23
要塞船まであと百メートルほどという距離に迫った頃には、革命闘士らの攻撃もなくなっていた。
船の高度は距離とほぼ等しいくらいか。レキが重心を沈めるのを感じてオーフェンは、その背にきつくしがみついた。ディープ・ドラゴンは無音で街を駆け抜けながら、さらに一回り身体を大きくした。最後に強く跳躍した時も、やはり音はなかった。
風切る音だけが耳元で騒がしく、上空のガンズ・オブ・リベラルへ真っ直ぐ近づいていく無重力感に尻と背がざわつく。要塞船の砲は接近してくるディープ・ドラゴンに恐れをなしたか、黒い獣を狙おうと何度か照準を変えた──これは明らかに愚かな判断で、数発の砲弾及び巻き添えになった家屋とその住人を散らせただけだった。
レキは猫のようにほとんど無駄なく跳躍して、船の甲板に着地した。下からは死角で、なにかしら罠があると思っていたが。
甲板は濡れていた。油だ。
そして甲板の奥に高台が用意され、その上には狙撃銃を構えた兵の一団が並んでいる。
物々しいわりには安直な罠だ。魔術戦士を直接空間転移させていたら確かに犠牲が出ただろうが。
これだけ巨体化してもなお無音で走るほど身軽なディープ・ドラゴンは、油のまかれた甲板に脚をつけてもバランスを崩さなかった。長銃を抱えた兵士らが引き金を引くよりも早く、激しく吠え立てる余裕すらあった。
集束された音波が逆に兵士の均衡を崩す。狙いを外すか銃を取り落とす彼らに、オーフェンは手を差し向けて熱衝撃波を叩き込んだ。高台ごと爆散する。
ついに乗り込んだ甲板上で、オーフェンは怒りの声をあげた。
「お前たちに破滅を言い渡す! 虎の尾を踏んだと思い知れ!」
破壊される都市の上空にて。
巨大な要塞船に、ディープ・ドラゴンで単身乗り込み、多少はポーズまで取って一喝したのだが。
風がごうごうと鳴り響くだけで反応はなかった。というより、今の狙撃部隊の他には甲板に登ってくる者すらいないようだった。船の砲撃は終わっていないのでまだ無人ではないのだろうが……
しばらく待ってから腕を下ろして、オーフェンは決まり悪くうめいた。
「叫んだところで出迎えなし、か……恥ずかしいな」
見るとレキも、首を回して横目でこちらを見ている。その眼差しに答えて告げた。
「なんだよ。虎って言ったろ。尻尾仲間に同調すんな」
甲板から船内部に入れそうな場所を探す。
真正面、先ほど破壊した高台の向こうに入り口があるようだった。そちらに向かってレキが歩き出す。と。
レキの前脚を光の刃が貫いた。勘の鋭いレキでもかわせなかった。光は船の内側からレキを刺し貫いたのだ。
がくんと体勢を崩してレキが倒れる。光はディープ・ドラゴンの体毛と皮膚を
「動くな!」
オーフェンはレキに命じると、背中から飛び降りた。油に靴を滑らせそうになりながら、なんとか傷の近くまで移動する。
(これは……通常術じゃ解けないな)
魔術文字の強さは本物だった。この船を飛ばしているのと同根の力だ。遺物に痕跡を残している程度の代物とはわけが違う。
ドラゴン種族のパワーだ。見回すと甲板に光の文字が灯る。攻撃のものではないが、複数。取り囲むように現れた文字の数を数えた。三個だ。
魔術文字は
ウィールド・ドラゴン=ノルニル。彼女のひとりが腕を上げ、虚空に踊らせた。指先で文字を描き、その軌跡が光を帯びる。
文字が放たれた。こちらに向かって飛んでくる。破壊の文字だ。細かく解析している
「我は放つ光の白刃!」
オーフェンは術を放って対抗した。白い光が文字の中央を撃ち、減衰させるが……打ち消し切れない。
さらに力を注ぎ込んで構成を変化させた。白光が威力を増し──
集束し、文字の一片を砕くと魔術文字自体が崩壊した。大爆発が船を揺るがす。
「蘇ったんだか生まれ変わったんだか知らないが、考えもしなかったか?……俺たちが互角にやり合えるまで育つって」
今度の見栄については、無視はされなかった。
三人が同時に文字を描く。今度は様子見の術とはいくまい。三対一では撃ち合いにもならない。
オーフェンは床を蹴った。一番近い天人種族に向かって、甲板を滑って突進していく。とはいえ相手の術の完成までには間に合わない。このまま進めば正面衝突でひとたまりもない。詰みだ。
……と敵が判断するだけの、ぎりぎりの時間を待ってから。
「我が契約により聖戦よ終われ!」
意味消滅も直接狙えば完成間近の魔術文字に阻まれたかもしれない。だが仕掛けたのは真正面の天人種族の足下だ。
完成寸前の魔術文字が意味を失い、消える。
(こんなしょうもないことで邪魔されると思ってなかったろ)
胸中で言ってやりながら、オーフェンは跳躍した。低くなった天人種族の顔面に膝蹴りを撃ち込む。仰向けに倒れる彼女を見下ろして、その目が合った。
だん! と容赦もなく、喉を踏みつぶす。
床を滑っていた動きをそれで止めた。振り返る。ふたりの天人は無傷で魔術文字を完成させようとしている。両者ともこちらにだけ注意を向けていた。前脚を呪縛されたディープ・ドラゴンは無力化できたものと見なしている。
レキは巨大化とは逆に、身体すべてをこの世から消した。そしてひとりの天人種族の背後に再出現した。
質量を変化させるこの性質はドラゴン種族だった頃にはほとんど見せなかったもので──というより見せる必要がなかったのだろうが──、天人種族は知らなかったか忘れていたのか。現れたレキの大きさはいつもの大型犬ほどのものにもどっていたが、やはり物音もさせず体当たりで天人を吹き飛ばした。
数メートルの弧を描いてウィールド・ドラゴンは甲板から弾き出された。動いたために魔術文字は掻き消え、そのまま街へと落下していく……
そちらを見やって、オーフェンはつぶやいた。
「音声魔術と違って、文字はでたらめでもいいってわけにもいかないな。道具に効果を残すのにはいいが、動いたら使えない。これだけの船を飛ばすほどの術だっていうのに、実戦向きじゃないのは皮肉だ」
足下でびくびく痙攣していたウィールド・ドラゴンの動きが止まるのを感じながら。
残ったひとりに向き直る。彼女の魔術文字は完成していた。が、オーフェンとレキに違う方向から睨まれて動きが取れずにいる。輝く文字を手元に残したまま、首を左右に迷っていた。
その様子で理解する。
「本来の天人種族ではないな。魔術以外の知能は幼児並みか……戦闘経験もない」
「だからといって簡単に倒せる相手でもないはずなんだが」
という茶々入れは。
背後から聞こえてきた。船内部への昇降口だ。
腕を下ろし、首を巡らせた。半身で向き合う。戸口にもたれかかってこちらを見物しているのはひとりの男だった。
ここ十数年を人間として過ごした──それも身近にだ。校長秘書として。かなり親しいのは間違いない。友人といってもいい。が、オーフェンはその間一度として気を許すことはなかった。
魔王と呼ばれた己ではあるが、真の魔王と一緒に過ごしていたのだ。魔王スウェーデンボリー。真性の魔法使いにして、かつては属していた世界を見限り、
ドラゴン種族によって常世界法則を破られるまではその地位にいた。今はただの男だ。それも厄介な男だ。
ぱちぱちと気のない拍手をして、魔王は話を続けた。レキを見ながら、
「いや、そうでもないのかな……術も失った動物にも劣るとは思わなかった。次元渡り獣ピルグレオ。勝手にこの世に住み着いたくせにな」
「お前そんなんだったのか」
くうん? という顔でレキが鼻を上げる。
均衡を感じた。複数の線が絡む乱暴な均衡だ。船はいまだ市の上に浮かび、甲板の下では砲撃を続けている……風と火薬と轟音が場を揺らす。ウィールド・ドラゴンは行き場もない魔術文字を構え、ディープ・ドラゴンと対峙している。オーフェンもその包囲に加わっていたが背後を魔王に取られ、画期的な対抗策も頭にない。
部下の魔術戦士たちは砲撃の向こう側だ。今も学校への攻撃と戦っているだろう。革命闘士の攻撃の規模がどれほどのものか不明だが、砲撃をやめさせなければいずれ犠牲が出る。都市へのダメージも無視できない。
(さて……)
どうしたものか。オーフェンは半眼で魔王に質問した。
「挑発に応じて来てやったんだ。よしみもある。大声で笑いながら陰謀を暴露する頃合いじゃないか?」
「陰謀なんてない。あったとしてもわたしの計画ではないしな。どちらにせよ、こいつらの目論見は既に破られて、別の計画に移ったようだ……」
こいつら、と言いながら足で叩いてみせたのは甲板だった。船にいる連中、リベレーターを指したのだろうが。
魔王は嘲るように鼻を鳴らした。
「君の手柄ではないよ。カーロッタはこいつらをふることで利用し、破滅もさせた。代わりになるボンダインを殺したのはキエサルヒマの魔術士だし」
と、斜め上を見やって、
「いや手を下したのはまた別か。とにかく、君はなにもしてない」
「これからする。お前を叩き潰す」
両手を握りしめ、指を鳴らして気組みを練る。
また笑って、魔王は背中を壁から離した。
「不公平じゃないか? わたしの力を根こそぎ奪っておいて」
「返そうとしたが、突っ返してきただろ」
「ご存じの通り、力を失ったわたしは自分では魔術を発動できないのでね」
ゆっくりと手を差し伸べ、魔王は進み出てくる。その手の先は、ウィールド・ドラゴンの魔術文字へと向かっていた。
「だが制御の手並みはまだ君よりはマシだ」
魔術文字は瞬時に魔王の手元に移った。
瞬きにも満たない間で文字は巨大化し、さらに無数に分裂する。魔王がなにか唱えるのが聞こえた。聞き取れない──というより意味が理解できないが。歌うように紡がれた言葉に魔術文字は増え続け、空を覆うばかりに
「くそ!」
オーフェンは後退しながら、ウィールド・ドラゴンに光熱波を撃ち込んだ。無防備になった天人は炎に粉砕された。可能性は低くともあり得るかと期待したのだが、あてが外れて、魔王が奪った魔術文字は消えない。
限られた時間を無駄に使ってしまったが、魔王の周囲に軍勢のように数を増す魔術文字の勢いに、今さら単純な魔術の反撃も意味はなかったろう。魔王はたった一文字だったものを大部の書物でも埋め尽くしそうに増していく。
その作業中でなければ、今の光熱波も乗っ取られていただろう。魔術は敵に力を与えかねない。魔王に対して使える術は、構成を暗号化した特殊術か……魔王には使えない魔王術だけだ。
距離を取りつつ魔王術の偽典構成を仕組む。
「遠く遠く歌の聞こえる……明日の夜の深さ予知し沈む前に翼開け」
通常術の構成は世界を塗り替える──魔王術の構成は世界をすり替える。直感的な違いは生理的な不快となって神経に障る。
この悪寒に慣れることこそ恐ろしいが。
「仮に
魔術文字が完成するのが見えた。
両腕を広げた魔王が、玉座もないのに世を睥睨し、強大な力で処決裁断しようとしている。なんの刑かは知らないが。魔術文字は燃えさかり、発動前から既に激しい光熱を発していた。
足下の油が蒸発し、火が点く。皮膚が焦げるのを感じた。大気がうねる。街を焼き払うのにも十分な威力だろう。
「望みよ叩け! 晶柱の
オーフェンが魔王術を完成させると、そのすべての魔術文字が消えた。
だけではない。魔王の右腕がよじれ、ねじるように表皮を剥ぎ取られる。が、それだけだ。咄嗟に仕組んだ魔王術では致命傷には程遠い。
手のひらを見下ろした。空から消えた魔術文字はすべて粒のようになって手の中にある。オーフェンはその手を握りしめた。
油が燃えさかる甲板を、今度は魔王に向かって駆けもどる。
魔王は笑って出迎えた。
「敵と戦うなど久しぶりだなあ。この姿でいると、たまにこうした期待が持てる……実に……」
と、眼前に迫ってもなお笑いこけていた。
「忌まわしいよ!」
オーフェンは魔王の胸の真ん中に拳を叩き込んだ。
骨も貫く深い一撃だ。魔王の笑いもさすがに止まり、よろめいて後退する。
さらに。
「我は砕く原始の静寂!」
空間爆砕で敵を打ち飛ばす。
上空に吹き飛んでもなお、魔王は無傷だ。オーフェンは身を伏せて防御の術を編んだ。その上で奪い取った魔術文字に発動を命じる。
拳から魔王の胸に移った魔術文字が爆発した。
防御で阻まれてもなお、太陽のような熱だ。四方八方に光線が爆散し、要塞船の甲板を貫く。真下への被害は船が受け止めたがいくらかは周囲に拡散し、街をも
目と喉の乾燥に
激しい火焔球がようやく消え、解放された魔王の身体がひび割れた甲板の上に落下してくる。今度はさすがに無傷とはいかず、身体の大部分は焼けただれてぼろぼろだ。しかしその状態でも魔王は膝もつかずにこちらを見て、薄笑いを浮かべている。
なにも強靱なわけではない。魔王の身体は人間と変わらない。
オーフェンも防御を解いて向き直った。魔王が人間の姿をしているのは、それが彼の元々の身体だったからだ。ウォーカーとなる前の。魔王にしてみれば、どうして巨人種族が自分と同じ身体であるかのほうが不可解だ、ということになるだろう。
この世界は魔王が創った。その時の魔王は人間大の脳で思考するような小さな存在ではなかったし、だから創造のような膨大な仕事を成し遂げた。すべての神人種族に通じる苦悶だ。現出という最悪の苦痛に苛まれながら、神であった広汎な精神というのももはや想像できない。
……つまり人間と同じ苦悶だ。人間になってしまった苦悶というべきか。
「我は放つ光の白刃」
放った光熱波は複雑に変化させた構成を編んでいたが、魔王の手前で横に弾かれた。
「我は触れる
砕けた甲板の砕片がいくつか持ち上がり、魔王に向かって飛んでいくがこれも軌道を外れてあさっての彼方に消えていく。
念を入れて構成を誤魔化しても、相手が本気を出せば通じない。嘆息してオーフェンは進み出した。
要塞船の強度は外殻に依っていた部分が大きかったのか、あちこちに亀裂が走ったことでかなり無様に変形しつつあった。自重を支えられないのだろう。魔術文字はまだ力を失っていないがばらばらになればそれも分からない。
がたんと
「お前を封じるほどの魔王術は到底まだ仕組めない」
ゆっくり歩を進めながらオーフェンは告げた。
「叩き潰して連れ帰るしかないな。また小うるさいのを飼うのは鬱陶しいが……」
「わたしが君につきまとう理由には気づいているだろう?」
「さあな。他にかまってくれる奴がいないからか」
すぐ前に立って、睨み合う。
魔王は静かにつぶやいた。
「君が魔王だからだよ」
黒こげになって全身の骨も砕けた様子だが。魔王は満足げだった。
「わたしと同じ目をしているんだ。魔王の目、超克の目だ。君はこの世界を見限る兆しがある……ウォーカーのね。君はわたしの地位を手に入れ、成り代わる素質がある」
腕を上げ、指を上げて、続けてきた。
「君は魔王術の制限がないのではない。分かるか? 失うことに意味を感じていないんだ。君は失うことがなにより得意なんだ。生まれ育った環境を捨て、家族を捨て、キエサルヒマの秩序を捨て、必要とあらば娘だって戦士として差し出す。最後には、制限がないからこその喪失が待つ。君は全能の魔王に近づいていく」
「俺が成り代われば、お前は解放されるわけか?」
心は動じず、頭だけが反応してつぶやき返す。
魔王は指を自分に向けた。
「わたしはわたしを生んだ世界から脱し、ここを創った。そして分かった。愚かな落とし穴だったよ。自ら創ったものからは逃れられないんだ。わたしはこの世界ある限りアイルマンカーだ。絶対者だったわたしが、等価になってしまった。神人種族の現出など、これに比べれば……小さな呪いさ。どうだ?」
「どうも、身に覚えのあるような話ではあるな」
「そうだろう? はははははは!」
笑い出す魔王にオーフェンも苦笑した。額を掻き、うめく。
「まったく。だが、感謝はしないとな」
拳を構え、これから不死の敵を解体する気構えに、息を止める。
再び吐き出す時には、声も固まっていた。
「悪い手本があるってのは幸運だ」