砂沙美たちの住むトウキョウ・ジャパンから一万キロ近く離れた場所に、自由とサクセス・ストーリーに満ちた国がある。
ガムをクチャクチャ、手で膝を叩いてオーッホッホ、地下鉄の電車にスプレーでシュー、スラム街はナイフでフリーズ!! 運のない刑事がビルの中に閉じこめられて、たった一人で一個大隊をやっつけるベトナム帰りの兵士がいて、核爆弾や軍事衛星を盗むテロリストが無数に存在する……そう、ここがユナイテッド・ステイツ!!
アメリカ!!
その中でも、代表的な都市の一つであるここは、ニューヨーク!!
そして、夜だった。
夜中の一時を過ぎているというのに、街の灯がこの都市を暗闇で覆うことはない。
ここで生きる人々は、ブレーキを付けないで走る車と同じだ。
都市は、メンテナンスを受ける時間もなく走り続ける人々を、あるときは優しく、あるときは厳しく包んでくれる。
なぜ、そのような都市に変化したのか?
原因は一〇年ほど前だ。
伝達手段がデジタル・データと光ケーブルによって超高速化され、情報の早期取得とその活用が、時間という概念を無秩序な広野に変えたためである。
人々は情報という名の、目に見えない新しい『文化』を手に入れたが、その代償として時間という『安息』を失った。
その悲しい現実を世界で一番露呈しているのが、ここ、ニューヨークなのだ。
「美しい……」
七九階にあるガラス張りのスイートから、摩天楼の夜景を眺める一人の男。
その男は、その眠らない都市を作り上げた……いや、人々から時間の概念を取り払った人物である。
名を、ビフ・スタンダードと言う。
一九歳のときに、ハーバードを中退して、友人のマイク・ヘンダーソンと二人でコンピュータソフト会社『ワールド・スタンダード社』を設立、パーソナル・コンピュータに組み込む基本ソフト、WS─DOSを供給し、世界七〇カ国でイライラされながらも愛用され、わずか八年の間に、コンピュータ・ソフト業界の勢力地図を塗り替えた。
現在は、同企業のCEO(最高経営責任者)として事実上、世界最大企業のトップの座に君臨している若き帝王だ。
生きている伝説、未来への伝道師、レジェンド・オブ・デジタルワールド、金持ちの男、コンピュータ・マニア……等の名を欲しいままにして、どれでもいいからわかりやすく統一してくれと願っている人物でもあった。
ビフ・スタンダードは、いつもはシリコンバレーにある本社の社長室にいるのだが、この都市で開催された『デジタル・ネットワーク時代到来! 未来への変革における霧原兄弟の活躍に対する私なりの一考察』というテーマで、無能な官僚や知識量の乏しい新聞記者、出席することだけに意義を見いだしている他企業の社長たちに、講演を行わなければならなかった。
講演の後、来賓を招いてのレセプションがあるにはあったが、そんなものは無意味で時間の無駄無駄無駄である。
彼は早々と用意していたリムジンに乗り込み、ノートパソコンと移動電話を駆使してビジネスに戻った。
現在、ワールド・スタンダード社は、一年以上前から計画していたあるビジネスの最終段階に到達しており、ビフは正直、こんなくだらない講演を行うのも惜しいくらい、時間がなかったのである。
世界中の支社から送られてきた膨大なEメールに目を通し、特に返答を急いでいる者だけに簡潔かつ絶対的なメッセージを返信してゆく。
それを、九時から行い続け、終わった時には夜の十二時半を過ぎていた。
計画は、多少支障はあるものの順調といっていい。
そうして、ようやく人心地ついた彼は、ニューヨーク支社に戻ることができたのだ。
「この景色は、一〇年も前から私が求めていたものだ……」
摩天楼を眺めていたビフは、持っているワイングラスを軽くもて遊んで、香りを楽しむ。ドイツ産の標準的なワイン『マドンナ』の香りは、キックなく薄くなく、それでいて嫌みがない、標準的な心地よさを提供してくれる彼の好みのワインだ。
窓に都市の光が反射する。
「この灯の中で、人々は、私の新しいOSを使っているのだな……」
「おっしゃる通りでございます」
夜景を眺めながら独り言のように呟いたビフに、言葉を返す者がいた。
彼の執事で、身の回りの世話を担当しているサム・ヒカリ・ラングレンである。
まだ、二〇代前半であろう彼は、標準的に冷えたワインボトルを抱え、ゆっくりとビフに近づく。
「このニューヨークの夜景は、ビフ様が提供したソフトのおかげで、灯り続けることができるのです」
ビフは、満遍なく満面に笑みをたたえて振り返る。
「……ついに、私はここまできた。長いと言えば長いが、短いと言えば短い。フッ、私の作ったソフトはこの質問をどう答えるだろうな、サム?」
「多分、とても標準的だと」
空いたグラスにワインを注ぎながら、サムが答える。
「そう。確かに標準的な移行だった……」
赤外線式のリモコンを取り出したビフは『START』と書かれたボタンを押す。
すると、部屋の中にある全てのパソコンが起動し、机の上どころか床にまで敷き詰められたディスプレイに電源が入った。
が、モニターは真っ暗だ。何も映らない。
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約二〇秒待った後、画面の左上に『WAITING』の文字が表われた。
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それから約四七秒後に『WS』のロゴマークが表示される。
ピーン。ポンポンポンポーン……。
起動時を告げる音楽が部屋中を満たしてゆく。
そう、このソフトこそ、一年前、ワールド・スタンダード社が全世界に向けて発売した新OS、『シンクロニシティ』である。
画面は、ソフトを起動させるためのアイコンが次々と表示され、ビフはその一つである『私の標準世界』と書かれた部分を、キーを叩いて起動させた。
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約一二秒の時間を経て、画面の絵が変わる。
表示されたのは世界地図だ。
処理が終わったのか、次々と赤い光が五大陸を覆ってゆく。
これは、ビフがプログラムしたソフトで、シンクロニシティが世界でどれだけ使われているかを表すものだ。赤い光はOSを使用している地域を意味している。
映像は八〇〇インチある床全面のモニターにも映り、そのほとんどを赤々と照らした。
「壮観でございますな」
モニターを見つめながら、サムが言う。驚いている風には見えない。いや、我が主ならば、必ずこうなるという確信があるからこそ、彼はそう答えたのだ。
「私のシンクロニシティを使っている人々は、全世界の九五%に達している。九五%だ。サム、この数字の意味がわかるかね?」
「はい。ビフ様の目標まで後五%だということでございますね」
「フッ、その通りだ」
モニターを覆い尽くす『赤』を見つめながら、ビフは言う。
「世界には、何十億という人間と、何百種類という言語を使う人々がいる。しかし、我が社の『シンクロニシティ』は、どんな環境、どんな言語にも対応させることに成功した!」
ビフがリモコンのスイッチを押すと、モニターに次々と小さな画面が現れ、様々な都市の映像が浮かび上がった。
WSの各支社から送られてくるリアルタイムの画像である。
映像の一つは、どうやら北極の雪原地帯を映していた。
拡大されると、厚手のコートを羽織った男が、犬ぞりに乗っているのが見える。
冒険家のようだ。
その男は、懐からパームトップの小型パソコンを取り出して、自分の向かっている地点を確認している。衛星からパソコンに送られた正確な情報が、彼の冒険の成功率を高め、危険率を減少させることだろう。
隣の映像には、チベットの山奥があった。
偉大な神の力の恩恵を受けた高僧が、足を組みながら宙に浮いている。
高僧の下、つまり地面には、なぜかラップトップのパソコンが置いてあった。
多分、自分の解脱がどれほど進んでいるのかを、科学的に解明しようとしているのだろう。精神文明にも、情報という武器は活用できるのだ。
さらにその隣の映像には、万里の長城が映っていた。
膨大な距離があるその建造物に、約一メートル間隔で配置された人々が、アイヤアイヤとコンピュータのキーボードを叩いている。
ネットワークで並列に繫いだそのコンピュータは、この国の多すぎる人口から考えても、かなりの情報を処理しているに違いない。
そう。この映像に登場した人物が使用しているパソコンに入っている基本OSは、全て『シンクロニシティ』なのだ!
「映像を観てわかります。世界中の人々の生活レベルが大きく向上していることが。全てワールド・スタンダード社、いえ、ビフ様の功績です」
サムはこの一〇年間の足跡を振り返っているのか、感慨を込めてビフを見る。
「もう十分、我が社のソフトは、世界の標準です」
「いや、まだだ。私のソフトを、ネットワークを拒む国がある」
マドンナを飲み干したビフは、サムの意見を否定した。
床のモニターを見つめながら歩き、世界地図に唯一『赤』く染まっていない場所の前で立ち止まる。
そこには、ちっぽけな縦長の島国があった。
だが、世界の経済を掌握している恐るべき国でもある。
「この国だ。独自規格のハードやソフトを作り、私の計画に支障を与え続けてきた、日本市場を落とさねばならない」
「日本標準化計画──J─スタンダードは、予定より二%の遅れのみで進んでおりますし、準備も最終段階に入っております。それでも、でございますか?」
「ああ、そうだ。安心はしない。日本は大昔に鎖国などという、バカげた政策をとったこともある国だ。計画はできうる限りの情報を収集し、検討し、駆使し、慎重かつ大胆に進める必要がある」
「ソフトの日本語化への移植に関する問題は全てクリアしております。ところで、先程、技術開発部より、新しいプランが届いたのですが」
「ほう、聞きたいね?」
「シンクロニシティに標準で付属するゲームソフト、バーチャピンポンですが、それを日本向けに多少手を加えてはどうかとの提案です。日本は、多くの優良なゲームソフトを排出しております。その点を吟味し、同部門が弾き出した答えが……これです」