25
夜が明けるまでに旅支度を調えて、ベイジットは扉を開いた。
支度といっても元の持ち物はほとんどないので、メアリーの厚意で分けてもらったものばかりだ。ただ、煙草だけはひとつまみたりとくれなかった──少し試してみたくはあったのだが。とはいえメアリーにもらった服は煙草の臭いが染みついていて、既にいくらか吸ったような心地にはなっている。
武器はない。この村に武器になりそうなものは本当になかった。狩りに使う弓や料理用の包丁、
背負い袋に荷物を担いで。村の出口まで歩くベイジットを、メアリーとバックルが付き添ってくれた。ふたりはベイジットを強いて止めはしなかったものの、しきりに残念がった。
「いてくれるのなら
禿げた頭を叩きながら、バックルはかぶりを振った。
「やはり、若い者は出て行ってしまうからね」
「ココはいいトコだと思うヨ」
まんざらお世辞でもなくベイジットは言う。
「でもアタシは行かないと」
「行かないとならない場所なんかない。誰でも愛に連れもどされるのさ。髪を引っ掴まれてね」
ふんと、こちらはバックルより無愛想にだが、メアリーが毒づく。
「連れもどされるには、まず出てかないとジャン?」
ベイジットの指摘に、メアリーは不機嫌顔を引っ込めはしなかったが。
「まあ、そうか。だけどね──」
「しつこく言いなさんなよ」
バックルが止める。
「若い者が落ち着かんのには理由だってあるんだろうさ。わしらに理解できないか、分かってたのに見失ったんだとしてもな」
「おじさん、いい人だネ」
したり顔の老人に笑いかける。メアリーもね、いい医者だヨと付け加えて。
広い村ではないし、人もいない。出口となる場所に物々しい門があるわけでもないが、道のつながる場所にはそれらしい空間というものがある。
そこに待っている人影にも、ベイジットは気づいていた。
行く手をふさぐように立っている。ビィブだ。手には拳銃がある。
ベイジットは、バックルに問いただしはしなかった。ただ、やっぱりか、と思っただけだった。どうなるにせよ後悔はない。
一歩一歩。ベイジットが近づいていってもビィブは動かない。目はしっかりとこちらを見ていた。
そして目の前でベイジットが立ち止まると。
ビィブは拳銃を上げた。そして、持ち手を向けて差し出してきた。
無言だ。言葉はいらない。ベイジットはうなずいて拳銃を受け取った。
ポケットに入れながら、つぶやく。
「……ココは愛が誰にでも分け隔てなく与えられるんだっけ」
「そうだ。それが愛だ」
バックルが言う。メアリーも大きく同意していた。
ベイジットはそのふたりと、貧しい村とを同時に見やった。貧しいがみな満足しているようだ。だが、人がそこにいられない理由もベイジットは知っていた。
「誰にも同じだけもらえるのが分かってるなら、もらう意味がないモノってあるんじゃないかな」
最後に深々と礼をして、ベイジットは断言した。
「ゴメンね。アタシ行かなきゃならない。
村を出て歩き出すと、ビィブはしきりにしゃべり出した──大半は益体もない、ただのおしゃべりだ。ようやく出発だの、ここがどこらへんか分かってるのかだの、あの木って枯れてるのかだのといった。
妹のことは一言も出ない。ベイジットも口にしなかった。
太陽は輝いているが日差しを肌に感じない。暗い門出だった。
目的地については、差し当たって行かねばならない場所だけは分かっていた。ベイジットは説明もせず、そちらに向かった。例の猟師が殺された場所だ。そこしか手がかりがなかった。
「……こんなとこ、なんの用だ?」
ビィブの疑問にベイジットは、荷物を下ろしながら外れた返事をした。
「アンタはここから動いちゃダメ。絶対にね。危険を感じたら逃げてもいいケド、近づいてくるのはダメ」
「なんで」
なおも問うてくるが、ベイジットが拳銃だけを手に進み始めると、なにかしらは察したらしい。ついては来なかった。
殺害の痕跡はまだ残っていたが、もうはっきりとではない。野生では肉と血はあっという間に消し去られるのだ……ベイジットはそれも、なんとなく学んでいた。野外訓練の知識としてではない。もっとこじつけの道理としてだ。街や村といった薄皮が剥がされれば、人の身に残っているのは外にあるものと変わらない。風船と同じだ。針の一突きで外と内は同じものになる。
血肉の本質は、餌だということだ。それを人間性だとか尊厳だとかでかろうじて覆っているのが人間だ。強者が弱者を
人間種族は神から切り離されたから獣に堕し、ヴァンパイアライズをするのだ……と革命闘士の一部は考えているらしい。特に元キムラック教徒のエリートたちは。だから彼らにとってヴァンパイアライズは魔術と同じくらい卑しい技だ。
猟師が死んでいた場所も通り過ぎ、ベイジットは森のほうへと近づいていた。森の中まで入ることはないと、なんとなく予感していた。武器を握り直す。構えはしない。出会い頭の殺し合いにはならないと、これも予感していた。その場合は殺し合いではなく、為す
森の奥から暗い影が
ベイジットは足を止めた。深呼吸して待つ。
現れたのはダンだった。優男のダン。
身体の半分を引きずるようにして、木々の間から出てきた。負傷しているのではない。身体の左半分が、二回りは大きく変貌しているため、動きがアンバランスなのだ。
右半身──右腕と右足、あと顔の右半分は元のままだった。左の肩から膨れ上がり、頭部がもう一個埋まっているようにも見える。左腕は身体全体よりも太く、地面に着くほどに伸びていた。左足の太さもだが、こちらはむしろ右足より短い。
皮膚の表面は岩石のようになり、口は裂けて
木陰から姿をさらして、ダンもそこで立ち止まった。四、五メートル……ベイジットは距離を目測した。彼がそこから近づいてこなかったのは、能力の範囲がそこまで広がっていたからだろう。他人を魅了する能力。それに囚われると、熱烈に彼に恋い焦がれ、彼の命令に従い、彼のためにしか行動できなくなる。
ダンのヴァンパイア化が進行したのは見れば分かる。能力も強まったのだ。そしてそれに応じて、理性は削られたはずだ。
だがひとまず今は、ベイジットを見分けるくらいの知性は残しているようだ。口からよだれをこぼして息を荒らげていても。これも、予想はしていた──
「傷、治してくれたネ」
ベイジットは左の胸を示して、告げた。遠いのでやや大声で。
「村まで来てくれた。ダジートからアタシたちを助けてくれたのも……アンタだろ」
「ダジートの……神経毒を……破るために……身体は変化した」
ダンの声は思ったよりもはっきりと聞き取れた。
口が変形しているのに、と思っていたのだが、よく見ると大きく開いた口の中にさらにもうひとつ口がある。元の顔の口が。
一言一言を話すのに神経を使うようだった。言葉とは無関係に、左腕が暴れて跳ね、地面を叩く。どうも自意識とは無関係に動いているらしい。猫の尻尾のように。
「だが……君の怪我を治したのは……俺ではない……」
「? デモ──見に来てくれたろ?」
「ああ……」
と、ダンは膝をついた。右手で顔を押さえて、うめく。
「危うく、危うく……少しでも殺意に揺れれば村ごと全員殺すところだった! 俺は……もう……」
「一緒に行こう、ダン」
ベイジットは手を差し出した。だが。
「俺はもう一緒にはいられない」
指の隙間から目をぎらつかせて、ダンは怒声を響かせた。
「どうしてここに来た! 気づいていたのなら──俺は無理だと分かったはずだ!」
「アタシたちは〝隊〟なんダロ?」
後ろを向いて、ビィブを見やる。
ビィブは仰天していたが、まだその場にいた。
「やるべきコトが終わってナイ。だから、行こう」
強く、繰り返す。
しかしダンはなおさら苦悶にのたうつだけだった。
「俺はもう無理だ!……君も! 君も、隊じゃない。君は魔術士だ。俺も見たぞ……魔術士だった!」
糾弾にぐっと唾を飲んで、ベイジットは首を振った。
「ソーダヨ。出来損ないのね」
「いいや……君は強大な魔術士だ……力の使い方を知りさえすれば……」
ダンは勝手に動く左腕を
「出来損ないではない。あの夜……俺が集中しろと命じたら……君は集中できた。魔術で怪我を治した。あれほどの怪我を跡形もなく……」
「…………」
自然と手が、傷のあった場所に触れた。
これを自分が? というのは到底信じられない話だ。これだけは予想していなかったが。ベイジットの動揺とは裏腹に、ダンは刹那の落ち着きを取りもどした。
「ベイジット。君は魔術士なんだ。決着をつけないわけにはいかない」
「ダン。アタシはさ、アンタと一緒にいたいんだヨ」
「そうか。そう思って俺に殺されるのも、君の自由だ。状況というのは願ったからといって変わってくれたりはしない。だから革命は実行する者を必要とする。信念だけの理想とは違う……」
それが最後の力だったというように、ダンが吠えた。
怪物の咆哮だ。左手の爪が地面を掴み、身体を前に進ませようとする。
ベイジットは目を伏せようとする自分と戦った。
そう。自由だ。そうしてならない理由はない。生命などただの餌だ。ここでダンに喰い殺されてならない理由はなにもない──甘美ですらある! 数秒間目を閉じるだけですべては終わる。
すべてが冗談のような話ではないか。魔術士として落ちこぼれて、そのために家を出てきた。彷徨って彷徨って、ようやくここに居場所を見つけたと思えば魔術士であることがばれて殺される。生き延びてどうなる? 生き延びたいと思うただひとつの理由を殺して生き延びる意味などなにがある?
ベイジットは正面を向いた。もはや心も怪物と化したダンは突進してくる。激しい陶酔がベイジットの胸を突き刺した。ダンの能力だ。
あんたのために……あんたのために……あんたのために!
彼のためを思ってしか身体は動かない。
だからベイジットの右手は拳銃を上げ、迫り来るダンの眉間に銃弾をすべて撃ち込んだ。
一発ごとにダンの勢いは弱まり、全弾撃ち尽くしたところで彼は止まった。銃口が触れるか触れないか、ほんの目の前で。
「ベイジット」
銃弾の衝撃によるものか、ダンの目に理性がもどっている。
ほんの一時的なものだろうが。ここまで強大化したヴァンパイアには致命傷に至らなかった。すぐ再生するか、そうでなければ変形するだろう。しかし。
ダンは微笑んだ。
「これでいい……」
そして左腕を振り上げ、自分で自分を叩き潰した。
一撃で、木っ端微塵になるほどに。
血と肉の混じった泥の
そのまま、どれだけ立っていたか。
最後にはため息ひとつで踏ん切りをつける。他にどうできる? 血は血、肉は肉、死は死でしかない。ここで殺されることだってできた。だがしなかった。
泣きもせず、叫びもせず。くるりと背を向けた。ビィブが見ている。大切な者を失った同士で見つめ合い、ゆっくり、一歩一歩を踏みしめて近づいていった。
顔から血を拭って、ベイジットはつぶやいた。
「ビィブ・ハガー、行くヨ」
「えっ」
「聞いたダロ。残ったのはアタシタチふたりだけだけど……仕事は減っちゃいないンだ」
足を速めた。呆然としているビィブとすれ違う。もう少し進み、ベイジットが置いた荷物を再び背負う間に少年は追いついてきた。
「俺たちの……仕事って?」
ベイジットは告げた。
「革命だよ」