いつからかこの村では豊かに実った麦の穂が風になびくのを
狼が走るというようになった。
風で倒れた麦穂は「狼に踏まれた」
不作の時は「狼に食われた」
始めは何もなかった。
あったのは温もりだけ。
そして 約束が結ばれた。
出会いと別れが繰り返され。
やがて人間は人間の力だけで、豊かさを掴み取るようになった。
もう約束を律儀に守る必要はないのかもしれない。

いい加減田舎道も飽きてきたな。なぁ?
行商人?
半日ほどかけて東に行くと山の中に小さな村があるんですよ。
そこへ塩を売りに行った帰りです。
ああ、全部塩か?
いえ、これは毛皮です。
うん…?
ああ、ただの麦束ですよ。暑さにも寒さにも強い奴でしてね。
何ごとですか?いつになく物々しいご様子ですが?
実は西の村で異教徒の祭りが開かれるらしいのだ。
異教徒?
うん、唯一絶対の神を信じない全く怪しからん奴等だ
教皇様の昔のようにもっとお力を振るわれればいいと思うのだが、どうもままならないらしい恐らく異教徒が卑怯な手を使っているのだろう。

異教徒か。あのパスロエの連中がねえ。
やあ,ロレンスさん。
やあ,本当に驚いた。新しいやり方でこれほどに豊作になるとは。
伯爵様々だ
狼は頼りにならなかったからな。
おっと、悪口を言うと怖いぞ。一応神様だ。

ほう、ロレンスさん。
どうも、すっかりご無沙汰しまして。
いやいや、いい時に来ましたね。明日から収穫祭ですよ。
明日から? てっきりもう始まっているのかと思いましたよ。
実はここだけ一足先ね。
どうです?
おいおい、ロレンスさんを俺たちなんかと一緒にするなよ。
こりゃまだ失礼をば。
ところでクロエはどこにいるか分かりますか?
クロエ? そうかそういうことか。
いや、商売上の後輩ですからたまには酒でもってことです。取引も兼ねてね。
そりゃまずいな。
今年はあそこが収穫のどん尻ですから、祭りでホロになるのはあいつかも。

ほらそこだ。 そこに狼が横たわっている。
最後に狼を掴むのは誰だ、誰だ、誰だ!
クロエ!
ロレンス、来てたんだ。
よそ見しているとホロが逃げるぞ。
最後の一束だ。
欲張りが麦を隠してないか。
よく確かめろ、ホロが逃げるぞ。
狼を掴んだのは誰だ、誰だ?
クロエだ!クロエだ!クロエだ!
狼ホロが現れた 捕まえろ! 捕まえろ!
そっちへ行ったぞ!
ロレンスさん、捕まえてくれ。
久し振りなんだから、今夜おごってね。
何が「今夜おごって」だ。一週間その中だろう。

おかげさまで 新たな取引先も開拓できまして。
クロエ、頑張ってるようですね。村の値段交渉人として。
ええ、本当によくやってくれています。
どんどん変わりますよこの村は。
ほう、トレニー銀貨ですか。この辺ではまず見かけなかったが。
ふふふ、もう錆びて黒ずんだリュート銀貨とはおさらばですよ。
直に パッツィオ辺りの大きな町とも肩を並べそうですね。
いや、まだまだ。しかし何もかも 新しいご領主さまエーリンドット伯爵のおかげですわい。
もう狼に祈りを捧げる必要もない。
人間様の力で日照りや嵐にも負けないようになって、今にトレニー銀貨どころかリュミオーネ金貨で一杯にしたいもんですな。
その節はどうぞ 変わらぬご愛顧を。

余所者は邪魔にされるだけだしな
それにしても、リュミオーネ金貨で一杯は言い過ぎだろ。
さて、寝るか。
嘘だろ!
お、おい、ちょっと!
おっ起きろ!
人の荷馬車で何やってるんだ?
起きろって、言ってるんだ。
みっ、耳?
おい!
ああ、良い月じゃの。
ぬしよ、酒などないかや?
そっ、そんな物はない!
大体…
なんじゃ。なら食べ物はと。
おっ、おや、もったいない。
お前、 悪魔憑きの類か?
恩知らずじゃな、わっちに剣を抜けるとは。
な、なんだと!
あっそうか、ぬしは村の人間じゃなかったの。
ごめんよ、忘れとったわ。わっちの名前はホロ。
暫くぶりにこの姿をとったが。うん、なかなかうまく行っとるの。
ホロ?
うん!良い名じゃろ?
奇遇だな。俺はその名前で呼ばれている者を知っている。
お わっちはわっち以外にホロと呼ばれる者を知らなんだ。そいつはどこの者かよ?
この周辺の村に代々伝わる神の名だ。まさかお前、神だとでもいうのか?
わっちぁ、神と呼ばれて長いことこの土地に縛られてきたが、神なんてほど偉いもんじゃありんせん。わっちぁホロ以外の何者でもない
「生まれてからずっと家の中に閉じこめられていた頭のおかしい可哀相な女だ」とでも
思ってるんじゃろ。
わっちの生まれはずっと北の大地よ。
北?
うん 夏は短く冬は長い 生まれ故郷のヨイツの森、何もかもキラキラ光る銀色の世界よ。
ぬしは旅の行商人じゃろ?連れてってくりゃれ。
な、何で俺が。
わっちの人を見る目は確かじゃ。
ぬしは人の頼みをむげに断るような心の冷たい奴ではなかろ?
寄るな! 俺はそんなお人好しじゃ
優しくしてくりゃれ。
ぬし、可愛すぎじゃな
この姿は嫌いではないが 寒すぎていかん。
ホロ!
お前が賢狼ホロだというなら、それを証明して見せろ。
ぬしはわっちに狼の姿を見せろと?
そうだ。
それは嫌じゃ。
な、何でだ?
そっちこそ何でじゃ?
お前が人なら俺は教会にお前を突き出す。悪魔憑きは災いの源だからな。
だがもしもお前が本当に豊作の神ホロなら考え直してもいい。
俺にも幸運や奇跡をもたらしてくれそうだからな。
どうしても見たいのかや?
ああ、見たい。
もう一度だけ聞くぞ
ぬしはどうしても見たいのかや?
どうしてもだ。
どの化身であっても代償なしに姿を変えるのは無理じゃ。
わっちの場合は生き血か、それか僅かな麦か。
お、麦のほうで頼む。

すみません、突然引き返してしまって。
いえいえ、私は祭りの方へ行きますがどうぞごゆっくり。
誰だ?
ホロよ。
ホロ?
ちっとも来ないから向かいに来ちゃった。
お前 穀物庫にいなくていいのか?
どうせ本物のホロなんていないんだから。
さ、行きましょ。
行くって、どこ?
おごるって約束でしょ。
前のとは違う匂いね。ザウシュバッシュを回ってきた?
相変わらず鼻がいいな。
自然に染み付くのよ、その土地ごとの生活の匂いが。
お前も顔付きが変わったな、色々自信に溢れている。
でしょう? 色々いい感じなの。その内ロレンスを追い抜いちゃうかもよ。
ほう、その節は どうぞお引き立てのほどを。
ひどい! 全然そう思ってないでしょ?
思ってるよ。
この酒うまい!おいおい、こらこら!
信じてくれるなら いい話があるんだけど
へえ?
うまくいけば自分のお店を持って 所帯だってもてるわ。
そいつはすごいね。
真面目に聞いて!
ちょっと大きな商談があって 纏まれば大儲けできるのよ。
ロレンス?
お前、どんどん父親に似てくるな。お前の親父さんも商談ではとにかく景気のいい人だった。
今度はそんなんじゃないの。だからこそロレンスに教えるのよ。
大きな商談には 厄介が付いてまわる、そのために俺を雇うって訳か?
私なりに尊敬してるからこそ、ロレンスと組みたいの。
ロレンスが教えてくれたことをずっと胸に刻み続けきたわ。
おかげでここまで来られたと思ってる。ロレンスのおかげで。
危ないな。危ない、危ない、お前はまだ若い、一か八かの取引に関わるのは、もう少し場数を踏んでからの方がいい。
つまんない! せっかく一緒に儲けるチャンスだったのに。
今度、もっと危なくない儲け話をもってきてやるよ。それなら一緒にやってもいい。
私だって知らない間に成長してるのよ。
あ、いや、商人としての読みはまだまだだ。
バカにしてるとそのうち痛い目見るわよ。
たまにはいいかもな、そんな経験も。
女?
うん?
さっき一瞬上の空だったけどいい相棒でもできたの?
いや。ホロが相棒だったらどうかと思って。
ホロ? わしのことか?
違うよ。
本物のホロのことだ
飽きれた、そんな妄想に浸ってたの。
妄想か
妄想よ
妄想ね
妄想よ
もし本当にホロがいたら。
また妄想?
切ない時もあるのかな。
そんなわけないじゃない、だってホロは神様よ。

だよな。いる訳ないよな。
誰を探しておるのかや?
へえ、ホロ!
そこまで驚かんでも良かろう。
どこに隠れてたんだ?
わっちはこの時期、刈り取られた麦の中にいる。
いつもはそこから出られぬ。人の目があるからの。しかし例外がある。
例外?
もし最後に刈り取られた麦よりも多くの麦が近くにあれば、わっちはそこへ移動できる。
まあだから なんじゃ、ぬしはわっちの恩人と言えば恩人じゃな。
あの時 俺はお前の正体を見て尋常じゃないほど驚いた。
だから消えたのか?
わっちはな 大昔この村の青年に頼まれたんじゃ。この村の麦をよく実らせてくりゃれと。
じゃからそれからずっと守ってきた。
じゃが 豊作を続ければ大地に無理が掛かる。時には実りを悪くせんとならん。
ところが 村の連中がわっちの気紛れだなどと言いよる。
それはこの数年でどんどん酷くなってきた。
もう誰もわっちを必要としておらん。
必要とされとる時も 誰もかわっちの姿を見て恐れおののき近づこうとはせなんだ。
わっちの望んだことは、そんなことではなかったのに。
とりあえず 今の話を受け入れたとして
疑り深い男じゃの。
村を出て どこかに行く当てはあるのか?
北へ帰りたい。

ロレンス!

もういいから出て来い。
この中で靴紐を結ぶのはなかなかに難儀じゃった。
そりゃそうだろ。靴紐?おい それ俺の,
うん 似合うかや?
俺が十年かけて集めて一張羅だぞ。
そのようじゃの。 仕立てもなかなかにいい。
ぬし 商人としはまあまあじゃな
今すぐそれを脱いで ここから降りるか。
ぬしはそんな事はせぬ。
甘く見ると怖いぞ。
まあ、よろしくの。えーと?
ロレンス、クラフト・ロレンスだ。
うん、ロレンス。
この先未来永劫 ぬしの名はわっちが美談にして語り継がせよう。
ったく。 語り継がなくっていいが、自分の食い扶持ぐらいは自分でかせげよ。
楽な商売をしている訳じゃない
わっちもただ飯をもらって安穏としているほど愚かじゃありんせん。
わっちは賢狼ホロ、誇り高き狼じゃ。
にしても。少し狭いの。
お前な。
まっ、寒さを忍ぶにはちょうど良かろ

次回 狼と遠い過去