Prologue: ……少し痛みはじめた足を杖で支えながら、私はやっとの思いで展望台を登り切った。 その先に広がっていたのは、人工の湖。遠くの方に稜線が見え、本来は巨大なダムがわずかにその全容の一部をのぞかせている。 季節は夏の真っ盛りだが、今日はやや雲が厚いせいか水が濁っていて……水底を見ることは叶わない。 赤坂: (天気のいい日は、少し見えるそうだ。……ダム湖の底に沈んだ、旧#p雛見沢#sひなみざわ#r村の面影が) あるいは、目をこらせば何か見えるかもしれない、と手にした柵から身を乗り出そうとして……。 声: ……危ないです、おじさん。 後ろからジャケットを掴まれて、軽く引き戻された。 声: 気をつけてください。昨日までの雨で、地面がかなり緩んでます。 声: 仮にも当時の事件を担当していたあなたがこんなところで事故にでも遭ったら、色々と勘ぐられることになって面倒ですよ。 赤坂: あぁ、そうだね……ごめん、千雨ちゃん。 そう言って私は背後に振り返り、支えてくれた同行者の女の子に自分の迂闊さをわびる。 彼女は、黒沢千雨。私の一人娘の美雪の幼なじみで、警視庁公安部での元同僚の娘だ。 ……その目は、私が手に持つ杖に向けられている。今となってはもはや身体の一部に等しいものとなったが、やはり健常者から見れば気になるものらしい。 赤坂: 大丈夫だよ。こいつとはもう10年の付き合いになるんだから、すっかり慣れたものさ。 赤坂: 実際、ここに来るまでの車の運転でも特に問題はなかったと思うんだが……それでもまだ、心配かい? 千雨: ……すみません。私の「記憶」の中にあったおじさんは、杖なんか使ってなかったので……つい。 千雨ちゃんはそう言うと、ばつが悪そうな表情でそっと私の上着から手を離してくれた。 赤坂: (「記憶」……か……) わずかに抱いた困惑を笑顔で隠しながら、私は数日前に彼女から聞いた話を思い返す。 ……美雪とともに、先月この旧雛見沢へと出かけたという千雨ちゃんは、帰ってきて私の顔を見るなりまるで幽霊を見るような目で驚いていた。 そして、執拗に私の脚の怪我について聞いてきたのだ。私が10年前に事件で負傷したということは、もうすでに「知っている」はずであったのにもかかわらず……。 …………。 いや、それ以上に彼女が私だけに告げた事実は驚きを越えて……とても信じがたいものだった。 赤坂: ……1ヶ月前、君は美雪と一緒にこの場所を訪れた。……だよね? 千雨: はい。といっても「あの時」はこんなふうに湖もないし、ダムも完成してなくて……ここから見えるのは、廃村の光景だったんですが。 抑揚のない、淡々とした口調。……ただ、千雨ちゃんの台詞には重大な事実が含まれている。 それを受け止めて理解するのはまだ難しく、私は改めてダム湖へと視線を向けていった。 赤坂: それにしたって……車もないのに、こんなところまでどうやって2人で来たんだい?付近の駅からも、かなり離れていると思うんだが。 千雨: 反対側の登山路から、ぐるっと迂回したんです。あいつは元ガールスカウトだし、私もそれなりに体力には自信がありましたからね。 赤坂: ……君たちの行動力を過小評価していたよ。 若干の呆れと、それ以上の賛辞を込めて私は苦笑交じりに肩をすくめる。 夏期講習の名目で手に入れたお金を使って電車に乗り、ハイキング感覚で秘境にも等しいこの場所に辿り着くとは……もはや、狂気だ。 そこまでの執念をもって、彼女たちは例の事件にまつわる真相を手に入れたかったのだろう。実に頼もしいし、素晴らしいと思う……だが……。 赤坂: ……千雨ちゃん、悪く思わないでほしい。ここの景色が変わったという、君の主張ももちろんだが……とても信じられないんだ。 赤坂: 君と美雪の2人が、10年前の過去……昭和58年のあの雛見沢へと行ってきたなんてね。 千雨: 疑うのは当然だと思いますよ。 千雨: 私も実際に体験してなかったら、そいつの主張を疑って……悪い夢でも見たんだろ、ってあっさり切り捨ててたと思います。 千雨: でも……っ……。 すると千雨ちゃんは、錆びてボロボロになった展望台の手すりを握りしめる。 そして顔を伏せ、表情を前髪で隠しながら……うめくように言った。 千雨: 私たちは、確かに「あの」雛見沢に行ってきたんです……!そして美雪たちを、……置き去りにしてっ……! 赤坂: …………。 必死に感情を押し殺すその声なき叫びをかき消すように、……強い風が吹く。 それにあおられて、毛先の方でまとめた彼女の長い髪が大きく揺れ……。 その向こう側に、今は亡き少女の姿が見えた……ような気がした。 赤坂: (っ、梨花ちゃん……?!) だが、思わず踏み出しかけた一歩は……幻の消失とともに止まる。 赤坂: …………。 ……雛見沢に対しての懐かしさから、妙な錯覚を抱いてしまったのだろうか。 赤坂: (……いや、違う) 千雨ちゃんの台詞を聞いて……10年前に抱いた後悔が再び鎌首をもたげ、「彼女」の姿となって現れたのだろう。 昭和58年6月。あの子との約束を果たすべく、意を決して雛見沢へと向かうはずだったのに……私はその途中で、事故に巻き込まれたのだ。 そして、搬送された病院で目が覚めた時には全てが手遅れになっていて……。 何もできず、それどころか結果でしか雛見沢の顛末を知ることができなかったことに、私はひとり病室で慟哭するしかなかった……。 赤坂: (……もしも、あの時) 事故にも遭わず、昭和58年6月の雛見沢に向かうことができていたら……。 何かが変わった……いや、変えられたかもしれない。……だからこそ抱いた無力感は、今でも覚えている。 おそらく千雨ちゃんは、あの時の私と同じなのだろう。情けなく泣くしかなかった私と違って、必死に慟哭を耐えているだけで……。 さすが、黒沢の娘だと思う。本当に強い子だ。でも……。 千雨: 私のせいで、美雪は……あいつはっ……! 赤坂: ……それは違うよ、千雨ちゃん。 事実でないことは、否定しなければならない。それがたとえ、彼女の胸の内に届かなくても。 かつて、自分の周囲の人間がそうしてくれたように。自責に潰されかけた時には、支えが必要なのだ。 赤坂: あの子も君も、使命感に従って行動したんだ。どんな結果であろうとも……ね。 赤坂: それに私には、千雨ちゃんを責める資格なんてない。私が相談をしなければ、黒沢刑事……君のお父さんが命を落とすことなんてなかった。 赤坂: そして、君たちがここを訪れることもなかった。……全ては、私の責任だよ。 千雨: …………。 千雨: ……それこそ、おじさんのせいじゃないです。きっかけはそうだとしても、私たちは……っ。 赤坂: そう……だから、君と同じだ。私も、自分を許せないという後悔があるからこそ……君も思いつめないでもらいたいんだ。 赤坂: 罪悪感には、際限がない。考えれば考えるほど、陥っていく先は結局ひとつしかないから……。 千雨: ……っ……。 そう言うと千雨ちゃんは、手すりを掴む手からわずかに力を抜いて……大きく吐息をつく。 どうやら、少しだけ気持ちを落ち着けてくれたようだ。……安心した。 千雨: いったいこの村で、何が起きたっていうんですか……? 悔しげに、千雨ちゃんは湖面を睨みつける。そんな彼女に私は、言い知れぬ無力感と空虚に苛まれながら……吐き出すように言った。 赤坂: 私も……それが知りたいんだよ。 Part 01: 一穂(私服): もう週末には、#p綿流#sわたなが#rしか……。 魅音の呼びかけで全員が古手神社に集まり、来週行われる綿流し会場の設営準備で動き回っていると……隣で私の作業を手伝っていた一穂が、ぽつりとそう呟いた。 菜央(私服): 何を言ってるのよ、一穂。だから今、こうして作業してるんじゃない。 美雪(私服): いや、そうじゃなくて……時間が経つのが早いねぇってことでしょ? レナ(私服): あははは、そうだねっ。美雪ちゃんたちが#p雛見沢#sひなみざわ#rに来たのが、まるで昨日のことみたいだよ~。 菜央と一緒に提灯の点検を行っているレナが、そう言って笑顔を浮かべる。 楽しい日が続くと、時間の流れが早く感じる……とはよく言ったものだ。私自身、これまでの期間が何倍もの密度で圧縮されたような気分だった。 レナ(私服): 美雪ちゃんと菜央ちゃんは、綿流しのお祭りって初めてだったよね。……一穂ちゃんは? 一穂(私服): え、えっと……子どもの頃に来たことがあるような……ないような……。 言葉の後半はほとんどかき消えていて、声にならない困惑の思いが伝わってくるようだ。 美雪(私服): (きっと、覚えてないんだろうな……) 無理もない。彼女が綿流しのお祭りに参加していたとしても、実際には10年前……この昭和58年のことなのだ。 5歳の頃の記憶なんて残っていないだろうし……懐かしいどころか、全てが初めて見るようなものだ。言葉が詰まっても当然だろう。 美雪(私服): まぁ、小さい時のお祭りの記憶って楽しいってことくらいしか覚えてないから、仕方ないよねー。 美雪(私服): けど、その分まっさらな感覚で参加することができていいんじゃない?私たち新参組と同じ、ってことでさ♪ 菜央(私服): というわけだから、しっかり楽しみましょう。……で、一穂はまず何を食べるつもりなの? 一穂(私服): え、えっと……って、なんでまず食べ物の話?ちゃんとゲームもするつもりだよっ! 美雪(私服): おぅ、そうなんだ。……じゃあ、たとえば? 一穂(私服): え、えーっと……えーっと……。 私が尋ねると、一穂はきょろきょろとしばらく視線を泳がせてから……。 一穂(私服): えっと、その……た、楽しそうなやつっ! 実にふんわりとした、答えになっていない答えを叫んでいった。 菜央(私服): ……むしろ楽しくない屋台って、あったりするのかしら? 美雪(私服): うんうん、見てみたいものだねー。絶対人が集まらなくて、儲かってなさそうだけど。 レナ(私服): あははは。魅ぃちゃんの話だと今年は去年よりも楽しい屋台がたくさん並ぶんだって。だから一穂ちゃん、いっぱい楽しもうねっ! 一穂(私服): う……うんっ! 菜央(私服): あ、あたしもあたしも!……一緒に遊んでいい、レナちゃん? レナ(私服): はぅ~、もちろんっ。屋台巡りして、おいしいものを食べようねっ! レナ(私服): あっ、そうだ。もしよかったら菜央ちゃん、このあとのレナのお仕事を手伝ってくれる?そこで一緒に何を回るか、決めるのはどうかな……かな? 菜央(私服): う、うん……! 菜央の表情が、ぱっと弾けるように満面の笑みに変わる。……おそらくは、レナが一穂にばかりかまっていたのでちょっと不満だったのだろう。 菜央(私服): 何でも言ってちょうだい!レナちゃんのお手伝いだったら、法に触れるようなことでも喜んで引き受けるわ! 美雪(私服): いやいや、レナがそんなことキミに頼むわけないじゃん?冗談にしても物騒すぎて笑えないよ。 一穂(私服): あ、あははは……。 レナ(私服): はぅ~、菜央ちゃんに変なお願いなんてしないよ? 美雪(私服): レナは常識人だからね~。……かぁいいものを前にした時以外は。 菜央(私服): そんな言い方するもんじゃないわよ。あんただって一目見た瞬間、心を動かされるものに出会った経験があるでしょ? 美雪(私服): んー、あったかな……ちょっとよくわかんないよ。一穂はどう? 一穂(私服): わ、私……? う、うーん……。 軽い話題で振ったつもりだったのだけど、一穂は真剣に悩み込んでしまう。 真面目なのは彼女の長所とはいえ、せっかくの話の流れが止まるのはよくない。そう思った私が、口を挟もうとすると……。 梨花(私服): ……みんな、ご苦労様なのです。そろそろ、このあたりで休憩の時間なのですよ。 実にタイミングよく、お茶とおはぎを持った梨花ちゃんと羽入ちゃんがやってきた。 羽入(私服): あぅあぅ~、とてもおいしいおはぎなのです。みんなで食べようなのですよ~。 菜央(私服): えぇ、いただくわ……って言いたいところだけど。 菜央(私服): おいしいってすでにわかってるのは、つまり羽入……つまみ食いしたわね? 羽入(私服): ぎくぅっ? びょんっ! と羽入の身体が飛び跳ねる。……どうやら図星だったようだ。 羽入(私服): た、たたた、食べていないのですよ~!僕はそんなに、意地汚いわけではないのです! 梨花(私服): ……羽入? 羽入(私服): し、信じてください!僕はこのおはぎを受け取って、そのまま梨花にちゃんと手渡したのですよ~! そう言って胸を張ってみせても、彼女は額から冷や汗をだらだらと流している。……とっても怪しい。怪しさ大爆発。 美雪(私服): (うーん、一穂に負けず劣らずわかりやすいなぁ) とはいえ、あんまり追求すると可哀想かな、と矛を収めてあげようとしたのだが……。 沙都子(私服): お疲れ様ですわ、皆さん……あら? 境内のあちこちを駆けずり回っていた沙都子がひょっこり現れ、羽入の顔を見て怪訝そうに眉をひそめていった。 沙都子(私服): 羽入さん、その口元の黒いものは……。 羽入(私服): あぅっ?! 沙都子(私服): 失礼。なにもついていませんでしたわ。 羽入(私服): あぅあぅあぅあぅ?!だ、ダマされたのですよー?! 梨花(私服): ……みー。羽入の分のおはぎは、もう無しなのですよ。 羽入(私服): そ、そんなぁぁあぁぁ~?! 梨花(私服): 泣いてもダメなのですよ、みー。ここは公平に信賞必罰なのです。……にぱー☆ 涙目ですがりつく羽入を見下ろす梨花ちゃんのお尻から、悪魔の尻尾が見えた気がしたけど……気のせい? 美雪(私服): (おぅ、からかって楽しんでる……) とりあえず、フォローしてあげよう。さすがに甘い物好きの羽入にとって、ちょっとペナルティが大きすぎる気がする。 美雪(私服): で、でもこのおはぎって、本当においしそうだなー!だよね、レナ? レナ(私服): はぅ、そうだね……。レナが羽入ちゃんでも、ついこっそりつまみ食いしちゃったかな……かな? 羽入(私服): あぅあぅ、レナもこう言っているのです!だから梨花、どうかお目こぼしを……! 梨花(私服): ダメなのですよ、にぱ~。 羽入(私服): あぅあぅあぅ~!! 圭一(私服): おっ……なんだなんだ、何の騒ぎだ? 千雨: ……ずいぶんとにぎやかだな。 すると羽入の絶叫に呼ばれたように、境内の奥から前原くんと千雨がやってくる。ちなみに2人は、舞台設営のお手伝いだ。 美雪(私服): パワー担当、お疲れ様ー!そっちの作業はどんな感じ? 圭一(私服): おうっ、バッチリだぜ!踊って歌って跳びはねても、びくともしねぇくらいに頑丈に仕上がったから安心してくれよ、梨花ちゃん! 梨花(私服): ありがとうなのです、にぱー♪……といってもボクは踊るだけなので、歌ったり飛び跳ねたりはしないのですが。 魅音(私服): あっはっはっはっ!まぁ、そんなこともできるくらいにしっかりした舞台になったってことでしょ? そして、本殿の方で大人たちと打ち合わせをしていた魅音も騒ぎを聞きつけたのか、こちらへとやってきた。 魅音(私服): 圭ちゃんと千雨、お疲れ様!そっちの方って重い資材とかを持ったりして、結構大変だったでしょ? 千雨: いや、あれくらいの重さなら部活の頃はよく持ち上げたりしてたからな。 千雨: ……というか美雪、パワー担当ってなんだ?前原はともかく、女が言われて嬉しい呼び名じゃないぞ。 沙都子(私服): をーっほっほっほっ! まぁ確かに千雨さんは、ゴリラ並みの体力と筋力の持ち主さんですもの。そういう担当名の方がしっくりきますわねぇ。 千雨: ……ほぅ、そうかそうか。ではゴリラらしく、その賛辞に見合ったお礼をお前にくれてやろう。 千雨: まずは欧米式にハグなんてどうだ。あっついやつをかましてやる。そらっ……! 沙都子(私服): ぐっ、ぐひゃへぇぇぇえぇっ?千雨さん、この抱きしめはむしろサバ折り、ベアーハグっ!クマ並の力で背骨をへし折られてしまいましてよー?! 千雨: 冗談だよ。さすがにそこまでの力があるはずないだろうが……なぁ、美雪? 美雪(私服): …………。 千雨: ……おい、なんで目をそらす? 美雪(私服): よーしおはぎ食べよう! おいしそうだよ! 千雨: 話までそらす気か、この野郎。 沙都子(私服): さ、賛成ですわっ!今すぐおはぎタイムに突入でしてよ~! 羽入(私服): あぅあぅ、おはぎタイムなのです~。 梨花(私服): みー。どさくさに紛れて食べようとしてもダメなのですよ。 羽入(私服): そんな、ご無体な~!! 千雨: 仕方ないな……私の分をやるよ。好きなら食え。 羽入(私服): え、いいのですか?! ありがとうなのです~! 梨花(私服): みー……甘やかしてはいけないのですよ、千雨。 レナ(私服): あはははっ。でも、羽入ちゃんはいつもおいしそうに食べるから、もっと食べさせてあげたくなっちゃうよね。 一穂(私服): もぐもぐもぐ……。 圭一(私服): へへっ、一穂ちゃんもおいしそうに食うよな~。 レナ(私服): はぅ~、おはぎを食べている一穂ちゃんかぁいいよ~! 菜央(私服): あ、あたしもかぁいく食べれるわよ?! 沙都子(私服): えっと……そこ、張り合うところですの? 魅音(私服): くっくっくっ……だったら今度、誰が一番おはぎをおいしそうに食べるかの部活でもする? 罰ゲーム付きでさ。 千雨: うまいもんくらい、ペナルティなしで自由に食えばいいだろうが……まったく。 そんなにぎやかなやりとりを見ながら、受け取った自分のおはぎにかぶりつく。 美雪(私服): (うーん、準備に疲れた身体には染み渡るいい甘さだね~) 嬉しそうにおはぎを食べながら、お茶を片手にみんなを眺める千雨を見る。 美雪(私服): 千雨、私のを半分こして食べない? 千雨: いや、私はいい。 美雪(私服): ? お腹空いてない? 千雨: ……まぁ、そんなところだ。それに、食べたいヤツが食ったほうがいい。 美雪(私服): それもそうか……もぐ。 そんな感じに、準備は賑やかに進んでいく。……本番の綿流しは、すぐそこまで迫っていた。 Part 02: ダム湖を去った私たちが次に向かったのは、市街地から遠く離れた森の中の病院だった。 病院といっても、よくある総合病院ではない。……精神を病んだ患者専門の、そういう医療施設だ。 千雨: …………。 普通の病院とは違う独特の空気が満ちているようで、思わず気圧された感じになる。 そのせいか、院内に入って職員からの説明を受けている間も、千雨ちゃんはずっと全身を強ばらせている様子だった。 赤坂: ……ここに残っているかい? 千雨: いえ……自分も行きます。 今日の目的は、とある人物に出会うこと。美雪に辿りつくヒントを知っているはずだと、千雨ちゃんが強固に主張したのだ。 様々な病院を盥回しにされたせいで一時は行方知れずになっていたものの、ようやく探し出したその人物は……。 千雨: ……レナ。 レナ(大人病院服): ――――。 千雨ちゃんの呼びかけに、枕を背もたれにしてベッドで起き上がって座る女性は何も言わない。 ……彼女は、竜宮礼奈。友達からは、「レナ」と呼ばれていたらしい。 第一印象は、やつれきった若い女性。年齢は今年で24歳のはずだが、容貌には深く暗い影が落ちきっていて……。 どこかを見ているようで、どこも見ていない虚ろな様子を前に……私は思わず、息を飲んだ。 赤坂: ……っ……。 それは、かつての自分の姿によく似ていた。無力感に打ちのめされ、泣きわめいて錯乱した後に現実から目をそらして思考を放棄した、あの……。 赤坂: (いや……考えすぎだ) 己の過去が、今の自分を責めているように感じてしまうのは……娘の失踪の事実を知って、自分も不安定になっているせいだ。 ……落ち着かなければならない。私と目的を同じにする千雨ちゃんのためにも、私が取り乱すわけにはいかなかった。 千雨: …………。 痛ましい姿の竜宮礼奈を前にした千雨ちゃんは、しおれた花を見るような辛そうな表情を浮かべたものの……ぎゅっと唇を噛みしめた。 千雨: ……レナ、私のこと、覚えているか?千雨だ。黒沢千雨……10年前、私たちに弁当を作ってくれたことがあっただろ? 千雨: #p綿流#sわたなが#rしの祭で、一緒に遊んだ……覚えてるよな?みんなでリンゴ飴食ったり射的したり……。 勇気を出したと呼ぶにはあまりにもか細く、懐かしさを暖めるには切なすぎる声で語りかける。 だが、話を向けられても、彼女は……。 レナ(大人病院服): ――――。 竜宮さんは最初こそ、わずかに千雨ちゃんへと視線を向けたが……。 ……すぐに、手元へと顔を戻してしまった。 赤坂: …………? 手元をよく見ると、彼女は指にひものようなものを絡ませており……何かを編んでいるようだ。 千雨: あれ……ミサンガじゃないですか? 赤坂: ミサンガって……サッカー選手がつけている? 千雨: はい。以前フリマとかで小遣い稼ぎするために、結構な量を美雪と一緒につくって……あっ……。 ふいに、千雨ちゃんが目を見開きながら口を押さえて話を止める。 そして、気まずそうに視線を落とすと唇をかみしめ……頭を下げていった。 千雨: ……ごめんなさい、赤坂さん。うっかり美雪の話をしちゃって、その……。 赤坂: いや……いいんだ。君が想像するようなことじゃないから。 赤坂: ただ、君たちがそういうことをしているって知らなかったから……少し、驚いただけだよ。 とはいえ……あの子の名前を聞いた瞬間、思わず反応したのが顔に出てしまったようだ。……大人として、情けない。 自らに喝を入れ、呼吸を整え……大人としての責務を果たすべく、私は竜宮礼奈に向き直っていった。 赤坂: 竜宮さん。あなたは10年前の昭和58年の6月、綿流しの直後に起きた惨劇の中で唯一生き残り……この病院に収容されたと聞いています。 赤坂: あの日、あの夜……あなたは、いったい何を見たんですか? レナ(大人病院服): ――――。 赤坂: ここにいる千雨ちゃんや、梨花ちゃん……友達のことも、忘れてしまったのですか……? 赤坂: 私の娘……赤坂美雪のことも? 思わず口をついて出た、最愛の娘の名前。だけど……。 レナ(大人病院服): …………。 それを聞いても竜宮さんは何も答えず、うつろに濁った目でひたすら手だけを動かしていた……。 赤坂: (……だめか) 私たちにまるで関心を示さず、まるでいないのと同然の認識と態度だ。 その後もしばらく、何か変化がないものかと無言で彼女を見守っていたが……。 もはや、今の彼女には現状でとりつく島は無いのだと判断し、いまだに固唾をのんで竜宮さんに向き直る千雨ちゃんの肩をぽん、と叩いた。 千雨: っ、赤坂さん……? 赤坂: 行こう、千雨ちゃん。 千雨: で、でもっ……! 赤坂: 今日は入院している事実を確かめて、様子を見るために来ただけだ。会話の成立には、まだ時間がかかるだろう。 赤坂: 何かあったら連絡をもらえるように、職員さんたちには頼んでおくよ。 赤坂: ……今の彼女に声をかけても、何も届かない。 冷静に考え直したものの……今の竜宮礼奈の姿には、やはり身に覚えがある。 昭和58年の事故から目覚めて事実を知った私は、何も考えられず、ただぼんやりとベッドの上に寝転ぶことしかしかできなかった。 赤坂: (ただ……もしも、あの時……) もしも当時の自分が少しでも動けていたならば、#p雛見沢#sひなみざわ#rの真相を探すために無理矢理退院してあちこちを駆けずり回っていたかもしれない。 焦燥感から逃れるための、「真相探し」という逃避行動として……。 しかし足を痛めた状態ではそれすらも叶わず、意識を曖昧にさせるしか逃避ができなかった。 自分の声が竜宮礼奈の耳……いや、心に届いていないのだと気づいてしまったからには、もはやかける言葉はない。 かつての自分が、そうであったように。どれだけ相手が自分を思って声を投げかけてくれても、本人が聞き入れなければ何の意味も為さなかった。 赤坂: ……千雨ちゃん。 千雨: …………。 千雨ちゃんは、それでもまだ可能性にかけたかったのだろう。 きっ、と鋭い目つきで口を開きかけたが、私を見た瞬間……何かを悟るものがあったのか、ぐっと奥歯を噛みしめて……頷いてくれた。 千雨: ……わかりました。 ……ぎりっ、と苦渋を飲み込もうとする歯ぎしりが響く。そして彼女は、なぜか首筋を苛立たしげにかきむしっていた。 赤坂: 行こう。 そんな千雨ちゃんの背を軽く押して促し、私たちは病室の外へと足を向ける。 ……それでも病室を出る直前、私は再び振り返った。 レナ(大人病院服): …………。 閉まりかけた扉の隙間から見えた竜宮礼奈は、ただ自分の手元へ視線を落としている。 うっすらと瞳を覆うぼんやりとした色が、まるで卵の薄皮のように頼りなく……。 しかし、彼女を強固に守っているように見えた。 …………。 レナ(大人病院服): 通りゃんせ、通りゃんせ……ここは、どこの……ほそみちじゃ……。 Part 03: 文字通りのお祭り騒ぎの屋台巡りの後、古手梨花による奉納演舞はつつがなく終了。 儀式で裂いた布団の綿を川に流すというメインイベントの締めのため、私たち一同は他の村人たちとともに川辺に来ていた。 一穂(私服): 梨花ちゃんの奉納演舞、ほんとに素敵だったな……。私、最後まで夢中になって見入っちゃったよ。 梨花(私服): みー、ありがとうなのです。頑張って練習した甲斐があったのですよ。 沙都子(私服): 富竹さん、いろんなアングルから梨花のことを撮っておられましたわねぇ。写真ができあがるのが今からとても楽しみでしてよ~♪ それぞれ布団から引きちぎった綿を丸めて川に流しながら、巫女役を務めた古手梨花の見事な奉納演舞を褒めそやしている。 ……が、そんな中。私はひとり皆から距離を取り、松明の明かりが途絶え暗がりの中へと消えていく綿の塊を眺めていた。 千雨: ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の流れにあらず……か。 美雪(私服): どうしたの、千雨?こんなところで『方丈記』の一節なんて呟いてさ。 慌てて振り返ると、そこには見慣れた幼馴染みの顔があった。 ……さっきまでみんなの輪の中にいたはずなのに、いつの間に寄ってきたのだろうか。 千雨: (……相変わらず目ざといヤツ) ただ、いつだってそうだ。私が輪から外れていると、気がつけば側にいる。それが美雪だ。 美雪(私服): もしかして、センチメンタルってやつ? 千雨: なんでそうなるんだ。違うに決まってるだろ……わかってるくせに。 ため息をつきながら、再び夜の川へと向き直る。 千雨: もし歴史がこの川の流れのようなものだとしたら、今の私たちは流れるこの綿なのかもしれない……そう、思っただけだ。 美雪(私服): 確かに……。綿には自分の意思なんてものがないし、動く力も無いからね。 美雪(私服): この後起きる災害に打開策を立てられず、ただお祭りを満喫するしかない私たちに似てるかもね……あははっ。 千雨: 皮肉を言うなよ。私が言いたいのは……。 美雪(私服): わかってるって。……でも、これくらいは愚痴らせてよ。 千雨: ……。やっぱり、落ち込んでるのか。今日まで何もできず、確かなことはまるでわからなかったから……。 美雪(私服): そりゃね。……でも、まだ終わりじゃない。終わらせたりしないよ……絶対にね。 千雨: ……そう言ってくれて、安心したよ。 美雪(私服): そりゃよかった。あと……綿は流されるだけだとしても、魚は流れに逆らって上流に向かうことがある……卵を産むためにね。 千雨: つまり……私たちは綿じゃなくて魚で、ぼんやりしてるようで今は流れに逆らって泳いでる真っ最中……ってことか? 美雪(私服): 停滞と逆行過程の区別はつけにくいんじゃないかな。他人だけじゃなくて、自分自身でもね。 千雨: ……だとしたら、私たちは何のためにここにいる?どこに向かって泳いでいるんだ? 美雪(私服): さぁ。でも、最初に#p雛見沢#sひなみざわ#rに向かった時はキミのお父さんが巻き込まれた事件の真相を究明する……って目的を持って訪れた。 美雪(私服): なのに、昭和58年のこの「世界」で、今のところは何もわかってない。ただ……。 千雨: ……? どうした美雪、何か気になることでもあるのか? しばらく待っても言葉の続きが聞けないことに焦れた私が続きを促す。だが、美雪は「……いや」と緩く首を左右に振っていった。 美雪(私服): ……確証を得られたわけじゃないから、今のところはまだ保留にしておくよ。 美雪(私服): はっきりした段階でキミにも協力を求めるつもりだから、その時はよろしくねー。 そう言い残して美雪は、ひらひらと手を振って一穂たちのもとへと戻っていく。 千雨: …………? その背中にやや違和感を覚えながらも、私は再び綿の流れる川を睨み付ける。 暗い夜の川の一部は松明の明かりで照らされて、まるで鏡のように周囲の景色を反射している。 ……覗き込んだ川の中には、険しい顔をした自分がいた。 千雨: だから……正直、後悔してます。 空のジュース缶をぐしゃり、と握りつぶし、唇をかんで空を見上げながら……千雨ちゃんは喉から絞り出すように、言った。 千雨: なんで私はあの時、美雪が気になってたことを強引にでも聞き出そうとしなかったのかって。 千雨: それを知ってれば、もしかしたら……っ……! 赤坂: …………。 ……彼女は必死に激情を抑え、荒ぶる気持ちを静めようとしている様子だ。 その感情を支配するのは悲しみか、怒りか……ただいずれにしても、私は大人の立場として伝えるべきことを伝えるしかなかった。 赤坂: ……。たとえどんな判断をしたとしても、後悔はつきまとうものだよ。 赤坂: あぁしておけばよかった、こういう道もあったんじゃないか、ってね。 赤坂: 完全に納得できる結果なんて、そうそうあるものじゃない。 赤坂: そんな答えのない淀みの中でずっととどまっているより、少しでも前に進んだ方が建設的だよ。 千雨: ……っ……。 赤坂: いや……むしろ前に進むことで、辛うじて正気を保とうとしているのかもしれない。 赤坂: どちらにせよ、私たちが泳いでる魚だとしたら泳ぐのを辞めた瞬間、川の流れに飲み込まれるだけだ。 赤坂: 自分たちが魚だと言うなら、魚らしく泳いで抗おうじゃないか。 千雨: ……赤坂さん。 そう言って千雨ちゃんは、大きくため息をついて息を整えてから私に顔を向けてくる。 ようやく、感情的になっていた自分を抑えることができたのか……それとも……。 千雨: …………。 千雨: ……ありがとうございます、少し落ち着きました。それで、次の目的地まではどれくらいですか? 赤坂: 大きなトンネルを抜けさえすれば、そんなにかからないよ。 千雨: 神社……でしたっけ。古手神社の分社とか。 赤坂: あぁ、そうだ。私も、教えてもらって初めて知ったんだけどね。 赤坂: ……高天村ってところにあるそうだよ。 Part 04: 私と千雨ちゃんの旅の終着点は、神奈川の海辺にある神社だと最初に決めていた。 そして、古手神社の分社だというそこに足を踏み入れいた私が目の辺りにしたのは……。 赤坂: え……? 境内で最初に見つけたのは、箒を持って境内を掃除していた一人の若い巫女。 ……人が居ることはわかっていた。登録上の責任者の名前も事前に調べた。 だが……その姿は、あまりにも予想外で。私はほとんど反射的に、言葉を失っていた。 巫女: ……あの、どうかされましたか? 赤坂: あ、いや……すみません。私の知っている女の子と、あまりにも似ていたので。 梨花ちゃんに、という言葉はとっさに飲み込む。 そして私が警察手帳を手に尋ねると、彼女は実質この神社を管理する者だと語っていった。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 西園寺絢、と申します。 赤坂: ……どうも。 彼女が名乗る間も、不躾だと理解しつつまじまじとその容貌を見ずにはいられなかった。 赤坂: (……もし、もしも梨花ちゃんが成長して大人になれたなら……) 赤坂: (西園寺さんのような綺麗な女性になっていたのかもしれない……) ただ、梨花ちゃんが亡き今……それを確かめる術は永遠に失われた。 ただそれでも、もしかして……と思わせるほどに、西園寺さんは梨花ちゃんによく似ている気がした。 加えて、それとは別に少し気がかりなのは……。 赤坂: (なんだか、酷く疲れている……?) 病気……とは、少し違う気がする。彼女の動きは健康的な人間のそれだ。 だが、影を伴うその表情は動きこそあれどたとえば竜宮礼奈のような……暗く重い影を引きずっているように見える。 とりあえず、過去への感傷と現在の彼女への感想をいったん棚上げして……私はこの神社を訪れた理由を端的に説明していった。 赤坂: 私たちが調べた所、この分社には10年前に起きた「#p雛見沢#sひなみざわ#r大災害」と呼ばれる大量の死者を出した謎の失踪事件の後……。 赤坂: 本殿に収められていたご神体や、雛見沢で代々保管されてきた資料などが移されてきたと言う話を聞きました。 赤坂: 10年前の雛見沢で、いったい何が起きたのか……私たちは、その真実を知りたいと考えています。 一息に告げると、西園寺さんは言葉の意味を噛みしめ、飲み込むような間の後に口を開く。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……失礼ながら、何か令状はあるのですか? 赤坂: …………。 当然の問いに、私は唾を飲み込む。……こう聞かれることも一応は想定していたが、さりとて対策が思い至らずに来てしまっていた。 赤坂: いえ……法的な手続きを踏んだわけではありません。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: そうだと思いました。公的な捜査に、子どもを連れているはずがありませんから。 千雨: …………。 視線の先には……固い表情の千雨ちゃんの姿。確かに曲がりなりにも警察の名前を出すなら、彼女を置いてくるべきだったかもしれない。 だが、元より警察手帳は身分証として出すだけのつもりだった。それに……。 赤坂: (……千雨ちゃんも西園寺さんも、お互い初対面のようだ) もしかしたら面識があるかもしれないと思ったが、どうやら互いそれはなさそうだ。 ……万が一のことを考えて、それも確認しておきたかったのだ。 赤坂: これは公の捜査ではありません。ですが……調べる理由があります。どうか、ご協力願えませんか? #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: どうぞ。 赤坂&千雨: え? あっさりと下りた許可に、私だけでなく千雨ちゃんまでもがあっけにとられた顔で息をのむ。 しかし、西園寺さんは怪訝な色も見せず紙に書いた文字を読み上げるように淡々と言葉を紡いでいった。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 倉庫を確認したいとのことであれば、どうぞ。鍵を取ってきますので、ご確認ください。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……もっとも私の知る限り、10年前の例の「事故」の解明に繋がる内容の資料は無かったように思いますが。 千雨: それでも、お願いします……!10年前の「世界」に置き去りにされた私の友達をなんとしても助けたいんです! #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……友達……? それを耳にした西園寺さんは、わずかに目を見開く。 そして、足音をほとんど立てず千雨ちゃんに歩み寄ると、正面から見据えおもむろに口を開いていった。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……あなたは、見てきたのですか?昭和58年6月のあの日、雛見沢で起きたことを……。 千雨: っ……? あんた……いや、巫女さんは何か知ってるんですか?! 千雨: だったら、教えてください……!あの日、村に現れたのは何だったんですかっ?あのバケモノの正体は、いったい……?! #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……私は、何も知りません。人から伝え聞いたのみで、実際に見たわけではありませんから。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ですが、あなたが見たもの次第では……教えられることが、あるかもしれません。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: だから、聞かせていただけませんか?あなたが、何を見たのかを。 千雨: ……っ……!! Part 05: ……最初から、違和感はあった。だけど私は、完全ではないにせよ目をそらして「それ」を視界の外に追いやろうとした。 なぜなら……私から見ても昭和58年6月の#p雛見沢#sひなみざわ#rの人は、みんな優しかったからだ。 ……レナは、料理上手。魅音は盛り上げ上手。 沙都子はなにかとアイディアに富んで、羽入は空気を和ませるのが上手くて……。 千雨: (そして……古手梨花は、美雪の命の恩人だから……) でも……目をそらしてはいけなかったのだ。 穏やかなせせらぎのような川の流れも……大雨が降れば、一瞬で荒々しい土石流へと姿を変える。 私たちが川を遡る魚だとすれば、土石流に抗う手段など存在しない。 ならば最小限に被害を抑えるためには?……その答えは、たったひとつしか浮かばない。 千雨: (予兆を、見逃さないこと……!) ……今になって思えば、明らかだった。土石流の予兆は、確かにあった。 『ツクヤミ』なんてものが存在した以上、私はなにもかもを信じてはいけなかったのだ……! 千雨: っらああぁぁぁああっっ! 目を血走らせて凶器を片手に迫りくる村人たちを、私たちは「カード」の力を駆使して退けていく。 千雨: 邪魔するな! ブッ殺すぞ!! 菜央(私服): ねぇ、ねぇちょっと!なになに、なんなの?! いったい何が起きたの?! 美雪(私服): わからない! とにかく走って!! とりあえず美雪の言う通りに、走ってはいる……だが、菜央の言う通りだ。 何が起きたのか、私たちは何一つ理解できていない。よくわからないままに襲われて、よくわからないままに抵抗している。 ただ、どうしようもなくハッキリしているのは……。 千雨: (ちょっとでも気を抜いたら殺される……!) なにもかもわからないが、向かってくる人間の殺意だけは本物だ。 現にさっきも振り下ろされた斧が、後ろで結んだ髪の先端を切り落とした。 ほんのわずかに動くのが遅かったら、切り落とされたのは私の首だった。 菜央(私服): みんな、どこ行っちゃったの?!レナちゃんは?! 前原さんたちは?! 千雨: わからない!さっきまでは側にいたと思ってたが……! 多勢に無勢の上、暗闇の中をひたすら突き進んでいるうちに……いつの間にか私の後を追っているのは、美雪と菜央ちゃんしかいない。 美雪だけははぐれないように私が注意していたこと、そして幼い菜央ちゃんを庇うように動いていたため……2人は辛うじてはぐれなかったのだろう。 ……だから、見落とした。その迂闊さの代償は、けして小さくなかった……! 菜央(私服): っていうか、一穂……? 一穂はどこっ?!さっきまで一緒にいたのに、はぐれちゃったの?! 千雨: わからん……!とにかく今は、安全なところまで逃げることを考えろ! 美雪(私服): 安全なところって、いったいどこなの?!いつまで私たちは、逃げ続ければいいの?! 涙混じりの声で叫ぶ美雪に、怒りのままに「知るか!」と叫び返しそうになり……なんとか言葉を飲み込んだ。 千雨: (今、そんなことを言って突き放したら……美雪の心が、折れるかもしれない) とはいえ……本音で言うと私自身、戸惑いのままに叫びたかった。疲れた足を休めるため、立ち止まりたかった。 ……それでも走り続けているのは、親友を守りたいという矜持と責任感。 小枝のようにか細いその思いだけが、折れそうな心をかろうじて支えていた。 千雨: (くそっ! くそくそくそっ!) 千雨: (私のせいだ、私の、私の……!!) そんな自責の念を振りほどくようにして、目の前にいた村人をなぎ倒した直後――。 菜央(私服): あ……! 汗だくで額に張りついた前髪を乱暴に払い、視線を向けた先に現れた複数の人影を見て……背後から、嬉しそうな声があがった。 菜央(私服): レナちゃん! 魅音さん……! そこにいたのは、レナと魅音。雛見沢で仲良くなった仲間たち。 彼女たちを見た瞬間に、菜央ちゃんが嬉しそうな声をあげるのも当然だ……だが。 レナ(私服): あはははは……あーっははははははっっ!! 魅音(私服): くっくっくっ……くけけけけけけけけっっ!! 菜央(私服): え……え……? ……その有様は、信じられなかった。いや違う、信じたくないほどに醜悪で……凄惨だった……! 千雨: まさかお前らまで、おかしくなっちまうとはな……!悪い夢なら、とっとと覚めてもらいたいんだがな……! 菜央(私服): え……え? レナちゃん、どうし……? 美雪(私服): 近づくな、菜央!レナも魅音も、正気じゃない! 菜央(私服): でも、でもっ……! ついさっきまで仲良くしていた子たちが、狂気に目をむいてと嗤いながら迫ってくる……。 関わりの薄い村人はまだ対処できたものの、親しい人間の豹変は予想しながらも本来ならばしたくなかったのだろう。 美雪と菜央は互いに身を寄せて支えていたが、どちらが崩れ落ちてもおかしくないほどに恐怖と混乱に怯えていた。 千雨: ……行け。 だから私はそんな2人を進行方向とはややズレた角度へと押しやりながら武器を構えた。 美雪(私服): え……えっ……? 千雨: こういう時こそ、の出番ってやつだ。#p興宮#sおきのみや#rまで行けば、何かの手段は残ってるはず……。 千雨: 私に任せて、お前らは逃げろ。 美雪(私服): な……?! ふる、と美雪の唇が震える。 美雪(私服): な、何言ってるんだよ?!キミだけ残して行くなんて、そんなことできるわけないじゃんか!! 千雨: ……邪魔だって言ってるんだ。お前らを守りながらだと思うように戦えない。 千雨: 後から追いかけるから、先に行け。 そう言って私は美雪たちを突き飛ばし、反動でレナたちの方へと駆け出す。 美雪(私服): っ……行くよ、菜央! 菜央(私服): 必ず来なさいよ!あたしたち、待って……絶対、待ってるから! そんな2人の声を背中で受けて、安堵と覚悟を同時に覚えた私だったが……。 こちらへ向かってくる、殺意にまみれた人々の背後に……あり得ないものを、見た。 千雨: ……。は……っ……?! わけのわからないものは、今日、この数時間で一生分見たと思った。 だけど、わけがわからないものに順位をつけるとしたら……あれが、一番だ。 その時……思い出した。いや……気づかなかったふりをした事実に目を向けた。 そうでなければ、足を止めていたから。誰も彼もが叫び吠え戸惑う狂騒の最中、後ろの方から聞こえた小さくとも悲痛な叫び声――。 あれは、きっと最後尾にいた……でも、だとしたら……あの遠くに見えるのは? 千雨: は、は…………はははははははッッッ!! 笑いながら、武器を握りしめる。 楽しくないのに嗤ってしまう脳裏に、ここしばらくの生活の記憶が走馬灯のように流れて……。 千雨: 本ッ、当! 悪い夢には底がないんだなぁッッ!! 千雨: いいさ……かかってこいよ、このバケモノがぁぁぁッッ!! Epilogue: 千雨: ……気がつくと、私はたったひとりで地面の上に転がってました。 昭和58年の「世界」で繰り広げられた地獄のような顛末を語った私は……全身にのしかかる疲労とともに、大きく息をついた。 ここまで詳細な話は、赤坂さんにもしていなかった。……心の整理ができていなかったからだ。 赤坂: ……っ……。 あの「世界」で、美雪とはぐれたとしか聞いていなかった彼は案の定というか……話を飲み込めていない様子だ。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ……。それで、その後は? 必死に思考をまとめようとしている赤坂さんとは対照的に、西園寺さんは冷静に続きを促してくる。 だから私も、情報がまとまらないままでもなんとか言葉を繋いでいくことができていた……。 千雨: その後は……周りを見渡して。でも戦っていた連中の姿は、どこにもなくて……。 千雨: とりあえず美雪たちの後を追いかけようと、徒歩で#p興宮#sおきのみや#rに向かいました……でも……。 たどり着いた興宮は、人の姿が跡形もなく消えていて――。 千雨: どこを探しても、声が枯れるまで呼びかけても……動くものは何も見つかりませんでした……。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: …………。 千雨: その後は何日も歩き回って、足が棒になるかと思うほどに疲れ果てても……。 千雨: 美雪と菜央はおろか、人っ子一人見つけることができませんでした。 千雨: それで……最後の手がかりと思って、古手神社の祭具殿に行きました。元々私たちは、そこから過去に飛んできたから……。 千雨: でも、祭具展の中に入ったところで力尽きて、気を失って……。 千雨: 気がついたら、平成の世界に戻ってきていた……それが、覚えてる全てです。 事実を語り終えて……私は、視線を落とす。 そして急に、目頭が熱くなって……張り詰めていた心の糸がぷつり、と切れるのを確かに感じていた。 千雨: ……悔やんでも、悔やみきれないんです。どうしてあの時、2人に興宮ではなく祭具殿に逃げろと言わなかったのか、って。 千雨: 最初からそっちに向かって行けば、美雪も菜央も、助かっていたかもしれないのに……っ……! 千雨: ぐっ……ぅ、ううぅ、……うあぁあぁっっ……!! 堰を切ったように両目から涙があふれて……。ぽたり、ぽたり、と玉砂利の上に落ちていく。 まるで、水と油を無理矢理混ぜようしているかのように内側では感情がぐちゃぐちゃに荒れ狂っている……でも。 水と油ゆえに、全ての感情は混ざらない。ただいたずらに、私の内側を引っかき回すだけだった。 千雨: っ、……うぁぁぁ、っああぁぁぁっっ……!! ……親父が死んだ時、私は泣かなかった。悲しくなかったわけじゃない……でも、泣き叫ぶ母の背中をさする目元は酷く乾いていた。 薄情な女だ、と自分で思った。でも自分らしい、とも思った。 でも、……そうじゃない。そうじゃなかった。 今まで我慢して我慢して、必死にごまかしてきたのだ。でも、美雪の喪失をようやく意識して、自覚して――。 全部の感情が一気にあふれて、噴き出して、止まらなくて……!! 千雨: う、うぅ、うぅうううううううっ……! ……美雪と菜央は、興宮でどうなったのか。 少なくとも助かった、とはとても思えなかった。なぜならこの「世界」に2人の消息はどこにもなかったからだ。 ひょっとすると、何者かに追い詰められて……絶望の中で命を落としたのかもしれない。 それを思うと、悲しくて、悔しくて……。 私の大切なものを奪っていった奴らの存在が、殺したいほどに憎くて……呪わしくて……ッ! #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: …………。 そんな私を、西園寺さんは黙って……いい加減な慰めなども口にせず、ただ見つめている。 だけど、それが逆にありがたかった。私の気持ちなどわかりもせずに偽善ぶった台詞など言われようものなら、ぶん殴りたくなる……! なんて、身勝手極まりないとは理解しつつも邪悪で醜い黒い感情があふれてふくれあがって、止まらなくなっていた……その時だった。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: ――千雨さん、と言いましたね。 砂利の地面に膝から崩れ落ち、這いつくばる私に西園寺さんは静かな口調で……言った。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 奇跡が……欲しいですか? 千雨: ……。は……? #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: すみません、少し言い方を変えます。……友達を、助けたいですか? 千雨: あ、当たり前だッ! 千雨: もしもう一度、あの「世界」に行く方法が見つかったら……私はなんとしても、今度こそあいつらを助け出す! 千雨: そして……そしてっ! #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: でしたら……教えますよ。奇跡を起こす方法を――。 赤坂: えっ……? ……驚きに声を失う私の隣で、いつの間にか杖を地面に置いて玉砂利に膝をついていた赤坂さんが声をあげた。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 聞かれたら答えるよう、言われていますので。……あなたの力に、なれると思います。 赤坂: そ、それはいったい……?! #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 申し訳ありませんが……教えられません。お伝えできるのは、彼女だけです。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: そう、言われております。 千雨: ――わかりました。教えてください。 迷うことなく即断で、私は提案を受け入れる。が、完全に置いてきぼりになった赤坂さんは慌てて私を引き留めるように呼びかけてきた。 赤坂: ……千雨ちゃん、待つんだ!奇跡なんて、そう簡単には起きない!だから……! 千雨: ――――。 私はすっと立ち上がり、赤坂さんを見下ろす。 千雨: ……赤坂さん。 私よりずっと背が高いはずの彼だが、足に障害を負っているので私のようにスムーズには起き上がれない。 だけど……それゆえに、私は見下ろしながら問いかけていった。 千雨: あなた……なんで、生きているんですか? 赤坂: ……っ……?! 赤坂さんの目が驚きに見開かれて……次の瞬間、苦しげに歪められる。 が、当然だろう。聞き方によっては恨みがこもった詰りにも、罵りにも聞こえる言い方だ……でも……。 赤坂: ……それは、どうして自分のお父さんは死んだのに私が生きているんだって……そう、言いたいのかい? 赤坂: ……いや、そう言われてしまうのも、仕方ないだろう。そもそも君のお父さんは、#p雛見沢#sひなみざわ#rとは無関係だった。 赤坂: それが、あんなことになったのは私が巻き込んだせいで……! 千雨: 違う……違います、そうじゃない。 見当違いの、でもとても誠実な言葉を私は緩く首を振って否定した。 千雨: 赤坂さん……私が元々いた「世界」では、あなたは10年前に死んでいました。 赤坂: ……? 交通事故で、かい? 千雨: いえ……雛見沢大災害に巻き込まれて、です。 赤坂: えっ……?! 千雨: 信じられないと思います……私もです。 千雨: だけど、この事実があるだけで……申し訳ないんですが、全部嘘に思えるんです。この「世界」……あなたも含めた、何もかも。 そう言ってがりっ、と首筋をかきむしる。……血が噴き出したような熱い感触があったが、特に気にもならなかった。 千雨: でも……感謝はしています。ここまで連れてきてくれて、ありがとうございました。 赤坂: ま、待っ……うっ?! 伸ばされた腕よりも素早く、私は地面に置かれた杖を蹴り飛ばす。 使い込まれた杖は、夕闇が近づく空に近づくように高く舞い上がり……。 淡い金色の「世界」のどこかへと、弧を描いて落ちていった。 千雨: ……さようなら。 足の悪い彼は、足場の不安定な玉砂利の上では立ち上がることが難しい。 周囲に代わりになりそうな枝なども落ちていない以上、彼は私を即座に追いかけることはできない。 千雨: ……私のことは、幻だとでも思ってください。 彼の進路を絶ち、私は己の退路を断った。これは、それだけの話だ。 千雨: 本物の黒沢千雨は、あなたの娘とともに消えた。……そういうことにしてください。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: いいのですか? 案内するように先を歩く彼女は、何を、とは言わなかった。 千雨: えぇ……構いません。 私も、何を、とは言わなかった。 千雨: (……薄々、気づいてたけどな) でも……レナと再会して、ようやく確信を得た。 私を殺そうとしたレナと、あのベッドに横たわっていたレナ。 2人のレナの間に生まれた違和感の答えを、私はこれから確かめに行くのだ。 ……美雪たちを助けるついでに。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: こちらです。 そう言って西園寺さんは、神社の境内の隅にある大きな環状の注連縄の前へと私を誘う。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: この輪は、夕闇の混ざり合う一瞬だけ……過去の世界へと向かう入口になっているそうです。 千雨: ……つまりは時間限定の祭具殿みたいなものですか? #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 定かではないのでよくわかりませんが、話を聞く限り近しいものであると思われます。 千雨: 聞いた話だから、でしたっけ?……これをくぐればいいってわかれば、十分です。 時刻は既に夕刻だ。モタモタしていたら時間切れ、もしくは追いかけてきたおじさんに捕まってしまう。 千雨: ……最後かも知れませんので、もう一度。教えてくれて、ありがとうございます。 #p西園寺絢#sさいおんじあや#r: 礼は結構です……言われたことをしたまでなので。 簡素で空虚な別れの言葉を交わした後、私はためらうことなくしめ縄に向かって決意を込めながら駆け出す。 千雨: (私は必ず、あいつらを助ける。そのためには……原因を尽き止めないとダメだ) あの異様な「世界」で、最も異様なもの。間違いだらけ中で、最も違うと言えるもの。 だとしたら、あれが……! あれこそが……! 千雨: あれが原因だって言うなら……この手で除いてやる。 千雨: 待ってろよ……てめぇはもう友達でも、仲間でもない……! 千雨: たとえ忘却の彼方に消し去ろうとしても、美雪たちに泣かれて、恨まれたとしても……お前は敵で、私の獲物だ!! 千雨: 絶対に殺してやるよ……公由一穂ッッ!!