Part 01: 雪絵: 本当に、起きていても大丈夫?やっぱりうちで寝ていた方が……。 千雨の母: いえ、私だけが人任せにしたまま寝ているわけにはいきません。せめて、挨拶くらいはしておかないと……。 河上: 赤坂さん?どうしました……って、そちらの方は? 千雨の母: ……黒沢の家内です。 千雨の母: 夫の遺品のWSをここに運んで、娘たちが見つけたフロッピーと一緒に中身を調べてもらっていると、お聞きしましたので。 千雨の母: っ……?えっとあの、ここに並べられたたくさんの機械はどういったものなのでしょうか? 河上: これはですね、WSとフロッピーの中身を見るために必要な鍵開けの道具……? だそうで。 河上: おい、毬野。機械の操作に夢中になっていないで、ちゃんと説明してくれ。 毬野: おっほっほっほ! これ中身が全部純正品の最上位クラスじゃないですか!トータルしたら、めっちゃくちゃ高いやつー! 毬野: まずは純正品で色々試すのが趣味な人……いや、これは自作で組み上げるより現状の最高レベルで何ができるかの試行錯誤が好きな中身派と見たっ!! 戸佐: ……何言っとるかようわからんけど、なんや楽しそうやねぇ。 河上: お、おいっ!大事な遺品なんだから、もっと丁寧に扱えって! 毬野: はぁ~? 最上級に丁寧な扱いしてるじゃないですか……あー、そっかそっか。わかんない人にはわかんないかぁ。はー……あれ? どちらさま? 千雨の母: く、黒沢の家内です……。 毬野: どうもどうも、南井組の科学担当、毬野です!専門は爆発物ですけど、機械も好きです!!あとは……一応鑑識さんの真似事も一通り? 毬野: いやそれより、ありがとうございます!まさかこんな高級品に触れるなんて……!ご存命のうちに旦那さんと話がしてみたかったっ! 千雨の母: ……主人が聞いたら、喜ぶと思います。1人でこっそり機械弄りを楽しんでいたようですけど、本音では、趣味仲間を欲しがっていましたので。 河上: おいおい……南井組ってなんだ、組って。うちはヤクザじゃないんだぞ。 毬野: なーに言っているんですか、組なんて一般名詞ですよ。いつからヤクザの専売特許になったんです? 毬野: 「ピンクはアタチの色だから、他の子はピンクのモノ持っちゃだめ~!」 毬野: とか言うクソガキと、その親がしゃしゃり出てきて「うちの子が悲しんでるんで遠慮してくれますぅ?」なんて主張してくるのに納得できますか、普通? 毬野: いや無理ですよね、「キモッ!」って思いますよね!まぁこれ、うちの兄嫁の1人がそうだったりするわけで余計ムカつくんですけどね! わーっはっはっはっ!! 河上: あー……すみません、こいつ兄嫁たちと仲悪いそうで。一種の持病か発作だと思って流してください……。 千雨の母: た、大変ですね……。 戸佐: けど、換骨奪胎……だったか?前に灯ちゃんが言うちょった、外は同じやけど中身は別物に変えられている……ってやつで。 戸佐: 確かに「組」なんて一般名詞を警察の人間がそういう決めつけで扱うたら、ますますマルボウの所有物にさせることになるかもしれんね。 戸佐: あぁ、自分は南井組の戸佐と言います。担当は……なんやろうね。会計全般? 戸佐: 主に、新しいことする時の予算確保とか資金繰りとかしとります。 毬野: 戸佐さんは金融系にめちゃくちゃ強いんですよ!帳簿を軽く眺めるだけで不審な金の流れとか見抜けるんです。機械系も触らせたら、すぐ慣れるタイプと見ました! 戸佐: じゃあ定年後はコンピューターを趣味にしてみようかね……ほれ、河上くんも自己紹介。 河上: ……南井組、河上です。担当は外部との交渉・折衝です。 千雨の母: 河上さんのことは存じています。昨日の夜に本庁捜査一課の林原さんから、知人が明日お邪魔しますと電話を頂いたので。 戸佐: そうやって警察の内外だけやなくて、官公庁とかにも飲み仲間って名目で人間関係と情報網を持っている人間アドレス帳なんよ。 河上: まぁ博物館から広報センターに変わっても、職員の仕事は広報と啓蒙が主な職務なのは変わりませんからね。 千雨の母: ところで、あの……すみません。「南井組」ってどういうことでしょう? 千雨の母: 娘や林原さんからは、広報センターの方々だと聞いていたのですが……。 河上: 正確には元になります。今は南井さんごと、別組織に移動したので。 毬野: 正直言って今の南井さんは、上司かどうかも怪しいんですよねー。ここに来たのも業務命令じゃなく、私的にお願いって形で頼まれたからですし。 毬野: まぁ現上司も好きにやれって言ってくれているんで、やっちゃっていますがねー! 雪絵: ……前からずっと不思議に思っていたんですが、うちの娘たちがお世話になっている南井さんとはいったいどういう方なんですか? 毬野: どういう方? どういう……小5男児みたいな人? 戸佐: 来年40の成人女性に、その肩書はどうなん? 河上: 小5男児なんて、雨が降る度に傘を壊すようなわんぱくな子どもの代名詞だろ。剣にしたり杖にしたり、どっかに置き忘れたりで。 河上: まぁそれ、うちの下の子なんだがね。 毬野: 南井さんって傘が壊れたら、生身で雨の中に突っ込んでいくタイプですよねー。 毬野: 離れた場所から見るとバカをやっている感じですが、後ろに続くと結構楽しいお祭りな性格っ? 戸佐: まぁ、最初から場繋ぎとして期間限定の館長職やったからね。 戸佐: 雨がいつ止むか本人もわからんなら、降っている間にやれることやらんといかん――ってのが南井館長の姿勢やったしな。 河上: あの人って思い切りがよすぎて、死ぬ時はあっさり死ぬタイプですよね。 河上: 今まで固定のイベントしかやっていなかったのにここ3年であれこれ新しいことを始めて、失敗して、また挑戦して……嘘みたいに大忙しでしたから。 毬野: その分、楽しかったですよね~。まぁ、もうこの状況じゃ元には戻れないし……最後にドカーン、って派手に締めくくりましょう!! 河上: 実験場にクレーター開けて大問題になったお前が、ドカーンとか言うとシャレにならないからやめろ……。 雪絵: だ、大問題……? 戸佐: 南井組のメンバーは、広報部古参の河上くん以外全員が何かをやらかして、腫れ物扱いで宙ぶらりんになったところを拾われた連中なんよ。 毬野: 南井さんは引き抜いた、って言っておますけどね。喜船さんに秋武さん、比護……あー、あの人だけ違う?まぁ、もう比護さんも南井組でいっか! 戸佐: 南井ちゃんがいい言うて、秋武ちゃんが納得したなら十分やろ。 戸佐: ……と言うことで#p頭#sかしら#r入れて、7人で南井組やっとります。 雪絵: 南井さんへの信頼が厚いのはよくわかりました。ただ……。 戸佐: あぁ、言わんでもわかっちょるよ。 戸佐: 奥さん方は、南井ちゃんがなんでお嬢さんたちにあれこれ手を貸しているんか……その理由がわからんのが不安なんやろ? 千雨の母: ……すみません。 戸佐: うーん、そうやねぇ……状況と事情が複雑やけど、結局のところは代償行為かもしれんね。 千雨の母: 代償……ですか? 戸佐: 南井ちゃんのお父さんも警察官やったんよ。でも学生の頃、自宅の火災が原因で奥さんと一緒に亡くなってしもうてね。 戸佐: 2階にいた南井ちゃんは、妹ちゃん抱えて窓から飛び降りてなんとか助かったらしいんよ。 戸佐: でも、その火事にちと不審なところがあってずーっと調べちょったそうなんやけど……10年くらい前に調べるのを断念したんやって。 雪絵: 捜査妨害があったとか……? 戸佐: そうやなくて、他にやることができたんよ。だから南井ちゃんは諦めた……というより、別の道を選んだ。 戸佐: その選択を後悔しちょらん言うていたけど、やっぱり心残りがあるから似たような立場の娘さんたちを放っておけんとやろうね。 河上: 南井さんのお父上は、結構有名な事件に関わっていましたからね。この社宅内にも名前くらいは知っている人がいると思いますよ。 雪絵: ……そう、なんですか? 河上: えぇ、人望の厚い方だったそうです。今も南井さんの後ろには、お父上の同僚や部下だった方がついていて……。 河上: そういう意味でも、娘さんたちと似ているかと。 千雨の母: ……すみません。夫の事件があってから、何を信じたらいいのか私たちも正直わからなくなっていて……。 河上: あんな事件が起きた後では当然だと思います。心中、お察しいたします。 戸佐: 嫌な話やけど、母ひとり子ひとりだと露骨に足下見てくる輩がおるからねぇ。娘さんも年頃やし、ちょっと神経質くらいでちょうどいいんよ。 戸佐: 弱って心細くなった人間に手を差し伸べるフリして本人にわからないよう、そっと奈落に突き落とす……そういう悪魔は、どこにでも潜んでいるんやから。 戸佐: 頼る相手は、慎重に見定めんといけん。 雪絵: ……だから、先に共通の知人の林原さんから連絡をいただいたのですか? 河上: 突然身元不明の男3人が押しかけてくるより、共通の知人がいた方が安心していただけるかと。 雪絵: ……その通りです。娘たちから電話を受けた時は正直混乱しましたが、すぐに夫の麻雀仲間だった林原さんからの電話を受けて安心しました。 雪絵: 南井さんを信じられる人だと言った、娘たちの判断を軽んじているのかもしれませんが……。 戸佐: 軽んじとるとは思わんよ。存在の重さと判断の重さは、同じ重さと呼びはしても本質はまるっきり別もんやろ? 毬野: あー……なんか色々大変みたいですけど、正直、あんま深く考えなくていいと思いますよ。 毬野: 僕はワークステーションとフロッピーを触らせてもらえているだけで十分満足です。今が環境的に最高ですから。 千雨の母: えっ……? 毬野: 捜査本部が、コイツを無理に押収しなくて助かりました。正規の手順を求められたら、僕のしょぼい権限だけじゃ指一本触れることができませんでしたから。 毬野: それにこのWS、内部が結構繊細なんで……下手にわからない人が運んで、どこかにぶつけたら中身が吹っ飛んでいた可能性もあるんですよね。先例あるし。 千雨の母: ……あの。結局、今は何をしているんですか? 毬野: 自分が持ち込んだ私物のパソコンを、旦那さんのWSに繋げているんです。 毬野: パスワードを入力していないWSは、寝た子も同然。起こすにはパスワードが必要ですが、今回は起こすための呪文を見つけるよりも確実な方法でいこうかと。 毬野: えーっと……つまり僕のパソコンを繋いで寝ているWSの頭の中に入り込んで、中身を見せてもらおうとしているってわけです。 毬野: 同時進行で、運び込んだもう1つのパソコンでお嬢さんが見つけたフロッピーディスクも解析中です。ロックが堅固なので、時間はかかると思いますが……。 河上: 鞠野の言動は軽いですが、腕は確かです。どうか時間をくれてやってください。 毬野: あはは、やだなぁ!専門は爆発物だって言ったじゃないですか!なのにそんなことを言われたらさぁ……。 毬野: 絶対、どうにかしたくなるじゃないですか……! 戸佐: 頼りにしちょるよ、科学担当。 千雨の母: あの……先程から気になってたんですが、戸佐さんの、ご出身って……。 戸佐: あぁ、そこそこ旦那さんとはお国が近いよ。とは言えもう何十年と帰ってないき、地元に知っちょるやつぁおらんと思うけど。 雪絵: 旦那さんの故郷の話、聞いてみたら?あんまり話してくれないって言っていたでしょう? 戸佐: あー……あそこは戦前戦後のあれこれでよそ者が大量に集まった場所やからねぇ。色々と複雑なんやろ。 戸佐: 楽しいばかりな話やないけど、いい? 千雨の母: はい……本当は夫から直接聞きたかったですけど。やっぱり、知りたいです。 千雨の母: どんな場所であったとしても、夫の故郷ですから。 Part 02: #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ぅ……? 喜舟: おっ。やっと起きたか。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ……。あなたは確か、南井さんの部下の……きふね……さん? 喜舟: そうだ。南井組、車両担当の喜舟だ。あんたの護衛と……最悪襲撃を受けたら、引っ抱えて逃げるのが俺の仕事だ。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 南井組……? 喜舟: 仲間内で流行っている自己紹介だ、気にすんな。……にしても、やっぱ俺のことを知っていんだな。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: あっ……。 喜舟: 俺はあんたと、これまでに面識がない。まぁ名前くらいは聞いていたが、少なくとも顔を合わせるのは初めてだ。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: す、すみません……。 喜舟: いや、一応話は聞いているから大丈夫だ……正直、よくわかっちゃいないがな。ところで、秋武って名前に聞き覚えはあるか? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 確か、南井さんの部下ですよね。背の高い女性の……。 喜舟: そうか……じゃあ、比護は? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 南井さんの部下ですよね。ちょっと前に目を怪我されたって……。 喜舟: ……そうか。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: あの、なにか……? 喜舟: いや、ちょっと秋武から頼まれてな。この質問もその頼み事の一部なんだが。 喜舟: で、あんたが目を覚ましたら聞きたいことのリストを南井さんから預かっている。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 私に答えられることでしたら……なんでも答えます。南井さんたちに助けてもらってここに運び込まれた後、「私」に戻った後すぐに眠ってしまったので……。 喜舟: ……死にそうな顔色だったと聞いていたが、大分よくなったみたいだな。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: はい、おかげさまで。 喜舟: そうか……いや。実は元気そうなら質問の前にいくつか検査を受けてもらえと秋武に言われていてな。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 検査……ですか? 秋武さんが? 喜舟: 主治医と病院令嬢のお友達からは、本人の了承が得られたらいいって言質は取った。 喜舟: 安心しろ、痛いことはない……と言いたいが、検査項目の中に脊髄液を取るとかあったんだが、そいつはどうなんだ? 結構痛いんじゃないのか? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ……人によりますけど、骨髄液ならともかく脊髄液ならそこまで痛みはないかと。 喜舟: そりゃよかった。で……どうする? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 受けるのは構いませんが……それで何がわかるんですか? 喜舟: わからないことをわかるために、検査を受けて欲しいんだとよ。 喜舟: 秋武に言わせたら、この検査はテスト。そのテストってのは、わかんないところをあぶり出すためのもので……。 喜舟: 結果を見て一喜一憂するもんじゃなくて、今後を決めるためのステップだから受けること自体に意味があるとか……なんとか。 喜舟: あー……悪いな。俺ぁ勉強が苦手で、テストって聞いただけじゃそれが何なのかよくわかってねぇんだ。 喜舟: 誰かに詳しい話でも聞くか……って言いたいが、この話は電話やFAXを使うなって厳命されている。だから、信じてもらうしかないんだが……。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: いえ……大丈夫です、検査を受けます。……ただ、お願いをしてもいいですか。 喜舟: なんだ? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: 夫に手紙を書きたいので、筆記用具と……。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: もしも私の死んだ後、彼が目を覚ましたら……手紙が渡るようにしてもらいたいんです。 喜舟: そいつはできるが、あんまり勧められねぇな。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ……? どうしてですか? 喜舟: 伝えたいことを手紙に託して安心されて、あっさり死なれちゃ困る。 喜舟: 後悔とか未練とかってのは、死にかけた瀬戸際で死ななかった理由……いわば、命綱になるんだよ。こいつは経験則だ。 #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: …………。 喜舟: あんたに死なれたら、俺が南井さんにどつかれる。まぁ安心しろ、全部終わったら旦那に会わせてやる……いや、待て。なんかこのセリフって悪役臭ぇな? #p藤堂夏美#sとうどうなつみ#r: ふふっ……わかりました。手紙は最初の手段にします。 喜舟: そうしとけ。まぁ、最後にしないために俺がいるんだけどな。 喜舟: 俺の仲間が、今死ぬ気で働いているらしいから……俺も給料分くらいはお役目を務めてみせるさ。 Part 03: #p秋武麗#sあきたけうらら#r: うん……うん。ごめんね、母さん。急にこんなこと頼んで……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ん…………あはは、そうかな。そうかも。2人揃って、心配ばかりかけちゃっているね。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: えっ……比護くん?うん……元気だよ。そっか……きっと喜ぶよ。比護くん、うちの犬猫が大好きだから。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 父さんは……そっか、じゃあお散歩を任せるね。ジェレマイアの不意打ちダッシュには……ごめん。早く言っておけばよかったね。本当にごめん。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ……うん。ありがとう。最近、叔父さんがずーっと父さんと母さんを神様みたいな人だって言っていた理由、わかってきた気がする。 比護: ……ぅ……? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: あ……ごめん、そろそろ切るね。取りに行く前に、また電話するから。 比護: 秋武……? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ……比護くん、起きた? 比護: 俺……どれくらいの時間、寝ていた……? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 2時間くらいだよ。ところで、聞きたいことがあるんだけど……比護くんの上司って、どんな人なの? 比護: ……俺が、子どもの頃。週末は、いつも兄の病院通いの付き添いで。 比護: 宿題も、往復の車の中でやらされて……自由な休みの日なんて、なかった。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: うん? うん……。 比護: でも、土曜の学校の終わりにクラスのやつから、野球の人数が足りないから来いよって誘ってもらって……。 比護: いつも遠目に見てるだけだったから、誘われて……嬉しくて。 比護: 鞄を家に置いて……親が止めるのを振り切って、遊びに行った。道具も貸してくれて……とても楽しかった。 比護: けど、その夜……父親に殴られて、母親に泣かれた。なんでお前は、人の気持ちがわからないんだって。 比護: ……病院に行っても、俺は黙って待合室で待っているだけだった。 比護: 行っても意味がない、って反論しても耳を貸してくれなかった。「家族なんだから」と問答無用で片付けられて、それで……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: いや、そんな言いくるめ方は卑怯じゃないかな……。だいたい、自分と同じように苦しんでくれって本人が面と向かって頼んだわけじゃないでしょ? 比護: ……俺のよく知る兄貴だったら、否定するなり止めるなりしてくれたかもしれない。だが、その時は親の考えが絶対だった。 比護: 次の日、クラスのヤツに顔のあざを見られてすごく申し訳なさそうに「ごめん」って謝られた。……それから、二度と誘われなくなった。 比護: 係長は……その時の俺みたいな気持ちをずっと抱えている感じの人で、その……えっと……。 比護: 悪い……ちょっと何を言っているのか、自分でもわからなくなった。今言ったこと、忘れてくれ……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ううん、寝ぼけている時を狙って聞いたのは私だからさ。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: でも……そっか。うん……ちょっとは希望が見えたかもね。 比護: 希望……? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 比護くん。高野製薬の薬の問題点をまとめた書類って今もまだ存在している? 比護: 省庁内向けのものだったら、上司が……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: それって、どれくらいの時間があれば外部向けに作り直せると思う? 比護: ……?作り直して、それをどうするつもりだ? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 私がそれを持って、アメリカのユプミルナ本社に飛ぶ。 比護: は……? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: あそこの創業者って、叔父の友達なんだ。20年くらい前かな……創業前、日本に来た時は私の家に泊まっていったの。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 叔父さんに、「お前の下の姪がゆぷぃゆぷぃって連呼するから頭から離れない。どうしてくれる?」って文句を言っていたのを、私は覚えている。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: あーちゃんはたぶん、まだ小さすぎて覚えていないと思うけどね。 比護: ……そんなツテが、あったのか。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: うん。毎年クリスマスカードが送られてくるから、向こうも忘れてはいないはず。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 叔父宛の手紙やらカードやら、謎の小包やら……全部丁寧に保管していたうちの母親に感謝だね。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 叔父の名前とクリスマスカードを証拠に、アポをもぎ取って……なんとか高野製薬との契約を見直してもらえないか、交渉してみる。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: たとえ無理でも、せめて販売開始時期を見直させるとか……時間稼ぎができるかもしれない。 比護: …………。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: なにがどう転んでも、叔父さんは面白がって笑ってくれるとは思うけど……他人が築いた交友関係を勝手に利用する以上、ちゃんと結果は出す。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 打てる手は、全て打つべき。それで資料は……いや、比護くんの上の人に会わせて。私が直接話をして、こっちの状況を含めて説明する。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 私は、比護くんの上司が何を考えているのかは知らないけど……あなたが上司をただの上司じゃなくて、理解できる人だって思っているなら……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 私もそのつもりで、対処するよ。 比護: ……その、係長は……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ひょっとして、地位の低い若い女とは交渉しないタイプ?だったら戸佐さんを呼び戻して、同行してもらう? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 社会的な地位がないと聞く耳を持たないのなら、多少時間をかけてでも南井さんの後ろにいる警視庁の上の人間を引っ張り出したほうがいい? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: それとも、OB系の方が利く?大学によっては私のツテでなんとか……。 比護: そうじゃない……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ……? そうじゃないって?ユプミルナの創始者と直接交渉できる機会を無視できるほど、状況は甘くないと思うんだけど。 比護: …………。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 私に問題があるの?それとも、過去に叔父さんが何かやらかし……あれ? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ねぇ……比護くんの上司の名前って、なんだっけ? 比護: 喜多嶋……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 南井さんが言っていた、彼の昔の名前……なんだったっけ。 比護: 公由……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 下の名前。 比護: ……怜……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そっかぁ。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ねぇ……比護くん。あなたのその、上司だけど……。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: 右手の小指、ある? 比護: …………。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: そう…………そっかぁ。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: えへへ……ごめんね。私が今言ったこと、全部忘れてもらえるかな? #p秋武麗#sあきたけうらら#r: それで、係長に伝えてもらえる?秋武麗がこう言っているって。 #p秋武麗#sあきたけうらら#r: ――ちょっと座って、お話ししませんか、って。