなのでその例えをお借りしちゃいましょう。 川田: その相反する目的の2人が「世界」を引っかき回してしまった結果として……。 川田: この「世界」はもう原型を留めないほど、ムチャクチャになってしまったんです。 川田: おかげで得体の知れない怪物だの、不治の病だのがあちこちで現れるようになりました。 川田: あまりにも複雑に入り交じりすぎたせいで、神様的な立場にある人でもお手上げっ!……になっているのが現状なんですよ。 美雪(私服): (得体の知れない怪物……『ツクヤミ』?だとしたら不治の病は『眠り病』のこと?) 私が問おうとするより早く、背中に庇っていた菜央が私の前に出た。 菜央(私服(二部)): その2人のうちの1人って……もしかして、梨花のこと? 川田: おや……もうご存じでしたか。はい、その通りです。 川田: 本人が自分を神様だと思っているかはわかりませんけど、この場合は便宜上「神」と呼ばせてもらいますね。 川田: 理屈や理論は面倒なので説明を省きますが、彼女はとある力を与えられて数え切れないほどタイムトラベルを繰り返した。 川田: そして、周囲の人たちの協力も得て幸せな未来を手に入れた――の、ですが。 川田: 何度も何度も時間を繰り返したことで、それだけ多くの「未来」が生まれてしまったんです。 川田: 言ってみれば、この世界は本に書かれてあった内容を書き換えたものではなく……。 川田: 別の白紙の本に元の内容をコピーして、その先に新しい未来が書き込まれた?みたいな……そんな感じ? らしいです。 川田: とすると、古手梨花が繰り返した結果……どうなっちゃうと思います? 千雨: 本の数だけ「世界」が存在することになるな。つまり、それが並行世界ってやつか……。 川田: その通り。 ぱちぱち、と川田さんがやる気のない拍手を送る。 川田: ただ、古手梨花の場合は背後の存在によって制御、整理……あるいは淘汰でしょうか?理屈はともかく、『書庫』に収まる範囲で終わりました。 菜央(私服(二部)): つまり……梨花が最高の未来を探して模索したこと自体は、何も問題がなかったってこと? 川田: んー……問題が皆無かは私には断言できませんが、仮にあってもそんなに大きな問題ではなかったはずです。 菜央(私服(二部)): …………。 菜央の強ばっていた両肩が、途端に落ちる。なんだかとてもほっとしているように見えた。 美雪(私服): (菜央……梨花ちゃんから、何か聞いたのかな?) 理由はわからない。 けど、今の菜央の問いは古手梨花の行動は問題で、それはしてはならないことだ……と。断罪されることを、恐れたように見えた。 川田: でーすーが……。 川田さんのけだるげな声が、思考を遮る。 川田: 同じような能力を与えられた存在がもうひとり現れて、同じようなことをやり始めました。 川田: 古手梨花が足掻いて生まれ残った「世界」は、確率こそ不明ですが……元々彼女が何もせずとも生まれる可能性が存在していたもの? らしいです。 川田: ……だから、大きな問題にはなりませんでした。 川田: しかし、そいつは自分のことだけしか考えず、顧みず……好き放題に移動し続けた。 川田: 例えるなら……そうですね。古手梨花は延々とアタリが出るまでくじを引き続けて、そいつはアタリのくじを偽造までした……みたいな? 川田: けど、自分でアタリくじを作っても本当に欲しいのはアタリの景品ですから……まぁそう簡単にはいきません。 川田: それによっていろんな「歪」が生まれることになったのが、今の状況ってわけです。 美雪(私服): そのことについてはなんとなく理解できたけど……そもそもの謎が、不明のままだよ。 美雪(私服): 川田さん……どうしてあなたは、それを知ってるの? 川田: それはですね……。 もったいぶるようにたっぷりと間を置いて、彼女は口元を半円状に歪めて。 川田: 私が『猟犬』だからですっ。わんっ☆ 顔の前に両握り拳を添えたワンワンポーズで、断言した。 美雪&菜央: …………。 あっけにとられる私と菜央を横目に、千雨があのなぁと呆れた声をあげる。 千雨: ……私は犬飼ってたからな、犬の鼻がいいのは知ってる。けどな……いくら鼻がよくても知らない匂いは追えない。 千雨: ……あんたが追ってるニオイ、誰から教えられた? 川田: あれ、前にも言いませんでしたっけ?いわゆる自称・神ってやつですよ……あなたたちのとは違う、ね。 川田: 私はその神的なアレから力を授けられ、世界をなるべく元の形に戻すことを託された……いわば猟犬兼、掃除人、駆除係ってやつです。 千雨: つまり、あんたもやろうと思えば好き勝手に未来を作る力がある……けど、首に縄をつけられていて好き勝手にはできない。 川田: ……んー、まぁそんな感じです。 川田(私服目開): ま、私は人の言うことをよぉ~く聞くかぁいい猟犬ですから。そういうことはしないです。 細い目を僅かに開きつつ、挑発するようにストールに包まれた自分の首筋を細い指でなぞって見せる自称・猟犬。 その口調自体は綿のように軽いけれど、紅く染まった瞳で私たちを見据える表情は犬というよりも孤高の一匹狼のようだった。 川田: さて……私に与えられたお仕事は2つ。ひとつは、これ以上余計な本を増やさないためにタイムトラベラーを追って、そいつの行為を止めること。 川田: そして、もうひとつは……無駄にできてしまった世界を間引きするため、その因子を潰すか消し去ること。 川田: その役目を果たすことを目的にして、ニオイと言う名の痕跡をあっちこっちクンクンしながら渡り歩いていたわけです。 川田: 南井さんをはじめとした日本の警察と繋がりを持っていたのも、手がかりとなる情報を集めるためです。 川田: そっちはあまり役に立ちませんでしたけど……あれ、これ前にも言ったかな?まぁそんな感じです。 美雪(私服): ……じゃあ。 口にたまった唾を飲み込み……言葉を絞り出す。 美雪(私服): 川田さんが追ってるっていう、もう1人のタイムトラベラーって……誰? 川田(私服目開): ――西園寺雅。 美雪(私服): ……っ……? まさか答えてくれるとは思わず、固まる私に……川田さんは冷たい目で続ける。 川田(私服目開): あなたたちが世界のあちこちで耳にしたであろう「あの子」の本名が……それです。 Part 04: 美雪(私服): ……電車、なかなか来ないね。 千雨: ローカル線の本数なんて、こんなもんだろ。 古びたベンチに3人並んで座って、どれだけ経っただろうか。 ぼんやりとした呟きに、千雨がぼんやりとした口調で返事をした。 一日の一番暑い時間が近づいているせいか……日影に逃げたつもりでもわずかに差し込む太陽に、じりじりと肌を焼かれるようだ。 菜央(私服(二部)): あたし、無人駅って初めて使ったかも……かも。 千雨: そんな珍しいもんでもないだろ。 美雪(私服): いや、都内で無人駅を見たことないしさ。 千雨: 美雪も菜央ちゃんも、典型的な都会っ子だな。うちの親父の故郷には山ほどあったぞ? 菜央(私服(二部)): そんなに遠いの? 千雨: あぁ。と言っても、私も行ったのはかなり前だけどな……婆さんの葬式が最後か? 千雨: 爺さんは親父が生まれる前に死んでるから、今後はもうあまり行くこともないだろう……あ、やべ。親父の墓問題を忘れてた。 千雨: 親父の骨壺、まだどうするか決めてないんだよな。あっちに骨入れられると、墓参り面倒なんだが……。 菜央(私服(二部)): それは、その……大変ね。 千雨と菜央のとりとめのない話を聞きながら、空を見上げる。 ……思い返すのは、ほんの少し前に交わした川田さんとのやりとりだった。 美雪(私服): 『……西園寺、雅……』 聞き覚えがある。確か、そう……灯さんが教えてくれた名前だ。 今から60年前……いや、1923年のことだから70年ほど前に起きた関東大震災の犠牲者の中で、身元が判明しなかったという唯一の……。 美雪(私服): 『(……。あれっ……?)』 ふと、違和感がこみ上げてくる。……なんで私は、大震災が「今から60年前」だと思い出しかけたのだろうか。 この「世界」は1993年だ。つまり1923年から引き算をすれば、当然70年という答えが出てくるはずなのに……? 川田: 『……。私が喋れるのは、ここまでです』 問いかけようとした私に、川田さんは自分の唇に人差し指を押し当てる。 川田: 『ここまで話したのですから、あなたたちに守ってもらいたいことがあります』 川田: 『……もう、過去についての詮索は止めにしてください』 美雪(私服): 『えっ……?』 千雨: 『一方的にペラペラ喋ったのはそっちだろ。押し売りもいい所だ』 川田: 『喋らないと、もっと悪い方へ進むと思ったからです。これでも悩んだ末の譲歩なんですよ?』 川田: 『あなたたちの頑張りのおかげで、私はなんとか最低限の役目を果たせる直前まで来ました』 川田: 『……決して、皮肉じゃないです。あなたたちが注意を引いてくれなければ、私は西園寺雅の所在を掴むことができなかった』 川田: 『これは間違いなく事実です。……本当に、感謝しています』 川田さんは目を伏せて、軽く頭を下げる。 だがその頭を再び持ちあげた時、再び川田さんの目は見開かれていた。 川田(私服目開): 『だけど……ここから先は、どうなるかわかりません。いえ、今以上に本当に悲惨なことになる可能性が高い』 川田(私服目開): 『冗談でもなんでもなく、それこそ死んだ方がましだと思えるような苦しみと辛さを味わうことになるでしょう』 川田(私服目開): 『ファンタジーに食い殺された方が、ずっとずっと楽だったのに……それを、選ばなかった』 美雪(私服): 『…………?』 ファンタジーに、食い殺される……前にもその言葉が聞こえた気がしたけれど、正直意味がわからない。 だけど川田さんは答える気は無いのか淡々と言葉を紡ぎ続けていった。 川田(私服目開): 『私は、あなた方の選択を賞賛します。……でも、その先の苦しみに意味はないと断言します』 川田(私服目開): 『だからもう、あなたたちの旅はここで終わりです』 美雪(私服): 『……お気遣いはありがたいけど、そのお願いは聞けない。だって、私たちは――』 川田(私服目開): 『これは忠告でも気遣いでもなく、最後通牒……私が味方としてあなた方にできる、最後の気遣いと思ってくださって結構です』 菜央(私服(二部)): 『け、けどあの子が……一穂が、まだ……!』 食い下がろうとする菜央が一穂の名前を出した瞬間、川田さんのまぶたが微かに震える。 川田(私服目開): 『…………』 菜央に向けられる瞳に込められているのは……哀れみと悲しみ。 勝ち目なんて全くないとわかっていながら、死地に赴く人間を見るような……そんな目だった。 川田: 『彼女のことは、もう忘れるべきです』 川田: 『推測が正しければ、あなた方は私の制止を振り切った先の「世界」で一穂さんの正体を、見てきたはず……違いますか?』 美雪(私服): 『……ッ……?!』 川田: 『あー、やっぱり。はーぁ……あれが予想できたから、行っちゃだめだって止めようとしたんです』 川田: 『……けど、済んだ話です。あの時素直に止まってくれればとは思いますが、その場合菜央さんはこの場にいないでしょうし』 川田: 『これ以上あなた方を責めたりしません……そもそも、あなたたちにこの状況をどうにかすることなんてできないんですから』 千雨: 『あ? そいつはどういうことだ?』 川田: 『どうもこうも、この問題は個人の能力とか努力とか、そういう安っぽいパワーじゃ解決できないんです』 川田: 『あなた方ではどう足掻いても、手が届かない場所に要因があるってことですから……』 菜央(私服(二部)): 『……だったら、川田さん。あなたなら、なんとかできるっていうの?』 川田: 『えぇ。私は、あなたたちとは違うので』 ……こういう台詞は、嘲るような意味で使われるのだと思っていた。 でも、川田さんの表情にはそういったものとはほど遠い、暗く濃い陰が落ちていて……怒りよりも先に、疑問が沸き立つ。 美雪(私服): 『私たちと川田さんで、何が違うって言うの?』 川田: 『全部です。全部……だから私は、敬意を持って忠告します』 川田: 『あなた達は、本当に頑張りました。でも……ここから先も私の前に立ち塞がるようなことがあったとしたら』 川田(私服目開): 『……今度こそ、容赦しません。そのことを、しっかりと覚えておいてください』 言いながら川田さんはバイクにまたがり、ハンドルに引っかけていたフルフェイスのヘルメットを手に取る。 美雪(私服): (もう、行っちゃう……?!) 美雪(私服): 『ま……待って!まだあなたには、聞きたいことが……!』 川田: 『あぁ、そうだ……一つ確認ですけど』 山ほどある聞きたいことから最優先事項の質問を選ぼうと頭を回転させる中、川田さんがふと思い出したように振り返って。 川田: 『あなたたちが訪れた、昭和58年の6月ですが』 川田: 『……ひぐらしは、ないていましたか?』 美雪(私服): 『……ぇ……?』 一瞬、頭が真っ白になる。 美雪(私服): (ひぐらし……? え、なんのこと?) 振り返ると千雨も菜央も、困惑した様子で互いの顔を見合わせている。 3人全員が質問の意図を理解できない中、獣の#p咆哮#sほうこう#rに似たバイクのエンジン音がほとんど廃墟と化した神社に響きわたった。 川田: 『……ありがとうございました。さようなら』 ヘルメット越しのくぐもった声だけを残し、そのまま川田さんは砂利道をものともせずバイクを走らせて土煙とともに去って行く。 彼女が最後に、どんな顔をしていたかは……ヘルメットのシールドに覆われて、見えなかった。 菜央(私服(二部)): ねぇ。美雪たちは、その……前の「世界」のあの神社で絢花さんに会ったのよね? 千雨: あぁ……川田ってやつの登場に気を取られて、うっかりそのことを聞きそびれちまったな。 千雨: だが、あの分社は無人になってからずいぶん時間が経ってるみたいだった。 千雨: あの神社を定期的に管理している人間は現状誰もいないと考えたほうがよさそうだ。あんだけ大騒ぎしても、誰も出てこなかったしな。 菜央(私服(二部)): じゃあ、絢花さんは惨劇に巻き込まれずに、どこかで元気に生きているかもしれないって……そう思って、いいのかしら? わずかに希望をにじませた菜央の顔が曇るのは、見たくない。 けれどその淡い期待を裏切ることになっても、私はこの言葉を伝えなくてはいけないと思った。 美雪(私服): どんな運命になっても、私は受け入れる……。 菜央(私服(二部)): え……? 美雪(私服): 絢花さんが、私たちを送り出す時に言った言葉。 美雪(私服): ……ひょっとしたらあの人は、こうなることを予測してたのかもしれない。 美雪(私服): 一穂と菜央が助かったとしても、自分は二度と会えないかもしれない……って。 菜央(私服(二部)): そう……。 寂しそうに俯きながらうなだれる菜央を前に、胸がちくりと痛むと。 でも……同時に思う。 美雪(私服): (どうして絢花さん、自分が行かなかったのかな?) 絢花さんではダメな理由が何かあるのか。それとも、私たちにしかない何かがあるのか。 菜央(私服(二部)): ……絢花さん、病気だったそうなの。子供の頃からでずっと入院してて、会った時は大分回復したらしいけど。 菜央(私服(二部)): でも、ご飯の時はいつもたくさんの薬を飲んでたわ。だから完治したわけじゃなかったんでしょうね。 美雪(私服): ……そうなんだ。 もしかしたら、この世界の絢花さんは病気が治らず入院したままかもしれない。いや、下手をすれば病気が悪化してそのまま……。 なにもわからないせいで、嫌な想像ばかりしてしまう。 美雪(私服): (逆に考えよう……今の私が、はっきり断言できることは?) 古手絢花……西園寺絢は10年の後悔を積み重ね、私たちを菜央の元へと送り出した。 それだけは、どうやっても変わらない事実だ。 美雪(私服): (絢花さんの覚悟を、ムダにするわけにはいかない。……けど、どうやって生かせばいい?) 川田さんの忠告はありがたいが、正直聞き届ける気は最初から無い。 美雪(私服): (川田さん、私たちは頑張ったなんて言うけれど……全然足りてないから、一穂を助けられてないんだよ) 川田さんが一穂を助けないなら、自分たちで助けるしかない。 でも、その方法がわからない……。 ため息をつきながら、額に浮いた汗を拭こうとズボンのポケットに手を入れて。 指先が、ざらりとしたものに触れた。 美雪(私服): …………。 取り出したのは、千雨が作ってくれた真っ赤な革製カバーをかけた手帳。 美雪(私服): (……私の、手帳) なんの気なしにページをめくると、手書きで連ねた犠牲者名簿が現れる。 苛立ちをごまかすように、パラパラとめくり……。 美雪(私服): (…………?) あるページに違和感を覚え、手を止める。 テストの答案よりも熱心に何度も確認して、何度も見直して……。 美雪(私服): っ…………?! 無意識のうちに過呼吸のような引きつった声が出て、私の変化に気づいた千雨と菜央がこちらを見てきた。 千雨: ……どうした、美雪? 菜央(私服(二部)): ひょっとしてそこに、新しく誰かの名前が加わってたり? 美雪(私服): 逆だよ……。 菜央(私服(二部)): ……えっ? 美雪(私服): ない……ないんだよ! 美雪(私服): 魅音、沙都子、梨花ちゃん、前原くん……悟史くんの名前まで載ってるのに! 美雪(私服): レナだけ名前が、消えてる……?! Part 05: 菜央(私服(二部)): ――貸してっ!! むしるように私の手帳を奪った菜央は、開いたままのページを跡がつくほど開くと『り』行に姉の名前がないことを確かめる。 美雪(私服): 竜宮の名字は一人だけ、しかも男性……これ、レナのお父さんだよね?! 菜央(私服(二部)): っ……美雪、千雨っ! 菜央が手帳を握りながら顔をあげる。 菜央(私服(二部)): あんたたちが、あっちの「世界」の#p雛見沢#sひなみざわ#rに行く前にレナちゃんと会ったのって、確かどこかの隔離病院だったって言ってたわよね……?! 千雨: ……あぁ、そうだ。 千雨: ってことは、おい……もしも、だ。この「世界」が、私たちがついこの前までいた昭和58年6月の続きだとしたら……? 美雪(私服): ……っ……! 千雨: 竜宮レナはあの#p綿流#sわたなが#rしの祭りの途中、#p興宮#sおきのみや#rの警察署に行くため直前で会場を離れた……! 千雨: そのおかげで、あの惨劇から回避できていた可能性は、十分にある! 美雪(私服): っ……行こう、あの病院へ!もしかしたらそこに、レナが――、っ?! そう言って立ち上がりかけた私だったが、手帳を握りしめる菜央の視線と交錯して……思わず動きを止めてしまう。 美雪(私服): (そうだ……この世界のレナが生きてても、菜央が会うのはあの抜け殻になったレナなんだ……) 私ですら、あのレナを直視するのは苦しかった。 でも、あのレナを目の辺りにしたからこそ……菜央を犠牲にしてもレナは幸せになれないと断言できたし、多少の無茶は貫き通したのだ。 私は、会ってよかったと断言できる。でも、菜央にあのレナと向き合わせるのは……? 美雪(私服): (それは、あまりにも辛すぎるんじゃない……?) 菜央(私服(二部)): ……大丈夫よ。 ためらう私に、菜央は弱々しくも気丈に頷いてみせた。 菜央(私服(二部)): 「世界」はもう変えられないし、変えちゃダメだって川田さんに言われたわ。 菜央(私服(二部)): それを無視して変えようとしたら、あの人は……本当に、殺しに来る。 千雨: ただの脅しの可能性もあるだろ? 菜央(私服(二部)): ……あたしは、脅しだとは思わない。あの人はおそらく……いえ、きっとやるわ。 菜央の小さな両手が、自分のスカートの裾をシワになるほど握りしめる。 菜央(私服(二部)): 正直、あたしはどうなっても構わないって、そう言いたい……けど……。 菜央(私服(二部)): あたしが今ここにいられるのはお姉ちゃんや絢花さん、美雪たち……たくさんの人に救われたおかげだから。 菜央(私服(二部)): お姉ちゃんのためだとしてももう……死んでもいいなんて、言えなくなっちゃった。 だから、と菜央は顔を上げる。今にも泣きそうなくしゃくしゃな顔で、私をまっすぐに見返して……。 菜央(私服(二部)): せめて、今のお姉ちゃんに会って……あたしのできることを精一杯したい。 菜央(私服(二部)): それくらいの罪滅ぼしも、もう……あたしには、許されないかしら……? うっすらと目に涙を浮かべながら見上げる菜央を見て、ちょっとだけ思った。 美雪(私服): (そんな顔をされて、ダメだなんて言えるわけがないじゃんか。……ずるいなぁ) 美雪(私服): 川田さんがダメだって言ったら、その時は私が菜央の代わりに戦うよ。 菜央(私服(二部)): …………。 驚いたようにまじまじと私を見つめ返して、菜央は目元を拭い震える唇で無理矢理笑みを作る。 菜央(私服(二部)): ……その時は、あたしも一緒に戦うわよ。 美雪(私服): そっか。じゃあ二対一だ。勝てるね。 千雨: 私を忘れるな。三対一だ。 美雪(私服): おぅ、千雨がいたら百人力だ。もう負ける気がしないね! あははっ! 笑う私の声を遮るように、古い電車特有の走行音が響いてくる。 菜央(私服(二部)): あれ……帰りの列車の時間って、まだ先じゃなかった? 千雨: よく見ろ、あれは下りの列車だ。……東京とは反対行きのな。 挑発的な千雨の流し目を受け、私は菜央の手から手帳をそっと受け取る。 そして、最終ページに挟んでいた神奈川県の鉄道路線図を広げた。 美雪(私服): ……まずは、大きい駅に行こう。 美雪(私服): 病院の名前は覚えてる。詳しい住所や最寄り駅は、どこかで104でもかけて確認しよう。 美雪(私服): 菜央。かなり長い距離を歩くことになるかもしれないけど……大丈夫? 菜央(私服(二部)): えっ……? 美雪(私服): このまま行こう……レナのところへ、さ。 広げた手帳を、音を立てて閉じる。 美雪(私服): 過去が変えられないなら、今と未来を、少しでも望む方向へ変えよう。 そのまま大きな駅で下りた私たちは、交番と駅員さんの協力を得て、数時間電車とバスを乗り継ぎ……。 夕暮れが落ちる間際に、見覚えのある場所へとたどり着いた。 千雨: ……間違いない、ここだな。 美雪(私服): 秋武さんがいないから、面会できるかどうかはイチかバチになるね。 美雪(私服): たとえ会えなくても、レナがここにいるって確証が取れたら……後日誰か大人を連れてきて出直すってのもアリかな? 千雨: そこは美雪に任せる。社宅のアイドルの頼みだ、一人くらいは非番の暇したおっさんが捕まるだろ。 美雪(私服): アイドルって肩書きは百歩譲っておいといて……その美人局みたいな言い方はどうなの? 軽口とわかっていてもさすがにまずいと睨み付けると、菜央が神妙に口を開いた。 菜央(私服(二部)): ダメよ……これ以上、他の人を巻き込むわけにはいかないわ。 菜央(私服(二部)): 今回は、あたしがなんとかする。 美雪(私服): へ? なんとかって……? 菜央(私服(二部)): なんとか、よ。とにかく、あたしに任せて。 菜央は力強い足取りでズンズンと進み、そのまま病院のドアをくぐった。 介護士: はい……? 受付と書かれた場所に座っていた職員さんが、入ってきた私たちに視線を向ける。 ……見覚えのある人だ。確か、前に来た時もこの人が最初の応対をしてくれたはずだと思う。 菜央(私服(二部)): あ……あのっ! 菜央(私服(二部)): ここに入院してる竜宮礼奈の親族の者ですが、面会させてもらえませんか? 介護士: 竜宮……礼奈……? 菜央(私服(二部)): あたし、鳳谷菜央と申します!竜宮礼奈の父親違いの妹で、母が『眠り病』で倒れて……! 菜央(私服(二部)): あたし、頼れる家族もいないけどせめてお姉ちゃんにこのこと伝えたくて……! 菜央(私服(二部)): 母の名前は再婚後は鳳谷礼子で、旧姓は鈴木。お姉ちゃんの年齢は、今は23……! 菜央(私服(二部)): ううん、誕生日が7月28日だからもうすぐ24歳で、それから……っ! 畳みかけるように、菜央はレナについて喋り続ける。その様子を、私と千雨は背後からやや呆然と見守っていた。 千雨: 菜央ちゃん、その……なんだ。すごいな? 美雪(私服): う、うん……。 状況を把握している私でも、菜央の必死さが胸に迫るようだった。 それもそのはず。眠り病で母親が倒れた他に身寄りのない少女と言う肩書きと姉に会いたい気持ちに、何一つ嘘はないのだ。 ……多少知った順番が前後していることと、その裏にある事情や感情を全力で隠しているだけ。彼女は嘘と真実を、巧妙に織り交ぜている。 美雪(私服): (前原くんが、菜央が追い詰められてるって気づかなかった理由が……よくわかったよ) 元々彼を責める気は毛頭なかったが、私も全力を注ぎ込んだ菜央の演技力がこれほどまで高いとは想像していなかった。 美雪(私服): (菜央が全力で演技したら、私も騙されるだろうな……) 末恐ろしさと頼もしさに身震いする中、窓口の職員さんが真顔で立ち上がる。 介護士: ……少々お待ちください。 奥のスタッフルームらしき場所へ移動する。距離が遠すぎるが、どうやら上の人と何か話しているようだ。 美雪(私服): (よし……このまま、部屋に案内してもらえる流れかもしれない……!) やがて受付の人からバトンタッチされたと思しき年配の男性が受付で待つ菜央の方へとやって来て……。 男性職員: ……申し訳ありませんが、竜宮礼奈さんという名前の患者さんは当施設には入院しておりません。 菜央(私服(二部)): えっ……? 男性職員: どうか、お引き取りください。 千雨: おい……。 硬い表情と冷たい口調による退去願いに勝利を確信していた私は声を失い、菜央は戸惑い、千雨は苛立ちも露わに前に出る。 千雨: せめて、ちゃんと名簿くらいは見て調べろよ。竜宮礼奈は間違いなくこの病院にいるはずなんだ。 男性職員: 確かめるまでもありません。 千雨: あ? そりゃどういう意味だ? 男性職員: これ以上お疑いをかけるというのであれば、警察を呼びますが……。 千雨: ……それはいいな。呼べよ、警察。はっきりさせようじゃないか。 おそらく怯むと思ったのかもしれないが、こっちは生まれた時から警察の関係者だ。そして、この程度で千雨は動揺しない。 男性職員: …………。 職員さんは一息吐くと、受け付けに腰を下ろした。 美雪(私服): (さすがに書類くらいは確認してくれる気になったのかな……?) そんな予感は、病室の方角から乱暴な足音とともに飛んで来た複数の警備員を前に吹き飛んだ。 美雪(私服): うえっ?! 美雪(私服): (もしかしてテーブル下の警備ベル押したの?! そこまでやる?!) 男性職員: 警備員! この子たちを外に連れ出せ! 菜央(私服(二部)): そんな……!だって、ここにいるはずなんです!あたしのお姉ちゃんが……きゃあっ?! 菜央の体が警備員によって持ちあげられ、千雨と私は腕を強引に掴まれる。 美雪(私服): やめろ! 放せっ! くっ、このっ……! 美雪(私服): いっ……! 抵抗しませんから!乱暴にしないでくださいっ! 警備員A: じゃあ、さっさと外に出なさい。 菜央(私服(二部)): い……いやっ、放してっ! やだ、やだっ! 千雨: おいそこのおっさん!ガキに乱暴するのが趣味なのか?!違うならもうちょっと優しく扱えよ!! 警備員B: ちょっ! こ、こら!大人しくしなさいっ! 美雪(私服): 千雨、あんまり抵抗しないで……ぐっ?! 警備員C: 君も暴れないで。 千雨: そいつは大人しくしてるだろうがっ!くそっ……! 千雨だけならまだしも私と菜央が大人の男に適うはずもなく。 もみ合った末、私たちは建物の外に投げ捨てられるように追い出された。 菜央(私服(二部)): ま、待って……! 無言で建物の中に戻って行く警備員を呼び止めようと手を伸ばした菜央を抑える。 美雪(私服): やめよう、これ以上は無理だ。 菜央(私服(二部)): ……っ……! 落胆に肩を落とす菜央の背中を撫でさする。 美雪(私服): (この反応は、さすがに想定外だったな) なまじ以前の対応を知っている分、態度の違いが辛い。 美雪(私服): やっぱり、秋武さんがいないとダメなのかな?それとも本当に、レナはここにいないのか……。 菜央(私服(二部)): この調子だと、出直しても同じことになりそうね。 美雪(私服): 警戒されちゃったみたいだからね。ちゃんとした礼状でもないと無理な気がする……。 千雨: 安心しろ。 美雪(私服): えっ? 病院に繋がるドアを仁王立ちで見つめながら、千雨は口元で弧を描いた。 得物を見つけた肉食動物のように、鋭い瞳は見開かれ夕焼けの中でも燦然と輝いていて……。 千雨: 私の趣味は、釣りと星の観測でな……この2つの共通点、わかるか? 菜央(私服(二部)): え……な、なに? 千雨: ……待ちが大事なんだよ。決定的な瞬間が来るまで、な。 Part 06: ……千雨が待ち宣言を出してから、数時間。 深夜の病院周囲の明かりはほとんど消え去り、山間の病院が暗闇と同化しつつある中で――。 植え込みに身を潜めていた私たちは、職員の車がほとんど去りがらんとした駐車場から再び建物を見上げた。 美雪(私服): で……これから、どうするの? 不安でいっぱいな私の問いかけに、千雨は無言でポケットから何かを取り出してみせる。 菜央(私服(二部)): なに、そのクレカみたいなの……? 千雨: 私を掴んだ警備員、名札のところにIDカードを挟んでるのが見えたからな。 千雨: もみ合うふりをして、こっそり抜き取ってやったんだ。 菜央(私服(二部)): っ……つまり、このカードがあれば建物に入れるの? 千雨: あぁ。無効にされてなきゃな。 指先でカードを玩びながら千雨が続ける。 千雨: このカードのロゴ、母さんの図書館の裏口と同じシステムだ。 千雨: こいつはカードの無効化の手続き以上に、紛失申請が死ぬほど面倒らしい。 美雪(私服): あ、あぁ……そういうことか。 菜央(私服(二部)): なによ、二人だけでわかりあっちゃって。どういうことなの? 美雪(私服): 人間は、経験したことないことは想像できない生き物だからね。 美雪(私服): カード無くしたせいで何が起こるか想像するより、カードを無くした状況を責められる方が容易に想像できると思わない? 千雨: そういうことだ。このカードを無くした警備員が怒られることを嫌がったら、どうすると思う? 菜央(私服(二部)): ……カードを無くしても、無くしたって言わずに黙ってる? 千雨: 騒ぎになってないところを見ると、な。 美雪(私服): なるほど……菜央を捕まえた警備員さんに妙なくらい挑発的なことを言ってると思ったら、そっちに視線を向けさせる罠だったってワケ? 千雨: あぁ、おかげでカードが抜き取れた。……帰る職員は北の方から来てたから、関係者用入口もあっちだな。行くぞ。 千雨は摘まんだカードをひらひらとサメのヒレのように泳がせながら裏口と思しき方角へ歩いて行く。 優雅さすら感じさせる歩き姿を、私は背後から半ば呆然と見送っていた。 美雪(私服): (ありがたいけど……ありがたいけど!素直にありがとうって言いにくい……!) 美雪(私服): 千雨……キミ、警察よりも泥棒のスキルの方を身につけちゃってない? 千雨: お前との腐れ縁がなけりゃ、もっと品行方正のいい子だったよ。 美雪(私服): 後悔してる? 千雨: いや全然。私は品行方正のいい子を続けられるほど肝が座ってないからな。どっかで限界が来て、爆発してたよ。 美雪(私服): ……千雨の暴発はすごそうだね。半径5キロは焦土になりそうだ。 千雨: たかが5キロ程度か?もうちょっといけるぞ……お、あった。 人気の無い建物裏で、勝手口を示す灯だけが頼りなく不気味についている扉に駆け寄って、そばにある読み取り機にカードを通す。 千雨: そら、開いたぞ。 菜央(私服(二部)): だ……大丈夫なの? 千雨: 前に来た時に監視カメラが無いのは確認済みだ。 美雪(私服): 仮に大騒ぎになって警察を呼ばれても、第三者にレナがいるか確認して貰えるからね……けど、手早く済ませるに超したことはない。 美雪(私服): 急ぐよ、菜央。 やや尻込みする菜央の手を取り、千雨の後を追うため建物に踏み込んだ。 菜央(私服(二部)): け……警官の娘って、みんなこんな大胆なの? 美雪(私服): 手段を選んでる時間が無いだけだよ。 気配を殺し、足音を忍ばせ……慎重に素早く廊下を進む。 警備員は懐中電灯を手にしているので、明かりを目安に距離を測りながら物陰に潜んでやり過ごし……。 少しずつ……だが確実に、レナがいた病室へと距離を縮めていった。 足音で気づかれるかと思ったが、その心配は杞憂に終わった。 なぜなら。 老人のうめき声: ああぁああああ、あぁああ……! 女のすすり泣く声: うぅ、うぅううう……! 病室から漏れるうめき声や泣く声が病院の廊下に絶え間なく満ちていたからだ。 男の叫び声: あああああーっ! 菜央(私服(二部)): ……ひっ?! 大きな声に驚いたのか、たたらを踏んだ菜央の身体を支える。 美雪(私服): 菜央、静かに。 菜央(私服(二部)): わ、わかってるわ……っ。けど、前に来た時もこんな感じだったの……? 千雨: 昼間も多少は聞こえてたが……夜の方が酷いな。 美雪(私服): …………。 叫び声が聞こえた方向、閉ざされた病室の扉に目を向ける。 ここに入院している人は、みんなその必要がある人ばかりだ。 あのうめき声や叫び声は、眠りの間に襲いかかってくる悪夢に抵抗している証拠だと、知っている。 わかっている……けれど。 美雪(私服): (……ここでずっと過ごしてたら、私も引きずり込まれそうだ) 菜央(私服(二部)): …………。 緊張のせいか、汗ばんだ菜央の手に指を掴まれる。大丈夫だと伝えるためそっと握り返すと、ぎゅっと強く握り返された。 菜央(私服(二部)): ……ここに、お姉ちゃんがいるの?あの職員さん、竜宮礼奈はいないってはっきり断言してたわよね。 千雨: かといって、名簿を一切確かめないってのは常識的にあり得ないだろ。 かろうじて聞き取れる程度に抑えた声による問いかけに、千雨はハッキリと断言した。 千雨: それに、菜央が真正面から詰め寄った時、あの介護士は視線をそらした……。 千雨: ありゃ、何かを隠してるな。やましさをごまかす時の典型的な反応だ。 千雨: 必死な子どもに嘘をついて罪悪感でも沸いたか。……悪人じゃないのが仇になったな。 美雪(私服): 千雨って、そういうところよく見てるよね。観察力は間違いなく警察向きだよ。 千雨: さっきは泥棒向きって言ったの誰だよ。そもそも観察はサメ……生物調査に必須だろうが。 千雨: あと、私は警察が嫌いだ……何度も言ってるんだから、忘れるな。 美雪(私服): へいへい。 うめき声や叫び声に紛れさせるように小声で会話をしながら先へ進む。 そろそろレナの病室が見える頃だ。会えるとしたら、あと数分後。 その前に、確認しないといけない。 美雪(私服): ところでさ、菜央。今更だけど……この病院にレナが本当にいて、会えたとして……キミはその後どうするつもり? 菜央(私服(二部)): ……わからない。 菜央(私服(二部)): でも、たとえ記憶があってもなくても、正気でもそうじゃないとしても……あたしはお姉ちゃんと一緒にいたい。 菜央(私服(二部)): それにお姉ちゃんのお父さんが死んじゃったなら、この世で生きてるお姉ちゃんの親戚は、あたしと、お母さんと……。 菜央(私服(二部)): あとは、お婆ちゃんがいるけど……誰が誰だかわからなくなっちゃって。あたしのこと、よくお姉ちゃんと間違えるの。 菜央(私服(二部)): ……きっと、お姉ちゃんに会いたいんだと思う。 菜央(私服(二部)): もしお姉ちゃんが望んでくれるなら、生きてるうちに会わせてあげたい。 美雪(私服): …………。 菜央(私服(二部)): だから、お母さんが意識を取り戻したら、できる限り説得して……その後は、えっと。 美雪(私服): わかった。大丈夫……キミの気持ちはきっと伝わると思うよ。 美雪(私服): すぐには無理かもしれないし、全部は伝わらないかもしれないけど。 菜央(私服(二部)): ……うん。 ぎゅっと握ってくる小さな手の強さが、菜央の心細さとそれでも前へ進む強さを感じさせる。 千雨: 話は終わったか?……そろそろ到着だ。 千雨の声に、顔を上げる。 記憶が正しければ、廊下の突き当たりの隅っこの部屋がレナの部屋だ。 美雪(私服): (菜央が迷うなら、私たちだけでレナに会うことも考えたけど) 大丈夫とは断言できない。けれど、菜央の覚悟を信じよう。 千雨: 開けるぞ。 菜央(私服(二部)): ……えぇ。 部屋の前に立った千雨が、回転ノブ式の錠を回す。 カチリ……と言う金属音は、誰かの叫び声にかき消された。 美雪(私服): し……失礼します。 そっと扉を開け、3人で素早く滑り込み戸を閉める。 改めて視線を向けると、ベッドに横たわった人影が見えた。 こちらに背を向けて、顔は見えない。けど、背格好はレナに近い気がした。 菜央(私服(二部)): お姉、ちゃん……? 私の手を握ったまま一歩、菜央がベッドへと歩み寄り声をかける。 菜央のか細い声に反応したのか、背を向けて眠っていると思っていた女の人がゆっくりと体を起こし……振り返る。 差し込んできた月明かりに、ぼんやりと顔が照らされて……。 菜央が、息を飲む音が聞こえた。 菜央(私服(二部)): お姉ちゃん……じゃない……?! 菜央の言う通り、そこにいたのは……レナじゃない。 けど、けど……?! 美雪(私服): (いや、いや……いやいや?!) 千雨: おい、ちょっと待て……!あんた、まさか……?! 痩せ衰えた顔。それにこけた頬に張り付く乱れた長い髪。記憶の中の彼女とはあからさまに変わっている。 でも、確かに今私たちの目の前にいるのは、ベッドの上にいたのは、ここにいるはずのない……?! 美雪(私服): と、藤堂……いや、公由……夏美、さん……?! 思わず声をあげた私をまっすぐに見つめながら、ベッドの上の彼女は、驚きと戸惑いも露わにか細い声を震わせた。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ……赤坂美雪、さん……?!