Part 01: ……教室にいるとどうにも落ち着かないので、午後の授業からは体調が悪い、と仮病をでっち上げて保健室で休むことにした。 ただ、静かな室内のベッドの上で横になっていると、嫌なことばかりが頭に浮かんできたので……。 今はこうして、もはや「定位置」になった屋上で私はぼんやりと過ごしていた。 サトコ: (リカが知ったら、きっと怒るでしょうね……) 明日に控えた彼女の手術が終わるまでは、ちゃんと学校に行って授業を受ける。……そう約束したのに、1日も守れなかった。 とはいえ、そもそもできるわけがなかった。リカの一生を決めるかもしれない大手術を前に、いつもと同じ気分でいられるなんて……。 サトコ: (だいたい、今さら1日や2日休んだところで内申点が見直されることなんてありませんし……) まして、今期は「とある」騒動を起こしたせいで補習が確定だ。なんとか退学は回避できたものの、今年の夏休みはほぼなしと考えるべきだろう。 サトコ: はぁ……こんなことなら、あの村で「終わって」しまったほうがよっぽど楽だったかもしれませんわねぇ。 誰もいないことをこれ幸いとばかりに、私はそう言って悪態をついてみる。 もっとも、それは本気ではない。確かに「終わって」しまえばこれからの苦しみ、不安を感じる必要はなかったかもしれないが……。 それと同時に「ひょっとしたら」という希望、「叶えられるかも」という期待を抱くことも絶対になかったからだ。 もちろん、裏切られることもあるだろう。あるいは期待とは違う結果がもたらされて落ち込んだり、悲しんだりすることも……。 だけど、私たちは選んだのだ。「終わる」前にもう一度、小さなところからやり直してみよう……と。 それを命がけで教えてくれた人のためにも、簡単に「終わる」わけにはいかない……その決心だけは、今後も忘れないつもりだ。 ケイイチ: ……なんだ、先客がいたか。 ふいに背後から、声が聞こえる。確かめるまでもなく、それが誰のものかはすぐにわかった。 サトコ: あら……ケイイチさん。あなたこそまだ授業中のはずなのに、こんなところに来てもよろしいんです、の……っ? サトコ: って、どうしたんですの、そのお顔はっ?まさか、誰かと喧嘩でも……?! 振り返るなり私は、ケイイチさんの顔を見てぎょっ、と目を見開く。 いつものように少年のような、あどけなさを残した笑顔……の頬には、大きな絆創膏がいくつも貼られていたからだ。 ケイイチ: いやいや、違うって。先生にも同じことを聞かれたけど、これは家を出る時に玄関ですっころんで、壁と床に顔をぶつけただけさ。 サトコ: それはそれで、穏やかな話ではありませんが……まぁ、安心しましたわ。私と違ってあなたは、妙なことで内申点を下げたりしたら大変ですしね。 ケイイチ: ……それはもう、関係ない。というより、関係がなくなった。 サトコ: ? それは、どういう意味ですの? ケイイチ: 親父たちと話をしたんだよ。……俺は、医者にはなりたくない。 ケイイチ: ちゃんと勉強は続けるから、将来のことは俺に決めさせてくれ、ってな。 サトコ: ……っ……。 思わず息をのんで、私はケイイチさんを見つめる。 将来は、父親のあとを継いで医者になる。……それは、幼稚園の時からずっと彼が課せられていた目標であり、義務だった。 ただ……ケイイチさんは親が期待するほど、医者という職に魅力を感じていなかったのだ。 やりたくないもののために、必死で頑張る。そんなジレンマや矛盾による悩みを押し隠して、ずっと苦しんでいたのを私たちは知っていた……。 サトコ: (だから……ケイイチさんから「あの」話をされた時、当然だと思って誰も止めなかった) サトコ: (それどころか、私たちにとっても都合のいい口実ができたと思って、彼に便乗する流れになってしまって……) でも、ケイイチさんは……ついに言ったのだ。おそらく初めて、親に逆らって――。 サトコ: (もしかしたら、顔の傷はその「話し合い」で生まれたものかもしれない……でも……) 彼は、父親のことをとても尊敬していた。そんな偉い人が感情的な行動に出た、という醜聞を私たちにすら言いたくないのだろう。 だから、そんなケイイチさんの優しさと矜持を……私は本心から尊いと感じていた。 サトコ: 大変でしたのね……でも、よかったですわ。 ケイイチ: あぁ。……ちゃんと話せて、よかったよ。 そう言ってケイイチさんは、にかっと笑ってみせる。 昔から快活な性格で、元気に満ちた人だった。……けど、ここまで憑きものが落ちたように爽やかな笑顔は、久しぶりのような気がする。 特に高校に入ってからは、酷いものだった。私たちと過ごす時間もだんだん短くなり、時々塞ぎこむように暗い表情をして……。 まさに、人の心が壊れる寸前……いや、実際に壊れていたのだろう。 なぜなら、通常のケイイチさんであれば私たちの同調があったとはいえ、あんなふうに「終わる」ことを選ぶはずがなかったからだ。 サトコ: ……私たち、ケイイチさんに酷い決断をさせようとしてたんですのね。本当に……ごめんなさい。 ケイイチ: よせよ。俺だって追い詰められてのこととはいえ、自分で自分をぶん殴りたいくらいなんだからさ。 ケイイチ: だから、……昨夜は痛い目を見ることができて、ちょうどよかったんだ。親父も最後は、手を出したことをちゃんと謝ってくれたしな。 サトコ: ……やはり、親御さんからの折檻でしたのね。武士の情けで、聞かなかったことにしてあげますわ。 ケイイチ: おぅ、おあいこってことで頼むぜ。 そう言ってケイイチさんは、手打ちとばかりにこぶしを差し出してくる。……それに応えて、私はこつん、と自分のこぶしをつき合わせた。 Part 02: ケイイチ: で……サトコの方はどうだったんだよ。あれからちゃんと、家族全員で話し合ったのか? サトコ: 前向きな結論かどうか、と問われると微妙な感じではありますけど……一応決断は保留、ということになりましたわ。 サトコ: 世界的な金融不況のあおりで、大きすぎる借金ができて……パパとママも一時的にパニックになってたようですし。 サトコ: 夜通しで話し合った結果……性急に決めず今後の身の振り方に合わせて、最善の道を探すことで落ち着きましたのよ。 ケイイチ: そっか。だとしたらあとは、サトシとシオンの関係……それと、リカちゃんってわけだな。 サトコ: えぇ。兄さんたちのことは、今後のお二人の努力次第でしょうけど……あの子の病気は、本人にだってどうしようもありませんからね。 サトコ: そして当然ながら、私たちにもできることは神に祈ることくらい……実に無力なものですわ。 ケイイチ: そういうなよ。手術をする先生たちだって、全力を尽くすって言ってくれてるんだからさ。それに……。 サトコ: ……ですわね。まさか、あれだけ探しても見つからなかったドナーの方が、ようやく現れるなんて……! サトコ: 神様というより、悪魔のいたずらかと思って耳を疑いましたわ。 ……あの日、ケイイチさんの運転で家に戻った私たちを待っていたのは怒号と安堵、そして歓喜の声と涙だった。 正直言って、あれほど親たちが自分の安否を心配してくれていたなんて、今まで考えたこともなかったので……私はひどく驚いた。 それは、おそらく他の4人も同じだったと思う。怒られたことが怖いとか悲しいとかではなく、意外に感じてびっくりした……と。 夜から朝になるまで、ずっと怒られた。おまけに、警察にも捜索願を出していたので学校では針のむしろ状態。 心無い噂や悪口、陰口も一生分叩かれた。……だけど、そんな中でリカの病気が治るかも、という吉報を聞けて、私たちは最高に幸せな気分だった。 それを医者から告げられた時のあの子の表情は、たぶん一生忘れられないだろう。 だって私やシオンさん、兄さんはもちろんケイイチさんですら声を上げて泣いて、飛び跳ねんばかりに喜んでいたのだから――。 サトコ: ……今でも思い出して、ぞっとしますわ。もしあの時点で「終わる」を選んでたら、後悔してもしきれなかったでしょうし……。 サトコ: もっとも、ドナーから譲られた臓器によってリカが病気から解放されるかどうかは、明日の先生方の腕と頑張り次第ですけどね。 ケイイチ: それでも……ラッキーだったよ、俺たちは。あの子とあの場所で、会うことができてさ。 サトコ: …………。 あの後私たちは手分けして、『雛見沢大災害』について調べることにした。 ネットで手に入る情報はもちろん、書籍や関係者の証言、警察の捜査資料……。 そして、「彼女」が言っていたように大災害の犠牲者リストに自分たちと同じ名の子を見つけた時は、絶句するほど驚いた。 サトコ: 『一穂さんって、本当に昭和の時代から来た過去の人だったんですのね……でも……』 『公由一穂』……なぜかその名前だけは、どうしても見つけられなかったのだ。死者、行方不明者、生存者のどこにも……。 空を、見上げる。……オレンジ色のやや曇り模様。その赤さに、雛見沢を思い出す。 今日はこの下で、リカの手術が行われている。すでに何時間も経過して、もうすぐ日暮れだ。 ずっとそばにいるつもりだった。ただ、出入りする人の顔や態度で一喜一憂して、心がだんだん持たなくなって……。 兄さんからの勧めで、ここに……病院の屋上に逃げてきたのだ。 サトコ: はー……。 『手術は終わった?』というシオンさんのメールに短く『まだ』と返してから、どれだけ時間が過ぎただろう……。 持ち込んだコーヒー牛乳は、一口飲んだだけでとっくにぬるくなっている。 一応と買い込んだ食料は、口に入れる気すら起きない。 ……早く、全てが終わってほしい。そして願わくば、私たちにとって最良の結果となりますように……。 サトコ: はー……。 猫?: ニャー。 サトコ: は……? そんなため息に、返事するように……病院の屋上で、あり得ない声が聞こえた。 猫?: ニャー。 サトコ: ……猫? 猫?: ンニャ。 サトコ: どこから入ってきたんですの?というか病院に猫って、ここの管理はどうなってるのかしら……。 猫?: にゃ。 猫って普通、人に見つかったら逃げる生き物じゃなかったっけ……。 なのに、どうしてこの灰色の猫はじっと私を見つめているのだろう。 サトコ: (……お腹、減ってるの?) といっても、猫が食べられそうなものなんて持ってきていただろうか……? お菓子はもちろん、砂糖たっぷりのパンもダメ。だとしたら……。 サトコ: ……これくらいなら、食べられますの? 袋からおにぎりを取り出し、海苔をはがして中に入ってる具を避けると、白米の塊を指の上に載せる。 サトコ: これを食べないなら、悪いですけど他にはなにもありませんわよ。 そう言って米を乗せた指を差し出すと、猫はざらりとした舌で白米の塊を舐めとった。 猫?: にゃー。 そして満足そうに一声鳴いたかと思うと、どこかへ走り去っていった……。 サトコ: なんだか、あの猫……あの人に似てた……? ケイイチ: ……あの人って、どの人だ? サトコ: ひゃっ……?! 慌てて振り返り、そこにいた人間の顔を見てもう一度驚いた。 サトコ: ケイイチさん……来ないかと思ってましたわ。 ケイイチ: 色々あって、遅くなったんだよ。でも、ちゃんと来るって約束しただろ。 ケイイチ: で、誰と似てたってんだ? サトコ: ……一穂さん。雛見沢で会いましたわよね。 ケイイチ: え? 一穂ちゃんに似た女の子がいたのか……? サトコ: 違いましてよ。猫ですわ、猫。さっきこの近くにおりましたわよね? ケイイチ: ……いや、俺は見なかったぞ?そもそも、病院に猫がいるわけないだろ。 サトコ: ……じゃあ、私は猫の幻でも見た……? そう言いながら見下ろした自分の手には、微妙に一部が欠けたおにぎり。 サトコ: …………。 手術が始まってから、初めて口に入れたおにぎりの米は……ほんのりと甘かった。 サトコ: 一穂さんって……不思議な方でしたわね。 ケイイチ: さぁな。……でも、俺たちはあの子と出会ったことで……運命が変わった。 ケイイチ: もしかすると、神様の使いだった……そう言われたとしても、俺はきっと信じるぜ。 サトコ: ……っ……。 ケイイチ: ? どうした、サトコ? ケイイチさんの言葉に、私は今日の手術が終わるまでは、と胸の奥に押し込めていた後悔を思い起こす。 馬鹿だ……大馬鹿だった!私たちは『大災害』のことを知っていたのに、自分のことだけで頭が一杯で……。 あの人の運命を変えてしまうほどの事実を告げることを、すっかり忘れていたのだ……! サトコ: 私……教えてあげればよかった……!雛見沢が廃村になったのは、そこで大災害があったせいだって……! サトコ: そうすれば、一穂さんは災害に巻き込まれることがなくて……また、会えたかもしれないのに……ッ! ケイイチ: サトコ……。 サトコ: 助けられたのに……助けられなかった!助けられてばかりで、私……ッ……! ケイイチ: ……どうだろうな。 サトコ: えっ……? ケイイチ: あの子は、ひょっとしたら……大災害のことを知ってたのかもしれないぜ。 ケイイチ: だって一穂ちゃん、未来に飛んだことをすごく驚いてたのに……雛見沢が廃村になってるのを見ても、普通に受け入れてたしさ。 サトコ: ……っ……? そう言えば……確かに、その通りだ。もし私だったら生存者を探すか、あるいは廃村になった経緯を尋ねていたと思う。 だけど、……彼女はそうじゃなかった。何も尋ねようともせず、私たちの心を救ったことに満足して、去っていった……。 サトコ: あの方は……本当に、神様のお使いだったのかもしれませんわね。 ケイイチ: さっきそう言ったろ? だから……。 ナース: ……あら、こんなところにいたのね。探しちゃったわ。 と、そこへやってきたのは……私たちと顔見知りのナースだった。 ケイイチ: えっ……探してた、ってことは……。 サトコ: まさか、リカ……?! ナース: 大丈夫よ、手術は成功したわ。思ったより臓器移植が楽に進んだらしくて……この調子なら回復も早いだろう、って先生がね。 サトコ: ほ、本当ですの……?! ナース: えぇ。麻酔が切れて目を覚ますには、もう少し時間がかかると思うけど……。 サトコ: り、リカぁっ……! ケイイチ: おい、あんまり走ると階段で転ぶぞ?!……って、もう行っちまった。 ナース: ふふっ……そういうあなたは、あまり驚いてないのね。 ケイイチ: 手術は成功する、って信じてたので……それと、守ってくれる気がしたんです。 ナース: 誰が? ケイイチ: ここにはいないけど……誰かが、ね。 Part 03: 沙都子: つまり、一穂さんの夢の話をまとめると……どういうことですの? 一穂: 未来の世界で、ちょっと大きくなった沙都子ちゃんたちに会った……ってこと? 沙都子: ……歯切れが悪い返答ですわね。 梨花: みー。結局その人たちは沙都子ではなかったのですか? 一穂: えっと……なんて言えばいいのかな。今より沙都子ちゃんも大人……? なんだけど生まれた時代とか色々と違ってて……。 梨花: だとしたら、それはもう沙都子たちとはまったくの別人ではないのですか? 一穂: それは、そう……かも……。 美雪: 一穂ぉー、ごめん!ちょっとこっち手伝って――! 一穂: あ、うん!ごめんね、ちょっと行ってくる。 梨花: 行ってらっしゃいなのですよ、にぱー。 沙都子: しかし、一穂さんは面白い夢を見ますわね。 梨花: 面白い……ですか?ボクにはよくわからないのですよ。 沙都子: 確かによくわかりませんが……私も考えたことがない、とは言えませんもの。 沙都子: もしも……もしも今の私とは違う時代に違う親、違う環境に生まれていたら……。 沙都子: 私は、もっと幸せに、もっと楽に生きられたのではないか……と。 梨花: 沙都子……。 沙都子: ただ、一穂さんの話を聞く限り、違う時代の違う親、違う環境に生まれていても私は苦労からは逃れられないみたいですわね。 沙都子: 生まれる時代が違えば~なんて、甘い考えでしたわ……をーっほっほっほっ! 沙都子: あと……サトコがここにいたら、もっと頑張れと肩を叩きたくなりましてよ。それから……。 梨花: ……それから? 沙都子: 一穂さんの話の中には、今の私にとっていいことと悪いことが1つずつありましたの。 沙都子: いいことは、どんな時代の親のもとに生まれても、リカと友達でいるということ……。 梨花: 悪いことは? 沙都子: 未来のリカが手術が必要なくらい重い病気だということ、ですわ。 沙都子: どうせ苦労する人生なら、梨花が元気でいてくれる方がまだいくらかマシというものですしね! 梨花: みー、確かに健康は大事なのですよ。 沙都子: でしょう?なんとなく他人の気がしませんし……リカの手術は是非成功して欲しいですわね。 梨花: ……リカの手術は成功するのです。 沙都子: あら、断言しましたわね。 梨花: もしも沙都子の言う通り、未来のリカが別の時代、別の親、別の環境で生まれたボク自身なら……。 梨花: ボクはサトコを残して、死んだりしないのですよ。 沙都子: ……なるほど、たしかに。 沙都子: 梨花がそう言うなら、きっとリカも大丈夫ですわね!